KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

黒木登志夫『新型コロナの科学』を読む(第1回)/日本では感染症の分野が「選択もされず集中もされず」、その結果新型コロナ対応に立ち遅れた

 連休中に本を7冊ほど読んだが、その中から黒木登志夫著『新型コロナの科学 - パンデミック、そして共生の未来へ』(中公新書2020)を何度かに分けて取り上げる。

 上記中公のサイトから、本書の概要を引用する。

 

新型コロナの科学

パンデミック、そして共生の未来へ

黒木登志夫 著

 

未曾有のパンデミックはなぜ起きたか――。世界を一変させた新型コロナウイルス。本書は、治療薬やワクチン開発を含む研究の最前線を紹介。膨大な資料からその正体を探る。ロックダウン前夜のベネチア雲南省の洞窟、武漢ウイルス研究所、ダイヤモンド・プリンセス号と舞台を移してウイルスの変遷を辿り、見えない敵に立ち向かう人々のドラマを生き生きと描く。日本政府の対応にも鋭く迫り、今後の課題を浮き彫りにする。

 

 著者の本を読むのはこれが2冊目だ。2016年に同じ中公新書の『研究不正 - 科学者の捏造、改竄、盗用』を読んだ。これは、例の「STAP細胞事件」から2年後に出版された本だが、当時は本ブログの開設前だった*1。同事件における捏造の犯人だった小保方晴子には今も熱烈な「信者」がいるが*2、著者は小保方を含む日本人の研究不正実行犯に対しては実名を使わずにイニシャルで表記している(たとえば小保方晴子は「HO」)。

 その『研究不正』の著者と同じ人が書いていると気づいたのは、本書を8割方読んだ時だった。本書の中に研究不正への言及があり、引用資料に著書自身の『研究不正』が挙げられていたことによって初めて気づいた。

 著者は感染症の専門家ではなくがんの専門家で、東北大学東京大学ウィスコンシン大学、WHO国際がん研究機関、昭和大学でがんの基礎研究を行った。2001年から2008年まで岐阜大学学長、2000年から2020年まで日本癌学会会長を務めた。山中伸弥氏のサイトに著者のページ(下記URL)がある。山中氏が尊敬する癌学者であり、サイエンスライターでもあるとのことだ。

 

 本書は昨年末の刊行だから、本文には日本の第2波までしか書かれておらず、「再校時の追記」に第3波への言及があるものの、第3波による陽性者の爆発的増加は本書刊行のあとのことだから、当然ながらそれ以降については書かれていない。

 しかし、昨年秋までの総まとめとして実に良い本だ。昨年の経緯については、直近のことだからよく覚えているつもりだったが、読んでいて「そういえばそんなことがあったな」と記憶を喚起される箇所も少なくなかった。

 結局、日本は今回のコロナ禍において、欧米よりもずっと少ない感染者数で現在に至っているにもかかわらず、「コロナ敗戦」としか言いようがない惨状を呈している。他のアジア諸国と比較して、島国という有利差があるにもかかわらずウイルスの抑え込みに失敗し、前首相・安倍晋三が根拠もなく信じていた「優秀なわが国の科学者がワクチンを開発する」という願望も現実とはならなかった。その原因として著者が挙げているのが、第7章第7節のタイトルにもなっている「選択もされず集中もされず」という新自由主義政策だ(但し、著者自身は「新自由主義」という言葉を一切使っていない)。以下、本書から引用する。

 

 公衆衛生に関する行政組織もまた、政府の「選択と集中」政策の中で、選択もされず集中もされず、予算と人員は切られ、縮小の一途をたどっている。感染症対策の中核を担う国立感染研、地方衛生研究所、保健所は、すべて縮小されている。(略)予算は10年間で約17%減少し、研究者も18人減の307人となった(2019年度)。(略)保健所もまた大幅に(45%)減少した。(略)

 地方衛生研究所は、2003年から2008年までの5年間だけで、職員は13%減、予算は30%減、研究費は47%も減少している。サポーターもなく、合理化の「草刈り場」になっている地方衛生研究所は、この10年間にさらに状況が悪化しているであろうことが想像に難くない。そのような中、地方衛生研究所が新型コロナウイルスのゲノムを解析し、感染予防の基礎データを提供していることに感謝したい。

 さらに、2019年から厚労省は、公立・公的病院を統合し、2020年秋までに病院を減らす政策を準備していた。しかし、コロナによる医療崩壊の危機に際し、さすがの厚労省も、「コロナウイルス感染症拡大防止の観点」から、再編統合の期限延期通知を出した(3月4日)

 このような一連の動きの背景にある「選択と集中」「グローバル化」については、第13章で改めて触れる。

 

(黒木登志夫『新型コロナの科学 - パンデミック、そして共生の未来へ』(中公新書2020)173-174頁)

 

 上記引用文の最後に言及された本書第13章から、該当箇所を以下引用する。

 

 成長神話の信者たちは、無駄なものは切り捨てろという。成長しつつある、あるいは成長が期待できるものを選択し集中しろという。しかし、選択もされず、集中もされず、消えそうになっているものがたくさんあるのだ。コロナ禍の中で、人々が頼りにしている数々の組織もその一つだ。感染症関係の予算は削られ、自治体で保健を担う衛生研究所や保健所は縮小された。医療は効率化を強制され、空いている病床は廃止された。しかし、突然現れた新型コロナウイルスによって、われわれは、何が本当に大事か気がついた。選択と集中は、企業の戦略としては重要かもしれないが、国民を守る上では、選択も集中もできない大切なものがあるのだ。

 

(黒木登志夫『新型コロナの科学 - パンデミック、そして共生の未来へ』(中公新書2020)291-292頁)

 

 「選択と集中」は、新自由主義経済政策の核心の一つだろう。菅義偉の経済政策のブレーンには代表的な新自由主義者である竹中平蔵がいる。また、日本の政治勢力の中でもっとも過激な新自由主義政策をとっているのが大阪維新の会及びその国政政党版たる日本維新の会であることは常識だろう。

 日本が東アジア諸国の中で新型コロナウイルス対応において最低にランクされ、その日本国内でもっとも新型コロナ対応が拙劣だったのが、大阪維新の会が牛耳る大阪府だったことは偶然ではない。

 新自由主義にかまけた日本、中でも大阪府は、手痛い「敗戦」を喫したのである。(この項続く)

*1:メインブログの『kojitakenの日記』でも取り上げていない。

*2:彼女の人気には、芸能界から転身した某男性政治家の「信者」を連想させる根強さがある。

東野利夫『汚名 -「九大生体解剖事件」の真相』(文春文庫)を読む(改題・再掲)

 東野利夫(とうの・としお)さんの訃報に接した。訃報は神子島慶洋氏の下記ツイート経由で知った。

https://twitter.com/kgssazen/status/1382468885048291328(注:リンク切れ)

 

 東野氏の著作『汚名 -「九大生体解剖事件」の真相』(絶版)を2012年に読んだことがある。当時、まだこのブログは開設していなかったので、メインブログにしている『kojitakenの日記』に長文の記事を載せた*1。だが、記事中のリンク切れが多数あるし、何よりもう9年前の記事なのでアクセスがしづらくなっている。そこで著者への追悼の意を込めて、以下に再掲することにした。再掲に当たって、リンク切れ及びそれに伴う部分を含み、若干の文章を書き換えた。

 なお、下記の書評では著者の東野利夫さんに対してかなり批判的なことも書いているが、追悼文において故人の批判をタブーとするようなことがあってはならないというのが私の信念だ。ご了承のほどをお願いしたい。


 

 2012815日付の毎日新聞のサイトに下記記事が掲載された*2

九大生体解剖事件:「戦争は人を狂わす」最後の目撃者語る


 1945年5月、大分、熊本両県境に墜落したB29搭乗の米兵8人が次々と旧九州帝国大(現九州大)医学部に運ばれ、やがて死亡した。連合国軍総司令部(GHQ)が「類例ない野蛮さ」と表現した「九大生体解剖事件」。医学生として立ち会った福岡市の医師、東野利夫さん(86)は何を目撃し、何を思ったのか。「戦争は人を狂わせる。悲惨と愚劣しか残らない」。67年後の今、東野さんは改めて平和の尊さを訴える。

 東野さんは1945年、同大医学部に入学。約1カ月後、配属された解剖学教室で、事件は起きた。「手術する場所を貸してほしい」。外科医から解剖学教室の教授に連絡があった。数日後、米兵の捕虜2人が運ばれてきた。麻酔がかけられ、肺の手術が始まった。透明の液体が体内に入れられたが、その液体が代用血液として試された海水だったことは後に知った。

 実験手術だった。軍の立ち会いの下、4回にわたって8人に上り、うち2回を目撃。無傷の捕虜にも施され、終わると血液は抜かれ、息絶えた。「ただ不思議で怖くて、緊張して体が固まった」。

 東野さんはGHQの調べを受け、裁判の証言台にも立った。主導していたとされる軍医は空襲で死亡、執刀した外科医も拘置所で自殺した。

 「軍人と医者が残虐非道なことをしたが、これは事件の本質ではない」。東野さんは独自に調査中、気が付いた。「当時の心理状態は平和な時代には考えられないほど、おかしな状態だった」。戦争末期の空気と混乱は医者をも狂わせた。

 事件の目撃者が東野さんだけとなり、講演にも力を入れたが、体力の衰えで数年前から休止した。時代は移りゆくが、平和への思い、願いに変わりはない。「非戦を誓った憲法9条は必ず守ること。そして捕虜に対し学内の医師がメスを持ったという事実を正面から受け止め、母校の敷地に8人の慰霊碑を造ってほしい」【金秀蓮】

 

【ことば】九大生体解剖事件

 1945年5~6月、墜落したB29に乗っていた米軍捕虜計8人が、旧九州帝国大医学部で実験手術を受け死亡した。西部軍司令部は8人について、広島へ移送後に被爆し死亡したとしたが、GHQの調査などで発覚。計28人が起訴され、5人の絞首刑を含む計23人が有罪判決を受けた。

 

毎日新聞 20120815日 2102分(最終更新 0815日 2256分)

 

 この記事について、2ちゃんねるでは「金秀蓮」という記者の名前に条件反射したヒステリックな反応が起き、生体解剖事件は捏造だったと証明されたんだろ、などと息巻く向きもあった。しかし、捏造であることが明らかになったのは、この事件に絡んでセンセーショナルに取り沙汰され、遠藤周作の小説『海と毒薬』の終わり近くにも取り入れられた「人肉試食」(生体解剖された米軍飛行士の肝臓を摘出してそれを西部軍関係者が試食した疑惑)だけだ。生体解剖事件はれっきとした歴史的事実である。

 この記事はさほど長くないためか、論点が明確ではないのだが、記事に取り上げられている東野利夫さんは1979年に『汚名 「九大生体解剖事件」の真相』(文藝春秋)を出版している。この本は1985年に文春文庫入りしたが、現在は絶版になっている。

 200510月に九州朝日放送(福岡)が放送した『テレメンタリー2005・許されざるメス~九州大学生体解剖事件』で東野さんの証言が取り上げられ、それが同年度のテレビ朝日系列「テレメンタリー」の優秀作品賞をとって、翌200686日放送のテレビ朝日ザ・スクープ』で上記番組のダイジェストとともに東野さんと『ザ・スクープ』のキャスター・鳥越俊太郎の対談が放送された。

 このテレビ番組の影響もあってか、この件は当時、一部でそれなりに注目された。翌年になって、上記東野さんの著書がネットオークションにかけられているのを見た私はこの本を入手した。しかし、なぜか本を読まずに今まできてしまった。私がネットオークションで本を入手したのは、記憶が正しければ2007年夏で、安倍晋三参院選に惨敗して、そのひと月あまり後に突然の辞任をする前の頃だったので、ネットで安倍晋三disることに熱中するあまり、本を読む機を逸してしまった。その後、本は押し入れに眠っていた。

 最初に引用した毎日新聞の記事は、その眠りを覚まし、長年放置していた宿題をやれと私に命じているように思われた。そんなきっかけで、本を読み始めた。東野さんが単行本を出版してから33年が経っていた。

 東野利夫さんは、九州帝国大学医学部解剖学教室の平光吾一教授(1887-1967)の下で学ぶ新入医学生だった(19454月入学)。平光教授は、生体解剖事件で手を下した人ではないが、手術を実行した同大第一外科の石山福二郎教授に解剖実習室を貸し、4日に分けて計8人に対して行われた生体解剖(実験手術)の第3回目に立ち会ったことなどから罪に問われて逮捕され、重労働25年の刑を受けている(1955年出所、東京で開業したのち、1967512日死去)。東野さんが本を著した動機は、師である平光教授の無念を晴らしたい、というものだった。

 東野さんは最初と2回目の実験手術の場に居合わせたが、初回の手術を目撃していたら、背後に平光教授がいた。教授は東野さんと目が合うと室外に出て行き、東野さんはその後を追ったが、研究室の前まで来た時、教授は東野さんを振り返り、「君、君はよくあんな手術を平気で見れるね」と言った*3

 東野さんは最初と2回目の実験手術の場に居合わせたが、初回の手術を目撃していたら、背後に平光教授がいた。教授は東野さんと目が合うと室外に出て行き、東野さんはその後を追ったが、研究室の前まで来た時、教授は東野さんを振り返り、「君、君はよくあんな手術を平気で見れるね」と言った*1

 3度目の実験手術の場に、東野さんは居合わせていない。3度目は、また捕虜が来ているという知らせを受けた平光教授が解剖実習室に行くと、開頭手術に手こずっていた実行犯の第一外科教授・石山福二郎から質問を受けた。脳神経の部位がどこにあるかも理解していないままに手術を行っていた石山は平光教授の説明を理解できなかったため、平光教授は自らの研究室から脳の標本を取りに行き、解剖実習室に戻ってきたら、脳の術野からかなりひどく出血していた。平光教授は標本で切開の場所が間違っていることを説明し、「ちょっと無理だよ、その手術は」と言ったが、出術は続行された。平光教授は部屋を出て行き、その後ほどなく、捕虜は死亡した*4

 この件以外にも訴因はあるが、解剖実習室を石山教授に貸し、手術への助言を行ったことが平光教授が重い罪に問われる原因になった。

 ここで事件の背景に触れておく。ネットで見つけた「北沢杏子の月替わりメッセージ」中の下記の文章がよくまとまっているのでこれを借用して引用する。

 事件は、5月5日にマリアナ基地から出撃したB29爆撃機の1機が、九州・久留米市郊外の太刀洗飛行場を爆撃して帰投中に日本軍戦闘機によって被爆。搭乗員11名がパラシュートで投下したことから始まる。村人たちは猟銃、竹槍はもとより、草刈鎌や鍬まで持ち出し、復讐しようと殺気立った。こうしてアメリカ搭乗員1名は自決、1名は警防団の銃撃で死亡、1名は樹に引っ掛かって大怪我を負ったものの、9名が福岡市西部軍司令部に護送された。

 東野利夫著『汚名──九大 生体解剖事件の真相(文春文庫)』によると、9名の捕虜の処遇について、俘虜管理責任者である防空担当加藤直吉参謀のもとに、東京の本部から暗号電報が入った。「1.東京の俘虜収容所はすでに一杯である/1.従って敵機搭乗員全員を送る必要はない/1.情報価値のある機長だけ東京に送れ/1.あとは、各軍司令部で適当に処置せよ」との内容であった。数日後、大森卓軍医(九大医学部外科出身)は加藤参謀から、こう相談を持ちかけられた。「いずれにせよ、捕虜の奴らが銃殺になるのは時間の問題。医学のほうで何か役に立てる方法はないかね」と。こうしてワトキンズ機長だけが東京に送られ、あとの8名は九州大学平光(ひらこう)吾一教授の解剖実習室で5月17日から6月3日の間に、2名、2名、1名、3名の順に生体解剖され、肺、心臓、肝臓などを切除、他の諸器官も標本として切り取られ、死亡した。

