KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

モーツァルトには革命前夜の時代の空気をかぎとり、オペラで貴族が謝罪・破滅する物語を描いた先進性や、信念のためなら上に歯向かうベートーヴェン並の反骨心があった(高野麻衣氏)

 昨年10月末に突然かつてのモーツァルト熱を再燃させて現在に至るが、年度末でもあり、弊ブログのモーツァルト関連記事に一区切りをつけることにした。

 私は10〜20代の頃にモーツァルトの音楽にずいぶん嵌ったが、痛恨なことに当時の私は人間に対する関心が薄かったため、モーツァルトの音楽には興味があっても「人間モーツァルト」への関心があまりにも低かった。しかし、昨年来いろいろ調べてわかったことは、モーツァルトほど興味深い人生を送った作曲家はほとんどいないことだった。唯一比較できるのは14歳年下のベートーヴェンくらいではなかったか。そのベートーヴェンに関しては青木やよひ氏の本を読んだことがあったが、モーツァルトについては1984年に出た下記新潮文庫を読んだ程度で、この本もおそらく処分してしまって手元にはないと思う。

 

www.shinchosha.co.jp

 

 しかし、当然ながら世のモーツァルティアンは私のような迂闊者ばかりではなかった。たとえば高野麻衣さんという方が書かれた下記記事を読んで私はたいへん感心した。2017年に公開された英国/チェコ合作映画『プラハのモーツァルト 誘惑のマスカレード』を評した記事だ。私はこの映画の存在さえ知らなかった。

 

mai-takano.com

 

 以下一部を引用する。

 

アマデウス』やあまたの「音楽家を身近に」キャンペーンによって、女好きでちょっと下品な変わり者のイメージが打ち立てられてしまったモーツァルト

だが、私はそれよりも、革命前夜の時代の空気をかぎとり《フィガロの結婚》や《ドン・ジョヴァンニ》(=貴族が謝罪・破滅する物語)を描いた先進性だとか、そうした信念のためなら上に歯向かうベートーヴェン並の反骨心だとか、それでも音楽にはエレガンスを貫いたある種のダンディズムだとか、そういう「モーツァルトの素顔」がもっと、広く知られるべきと思っている。

そして、そういうモーツァルトと変わり者のモーツァルトのあいだにあるギャップにこそ、この音楽家の魅力は詰まっていると思う。バーナードのモーツァルトは、それを体現していた。

この、迷子のような表情を浮かべた彼を見たとき、「ああ、これがモーツァルト」という天啓が聞こえたほどだった。

URL: https://mai-takano.com/?p=38

 

 まさにモーツァルティアンの鑑! これほど心から共感できるモーツァルト評には出会ったことがない。それほど強く印象に残る文章だった。先進性や反骨心だけならベートーヴェンにはあるいは勝てないかもしれない。しかし「それでも音楽にはエレガンスを貫いたある種のダンディズム」、そうだ、それがモーツァルトなのだ。だが後者だけ見て前者が見えない人たちが多すぎる。この記事を書こうとして、そういえばチャイコフスキーに『モーツァルティアーナ』という題の管弦楽組曲があったよなあと思い出して調べたら、Wikipediaチャイコフスキーモーツァルトをわかっていなかったと批判した文章があったのを見つけて、チャイコさんには悪いけれども溜飲を下げてしまったのだった。以下に引用する。

 

『モーツァルティアーナ』には「過去を現在の世界に」再創造したいという願いを込めたのだと、チャイコフスキーは出版社のユルゲンソンに書き送っている。しかしながら、イーゴリ・ストラヴィンスキーが行ったように自らの様式で音楽を作り変えることはせず[注 2]モーツァルトの楽曲を補強することもなかった。とりわけ、後の時代から見た際にチャイコフスキーが目的を果たし損ねたと感じられるのは、第3曲の「祈り」(Preghiera)である。彼はモーツァルトの楽曲を直接使わず、フランツ・リストモーツァルトの音楽を独特な方法で扱った『システィナ礼拝堂にて』S.461という作品を素材として用いた。その結果、今日ではモーツァルトが書いた清澄かつ繊細な原曲の扱いとしては、あまりに感傷的で華美であるという評価が一般的となってしまったのである[8]

