KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

ショパンコンクール、「日本人最高位受賞」には関心がないが受賞者の髪型を「サムライヘア」と呼ぶのは止めてほしい/「2番を弾いた優勝者」になり損ねたマルタ・アルゲリッチ

 5年に1度開かれるショパン国際ピアノコンクールは日本でなぜか人気がある。すぐに頭に浮かぶのはスタニスラフ・ブーニンで、彼が優勝した1985年のショパンコンクールの様子がNHK特集で放送されたことが大きく影響し、日本で大人気になった。コンクール開催当時19歳で若くて格好良く、演奏も豪快だったので大いにウケた。私もこのNHK特集は視聴していた。

 ブーニンは本場のヨーロッパではあまり評判が高くないが日本での人気は未だに高く、妻は日本人で自宅も日本にあるという。1年のうちどれくらいの期間を日本で過ごしているかは知らない。さすがに日本でのコンサートだけで生計を立てられるとは思えない。

 そのショパンコンクールが行われ、日本人演奏家が2位と4位に入ったという。あれ、5の倍数の年じゃないのにと思ったが、五輪と同じでコロナのために1年延期されたのだろうとはすぐに気づいた。調べてみたらその通りだった。次回は、これも五輪と同じで1年先送りするのではなく2025年に行われるらしい。

 私は2位の反田恭平の演奏も4位の小林愛実の演奏も聴いていないし、そもそもショパンコンクール自体、他のあまたあるコンクールと比較して特別なものだとも思っておらず、ましてや「日本人最高位」とか「日本人入賞者」などには全く関心がない。しかし今回ちょっと興味を持ったのは、下記のツイートを見たからだった。

 

 

 何が「サムライヘア」だよ。私が片仮名の「サムライ」で思い出すのは、沢田研二が腕章につけていたハーケンクロイツだ。その件は過去何回も『kojitakenの日記』で取り上げた。

 

kojitaken.hatenablog.com

 

 証拠の画像も残っている。但し、下記ツイートから張られたリンクの動画は再生できない。

 

 

 本論に戻る。ショパンの音楽にはそれなりに馴染みがあるが、私がショパンで一番良いと思うのがポーランドの民族舞曲であるマズルカであり、その他では作品40番台以降の後期(といっても30代)の内省的な作品が好きだ。一方、ショパンコンクールで候補者が必ず弾かなければならない協奏曲や、優勝者や入賞者がよく弾きたがるワルツのうち初期の作品などは大した音楽だとは思わない。だから、1965年の4位入賞者・中村紘子の演奏が良いと思ったことは一度もなく、2016年に彼女が亡くなった時にテレビの訃報報道がよく流していたのが「華麗なる(大)円舞曲、つまりワルツの1番(作品18)または2番(作品34-1)という、私がショパンの作品のうちもっとも評価しない音楽ばかりだった時には、ああ、私とは縁のない演奏家だったんだなあと思っただけだ。なおどうでも良いが、中村紘子プロ野球・読売の熱心なファンだった。

 しかしショパンのワルツは中村紘子が愛奏したと思われる1番や2番のようなつまらない音楽ばかりではないし、コンクールで指定されている2曲のピアノ協奏曲にもそれぞれ良いところがある。というより、この2曲はベートーヴェンの同じジャンルの1番及び2番と似た関係にあって、ともに初期の作品だがあとに作られた1番の方が2番よりずっと構えが大きくて演奏効果もある。だから2人の大作曲家はあとから完成させた曲を第1番にした。私も2人のピアノ協奏曲の1番か2番かを選べと言われたら、ベートーヴェンでもショパンでも迷わず1番をとる。

 しかし、ベートーヴェンでもショパンでも「2番の方が好き」という人が少数ながら存在する。ショパンコンクールでも2番を選ぶ候補者がいる。しかし、2番を弾いて優勝した人がいたんだろうか。それが気になった。そこでネット検索をかけたところ、やはりいた。

 

note.com

 

 以下、「2番を選んだ優勝者」に関する部分を引用する。

 

「なぜ1番が多いのか」については、筆者などが説明するより、ピアニスト・文筆家でショパンコンクールの視察もなさっている、青柳いづみこ先生が、詳細に、かつ明快にまとめてくださっていますので、興味深い記事をご紹介します。

 

ondine-i.net


もちろん文章中、青柳先生のお考えの部分もありますが、事実としてご記憶いただきたいポイントは、

 

  • 1番と第2番では、実は「第2番」が先に作曲されている
  • 1番のほうが少し長く(事実)、内容も充実している(といわれる)
    ※第1番は40分強に対し、第2番は32分前後
  • 2番で優勝したのは、3回のヤコブ・ザークと第10回のダン・タイ・ソンのみ

 

という3点です。

ヤコブ・ザークはロシアのピアニストで、リヒテルやギレリスを教えたロシアの伝説的な名教師ゲンリヒ・ネイガウスが、この2人と並んで「私の最も優れた4人の弟子」(あと1人はヴェデルニコフ)の一人に挙げた名手です。演奏活動の傍ら指導も活発に行い、後年にはヴァレリー・アファナシエフエリソ・ヴィルサラーゼ、ニコライ・ペトロフ、ユーリ・エゴロフら、ピアノファンにはたまらない名手たちを育成しています。

ダン・タイ・ソンは、今回の審査員にも入っており、近年は演奏家としてだけでなく指導者としても高い実績を出し続けていることは、当連載でも何度も触れてきたとおりです。そのダン・タイ・ソンショパンコンクールで第2番を演奏しています。貴重な録音が、ショパン研究所のYouTubeにあがっています。

 

www.youtube.com

 

前述の青柳先生のコラムにもあるとおり、1番ほど多くはないものの、第2番を選択するピアニストは毎回現れますが、優勝することはなかなかありませんでした。コンテスタントたちももちろんそのことを知っているでしょう(誰が弾いたかまでは知らなくても、「第2番を弾いて上位に入賞するのは稀なこと」とは知っています)。

今回、第2番を選んだのは、アレクサンダー・ガジェヴ、マルティン・ガルシア・ガルシア、そしてイ・ヒョクの3。いずれも、すでに国際舞台で活躍し大きな国際コンクールでも優勝している名手たちです。つまり、この3人は「分かっていて2番を選んだ」可能性が極めて高いのです(本人に聞いてませんので分かりませんが・・笑)。この3人には、「第2番を弾いて描きたい世界」が明確にあるのだと思われます。

2番のことを調べていて、2018年にショパン研究所がはじめて行った「第1ピリオド楽器のためのショパン国際ピアノコンクールに行き当たりました。日本の川口成彦さんが第2位に入賞したことでも話題になった、新しい試みでした。(後略)

 

出典:https://note.com/ptna_chopin/n/nf81ae5a9afb9

 

 最後の「ピリオド楽器のための」というのは多少興味がある。というのは私自身、古典派の音楽の演奏ではピリオド楽器の方が現在の楽器より良いと考えているからだ。たとえばモーツァルトの「ピアノとヴァイオリンのためのソナタイ長調K.526は、現代楽器で聴くとピアノがうるさすぎるが、ピリオド楽器で聴くとピアノとヴァイオリンのバランスが絶妙で、ああ、これこそこのジャンルでモーツァルトが書いた最高傑作だと思わせてくれる。故吉田秀和ベートーヴェンのクロイツェルソナタ(前述のモーツァルトと同じイ長調のヴァイオリンとピアノのためのソナタ)でもピアノがうるさ過ぎると不平を鳴らしたが、これもピリオド楽器で聴くと両楽器のバランスが良くなる。

 ショパンの協奏曲ではどうなのだろうか。引用しなかった部分を読むと、6人のファイナリストのうち5人が2番を選択したとあるが、それなりの良さがあるのだろうか。残念ながら私は1番を差し置いてまで2番に惹かれる部分はないので何とも言えない。

 なお引用文からさらにリンクを張られている青柳いずみこ氏の文章も非常に興味深い。以下引用する。前回(2015年)のショパンコンクールに関する文章だ。

 

選曲の時点で勝負あり!?

 

第17回ショパン・コンクール、チョ・ソンジンとシャルル・リシャール=アムランの順位を分けたのは、協奏曲の選曲だったと言えよう。ショパンの協奏曲はいずれもワルシャワ時代、20歳前後の作品だが、1番の方が後に書かれ、より完成度が高い。2番は初恋の人への思いがあふれ、繊細な美しさが魅力だが、演奏時間が短く、難しいわりに効果が上がらない。

おまけに2番は縁起が悪い。過去のコンクールで2番を弾いて優勝したのは、第1回*1ヤコフ・ザーク(第2、第3楽章)と1980年のダン・タイ・ソンだけ。1990年の第3位(1位無し)の横山幸雄も、1995年の第2位(1位無し)のアレクセイ・スルタノフも2番のジンクスに阻まれた。とりわけスルタノフは、1989年クライバーン・コンクール優勝の大本命で、切々と訴えかけるような2番で聴衆を魅了したが、蓋を開けてみたら対照的に端正な1番を弾いたフィリップ・ジュジアーノと同率の2位だった。

1965年の覇者アルゲリッチも2番を用意していたが、周囲のすすめで直前に1番に変更したと伝えられる(それであのみごとな演奏というのは本当に驚かされる)。

いきおい、消極的な意味で2番を選択する人が多い。ダン・タイ・ソンはオーケストラとの共演経験がまったく無く、短いほうが楽だろうと2番を選んだ。横山も第17回のリシャール=アムランも、コンクールの時点では2番しかレパートリーに入っていなかった。

第17回の場合、81名の本大会出場者のうち2番を申告していたのは21人だから、ほぼ4分の1。「イタリアの抒情詩人」ルイジ・カロッチア、「フランスのグールド」オロフ・ハンセン、「中国の哲学者」チェン・ザンなど個性派ぞろいだったが、枕を並べて討ち死にしてしまい、10人のファイナリストのうち、アムラン一人が2番を弾くことになった。

次点のディナーラ・クリントンも2番の予定だったので、彼女が進出していれば事情は変わったと思うが、明らかにオーケストラが準備不足。リハーサルに立ち会った関係者の情報によれば、第1楽章を通したところでオケの部分練習が始まってしまい、アムランはずっと待っていたという。

1番を選択したチョ・ソンジンも、リハの時とはうって変わってテンポが遅く、重くなったオーケストラに悩まされたが、「肝心なのはソロ・パートだから」とマイペースを貫いたのが功を奏した。1960年の優勝者ポリーニの例を引くまでもなく、1番ならピアノがイニシアティヴを取っても何とか形になるが、2番はアンサンブルの要素が多く、よりコミュニケーション能力が求められる。

室内楽が得意なアムランはオーケストラが出やすいように拍をマークしたり、指揮者とアイコンタクトを取ったり、彼の長所を存分に発揮していたが、ただでさえ重圧のかかる本選で余計な神経を使ったぶん、やや消耗してしまったような気がしてならない。

 

出典:https://ondine-i.net/column/3561

 

 ベトナム人初の優勝者として話題になったダン・タイ・ソンは「オーケストラとの共演経験がまったく無く、短いほうが楽だろうと2番を選んだ」のだという。これにはびっくりだ。

 しかしマルタ・アルゲリッチの場合は違う。私は「アルゲリッチといえば2番」というイメージを持っていた。というのは、1980年前後に彼女が小沢征爾指揮のバックで2番を演奏したFM放送をエアチェックしたことがあって、それによって2番にもそれなりの良さがあることを初めて認識した思い出があるからだ。だから「アルゲリッチも2番を用意していたが、周囲のすすめで直前に1番に変更したと伝えられる」という話には、さもありなんと思わされた。

 そういえばアルゲリッチベートーヴェンでも2番の協奏曲を偏愛していた人ではなかったか。そういう特別な感性があの人にはある。私はアルゲリッチとの相性は必ずしも良くなく、これは素晴らしいと思う演奏(ラヴェルの「夜のガスパール」やハイドンのピアノ協奏曲ニ長調、バッハのパルティータとイギリス組曲のそれぞれ第2番など)と全然合わないやと思わせる演奏の両極端があるが、個性的であることにかけては特別なピアニストだ。

 なお「アルゲリッチ」という日本語表記を世に広めた一人が前記の吉田秀和で、彼はアルゲリッチに直接聞いたのだという。Wikipediaを参照すると、日本では最初「アルゲリッヒ」というドイツ風の読みをしていたが、NHKは(今もそうだと思うが)「アルヘリチ」というスペイン語読みを採用していた。しかし、アルゲリッチのルーツはスペインであってもカタルーニャ地方であり、当地の読みでは「アルジェリック」になる。しかし本人はそのいずれでもない「アルゲリッチ」という発音を気に入っているのだという。吉田秀和は上記の最後の結論部分だけをわれわれに伝えてくれていたのだった。それにしても、自分の姓の読み方まで自分の好きなように決めるとは、なんという自由奔放さだろうか。

 そのアルゲリッチも今年80歳の誕生日を迎えた。私が知った頃は彼女は30代で見事な黒髪の持ち主だったが。もうだいぶ前からすっかり白髪になっている。

*1:第3回(1937年)の誤記。なお第4回の開催は1949年で、12年も間が空いたのは第虹世界大戦の影響だろうと思われる=引用者註。

クリスティ『ポアロのクリスマス』にまたも完敗。前作『死との約束』に続いて「連続完封」を喫した

 アガサ・クリスティの『ポアロのクリスマス』(1938)。また犯人を当てられなかった。一頃クリスティものは連戦連勝だったが、前作『死との約束』(1938)に続く連敗。それも全く同じようなパターンでやられた。プロ野球中日ドラゴンズの柳裕也と大野雄大に連続完封された(幸い今季はそのような例はなかったが)ような読後感だった。

 

www.hayakawa-online.co.jp

 

 前述の通り、本作は前作『死との約束』と双子のような関係にある。思い出したのはポワロもの第6作の『エンドハウスの怪事件(邪悪の家)』(1932)と第7作の『エッジウェア卿の死』(1933)がやはり双子のような作品だったことで、こちらは2作とも犯人は簡単にわかり、後者はトリックまでわかった。この2作を読んだ時には交流戦ソフトバンクを3タテした時*1みたいな読後感だったといえるかもしれない。

 『ポアロのクリスマス』の「意外な犯人」には偉大な先例があり、そこは『アクロイド殺し』と異なる。前作『死との約束』自体が大きなヒントになっているし、作中に「えっ、これってあの人の特徴じゃないか」と思わせるヒントが大胆に書かれていたのに、それを気に掛けながらも犯人ではないかと疑うことをしなかった。つまり犯人候補から外してしまったのは不覚だった。偉大な先例の存在は知っているにもかかわらず、というよりあまりにも有名なその先例があったからまさか同じことはやってこないだろうという思い込みがあった。そういう読者の心理を作者は巧妙に突いてきた。完敗だ。だから柳か大野の投球術にやられたみたいな読後感だったのだ。

 この第16作『死との約束』と第17作『ポアロのクリスマス』とのペアは、前記第6作『エンドハウスの怪事件』と第7作『エッジウェア卿の死』とのペアよりも人気が落ちるくらいではないかと思うが、私はこの間の6〜7年に、クリスティはずいぶん経験値を上げたと評価したい。