 

(「北沢杏子の月替わりメッセージ 2006. 1月」より)

 

出典:http://www.ahni.co.jp/kitazawa/sei/kantougen0601.htm

 

 東野さんの本を読んでいてやり切れなくなるのは、戦後、事件の発覚を恐れた西部軍参謀の佐藤吉直やその上司である軍司令官の中将・横山勇らによる隠蔽工作や取り調べの過程における責任逃れである。彼らは当初、捕虜たちを西部軍の本拠である広島に送り、広島で原爆投下にあって全員死亡したというでっち上げを行った。しかし、全員の遺骨があったりしたことがかえって怪しまれ(広島の犠牲者の多くは身元不明だった)、内部告発もあって事件は発覚した。そして取り調べの過程において佐藤と横山は互いに責任をなすり合っていたのだった。事件の責任も大半は空襲で死んだ小森軍医と自殺した石山教授になすりつけられたが、この事件においてもっとも責任が重いのは西部軍、ひいては「1.東京の俘虜収容所はすでに一杯である/1.従って敵機搭乗員全員を送る必要はない/1.情報価値のある機長だけ東京に送れ/1.あとは、各軍司令部で適当に処置せよ」などという暗号電報を送りつけてきた大本営であることは当然だろう。

 なお、戦後事件が発覚した当時、新聞でセンセーショナルに報じられたという「人肉(米軍捕虜の肝臓)試食」は米軍によるでっち上げだった。1948827日に言い渡された判決で、人肉試食の罪で起訴された5人の被告は全員無罪判決を受けている。

 遠藤周作の代表作といわれる小説『海と毒薬』(1957年)には、その末尾に「人肉試食」の場面が出てくるが、それは史実とは異なるわけである。

 東野利夫さんは講演でよく「遠藤周作氏の『海と毒薬』はこの事件とは関係ありません」と言ったのだそうだ。確かに人肉試食の事実はなかった。そして遠藤周作自身が1962年に下記のように書いている

 青春のころ、九州のその街にいき、西日本新聞の草葉氏に協力していただいてこの事件の細かい内容をメモに取りつづけた。大学病院のなかもうろつきまわった。生体解剖が行われたという建物はまだ残っていたが、その屋上にのぼると黒い街と黒い海とがみえた。しかしこうして集めた事件の内容メモをぼくはその後小説にとってそんなものは必要じゃない。捨ててしまった。生体解剖が行われたという現実の行為以外は登場人物もそこに至る過程もぼくは勝手に考え、自分で勝手に創っていかねばならぬ。……もちろんこんな医師(勝呂と戸田)は現実のあの事件のなかにはいない。

 しかしあの小説を書いてから、ぼくは実際に事件に参加した人たちから手紙をもらった。そのなかのある人たちは、ぼくがあの小説によって彼等を裁断し非難したのだと考えたようである。だが、とんでもない。小説家には人間を裁く権利などないのである。ぼくはその人たちに返事を書いたが、この誤解はぼくにとって大変つらい経験だった。

 

遠藤周作『海と毒薬』(新潮文庫2003年改版)206頁、佐伯彰一氏の解説文より)

 

 東野利夫さんの『汚名 「九大生体解剖事件」の真相』を読んだあと、遠藤周作の『海と毒薬』を再読して、遠藤氏の言葉が真実であることを実感した。『海と毒薬』には九州帝大医学部解剖学教室の平光吾一教授に相当する役柄の登場人物は出てこないことはもちろん、手術を実行した石山福二郎に相当する登場人物に関しても設定が大きく変えられている。小説では、軍部と癒着していたライバルの外科教授に対抗しようと焦った橋本教授が、前医学部長の親類に当たる田部夫人の手術で点数稼ぎをしようとしたものの手術に失敗して患者を死なせてしまい、追い詰められた揚げ句に生体解剖に手を出したというストーリーで、生体解剖を行った教授も橋本教授だけではなく、ライバルの権藤教授も別の日に手術を行うことになっていた。しかし、史実では石山福二郎自身が軍部と強く癒着して権勢を誇った医者であり、もちろん生体解剖の直前に前医学部長の近親者を手術のミスで死なせてしまった事実もない。4度の実験手術(生体解剖)は全て石山教授が執刀し、小森卓軍医が立ち会った。小説で強い印象を残す看護婦に相当する人物も存在しないし、捕虜を殺しても良心の呵責を感じない戸田医師にいたっては神戸の六甲小学校とN中学を卒業したという設定だが、これは遠藤周作自身の経歴と一致する。

 遠藤周作の『海と毒薬』は、2012年13月にテレビドラマ化されて話題になった山崎豊子の『運命の人』などとは全く異なる。『運命の人』は最後の第4巻を除いて現実に起きた「西山事件」(外務省機密漏洩事件、1972年)を、細部の一部を変えながらなぞっていて、だからこそナベツネ渡邉恒雄)に批判を受けることになったが、遠藤周作の『海と毒薬』は創作の度合いがきわめて高い、第一級の文学作品である。「人肉試食」の部分はむしろこの小説にとってはなくもがなの部分であって、あの部分がなくとも完成度の高い名作になったといえるのではないか。当該部分があるために、「この人肉試食の件は史実とは異なる」という注釈をつけざるを得ないのが惜しまれる。

 ただ、東野さんが『海と毒薬』に強くこだわるのには理由がある。『海と毒薬』が『文学界』19576月号、8月号、10月号の3回に分けて発表された直後、『文藝春秋195712月号に、ほかならぬ東野さんの恩師・平光吾一元九州帝大教授が「戦争医学の汚辱にふれて -生体解剖事件始末記-」と題した寄稿文を発表したのである。この小論は文春文庫で読めるらしいが未読だ。だが、ネット検索でこの小論に書かれている平光氏の主張に対する批判を見つけた。それは、『社会医学研究』20092月号に掲載された滋賀医科大学の西山勝夫教授の総説「『15年戦争』への日本の医学医療の荷担の解明について」である*5。以下引用する。 

 戦後7年経った平光吾一(元九州帝国大学医学部解剖学教授、重労働25年の量刑)の「医学の進歩はこのような戦争中の機会を利用してなされることが多い。その許されざる手術を敢えて犯した勇気ある石山教授が、自殺前せめて一片の研究記録なりとも残しておいてくれたら、医学の進歩にどれ程役立ったことだろうか」という見解には、ニュルンベルク医師裁判にみられるような人間・生命の尊厳、人権や医の倫理についての認識や検証の跡は見られない。

 

 私は残念ながら東野さんの意には沿えず、上記引用文中の平光元教授の主張に賛成することは到底できない。西山教授による手厳しい平光教授批判は妥当と考える。平光教授が受けた量刑は過重だったとは思うが、同教授に責任なしとはいえないというのが私の結論だ。

 東野さんの本の末尾には、東京に移送されたために生体解剖を免れたB29のワトキンズ機長と東野さんが1980年に行った対談が掲載されている。これは、1979年発行の単行本には掲載されておらず、1985年発行の文春文庫版でしか読めない。この対談でワトキンズ機長は次のように述べている。

死んでいった部下たちは可哀そうだったが、ナチスがやったような残虐な殺され方ではなく、麻酔をかけられてわからないようになって死んでいったのがせめてもの私の救いです。

 そうだろうか。私だったらそんな死に方は真っ平御免だ。このワトキンズ機長の言葉を、当時大学に入りたてだったとはいえ、事件に関わった人が注釈なしで載せることは果たして妥当といえるのだろうか。そう思った。

 この記事の最初の方で言及した、テレビ朝日系で2006年に放送された『ザ・スクープ』の動画も私は見たが、ここにも気になる言葉があった。平光教授は下記のように述懐していた。

日本国土を無差別爆撃し、無辜の市民を殺害した敵国軍人が殺されるのは当然だと思った。ましてただ一人の倅をレイテ島で失った私にすればそれが戦争であり自然のなりゆきだと信じていた。

 この平光元教授の言葉を受けて、2006年、80歳に達していた東野さんはこう語った。

その頃日本人はアメリカに強い激高心を持っていた。医者が人命にかかわる人体実験をしたことは悪い、絶対に悪いけれども、それを間違えさせるほど戦争は人間を狂わせた。

 だから「戦争はいけない、憲法9条を守りましょう」という東野さんの主張につながるのだろう。だが、そんな結論で良いのだろうか。

 私には、1979年に上坂冬子の取材に答えた、この事件の被告にして絞首刑の判決を受けた鳥巣太郎助教授(のち減刑され釈放)の言葉の方が重く響く。以下、鳥巣徐教授の言葉を取り上げた下記ブログ記事から引用する。

ameblo.jp

 

遠藤周作の小説『海と毒薬』のモデルとなった九州帝国大学生体解剖事件を、アメリ国立公文書館に眠る資料をもとに再構成した一編。

 

‘Record of Trial in the Case of United States vs K. Aihara, et 29, Part 1, 1940 - 1948’及び‘Exhibits in the Case of United States vs K. Aihara, et 29, Part 1, 1940 - 1948’なる上坂が依拠したと思しき資料はいまでも現地で閲覧可能だが、この先の電子化もまずないであろうことから、この事件に関しては本書がいまでも基本資料となるはずだ(ただし中公文庫版では仮名を用いている)。

 

周知のように米軍捕虜8名が生きながらにして臨床実験のために解剖され殺害された九州大学が舞台の事件で、大本営から価値ある「捕虜」以外は「適当に処置せよ」と通達され対応に困っていた軍に対し、偕行社病院副院長格であった小森卓軍医が言外に人体実験に使用したいと希望し受け入れられたところからこの事件は幕をあける。

 

当時「搭乗員」は国際法における「捕虜」とみなされないがゆえ(「空襲時ノ敵航空機搭乗員に關スル件」)、捕虜以下の取扱いを受け多数が無残に処刑されており、また搭乗員ではないが捕虜に対する生体実験も行われたという日本軍の性格を見るならば(立川 2007:116-119,113*6)、この事件もその一環として考えることもできそうだが、重要なのは研究者もしくは医者の側からのアプローチと、それを助長するかのような怨嗟の雰囲気、つまりB29による爆撃の被害への怨恨がこの事件を比較的抵抗なく惹起せしめたということだ。

 

確かに一般的なイメージとは異なり九州大学教授石山福二郎が自身の研究のために積極的に捕虜獲得に尽力したという事実はない。むしろ石山は小森から話をもちかけられた際、単純に医療手術だと誤解していた節があったくらいなのだが、とはいえ「生体解剖」なる小森の意図を実行に移すわけだから弁護のしようがない。とにかくこれが医学と研究者の問題であることは注意する必要がある。そして捕虜への私刑じみた行為がままあり、それが許容されていたということも。

 

このあたりは丹念な上坂の叙述を追ってもらえばよいのだが、実は本書は「生体解剖」の実態もさることながら、取り調べおよび裁判の様子、また死ぬまでこの事件に対し思いを馳せてきた弟子たちの様子など、事件のその後にも読みどころがある。

 

作者が、個人として組織にあらがうことは無意味なのではないかと、生体解剖に一貫して消極的な反抗を示していた鳥巣太郎に問うている。昭和54年のことである。「それをいうてはいかんのです」と、彼は声を荒げて反論した。

 

「どんなことでも自分さえしっかりしとれば阻止できるのです。[…]言い訳は許されんとです。[…]とにかくどんな事情があろうと、仕方がなかったなどというてはいかんのです」

 

事件から約35年。彼がいうのはきわめて真っ当で、それでいて時として困難な身の処し方である。生体解剖であろうとよくある日常であろうと、取るべき道にさほどの差はないようだ。

 

出典:https://ameblo.jp/mothra-flight/entry-10302897868.html

 

 引用文中、生体解剖を阻止したかったけれどもできなかった鳥巣元助教授の悲憤と痛恨がにじみ出た言葉をボールド体にした。『ザ・スクープ』には鳥巣元助教授のご子息で自らも医者の鳥巣要道さんが、父は事件について何も語らなかったと述懐するシーンが出てくる。記事が指摘する「医者の側からのアプローチ」は必ずやあったに違いないと想像させるのは、平光教授が『文藝春秋』に書いた「医学の進歩はこのような戦争中の機会を利用してなされることが多い」という文章である。

 

 長いこの記事の最初に紹介した、この件を取り上げた毎日新聞の記事を論評した下記ブログ記事から引用する。

apeman.hatenablog.com

 

(前略)記事中に次のような一節があります。

「軍人と医者が残虐非道なことをしたが、これは事件の本質ではない」。東野さんは独自に調査中、気が付いた。「当時の心理状態は平和な時代には考えられないほど、おかしな状態だった」。戦争末期の空気と混乱は医者をも狂わせた。


かなり短くまとめられているため、証言者の言わんとすることがかなりわかりにくくなっています。ただ、記事のタイトルとあわせ、「戦争末期の空気と混乱は医者をも狂わせた」が記者の伝えようとするメッセージであることは明らかです。

生体解剖を目撃した証言者が長年の思索の果てにたどり着いた結論であるのならば、それには相応の敬意が払われねばなりませんが、他方で戦後世代が簡単に「戦争の狂気」と総括するのには問題があります。(後略)

 

出典:https://apeman.hatenablog.com/entry/20120824/p1

 

 残念ながら、「戦争末期の空気と混乱は医者をも狂わせた」というのは東野さんのメッセージであり、それを毎日新聞の金秀蓮記者はもちろん、2006年に『ザ・スクープ』のキャスターを務めた毎日新聞OB鳥越俊太郎氏もそのまま受け売りしている。これが私の理解である。

 最初に東野利夫さんの本を読み始めた時の動機からは残念ながらかなり離れた結論にたどり着いてしまったが、自分を偽るのは信条に反するので、感じ考えたことを記事にした次第。

 最後に、東野利夫さんの著書も上坂冬子氏の著書もともに絶版になっているのは残念なことだ。版元からの再版を期待したい。

*1:https://kojitaken.hatenablog.com/entry/20120826/1345957386

*2:http://mainichi.jp/select/news/20120816k0000m040050000c.html(リンク切れ)

*3:東野利夫『汚名 「九大生体解剖事件」の真相』(文春文庫,198565-66

*4:前掲書88-92頁の記載より。原著では石山福二郎は「石村吉二郎」の仮名で表記されている。また、当記事の論旨に沿って表現をかなり変更した。

*5:http://avic.doc-net.or.jp/AVICJRHCPW/Organization%20meeting/Nishiyama_09_26-2-011.pdf

*6:立川京一,2007,「旧軍における捕虜の取扱い」,『防衛研究所要』第10巻第1号,防衛研究所.99-142頁(http://www.nids.go.jp/dissemination/kiyo/pdf/bulletin_j10_1_3.pdf=リンク切れ)=引用者註

『アクロイド殺し』の○○トリックは「史上初」ではなく40年前にチェーホフが使っていたが「イギリスで初めて麻雀シーンを登場させた小説」だったらしい

 前回取り上げたアガサ・クリスティの『アクロイド殺し』で一番驚かされたのは、まさか半世紀前にクラスメートの心ないネタバレによって最後まで読み切れなかったあの本が、最近になって犯人を知らないままに読んだ同じクリスティの何冊かの本よりもはるかに面白かったことだ。

 前回も書いた通り、中学生の頃に予備知識なしで読み進めていた『アクロイド殺人事件』(中村能三が訳した新潮文庫版のタイトル)で、私は真犯人を疑っていた。今ではありふれたトリックらしいが、当時の私はシャーロック・ホームズの初期作品(短篇集2冊と長篇2冊)のほか、ヴァン・ダイン(『グリーン家殺人事件』)やエラリー・クイーン(『Xの悲劇』『Yの悲劇』)など、ごく少数の海外の古典的名作しか知らなかった。今回読了後、予備知識がほとんどないのに真犯人を疑って読んだ読者がどれくらいいるかと思って『読書メーター』の書評を全部見てみたら、結構いた。もちろんその大多数は最近の日本のミステリで同様の○○トリックを知っていた人の感想だったが、そうではなくミステリなどほとんど読まないという人でも、あの人自身が真犯人ではないかと疑った人たちは結構いたようだ。つまりクリスティはそのような書き方をしていた。