 

ジグ」と「メヌエット」の書法は効果的である。しかし、これらを開始の2曲に選択したという事実からは、チャイコフスキーも当時の人々の多くと同じように、モーツァルトの軽妙な面と深遠な面の区別が十分につかなかったのだと考えることができる。最終の変奏曲ではモーツァルトがこの主題を用いて探究した点のいくつかについて、チャイコフスキーは特徴的な色鮮やかな管弦楽法によって描き出すことに成功している。それでもなお、モーツァルトが深みを持つというよりむしろバロックの可憐さを象徴するものとして立ち現れるのである。一見するとモーツァルト音楽の真の力量や多様性にチャイコフスキーの目が向いていない様に見えることの原因は、彼の心理状態が沈みがちに過去を振り返り、それを失われた純粋さや至福と結び付けずにおれなかったという点に求められるのかもしれない。このため、彼は単純に感傷的な視点へと避けがたく傾いていったのである[9]

 

URL: 組曲第4番 (チャイコフスキー) - Wikipedia

 

 弊ブログによくコメントを下さる片割月さんとのやりとりにも書いたことだが、私も昔からモーツァルトベートーヴェンとの断絶よりも連続性に関心があった。しかし『フィガロの結婚』や『ドン・ジョヴァンニ』を「貴族が謝罪・破滅する物語』ととらえてそれを評価する視座など持ったこともなかった。最近になって水谷彰良氏が2004年に出したサリエリ(サリエーリ)の伝記を読んで、王侯貴族に引き立てられて不満を持たなかったサリエリには持ち合わせがなかった毒が『フィガロの結婚』には込められていて(それも台本作家のダ・ポンテがいったん消した毒をモーツァルトが復活させた)、それがオペラが後世から評価される理由だろうという意味のことが書かれているのを読んで、自らの不明を恥じたのだった。もっとも吉田秀和NHK-FMの番組でもモーツァルトはなぜ明るい『フィガロの結婚(K492) を書きながらそれと並行してハ短調のピアノ協奏曲第24番 (K491) を書いたのだろうかなどと言っていた。

 

モーツァルトの「かなしさの疾走」は、映画後半にかけて急激に高まっていく。 

 

本作のおもしろさは、モーツァルトが探偵役を務めるミステリーでもあることだ。ある父親と娘を襲った悲劇—―そしてもうひとつの悲劇を線で結び、証人たちから話を聞き、真実を解き明かしていくモーツァルト

 

そして、元凶であるサロカ男爵(=貴族)を断罪するため、この名探偵(=平民)にできるのはペンを執ることのみ。墓地にそびえる石像を見つめるモーツァルトのなかに、《ドン・ジョヴァンニ》の主題が降りてくる一連のシークエンスは必見だ。

 

URL: https://mai-takano.com/?p=38

 

 へえ、そんな映画なのか。それは是非一度視聴してみたい。

 

ドン・ジョヴァンニ》に新しい解釈が加わったことも、大いなる収穫だった。

ここ数十年はやはり『アマデウス』の影響か、「騎士団長殺し(=父殺し)」をした大罪人が地獄に堕ちるという《ドン・ジョヴァンニ》の筋書きに、ステージパパ・レオポルトに逆らったモーツァルト自身の後悔を読み解くのが定説のようになっていた。前述の村上春樹の小説も、この父殺しとのリンクが指摘されることが多い。

しかし、真相はわからない。サロカ男爵の事件はもちろんフィクションだが、同じように貴族の横暴への怒りがあったかもしれない。もっと新しい、隠された事件があったかもしれない。歴史に定説なんかないのだ、とあらためて思わされる。

URL: https://mai-takano.com/?p=38

 