 前作と大きな共通点を持つ作品を連ねていくという山脈を思わせるようなクリスティ作品の特徴は、本作にも典型的に見られた。

 惜しむらくは、村上啓夫(ひろお, 1899-1969)の訳文が古くていささか読みづらいこと。田村隆一(1923-1998)だとまだそれほど気にならないが、本作の村上訳はかなり気になった。新訳版が出たらまた読み直してみたいと思う。

 下記「アマゾンカスタマーレビュー」の評者には敬意を表する。翻訳に関する意見は同じだが、私はクリスティのパターンがわかってきたと思っていたのにやられた。

 

★★★★☆ ポアロ初心者にもお勧め。犯人を当てられてうれしかったです。

Reviewed in Japan on February 20, 2021

 

コロナの自粛期間中にすっかりアガサクリスティ―にはまり、特にポアロシリーズが好きでコツコツと読んでいます。

この作品も、ポアロらしくあっという間に読み終わってしまいました。

ここ最近ポアロシリーズを読んでいるので後半部分で犯人がわかりました。

全くトリックなどはわからなかったので、ただの勘ですが。

 

アガサクリスティーの作品は登場人物が多く、海外の名前なのでなかなか覚えられず誰が誰だが途中でわからなくなるのですが、こちらの作品は比較的登場人物が夫婦が多くシンプルなのでわかりやすかったです。

初心者にもお勧めできると思います。

 

ただ個人的に翻訳があまり良くない気がします。今まで何冊かシリーズを読んできましたが一番しっくりきませんでした。新訳が出てくることを望みます。

その為星を四つにしました。

 

出典:https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R10LR8E3RYRARM

 

 前作『死との約束』と共通点が多く、若干の「二番煎じ」感があるため、私はその分だけ前作より評価を低くするが、それでもポワロシリーズ屈指の佳作に数え入れて良いのではないか。

*1:セ・リーグの某在京球団は存在自体が不愉快なので引き合いには出さない。

すぎやまこういち死去/すぎやま作曲のキャンディーズ「ハート泥棒」は「年下の男の子」以後では売り上げが最少だった

 すぎやまこういちが死んだ。

 ドラクエは一度もやったことがないので彼の「音楽」はよく知らない。キャンディーズは私自身はそんなに思い入れはないが、ヤクルトが優勝した1978年に日本シリーズをやった(やらされた)後楽園球場で、キャンディーズは4月4日に解散コンサートを行った。関西からわざわざ見に行った熱心なファンがいたので、キャンディーズの全シングルは私も知っている(1枚も持ってなかったけど)。キャンディーズは1975年に「年下の男の子」で人気がブレイクしたが、これが5枚目のシングルだった。

 その5枚目から引退した当時のシングルである「微笑がえし」までの13作で、一番売れ行きが悪かったのがすぎやまが作った「ハート泥棒」だった。

 この歌の悪口を以前「kojitakenの日記」に書いたことがあるが、1976年春の「春一番」から1977年春の「やさしい悪魔」までのシングル5作の売り上げを、下記リンクから引用しておく。おそらくオリコンの調査によるデータだろう。

 

nendai-ryuukou.com

 

  • 春一番(1976.3.1) 36.2万枚
  • 夏が来た!(1976.5.31) 17.6万枚
  • ハート泥棒(1976.9.1) 9.0万枚
  • 哀愁のシンフォニー(1976.11.21) 22.8万枚
  • やさしい悪魔(1977.3.1) 39.0万枚

 

 ご覧の通り、「ハート泥棒」の売り上げが飛び抜けて悪い。キャンディーズの5枚目以降で「ハート泥棒」に次いで悪いのが1975年6月の「内気なあいつ」の9.8万枚だが、その他はすべて10万枚以上である。「年下の男の子」でいったんブレイクした人気が、その後一時低迷したものの、メロディーが覚えやすく親しみやすい「春一番」で底上げされた。しかし、「ハート泥棒」は「春一番」や翌年春*1の「やさしい悪魔」の4分の1しか売れなかった。

 「ハート泥棒」はいかにも冴えない歌だよなあ、と私も思っていた。キャンディーズメンバーからも馬鹿にされていたという記事を、田中好子が亡くなった10年前に「kojitakenの日記」で公開したことがあって、その記事に対する怒りのコメントを今頃もらったのだが、古いコメントは承認しないという私の方針に従って承認していない。

 しかしそのコメントには、嘘ばかり書くな、「ハート泥棒」は24万枚も売れたぞ、などと書いてあったので、改めて調べた次第。レコード会社(CBSソニー)は19万枚と発表していたが、レコード会社は水増しするのが通例なので、実際には10万枚に満たなかったと思われる。なおオリコンの調査にも多少の水増しがあるとの説もある。

 すぎやまの「音楽」は、松原仁城内実といった、野党または一時自民党から離れていた極右政治家の応援歌以外にはほとんど思い浮かばなかったが、ガロの「学生街の喫茶店」(1972)を作曲している。これはよく売れたし、1972年当時としては斬新さがあったかもしれない。それより古いところでは、ザ・タイガース阪神とは関係ない)の歌の大部分をすぎやまが作曲したとのことで、もしかしたらこれがすぎやま最大の業績かもしれない。

 すぎやまは他に太田裕美のアルバム「思い出を置く 君を置く」(1980)を全曲作曲していて(作詞は全曲サトウハチロー)、これは「ヒロミック弦楽合奏団」というオーケストラをバックにしたものらしい。A面最後の「少年の日の花」がメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲、B面最後の「思い出を置く 君を置く」がモーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」をそれぞれベースにした曲らしいから、すぎやまの嗜好は彼の政治思想にも似て滅茶苦茶に保守的だったのだろう。訃報とともによくニュースで流れてきたドラクエの音楽からも、このすぎやまの指向性は看て取れる。

 だが、太田裕美はもっとモダンな方向が肌に合っていたらしく、そちらに流れ去ってしまった。

 むしろ、すぎやまが好みそうな擬クラシック的な曲をキャンディーズに提供したのが三木たかし作曲の「哀愁のシンフォニー」であり、これは「ハート泥棒」の倍以上の22.8万枚も売れた。タイトルにある「シンフォニー」といいイントロといい、二度の転調といい、19世紀クラシックの趣味を借用したような曲だ。すぎやまも、キャンディーズあたりに彼の本来の好みだろうと思われる擬クラシック的な曲を提供しておけば、「売れないわー」などと馬鹿にされることもなかったのではないか。

 私は、たとえポピュラー音楽であってもすぎやまのような行き方は好まないが、音楽の好みは人それぞれだから、すぎやまの極右思想は嫌いだけど音楽は大好きだという人がいても争うつもりは全くない。

 ただ、「嘘ばかり書くな」というコメントをいただいたので、今回はキャンディーズのメンバーが「売れないわー」「売れないわー」「売れないわー」とカノン式にハモりながら「ハート泥棒」を馬鹿にしたとかしないとかいう真偽不明の話は抜きにして(と言いながら書いてしまったがw)、単に「すぎやまが作曲したキャンディーズの『ハート泥棒』は売れなかった」事実のみを明記して、すぎやまという不世出(どこが?)の作曲家の墓碑銘とする次第。

*1:キャンディーズはなぜか春によく売れた。その意味からも解散を春にしたのは大成功だった。

"Roman holiday"(ローマの休日?)の本当の意味を教えてくれたアガサ・クリスティ『死との約束』は読者を選ぶかもしれないが「隠れた名作」だ

 はじめに、今回はミステリ作品の犯人当てに関するネタバレを極力避ける努力をしてみた。だから今回は作品を未読の人は読まないでいただきたいとは書かない。但し、記事から張るリンクの中にはネタバレが含まれるかもしれない。また、ネタバレは極力避けたとは言ってもヒントは書いたので、それも知りたくない方はやはり読まない方が賢明だろう。

 アガサ・クリスティのポワロもの長篇33作のうち第16作の『死との約束』(1938)を読んだ。この作品は早川書房の日本語版版権独占作品とのことで、昔から今に至るまで高橋豊(1924-1995)の訳でしか読めないようだ。私は本作に先立つ15作は、ポワロものの中で飛び抜けて不出来として悪評の高い第4作『ビッグ4』以外すべて読んだが、第17作『ポアロのクリスマス』以降は一作も読んでいない。基本的に出版順に読んでいるが、実際には1943年に書かれた最終第33作の『カーテン』をどのタイミングで読むかは思案中だ。しかしその一方で、そろそろクリスティを読むのをしばらく中断しようかとも思っている。このところあまりにもクリスティ作品を含むミステリにばかり読書が偏っており、これはよろしくない傾向だからだ。

 しかし、今回全く期待せずに読んだ『死との約束』は思わぬ掘り出し物だった。なぜなら、クリスティは犯人を当てやすいミステリ作家だと思っていた私が、今回ばかりは作者に完全にやられてしまったからだ。野球でいえば投手が6点をとられて打線は相手投手に完全試合をやられたような、そう、1994年にカープが某球団相手に経験したような完敗だった。

 

www.hayakawa-online.co.jp

 

 上記ハヤカワ・オンラインのリンクに表示される「いいかい、彼女を殺してしまわなきゃいけないんだよ」という言葉で物語が始まる。タイトルも書き出しも物騒な本作に、最初のうちは全然気乗りがしなかったが、作者が思わせぶりに出してくるヒントが全く読み取れない。犯人候補も何人か考えてみたが、いずれも決め手を欠く。そして最後の最後にあっと言わされた。

 何度も書くが『アクロイド殺し』は中学生時代に読んでいる最中、級友にネタバレを食った。とはいえ、その時点で私は真犯人を疑っていた。その『アクロイド』を今年47年ぶりに完読して、クリスティが時には無防備なくらいヒントを出していたことを確認した。中学生時代は「あのパターン」自体知らなかったが、クリスティは基本的にヒントを多く出す作家なので、注意深く読みさえすれば、アリバイ作りの手口までは読み取れなくとも真犯人の目星くらいはつくことが多い。現に、感想文のサイトを見ていたら、当時と私と同じくらいの年齢の読者が友人に本を貸した時、「ねえあれってあの人が犯人じゃない?」と正解を言い当ててきたという投稿があった。その投稿者の友人は、きっと中学生時代の私と同じような読み方をしていたのだろう。

 まず第1の疑問だが、なぜホテルから動かないはずのボイントン一家が一転してペトラに行ったのか。第2の疑問は、ボイントン夫人はなぜ息子や娘たちに一人を除いて自由行動をとらせたのか。この「一人を除いて」というのが巧妙なミスディレクションになっている。

 さらに第3の疑問だが、ボイントン夫人殺害後にポワロが証人たちを尋問した時、なぜある人物が「信頼できない証人」であることを強調したのか。

 誰を犯人と見立ててもこの3つの疑問は解けない。第1と第2は、ある登場人物を疑わせる理由になるが、それでも第3の疑問は解けない。

 結局全くノーマークの人物が犯人だった。手も足も出なかった。

 私は本作をかなり高く評価する。それなりの欠点もある作品なので、最高傑作『アクロイド殺し』やそれに次ぐ『そして誰もいなくなった』と並び称するわけにはいかないが、今まで読んだクリスティ作品中でのベスト5には入る。

 ただ、本作には『オリエント急行の殺人』への言及があるので、『オリエント』を読む前に読まれることは絶対におすすめできない。また、ポワロもの初期の諸作を読んで、クリスティのパターンに慣れてから本作を読んだ方が良い。特に、本作は第13作『ひらいたトランプ』と関連があり、第14作『もの言えぬ証人』とはさらに強い関連があるので、この2作に続いて読むのがベストだ。本作には前記の2作とは異なる大きな特徴がある。それは「被害者の心理を読み取ることがポイント」であることだ。

 本作は、ハヤカワのクリスティー文庫には珍しく、東野さやか(1959-)氏の解説文を読んでもネタバレには合わない。東野氏は、私の大嫌いな東野圭吾(1958-)と同性のうえ、年齢も出身地も近いが(幸いなことに)関係ない。英米文学翻訳家で、ハヤカワからいくつか翻訳本を出しているが、クリスティの作品の訳本はなさそうだ。さやか氏(以下、東野圭吾と区別するために「さやか氏」と表記する)は、被害者が殺されるまでを描いた第一部のとある場面を示唆しながら、下記のヒントを読者に与えている。以下引用する。

 

(前略)実はこの過程でさりげなく伏線が張られているのだが、なにしろ冒頭のあの言葉があまりに強烈で、そこに木を取られて見逃しがちだ。そういうふうに、読者の気をそらすやり方も本当にうまいなあと、今回あらためて読んで感心した。この解説から読んでいる方はぜひ、はやる気持ちをおさえ、第一部をじっくり読んでみてほしい。まあ、それで犯人を言い当てられるとは保証しないけれど。(本書388頁)

 

 私は前述の通り、今回読み始めた時にあまり気が乗らなかったので、本編を読み始めて間もない時点でさやか氏の解説を読んだが、このヒントを頭に入れて読んだものの伏線は読み取れなかった。さらに被害者が殺されたあとの第二部第四章に、当該の場面を登場人物から聞いたポアロ*1が「ボイントン夫人の心理が、この事件では重要な意味を持っているのですよ」(本書208頁)と言っている。この言葉を読んで、本書第一部第九章中の当該の場面(同108-110頁)を読み返したが、それでもわからなかった。

 いつものように、読了後アマゾンカスタマーレビューや読書メーターを見たら、後者の中に「犯人がわかった」と書いた人が2,3人いたが、わかった根拠は書いてなかったので、おそらく単なるまぐれ当たりというか、山勘が当たっただけであろう。私見では本作の犯人をきちんと根拠を示した上で言い当てることはきわめて難しい。おそらく『三幕の殺人』中の第1の殺人の動機を当てるのと同じくらい難しいのではないか。あるいは、書きたくはないが東野圭吾の邪悪な作品である『容疑者Xの献身』の仕掛けを当てるのと同じくらい難しいかもしれない。

 ただ、クリスティと東野圭吾で違うのは、さるブログ記事に「ここでやっと読者への出題がされている、っぽい」ものの、結局「読者への正々堂々とした出題はされない」と評された、いささかアンフェアな感のある東野の『容疑者Xの献身』とは大いに違って、クリスティは前述の通り「ボイントン夫人の心理が、この事件では重要な意味を持っている」とポアロに語らせることによって、読者への出題をフェアに行っていることだ。

 

 最初に書いた通り、本作を原作とした三谷幸喜脚本、野村萬斎主演のテレビドラマが今年(2021年)3月6日にフジテレビで放送された。ドラマは舞台をはじめとする設定を本作とかなり変えているものの、犯人は原作に対応する人物だったらしい。なおイギリスBBCでテレビドラマ化されたときには犯人も変えられていたとか。さらにその昔には1988年に『死海殺人事件』というタイトルで映画化されたが、これは当たらなかったらしい。本作は派手な『ナイルに死す』とは違って心理劇なので、よほどうまく作らなければ映像化は難しいだろう。今春のテレビドラマも、配役で犯人がわかってしまったという、かつて東野圭吾が2時間ドラマを皮肉った事例が当てはまっているとの指摘も目にした。

 脚本の三谷幸喜は原作の『死との約束』を下記のように評している。

 