 このことをよく表現していたのが、古い新潮文庫版についた下記「アマゾンカスタマーレビュー」だ。

 

yutaitoo

★★★★☆ 丁寧に読みすぎると犯人がわかってしまう

Reviewed in Japan on November 25, 2011

 

クリスティの作品は、トリックそのものに無理があるもの(『そして誰もいなくなった』の再現性のないトリックなど)や、犯行形態の必然性に無理があるもの(『ABC』のハイリスクすぎる連続殺人など)が多く、基本的にあまり好きではないのだが、この『アクロイド』はそういう意味では無理がなく、すんなりと納得できた。

 

賛否を巻き起こした話題のトリックであるが、直木賞作家の道尾某などの読むに堪えない低レベルな作品に比べて、洗練度は桁違いである。

 

ただし、わりと無防備に犯人をほのめかす記述が意外に多いため、伏線を見逃すまいと丹念に丁寧に文章を読み進めるタイプの読者の方には、早い段階で犯人が分かってしまう可能性が高いと思う。

 

早いテンポでまず一度読了し、再読して納得する、という読み方がお勧めかもしれない。

 

出典:https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R36M3NXF7I7KI9

 

 やはりそうか。私が最初に(途中まで)読んだのは中学1年生の頃だったと記憶するが、文庫本はやたらと時間をかけて(何日も、あるいは1週間以上)読んでいた。最初から真犯人を疑っていたわけではないが(例の「空白の10分」など全く気づかなかった*1)、読み進めていくにつれ、あの○○が怪しいという心証が強まっていった。今にして思えば、それは作者が多く繰り出したほのめかしのために違いない。しかしクリスティはほのめかしは多用するものの、物証のヒントはなかなか出さない。

 だから、同じ新潮文庫版についた、下記の酷評のレビューにも一理あると思った。

 

長い道

★☆☆☆☆ 犯人の設定はフェア。手がかりの出し方がアンフェア。

Reviewed in Japan on August 14, 2018

 

一応、犯人は途中で分かりました。わかったんだから手がかりは出ているんです。ただその出し方がアンフェア。

アンフェアな出し方をしたので、記述が不自然な場所が散見します。

 

クリスティの手がかりの出し方は、基本的にずるいです。きちんと出す気が最初からないと思いますね。中でもこの作品は一番ひどいです。

 

ミステリが好きで、古典と呼ばれる作品(クイーン、クリスティ、ヴァンダイン、カー、ドイル)はほとんど読みましたが、犯人がわかったのに、こんなに後味の悪い作品は皆無です。個人的にはワースト1位です。

 

しかも、この作品を批評すると「犯人がわからなった腹いせだ」みたいな反論をする人の多いこと。

「だから、犯人はわかったんだって。わかったけど、納得できない書き方なんだって」

と言い返したいです。

 

出典:https://www.amazon.co.jp/-/en/gp/customer-reviews/R3N2594407EY4D

 

 本作では、仮に真犯人の見当がついた場合でも、そのアリバイ崩しはなかなか困難だ。たとえばハヤカワ文庫版144頁で秘書のレイモンドが「アクロイドさんは録音機(ディクタフォン)を買うことを検討されていたんです」と語る。録音機はもちろんアリバイ作りの常套手段となる機器だが、レイモンドはすぐに「アクロイドさんは購入を決断できなかったんです」と言って、購入を否定してしまっている。しかしアクロイドはディクタフォンを購入していた。それを読者が知らされるのは大詰めの第23章(ハヤカワ文庫版408頁)になってからだ*2。さらに、フローラ・アクロイドの「9時45分にアクロイドに会った」証言も障害になる。フローラは、ポアロが指摘した「5人全員が隠し事をしている」と言ったうちの4番目に隠し事が暴かれた登場人物であって、その時点で「9時45分」の証言が覆された。こういうアリバイ崩しはどう考えても読者が合理的思考から導けるものとはいえないのではないか。

 ともあれこの時点でフローラがこそ泥ではあったものの殺人犯ではないことが明らかになり、隠し事が明らかにされていないのは真犯人1人に絞られる。そして、真犯人の隠し事(真犯人はある人物を隠していた)が終盤の第24章で初めて暴かれたあと、続く第25章の最後で真犯人がポアロに名指される。このあたりの畳みかけるような展開はさすがにスリリングだ。

 実は、真犯人は5人のうち真っ先に些細な隠し事をポアロに責められているが、これは別にアンフェアではなく作者の巧妙なミスディレクションだろう。5人とも隠し事が示された以上、もっとも些細な隠し事をしていた人物のそれをリセットしてノーカウントにするのは当然だから、このミスディレクションをアンフェアだということはできない。しかし、ディクタフォンの購入に踏み切れなかったはずのアクロイドが実は買っていて、それを知っていたのは犯行に用いた真犯人を別にすれば、ひそかに捜査していたポアロだけだったことがあとで示されるのは、いささかアンフェアだというほかない。

 とはいえ、この手のご都合主義はミステリにはつきものだ。些細なアンフェアさはあるとはいえ、私は下記のレビューに軍配を上げたい。

 

森 郊外

★★★★★ クリスティーの本格物の最高傑作!

Reviewed in Japan on February 13, 2009

 

クリスティーなら本書と「そして誰もいなくなった」、この2作を読めば充分だろう。他の作品はこの2作から格段に落ちる。といって、クリスティーが悪いのではなく、この2作品が群を抜いて優れているからだが。

 

後に執筆された作品群の多くが、エラリー・クイーンディクスン・カーの作品に較べるとどうしても本格推理ものとしては落ちる感じがするのは、読者に与える手がかりが少なく、その一方で(犯人が探偵に対して仕掛けるトリックではなく)作者が読者に対して仕掛けるミス・ディレクションによって誤魔化される感が強いからだが、本書は読者に充分すぎるほどの手がかりを与えながら(アンフェアだという人は、いったいどこを見てアンフェアだと言ってるのだろう?)、最後の最後であっと驚かせる趣向がすごいのだ。

 

この驚愕のラストに匹敵する作品は、私が知る限りでは、エラリー・クイーンの「Yの悲劇」と「レーン最後の事件」、それにモーリス・ルブランの「813」だけだ。

 

出典:https://www.amazon.co.jp/-/en/gp/customer-reviews/RA3JIIRVVBA0H

 

 作者が提示した手がかりに気づいていてもいなくても、あるいは今回の私のように読む前から真犯人を知っていても、第25章の末尾に至るクライマックスは確かに素晴らしい。とはいえ、中学1年生の時に旧友のネタバレにさえ遭わなければ大金星を挙げられたかもしれないのになあ、とそれだけは残念だ。しかしそうなっていたら本作を再読(途中からは初読だが)することもなく、従って本作の真価はわからなかっただろうから、これで良かったのかもしれない。

 なお上記レビューに挙げられている『レーン最後の事件』は、やはりネタバレの被害を受けてしまったために今に至るまで読まずにいる作品だ。意外な犯人の他の代表例(「××が犯人」)だが、意趣返しにネタバレをやっておくと、以下の本論(ここまでは長い長い前振りなのだ)と密接な関連がある。だからそれを知りたくない方は続きを読まない方が賢明だ。

 ここからが本論だが、新潮文庫版についたカスタマーレビューと比べて、ハヤカワ文庫版の読書メーターの方は、もう2000件近くも感想文があるにもかかわらず、似たような感想文ばかりであって、このサイトの利用者の間には強烈な同調圧力がかかっているんだなあ、まるでTwitterで特定の政治家や政党の「信者」たちが日々垂れ流している「呟き」とそっくりだなあ、と呆れてしまった。

 それで、本作と広義では同じ手法に括られることがあるカズオ・イシグロの『日の名残り』の読書メーターを改めて眺めてみると、相変わらずの「誤読の殿堂」ぶりだった*3。「信頼できない語り手」の語りをそのまま信頼してしまって、老境に達した執事の静かな物語だ、などと思い込んでしまった読者たちばかりであることには呆れ返る。海外の純文学の翻訳書を読もうとする程度には文学好きの人たちでもこのレベルなのだ。いかに日本社会が強烈な同調圧力に締めつけられているかがよくわかって絶望的な気分になる。

 『アクロイド殺し』についた「読書メーター」の感想文でも、ただ一言「フェアかアンフェアかといわれたらフェアだ」と書いただけのものや、ハヤカワ文庫版につけられた笠井潔のわかったようなわからないような解説文(ここで笠井は、手記を一人称小説だと読者に思い込ませたのが本作最大のトリックだと主張している)を手放しで礼賛したり(中には笠井の解説文の主旨をそのまま自らの感想文にしている例まであった)と、驚き呆れるばかりの「金太郎飴」状態だった。笠井潔東野圭吾の『容疑者Xの献身』を痛烈にこき下ろしているのだが、それに対しては「読者メーター」に感想文を書いている人たちはどう思うのだろうか。

 だが「読書メーター」には2000件も感想文があるから、その中には目を惹くものもある。今回もっとも注目したのは下記の指摘だった。

 

bookmeter.com

 

 「読書メーター」の感想文には「このトリックを初めて使ったクリスティはすごい!」というものが滅茶苦茶に多いのだが、初めてと思われた試みが実はそうではなかった例は少なくない。音楽の例でいえば、十二音技法の創始者シェーンベルクではないし、無音の音楽を最初に作曲したのはジョン・ケージではない。彼らと同様に、「○○○が犯人」の創始者アガサ・クリスティではなかったということだ。

 この件に関して、ネット検索をかけて、下記サイトを見つけた。

 

 以下に問題の箇所を引用する。

 

 探偵小説として見た場合、『狩場の悲劇』には注目すべき点がいくつかある。この作品を紹介したもののほとんどが明らかにしているため、ここでもばらしてしまうが、これはクリスティーアクロイド殺し(1926)と同じ趣向を使っているのである。もうひとつは、探偵役(裁判官)が犯人という趣向である。おそらく、これらの趣向の最も早い使用例と思われる。

 

出典:http://mysterydata.web.fc2.com/HST/HST_07_03.html

 

 なんと、チェーホフは「○○○が犯人」と「××が犯人」のトリックを同時に使っていた。「××である○○○」が犯人だったらしいからだ。それをチェーホフはクリスティに先駆けること41年、1884年にやっていた。時にチェーホフ24歳。

 しかしもったいないことに、チェーホフには読者を騙そうとする気は全くなかったらしい。以下再び引用する。

 

 しかし、チェーホフはこの作品で読者を驚かそうとは思っていないように見える。というのは、前述の「作者による注記」があまりにくどく、すぐに真犯人がわかってしまうからだ。注記がなければ、かなり意外性のある構成になりえただろう。そのためか、東都書房版《世界推理小説大系》に収録されたときは、この注記は削除されている。つまりチェーホフにとっては、意外な結末よりも、こうした趣向そのものに意味があったということになる。

 とはいえ、まがりなりにも「探偵小説」的構成をとったため、不満も残ることになる。前半、詳細に書かれる主人公の内面は、犯行以降、描くことが出来なくなった。「この長篇の芸術的価値が、物語の後半、女主人公の殺害の瞬間から急に低下している」(ちくま書房解説)と見なされるのも、やむを得ない。こういう論調は、探偵小説ファンにとっては「わかっちゃいねえなあ」的反感をもつ最たるものだが、ことこの作品については的を射ているといわざるを得ないし、おそらく作者自身もそう感じていたフシがある。犯罪者の内面を描きたいのなら、こういう構成にしたのは失敗だった。そのためかどうか、チェーホフはこの唯一の長篇小説を生涯無視していたらしい。

 

出典:http://mysterydata.web.fc2.com/HST/HST_07_03.html

 

 作者自ら認める失敗作では、よほどの好事家でもなければ読まない小説にとどまっても仕方ない*4。『アクロイド殺し』には、他にもいくつかの先例があることが知られているが、いずれも後世に残る作品にはなっていない。何も初めてやった者がえらいというわけではないということだ。

 ところで『アクロイド殺し』のラストで、ポアロが真犯人に自殺を教唆する場面がある。「読書メーター」ではこのことを批判する人たちが多かった。青山剛章の漫画『名探偵コナン』で、探偵が犯人を死なせてしまうことをタブーとしている影響が大きいようだ。

 私が中学生時代にネタバレに遭って『アクロイド』を読了するのを放棄した時にも最後の部分だけは読んだので、ポアロが真犯人に自殺を強要したことはよく覚えていた。というより、覚えていたのは真犯人が誰かというほかにはそのことだけだった。そして、非常に嫌な気持ちになった。

 しかし、それをいうなら先ほど言及した某作と某々作の両方で、探偵は本当に自ら手を下している。シリーズ4作のうち2作で殺人を犯した上に、最後には自殺しているのである*5推理小説にはそういう例もある。

 また、20世紀前半のイギリスには死刑制度があり、殺人犯はすぐに絞首刑にされることが多かったらしい。そうすると、真相を知らない「善良な○」を悲しませないために真犯人に自殺を勧める行為は「あり」かもしれなかったと今では思う。犯行が明るみに出たらどうせ絞首刑にされるに決まっているのだから、それなら○の犯行を知らないまま○の死を悲しませるだけの方がまだマシだという理屈だ。

 探偵にそんな行動をとらせないために必要なのは死刑の廃止であって、実際に今のイギリスでは死刑は廃止されている。ポアロの言動を批判する人たちは、死刑制度についてはいかなる考えをお持ちなのだろうかと思わずにはいられない。

 イギリスにおける死刑制度については、下記リンク先が興味深い。

 

blogos.com

 

 以下引用する。

 

(前略)1920年代、死刑廃止運動が新たな盛り上がりを見せた。エディス・トンプソンという女性とその愛人がトンプソンの夫を殺した罪で絞首刑となったが、トンプソン自身が実際に殺害に手を貸したかどうかには疑わしさが残り、執行に疑問符が付いた。

 道徳上及び人道的理由から刑法改革を目指す「ハワード同盟」や「死刑廃止全国協議会」が中心となって死刑廃止運動を進める中、1927年、労働党は時の党首でのちに首相となるラムジーマクドナルドの指揮の下、廃止を求める「死刑についてのマニフェスト」と題された文書を発表する。篤志家の女性バイオレット・バンデル・エルストは、死刑は「野蛮」で「社会の害悪」として廃止運動を活発に行った。

 議会も死刑廃止を取り上げるようになり、1929年には死刑制度について考える委員会を設置。翌年には死刑執行の5年間の停止を提言した。しかし、重要性が低いと考えられ、死刑問題は政治の場からいったんは姿を消した。

 

出典:https://blogos.com/article/317099/

 

 『アクロイド殺し』は上記の時代に書かれた(新聞連載が1925年、単行本化が1926年)。なおクリスティ自身は強硬な保守派の人で、死刑存置論者だった。死刑存置論をミス・マープルに語らせているし、そのマープルものの『牧師館の殺人』では、死刑廃止論者が真犯人の強硬を知って厳罰論に豹変したなどという描写もしている。正直言って、これには大いに鼻白んだ。

 引用を続ける。

 

冤罪で行われた絞首刑が相次いで発覚

 

 死刑廃止が大きな政治問題として取り上げられるようになるのは、第2次世界大戦が終了する1945年。廃止を支持する議員が多い労働党が、この年から政権を担った。シドニー・シルバーマン労働党議員が、刑事司法(1948年)に死刑廃止を組み込もうと尽力したが、これは実現しなかった。

 しかし、1950年代に入って、複数の殺害事件が国民の大きな注目の的となる。

 ロンドンに住むトラックの運転手ティモシー・エバンズが妻と幼児を殺害した罪で有罪とされ、1950年に絞首刑となった。しかし、その3年後、隣人のジョン・クリスティが真犯人であったことが判明した。エバンズは無実の罪で命を落としたことが分かったのである。クリスティはほかの複数の市民を殺害した罪で1953年に絞首刑となった。

