KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

「いつも何かを欲しがっているということは、あなたを不幸にする」と言ったモーツァルト弾きのピアニスト、マリア・ジョアン・ピレシュと、「業界を飼いならし、権力を手中に収めるという方法」をとった日本を代表するピアニスト中村紘子

 マリア・ジョアン・ピレシュ(1944-)というポルトガル出身の女性ピアニストがいる。もう引退したが、29歳だった1974年に日本のDENONレーベルにモーツァルトピアノソナタ全集をPCM録音したため、1970年代にNHK-FMで彼女の弾くモーツァルトがよくかかったのを覚えている。その頃は「マリア・ジョアオ・ピリス」と表記されていた。私は先年、ピレシュが1970〜80年代にフランスのエラートレーベルに録音した17枚組のCDを安売りで買った。内訳はバッハの協奏曲1枚、モーツァルトの協奏曲6枚とソナタ1枚、ベートーヴェンソナタ2枚、シューベルトソナタ2枚と連弾曲1枚、ショパンの協奏曲1枚と前奏曲及び珍しい作品14のクラコーヴィアク、それにワルツ集が各1枚(計2枚)、最後にシューマンの子どもの情景(トロイメライを含む)、森の情景(村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』に出てくる「予言の鳥」を含む)、その他を含めた1枚。残念ながら弊ブログに取り上げたモーツァルトの協奏曲第24番(ハ短調K491)と第25番(ハ長調K503)はいずれも録音されていない。やはりこの2曲はモーツァルトのピアノ協奏曲の中でもちょっと特殊な位置にあると思う。

 そのピレシュが引退直前の頃のインタビューに、先年亡くなった日本のピアニスト、中村紘子(1944-2016)との対比が書かれていて興味深かったので、それを紹介したい。といっても私はアンチ中村紘子の人間だったので故人へのdisりが多分に含まれることをあらかじめお断りしておきたい。

 

 以下引用する。まずピレシュ(ピリス)にインタビューした時の書き手の感想から。

 

ピリスさんがコンサートピアニストとしての活動からの引退を決めたその主な理由は、74歳という年齢を迎える今、常にストレスに押しつぶされかけながら生きなくてはならないコンサートピアニストとしての生活から離れたいからということ、そしてその時間を、社会や人のためになるクリエイティブな活動のために使いたいから、ということのようです。
根本にあるのは、記事のタイトルにもしましたが、「手に入れた何かを自分だけのものにとどめておけば、それはすぐ役に立たないものになってしまう」という考えでしょう。それは経験なのかもしれないし、持って生まれた才能のことかもしれない。もちろん生き方や価値観は人それぞれですが、自分はなんで生きてるのかなーと思った時の一つの答えはここにあるかもしれないですね。

 

そんなピリスさんが真剣な表情で語っていたことのひとつは、やはり今の音楽業界についての懸念でした。音楽やピアノを通して自分は世界を知った、それだけが音楽をする目的だというピリスさんにとっては、戦後、芸術と商業主義が結びついて勢いを増していったアーティストを取り巻く環境が、どうにも居心地が悪かったということのようです。(資本主義社会では、もうだいぶ大昔からそうだったのではないかという気もしますけど、度合いが増しているのは確かかもしれません)

 

(中略)

 

あとはピアノや音楽の話題に加えて、やっぱり人生についての質問をしたくなってしまって。文字数の都合で記事に入れられなかったくだりの一つをご紹介したいと思います。
人間とは欲深い生き物で、安定や成功を手に入れることに気をとられていると、いざそれを手に入れても、結局もっともっとと次の何かを求めることになってしまう。永遠に満足しないことは、向上心があるということでもあるけど、あんまり幸せじゃないことのような気もするんですが。
そんなことを言ったら、ピリスさんはこう言いました。

 

いつも何かを欲しがっているということは、あなたを不幸にすると思います。いつも何かに落胆するし、もっと欲しいと思い続けているうちに他人と協力し合わなくなる。そのままの人生を受け入れるという心構えさえ自分の中に持つことができれば、一定の幸せというものの存在を感じて生きることができると思います」

 

ピリスさんはきっと、権力欲のようなものがないのに、才能ゆえに注目が集まって、そのはざまで悩み続けた人なのでしょうね。
でも、それにまつわる問いを尋ねると、少し困った顔をしながら今の正直な気持ちを話してくれるわけで、本当に純粋な(そしてちょっと難しい)方なんだと思います。