 三谷さんは「『死との約束』は、アガサ・クリスティーの隠れた傑作です。ポワロ物で、僕がいちばん好きな作品です。事件が起こるまでのワクワク感。真相が明らかになっていくドキドキ感。そしてラストのあまりに意外な犯人。今回も原作のテイストを損なわないように脚色しました。キャスティングも完璧です。極上のミステリーを堪能あれ!」とコメントしている。

 

出典:https://mantan-web.jp/article/20201215dog00m200040000c.html

 

 おそらく三谷幸喜も犯人を当てることができなかった口だろう。ここからは想像だが、三谷は脚本家だから人間心理を読むことが商売の仕事をしている。だから、クリスティ作品のうちかなりの割合について、犯人を言い当てることができていたのではなかろうか。しかし「あまりに意外な犯人」と言うからには、三谷自身にも想像もつかない犯人だったに違いない。

 しかしテレビドラマとなると様相は一変する。配役から犯人が見当がつくという要因以外に、そもそも視覚化するという行為そのものが犯人を当てやすくしてしまう。本作はそんな性格を持つミステリだと思う。だから、本作を原作とした映像作品を見る機会を得られた方は、是非ともそれを視聴する前に原作を読んだ方が良い。こんなことを、ドラマの放送が終わって7ヵ月も経ってから書いても無意味かもしれないが。

 ポワロものでは第13作『ひらいたトランプ』以降顕著になった心理劇系統の作品の中でも、本作は『ひらいたトランプ』や第14作『もの言えぬ証人』と比較してもすぐれているといえるだろう。特に『もの言えぬ証人』が好きな人は、本作をもっと気に入るのではないかと思う。

 私は読んでいないが、霜月蒼氏の『クリスティー完全攻略』(講談社2014)では『もの言えぬ証人』が『アクロイド殺し』と同じ4.5点(5点満点)で、本作『死との約束』は『アクロイド』をも上回る5点満点をつけている。もっとも『ひらいたトランプ』には2点しかつけておらず、私が常々「裏表紙と目次を見たら犯人とストーリーの流れがわかり、読んでみたらその通りだった」と馬鹿にしている『邪悪の家』(『エンドハウスの怪事件』)に3.5点もつけているなど(私だったら1.5点かせいぜい2点しかつけない)、霜月氏とはかなり評価が異なる作品も少なくない。マープルものでも、江戸川乱歩が激賞して私も大いに気に入った『予告殺人』に霜月氏は2点をつけている。

 しかしまあ、読者によっては本作を気に入らないであろうことも想像はできるので、そこを争うつもりはない。本作は、『アクロイド殺し』とともに、大いに読者を選ぶ作品であるに違いない。好きな人はめちゃくちゃ好きだろうが、嫌いな人は下記ブログ記事の例のように、5点満点で2点をつけて酷評している。

 

www.kakimemo.com

 

 上記ブログ記事を選んだのには理由がある。以下、記事の冒頭部分を引用する。

 

ナイルに死す』に続く、名探偵エルキュール・ポアロシリーズの十六作目です。ローマン・ホリデーのように感じる話です。

 

ローマン・ホリデーのような

 

作中にローマン・ホリデーという言葉が出てきます。意味は「他人を苦しめて得られる娯楽」です。

そう言った人物に対してポアロは、「エルキュール・ポアロがくだらない探偵ごっこをして遊ぶために、ある家族の個人生活をめちゃめちゃにひっかき回そうとしていると?」と、言うのですがそう読み取れても仕方ないような印象を受けました。

理由はいくつかあります。被害者のおばあさんはサディストで独裁者です。その権力で家族を従わせおり、端から見ても異様に感じられる様子が描かれています。そのため、亡くなった理由はどうであれ、残った家族は誰も困りません。むしろ幸せになることが容易に分かります。つまり、余計なことをポアロがしているように感じます。

 

出典:https://www.kakimemo.com/book-report-agatha-christie-appointment-with-death/

 

 引用箇所はハヤカワのクリスティー文庫版では198頁に掲載されている。

 そういう印象は私も持ったし、別の登場人物が「オリエント急行の殺人事件」を引き合いに出してポアロも責める場面もある(同251頁)。

 しかし本作をひいきにする私は、その印象は本作の結末でみごとに覆されるんじゃないのかなあと思った。結局本作の結末をどう思うかが評価の大きな分かれ目になるのだろう。

 それはともかく、上記ブログ記事に引用された「ローマン・ホリデー」の意味を、本作を読むまで私は知らなかった。重複するが、以下に本作から直接引用する。

 

ポアロさん、あなたはこれがローマン・ホリデー(他人を苦しめて得られる娯楽)にならない自信があるのですか。(本書198頁)

 

 そうか、"Roman holiday" とはそういう意味だったのか。恥ずかしながら初めて知った次第。さらに調べてみると、「ローマの休日*2」という文字通り意味であれば、"a holiday in Rome" と表記されるはずだという。確かにその通りだ。

 そうすると、あの有名な1953年のアメリカ映画の邦題は誤訳であり、『ローマ人の休日』とすべきだったのかもしれない。

 淀川長治(1909-1998)はテレビの映画番組の解説でこのことに触れていたという。

 

cinema.pia.co.jp

 

 以下引用する。

 

淀長さんの言った原題の意味

2008/10/30 20:19 by  青島等

 

淀川長治さんは“まあ!なんていやらしい題名”と嫌味を言いましたがその意味を追求すると

ローマの休日」(ローマでの休日orローマにおける休日)を英語にすると
A Holiday of Rome
又はA Holiday in Romeになる。ところが
Roman Holidayを直訳すると『ローマ人の休日』ローマ帝国時代の貴族の楽しみを意味する。
スパルタカス」で描かれた奴隷(ユダヤ人)同士を死闘させたり奴隷とライオンを闘わせたりをショウとして楽しむ…転じて『野蛮な見世物』という裏の意味がある。
脚本が同じダルトン・トランボならではの深い皮肉が込められていると思います。
プロローグのアン王女のワルツの相手は棺桶に片足を突っ込んだような動くロウ人形というか生ける屍みたいなジジイばかりで彼女は口臭や同じ自慢話を繰り返す雑音に耐えながら踊っている。
まるでライオンと死闘をやらされている奴隷剣闘士と同じ状態である。
≪隠し砦の雪姫≫は“六郎太、その忠義ヅラ見るのも嫌じゃ!”と怒鳴ったりお気に入りの馬に乗ってストレス解消しているが、アン王女は一挙一動全てを側近から命じられたままの奴隷である。
それに比べてローマ人たちの末裔たちは花屋、アイスクリーム屋、美容師と休日でなくとも楽しそうに生き生きしている。
トランボのテーマはやはり奴隷解放=自由への憧れですね。

 

出典:https://cinema.pia.co.jp/com/2791/431672/

 

 本件に関しては、引用はしないが下記記事にもリンクを張っておく。

 

 そして、本件から直ちに連想されるのは、昨日公開した『kojitakenの日記』の下記記事で論じた一件だ。

 

kojitaken.hatenablog.com

 

 上記記事で批判した安積明子や日本のネトウヨ、それに天皇制の支持者たちが現在やっていることこそ "Roman holiday" そのものなのではなかろうか。

 

 クリスティの『死との約束』に話を戻すと、被害者のボイントン夫人がやっていたことこそ「他人を苦しめて喜ぶ娯楽」だった。家族だろうが他人には違いない。そして、現在の日本に目を移すと、安積明子やネトウヨ天皇制支持者たちは小室氏や眞子氏を苦しめることによって「他人を苦しめて喜ぶ」娯楽を享受している。また今回の自民党総裁選を通じて、安倍晋三という人間もまた "Roman holiday" を思いっ切り享受したように、私には見える。

 『死との約束』は1938年の作品で、有名なアメリカ映画の15年前に出版された。その映画 "Roman Holiday" は製作されたアメリカでは興行成績がさっぱりだったものの、イギリスやヨーロッパで大歓迎されたとのことだ。

 『死との約束』に出てくる名探偵ポアロ(ポワロ)が "Roman holiday" を楽しんだわけではないと私は確信する。その根拠は先に触れた本書208頁に書かれたポアロの言葉だ。

 そしてそれにもかかわらず、もしかしたら本書のタイトルは、現行の『死との約束 (Appointment with Death)』よりも『ローマ人の休日 (Roman Holiday)』の方がふさわしいのではないかと思う*3

 何より、本書は(少なくとも私にとっては)読後感が抜群に良かった。ベントリーの『トレント最後の事件』にも相通じる本作のようなエンディングはクリスティ作品でも稀だろう。少なくとも私がこれまでに読んだ32冊中では、本作に近い例が辛うじて1つあるだけだ*4。エンディングは本作のタイトルや書き出しからは想像もつかないものだ。いや、だからこそタイトルはクリスティ作品よりあとに作られた名作映画を思わせる "Roman Holiday" よりも現在の『死との約束』のままの方が良いのかもしれないが。

 あるいは、そんな読後感を持つ私のような読者こそ、もしかしたら誰よりも "Roman holiday" を享受しているのかもしれない。その理由は、本作の結末をご存知の方ならおわかりになるのではなかろうか。

*1:私は「ポワロ」表記の方を好むが、ハヤカワのクリスティ文庫は「ポアロ」表記なので、同文庫から引用した箇所では「ポアロ」表記とする。

*2:カナ漢字変換で「ローマの窮日」がで変換候補として出てきたが、かつて故中川昭一(1953-2009)がローマで失態を演じた時にこの表記で揶揄されたことをブログ記事(http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-850.html)で取り上げたことがあるためだろう。

*3:そう断定する根拠は本書116頁に書かれている

*4:この2作とは対極にある極めつきの悪例として、前記東野圭吾の某作(『容疑者Xの献身』ではない)をも思い起こさせた。これ以上は書かないが。

『容疑者Xの献身』再々論〜東野圭吾は「出題を理解できない読者」を挑発していた/A.A.ミルン『赤い館の秘密』/江戸川乱歩がクリスティの『予告殺人』を激賞した理由/小説と戯曲・映画で異なる『そして誰もいなくなった』の結末

 江戸川乱歩が選んだミステリ十傑のひとつであるA.A.ミルン(1882-1956,『クマのプーさん』の作者として有名)の『赤い館の秘密』(創元推理文庫, 2017年の山田順子による新訳版)を読んだ報告から始める。今からちょうど100年前の1921年の作品で、アガサ・クリスティやF.W.クロフツがデビューした翌年に書かれた。

 

www.tsogen.co.jp

 

 この作品は、トリックを見破れるかどうかにかかっているが、私には見破れなかった。ネットを見ると、ミステリを読み込んでいる読者には「読み始めてすぐに気づいた」という人が少なからずいたようだから、模倣例もあるポピュラーなトリックなのかもしれない。ただ、「すぐに気づいた」と書いている人たちが同様のトリックの先行作品を挙げた例にはまだお目にかかっていない。旧訳版のアマゾンカスタマーレビュー見ていると、予想通り、

本書のメイン・トリックは今でこそ姿を変えてあちこちで使われているが、私の記憶ではこのアイデアを使ったミステリ作品の嚆矢だと思う。

などと書かれている*1。ならば、それだけでも海外ミステリ十傑に挙げる理由になると私は思う。

 その他にも、作中の探偵役・ギリンガムの推理の過程をオープンにして彼がなかなか真相にたどり着けない様子を描くあたりが乱歩の好みだったのだろうか。それでも本作のギリンガムは最後には真相にたどりつくだけまだ良い。乱歩が他に挙げたベントリーの『トレント最後の事件』は探偵役が敗北する作品だったし、フィルポッツの『赤毛のレドメイン家』は最初に出てきた探偵役が後半ではクリスティ作品に出てくるヘイスティングズみたいな愚鈍な相棒と化した上、後半に出てくる真相を見抜いた真の探偵役も、愚鈍な相棒をうかつに信頼しすぎて依頼人を死なせてしまう失態を演じた。後者の「依頼人を死なせてしまう」作品は、私は少年時代から大嫌いだったのでフィルポッツ作品に対する評価が非常に辛くなるのだが、乱歩自らが創造した明智小五郎とは正反対の設定の探偵が出てくる作品を乱歩が好んでいたらしいことは興味深い。

 なお『赤い館の秘密』も『トレント最後の事件』もレイモンド・チャンドラーが酷評したことで知られるらしい。「パズラー嫌い」であったらしいチャンドラーや、彼が属するハードボイルド系の作品には、少年時代から近づきたいと思ったことが一度もなく、読んだこともないのだが、それ相応の面白さがあるのだろうか。気が変わったら一度読んでみても良いかとも思うが、今はまだそのタイミングではない。

 私の評価では『赤い館の秘密』は『トレント最後の事件』(10点満点で8〜9点)とフィルポッツの『赤毛のレドメイン家』(4点)の中間の6点だ*2。童話作品で有名な作者の作品らしく肩が凝らないし、読後感も良い佳作だと思った。

 

 続いてミステリ評論家としての乱歩の話に移る。先日、弊ブログの下記エントリにコメントをいただいた。

 

kj-books-and-music.hatenablog.com

 

 mayaya_jujitsu

江戸川乱歩がクリスティーと「予告殺人」を高く評価したのは、評論「クリスティーに脱帽」のようです。(他の評論でも触れているかもしれませんが)

当時のクリスティの最新作である「予告殺人」(この論評の初出は雑誌「宝石」昭和26年1月号)に関して乱歩はこう絶賛しています。
「(クリスティーの)代表作としてはやはり「アクロイド殺し」を推すべきであろう。これだけは動かない所だが、では第二位に何を置くかとなると、非常に選択に迷う。〜或いは最近作「予告殺人」を第二位に持ってきてもよいとさえ考える。人によっては、この方を「アクロイド」より上位におくかもしれない」

乱歩が「予告殺人」を高評価する理由として
1:トリックと、物語を引っ張るメロドラマ(人間模様)との組み合わせの巧みさ
2:新規トリックを使わなくても、既存のトリックを巧みに組み合わせて魅せる独創的技巧
をあげています。

乱歩は以前から、探偵小説(推理小説)が構造的に内包する宿命的な問題点として、下記2点をあげていました。

1:探偵小説は「謎の解決」が物語最大の山場となるため、必然的に山場は物語の末尾に来ざるを得ない。なので末尾まで読者の気を引きページをめくらせる物語構成にしないといけない
(探偵小説で殺人や猟奇などショッキングな題材が多く使われるのも、この「末尾まで読者の気を引かなければならない」必然のため)
2:探偵小説はトリックが物語の核心となるが、トリックの数や発想には限界がある。やがて新規のトリックが尽きる時がきたら、探偵小説というジャンルは消滅するのでは

この2点の問題点を「予告殺人」と、近年のクリスティーの作品が鮮やかにクリアしている。そしてこれは探偵小説はまだまだ発展の余地があるということだ。消滅などはしない。
これが乱歩がクリスティーと「予告殺人」(1944年「ゼロ時間へ」あたりから作風がこう変化したと述べています。)を高評価した理由のようです。

乱歩の下記の論評が、作家として以前の「探偵小説ファン」としての想いと情熱が迸るような初々しさを感じます。
「一般の芸能は作者が年をとるに従って円熟し、大成し、のちの作品ほど優れたものになるのだが、本格探偵小説だけは例外で、初期の作品ほど優れ、晩年は気が抜けて来るのが普通である。〜ところが、ここにクリスティーだけは、その逆を行って、晩年ほど力の入った優れた作品を書いていたのである。彼女より十年も後から書き出したクイーンとカーの近年の作が、既にして情熱を失いつつあるのと思い合わせれば、一層このことがはっきりする。これに気づいた時、私は驚嘆を禁じ得なかった。この老婦人は実に驚くべき作家である。」