 1953年1月、警察官を銃殺した罪でデレク・ベントリーが絞首刑にされた。しかし、実際に銃を撃ったのはベントリーとともに強盗を行ったクリストファー・クレイツだった。ベントリーが死後の赦免を受けたのは1998年のことである。

 1955年には、ボーイフレンドのデービッド・ブレイクリーをロンドンのパブの前で射殺した女性ルース・エリスが世間の格別の注目を浴びた。裁判が始まると、ブレイクリーがいかにエリスを虐待していたかが分かってきた。射殺は許される行為ではないにしても、多くの国民にとって「理解できる」行為だった。エリスは殺人罪で有罪となり、絞首刑に処された。このころまでには女性が殺害を犯しても死刑になることはほとんどなく、実際にエリスが絞首刑になってしまったことは社会に大きな衝撃を与えた。

 1965年、殺人(死刑廃止)法案が議会で可決された。これは殺人罪で有罪となった人に5年間の死刑執行を停止させる法律だった。1969年、停止は恒常化した。最後に殺人罪で絞首刑が執行されたのは、1964年である。(後略)

 

出典:https://blogos.com/article/317099/?p=2

 

 極悪人のジョン・クリスティならぬアガサ・クリスティが亡くなった1976年には、イギリスではもはや殺人罪による絞首刑が行われなくなって10年以上経っていた。人の一生の間には社会は大きく変わるものだ。たとえばクリスティ晩年の1970年代にポアロが真犯人に自殺を勧めたのであれば非難されるべき言動に違いないが(だからこそ70年代に本作を読んだ私も嫌な気がした)、『アクロイド殺し』が書かれたのはイギリスではまだ殺人犯をバンバン絞首台に送り込んでいた1925年だった。

 なお、上記リンク先は引用文以降の部分も必読であって、1964年を最後に殺人罪で絞首刑が行われていないイギリスであっても死刑の完全廃止は1998年だった。また、世論は1960年代初頭で80%以上、1990年代初頭でも70%以上が死刑制度賛成だったが、その後減少に転じ、2014年に初めて5割を切った(48%)という。人心の変化には書くも長い時間を要するのだ。イギリスで5割を切った2014年に、日本では死刑存置論が80%以上だったというから、日本はイギリスよりも半世紀遅れていることになる。

 さて、本作で「○○○が犯人」の一番乗りの小説ではないことを明らかにした『ロジャー・アクロイド殺し*6だが、思わぬ「一番乗り」があった。それは「イギリス文学で最初に麻雀シーンが登場する作品」の栄誉だ。

 

 以下引用する。

 

 ミステリーの女王として有名なアガサ・クリスティの長編第6作(AD1926(昭和元年)発表)。イギリス文学で最初に麻雀シーンが登場する作品である。

 

 R.グレイブ&A.ホッジスの「TheWeekend」には、イギリスに麻雀が伝来したのは1923年のこととある。たしかに1923年にはEileen BeckによるMahjong do's and don'ts、Jeen Bray によるHow to play Mahjongという本格的な麻雀書がLondonで出版されている。

 

 しかしそして英米上海租界で密接な関係にあり、上海とイギリスの往来も活発であった。そしてHow to play MahjongはNewYorkとの同時発売である。また上海租界のMahjong company of Chainaで出版されたJoseph P.BubcockのBubcock's rules for mahjongg the red book of rules1920年の出版である。

 

 そのような観点から考えると、客観的に確認できるという意味では1923年であっても、実際に麻雀がイギリスに上陸したのは、それより1年くらいは前ではないかとも推測される。そして麻雀書の刊行とともにイギリスでも麻雀ブームが巻き起こり、1925、6年にはピークに達した。

 

 このアクロイド殺人事件は、キングスアボットというイギリスの田園都市に起こった殺人事件を、かの有名なエルキュール・ポアロが解決するというストーリー。内容もさる事ながら、それまでの推理小説の手法を一変させたエポックメーキングな小説として有名である。

 

 麻雀シーンは関係者が麻雀をしながら事件について話し合う形で登場する(後略)

 

出典:http://www9.plala.or.jp/majan/cla21.html

 

 引用文に少しいちゃもんをつけると、上記引用文中の「昭和元年」には違和感がある。あえて元号を表記するのを認めるにしても「大正15年」とすべきであろう。「昭和元年」は年末の7日間しかなかったからだ。また、前述の通り『アクロイド殺し』の単行本化は1926年だが、発表は1925年(大正14年)である。

 それはともかく、『アクロイド殺し』は『ロンドン・イブニング・ニューズ』紙*7に1925年7月16日から同年9月16日まで全54回で連載された。その夕刊紙連載の新聞小説で、クリスティは当時発売されて間もなかったスタイラス(触針)式のオフィス用録音機「ディクタフォン」やブームが最盛期だったと思われる麻雀を小説に取り入れたわけだ。新聞小説ならではの読者サービスだったのかもしれない。

 なお上記サイトには日本語訳の該当場面が引用されているが、おそらく中村能三訳の新潮文庫版だろう。下記の通り、ハヤカワ文庫版の羽田詩津子訳が「チャウ」と表記している鳴き声が「チョー」と表記されている。

 

 「近ごろでは」とミス・ガネットが一時話題を変えた。

 「チョーというのは間違いで、吃というのが正しいんだそうですよ」

 

 同じ箇所の羽田訳は下記の通り。

 

 「最近では」とミス・ガネットの話が少しの間それた。「“チャウ”ではなくて“チー”というのが正しいみたいよ」(ハヤカワ文庫版284頁)

 

 原文は下記の通り。

 

'I believe,' said Miss Gannett, temporarily diverted, 'that it's the right thing nowadays to say “Chee” not “Chow.”'

 

 やっぱり「チャウ」ちゃう?(チャウチャウちゃう。シェパードや)

 

 ごちそうさま。『アクロイド殺し』についてネットで延々と渉猟した結果はあらかた書き尽くした。これで本を図書館に返せる。

*1:本論とは全く関係ないが、「空白の一日」なる邪悪なトリックを考えついた人物が1978年にいた。あれこそ本当の極悪人だろう。

*2:このあたりのずるい手口を東野圭吾が真似ている。ガリレオシリーズの長篇第2作『聖女の救済』で物証となり得るさるアイテムに私は気づいていたが、途中で刑事がそれを処分したことにされていた。しかし実際には処分されておらず、それが事件の解決につながった。

*3:たとえば『日の名残り』を日本の漫画『三丁目の夕日』と一緒くたにした下記書評などは、著者のカズオ・イシグロに対する侮辱ですらあると思う。https://bookmeter.com/reviews/92638590

*4:ネタバレの片棒を担いだ弊ブログが書いてもあとの祭りではあるが、チェーホフの『狩場の悲劇』に関する「ミステリの祭典」のサイトでは、3人の評者のいずれもがクリスティの作品との関連に触れないという驚くべきフェアさを発揮している(http://mystery-reviews.com/content/book_select?id=6468)。しかしこの小説をネタバレなし、かつ著者による注釈が取り除かれた状態で読める幸運な読者が果たしてどれくらいいるのだろうか。

*5:この件に関してネタバレを気にされない方は、例えば下記ブログ記事などを参照されたい。https://m8a0y1u.hatenablog.com/entry/2020/05/03/223000

*6:読書メーター」では本作の書名を、かつて普通だった『アクロイド殺人事件』あるいは『アクロイド殺害事件』ではなく、『アクロイド殺し』としていることを褒めそやす意見が「同調圧力」的に多かったが、私はさらに一歩進んで、原作に忠実にフルネームで『ロジャー・アクロイド殺し』にすべきだと思う。たとえば『安倍殺し』では殺されたのが晋太郎か寛か晋三か、はたまた晴明なのかがさっぱりわからないだろう。

*7:1980年に『ロンドン・イブニング・スタンダード』紙に併合されたらしい。

犯人を知っていて読んでも抜群に面白かったアガサ・クリスティの『アクロイド殺し』

 初めにおことわりしておきますが、表題作を未読の方はこの記事を読まないようにお願いします。それどころか検索語「アクロイド」でネット検索をかけることも絶対にお薦めできません。露骨なネタバレは行いませんが、それでも容易に真相の見当がついてしまうと思われるからです。

 私自身は中学生の頃にネタバレの被害に遭って、途中まで読んでいたこの本(1958年発売の中村能三訳新潮文庫版)をそれ以上読む気がしなくなって読み続けるのを放棄した。それから半世紀近くが経った今回、初めて羽田詩津子訳のハヤカワ文庫版で全篇を通して読んだ。

 

www.hayakawa-online.co.jp

 

 この作品の需要は今でも高いらしく、今年に入ってから図書館に行くたびに置いてないかチェックし始めてから3か月にしてやっと見つけた。本作はクリスティ作品の中でも飛び抜けて人気の高い作品であって、『そして誰もいなくなった』や『オリエント急行殺人事件』でもここまではいかない。

 本作をテレビドラマ化した作品を見てしまった例、さらに本作と同様の犯人設定を用いた日本国内の多くのミステリー(東野圭吾にもその手の作品があるし、読んだことはないが古くは横溝正史を含めて最近の作品にも多数の例があるらしい)に先に接したために本作の犯人に早々と気づいてしまった例*1なども含め、全くの予備知識なしで本作に接することができなかった読者の方が多いのではないかと想像される。

 試しに「アマゾンカスタマーレビュー」や「読書メーター」を覗いてみると、早い段階から真犯人に気づいたという読者は少なくない。しかしそれは、先に複雑怪奇なマーラー交響曲を知ってしまってリスナーがベートーヴェンの第3交響曲エロイカ」や第9交響曲をあとから聴いて(さすがにそんな聴き手はほとんどいないと思うが)驚きを感じなかったようなものではないか。

 ここで『エロイカ』の例を挙げたが、『アクロイド殺し』は作者アガサ・クリスティにとってエルキュール・ポアロを探偵役に設定した長篇ミステリーの3作目に当たる。私は『アクロイド』が借りられないうちに、ポアロものの長篇第1作『スタイルズ荘の怪事件』と同第2作『ゴルフ場殺人事件』を読んだが、その2作から見ると本作には紛れもなく大きな飛躍がある。「クリスティの『エロイカ』」なる表現が思い浮かんでしまった。このたとえでいうと、コナン・ドイルハイドンモーツァルトに相当するだろうか。

 「アマゾンカスタマーレビュー」に私の読後感に非常に近い書評があったので以下に引用する。

 

本好き

★★★★★ ネタバレぎりぎり

Reviewed in Japan on September 9, 2020

 

と言っても、多くの人にそのメイントリックはバレている、言わずと知れたミステリの女王の名作です。

 

子供の頃、藤原宰太郎という大悪人のおかげで、読む前にトリックを知ってしまいました。

それでもいつか読もうと思いつつ、幾十年

 

大人になってやっと初めて読みましたが、真犯人を知っていても面白い!

直前に『ナイルに死す』を読んでいましたが、改めてクリスティの筆運びの巧さに舌を巻きました。これも、大人になって初めて感じられたこと。

そして、この作品は特にユーモアが魅力的なエッセンスになっていて、しかもそれがまた周到なミスディおっっっと!!

あんまり言うとネタバレになる。でも、ネタバレしている。それでもこれだけ読ませる、クリスティはやっぱり凄い!

脱帽。

 

出典:https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R2LAUV0EX29T5B

 

 本当にその通り、と思った。私の場合は最初に読んだのが『オリエント急行殺人事件』(光文社古典新訳文庫。ハヤカワ文庫版では『オリエント急行の殺人』)で、これも「犯人」を知っていたのに面白かったが、『アクロイド殺し』は『オリエント急行』の比ではなく、本当に抜群に面白かった。中学生の頃にネタバレの被害さえ受けなければ、と思ったが、仮にそうであったとしても中学生の頃だったら犯人の意外性以外印象に残らなかったのではないか。犯人を知っていて、どうやったら真犯人を割り出せるかを考えながら(ミステリー作品としては)やや丁寧に読んだら十分堪能できた。大人には大人の読み方がある。かつて少年少女時代に一度読んだだけの読者の方々にも再読をおすすめできる、これはそのような作品だ。これまでに読んだクリスティの8作(ポアロもの長篇5作、マープルもの長篇2作、同短篇集1作)の中でも群を抜いている。これが本エントリの結論だ。

 

 以下は長い蛇足になる。あくまで蛇足なので面倒な方はここで読み終えられても良い、というよりその方が良いだろう。

 私と同じ読み方をした「アマゾンカスタマーレビュー」の書評を以下にもう1件挙げる。

 

二次元世界の調教師

★★★★☆ 天下一品のミスリード

Reviewed in Japan on March 20, 2017

 

 ミステリの女王クリスティーの代表作で、当時フェアかどうかで論争を引き起こした意外な犯人の先駆者的作品。実の所私自身が読んだことがあるかどうか不明なんだけど、内容はまるで覚えていなかった。にも関わらず真犯人は誰だか読む前に知っていた。恐らくミステリ好きなら知らない人はいないと言えるくらいの有名作品だから。

 従ってどのくらい巧みに読者をミスリードしているか確かめるような、本来の楽しみ方とは違う読み方をしてしまった。そういう意味でクリスティーの企みは満点。何しろ私自身、読みながら本当にこいつが犯人でうまく小説として成り立つんだろうか? と不安になったくらいで、余計な事前知識なしで読んだら絶対この犯人はわかるまい。面倒なので細かい点を捕らえてどうこう言うのは控えたい。

 とにかく初めてこのトリックを使ったミステリとして価値の高い作品。読んでみて巧みなミスリードぶりに感心した。と同時に、途中で犯人がわかるなんて読者は、小説の読み方に問題があるのではないかと思った。

 普通の読解力でこの犯人がわかったら、絶対おかしいのだ。この作品はそうゆう結論には到達しないよう、悪知恵では天下一品のクリスティーが全力で書いているのだから。

 

出典:https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R1RDVGM12WMIUD

 

 「読みながら本当にこいつが犯人でうまく小説として成り立つんだろうか? と不安になった」というくだりには途中まで本当に同感だった。

 しかし、私には初めて途中まで読んで、級友のネタバレのために挫折した時、「えっ、やっぱり本当にそいつが犯人だったのか」と思った記憶が鮮明にある。ストーリーをほぼ完全に忘れてしまってからも、その記憶だけは残っている。そう思った理由は本の後半部分を読んでわかった。

 ハヤカワ文庫版の230頁で、主要な登場人物を集めたポアロが「この部屋の全員が何かを隠していらっしゃる」と怒鳴る場面があり、それに続いて下記の記述がある。

挑戦的な非難がましい視線で、ポアロはテーブルをひとわたり見渡した。すると、その視線を前に、全員が目を伏せた。そう、わたしも。(本書230頁)

 その後、登場人物たちが隠していた秘密が、1つ、また1つと明かされていくが、秘密が明かされない人物がいる。「こいつ」はその中の1人だった。だから中学生時代の私は「こいつ」を疑ったものに違いない。ただ、巧妙なことに、秘密が明かされない登場人物は「こいつ」だけではなかった。現在の私が予備知識なしで読んでも、「こいつ」ではなくその登場人物を疑った可能性が高い。

 ただ、エルキュール・ポアロ(ポワロ)には、というよりアガサ・クリスティにはほのめかしが過ぎる癖がある。『ゴルフ場殺人事件』と『青列車の秘密』はそれで真犯人の見当がついた。特に後者では、早い段階から真犯人がミエミエ*2で、かなり興醒めさせられた。

 「意外な犯人」がウリの本作でも、ハヤカワ文庫版316〜318頁でポアロがシェパード医師とその姉のキャロライン(カロライン*3)の前で繰り広げた長広舌は、露骨に「こいつ」を指し示すものだった。中学生時代にこのくだりまで読んだかは全く記憶にないが、現在予備知識なしで読んだとしても、この箇所で「こいつ」を強く疑った可能性がある。というのは、後述のように特にポアロを探偵役とするクリスティのミステリには、ポアロの強烈なほのめかしによって犯人の見当がつく作品が少なくないからだ。

 現在まで読み終えたポアロものは長篇の5作だけだが、他の作品でもポアロはこんな調子なのだろうか。もしそうだったら、いつかクリスティ作品に飽きがくるかもしれない。現在は『アクロイド』が犯人がわかっていても面白かったから、もう少し読んでみようと思っているが。

 なお本作に録音機(ディクタフォン)を用いたトリックが用いられているが、1926年にこのトリックを用いたミステリーを書いたのはかなり先進的だったのではないだろうか。そう思ってネット検索をかけ、下記の記述を発見した。

 

ディクタフォンとは?