 「ステージパパ・レオポルトに逆らったモーツァルト自身の後悔を読み解くのが定説のようになっていた」とは聞き捨てならない話だ。モーツァルトドン・ジョヴァンニを自らに重ね合わせていた可能性ならあると思うが、モーツァルトはオペラの主役であるドン・ジョヴァンニと同様、レオポルトに逆らったことを後悔など絶対にしなかったはずだと私は確信している。そもそもレオポルトこそ、コロレド大司教マリア・テレジアと並ぶモーツァルトの生涯における三大障害物の一つだったではないか。モーツァルトはあのように生きるしかなかったのだ、と私は思う。

 ところで先日その『ドン・ジョヴァンニ』のDVDを視聴しながら、モーツァルトは書きながらドンナ・アンナに姉のナンネルを重ね合わせていたのではないかと思った。レオポルトはヴォルフガングに背かれたあと愛情の対象をマリア・アンナ(ナンネル)に移し替え、それがナンネルの結婚を遅らせた上、彼女を生涯ザルツブルクに縛りつける原因になったのではないか。モーツァルトとコンスタンツェの結婚をレオポルトもナンネルも喜ばず、1778年の母アンナ・マリアの死をヴォルフガングのせいにしたレオポルトの悪影響も受けたか、あれほど仲の良かった姉弟モーツァルトが『ドン・ジョヴァンニ』を書いた頃にはすっかり疎遠になっていた。ヴォルフガングは姉の結婚式には出席せず、父の死に目にも会わなかったが、後者はナンネルがヴォルフガングに知らせなかったからだとも言われる。そしてヴォルフガングの葬式にもナンネルは出なかった(コンスタンツェも体調不良だかで出なかったとされる)。このようにモーツァルトの死に方は悲惨だったが、真に地獄に落ちるべきは彼よりもレオポルトではなかったかと私などは思うのである。

 そういえば先日CDを整理していたら、一枚も持っていなかったと思われるレオポルト・モーツァルトの作品が収められたCDが出てきた。それはウィントン・マルサリスがレイモンド・レッパード指揮イギリス室内管弦楽団との協演で1983年に録音したハイドンやフンメルらのトランペット協奏曲集で、ハイドンの名曲の直後にレオポルトの作品が収められていたのだった。出谷啓氏の解説には下記のように書かれている。

 

彼は有名なヴァイオリンの教則本を残しているが、現実的で計算高かった性格からか、その作風はむしろ保守的で、さまざまな種類の作品を書いたが、フランス・スタイルのロココ趣味の香りをうかがわせている。

 

 抜群のインテリにして音楽理論にも精通したレオポルトだが、作曲の才能は大したことがなかったらしく(とはいえヴォルフガングの少年時代の交響曲では、父子のどちらが作ったかで意見が分かれるレベルの作品を書くことはできた。だがおそらくは保守的な性格ゆえにその先には進めなかったのだろう)、彼のトランペット協奏曲も全く印象に残らなかったのだった。

 

 もっともコンスタンツェやアロイジアを生んだウェーバー家もレオポルトがナンネルが嫌った理由も全くはわからなくはない怪しげな面は確かにあった。

 たとえば大作曲家のカール・マリア・フォン・ウェーバー(1786-1826)はコンスタンツェらの父方の従弟だが、私がふと気づいたのは「なぜ写譜屋の家のいとこの名前に貴族を表す『フォン』がついているんだろう」ということだった。これは彼が貴族を僭称していたからに違いないと思ってネット検索をかけたら案の定だった。下記はサンノゼピアノ教室講師の井出亜里氏が書いた記事へのリンク。

 

jweeklyusa.com

 

 以下引用する。

 

 子供を大音楽家にしたいあまり教育に力を入れすぎ、害にもなる親がいます。古くはベートーヴェンの父ヨハン。記憶に新しいのはマイケル・ジャクソンの父ジョゼフ。今月は、彼らに劣らぬ迷惑親父に翻弄された作曲家、カール・ウェーバーをご紹介します。