 

 コメントどうもありがとうございます。

 クリスティの『予告殺人』は確かに乱歩が挙げた2点を満たしていると思います。

 以後文章を常体に戻す。『予告殺人』はクリスティ自身も自作の十傑に数え入れた自信作だが、日本の読書サイトを見ると評価が割れている。以前のエントリに書いた通り、犯人当てが比較的容易であることが低評価の主な理由になっている。狙われたものの死なずに済む登場人物が真犯人だというのはクリスティ以前からよく用いられた手法で、クリスティ自身の先行作品にもその例があり、その作品は文庫本の裏表紙に書かれた短い作品紹介と目次を見ればどのようなストーリー展開になるかが予測でき、読んでみるとその通りだったという他愛のなさだった。しかしその作品を気に入って高く評価する人もいるらしいから人さまざまというか人生いろいろ*3というか。

 乱歩は『ゼロ時間へ』(1944)で作風が変わったと書いたそうだが、私は未読だ。ただクリスティには作風が変わる土台があった。クリスティは少女時代にはオペラ歌手を目指したものの声の質がオペラとは不適合で音楽の道を断念した。オペラには感情表現が必要だが、それには人間心理に対する理解が欠かせない。ことに、クリスティが最初の夫にプロポーズされた直前に聴いていたというワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』はそういう作品だ。

 

blog.livedoor.jp

 

 上記ブログによると、デヴォン州のトーキーにある「ザ・パビリオン」というコンサートホールが、

クリスティの最初の夫アーチボルド・クリスティが、 191314ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の上演後、アガサにプロポーズした場所

とのこと。

 クリスティは、早くからフロイトユング精神分析に関心を持っていた。フロイトの名前は1930年代に書かれたポワロもののミステリにも出てくる。

 ポワロものの長篇第11作が派手なトリックで有名な『ABC殺人事件』だが、第13作『ひらいたトランプ』(1936)以降、トリックよりも心理劇に重点を置く作品が増える。さらに第14作『もの言えぬ証人』(1937)になると、それまでの作品では類型的と見られがちだったクリスティの作中人物が奥行きを持ち始める。再婚した夫とともに中近東の旅をしたことが、クリスティの世界観や人間観を徐々に変えていったのではないかとの仮説を私は持っている。

 クリスティはオペラ歌手を目指していただけのことはあって、芸術観にも特徴があった。それは初期の短篇集『謎のクィン氏』(1930)に反映されているが、1930年代に多産したポワロものにはそうした要素はほとんど持ち込まなかった。むしろ意識的に類型的な性格を持つ人物を登場させたミステリを書いたのではないかと想像されるが、ポワロものより肩の力を抜いて書けるミス・マープルものに執筆の中心を移し始めた1950年に『予告殺人』を書き、それを江戸川乱歩が激賞したあたりが興味深い。

 

 以後は後半かつ今回の記事の本論で、またしても東野圭吾の悪口を繰り広げる。しかし同じパターンの悪口ばかり書いていても仕方ないので、今回はネット検索で見つけた『容疑者Xの献身』に対する興味深い批評が掲載されたブログ『批評界』の記事を紹介したい。下記にリンクを示す。

 

criticalworld.seesaa.net

 

 上記記事に、『容疑者Xの献身』が詳細に分析されている。

 この作品は、真犯人が愛する女性への「献身」と称して、罪のないホームレスの1人を虫けらのように殺すことによって殺人を犯してしまった女性のアリバイを偽造してやったが、犯人の学生時代の親友だった「ガリレオ」こと湯川教授が真相を暴くというストーリーだ。

 そして本作最大の特徴は、最初に女性による殺人事件を描写し、つまり最初から犯人がわかった倒叙形式のミステリと見せかけておいて、実はこの殺人を犯した女性の罪を隠すために、真犯人*4が第二の殺人を犯して女性のアリバイをつくってやるという構造だ。この第二の殺人の犠牲になったのが「技師」と呼ばれる罪なきホームレスだった。

 これまで私が本作にケチをつけ続けていたのは、隅田川に住むホームレスを虫けらのように殺しておきながらそれを「献身」にでっちあげた東野の倫理観だけであって、ミステリとしての本作の構造等については何も書かなかった。それ以前のことで頭にきていたからだが、以前にも書いた通り私は本作にはもののみごとに騙された。ミステリとしての構造については作者の東野圭吾に脱帽するしかないと漠然と思っていた。

 私が本作以前に読んだミステリの大部分がコナン・ドイルのホームズものと松本清張の社会派ミステリであり、両方ともたいしたトリックは用いられていないから、「倒叙推理と見せかけて実は他人のアリバイ作りのための殺人だった」という構造には全く気づかなかった。それどころか、「顔のない死体が出てきたら替え玉を疑え」という鉄則すら知らなかったほどだ。今でも、クリスティ作品なら慣れてきたこともあって犯人の見当がつくことが多くなったものの、模倣作が多数あるらしいミルンの『赤い館の秘密』のトリックにも気づかなかった。私のレベルはその程度だ。

 しかし前記ブログ記事では作品の構造が詳細に分析されていて面白かった。ことに、作中で真犯人が作品の構造(作者の出題)に気づかない読者を作者の東野圭吾が徴発していると指摘しているくだりが興味深い。以下に引用する。

 

 8 p.139-167(本編前半の結) 

草薙刑事は湯川に捜査の進展を話す。湯川は単独で石神を誘い弁当屋に連れて行き、彼に幾つかの質問をして犯行を確かめる。

 

 肝となる章。推理小説はここでやっと読者への出題がされている、っぽい。というのは、犯行推定日時(3月10日)に容疑者の花岡靖子のアリバイが崩れない、と言う草薙からのヒントがあるからで、「さて石神はどうやって彼女のアリバイを作ったのでしょう?」という読者への正々堂々とした出題はされないからだ。そもそも読者には犯行の日時が明かされていないため、この小説がアリバイの工作トリックを解くためのパズルであるということを、ここでは断定できない。出題がはっきりされないのは、そこに注目されると複雑な小説のわりに単純なトリックが簡単に解けてしまい、これ以降が盛り上がらないからであろう。

 この曖昧な出題は悪い方へと転ぶ。読者はイントロで犯行の一部始終を知っているので、草薙刑事が物証よりもアリバイに拘って手を焼いているのは彼に手抜かりがあるからだと、すなわち推理小説の刑事役お決まりの(間抜けな)仕事としてわざと難航しているのだとも読めてしまう。これが「この小説は本格ミステリーか論争」の直接の問題点となる。湯川探偵の方は難航どころか確信まで得ているようなので、読者には何が問題なのかが分かり難い。

 一般的な立場でこの事件を見ると、アリバイ工作よりも、被害者富樫の死体をどうやって処分するかの方が問題である。そちらの方は石神の部屋で解体して川に撒いたらしく、警察が発見した頃には死亡日時を特定できる状況ではないので、そもそもアリバイ工作をする必要はない。小説の中では犯行日時を警察に誤認させて、その時刻に花岡母子のアリバイを作ることで、より安全に隠蔽できるという旨が書かれているが、石神という無関係の第三者死体遺棄にボランティアとして関わるのであれば、そんなに危ない橋を渡らずとも処理方法は幾らでも計画できる。また、読者がアリバイ工作を解くにしても、犯行日時が確定していない現段階では正確な答えが出せない。

 ところが作者は、石神が教鞭を取る高校で出題の意図さえ分らない馬鹿な生徒にうんざりする姿勢を描いて、小説の出題が分からない読者らを挑発する。こういう煽りも論争を起こす原因の一つとなっただろう。「人に解けない問題を作るのと、その問題を解くのとでは、どちらが難しいか。ただし、解答は必ず存在する。」と言う湯川の台詞で重ねて読者に宣戦布告する。「出題はちゃんとしてあるぞ、さあ解いてみろ」というわけだが、出題はあまり上手くいっていないのだ。

 もう一つ小説の後半で「湯川はいつ石神の関与を見抜いたか」という小問題が出されて、その正解はこの章だとされるが、彼は6章で既に狙いを付けた行動を取っているので怪しい。

 

(ブログ『批評界』より)

 

出典:http://criticalworld.seesaa.net/article/438374073.html

 

 なるほど、石神(真犯人の名前)のセリフを借りて私も東野圭吾に挑発され、嘲笑されていたのかと思うと、改めて腹が立ってくる。しかも読んでいる最中にはそれが挑発であることにすら気づかなかった*5。一方、東野の挑発に対する「出題はあまり上手くいっていない」との切り返しは痛快だ。

 私もそうだったが、多くの読者は「えっ、倒叙推理と見せかけた『殺人を隠すための殺人』だったのか」と驚いたに違いない。「殺人を隠すための殺人」といえば、古くは前述のクリスティ『ABC殺人事件』(1936)があった。しかしあの事件では、ポワロは殺人を隠すための殺人を犯した真犯人を許さず、自殺のチャンスさえ奪って真犯人を死刑台に送り込んだ*6。一方の東野作品での真犯人はといえば、自ら手を下した殺人は一件だけだったから、イギリスとは違って今なお死刑制度が残っている日本でも死刑にはならない可能性が高いとはいえ、真犯人が犯した第二の殺人は、正当防衛が主張できた可能性が高い第一の殺人(こちらは女性が犯した)よりもはるかに悪質かつ重罪が相当だ。この点については以前も弊ブログで指摘したし、上記ブログ記事も下記のように指摘している。

 

 靖子を援助する石神の暗躍はラストでさらりと語られるが、小説の主犯罪より重いというのも多くの読者に疑問を残す。倫理的にももちろん問題だが、問題を更に大きな問題で上塗りしている時点で「実は助けになっていないのでは?」という疑問が生まれる。仮に誰にも気づかれなかったとして犯罪の質量は確実に増えているわけで、理論数学に誠実な石神が「隠せば何をやってもよい」と考えるのは筋が通らない。

 

(ブログ『批評界』より)

 

出典:http://criticalworld.seesaa.net/article/438374073.html

 

 ブログ主は、東野は別に本作を「純愛万歳」みたいに(あるいは百田某の『殉愛』みたいに)描こうとしたわけではなく、本作は読者に「こんなのが本当の献身といえるのか」と疑問を抱かせる作品であり、それが東野の意図なのだと主張している。以下三たび引用する。

 

「小説のテーマは・・・」

 とはいえ、小説のテーマはしっかりと描かれている。読者の中には結論に疑問を持つ人もいるだろうが、それは作者の狙い通りのものであり、ミステリー小説が確かなミステリーを後味に残してくれる優良な作品である。苦味に感じても、ぜひ噛み締めてほしい。

 それについては多分にネタバレを含むので、既読者のために最後に記す。

 

(中略)

 

既読者のための解説。(解説もたまには延長戦)

 

 ラストの石神の慟哭は、自分に振り向くはずがないと思っていた靖子が寄り添って来て、嬉しく泣いている。または、靖子が幸せになるために計算した犯行が崩れてしまい、悲しく泣いている。様々な読み方が可能で解釈が難しい。

 実はこの小説、昨今流行のAKB等、アイドル産業と解く。靖子がアイドル、工藤は芸能運営会社、石神は追っかけオタク、と見立てるのだ。そうすると、落ち目アイドルに貢ぎ続けて人生を棒に振るオタクの姿を哀れに思ったアイドルが、アイドル業を辞めてオタクと一緒に暮らす決心をするお話に見えてくる。靖子にはその気がないのに異性からやけにモテるところや、工藤が情愛もなしに指輪を渡して契約を迫ったり、石神が見返りの期待できない献身に身を投じて喜びを感じたり、彼がカメラを持って遠くから監視していたりと、まさに日本アイドル産業の状態である。

 

(中略)

 

 しかし作者も酷い事をする。アイドル業を諦めた靖子と石神に待っているこれから共同生活の新居が別居牢獄とは。石神には自首をして牢獄生活を選ばなくとも自白遺書を残して自殺する方法だってあったのに、惨めに生き恥を曝す結末にして「せめて、泣かせてやれ……」と最後に声を掛けるのだから、ラストの湯川の台詞は作者の悪意だ。湯川は嘲笑を隠しているのかもしれない。つまり、石神を天才だと言ったのは最初から湯川だけであり、それは数学の天才という意味ではなく、この作品一番のミスリードということになる。石神を禿のデブに描いている時点から尊敬など無かったのだ。

 ちなみに映画版の石神の「どうしてぇ」と泣き崩れるラストは、小説では「どうして、こんなところに……」とはっきりしている。オタクたちの「献身(という名の貢ぎ)」の場(客席)にアイドルが下りて来るはずがないという意味で捉えると良いだろう。

 

 ただし、この作品の事件は結局のところ成り立たないのではないかと思う。なぜなら生粋のアイドルオタクという者は見返りどころか、そもそも具体的な恋愛を求めない生物であろう。彼らはアイドルを追いかけているわけではなく、アイドルに見られる夢を追いかけているのだ。オタクだってアイドルの笑顔に愛があるとは思っていないし、そこにはドルしかないのを重々承知で煌びやかなステージに今日も通う。ましてや面倒くさい恋愛の責任など取ろうとするはずがない。そんな泥臭いものを見せる者は彼らのアイドルには成れないのだ。

 

(ブログ『批評界』より)

 

出典:http://criticalworld.seesaa.net/article/438374073.html

 

 しかしこれはいささか深読みし過ぎであって、東野は深く考えずに本作を「献身」の物語に仕立て上げたのではないかと私は疑っている。現に各種読書サイトは本作を読んで本気で「感動」した人たちの感想文で埋め尽くされているのに、その現実に対して作者の東野圭吾が「いや、あれは本当の『献身』じゃないんですよ」と語った例を私は寡聞にして知らない。「東野信者」が大部分を占める「読書メーター」は論外だが、ミステリ好きが集まる「ミステリの祭典」にさえ、下記No.97の「猫サーカス」氏(採点:9点)のような投稿があった。

 

この物語において、その中心にあるのは「愛」であり「献身」。こんなに犯人側に感情移入できる作品は、今まで出会っていません。彼の行動には疑問を挟む余地が何もありません。ただただ愛ゆえの行動であり、誰も否定することのできない犯罪。その犯罪に至る過程と、全てを織り込み済みの計画、この物語の構成するすべてが美しい。そしてなんと言っても一番美しいのは結末。本当に美しいとしか言いようがありません。100%完璧なトリック、絶対に綻ぶことのない完全な計画。それが、たった一つの計算違いによって崩れてしまった。その計算違いは紛れもなく、「愛」が招いてしまったもの。報われなくていいと本気で思っていたからこそ、計算違いが生じてしまった。この物語の読了感は本当に独特であり、また人によって感じ方が違うのだと思います。メリーバッドエンドであり、また誰に感情移入するかも読み手によって全く違ってくる。この本の感想を友人と語り合った時、お互い全く異なる解釈で驚いたのを覚えている。しかし、それほどまでにこの物語は深い。深くてどんな解釈するにせよ、何かを私たちの心に残してくれるのです。

 

出典:http://mystery-reviews.com/content/book_select?id=815&page=1

 

 このサイトで本作に1点をつけたレビューは以前紹介したが、それ以外に、なぜか10点をつけていながら本作に鋭い批判を投げかけたのがNo.64「いいちこ」氏の投稿だ。以下に引用するが、一箇所不適切と思われる部分を伏せ字にした。

 

(以下ネタバレを含みます)

メイントリック自体は古典的でありふれたものだ。

しかも、●●の記載の不在、犯行直後のXの発言、死体の状況、Xの勤怠表と弁当購入の事実、技師の存在、娘の友人の証言等、決定的な伏線がごまんとある。

とりわけ「幾何の問題に見せかけて実は関数の問題」は極めて秀逸な含蓄のある伏線である。

にも関わらず見事に騙されてしまったのはひとえに倒叙形式によるところが大きい。

何と言っても我々読者にとって犯行経緯はすべて明らかになっているはずだから。

その先入観と、崩れそうで崩れない映画館のアリバイ、平々凡々とした下町の描写、そしてタイトル自体が強烈なミスディレクションとなり真実を隠蔽してしまった。

これほど倒叙形式が遺憾なく効果を発揮しているケースは寡聞にして知らない。

ただこれだけでは古典的なトリックに新たな光を当てたテクニックは賞賛できるとしても、スケール感はそれほど感じない。

衝撃を受けたのは本作の主題である。

どう考えてもXは通常の倫理観から逸脱した□□□□□であり、歪み肥大化したエゴの持ち主である。

彼の行為は自己中心的な卑劣極まるおぞましい犯罪行為であり、献身や自己犠牲などでは断じてない。

最大の犠牲者は無論技師である。

それを探偵には「とてつもない犠牲」と呼ばせ、ヒロインには「底知れぬほどの愛情」と呼ばせ、作中のどの人物もXの異常性を弾劾しない。

そしてタイトルには「献身」の2文字。

これは一体どういうことだろうか?