 

ディクタフォンは、特殊な録音技術です。 これらのデバイスは、主に話し言葉の録音とその後の書き起こしを容易にするように設計されています。 この用語は、Dictaphone Corporationのブランド名に由来しますが、このタイプの機能を実行するデバイスの一般的な用語としてよく使用されます。 このタイプの録音デバイスは、通常、ポータブルであり、有用であるが完全ではないオーディオ忠実度でサウンドを録音するように設計されています。

ディクタフォンの歴史は、企業が設立された1920年代に遡ります。 最初のモデルは、スタイラスが録音面にパターンをエッチングする録音業界で使用されていた同じ録音技術のバージョンを使用していました。 その後、エッチングを後で再生できます。 これらのマシンは通常、人間の秘書の代わりに使用され、中央のタイピングプールで複数のソースからの文字をタイプアウトできます。(後略)

 

出典:https://www.netinbag.com/ja/technology/what-is-a-dictaphone.html

 

 もちろん、大がかりな録音設備はそれ以前からある。私がすぐに思い出すのは、1913年にニキシュ・アルトゥル*4(1855-1922)の指揮で録音されたベートーヴェンの第5交響曲の演奏で、1970年代後半にFM放送でその第1楽章だけ聴いたことがあるが、およそ聴くに堪えない音質だった。

 人の語った言葉をテープ起こしする事務機器として「ディクタフォン」が発売されたのは1923年だったという。以下、テープ起こし - Wikipedia から引用する。

 

1923年、エジソンの蝋管レコード技術を継承していたコロムビア・グラフォフォン(現コロムビア・レコード)から、事務機部門が「ディクタフォン社」(Dictaphone)として独立、蝋管をメディアとする事務用録音機「ディクタフォン」(en)を発売した。蝋管メディアには人の声で録音を行うことが容易というメリットがあり、これを活かしたものである。

 

ディクタフォンはタイプライターを用いる口述筆記事務を想定した録音機で、平均的水準のタイピングスキルしか持たない者でも再生を繰り返すことで録音の正確な文章化を容易としたため、1930年代まで欧米でのビジネス向け需要を席巻した。

 

弁護士ペリー・メイスン」シリーズなどで知られたアメリカの推理小説家ES・ガードナーは、長編小説1作を数日で執筆できるほど創作力のある多作家であったが、自身のタイピングでは着想した小説を思うように高速タイプできないため、タイピスト相手の口述筆記を試みた。だがこれでも速度に不満があり、1930年代には早くもディクタフォンに文章を口述、録音を秘書にタイプライターで清書させるという、現代的な口述筆記著述を常用するようになった。「テープ起こし」活用の先駆例であろう(彼はテープレコーダーが一般化すると、そちらを使うようになった)。

 

出典:テープ起こし - Wikipedia

 

 本書の真犯人はこの「ディクタフォン」をかばんに入れて持ち運んだ。その程度のサイズには小型化されていたわけだ。

 なお本作を「アンフェアだ」と酷評したヴァン・ダイン(本名はウィラード・ハンティントン・ライトというアメリカ人)にも同様の録音トリックを使った例があるらしいが、それは『アクロイド』よりもあとに発表された作品だ。

 今なら、録音機を使ったアリバイ工作など当たり前だが、1920年代にこのトリックを使ったことは、もしかしたら先例があるのかもしれないが結構先進的ではないか。クリスティの学生時代の専門は機械・電気・物理系ではなく薬学だったらしいが。

 1926年のディクタフォンの音質でこのトリックが有効だっただろうかとも思ったが、それは音質が改善された現在の視点であって、95年前には人の声が聞こえただけで十分だったに違いない。いや、オーケストラの楽器の音ではなく人の声であれば、現在でも有効なトリックかもしれない。

 なお、「ディクタフォン」と「アクロイド」を検索語としたネット検索をかけていたところ、下記ブログ記事をみつけて読んで、爆笑してしまった。

 

s-taka130922.hatenablog.com

 

 上記ブログ記事に紹介された本の著者によると、

事件を起きたときに短時間でポアロが指摘したようなトリック(ディクタフォンに時限装置を取り付けて指定の時間に起動させる)を実現させるのはかなり困難である

 とのこと。

 本の著者によると、真犯人は小説でポアロが名指しした人物ではなく、その○の○○○○○だという。

 ここまでくるとシャーロッキアンの世界に限りなく近づいている。世のシャーロッキアンたちが「ホームズとモリアーティ教授は同一人物だ」などとする仮説を構築しては楽しんでいることは中学生時代から知っていた。

 ただ、上記リンクのブログで紹介された本には、『アクロイド殺し』以外のクリスティ作品のネタバレも盛大に盛り込まれているそうだから読まない方が良さそうだ。なお書物の原著者は文学理論と精神分析の専門家とのこと。

 本作は「キングズ・アボット村」が舞台になっているが、直前に読んだミス・マープルものの長篇第1作『牧師館の殺人』で詳細に描かれた「セント・メアリ・ミード村」と酷似しており、『アクロイド殺し』の登場人物であるカロラインがミス・マープルの原型であることを作者のクリスティ自身が認めている。また、ポアロものの長篇第5作である『青列車の秘密』*5には、セント・メアリ・ミード村出身のミス・グレーという登場人物が出てくる。1920年代から1930年頃のクリスティは、イギリスの田舎の村での上流及び中流の人々を集中して描いていたようだ。『アクロイド殺し』第16章に描かれた麻雀の場面などまことに興味深かった。100年近く前のイギリスの村でこんな遊びをやっていたなんて。以下にこの場面に触れた「アマゾンカスタマーレビュー」を引用する。

 

青天井

★★★★☆ イギリスでも家庭麻雀?!

Reviewed in Japan on March 3, 2010

 

今から80年以上前の出版当時、イギリスで家庭に友人を招いてご婦人も一緒に麻雀が行われていたとは!! ポン、チーと鳴いてばかり、鳴き間違えもしょっちゅうで、安上がりを続けて勝っている人と大きな手を狙いながら上がりきれない人との言い合いなど、我らのヘボ麻雀と同じで笑えます。

また、オバサンの噂好きとそれに伴うあくなき好奇心や図々しさも、洋の東西を問わないなと感心。このオバサンが真犯人を察知するのかどうか、読後に残る興味です。

 

出典:https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R360LMDBMLYFJT

 

 まあ噂好きだったり図々しかったりするのは何も「オバサン」に限らず「オジサン」も、それどころか若者も少年少女も皆同じだと私などは思ってしまうけれども。カロライン(キャロライン)が真犯人を察知するかは、「しない」に賭けておく方が精神衛生上好ましいだろう。なぜなら作中でカロラインは推理を間違えてばかりいたからだ。いくら作者自身が「祖型」であるとは認めていても、ミス・マープルとは才能が違いすぎる。

 なお、作中では「チー」と鳴くか「チャウ」と鳴くかが軽く議論され、結局「チャウ」と鳴くことになった。ネット検索をかけると、フィリピン式麻雀では「チャウ」と鳴くらしい。関西出身の私は「違う」を意味する「ちゃう」と紛らわしいと思った。

 

 以下は蛇足の蛇足だが、『牧師館の殺人』はポアロものの第1作『スタイルズ荘の怪事件』と同工異曲であって、ハヤカワ文庫版では2冊とも同じクリスティの孫であるマシュー・プリチャードが序文を寄せていて、『スタイルズ荘』はそれで犯人の見当がついた。『牧師館』ではクリスティの孫による犯人のほのめかしには遭わなかったけれども、同じような登場人物がいるからもしかしたらまた同じパターンかなあと思いながら読んでいたら、本当にその通りだったので面食らった。結局これまでに読んだクリスティ作品の7つの長篇のうち、最初から犯人を知っていたのが『アクロイド』と『オリエント急行』の2作、ポアロのほのめかしで犯人がわかったのが『ゴルフ場』と『青列車』の2作、クリスティの孫のほのめかしで犯人がわかったのが『スタイルズ荘』の1作だ。残り2作のうちの1作が前記の『牧師館の殺人』だが、残る1作であるマープルものの『ポケットにライ麦を』が唯一、犯人の見当が本当につかなかったものの、読み終えたあとに同じマープルものの短篇中に含まれるある作品と同じ構図であることを知った。今にして思うと、短篇集の創元推理文庫の解説文はそのことを示唆していたのだった*6。それにこの作品もそうだが、「いかにも怪しげな人物として登場するけれども本当は悪くなさそうな登場人物が、実は本当に極悪人だった」真犯人や、そのパシリにされる共犯者がクリスティ作品には頻出する。つまりクリスティ作品では、よく似たパターンが何度も使われることが多い。

 それら諸作の中にあって『アクロイド殺し』はやはり傑出した作品だと思う。普段は東野圭吾に対する批判*7など辛口のことばかり書いている弊ブログとしては例外的に、文句なくお薦めできるミステリーだ。

*1:たとえば「アマゾンカスタマーレビュー」の下記URLの書評など。https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R2F28KLRGGGU6C

*2:いったんそれに気づいて読むと、その人物以外に犯人があり得ないことは相当に高い確度で確信できた。

*3:ハヤカワ文庫版では「キャロライン」と表記されているが、イギリス英語の発音では「カロライン」に近いはずだ。そういえばコナン・ドイルシャーロック・ホームズものの第1作に出てくるアイリーン・アドラーの「アイリーン」も、イギリス流の発音だと日本人の耳には、昔の延原謙訳での表記である「アイリーネ」に近いという話があり、そのことをブログ(『kojitakenの日記』)で取り上げた記憶がある。但し、現在も新潮文庫版に残る延原訳では「アイリーン」に改められている。

*4:ハンガリーの人なので、姓・名の順に表記した。

*5:同第4作である『ビッグ4』は実際には『アクロイド』よりも前に書かれており、推理小説でもないらしいから、『青列車の秘密』は『アクロイド』の次に書かれたポアロものの長篇に当たる。

*6:実は読んでいる最中にもそれには気づいていたが、途中で死んでしまったしなあ、と思って嫌疑から外してしまったのだった。但し、同作のハヤカワ文庫版『火曜クラブ』の解説文による他作品のネタバレは創元推理文庫版よりもはるかに悪質らしいので、前記のネタの示唆にもかかわらずハヤカワ文庫版の『火曜クラブ』よりも創元推理文庫版の『ミス・マープルと13の謎』の方をおすすめする。

*7:そういえば今回取り上げた『アクロイド殺し』ハヤカワ文庫版の解説文は、東野圭吾の『容疑者Xの献身』を痛烈に批判した笠井潔が書いている。

岡田暁生『音楽の危機 - 《第九》が歌えなくなった日』を読む 〜 ベートーヴェン「第9」が孕む「排除」と「疎外」を克服できる日は来るか

 3月はあと3日を残しているが、今日まで本を10冊読んだ(但し、数はミステリー小説の飛ばし読みによって水増しされている)。その中でもっとも強い印象を受けたのは、下記『kojitakenの日記』の記事で言及した吉田徹の『アフター・リベラル』(講談社現代新書)だった。

 

kojitaken.hatenablog.com

 

 2番目に印象に残り、ブログ記事に公開しておきたいと思ったのは岡田暁生の『音楽の危機 - 《第九》が歌えなくなった日』(中公新書,2020)だ。

 

 上記中公のサイトから、本書の概要を以下に引用する。

 

二〇二〇年、世界的なコロナ禍でライブやコンサートが次々と中止になり、「音楽が消える」事態に陥った。集うことすらできない――。交響曲からオペラ、ジャズ、ロックに至るまで、近代市民社会と共に発展してきた文化がかつてない窮地を迎えている。一方で、利便性を極めたストリーミングや録音メディアが「音楽の不在」を覆い隠し、私たちの危機感は麻痺している。文化の終焉か、それとも変化の契機か。音楽のゆくえを探る。

 

 とはいえ、上記の概要は本書の核心部を十分に表現しているとはいえない。本書のアブストラクトを的確に書くためには相当の力量が必要であり、素人ブロガーの手に負えるものではない。そこで、いつものようにネット検索をかけたところ、『週刊ポスト』2021年1月1・8日合併号に掲載された井上章一氏の書評を発見した。以下に引用する。少し脱線しておくと、井上氏は私にとっては『阪神タイガースの正体』(太田出版2001, のち朝日文庫2017)及び『京都ぎらい』(朝日新書2015)の両書を大いに楽しませてくれた人で、建築史家、風俗史研究家にして国際日本文化研究センター所長・教授である。今年のプロ野球の開幕3連戦でヤクルトが阪神に3連敗して気分が悪いので、意趣返しに井上氏が2016年に書いた下記記事にリンクを張っておく。

 

www.sankei.com

 

 しかしながら、「反読売」元祖は長嶋茂雄のデビュー戦で4打席4三振に切って取った金田正一が属していた国鉄スワローズではなく、南海ホークスだという。スワローズは2015年の日本シリーズでその南海の後身であるソフトバンクに1勝4敗でボロ負けした(2年間で1勝もできずに8連敗した読売よりはマシだが)。そして金田正一はのちに読売入りして、現役引退後も読売びいきの野球解説者としてにっくき人物だった。何より井上章一氏は京都と阪神タイガースを熱烈に愛する人なのであった。

 脱線はここまでにして、井上氏による『音楽の危機』の書評を以下に示す。

 

pdmagazine.jp

 

芸術もパチンコもひとしなみになる衝撃

 

 いつのころからか、年末には「合唱」をたのしむ集いが、もたれるようになった。音楽愛好家があつまり、ベートーベンの交響曲第九番で、声をあわせる。そんな催しが、日本各地でおこなわれるようになっている。
 しかし、新型コロナとよばれる感染症のはびこる今年は、それがかなわない。作曲家の生誕二百五十周年をいわってよい年だが、実現は困難である。コーラスにさいしては、おおぜいの人びとが大きく息をはき、またすいこむ。そんなことが、今できるはずもない。
 三密をさけろ。たがいに、むらがるな。そうあおられ、しばしば夜の街が槍玉にあげられた。ホストクラブをはじめとする風俗店が、白い眼で見られる対象になっている。あるいは、パチンコも。
 クラシックのコンサートも、今はおおっぴらにひらけない。「合唱」付の「第九」などは論外である。もちろん、それらが、おもてだって指弾されることはない。しかし、活動の自粛を要請される点は、つうじあう。社会は高雅な芸術も風俗営業も、ひとしなみにあつかった。公衆衛生という立場から見れば、どちらも同じようにめいわくな存在なのである。
 このことに、音楽研究者の著者は衝撃をうける。あるいは、うけてみせる。そのうえで、ベートーベンの「第九」、あるいは「第九」的な価値観を問いなおした。
 友よ、いだきあおうだって? 今は無理だ。それに、この歌詞は仲間はずれになるかもしれない人びとを、おきざりにしている。友とみなせない者は、排除してしまうつもりなのか。「第九」だけではない。近代市民社会のポップミュージックは、大なり小なり連帯と絆を強調する。みな、同じ弊におちいっているのである。
 いわゆるコロナ禍に、社会は対面をさけてきた。リモートとよばれる画像でのやりとりを、普及させている。いっぽう、音楽は録音というリモート鑑賞の仕組を、はやくからみのらせてきた。その文明論的な意味合いも考えさせてくれる好著である。