 

 “魔弾の射手”や“舞踏への勧誘”で有名なウェーバー。1786年11月18日、ドイツでウェーバー家の三男として生まれます。病弱で、小児麻痺を患い片足が不自由でした。フルネームはカール・マリア・フリードリヒ・エルンスト・フォン・ウェーバー“フォン”は貴族を表す称号ですが、ウェーバーの家系は貴族ではありません。父フランツは1600年代に先祖が男爵に叙せられたと言うのですが、どうも怪しい。フランツの兄はフリドリン・ウェーバーですし、父も同名のフリドリン・ウェーバー。“フォン”はどこにもありません。フランツのでっちあげだろうと研究者は見ています。男爵は男爵でもホラ吹き男爵の父を持つとどうなるか。見ていきましょう。

 

 ウェーバーの父フランツの夢はベートヴェンの父と同じものでした。それは「第二のモーツァルトを生み出し一攫千金」。自身も音楽家だった父親です。名声と富は勿論、もう一つ、強力な動機がありました。姪の結婚相手がモーツァルトその人だったのです。つまり、兄の娘がアマデウスモーツァルトの結婚相手。あの悪妻として名を馳せたコンスタンツェです。兄には負けられぬ。モーツァルトに続けとばかりに長男次男をハイドンに弟子入りさせますが、双方神童には程遠い。そこへ生まれた三男カール。是が非でも大音楽家にしなければならぬと一層の音楽教育を施しました。学校へは行かせず、著名な音楽家に次々と弟子入りさせたのです。それが実ってカールは貴族の家に招かれる演奏家になりました。

 

美しいバリトンヴォイスは戻らない

 

 17歳のカールは社交界でも大人気。ピアノもギターも達者な上、美しいバリトンの歌声で上流社会に馴染んでいきます。一方、オペラを作って発表していたものの、こちらは鳴かず飛ばず。しかし貴族の後ろ盾も強力になり、劇場の楽長に任命されました。    
 悲劇が起こったのは20歳の時。訪ねた友人が瀕死のカールを見つけたのです。銅板印刷の研究をしていた父が、残った硝酸(医薬用劇物)をワインの空き瓶に入れ、棚に置きっぱなしにしていたのでした。知らずにラッパ飲みしたカールは喉から胃までを焼かれ、虫の息。病院で命は取り留めたものの、美しいバリトンは失われてしまったのです。

 

父により投獄、追放、夜逃げ旅

 

 健康を著しく害し、楽長の座を追われたカール。次の仕事は公爵家の記録係でした。音楽を仕事にできない不満はあっても2年間、実直に勤務。公金も任されるようになり、それを家に置いていたある日、嗅ぎ付けたのが父親です。借金取りに追われ、金の無心に訪れた息子宅で大金を発見。これは良い好都合と、持ち逃げしました。結果、カールは投獄され、その後父子そろって国外追放。罪人として公国を追われてしまったのです。

 

死してなお迷惑かけるダメ親父


 1810年、遂に好機が訪れました。オペラ“シルヴァーナ”がフランクフルトで大成功。名声を得たカールは各地への演奏旅行で1812年までにかなりの財を得ました。懐も暖かくなり、ほっと一息ついたところへ父死亡の通知。しかしタダで死なないダメ親父。莫大な借金を遺しました。借金取り達は一番余裕がありそうな三男の作曲家に群がります。カールは借金返済でスッカラカン。おまけに演奏旅行中。
 あわや異土の乞食か、と思われたその時、救いの手が差し出されました。プラハに指揮者として招かれたのです。ここで3年間、指揮者、芸術監督、ピアニストとして必死に働きました。

 

父親を反面教師に財のこす

 