断っておくが私は倫理観をもってXの行為を断罪しているのではない。

そんなことを問題にしていたらミステリは読めない。

問題はXではなく筆者だ。

Xの行為を賛美していると理解されかねない作品を描いた筆者の真意に思いを馳せるのである。

本作のラストは様々な解釈と感慨を許容する柔軟構造になっている。

Xの行為への感動、Xの行為自体への非難、Xの行為が結果としてヒロインをより苦しめたことに対する非難、Xの人間・女性理解の乏しさへの指摘・・・

どれもが正解になり得る。

この問題作を様々な批判を覚悟のうえで敢えて描ききった著者の凄みを感じざるを得ない。

本作の素晴らしいストーリーテリング、巧緻極まるテクニック以上の衝撃がそこにある。

 

出典:http://mystery-reviews.com/content/book_select?id=815&page=2

 

 書評子は問題はXではなく筆者(=著者・東野圭吾)だと書く。そんなことは当たり前だろう。

 ミステリ中に出てくる極悪犯人を描くことなら、前述のクリスティはもちろん、稀代の犯罪者・モリアーティ教授を作中に登場させたコナン・ドイルも弾劾されなければならない。東野圭吾がやったのは、ドイルがモリアーティを英雄視したり、クリスティが『ABC殺人事件』の犯人に賛辞を呈したりするようなことなのであって、このことこそ問題なのだ。

 『容疑者Xの献身』が直木賞を獲ったのは2005年だった。小泉純一郎が郵政総選挙で自民党を圧勝させた年だ。私見だが、当時(現在も変わらないが)格差や貧困の問題が意識され始め、それに対してこの選挙結果で良かったのかどうかという疑問が人々の心に生じ始めた。翌年から翌々年にかけてはNHKスペシャルが「ワーキングプア」の特集を3回に分けて放送するなどして、新自由主義に対する批判が強まっていった。それが同年秋以降に2009年の政権交代までの間に広がったことが民主党*7への政権交代につながった。ホームレス問題は新自由主義の弊害の象徴ともいえた。

 そんな時代に作中に隅田川畔で暮らすホームレスを登場させ、真犯人がそのホームレスを虫けらのように虐殺する小説を「献身」と銘打った。そのことに対する疑問を誰も作者に投げかけなかったのだろうか。

 それが私の抱く最大の疑問だが、その点はクリアしている上記レビューのように、せっかく作品の問題点を鋭く問う文章を書きながら、批判をそこで寸止めにして満点を与え、「この問題作を様々な批判を覚悟のうえで敢えて描ききった著者の凄みを感じざるを得ない」と書いてしまうのは、評者に妙な「同調圧力」が働いているためではないかと疑わずにはいられない。No.78の「アイス・コーヒー」氏のように、本作に1点をつけて酷評した書評子でさえ、書き出しの部分に「あまりに有名な作品だけにこの点数をつけるのにはずっと躊躇していた。それゆえ、本作の書評は今まで避けてきたのだった」と書いている。物言えば唇寒しの不健全な傾向だ。

 これでは、仮に東野圭吾が文字通りの意味での「献身」や「純愛」を意図して書いたのではなかったとしても、「弱者に対しては何をやってもかまわない」という、もう30年くらい前からこの国にはびこっている悪しき風潮を助長するだけだ。

 東野作品を30冊近く読んだ私の意見は、東野は何も考えていないに違いないというものだ。悪ガキがそのまま大人になり、還暦を過ぎても考え方が全然変わらない人。それが私の「東野圭吾観」だ。最初に東野を読み始めた頃は、さすがにそんなことはあるまい、東野には読者に考えさせる意図があるのだろうと思っていた。しかしその後、そうした意図を感じさせるものが東野作品からは一切伝わってこず、その逆に、たとえば『手紙』で加害者家族にも加害責任があるとする家電量販店の平野社長の言葉が東野の意見を代弁したものであることがわかってくるなどして、東野という人は読者に受けさえすればそれで良いと思っているに違いないと確信するに至った。

 現在は、あまりにも東野が大嫌いになってしまったので、『容疑者Xの献身』を再読したいとは全く思わないが、気が変わったら再読してミステリとしての同作の構造を調べ直す気が起きるかもしれない。しかしそういう機会は近い将来にはなさそうだ。そんな暇な読書をするくらいなら、他の本を読みたいと思うからである。

 

 東野圭吾の悪口で記事を締めるのは後味が悪いので、前記『容疑者X』の構造を分析したブログ『批評界』からもう一つ、クリスティの『そして誰もいなくなった』の書評に軽く触れておきたい。

 

criticalworld.seesaa.net

 

 私は全く知らなかったが、本作にはクリスティ自身による戯曲版があり、その結末は小説とは大きく異なるのだそうだ。以下引用する。

 

 正しい社会と人間の存続は両立しない、というこの問題に一つの答えを提示してあげたいと思うのだが、なんと作者アガサ自身が答えを用意してくれていたのでそれを紹介しようと思う。アガサは小説の完成の後にこれを舞台劇の脚本に書き直して結末を変更している。それは最後に残った男女が恋愛に目覚めるというもので、愛により疑心の連鎖から解放されて、二人の力で一人の犯人に打ち勝つというものである。

 例えば男が「僕は君を殺さないし、君に殺されても構わない」と主張した場合に女は安定を得る事ができる。同時に女の方も「あなたを殺す気はないし、もしあなたが悪で私を殺しても私はそれを受け入れる」と愛情に目覚めれば、互いを疑い合う理由を払拭できる。この二人のどちらかが犯人の場合はやはり滅亡するが、どちらも犯人ではなかった場合に二人は信頼を築く事ができるのだ。ひいては家族という最小の社会を構築する事に成功する。この社会は二人の適度な悪を許してくれるし、二人を存続させるための正義で守ってくれる。ここに犯人が現れて、二人がその犯人を暴力で殺してしまっても、残った二人が互いの殺人罪を許し合う事で罪悪感から解放される。絶対正義の前ではいかなる殺人も罪だが、私を守るために仕方なく犯人を殺してくれたと思えば、二人の罪は二人の中で軽減される。

 つまり、自分を犠牲にする覚悟で相手の罪悪を許す事から、社会は生まれる。もちろん相手が「犯人」であれば社会はすぐに滅亡するが、そもそも犯人かも知れないと疑う事を止めなければ社会は形成されないのだ。だから自分を守る社会を作りたければ相手を信じるしか道はない。信じた相手が犯人ではなかった場合に社会は成立し、その社会は自分たちの悪を許して、自分たちを脅迫する悪は許さない、という捻れ倫理を構築してくれるのだ。こう考えると最小限まで衰退した社会は必ずしも滅亡するとは言えず、諦めるまで追い詰められた時に再生の道が開ける可能性を見つける事ができる。

 アガサ論理で社会を語るならば、現行の社会は必ず滅亡するが、その時に愛が芽生えて新しい社会が生まれるという事になる。またその新しい社会も段々と人々を苦しめて滅亡へ向かうが、その時の若い人たちの愛でまた新生する。これにより、そして誰もいなくはならない。

 

(ブログ『批評界』より)

 

出典:http://criticalworld.seesaa.net/article/459911060.html

 

 この記事を読んで少し調べてみたが、童謡には2種類の終わり方があり、そのそれぞれのエンディングに合わせて小説と戯曲が書き分けられたもののようだ*8

 

www.cinematoday.jp

 

 以下引用する。

 

 原作では、童謡の通り全員が死に絶えてしまうが、これはあまりにも陰鬱なラストだとして戯曲では2名が生き残る。この2名は罪を犯しておらず、何ら罰せられる理由はない。だから童謡に「首をくくった」と「結婚した」の2バージョンあるラストでは、後者のニュアンスをくんで最後の2人がハッピーエンドとなっている。厳密に言えば、戯曲と映画はこの2人の設定などが多少違うが、全員が法では裁かれなかった重罪を犯している一方で、人を裁くことに異常な執着を持つ元判事の計画によって制裁される原作に比べると、重苦しさはかなり減少する。ここが原作と戯曲・映画の好き嫌い、評価が分かれるところだろうか。クリスティが作品に込めた正義感、社会的制裁が下されることのない犯罪を許すことができないという思い。同時に人が人を裁くことに対する懐疑、絶対的な正義といったものを肯定することへの危惧といった、原作の根底にあるテーマ性が薄れてしまうからだ。

 

出典:https://www.cinematoday.jp/news/N0088142

 

 小説版で2人が犯していた殺人は、戯曲及び映画では犯していなかった設定に変えられているようだ。でも、この設定は変えなくても良かったのではないか。罪を犯さなかったから死なずに済んだというのは、いささかご都合主義の因果応報物語だろう。現実を見ても、新型コロナ対策に手を抜いて多くの死亡者を出した政治家がいるけれども、彼あるいは彼女は決してそのせいで殺されたり祟りで死んだりはしない。

 クリスティは小説版でも「社会的制裁が下されることのない犯罪を許すことができない」という正義感よりも「人が人を裁くことに対する懐疑、絶対的な正義といったものを肯定することへの危惧」の方に重点を置いていた。それなら、戯曲版でも映画でも、2人が殺人を犯していたという設定は変えない方が良かったように思う。

 しかしながら、そんな些細な不満は『容疑者Xの献身』の巨大な問題点と比較すれば取るに足りない。東野圭吾アガサ・クリスティとでは、比較をするのもおこがましい話だ。

*1:https://www.amazon.co.jp/-/en/gp/customer-reviews/RXHA5H7WA9PFJ

*2:先日公開した記事に書いた通り、私が乱歩選の十傑の中で唯一10点をつけたのは『アクロイド殺し』。

*3:島倉千代子のヒット曲の題名らしいが、私が直ちに思い出すのは小泉純一郎が総理大臣時代に発したふざけた言葉だ。小泉はその発言で、健在だった恩人を勝手に死者に決めつけてしまった。

*4:最初の殺人事件の犯人である女性と区別するために「真犯人」と表記する。

*5:さすがに「幾何の問題に見せかけて実は関数の問題」という喩えの意味は読後にわかったが。

*6:ポワロは『アクロイド殺し』や『エンド・ハウスの怪事件』(『邪悪の家』)、それに『もの言えぬ証人』の犯人たちに対しては、自殺を教唆したり容認したりしている。これは厳格な死刑制度のあった頃のイギリスでは、殺人が暴かれた彼らの絞首刑は避けられなかったため、ポワロは彼らに「尊厳ある死」を選ばせる程度の恩情をかけたものと解される。

*7:当時の民主党もまた新自由主義色が濃厚な政党だったことが2012年の自民党の政権復帰の大きな原因の一つとなったと考えているが、書き始めると長くなるので省略する。

*8:なお小説版では童謡のポジティブ版である「結婚した」を思い浮かべながら最後の1人(と思われた人物)が自殺していた。私は小説版の犯人を当てることはできなかったが、最後に自殺する人物は誰であるかだけはわかった。だから自殺のシーンの直前に「頼むから自殺しないでくれ」と思ったが、そうはならなかった。それだけに、戯曲と映画での2人が生き延びるという結末にはほっとさせられる。なお私が小説版を読みながら疑っていたのは、最後から3番目に死んだ登場人物だった。最後に残った人物が犯人でないことだけは読む前から知っていたが、最後から2人目とも思えなかった。真犯人は一時疑っていた人物だったが、そんなに遅くなく死んだので候補から外してしまったのが失敗だった。

E・C・ベントリー『トレント最後の事件』(1913)は名作。『アクロイド殺し』が好きな人はきっと気に入る

 このところ、戦前から戦後初期にかけての日本における英米、特にイギリスのミステリの受容史への関心が高まっている。その一環として、2017年に創元推理文庫から45年ぶりに改版されたE・C・ベントリーの『トレント最後の事件』(1913)を読んだ。これは新訳版ではなく、1972年に同文庫から出ていた大久保康雄(1875-1956)訳を改版したもので、旧版では中村河太郎(1917-1999)が解説文を書いていたらしいが、杉江松恋(1968-)の解説に差し替えられている。

 結論から書くと、非常に面白かった。1920年代以降に全盛期を迎える近代本格推理小説の嚆矢と目されているとのことだが、その評価は正当だろう。

 本作は現代の日本ではなぜか不人気のようで、アマゾンカスタマーレビューや読書メーターでのレビュー数も少ない。図書館で借りた文庫本奥付を見ると、「2001年4月13日 21版」の下に「 新版 2017年2月24日 初版」とある。おそらく、2001年に旧版の第21刷を発行したあと16年間増刷されず、その間本作は入手困難になっていたのではないかと想像される。レビューが少ないのはここらへんの事情にもよるのだろう。

 ここ数年、東京創元社は内外のミステリの古典的名作を新版で多く出している。国内の作品では大岡昇平の『事件』の「最終稿に基づく決定版」*1を出しており、その価値は高い。

 英米の古典でも、クロフツの『樽』、フィルポッツの『赤毛のレドメイン家』などの新訳版を出している。しかし『トレント最後の事件』は新訳版ではなく旧訳の新版だ。それだけ同文庫の編集部でも「格下」にみられているのかもしれない。残念な話であって、私見では本作は『赤毛のレドメイン家』などよりずっと良く、『樽』と肩を並べるか、あるいは上回るのではないかと思う。さすがに、アガサ・クリスティの『アクロイド殺し』のような超名作と同格とまではいえないが。