週刊ポスト 20211.18号より)

 

出典:https://pdmagazine.jp/today-book/book-review-769/

 

 そう、本書の論点は二段構えあるいは二層構造なのだ。

 最初の「表向きの論点」は上記青字ボールドで引用した部分だ。しかし、二層目の論点を導くための序奏でしかない。本書の真の論点は赤字ボールドの引用部分に示された二層目にある。「音楽研究者の著者は衝撃をうける。あるいは、うけてみせる」と書いた井上章一氏の表現はじつにみごとである。とてもでないが真似できない。

 「友とみなせない者は、排除してしまうつもりなのか」。これは、実ははるか以前から、テオドール・アドルノ(1903-1969)が提起した課題だ*1。以下本書から引用する。

 

(前略)アドルノが問題にしたがっているのはおそらく、ごくふつうの極めて立派な市民たちがナチスを容認し支えていたということだ。伝説の女性映画監督レニ・リーフェンシュタールによるナチス党大会の記録映画『意志の勝利』(一九三五年)は、悪魔的なまでの見事さでもって、立派なドイツ市民たちの融和を演出している。しかしアドルノアフォリズムは、彼らの友愛が排除によってこそ維持されていると示唆する。何かのバランスが崩れると幾百万の「きちんとした市民」が簡単に互いを包囲し憎み合う。

 

《第九》についてアドルノはもう一つ、やや長めのメモを残していて、こちらを読むと彼の意図がさらによくわかる。ベートーヴェンが《第九》フィナーレで作曲したシラーの頌歌には思わずぎょっとするような一節があって、そこをアドルノは見逃さない。

「市民的ユートピアは、完全な喜びというイメージを考える場合、かならずやそこから排除されるもののイメージのことも、考えざるをえなくなる。[中略]《第九》のテキストとなっているシラーの頌歌『歓びによせて』においては、「地球の上におけるたった一つの心でも、自分のものとよべるものは」、つまり幸福に愛し合うものは誰でも、輪のなかへと引き入れられるとしている。「しかしそうした心をを持たないものは、涙しながらわれらの集まりから、こっそりと立ち去るがいい。」[中略] シラーによって罰せられている孤独は、彼が言う歓びの人々たちからなる共同体自体から、生み出されたものにほかならない。こうした共同体においては、年老いた独身女性やさらには死者たちの心は、一体全体どうなるのであろうか」(前掲書*2五〇ページ)

(中略)市民社会歓喜は「仲間外れ」を作ることで維持されてきた。ヒトラーといわずすでに《第九》の中に、はっきりこの市民社会の原記憶は刻まれていたと、アドルノはいっている。衛生的に保たれたコンサートホールという文化の殿堂に不特定多数の「巷の人」は入ってきてはいけない――これが近代市民社会の隠れた本音だったと、彼は示唆しているのである。

 

岡田暁生『音楽の危機』(中公新書2020)18-19頁)

 

 上記引用文中でアドルノが指摘した「第9」の歴史的限界が、今回のコロナ禍で浮き彫りになった。著者が言いたいのはそういうことだろうし、私も基本的にはそれに同意する。というのは、のちほど述べる通り、私もまたベートーヴェンの第5交響曲や第9交響曲終結部に全面的に浸れる人間ではないからだ。

 「第9」が作曲されたのは1824年で、3年後に作曲後200年を迎える。何より昨年はベートーヴェン没後250年のメモリアルイヤーだった。本書は昨年9月の刊行であり、「第9」の公演のほとんどは中止に追い込まれるだろうと予想されているが、実際にはいくつかの公演が行われたことを、本書の「アマゾンカスタマーレビュー」で知った。レビュー主は

本書はいわば「音楽の聞き方」の令和版続篇で、左派的で受け入れ難い箇所も少なくない

と仰る保守派の方であり、弊ブログがNGワードにしている現元号*3を用いて著者(及び私)との立場の違いを明確にしておられる。以下、昨年末の「第9」の公演に言及した部分を引用する。但し、申し訳ないけれども文章が長いし私とは立場が違うので、レビューの前半部分を割愛した上で引用文の文字を小さくさせていただく。

 

日本は雇用喪失が自殺に繋がりやすい。

仕方ないが半年前に本書が書かれた時、これ程の惨状を想定し得ない。

新たな音楽の革命的誕生は私も楽しみだ。

著者の様な進歩史観ではないが、戦争の断絶の後、全く新しい藝術の誕生はしばしば見られた。戦後の現代曲の全てを受け入れる事は無理だが、それでも何かが残るだろう。

だが、まだそれを言う時期ではない。本書出版後の半年は、それを確認させられた苦しい時間だった。

 

束の間の喜びはあった。

1227日、タケミツ・メモリアル・ホール、バッハ・コレギウム・ジャパンの第九は、本書に一貫する懐疑的第九論を吹き飛ばすパワーに満ちていた

しかもこの公演は12回公演で、演奏者のリスクも高い筈だが、驚くべきはオーケストラも合唱もソーシャルディスタンスを取らない通常配置だった。

指揮者とソリストの目の前の席が数列空けられただけ、第4楽章がはじまる直前までマスク着用以外、満員の聴衆も含め通常通りで押し通した。

総監督の鈴木雅明は全責任を負う覚悟なのだ。まだ誰も14日間経ておらず凄い賭けだ。これらは皆電話チケット予約時点で全部教えてくれた。私は鈴木雅明の侠気をチケットと共に買った。

これから来る第4波の前の、暫しの別れになるかも知れない。そう感じる多くの人々がホールを満員に埋めた。当日券は出ていたが、見渡しても数える程だった。

中には同日のN響のサントリーホール第九と梯子した強者もいた事をTwitterで知った。彼等も想いは同じなのだこんな絆は音楽とは本質的に異なる謂わば戦友の感覚だが、それで了とする。自己責任で片付けて貰って構わない。批判を甘んじて受ける覚悟は出来ている。

10年前のメータN響の第九を思い出す。

あの時、中川右介はメータの侠気に感じてコンサートに駆けつけたと幻冬舎新書「第九」に書いた。

ダニエル・ハーティングはオケより少ない聴衆を相手にに大震災当夜、マーラー5番の演奏を完遂しただけでなく、メータと同じく原発事故から程ない時期に再来日し、満員の聴衆にマーラー5番を演奏した。

やはり、本当に苦しかった時に見捨てず逃げなかった人の事は一生忘れない。

10年前の大震災は日本だけの事だが、今回は殆んど全世界が日本より酷い凄絶な状況下に苦しんでいる。我々も本当に苦しいが、去年の後半は少しはLIVEを聴けた。これでも遥かに台湾以外他国よりマシと認識すべきなのだ。

今年後半か再び年を越しても、国際線旅客機の往来が叶う時、今度は日本人が10年前の恩義に報いるのだ。

 

著者、アドルノ、就中トーマス・マン「ドクトル・ファウストゥス」主人公アドリアン・レーヴェルキューンの第九否定は私も読んだが、初台のBCJ第九で、私はそれらはどうも違うと初めて感じた。

シュトックハウゼン擬きの初音ミク版第九も平時の発想だとは思うがあながち無いとも言えない。やり様に依っては面白いと思う。

が、、BCJの第九のバリトン独唱が始まる時のあのなんとも言えない、名状し難い高揚感はなんなのだろう?

今までなら師走の風物詩や一万人の第九には戸惑い、嫌悪感すらあったが、これ程絶望的状況だったから、私は初めて第九のメッセージを痛感したのだ。そして初めてバリトン独唱で哭いた。

 

著者も本書中で中間報告と延べている。

いつかは判らないが、終わりの終わりが来た時、ウィルスには勝てないかも知れないが、去るときは来る。その時、新たな著者の想いを一度読んでみたい。

 

出典:https://www.amazon.co.jp/-/en/gp/customer-reviews/R65WRU0XFPCWS

 

 レビュー主とは違って、私は不勉強なことにまだトーマス・マンの長篇小説『ファウストゥス博士』(1947)を読んだことはない。これまで読んだ現代(というか20世紀以降の)音楽に関する本に何度も登場するにもかかわらず。言及されているレーヴァーキューンは12音音楽を創設したことになっているシェーンベルク*4がモデルだという。本書からレーヴァーキューンの言葉に言及した部分を以下に引用する。

 

「善なるもの。高貴なるもの、つまり善かつ高貴であるにもかかわらず人間的などと言われているもの、そんなものはあってはならない。それを求めて人間たちが闘い、城壁を作り、理想の現実に満たされた者たちが熱狂的に告げ知らせたもの、そんなものはあってはならないんだ。そんなものは撤回するんだ」。友人ツァイトブロームの「何を撤回しろというんだね?」という問いに、レーヴァーキューンはにべもなく「第九交響曲さ」と応じる。(本書135頁)

 

 引用文中赤字ボールドにした「城壁を作り」を含む部分について、著者は下記のように解題する。

 

(前略)人間のため、正義のためと称して、人間は戦争をし。城壁を作って他者を排除してきた。そして善の理想が現実にどんな過酷な結末を生み出すか実際に見聞きしているにもかかわらず、欺瞞に満ちた理想をなおたたえる輩が必ずいる。あろうことか彼らは善について熱狂的に支持する。であるならば、そんな「よき市民」のアイコンである第九交響曲など撤回すべきだというのが、レーヴァーキューンの意見である。

 極論とはいえ傾聴すべき事柄は含まれている。「撤回」はいいすぎであるとしても、《第九》的な世界観と時間モデルを一度カッコに入れて、ほかの可能性を考える必要性は喫緊だ。「音楽的な見事さがそれ以外の思想的な可能性を見えなくしてしまう」ということがあってはならないからである。(本書135-136頁)

 

 「音楽的な見事さ」というのは、「第9」に対する批判的な立場をもって構えて聴いた、フルトヴェングラーが指揮する同曲の演奏に著者が説得され、「音楽的な見事さ」を改めて痛感したというくだりを受けている。

 「第9」ではないが、「フルトヴェングラーなんて本当にすごいのか」と構えて聴いたら本当に「すごく」て説得された経験が私にもあるので(例のナポレオンにまつわるエピソードで有名な第3「エロイカ交響曲)、共感できるものがあった。

 このあとの章で、ベートーヴェンの第5交響曲(俗称「運命」)や「第9」にみられる「苦悩から歓喜へ」という音楽の「右肩上がり」の終わり方が音楽史において例外であることを著者は論証している。

 実は私が少年時代から違和感を抱いていたのはこの構造だった。私はベートーヴェンは初期も後期も良いのに、中期の一部の作品と「第9」の終楽章にはずっと違和感を持っていたのだった。その「中期の一部の作品」には第5交響曲、特にその終楽章が含まれていた。

 私の違和感はごく単純なもので、「そんなこと言ったって、人生は死で終わってしまうじゃないか」というものだった。

 実際、あのような終わり方をする音楽は、ベートーヴェン自身の作品にだって第5と第9の両交響曲以外にはないのではないか。著者はエロイカもその例に加えているが、私は違うと思う。ベートーヴェンピアノソナタ短調の曲のほとんどは短調で終わる。作品2-1(ヘ短調)、作品10-1(ハ短調)、作品13(ハ短調「悲愴」)、作品27-2(嬰ハ短調「月光」)、作品31-2(ニ短調テンペスト」)、作品57(ヘ短調「熱情」)は全部そうだ。違うのはソナチネアルバムに入っている作品49-1(ト短調)と中期と後期の境目にある作品90(ホ短調)、それに最後のピアノソナタである作品111(ハ短調)の3曲だが、いずれも2楽章構成の曲で、最初の2曲はロンド、本書でも言及されている作品111はテンポの遅い変奏曲で、静かに曲が閉じられる。

 弦楽四重奏曲でも、作品18-4(ハ短調)、作品59-2(ホ短調)、作品95(ヘ短調「セリオーソ」)、作品131(嬰ハ短調)、作品132(イ短調)の5曲のフィナーレはいずれも短調であり、作品131のように終結和音が長三和音であったり、作品95や132のように長調のコーダがついている曲もあるが「苦悩から勝利」というコンセプトの曲は、やはり1つもない。余談だが、作品131は、私見ではバッハの平均律曲集第1巻第4曲の嬰ハ短調のフーガとベートーヴェン自身の同じく嬰ハ短調の月光ソナタの2曲を祖型とする音楽だと考えている。冒頭のフーガの4音動機と、下属調嬰ヘ短調)の属和音としての嬰ハ長調の3和音で曲を閉じる*5点がバッハと共通する一方、緩徐楽章で始まってスケルツォを経て激しい終楽章に至る点が月光ソナタと同じだからだ。またイ短調弦楽四重奏曲作品132の終楽章の主題は、当初第9交響曲の終楽章用として着想されたことが知られている。つまりベートーヴェン自身も最初は「第9」の終楽章を器楽のみによる短調の楽章にするつもりだったということだ。もちろんその場合でも、作品132がそうであるように、終結部(コーダ)は長調にしたに違いないが。

 終楽章のコーダだけ長調にするやり方は、モーツァルトの有名なニ短調ピアノ協奏曲(K.466)という先例があるが、あれを「苦悩から勝利へ」とは言わないだろう*6。もっと古くはハイドンの告別交響曲嬰ヘ短調)の終わりで楽団員が1人、また1人と去って行く時の音楽が長調だが、こちらは勝利どころか別れの音楽である。ベートーヴェンの第5交響曲や「第9」の終わり方は確かに前例のないものだった。

 そして「第9」ほど多くのシンフォニー作曲家を呪縛した曲はなかった。ブラームスの第1はその典型例だが、これはブラームスの数多い音楽の中でも、私がもっとも苦手とする曲だ。そのブラームスは第4交響曲短調で始めて短調で閉じた。

 チャイコフスキーベートーヴェンよりもモーツァルトを愛好した作曲家だったが、第4と第5は冒頭に「運命の動機」で始まって、最後に勝利の凱歌で終わる「苦悩から勝利」型の交響曲を2曲も書いた。しかし、ベートーヴェンの「悲愴ソナタ」と同じ音型で始まる第6番の「悲愴交響曲」は、第3楽章で勝利の凱歌を挙げた直後の終楽章に暗くテンポの遅い短調の楽章を持ってきて、最後に弔鐘を鳴らして全曲を閉じるという、まるで直後の自身の死を暗示するかのような終わり方だ。

 同じパターンがマーラーの第9交響曲だが、このマーラーは、それより少し早い時期に音楽を書いていたブルックナーともども、生涯にわたって「第9」に呪縛され続けた作曲家だった。第1交響曲*7の冒頭からしベートーヴェンの「第9」を思わせるし、全曲の構造がそうだとはいえないが、第4楽章は「苦悩から勝利へ」の構造になっている。故頼近(鹿内)美津子(1955-2009)が好んでいたことがいつも思い出される第2交響曲「復活」は終楽章に合唱が出てくるもろに「第9」型の音楽だし、嬰ハ短調で始まりニ長調で終わる第5交響曲も「第9」型だ。しかし第6番以降になると徐々に変わってくる。第6番は第2楽章と第3楽章の順番について作曲者はずいぶん悩んだらしいが、第2楽章にスケルツォを置く、現在普通に演奏される順番だと第1楽章から第3楽章までは「第9」型だ。特に第2楽章が第1楽章をなぞる構造になっていることが「第9」に酷似している。しかし終楽章では勝利の凱歌をあげるどころか逆に運命に打倒されてしまう。第7番は短調で始まり長調で終わるが、終楽章は能天気な音楽であり、あれから「勝利」を感じる聴き手はほとんどいないだろう。第8番は合唱が最初から炸裂する巨大な編成で演奏され、「第9」の終楽章的なものに特化した音楽といえるかもしれない。そして第9番に至るが、この曲はゆっくりしたニ長調の楽章で始まり、レントラーの第2楽章を経て、第5番の第2楽章や第6番の両端楽章と同じイ短調によって悲劇的なクライマックスに至る第3楽章を経て、その第3楽章のニ長調の中間部から派生した主題を使用しながら、なぜか半音低い変ニ長調による長くてゆっくりした終楽章が、消え入るように終わる。これを「ニ長調からの別れ」と呼んだ、作曲家だったか指揮者だったかがいたはずだが、ネット検索でも引っかからなかった*8マーラーはこのあと、嬰ヘ長調による第10番の交響曲を構想し、これは緩徐楽章で始まって緩徐楽章で終わる点では第9番と似た曲だが、作曲者自身は曲を完成させることができないまま死んでしまった。なお先輩のブルックナーは「第9」と同じニ短調による第9番の交響曲自体を完成させることができず、長大なホ長調の緩徐楽章である第3楽章を書き終えた時点で亡くなっている。ホ長調の緩徐楽章で残された未完成の交響曲というのは、シューベルトの「未完成交響曲」と同じだが、シューベルトの「未完成」は何も作曲家の死によって未完成に終わったわけではなく、シューベルトはそのあとに長大なハ長調交響曲「グレイト」を書いている。