 

URL: http://www.piano-planet.com/?p=2641

 

 このピレシュの姿勢には共感が持てる。しかもなんという偶然か、赤字ボールドにした部分は読み終えたばかりのさる小説の重要なモチーフの一つなのだ。

 しかし記事の著者は、誕生日がピレシュと2日違いの中村紘子(中村の方が遅い)のあり方はピレシュとはあまりにも対照的だというのである。以下引用する。

 

そこで思い浮かんだのは、中村紘子さんのことですよ。

 

なにせ評伝を書いたばかりですから、その両極端な生き方についてまたいろいろ考えるわけです。紘子さんの場合は、業界を飼いならし、権力を手中に収めるという方法で(もちろんその背後に相当な努力や辛い思いがあったわけですが)、業界のために、自分のためにやりたいことをやっていった人でした。

 

評伝の中でも、紘子さんが20歳のときに社交の女王になろうと決意したと思われる瞬間のエピソードはじめ、「初対面の人には最初にガツンとやる人だと思う」という某関係者の証言も紹介しています。
「自分の持てるものを社会に還元したい」「若い人を育てたい」という同じ目的があっても、こんなにもやり方が違うんだと改めて思いますね。それも、この二人は、どちらもブレることなく、一生通してそのやり方を貫いていった女性たちなわけで。

 

それで、ふと気づいたら、二人は同年生まれ、誕生日2日違いでした。
第二次世界大戦終結前年、遠く離れた二つの国に生まれて、同じ人気者のピアニストとして活躍しながら、全く異なる生き方をした二人。それは、かつて世界各地に植民地を持ち、戦後のナショナリズムの動きの中でそれらを手放していったポルトガルと、アメリカの占領下でどんどん価値観を変化させられていった日本という、育った環境の違いなのか。いや、多分関係ないと思いますけど。個人差ですよねきっと。

 

URL: http://www.piano-planet.com/?p=2641

 

 そうか、中村紘子って権力志向が強かったのか。だから私は彼女がずっと嫌いだったのかもしれないと思った。私のアンチ中村紘子歴は長く、1970年代の中学生時代には既に彼女の演奏を嫌っていた。メインブログに公開した彼女の訃報記事でも下記の憎まれ口を叩いたほどだった。

 

kojitaken.hatenablog.com

 

 以下引用する。

 

 あいにく私はその「得意とした」という中村氏の弾くショパンに感心したことは一度もなかった。「文才も発揮」の件については、「中村紘子のヒモ」との陰口も叩かれた夫君がゴーストライターではないかとの風評があるが、中村氏の「著書」そのものを読んだことがない私としては、ありうる話だよなあとは思うものの、風評の真偽は判断できない。

 あとこの人の印象を悪くしたこととして、1982年にプロ野球××阪神の「伝統の一戦」が1000試合目を迎えたことを記念して放送されたNHKスペシャルに、中村氏が「××ファン代表」として出演していた動画を、数年前にネットで見てしまったからだ。燕党である私にとって、(燕党のみんながみんなそうでもあるまいが)「伝統の一戦」ほど気分の悪いものはない。昨夜まで甲子園でスワローズに3タテを食わせた阪神(おかげでスワローズはまた最下位に落ちた)もたいがいだが、××は論外なのだ*2。その番組で××をほめたたえて阪神をこき下ろす中村氏がまた憎たらしかった*3

 でもまあ、そういったことどもはもう水に流そう。心より故人のご冥福をお祈りします。

 

URL: https://kojitaken.hatenablog.com/entry/20160729/1469750015

 

 中村紘子の訃報を報じるテレビ各局の報道番組が流したのが、判で押したようにショパンの作品18、変ホ長調の「華麗なる大円舞曲」だったことに辟易した記憶も鮮烈だ。偏見かもしれないが、あれは名作揃いのショパンの音楽の中ではつまらない曲の筆頭格ではないかとの偏見を私は持っているため、中村紘子にはふさわしいなと皮肉に思ってしまった。

 さらにネット検索をかけると、このブログでも2021年10月23日*1に公開した下記記事の中でその件について中村紘子を少しdisっていたことがわかった。引用は省略する。