 本作は英米での評価も高く、イギリス推理作家協会が選んだベスト100の34位に入っている。このランキングにはクリスティの『アクロイド殺し』が5位、『そして誰もいなくなった』が19位にそれぞれ入っているが、日本のミステリ読者の間に「信者」が多いエラリー・クイーンは一作も入っていない。

 

www.aokiuva.com

 

 また、アメリカ推理クラブが選んだベスト100でも本作は33位に入っている。クリスティ作品は『そして誰もいなくなった』10位、『アクロイド殺し』12位、『検察側の証人』(中篇小説と戯曲の両バージョンがある)19位、『オリエント急行の殺人』41位と4作が入っているのに対し、エラリー・クイーンは本国のアメリカでも一作も選ばれていない。

 

www.aokiuva.com

 

 長らく日本のミステリ愛好家たちの間では「クイーン、カー、クリスティ」が御三家とされ、その中でも大衆的なクリスティが一番下に見られていたが、現在ではイギリスでもアメリカでも「クリスティ、カー、クイーン」の序列になっている。日本のミステリ受容史においてはまずヴァン・ダインが評価され、彼の路線をさらに突き詰めたクイーン(フレデリック・ダネイとマンフレッド・ベニントン・リーの合作)がダインをはるかに凌駕する「女王」ならぬ「王者」として崇め奉られていた。日本では長年の間クイーンの『Yの悲劇』こそミステリの最高峰と目されていたが、そのくせこの作品がテレビドラマ化されたのは1978年を最後にない。どうやら日本でもクイーンの人気は長期低落の傾向にあるようだ。私は中学生から高校生時代に『Xの悲劇』と『Yの悲劇』、それに国名シリーズのうちタイトルは忘れたが1冊読んだものの、どれもさほど良いとは思えなかった。『Yの悲劇』よりはヴァン・ダインの『グリーン家殺人事件』の方がまだマシではないかと思ったが、そのダインも『僧正殺人事件』は面白くなかった。このダインからクイーンへの流れに馴染めなかったことと、『アクロイド殺し』を読んでいて、これはあいつ自身が怪しいんじゃないかと思っていたところに級友のネタバレを食ったために「本格」の愛好家になり損ねたのだが、英米でのクイーンの凋落とクリスティ人気の健在を知って、若い日の感性は決して間違ってなかったんだなと勝手に思っている。

 クリスティの『アクロイド殺し』は中学生時代にネタバレを食ったために最後まで読む気が起きなくなって挫折したが、今年4月に初めて最後まで読み通した。その後クリスティ作品は累計で29冊読んだが、犯人を知っている状態で読んだ『アクロイド殺し』がそれにもかかわらず一番面白く、『そして誰もいなくなった』も『オリエント急行の殺人』も『ABC殺人事件』も全部読んだけれども、そのいずれも『アクロイド』より面白いとは思えなかった。どうやら私には叙述トリックに対する特別な好みがあるようだ。

 その私には、『トレント最後の事件』はとりわけ面白かった。本作は、『アクロイド殺し』が好きな方には必ずや気に入っていただけると確信している。

 その理由を説明するには、どうしても本作のネタバレをしないわけにはいかない。従って、それを知りたくない方は以下の文章を読まないでいただきたい。

 

 『トレント最後の事件』は、探偵小説に恋愛の要素を組み合わせたとの意義が強調されることが多い。またスーパーマン的ではない探偵が失敗するのが新機軸だとの評価もある。作者のベントリーにこうした創作意図があったことは確かだろう。

 しかし、それよりもミステリ史上における本作の意義は、多重どんでん返しや叙述ミステリといった、後年のクリスティが初期作品の『ゴルフ場殺人事件』(1923)や『アクロイド殺し』(1926)でやった手法をクリスティより10年以上先駆けてやったことではないだろうか。

 叙述トリックについては、2017年の創元推理文庫新版につけられた杉江松恋氏の解説文に興味深い指摘がある。氏の解説文はネットで読めるので、下記にリンクを示す。

 

www.webmysteries.jp

 

以下引用する。

 

詳述は避けるが、真相を知ってから第四章までを読み返すと、新鮮な驚きがあるということだけは銘記しておきたい。いわゆるダブル・ミーニングの技法が効果的に用いられていることが判るはずだ。

 

 解説者のおすすめに従って最初の4章を読み返したが、確かにその通りだった!

 以下、核心部に触れる、つまり大きなネタバレになるので知りたくない人は絶対に読まないでいただきたいが、どうしても目に入りそうな部分は白文字にしておく。

 実は私は、第3章の記述から真犯人を最初から疑っていた。杉江氏書くところの「ダブル・ミーニング」の「裏」の意味が、薄々とではあるが読み取れたのだ。結果的にはそれが当たっていたのだが、この人物は途中から終盤のある時期までほとんど出てこないので、いつしか忘れそうになっていた。しかし、第13章で事件の「最重要容疑者」(文庫本の裏表紙による)でもあるヒロインが真相を知っていることをトレントにほのめかすあたりから、再びこの人物に対する疑惑が頭をもたげ始め、トレントが新聞記事の原稿をその人物にも見せたというセリフを読んで「いいのか、そんな奴に見せて」と危ぶんだ。そして最後の第16章「完敗」での二度目かつ最後のどんでん返しの直前には「ああ、やっぱりそうだったのか」と思った。だから真犯人が真相を明かした時には全く驚かなかった。以上から「フーダニット」に関しては、作者は読者に対して十分なヒントを与えるフェアプレイをやっていたと断言できる*2

 だが、後半を読んでいる時には、ある時点までその登場人物を忘れていたので「犯人がわかった」とまで言うつもりはない。当該の人物に対する一定の疑惑を、少なくともストーリーの最初の方と最後の方では持っていたというだけだ。

 ただ、たとえば「読書メーター*3に投稿された感想文に、

最後は唐突な感じがした。もう少し伏線があれば良かったのかもしれない、ちょっとしたオマケになってしまった気が、、、

とか、

結末、あれってアリなの?

とか、

最終章を除けば立派なミステリにもかかわらず、ラストの数頁を以ってアンチ・ミステリと化し、読了後には本を叩きつけて「もう探偵小説などやめてやる」と言ってやりたくなる。

などと書いている読者に対しては、「そりゃあんたに注意力が欠けていることを自白しているだけだよ」と言いたい。

 私がことに感心したのは、第3章に書かれた真犯人の下記の言葉だ。以下引用する。

 

「じゃ、それっきりマンダースンとは会わなかったんですね」

「そう――いや、会ったというべきかな――一度だけね。その日の夜遅く、ゴルフ場で彼を見かけたが、わしは言葉をかけなかった。そして、そのつぎの朝には、彼はもう死体になっていたのだ」

創元推理文庫の2017年新版45頁)

 

 実際には、「わしは言葉をかけなかった」時点と「そして」の間に、彼は被害者を射殺していたのだ。

 これと似た記述のあるミステリの超名作をわれわれは知っている。そう、クリスティの『アクロイド殺しで殺人が行われた前後の記述だ。叙述トリックにおいてベントリーはクリスティに先駆けていると思った。ただ、ベントリー作品では三人称で書かれた「信頼できない発話者」*4だったのが、『アクロイド殺し』では一人称の「信頼できない語り手」になっている。以前にも書いた通り、後者のアイデアチェーホフの『狩場の悲劇』(未読)という先例があるそうだけれども、あのように完成度の高いミステリに初めて仕立て上げたのはクリスティだった。

 これが、『アクロイド』が好きな人は本作もきっと気に入るはずだと私が考える最大の理由だ。実際、「ミステリの祭典*5」というサイト*6に「江戸川乱歩氏が選んだ『ベスト10』のラスト1冊として拝読」と書いた「No.7」の評者である「蟷螂の斧」氏は、乱歩選の10作のサイト内平均点と自らの採点を併記しているが、『アクロイド殺し』を満点の10点、『トレント最後の事件』を9点としている。私も同じ点数をつけるか、本作には恋愛小説部分にダルなところがあるのを差し引いて8点とするかを迷うところだろう。なお『樽』には7点か8点*7、また最近読んだ『赤毛のレドメイン家』には4点をそれぞれつける*8。また、アマゾンカスタマーレビューに「アクロイド殺しよりも意外でした」と書いた評者もいた*9。評者は本作に星2つしかつけていないが、「探偵小説としてはとても面白いですし、よくできている」、「古典の探偵小説としては☆五つ」などとしながら「普通の恋愛小説としては☆一つになってしまいます」との理由で総合点としては星2つにしたものらしい。それは「推理小説と恋愛的要素を結びつけたところが新しい」などという世評に惑わされた採点に過ぎまい。私も評者と同様にミステリとしては星5つ(10点満点なら9点)で恋愛小説としては星1つだと思うけれども、私が読みたいのは恋愛小説でなくミステリだから総合点は星4つにする。なお、『赤毛のレドメイン家』はミステリとしては星2つか3つ、恋愛小説としては星1つで、こちらの方が総合点は星2つになる。

 アクロイドとの絡みに話を戻すと、最後の第16章「完敗」に面白い固有名詞が出てくる。トレントカプルズ氏に「シェパードの店へでも行きましょうか」と誘う。カプルズ氏は「シェパードというのは、どんな人間かね?」とカプルズ氏は言い、それに対してトレントは「シェパードというのは何者かとおっしゃるんですか?」とカプルズ氏の質問を繰り返す(本書新版292-293頁)。本作は1913年に書かれ、『アクロイド殺し』はその13年後の1926年後に書かれているから偶然の一致でしかないのだが、前記の叙述トリックが共通していることもあって、もしかしたらクリスティはあの作中人物の名前を本作のこの部分からとったのではないかと思ってしまった。もちろんその可能性は低いというよりほとんどなく、単なる偶然に過ぎないだろうけれども。

 あともう一つだけ、本作には『アクロイド』に限らないクリスティ作品との大きな共通点があるが、これについては下記リンクの書評を援用して論じたい。下記リンクの本作に対する批評はまことに素晴らしい。

 

 以下引用する。

 

【これよりさき『トレント最後の事件』の結末にまで構わずふれてしまうので、未読のかたはほんとにご注意を(警報レベル:高)】

 

■本書の醍醐味はやはり、見事などんでん返しの施された終盤の2章にある。とりわけ、一度真相をひっくり返したうえで一件落着の雰囲気に読者を油断させておいてから、不意に次なる真相が語られる、最終章のぬけぬけとした展開は本当にすばらしい。
■ここで明かされる事件の真相は、次の3つの要素を同時に達成しているのではないかと思う。

  1. 事件の合理的な説明。
  2. 探偵小説への痛烈な皮肉。
  3. 完璧なハッピーエンド。


■以下この線に沿って述べていくと、まず「合理的な説明」から。最終章の手前で英国人秘書マーロウの語る話はかなり意外だし信用もできそうなのだけれど、読んでいていくつか疑問も湧いてくる。ひとつは、被害者の実業家マンダースンが「自分で自分を撃った」のでないことは一応科学捜査で証明されたのでは、ということ。あと、そもそも〈他人を陥れるために自殺する〉なんて計略はいくらなんでもありそうにない。けれども最終章に入って〈撃ったのはカプルズ老人〉とわかり、しかも〈死ぬつもりまではなかったのじゃないか〉と説明され、さきの疑問はあっさりと氷解する。欠けていたピースがぴたりとはまる、とてもあざやかな展開だ。
■この結末はそれだけでなく、むろん「探偵小説への皮肉」の意図も含んでいる。マンダースンの常軌を逸した奸計に、そこをカプルズ氏と出くわしてしまう偶然、そして秘書マーロウのやたら手の込んだ偽装工作。三人の別々の意図がたまたま交錯した結果「探偵小説らしい謎のある事件」の外観ができあがってしまった。世の中はなべてそういう複雑な意図が絡みあってできているもので、だからひとりの「探偵」がすべてを見通してしまうことなんてありえないのではないか、ということ。「探偵が推理して解決する」物語形式への風刺に満ちた結末で、ゆえに青年トレントは最終的に「完全に参りました」と降参して探偵を辞める宣言をするに至ってしまう。
■ただしそんな皮肉な幕切れにもかかわらず、本書の読後感はなぜだかとてもさわやかだ。これはきっと「完璧なハッピーエンド」を達成しているせいではないだろうか。物語の主要な登場人物は、誰もが事件のおこる前より実は幸せになっている。秘書のマーロウは幸せに結婚したし、メイベル・マンダースンは不幸な結婚から解放されてかわりにいい相手を見つけた。推理に敗れたトレントにしてもしょせん本業ではないし、恋の成就のほうがむしろ大事。こうしたずうずうしいくらい円満な図式はもちろん、死んだ米国人富豪マンダースンを徹底して吊るし上げることで可能になっている死人に口なし、にもほどがあるような扱いだけれど、やはり結末がきれいすぎるせいかほとんど反感をおぼえない。
■そもそも探偵小説は犯罪を扱うのだから、悲劇になりやすい物語形式なのは間違いないだろう。悲劇の起こったわけを説明するためにまた昔の悲劇をこしらえたりと、悲劇の芋蔓式増殖さえもひんぱんに起こる。そんなことを考えあわせると本書のきわめて幸福な結末には、これまた批評めいた視座を感じないでもない。
■というわけで、最終章はいわば「理知」「諧謔」「感情」をいちどに満足させる、きわめてあざやかな展開になっている。皮肉としかいいようのない物語にもかかわらずとても読後感がさわやかなのは、このよく練られた美しい構造によるものだろう。この作品にかぎらず、ひねくれた諧謔を連発しながらも最後は幸福な結末できっちりと締める、というのは英国の娯楽小説に脈々と受け継がれてきた系譜のような気がする。たとえば、めくるめく皮肉の果てになんとなく安堵の結末へと着地するアントニイ・バークリーの傑作『試行錯誤』(創元推理文庫)はその典型だし、近くは「フロスト警部」物語なんかにも、その流れに通じるような精神を感じる。
■超絶の傑作というよりは上出来の佳作といったおもむきの『トレント最後の事件』が、これまでいろんなところで高く評価されてきたのも、結局はそのあたりの健全な英国的精神ゆえなのではないだろうか。

(「『トレント最後の事件』現代的解説」より)

 

出典:http://mezzanine.s60.xrea.com/archives/trent.html

 

 「クリスティ的」というのは、被害者の米国人富豪、というより米国人資本家を除くすべての登場人物がハッピーエンドを迎える結末のことだ。クリスティ作品でも犯人はポワロの教唆によって自殺したり、ポワロ及び作者のクリスティが絶対に許せないと思った極悪犯人を絞首刑にしたり、稀に作者が愛着を感じた悪人を放免したり*10するが、それ以外の男女の登場人物が結ばれるなどする。但し、作者に気に入られていない人物はそのまま放置されるが(笑)。

 しかし、第13章でヒロインが「相手が殺されてもいいようなことをして、しかも殺さなければ自分が殺されるというような場合」(創元推理文庫2017年新版225頁)に犯した殺人は、当然ながら正当防衛であって罰せられない。本作『トレント最後の事件』の真犯人もその一人だった。これを知って読者は胸をなで下ろす。もちろん被害者の米国人資本家は「死者に鞭打たれ」放題だが、アメリカで多くの労働者の命を奪い続けたに違いない悪辣な資本家の末路だから「ざまあみろ」としか思えないのである。現在の日本に当てはめるなら竹中平蔵みたいな奴といったところだろうか。