 著者はこのシューベルトに着目し、「未完成」にように緩徐楽章で終わるのを「諦念型」、狂躁が延々と続くうちにとってつけたようなファンファーレで突然狂躁が打ち切られる「グレイト」の終わり方を「サドンデス型」と名づけている。この終わり方を偏愛した作曲家として著者が挙げるのはラヴェルだが、「ボレロ」や「ラ・ヴァルス」の終わり方など確かにその通りだ。そして、ラヴェルの作曲活動の終わり方も、まさにこの「サドンデス」型だった。Wikipediaを参照すると、ラヴェルは52歳だった1927年から軽度の記憶障害や言語障害に悩まされていたが、1932年にパリで交通事故に遭って以来それが一気に悪化して作曲ができなくなってしまったという。

 それらに対し、ベートーヴェン以前の作曲家たちは、そんな終わり方はしなかった。著者はバッハの平均律曲集第1巻第1曲のプレリュードを例に挙げて、弱音で曲を閉じるけれどもシューベルトの未完成やマーラーの第9番のように未練がましくいつまでも音を引き延ばすのではなくきっぱりと終わらせる。これを著者は「帰依型」と命名している。これに対して、ハイドンモーツァルトは喜ばしく賑やかに曲を締めるけれども、定型的にシャンシャンと曲を終わらせる。これを著者は「定型型」と呼ぶ。ジャズの多くもこの終わり方だという。

 それに対してベートーヴェンの第5交響曲は、いつ果てるともない長三和音の強奏が、これでもかこれでもかと延々と続く。この箇所には、私は少年時代から今に至るまでずっと辟易してきた。「第9」の方が終結部でも曲に変化がつけられているのでいくぶん抵抗は少ないが、こちらの方はあの「歓喜の歌」に全面的に没入できない。音楽の専門家たちの間にも、著者をはじめとして同様のことを言う人たちは少なくない。一方、私はやはり少年時代から今に至るまで嫌って止まない故宇野功芳(1930-2016)などは「第9」に没入できるタイプの人で、彼は1960年代半ば頃に「第9」の「歓喜の歌」に没入できないとこぼす学友の感想に対して「こんな素晴らしい音楽はないじゃないか」と思ったという意味のことを書いていたはずだ。その宇野功芳が極右人士だったことは、氏が亡くなる数年前に知った。

 本書で非常に印象に残った箇所の一つは、本書142頁以降に論じられた「勝利宣言型の終わりは沈黙恐怖症か」という節だ。以下引用する。

 

(前略)執拗に凱歌をあげ続けるベートーヴェン作品の終わりは、何かの不安の裏返しであるようにわたしには聞こえる。

 いうまでもなく「音楽の終わり」とは、音がしなくなることだ。それまで音を立てていたものが動かなくなる。静まり返る。右*9に示唆したように、これは死の象徴である。だが十八世紀までの作曲家たちは、沈黙に場を明け渡すことに恐れを抱いてはいなかった。バッハの『マタイ受難曲(一七二七年)はキリストの磔(はりつけ)の物語を三時間以上にわたって描く死と弔いの音楽である。全篇が嘆きにあふれている。闇に閉ざされている。しかしよりによって最後の場面、亡くなったキリストを悼む場面で、ふと音楽の調子が明るくなる。これは不思議な感覚だ。夜明けが近づいてくる。「あなたの墓に呼びかける。静かに休みたまえ、と」の歌詞が穏やかな調子で繰り返される。淡々としている。曲を閉じることをバッハは恐れない。心安らかに大いなるものへと場を譲る。もちろんモーツァルト交響曲などはもっと世俗的な喜びにあふれているものの、彼もまた時が来れば恬淡と幕引きする。しかるに交響曲第五番「運命」のベートーヴェンは、場をなかなか沈黙に譲ろうとしない。(本書143-144頁)

 

 モーツァルト交響曲というと、以前にも弊ブログで取り上げたかもしれないが、ト短調K.550の交響曲の終楽章には結構強迫神経症的なところがあると私は考えている。5度上への転調に対して、普通なら主調に戻る力が働くのに、この曲のフィナーレの展開部ではその制御を失ってしまって延々と上へ上へと引っ張られる力が働き続けて*10、ついに音楽理論からいえば主調のト短調から見てもっとも遠い調に当たる嬰ハ短調でデモーニッシュなクライマックスを築いてしまう。それを導くのは展開部の初めに現れる1オクターブの12の音のうち主音であるG(ト音)を除く11の音が含まれる音型であり、私はこのあたりにモーツァルトの音楽の革命性を感じる。しかし、その展開部が終わるとソナタ形式の再現部になり、曲の閉じ方はごく普通だ。ベートーヴェンの第5交響曲のように、延々と主調の3和音を鳴らし続けるようなモーツァルトなどあり得ない。

 ましてや、バッハから見るとベートーヴェンはずいぶん遠いところに到達したと確かにいえるだろう。

 だが、ベートーヴェンの第5交響曲終結部や「第9」の「歓喜の歌」などは、同時にその世界に入れない者に対する「排除」あるいは「疎外」が確かに含まれている。

 音楽に限らず、このところ「排除」あるいは「疎外」について考えることが多い。

 たとえば、弊ブログでこのところ執拗に批判している東野圭吾のミステリー『容疑者Xの献身』は2005年下半期の直木賞を獲ったが、作中の「容疑者X」は、殺人を犯してしまった愛する女性のアリバイを偽造する目的で、何の罪もないホームレスを虐殺した極悪人だ。しかし出版元の文藝春秋はそんなストーリーの小説を「純愛」の物語として売り込み、ネットを見ても「感動した」との感想文を書く読者の方が、作品を批判する読者に比べて圧倒的に多い。また著者・東野圭吾自身もマジョリティ目線の人に違いないと私はみている。

 とはいえ政治に関心を持つ人たちの間ではマイノリティの権利等に対する意識が強まっており、それが反動的な安倍晋三政権が終わったあと、課題として表面化しつつある。そのことは多くの「リベラル」論に反映されている。現在の問題は、前記『アフター・リベラル』の著者・吉田徹が「寛容リベラリズム」と呼ぶその潮流が、格差を拡大して新たな「排除」や「疎外」を生み出す経済的自由主義に対抗して再分配や経済的平等性を重視する「社会リベラリズム」(『アフター・リベラル』の著者・吉田徹による用語)とうまく結びついていないことだ。「社会リベラリズム」を指向する人たちの間には「『右』も『左』もない」と称して公然と「排除」や「疎外」を行う右派と手を組もうとする傾向が強いし、その一方で「寛容リベラリズム」を指向する人たちは、新自由主義者を含む「経済リベラリズム」の勢力と手を組みたがる傾向を克服できていない。もはや「『右』も『左』もない」などという物言いは時代遅れだ。「社会リベラリズム」と「寛容リベラリズム」の両立は必須だと私は考える。

 「社会リベラリズム」と「寛容リベラリズム」が結びついた時、「第9」に含まれる疎外を克服できていない音楽の世界でも、200年ぶりに新たな時代へと歩を進めることができるのかもしれない。

 もちろん、歴史的限界によってベートーヴェンの価値が損なわれるものではない。相対性理論量子力学によってニュートンの価値が損なわれるわけではないのと同じことである。

*1:本書17-19頁

*2:テオドール・W.アドルノ(大久保健治訳『ベートーヴェン 音楽の哲学』(作品社2010)=引用者註

*3:この理由により、私は山本太郎が代表を務める某政党を絶対に支持できない人間だ。なお本例のように、引用部分においてはNGワードであってもそのまま掲載することにしている。ついでに書くと、現在の弊ブログのNGワードは、他に安倍前政権の経済政策を表す片仮名6文字と、プロ野球球団・読売ジャイアンツの日本語の愛称である漢字2文字(但しこちらは一般名詞としてなら許容する)の合計3つである。

*4:実はシェーンベルクよりも早い12音技法の発明者がいたことを今年1月に読んだ沼野雄司『現代音楽史』(中公新書2021)に教えてもらったが。

*5:但しベートーヴェンは彼らしく長三和音の強奏で曲を閉じている。

*6:ベートーヴェン自身の第3ピアノ協奏曲ハ短調(作品37)も同様。

*7:マーラーの第1交響曲は、何やら変なニックネームで呼ばれることがあるが、あれはのちにマーラー自身が撤回しているし、その撤回されたニックネームにしてもあくまで「タイタン」であって「ジャイアント」ではないことに留意されたい。間違っても「闘魂込めて」の親戚などではない。

*8:もしかしたらバーンスタインだったかもしれないがはっきりしない。

*9:縦書きの新書本なので「右」になる。弊ブログを含む横書きでは「上」に当たる=引用者註。

*10:同様の転調はト長調のピアノ協奏曲K.453の第2楽章でも聴くことができる。

東野圭吾『真夏の方程式』には松本清張『砂の器』との共通点もあるが、本質は『容疑者Xの献身』を焼き直した反倫理的小説

 初めにお断りしておくが、本エントリもいつものようにネタバレ満載なので、(私はお薦めしないが)表題作を読みたいと思われる方がもしおられるなら、この記事は読まないでいただきたい。

 

 やはり周庭氏は東野圭吾を読まない方が良いのではないか。また本邦の中学校や高校の図書室に東野の小説を置いてはならないのではないか。東野が2010年に連載し、2011年に刊行された長篇推理小説真夏の方程式』(文春文庫)を読んで、改めてそう思った。この本はお薦めしないので文春のサイトへのリンクは張らない。

 何よりいけないのは、本作があの反倫理的長篇小説『容疑者Xの献身』(2005) の焼き直しであることだ。つまり、害作品、もとい該作品と同じく「献身」をモチーフにしている。

 しつこいかもしれないが、本作を読んで改めて『容疑者Xの献身』に対する怒りを新たにした私は、またしても同作及びそれに基づいた映画に対するネガティブな批評を見出すべくネット検索をかけてしまったのだった。

 まず、「ミステリの祭典」というサイトに、非常に共感できる同作へのレビューがあったので以下に引用する。本論の『真夏の方程式』ではなく『容疑者Xの献身』への批判である。このサイトでは作品を10点満点で採点するが、最低は0点ではなく1点。つまりレビュワー氏は最低点をつけた。

 

No.78 1点 アイス・コーヒー 2013/12/16 14:08

 

あまりに有名な作品だけにこの点数をつけるのにはずっと躊躇していた。それゆえ、本作の書評は今まで避けてきたのだった。

もともと、私は東野圭吾氏の作品と相性が悪い。その作品の面白さが良く理解できないのだ。そんな私が氏の代表作にケチをつけるのはおかしいかもしれないが、一度私の意見も読んでいただきたい。

 

本作は天才数学者の石神が自分の愛する花岡靖子の為に、鉄壁のアリバイで完全犯罪を成し遂げようとするストーリーだ。見事な伏線や、二転三転する展開に驚かされた読者は多いだろう。私もそうだった。

しかし、まず気にいらなのはトリックに大きく関係するある部分だ。ネタバレにならないように書くが、人の命を虫けら同然に考えるあるまじき内容があるのだ。さらにそこまではいいとしても、それを作中で最も論理的思考ができるはずの湯川がほぼ黙認している。恋愛小説とか、ミステリとかそれ以前に人間としてあってはならない事ではないだろうか。なぜ湯川はそれを…。

またトリックの必然性に乏しいことも本作の欠点の一つである。これは偶然に頼りすぎだし、例え必然的な流れとしてこのトリックが現れたとしても、やはり東野氏自身の道徳的人格を疑ってしまう。もう少しこの点を丁寧に書いても良かったのではないだろうか。恐らくキリスト教圏に翻訳されても日本ほどの賞賛は受けられないだろう。

 

思うに東野氏は恋愛部分と推理部分を別々に思い付いたのではなかろうか。それを強引に縫い合わせてしまったがために思いもよらぬ亀裂が入っていまったのではないだろうか。だから、私は本作が本格かそうでないかという議論には不毛さを感じる。恋愛として若しくは推理小説として別々にとらえるならある程度の評価ができるのに、二つ合わせてよく見ると完成度が低いのだ。実際には恋愛部分もさほど偉大な内容ではないと思うのだが、本書評では特に触れないこととする。

 

あとは、些細なことだが石神や湯川の描き方に違和感を感じる。理系としての立場から言わせてもらえば、彼らは明らかに文系である。湯川の妙に論理から逆らった行動や、石神の再試での奇妙な行動。理系だったら「数学に関する意見を書いてほしい」なんて言わないでしょう。理系を主人公に置く文学において、ここまで粗雑な表現をした東野氏がまた理系であるという事実に驚きを感じる。何故本作が直木賞に輝いたのだろう。

 

ここまでグダグダと書いてきたが、私は本作のすべてを否定したいわけじゃない。本作のトリックや描写にはなかなか優れた部分もある。しかし、本作にある道徳的問題は社会問題も巻き起こしかねないし、それを論理的思考者であるガリレオに美化させるやり方は間違っていると思う。その意味での点数だ。

 

出典:http://mystery.dip.jp/content/book_select?id=815&page=2

 

 東野の「探偵ガリレオ」シリーズは、もともと「理系トリック」を用いた「ハウダニット」に興味の焦点を当てた作品群だったが、東野には「理系トリック」の引き出しの持ち合わせがあまりないらしく、弊ブログでも一度取り上げた第1短篇集の『探偵ガリレオ』(1998)はまあまあの出来だった(というか、ガリレオシリーズの中ではこの第1作が一番マシだと思う)が、第2短篇集の『予知夢』(2000)で早くもネタ切れを感じさせた。しばらくこのシリーズが中断したが、東野が改めて挑んだのが長篇『容疑者Xの献身』だった。この長篇になると、探偵が物理学者・湯川学(間違いなく1949年にノーベル物理学賞に輝いた湯川秀樹にちなんだ命名だ)である必要などもはや何もない。東野は確かに理系学部の卒業だが、彼がもっとも才能を発揮するのは前々回のエントリで取り上げたシリーズの第2長篇『聖女の救済』(2008)で私も見破れなかった叙述トリックであって、「理系トリック」の多くは月並みだ。『聖女の救済』も、本論の対象である『真夏の方程式』もともに湯川は必要ない。『真夏の方程式』には小学校か中学程度の理科(化学)の話しか出てこない。

 だが『容疑者X』にしても『真夏の方程式』にしても、それ以上に道徳的・倫理的な面が大問題だ。

 『容疑者Xの献身』の映画版に対しても、下記の批判があった。

 

172.《ネタバレ》 これは原作が駄目です。

好意の対象としての女性で、DV被害者を助けるために、出来る事いっぱいあるのに・・

この天才?は、無関係のホームレスに嘘のアリバイ工作を指示した挙句、殺して身代わりにするという暴挙に出ました。

どこに、こんなアホな事する天才が居るかって、爆笑しました。

単に死体を完璧に処理すれば、事件が無かったことに出来るのに、もう一人殺すという選択。

原作がアホだと、どんなにいい映画を造ろうとしても結果は同じです。

 