 

kj-books-and-music.hatenablog.com

 

 あとは昨年前半の坂本龍一死去の前後にバッハの音楽にはまっていた頃、中村が著書の中で旧ソ連の名女性ピアニスト、タチアナ・ニコラーエワの容姿をdisっていたらしいことを知り、中村が持つ差別性(ルッキズム)に呆れたこともあった。これについて書くのは今回が初めてだと思う。

 

ameblo.jp

 

 以下引用する。

 

タチアナ・ニコラーエワ(19241993旧ソ連のピアニスト。

 

私は中学生の頃、

中村紘子氏の名著「チャイコフスキー・コンクール」で

ニコラーエワという名前を知りました。

 

この本は面白いんですよ。

 

チャイコフスキー・コンクールという

4年に一度開催される、世界的なピアノコンクールの舞台裏を

審査員である中村氏の目を通して、実にリアルに、ユーモアも交じえて

描いたノンフシクション作品です。

 

中村氏からみた、他の審査員たちについての描写も

本の中にはちょこちょこと出てくるんですが、

ニコラーエワに関しての描写が、妙に子供心に印象に残りました。

 

タチアナ・ニコライエヴァは、バッハの研究家として日本でも知られたピアニストである。

小柄ながらいかにもロシア女性らしく堂々とした体型で、上唇のうえにうっすらとひげがある。

 

ひげがあるんかい、と。

 

URL: https://ameblo.jp/abechan-piano/entry-12380336474.html

 

 私は昨年夏にショスタコーヴィチの「24の前奏曲とフーガ」作品87を、定評のあるニコラーエワ盤ではなく、ジャズピアニストのキース・ジャレットが演奏するCDを買って聴いたのだったが、おそらくその前後にネット検索でニコラーエワについて調べていた時に上記ブログ記事に行き当たり、またしても中村紘子に反感を持ってしまったのだった。

 なお上記ブログ記事にはニコラーエワが弾いたバッハの平均律曲集の話が出てくる。彼女は1971年と1984年にバッハの平均律を二度録音しているらしいのだが、そのうち一度目の録音からの抜粋が1976年か77年にNHK-FMのクラシック・リクエスト、これは確かチェコ音楽びいきの藁科雅美氏(1915-1993)が解説を務めていたと記憶するが、その番組でニコラーエワの演奏がかかった。

 

 その1971年盤の感想を上記ブログは下記のように書いている。

 

とにかく立派です。ビクともしません。ブレません。

ロシアの大地に根差した巨木を連想させます。

太い。

 

そして、基本やはりレガートなんですね。

ノンレガートも必要に応じて使いますが、

ペダルを充分に使った、粘り気ある深い明確なタッチです。

 

やはり、そういった特質が活きる曲でこそ真価を発揮します。

1巻第4嬰ハ短調のフーガなんか、音の層が何層あるのかという具合に

圧倒されます。ピアノが底鳴りしてます。

これぞロシアンピアニズムの底力。

 

 

あれ、しかしなんかが違う。

 

おばあちゃんが孫を可愛がるように慈しんで弾いてた1984年のと、違う。

 

それこそ、なんか、ひげがありそうな感じがする・・・・

 

URL: https://ameblo.jp/abechan-piano/entry-12380336474.html

 

 ひげ云々はともかく、ニコラーエワの演奏がたいそう「立派」だったことは確かだ。第1巻の第4番嬰ハ短調平均律曲集の中でも屈指の大名曲なので、藁科氏の番組でもきっとかかったに違いない。この曲は、前奏曲がどっかの民放局が昼ドラのテーマ曲に編曲されて使われていたような繊細な音楽なのに、フーガは「十字架の形をしている」と指摘される4音動機を主題とする5声のいかめしい音楽で、その対比がすごいのだが、後年、20代半ばにグレン・グールドにはまることになる私は、正直言ってニコラーエワの演奏には「立派すぎて」親しめなかったのだった。

 グールドで思い出したが、昨日(2/3)公開された社会学者のsumita-mさんの下記記事が興味深かった。

 

sumita-m.hatenadiary.com

 