 

 ところで、引用文中の赤字ボールドは引用者による。

 そもそもベントリーは職業作家ではなくジャーナリストであり、ミステリ長篇としては他に本作の23年後に他人との共作で書かれた『トレント自身の事件』(1936)があるだけで、それは駄作とされている。他に短篇集『トレント乗り出す』(1938)があり、こちらはそこそこ評価されているようだが、ミステリはこの3冊だけであって、詩人でもあったけれども小説は他に書いていないようだ。つまり彼はアマチュア作家だった。

 しかしベントリーはミステリ作家のG・K・チェスタトンと親交があり、本作は彼に献げられている。Wikipediaを参照すると、チェスタトンボーア戦争に反対した自由主義者であり、「資本主義・社会主義双方を排撃し、配分主義を主張した」とある。反面、「当時の知識層の例に漏れず、キリスト教徒としての視点や植民地主義に立脚した,黒人やインディアン、インディオ、東洋人など他民族への偏見・蔑視が色濃いことも特徴である」とのことだ。

 このチェスタトン評は、そのままベントリーにもそっくり当てはまるのではないか。

 作者のこのスタンスは、『トレント最後の自身』の冒頭部分から明らかだった。ああ、この人はコナン・ドイルアガサ・クリスティのような保守派とは対照的な「リベラル」の人だったんだろうなと思った。しかしその反面で、アメリカ先住民(作中での表記は「インディアン」)や彼らと白人との混血、それに東洋人に対する差別意識には強い反感を抱かずにはいられなかった。ここらへんが20世紀初頭のイギリスにおける「リベラル」の限界だろう。

 そこは大いに気に入らないけれども、アメリカの極悪資本家を血祭りに上げたうえ、徹底的に「死者を鞭打つ」あたりの伝統は、マーガレット・サッチャーが死んだ時に「今や地獄が私営化されている*11」と皮肉った反サッチャー派に引き継がれているのではないか。菅義偉が退陣を表明しただけで「お疲れさま」と言ってしまう日本の腰抜け「リベラル」とは大違いだ。

 なお、こういう結末は、上記サイトが指摘する通り「俗物のヤンキーが田舎成金の分際で洗練された英国人の仲間入りをしようとしてうまくいかず勝手に自滅する、とあからさまに反米・愛国主義的な物語」でもあり、こういう気質は保守派のクリスティにも大いにあるのだが、同じく上記サイトが指摘する通り「そんな作品が諸々の事情から最初に米国での出版が決まるという経緯をたどった」ばかりか、今も英米作家たちが選ぶミステリのランキングにおいて、イギリスでの34位に対してアメリカで33位にランクインしているあたりがアメリカ社会の懐の深さかもしれない。

 これに対して日本のネトウヨは、エスタブリッシュメント層に身も心も献げてしまって「肉屋を支持する豚」の惨状を呈している。

 いや、ネトウヨだけならまだしも、日本の人気ミステリ作家である東野圭吾が書いたガリレオシリーズ*12第8作『禁断の魔術』には、極悪政治家が無傷のまま生き延びるという最悪の結末が用意されているが、これを東野の「リアリズム」だといって作者を賛美する読者がいる。この作品では、大学の物理学教授が高校生に実用化もされていない兵器技術を教え込みながら、それを極悪政治家に向けて発射しようとする高校卒・大学中退の若者を当の物理学教授が最後に止めるのだが、止められて逮捕されるであろうこの若者その後の人生に希望など全くといってないことは、少し想像してみれば誰にでもわかるだろう。しかし東野作品の読者はその程度の想像力さえ働かせようとはせず、読書サイトは東野作品に対する翼賛の場と化し、「政治家を撃たずにすんだ。良かった良かった」など言っている。はっきり言って吐き気がする。

 当該東野作品の悪口はこれまでにももう何度も書いたから「またか」と思われる読者もいるかもしれないが、あまりの惨状なので書かずにはいられない。香港の学生反体制活動家・周庭は、東野作品なんかを断じて読むべきではない。

 さすがにこんな陰気な話で記事を締めくくりたくないので、どういう締めにしようかと思案しているうちに、ベントリーとクリスティとの共通点がもう一つあったことを思い出した。それは両人が音楽、ことにオペラが大好きであるらしいことだ。本作にトレントが(ワーグナーの)『トリスタン(とイゾルデ)』を聴きに出掛け、そこでヒロインに遭遇する場面がある。クリスティのポワロものやマープルものにオペラが出てきた例を私はまだ知らないが、短篇集『謎のクィン氏』やノン・シリーズの『シタフォードの秘密』には出てきて、クリスティがワグネリアンであったことがわかる。彼女はもともとオペラ歌手を志望していたが声がオペラ歌手には不向きで、止むなく大学で薬学を専攻した。『トレント最後の事件』では、(ベートーヴェンの)第9交響曲が結末を暗示してもいる。トリスタンとイゾルデのようにではなく、第9のフィナーレのように終わることを予告しているわけだ。そういえばベートーヴェンは市民革命に強く共感するとともに、音楽史上において古典派の総まとめとロマン派の創始者の二役を担った人だった。

 本作にはさまざまな限界はあるものの、100年ちょっと前のイギリスのリベラリストが書いた、忘れがたいミステリだ。

*1:http://www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784488481117

*2:その他の部分で若干アンフェアな部分があるが、そんな議論がなされる前の1913年の作品だから致し方ない。

*3:https://bookmeter.com/books/60813

*4:クリスティはマープルものの短篇集でこの趣向の作品も書いている。

*5:「祭典」とは「採点」に引っかけたネーミングだろう。

*6:http://mystery-reviews.com/content/book_select?id=1173

*7:クロフツでは『クロイドン発12時30分』に8点か9点をつけたい。

*8:他の作品については、『Yの悲劇』は昔読んだきりだから再読したらどうなるかわからないがおそらく5点か6点、『僧正殺人事件』も同様だがおそらく4点か5点をつける。『黄色い部屋の秘密』は少年向きリライト版しか読んだことがなく、『帽子収集狂事件』、『赤い館の秘密』、『ナイン・テイラーズ』の3作はいずれも未読。

*9:https://www.amazon.co.jp/-/en/gp/customer-reviews/R2ERHX8EU1OV7S/

*10:その一例が『アクロイド殺し』に先駆けて某作に登場する「信頼できない語り手」である。

*11:イギリス英語の綴りで "Hell is now being privatised"(米語では "privatized")。"privatise" を「民営化」と訳すのは誤りで、あくまで「私営化」と訳されるべきだ。

*12:ネット検索で知ったが、今月(2021年9月)に東野はガリレオシリーズ第10作を刊行したらしい。今度はどんな破廉恥な作品になっているのだろうか。

フィルポッツ『赤毛のレドメイン家』、クリスティ『予告殺人』『シタフォードの秘密』、横溝正史『蝶々殺人事件』、坂口安吾「推理小説論」を読む(ネタバレ若干あり)

 本記事には、表題作その他のミステリのネタバレが若干含まれているので、これらの作品を未読かつ読みたいと思われる方は、本記事を読まれない方が賢明かと思う。

 最近多く読んでいるアガサ・クリスティ(29冊)から少し離れて、同時代の人であるクロフツ1920年代と30年代に書いた『樽』と『クロイドン発12時30分』を読んだことは前回書いたが、クリスティやクロフツに関連して戦前の日本で評判の高かったミステリのうち、イーデン・フィルポッツの『赤毛のレドメイン家』(1922)の新訳版が2019年に創元推理文庫から出ていて、それが図書館に置いてあったので借りて読んだ。発行は一昨年で、図書館にはあまり借りる人もいないらしく、新品同様だった。

 

www.tsogen.co.jp

 

 このフィルポッツという人は特にミステリ作家というわけではなく普通小説、特に「ダートムアもの」と呼ばれる田園小説を多く書いた作家で、少女時代のアガサ・クリスティの隣家に住んでいて、創作を始めたばかりのアガサの小説にアドバイスを与えたとのことだが(クリスティの自伝にそう書いてあるらしい)、50歳の1912年からミステリ的な要素のある小説も書くようになたらしい。クリスティ(やクロフツ)がミステリ作家としてデビューした1920年の2年後に発表された『赤毛のレドメイン家』を江戸川乱歩が偏愛したために、本国のイギリスやアメリカ以上に日本で人気を博したそうだ。しかし、『赤毛のレドメイン家』を一読してみたが、ミステリとしても普通小説としてもさほど良いとは思えなかった。

 本作の2年前に刊行されたクロフツの『樽』と同様、途中で探偵役が入れ替わり、最初から出ていた「スコットランド・ヤードの出世頭の敏腕刑事」のはずの御仁が、物語の後半役では脇役になってしまう。創元推理文庫の旧版の解説では「ワトソン(ワトスン)役」と評されていたらしいが、私が読む限り、ワトソンどころかクリスティのポワロ(ポアロ)ものに出てくるヘイスティングズ並みの間抜けさだ。しかも、あとから出てくるまともな探偵役の方も、このヘイスティングズ的な相棒に留守の間を任せてしまい、みすみす親友を殺されてしまうという大失策を犯す。もちろん最後には犯人を逮捕するのだが、依頼人を殺してしまう探偵など最悪だろう。クリスティ作品に喩えてみれば、ポワロがヘイスティングズ依頼人の身柄確保を頼んだ結果、ヘイスティングズが美貌の悪女に騙された結果、みすみす依頼人が殺されてしまったようなものだ。しかも、共犯者であるこの美貌の悪女も魅力に乏しい。辛うじて実行犯の男には存在感があるが、彼とて飛び抜けて印象的とまではいえない。本作も作者のフィルポッツも英米ではすっかり忘れ去られているそうだが、それも仕方ないだろう。本作は完全な「外れ」だった。

 これに対し、クリスティ作品で新たに読んだ『予告殺人』(1950)と『シタフォードの穂密』(1931)は面白かった。前者はミス・マープルものの第4作で、前述の『赤毛のレドメイン家』同様江戸川乱歩が高く評価したほか、クリスティ自身も自作の10選に入れている。

 

www.hayakawa-online.co.jp

 

 昨年(2020年)がクリスティ没後100年に当たっていたため、ハヤカワクリスティー文庫から新訳版が出たが、読んだのは羽田詩津子(1957-)が訳したこの新訳版だ。それ以前には長く詩人の田村隆一(1923-1998)の翻訳で知られていたが、この田村隆一の訳は誤訳が多いことで悪名高かったらしい。

 

okwave.jp

 

 以下、「質問者が選んだベストアンサー」を引用する。

 

質問者が選んだベストアンサー

 

2009/06/25 01:54

回答No.2

 

noname#204885

 

クリスティ、大好きです。クイーン派の人からは非論理的と言われることもありますが、トリックと言うよりアイデアの秀逸さが素晴らしいです。「そして誰もいなくなった」もそうですが、推理小説を面白く読ませるアイデアのネタは殆どがクリスティの発案だと思います。

 

#1さんが挙げられているものは古典となっている代表作ですね。

亜流を多く生んだと言う点では、「ABC殺人事件」を追加しておきたいです。「オリエント急行」「アクロイド殺し」「ABC殺人事件」の3冊はあまりに有名過ぎてトリックのネタばらし本では必ず引用されてしまうので、もしwat_1987さんがまだこれらのトリックの情報を持っていないのであれば、一刻も早く読まれることをお奨めします。この3冊を予備知識無しに読めると言うのは幸運きわまりないことです。(うらやましい!!)

 

追加のお奨めとしては・・・

 

「鏡は横にひび割れて」

ミスマープルのシリーズで一番好きです。映画化もされました。いわゆる「Why dunit?:何故その人が殺されなければならなかったのか?」と言うテーマ。最後に動機が解明された瞬間に全ての構図が明らかになり、地平が一気に開けるような陶酔感が得られます。

 

「三幕の悲劇」

こちらはポワロが出てくる有名なWhy dunit?物。読後の納得感では「鏡は横にひび割れて」の方に軍配が上がりますが、亜流が多く生まれたと言う点ではこちらですね。

 

「予告殺人」は、昔のハヤカワミステリ文庫では致命的な誤訳があったことで有名。(私も読み終えて怒りました。)修正されていればマープル物のお奨めに入るんですが・・・。

 

「シタフォードの謎」はポワロもマープルも出ない初期のシリーズですが、冒頭のオカルト的な殺人予告の謎がきっちり論理的に解決される佳作です。

 

出典:https://okwave.jp/qa/q5072405.html

 

 私はクリスティ作品を29作読んだが、上記「ベストアンサー」のうち未読の作品は『鏡は横にひび割れて』だけだ。今回の記事で取り上げる『予告殺人』と『シタフォードの謎(シタフォードの秘密)』は両方とも挙げられている。印象に残っているのは『三幕の悲劇(三幕の殺人)』の "Why dunit?" であって、その犯人像はその少し前に書かれた『エッジウェア卿の死』や、少し後に書かれた『ABC殺人事件』と並んで「極悪人そのもの」としか思えなかった。ことに、『三幕の殺人』の "Why dunit?" を見破った読者などいるのだろうか。ポワロに種明かしされて呆気にとられるとともに、犯人と親しく付き合っていたエッグという女性の登場人物が気の毒でならなかった。『三幕の殺人』は私にとっては、その二番煎じとしか思えない『ABC殺人事件』などよりもよほど強いインパクトがあった。

 で、問題の『予告殺人』を訳した田村隆一の「誤訳」とは、ある登場人物が他の登場人物の名前をミス・マープルの前で呼び間違えた箇所で、呼び間違えなかったかのように名前が訳してしまったことらしい。これだと、マープルが犯人の正体を推理した重大なヒントが消されてしまう。そりゃ読み終えてから知ったら怒るはずだ。但し、田村隆一訳の旧版でも、ある時期からあとにはこの誤訳は訂正されたらしい。

 この「呼び間違い」は実に大胆不敵であって、私が気づいた限り3箇所出てきて、そのうち1箇所が前記マープルの前での発言だ。他の2箇所のうち1箇所では、呼び間違いに気づいてすぐに訂正し、話者が呼び間違えた人物に対してしきりに謝っているので、本当に重大なヒントになっている。さすがにこの場面では田村隆一も誤訳したりはしなかったようだ。

 このほか、本作には別のある人物の遺産相続人候補として「ピップとエマ」という双子のきょうだいが出てくる。"pip and emma" とは、調べてみると「午後(p.m.)」を表す古いイギリス空軍の俗語だそうだ。「きかんしゃトーマス」というイギリスの幼児向けテレビ番組にも、「ピップとエマ」電気機関車の愛称として出てくる。絵本にもなっているらしく、ピップの本名は最終第42巻で明かされるという。

 

onara.hatenablog.com

 

 以下引用する。

 

フィリッパとエマ(Philippa and Emma)

 

フィリッパは普段ピップ(Pip)の愛称で親しまれており、以下はピップと表記していく。フィリッパの名が判明するのは最終42巻。

元々ピップ、エマっていうのは午後(P.M.)を表す兵隊間で使われた暗号のことだそうで。今では了解の意味で普及してるラジャーなんかも暗号から来てるようで。「レシーヴのRはロジャーのR!」みたいな。閑話休題して本題に戻りましょう、始まってもないんだけどさ!