原作はミステリーの何かを受賞してますが、その時の審査員がこう言ってます。

「指摘はあるが、推理小説は、道徳的である必要は無い」

ミステリー読むのが恥ずかしくなるエピソードでしたね

 

グルコサミンSさん [DVD(邦画)] 3点(2016-04-04 21:59:28)(良:6票)(笑:1票)

 

出典:https://www.jtnews.jp/cgi-bin/review.cgi?TITLE_NO=16044

 

 引用文の最後にあるコメントをしたのは、推理作家の北村薫らしい。

 

 ようやく『真夏の方程式』の話に移ると、本作は『容疑者Xの献身』をなぞったような小説だ。2つの殺人事件があるが、最初に提示されるのは時間的には第2の殺人事件であり、その16年前に第1の殺人事件が起きている。

 『容疑者X』では第1の殺人事件の犯人は母娘で、娘は中学生だが、『真夏』では16年前に中学生だった娘による単独殺人だ。この娘は不倫から生まれたが、実の父親が真犯人である実の娘を庇って自らが犯人であるかのような演技をして逮捕され、有罪判決を受けて服役後出所したものの、職が得られずに一時ホームレスになっていた。現在は脳腫瘍に冒されて余命幾ばくもないが、この男を逮捕した元刑事が、この件は実は冤罪事件であって、自分は冤罪の片棒を担いでいたのではないかと疑って退職後もこの事件を追っていた。この元刑事がホームレスになっていた元受刑者を発見し、彼が重病であることに気づいてホスピスに入れていた。

 ある日、この元刑事が、真犯人の両親が営む旅館に泊まりに来た。宿で元刑事が冤罪で投獄された元受刑者の名前を出したところ、16年前の娘の犯罪が暴かれるのを恐れた父親(彼は娘と血のつながりはない)に殺害された。しかも卑劣なことに、この父親は夏休みで遊びに来ていた親戚の少年に犯罪の片棒を担がせた。

 以上、キーボードを打つだけでむかつく話だ。「容疑者X」は罪のないホームレスを虐殺したが、この父親も過剰防衛によって罪のない、それどころか自らが関与した冤罪事件をよって冤罪を被せてしまった元受刑者に償いをしようとしていた、およそ刑事とは思えない高潔な人間を、16年前に殺人を犯した娘を守るためという口実で殺してしまった。これでは元刑事も元受刑者も浮かばれない。とりわけ元受刑者にとっては、ホームレスだった時に「容疑者X」に虐殺されずに済んだことが唯一の救いだったくらいのもので、他に良いことなど一つもなかった。彼が16年前に「献身」さえしなければそんなことにはならなかったのに、と私などは思う。

 ところが、こんな殺人を探偵役の湯川は許して隠蔽に加担してしまう。この点に関しては『容疑者Xの献身』よりももっとひどい。殺人一家の父親は、元刑事の死について警察に自首したが、殺人ではなく事故だったと嘘をつき、無能な県警は彼の嘘にまんまと騙されてしまう。また作中で、16年前の殺人者である30歳の女性は「善玉」扱いされている。この女性は二度までも「献身」の対象になっているが、そのことを思い煩っている様子が全然うかがわれない。彼女が心配しているのは、16年前に自らが犯した殺人が露見することだけのように見える。

 しかし、各種感想文を見ると、こんな小説にも「感動」しているらしい人たちが少なくないのだ。中には、『容疑者Xの献身』では露見したのに、と疑問を呈する人たちもいるが、そういう人たちも『容疑者Xの献身』の方が良かった、などと言っている。頭が痛くなる。

 どう考えても、殺人を犯してしまった愛する者を庇うために別の殺人を犯すことを「美談」仕立てにするのはおかしい。そんなことをしたら、多少は情状酌量の余地がある最初の殺人より「殺人事件を隠蔽するための」第二の殺人の方がより悪質になるに決まっている。しかし、そんな常識は東野の作品世界とその読者たちには通用しないらしい。

 やはり東野圭吾には倫理的に大きな欠陥があるとしか思えない。『容疑者Xの献身』、『真夏の方程式』の他にも、弊ブログで「超駄作」と評した『同級生』、それに加賀恭一郎シリーズ第1作の『卒業』など、大きな倫理的問題を感じた小説がいくつもある。

 ところで、『真夏の方程式』を読んで松本清張の『砂の器』を思い出したという読者を複数ネットで発見した(私は特に連想しなかった)。また、『砂の器』を引き合いに出さずとも感想文中に清張の名を挙げた人が他にもいた。『容疑者Xの献身』や(私が清張の短篇「捜査圏外の条件」を連想した)『聖女の救済』の感想文ではそのような例にはお目にかかっていないのになぜだろうと思ったが、すぐに気づいた。確かに『砂の器』と共通点がある。

 以下に、「読書メーター」および「アマゾンカスタマーレビュー」から拾った、『砂の器』を連想したという感想文の例を紹介する。『真夏の方程式』に対しては賛否両論だ。まず「読書メーター」から3件。

 

カムリン

ガリレオ版「ぼくの夏休み」。この作者は、あれか、「殺人を犯してしまった女を身を挺してかばう男」っていう図式が好きなのか? それが永遠のテーマなのかね。べつにいいけど。人の好き好きだし。個人的には殺人という凶悪犯罪を隠蔽するのは好かん。トリックはそこそこ秀逸。動機は「砂の器」の焼き直しか。犯罪自体は醜く冷酷、殺す必要の無い人を殺してる。少年と科学者が海辺でほのぼのしてるので、それなりに心休まり、面白く読める。二つの殺人、一つは真犯人が隠され、一つは殺人であることが隠されて、そこに正義はないけどね。

2014/08/13

 

出典:https://bookmeter.com/reviews/40292548

 

luny

良かれと思って真実を知ろうとする、元刑事。秘密を知られたくない家族。犠牲愛を貫こうとする真の父。清張の名作「砂の器」を彷彿させる。ところがどっこい、少年にも大きな荷物を背負わせる羽目に。ガリレオ博士の論理的な説得が少年に未来を期待させる。読み応え充分でした。

2013/11/11

 

出典:https://bookmeter.com/reviews/33306340

 

morimama

良質のミステリーには人間が深く描かれている。登場人物である役者が出揃ったところで過去の謎は予想できてしまいますが、現在の事件の謎はやはり解けませんでした。そこは物理の天才湯川博士にお任せです。途中、余命いくばくもない老人の姿に松本清張の「砂の器」が重なりました。和賀英了のことを聞かれた老父が必死の形相で「おら、知らねえ!」と慟哭するところです。そして「容疑者X・・・」に続きここにも現れた「献身」。「白夜行」「幻夜」など献身路線は東野さんの一つのテーマなのでしょうか。果たして人は愛する者の為に罪を被れるのか

 

2012/04/29

 

出典:https://bookmeter.com/reviews/18549215

 

 上記3件目のレビューにはコメントがいくつかついているが、それらを参照すると東野の本作は清張の原作よりも有名な映画版『砂の器』を強く連想させるようだ。なお私は原作は読んだが、映画版は見たことがない。

 続いて「アマゾンカスタマーレビュー」より。

 

トビー

★★★☆☆ ある意味平成の砂の器もどき

Reviewed in Japan on September 7, 2014

 

真実を口にしない病院の父親をいう登場人物が、なぜか映画「砂の器交響曲を思い出させた。

 

砂の器では、もと巡査の三木謙一が音楽家和賀英良に実父の見舞いを強く嘆願したことにより殺人が起きたが、本作品ではそのような記述はない。そのところが、殺人動機として弱すぎるという皆さんの指摘になっている。つまり人一人をそれだけの理由で殺め、そしてガリレオは隠蔽してしまう。

もう一つの殺人とはまったく違って同情の余地はない。

砂の器と比べても、同様である。

 

病院の医療費は誰が負担するのだろう。

 

出典:https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RYY5U0WLDLKVN

 

 『砂の器』では前衛作曲家(映画版は見ていないけれどもピアニストだっけ)の和賀英良が、自らの過去(少年時代)を知る人物を殺した。『真夏の方程式』では、娘が中学生時代に犯した殺人を知ることになるかもしれない人物を娘の父親が殺した。両作の犯人はともに「過去を隠し続けるために殺人を犯した」。

 しかし、これも弊ブログで繰り返し指摘してきたことだが、作家としてのあり方において清張と東野圭吾は全く違う。当たり前だが、清張は和賀英良を無罪放免したりはしなかった。清張は来年(2022年)に没後30年を迎えるが、今なお読み継がれている。しかし、東野の没後四半世紀経って彼の作品を読む人など誰もいないだろう。

 東野の「ガリレオシリーズ」が清張を思わせるとのレビューの中には、下記のような辛辣な批評もあった。

 

K Tailor

★★☆☆☆ 面白いには面白いのだが、ミステリとしては?

Reviewed in Japan on September 8, 2013

 

東野のガリレオシリーズ長編。

とある海辺の町で見つかった事故死と思われる遺体。たまたま同じ宿に居合わせたガリレオ先生は案外積極的に事件にかかわっていくのだが、やがて判明する意外な事実、警視庁の捜査で掘り起こされる過去の事件、そして・・・というややサスペンスタッチの作品だ。

 

なかなかサスペンスフルで面白い小説なのだが、冷静に思い返してみると・・・さて。とんでもないトリック?快刀乱麻を断つ推理?読者から見てあぁーやられた感?どれもなんともパッとしなくて。ミステリとしてはどうなのか。確かに人物描写は面白い。ガリレオ先生の発言の変人ぶりやら、小学5年理科算数へのオーバーテクノロジーな教え方、科学調査と自然保護の軋轢やらと、突っ込みながら読むには事欠かない面白さがある。まぁその一部が伏線にもなってはいるのだが。。。

 

もともとガリレオシリーズは、あまりトリックトリックしていなくていわゆる松本清張の流儀も取り入れているようなので、そこを指摘してもという話もあるのだが、「聖女の救済」でどかんとやられた後だけに、ちょっとがっかり感あり。

 

出典:https://www.amazon.co.jp/-/en/gp/customer-reviews/R3N0HVXLGA5ZJ8

 

 最初の短篇集では「理系トリック」がウリだったのに、「あまりトリックトリックしていなくていわゆる松本清張の流儀も取り入れている」などと言われては東野圭吾も形無しだろう。

 東野は、清張よりもはるかに(長篇に清張をモデルにした人物を登場させてこき下ろした)筒井康隆に近い資質があるのではないか。東野作品の比較的初期には、自らが「本格推理小説」のキャラクターであることを自覚している作品をはじめとして、メタ的な視点から書かれた作品が何冊もある。私がもっとも楽しめたのはそれらの作品だった。理系ミステリの短篇集『探偵ガリレオ』も悪くはなかったが、メタミステリの作品群ほどには面白くなかった。最初に引用した『容疑者Xの献身』のレビュワー氏が指摘する通り、東野は理系的というより(たとえ氏の専攻や職歴が技術系であるにせよ)文系的な人であるように思われる。

 私見では、そんな東野に一番合わないのは今世紀に入って多用するようになった「お涙頂戴」の路線だ。また社会派風の味付けも感心しない。氏の考え方には倫理的な問題があるため、変に社会派風や「お涙頂戴」のストーリーにすると、とんでもない方向に読者を誘導してしまう。長篇に隅田川のホームレスを登場させて、社会派推理風の話にするのかと思いきや、そのホームレスを虫けらのように殺すのがメイントリックだったと知った時の驚きと怒りは強烈だった。

 理系もお涙頂戴も社会派も、東野圭吾には似合わない。

添田孝史『東電原発事故 10年で明らかになったこと』(平凡社新書)が告発する事故前の東電の悪行

 今日(3/11)で東日本大震災と東電原発事故からちょうど10年になる。

 先月下旬に下記の本を読んだ。

 

www.heibonsha.co.jp

 

 何よりもタイトルが良い。あの原発事故の略称を「福島原発事故」ではなく「東電原発事故」としている*1。弊ブログでは2011年のある時期以来、略称は「東電原発事故」で通している。

 内容的にも、近年になってようやく明らかになった東電の悪行が書かれている。それに触れた「アマゾンカスタマーレビュー」があったので、手抜きで申し訳ないが以下に2件引用する。

 

レビューン

★★★★☆ 事故ではなく、公害事件。

Reviewed in Japan on March 3, 2021

 

2020930日、仙台高等裁判所は、福島原発事故を国は防ぐことができたという判決を下しました。この本は、その判決に至るまでの経緯が述べられてます。

 

著者は科学ジャーナリスト(工学修士取得者)で、この著者が見つけた文書が裁判に採用されてもいるようです。

 

読んで衝撃を受けっぱなしでした。たとえば、裁判によって以下のことが明らかになったと。

 

2007年時点で、福島第1は国内で最も津波に余裕のない脆弱な原発だとわかっていた。2008年に東電の技術者は津波対策が必要だという見解で一致していたが、東電の経営者が先送りを決めた。東海第2の経営者は津波対策をすぐに始めた。東北電力がまとめた女川原発の最新津波想定を、東電は自社に都合が悪いからと圧力をかけて書き換えさせた。

 

ひと通り読んで、いわゆる学歴エリートの人たちが何をしているのか、その一端を垣間見れました。自分たちに不都合な事実があると、それを否定する論理を構築してごまかす。間違っていることでも論理的に正しくさせて自己正当化。失敗に対して嘘と隠蔽で対処してます。

 

出典:https://www.amazon.co.jp/-/en/gp/customer-reviews/R39FLOGYJEUQDE

 

無気力

★★★★★ 東京電力津波対策の遅れを明らかにする

Reviewed in Japan on February 21, 2021

 

東日本大震災から10年が経過しようとする中で、各種の出版が相次いでいる。本書は、なかでも福島第一原子力発電所の事故に焦点を当てて、東京電力が適切な対策を講じていたのか否かを論じるものである。

 

大規模な地震の発生とそれに伴う津波の被害をどの程度想定し、対策を講じていたのか。主に数々の裁判で明らかになった事柄や各種の調査報告書を根拠に、大規模な地震が発生する可能性があり、特に福島第一原子力発電所津波対策が十分ではないことを知っていながら東京電力が対応を先送りにしていた事実を本書は詳細に明らかにする。これについては本書第2章で詳しく論じられるが、少なくとも2008年段階で、大規模な地震の可能性を認知した日本原電は東海第二発電所について津波対策を追加で行い、東北電力女川原子力発電所にかかわり大規模な地震津波への対策を報告書で言及しようとしていた。その東北電力に対して、自らが対策しないことが不自然になることから記述を変えるように東京電力が迫っていたというあたり、完全に「アウト」だろう。

 

各種の裁判では東京電力の責任を認める場合と認めない場合で結果は分かれている。社内の誰かの責任ということでは確かに明確にならないところはありそうだが、さすがに会社としての責任は免れそうにないことを本書は明確にしているように思う。

 

出典:https://www.amazon.co.jp/-/en/gp/customer-reviews/R34G1L9V2Y1O0V

 

 またネイチャーの社説は、原発はもはや脱炭素の切り札にはなり得ず、再生可能エネルギーが中心になると論じているとのこと。

 

 

 しかし、世界のエネルギー供給の流れを変えた東電原発事故を引き起こした日本政府は今なお原発にこだわっている。菅義偉が昨年の総理大臣就任時に打ち出した「2050年までに脱炭素社会を実現」とする目標でも前提とされているのは原発の活用だ。

 だが、自民党内、それも菅義偉の側近からさえも「脱炭素社会に原発は不要」とする意見が出てきているらしい。これを言っているのは秋本真利衆院議員。以下にブルームバーグの記事へのリンクのみ示す。

 

www.bloomberg.co.jp

 

 そうはいっても自民党政権ではすぐには変わらないとは思うけれども。

*1:但し、本文では「福島原発事故」との呼称も少なくないのが少し残念だ。