(前略)「脱構築」は「する」のではなく「起こる(happens)」。それは、或るテクストが読まれる(解釈される)ことを通して、今まで読まれていた(解釈されていた)のとは別様の何ものかを開示することだといえる。ここで読むことは(重要ではあるけれど)一契機でしかなく、誰々(蓮實重彦上野千鶴子ユーミン斎藤美奈子)が脱構築するのではなく、テクストが自らを脱構築する、或いはテクストと読み手の間で脱構築が発生するとしか言えない*7。また、脱構築の解く/解かれるという側面に注目するなら、脱構築において解かれるのは、読み手の側の従来的な読み方でもある。また、なんちゃら理論を当て嵌めて、論破してやったぜ! というのは脱構築とは全く関係ないことも明らかであろう。レイプとセックスが区別されなければいけないように。

 

蓮實さんや上野さんのことは脇に置いて、ユーミンに絞りたい。先ず、音楽と「脱構築」という主題を考えなければならない。音楽において「脱構築」という事態はどのようにして生起するのか? 「脱構築」が読み(解釈)において生起するのであれば、音楽においては、他人の曲を演奏することを通じて、生起すると言えるかも知れない。例えば、クラシックの演奏家は、常に(例えば)ベートーヴェンの、モーツァルトの、或いは(狭義のクラシック以前ではあるけど)バッハの楽譜を読み、具体的な音へと変換するという課題に直面している。それを通じて、楽曲の新たな側面が開示されるということもあり得る(グレン・グールドのバッハとか)。しかし、ユーミンに関して、そのような仕方で「脱構築」が生起するというのはかなり考えにくいのだ。何しろ、荒井由実としてであれ松任谷由実としてであれ、ユーミンが他人の曲をカヴァーしているのを聴いたことはない。「七〇年代的な四畳半貧乏フォーク」をカヴァーして、その新たな側面を露呈させたということなんか(多分)ない。まあ、「四畳半貧乏フォーク」というクリシェから具体的に想像できるのって、かぐや姫、或いはせいぜいさだまさしぐらいしかないのだけど、ユーミンと「 四畳半貧乏フォーク」との関係は、脱構築でも換骨奪胎でも(ヘーゲルマルクス的な)止揚でもなく、お互いのファンは被ってないよね、という感じのものであったわけだ。(後略)

 

URL: https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2024/02/03/142105

 

 グールドのバッハ演奏によって「楽曲の新たな側面が開示された」典型例が1955年と81年のゴルトベルク変奏曲の演奏だ。グールドは平均律曲集もとても面白かったが、今世紀に入ってからは私が一番多く聴くバッハの平均律はグールドではなくフリードリヒ・グルダになった。でもレーザーディスクで視聴したグールドによるバッハのフーガ の解説は感動的だった。初めて見たのは1994年の年末だったが、今でも忘れられない。ただ今ではLDのプレーヤーは押し入れに入れてしまって視聴できないけれど。あのLDでは第2巻第9曲のホ長調のフーガを解説していた。最初の4音がモーツァルトの「ジュピター」主題と同じド−レ−ファ−ミで始まる曲だ。あの曲も典雅なプレリュードと古風なフーガとの落差が大きく、グールドの解説を視聴するまではプレリュードは好きだけれどフーガはやや苦手だったが、グールドはその課題を解決してくれた。そういえばモーツァルトのピアノ協奏曲第24番に対してもグールドの演奏に接して開眼したのだった。

 あと、近年のモーツァルトの演奏史においてはではなんといってもピリオド楽器古楽器)による演奏の普及が革命的だったと思う。少なくとも今の私の感覚では、特にメヌエットの楽章でのワルターベームカラヤンのやたらと遅いテンポにはもうついていけない。ピリオド楽器によるメヌエット楽章の演奏を聴くと、モーツァルトメヌエットベートーヴェンスケルツォとの距離はぐっと縮まる。アーノンクールによる第40番のスケルツォはその極端な例だろう。なお第40番のフィナーレの第1主題をベートーヴェンは第5交響曲スケルツォに引用している(と言って良いだろう。リズムは異なるが旋律の音程は同じだ。調性は5度違うけど)。

 現在でもYouTubeに音声が公開されている1980年代前半の吉田秀和(1913-2012)解説の番組の頃は、まだベームカラヤンの演奏ばかりが番組に取り上げられているが、吉田は1980年代後半以降の「私の視聴室」ではピリオド楽器によるモーツァルトの演奏をずいぶん紹介するようになった。そして吉田は1990年代初頭には下記の文章を書いている。