 30歳で結婚、二児をもうけると、創作意欲はますます高まります。1819年にピアノ曲“舞踏への勧誘”、翌年にオペラ“魔弾の射手”を作曲。1821年にオペラが初演されるや、空前絶後の大成功。この演奏を聴いて、ワーグナーベルリオーズが作曲家を志したと言われています。しかし名声の代償は健康でした。この頃、体の異変を覚えたカールは結核に侵されたことを知ります。それでも1826年2月、単身イギリスへの演奏旅行を決意。オペラ「オベロン」の作曲依頼があったからですが、実は、病身を妻子から隔離し、彼らにまとまったお金を遺すためでもあったのです。
 4月12日の“オベロン”初演は成功し、病躯に鞭打って自らタクトを振り続けること11回。約2か月の契約は6月4日に完了しました。明日は帰国という6月5日の夜、精魂尽き果てたカールは、一人ロンドンで客死したのです。享年39歳。
 自分の父とは異なり、家族のために生きた彼の遺骨は18年後、ワーグナーの尽力により遺児マックスと共にドレスデンに戻り、今もそこで眠っています。

 

URL: https://jweeklyusa.com/8273/columns/sanjosepiano/

 

 ウェーバーの代表作『魔弾の射手』は1975年夏休みに放送されたNHK-FMのクラシック入門番組で序曲を初めて聴き、1982年頃に同じくNHK-FMでハイライトが放送された(おそらくカルロス・クライバー指揮)のをエアチェックしてよく聴いていた。なかなか良い曲が多いと思って結構気に入ったが、ここ40年ほどは聴いていない。CDも「舞踏への招待」が収められているのを1枚持っているかどうかというのと、ホルンの小協奏曲だったかリヒャルト・シュトラウスの1番と2番の協奏曲の余白に入れたのを持っている程度。しかも後者は名曲とは決していえない。あと、昔ジャズのベニー・グッドマンクラリネット協奏曲の1番2番を吹いたのを聴いたことがあるが、こちらはそこそこ良い曲だった。しかしこのジャンルにはモーツァルトの作品があるので、もちろんそれとは比較の対象にならない。そうそう、リヒテルが彼のピアノソナタの3番だったかを弾いたCDも持っているが、あまり印象に残っていない。組み合わされていたハイドンベートーヴェンソナタが目当てで買ったCDだった。

 彼の人生について、硝酸を誤飲して声が出なくなったことと、ドイツ・オペラの草分けとしてワーグナーに硝酸もとい称賛されたことは知っていた。ナチスの時代にはドイツで『魔弾の射手』が頻繁に上演されたものの、それが災いしてかどうか、戦後はあまり上演されなくなったとも聞く。しかし引用文に書かれているような苦難の人生だったとは全く知らなかった。

 それにしてもベートーヴェンの父親もそうだが、ウェーバーの父親は本当にどうしようもなかったらしい。こんな人がアロイジアやコンスタンツェの叔父だったのだ。これではレオポルトやナンネルの気持ちもわからなくもない。しかもコンスタンツェには、次回(とりあえずのモーツァルトシリーズ最終回)の『魔笛』編でも取り上げることになると思うが、『魔笛』に関する資料(史料)を湮滅した疑惑もある。この点ではベートーヴェンの不肖の弟子、シンドラーと張り合えるのではないか。最近モーツァルトについていろいろ調べている過程で、残念ながらコンスタンツェの株はかなり下がってしまったのだった。ハ短調ミサのクリステ・エレイソンや、なんといってもエト・インカルナートゥス・エストを歌ったらしいというのがコンスタンツェの好印象のポイントだったのだが、歌唱の技巧にやや難点があったとされる彼女はこれらを歌ったのではなく第2ソプラノだったのではないかとの説を高橋英郎氏が唱えていたらしいことを知って(まあ氏の説が正しいかどうかは知らないが)幻滅したという要因もある。

 でもまあウェーバーモーツァルトベートーヴェンとはまた全然違う苦悩の人生を送ったのだった。こうしていろいろ知っていくと、作曲家に短命の人が多いのもむべなるかなと思う。今回はウェーバーに同情したところで記事を終える。