 

(前略)モーツァルトというと、最近はもう古楽器による演奏が興味の中心になってしまった。それも、たしかに理由のあることである。コープマン、ブリュッヘン、ホグウッド、それから、この分野で先鞭をつけたともいってもいいアーノンクールたちによる演奏によって、つい昨日まではワルターベームカラヤン等々のモーツァルトをきいていた私たちは、正に音体験の革命を迫られているといってもいい。

 

吉田秀和『この一枚 Part2』(新潮文庫, 1995)409頁)

 

 ところが上記の文章はピリオド楽器によるモーツァルトについて書かれた文章ではない。なんと、この記事の冒頭に取り上げたマリア・ジョアン・ピレシュ(ピリス)がヴァイオリニストのオーギュスタン・デュメイと協演したモーツァルトの4曲のピアノとヴァイオリンのためのソナタト長調K301、ホ短調K304、変ロ長調K378、ト長調K379)のCD評に含まれる文章だ。上記引用文の前後の文章を以下に引用する。

 

 とにかく、このCDは、私には驚きであった。(中略=この部分に上記引用文が続き、その直後に下記の文章が続く=引用者註)でも、モーツァルトには、このピリスとデュメイがとり出してみせてくれたような「新しさ」も、埋蔵されていたのである。

 

吉田秀和『この一枚 Part2』(新潮文庫, 1995)409-410頁)

 

 実は1991年に発売されたこのCDを私は持っているが、そんなに聴いていない。モーツァルトのヴァイオリンソナタというとヒロ・クロサキとリンダ・ニコルソンによるピリオド楽器を用いた演奏の4枚組(初期作品を除いた16曲を収録)がすっかり気に入って、モーツァルトのヴァイオリンソナタを聴く時はこればかりかけていたのだった。たとえば私がこの分野でのモーツァルトの最高傑作だと思うイ長調K526など、現代楽器による演奏だとピアノが重すぎていけない。この「ピアノが重すぎる」というのは、実は1961年の吉田秀和ベートーヴェンのクロイツェルソナタを指して評した言葉だが、私見ではそれは事実上のモーツァルト最後のヴァイオリンソナタであるK526にも当てはまると思う。そしてそのクロイツェルソナタについても、私の一推しの演奏は2010年にヴィクトリア・ムローヴァのヴァイオリンとクリスティアンベザイデンホウトフォルテピアノで演奏されたピリオド楽器による演奏だ。

 でもいま聴き直したら、もしかしたら吉田秀和が書いたようにピレシュとデュメイの協演からも新しい発見があるかもしれない。是非聴き直してみようと思った(この文章を書いている時点ではまだ聴き直していない)。

 どさくさに紛れて、中断しているトルストイの「クロイツェル・ソナタ」のシリーズ最終回で取り上げるつもりだった演奏を挙げてしまった。これを書いたからもうあのシリーズは未完のまま続きを書くのをやめようかとも思う。第6ヴァイオリンソナタイ長調作品30-1の終楽章としてベートーヴェンが予定していた音楽を「クロイツェル」に転用したところから出発したあの曲は、第1楽章が作品23のイ短調の第4ソナタ、第2楽章が作品24の有名なヘ長調の「春」のソナタと同じ調性をとることから、4番からもとの6番までの3曲を深化させてまるまる1曲に収めたのが「クロイツェルソナタ」ではないか、とかそんな仮説を書こうと思っていたのだが、そんなマニアックな話は誰にも関心を持たれないに違いないと思って記事を書き続ける気が起きなくなったのだった。その第4と第5のソナタに、第7のハ短調作品30-2を組み合わせたCDをムローヴァは2020年にシリーズ第2弾として出していて、これも良い。ただピアニストが第1弾とは違い、アラスデン・ビートソンという人だ。このあたりは3人の子の父親が全て異なるというムローヴァらしい。あと第1,2,6,8,10番の5曲が残っているが、ムローヴァはシリーズ第3弾をまた別のピアニストと組んで出したりするのだろうか。

 次回はモーツァルトが子どもの頃に作曲したオペラの話をしようと思っている。その前にそのオペラを視聴しなければならないけど。

*1:スワローズが6年ぶりのリーグ優勝を決める3日前だった。