 

出典:https://onara.hatenablog.com/entry/2017/07/01/190432

 

 そう、ピップとは愛称で、正式名称は上記のフィリッパまたはフィリップなのだ。前者は後者の女性形である。

 そして、本作にはフィリッパ*1という女性の登場人物がおり、この人物こそ遺産相続人候補の1人であう「ピップ」だった。

 しかし、これを読者に気づかせないように、作者は「ピップとエマ」とは双子の兄妹なのだと思わせるミスリードをしており、先にさらなる別の登場人物が、「私がエマだ」と名乗りを上げる。そしてこの人物には双子の兄のはずの人物がいるのだが、その2人は実は双子ではなかったのだった。

 前述の「名前の言い間違い」も愛称にかかわるものだ。しかし、これほど「どうぞ気づいて下さい」といわんばかりの言い間違いになかなか気づけない。

 特に私は、直前に読んだ(前回の記事で取り上げた)『もの言えぬ証人』では愛称の件に気づいたにもかかわらず、本作では気づけなかった。なぜかというと、言い間違えられた人物の名前は "Letitia Blacklock"、愛称「レティ」というので、「ロティ」と呼び間違えられても、ファミリーネームの「ブラックロック」の「ロ」が紛れ込んでしまったものではないかと軽く考えてしまったのだ。

 このあたりは、ネイティブのイギリス人や同じ英語を使うアメリカ人なら、もっと気づくチャンスは多いのではないかと思うのだが、実際はどんなところなのだろうか。

 ピップとエマの件についていえば、ピップとは別に「フィル(Phil)」もフィリップまたはフィリッパの愛称として使われており、現にフィリッパが「フィル」と呼ばれる場面がある。また、女性形のフィリッパの場合は "Pippa" という愛称が用いられることも多いようだ。だから、ピップという名前から主要登場人物たちが皆ピップは男性だったと思い、読者にもそのことを疑わせなかった。ただ、引っ掛かるのは、ピップの実の姉妹であるエマ(パトリックの双子のきょうだいの名前であるジュリアとい偽って名乗っていた)は、ピップが女性であることを知っていたにもかかわらず、フィリッパがピップであることに気づかなかったことだ。これはいささか不自然ではないか。

 それにしても私はかつて筒井康隆の『ロートレック荘事件』(1990)では人の姓名にかかわる叙述トリックを見破った。それなのに、外国語という言葉の障壁があるとはいえ、本作での人命のトリックは「レティ、ロティ」の謎も「ピップ」の正体も見抜けなかった。直前に、やなり愛称のトリックを使った『もの言えぬ証人』を読んでいたというのに。「やられた」と思った。

 本作の真犯人自体は、クリスティ初期のポワロものの『エンド・ハウスの怪事件』(これはもともとガラス張りのように構造がミエミエの作品だった)と同じパターンだし、2件目、3件目の殺人になると「この人しかいない」というほどあからさまヒントを作者が出しているので、"Who dunit?" 自体は簡単に見抜けたが、本作はあくまで「レティ、ロティ」の謎を見破れなければ「犯人がわかった」ことにはならない。これを見破る手がかりを作者は大量に与えていた。たとえば、レティシアがシャーロットに宛てた手紙がなぜかレティシアのトランクからでてきたこともその一つだ。「これでもまだ気づかないの?」と作者が余裕綽々で書いていたことがあとから伝わってきて、地団駄を踏んだが後の祭り。なお、マープルが真相を明かした時に私が連想したのは松本清張の『砂の器』(1961)だったが、この清張作品の成立は本作より11年遅い。

 本作には、日本語には訳しようがないと思われる手がかりがあって、それは「問い合わせ」を意味する2つの綴り "enquiries" と "inquiries" だ。ネット検索で確認する限り、両者の意味は全く同じであって、前者がイギリス英語、後者がアメリカ英語で多く用いられるものの、前者を用いるのはイギリス人に限らず、後者を用いるのはアメリカ人に限らないとのことだ*2。新訳版の訳者・羽田詩津子氏は、おそらくここは訳し分けようがないと考えて、ともに「問い合わせ」の訳語を使ったため、種明かしの場面で初めて綴りの違いが説明される。しかし、旧訳版の「読書メーター」に、このことを論った批判をしている人がいて、たとえば「問い合わせ」と「問合せ」という訳し分けができるはずで、それをやっていない新訳版には不満だ、などと書いている*3。しかしこれは、私にはいちゃもんとしか思えなかった。確かに「問い合わせ」と「問合せ」等の訳し分けは可能で、あるいは田村隆一訳の旧訳ではそのように訳していたのかもしれないが(未確認)、新訳は田村訳(の古い版)のような「致命的な誤訳」はやらかしていないのではないか。私は今春、同じ訳者(羽田詩津子氏)による『アクロイド殺し』を読んで、たいへん読みやすい訳文だと好感を持っていたので、このレビューにはいささか腹を立てた。

 本作はクリスティが60歳を迎えた1950年に書いた作者50番目の長篇だ。しかし作者のクリスティ自身や江戸川乱歩らに高く評価された作品の割には、読書サイト等での評判は高くない。真犯人が簡単にわかったことを低評価の理由に挙げる人が多い。しかし、前述のように、「レティとロティ」その他、作者がふんだんに与えた手がかりから真犯人の『砂の器』的正体を見破ることができなければ犯人がわかったことにはならないというのが私の意見だ。そこには言語の違いで英語の愛称なんか知らないというハードルは確かにあるが、仮に『エンド・ハウスの怪事件』(または『邪悪の家』)や『もの言えぬ証人』を読んだ読者であれば、当然気づくチャンスはあったはずだ。しかし私にはそれができず、「やられた」と思った。『エンド・ハウスの怪事件』では、「そもそもマグダラなんて名前のイギリス人女性なんかほとんどいないだろ」とブーたれることができたが、レティとロティではその言い逃れは通用しない。作者はシャーロットという妹の名前をなかなか出さなかったが、一度名前が出てきたあとは何度も出てくるし、マープルのメモに「ロティ」と書いてあったりもする。このマープルのメモは、誰かが指摘していた通り、エラリー・クイーンの「読者への挑戦」に相当するものだろう。それでもこの「入れ替わり」または「成りすまし」に気づかなければ、いくら「レティ」が犯人だと早々に気づいたとしても、作品に仕掛けられたトリックがわかったことにはならないのである。

 その意味で、本作はまずミステリとして高く評価できるし、犯人を初めとするキャラクターの造形でも、作者が若い頃の作品と比較して格段に深みを増していると思う。まず犯人が、本作が下敷きにしたと思われるポワロものの『エンド・ハウスの怪事件』の他、『エッジウェア卿の死』、『三幕の殺人』『ABC殺人事件』などの1930年代のポワロものの諸作品に共通する極悪人ではなく、もともとは善良であり、殺人を犯したあとでも、たとえばミッチという外国人(おそらくハンガリーあたりの中欧の出身)のメイドに対するまなざしも、他の登場人物と比較して優しい。それは、犯人自身も若い頃に病気に苦しめられた経験を持っているからかもしれない。他の登場人物の多くが、イギリス人的島国根性からミッチに対して偏見を持って「嘘つき」と非難するが、犯人は、戦争中に親族の誰かが殺された経験から、被害を実際より過大に思い込むようになり、それが結果的に嘘になったのであって、悪意があるわけではない、その気になればおいしい料理を作ることもできる、などと取り調べで答えてミッチを庇っている。ネット検索で、ミッチの描き方が外国人に対する作者の差別意識を反映していると批判した感想文をみつけたが、それは誤読だ。差別意識を持っているのは作中の「イギリス的島国根性を持つ」登場人物たちであって、クリスティの目線は彼らとは違い、作中の「本当は心優しい」真犯人と同じだ。ハンガリーの政権は第2次大戦中にはナチスに協力したが、その過程で犠牲になった同国人は多数いたに違いないし、戦後はスターリンソ連に圧迫された。本作が成立した6年後の1956年にはハンガリー動乱が起きている。ミッチはナチスドイツかスターリンソ連のどちらかに親族を殺された人であることくらいは、1950年にイギリスで書かれた小説を読む人なら想像できなければならないのではなかろうか。クリスティは確かに保守の人だったが、少なくとも1950年当時60歳のクリスティは、戦争の傷跡を持つ外国人に対して理不尽な差別意識を垂れ流すような人ではなかった。今の日本のネトウヨとは全然違うのである。

 ミッチに優しい視線を向けたことから明らかなような、本来は心優しい女性を殺人犯に変えてしまったのは「成りすまし」による遺産の詐取だった。そして犯人は、自らの過去を知る人間を殺した。このあたりが『砂の器』を強く連想させる。こういう犯人の人生を思った時、「真犯人が簡単にわかったから大したことないミステリだ」というのではあまりにも読みが浅く、せっかくミステリの名作を読んだのに、そんな読み方ではもったいないのではないか。これは、私が松本清張の愛読者だからそう思うのかもしれない。『砂の器』は、トリックだけを取り出せば三流の作品だろうが、それでもミステリ史に残る名作として今も読み継がれている。それには未だ一度も見たことがない同作の映画の貢献が大きいのだろうけれど。そういえば、中国・四国在住時代に島根県亀嵩に行っておけば良かったと今でも時々思う。今では中国山地の麓は遠いし、コロナ禍が続いているからチャンスはないけれど。

 

 最後に、同じクリスティの『シタフォードの秘密』。本作は、前述の『予告殺人』の旧訳で「致命的な誤訳」をやらかしたらしい田村隆一の翻訳で読んだ。

 

www.hayakawa-online.co.jp

 

 実は氏が翻訳したクリスティ作品を読んだのは、29作目にして本作が初めてだった。あまりにも氏の誤訳の多くが知れ渡って批判されたためかどうか、早川書房は有名作から順番に氏の翻訳を現在の翻訳家が訳した新訳版に差し替え続けているようなのだ。

 前述の『予告殺人』は最近まで田村隆一訳が残っていた、有名作にしては珍しい麗だったが、ついに昨年新訳版に差し替えられたわけだ。しかし、読書サイトなどでは、既にその一例を取り上げたけれども、田村隆一の旧訳版を持ち上げて新訳版を批判するレビュアーが少なからずいる。特に、田村訳ではポワロ(ポアロ)の口調が慇懃(無礼)であるらしく、「タメ口で喋るポアロはイメージに合わない」などと書く人が多い。しかし、田村隆一以外の訳者では、(過度に)慇懃な口調でしゃべるポワロの方が珍しいくらいであり、むしろ田村氏以外の翻訳にばかり接してきた私としては、その手のレビューを読むたびに、そんな誤訳の名人ばかり有難がるなよ、と内心毒づいていたのだった。といっても、別に故田村隆一氏に反感を持っていたわけではない。『シタフォードの秘密』が田村氏訳と知って、ついに氏の翻訳に接する機会がめぐってきたかと思った。

 本作を読もうと思ったきっかけは、坂口安吾の「推理小説論」(1950)で絶賛されていたことを知った時だ。下記に青空文庫へのリンクを示すが、多くのミステリのネタバレ満載なので読む時には注意が必要だ。私は、未読の作品が出てくる度に、直ちにその部分を飛ばしながら読んだ。そして、坂口が論評した作品を読み終える度に彼の論評を読むことを繰り返している。

 

 坂口が取り上げたミステリのタイトルは、下記ブログ記事で知ることができる。このブログ記事ならネタバレに遭う心配はわずかしかない。

 

trivial.hatenadiary.jp

 

 ただ一点だけ、クリスティの『三幕の殺人』について、

この作品のメインはホワイダニットなので、この程度のネタばらしはどうでもいいような気もするが、まあ予断なしに読むに越したことはないでしょう。

と書かれていることには同意できない。坂口安吾の文章が頭に入った状態で『三幕の殺人』を読むと、途中で犯人がわかってしまうからだ。確かに、誰も気づくとは思えない「ホワイダニット」がメインのミステリだし、犯人そのものは比較的見当がつきやすい作品ではあるが、それでもネタバレによって犯人がわかってしまうのは痛い。ラスト近くのさる場面は、真犯人を知りながら読んだのでは大いに興が殺がれてしまう。

 ところで坂口安吾が「推理小説論」で絶賛したのがクリスティの『吹雪の山荘』という作品だが、そんな名前の作品など見たこともない。ネットで調べて、現在では『シタフォードの秘密』というタイトルになっている作品だとわかった。それで、坂口の「推理小説論」を読むのはそこでいったん中断して*4図書館で『シタフォードの秘密』を借りて読んだ。読んだ限り、特に読みにくかったり意味が通じにくかったりする箇所にはぶつからなかった。

 なお、下記ブログ記事に『ABC殺人事件』における田村隆一の誤訳が、中村能三訳及び堀内静子訳と対比されて示されている。この例など相当にひどい誤訳であって、原文と正反対の意味に訳されてしまっている。 

 

 『シタフォードの秘密』の特徴は、なんといってもその単純なトリックにある。坂口安吾が絶賛したのも、まさにこの点だ。以下坂口の「推理小説論」から引用するが、下記の引用部分には、本作のトリックはまだ暴露されていない。トリックの特徴が論じられているだけだ。坂口はエラリー・クイーン及び他のミステリ作家を引き合いに出して、「クリスチー女史」を絶賛している。

 

 だいたい推理小説というものは、トリックの新発明が主要な課題となり、これによって読者と智恵くらべをするものだ。読者は、又、作者と智恵くらべをたのしむに当って、従来のトリックを多く知るはど興味が深まるものであり、こうして従来のトリックをマスターしたアゲクには、自分もひとつ推理小説を書いて未知の友に挑戦したいと考える。これが推理作家の生れる自然の順序で、本来アマチュア、愛好家という素人によっで新分野のひらかれるべき世界だ。

 推理小説というものは、常に新しい工夫、新トリックの発見によって挑戦するところに妙味があるのだから、そうヒョイ/\と卵を生むようなワケには行かず、厳密な意味では職業作家としては成り立たないのが自然なのである。濫作して、マンネリズムにおちいっては、ゲームの妙味が失せてしまう。

 ヴァン・ダインも、愛好家から、挑戦を思いたって自ら作品を書くようになったもので、アマチュアあがりらしく挑戦をたのしんでいる素人のよさや、ついでに衒学をひけらかして読者を煙にまいている稚気のほども面白くはあるが、素人の悲しさに文章がヘタで冗漫すぎること、したがって、衒学ぶりが軽快さを失って、作品を重くし、退屈にしていること、素人の良さ悪さが差引きマイナスになっている。このマイナスのところを主として模倣して、重さ退屈さに輪をかけてしまったのが小栗虫太郎であり、これが後日の日本の推理小説の新人に主たる悪影響を及ぼしているのである。

 しかし、根からの推理作家という天分にめぐまれた人もないことはない。どんなに濫作しても、謎ときのゲームに堪えうるだけの工夫と確実さを失わないという作家である。アガサ・クリスチー女史とエラリイ・クイーンが、そうである。

 クリスチー女史の華麗多彩な天分に至っては、驚嘆のほかはない。あれほどの濫作をして、一作毎に工夫があり、トリックにマンネリズムが殆どなく、常に軽快な転身は驚くばかりである。文章も軽快、簡潔であって、謎ときゲームの妙味に終始し、その解決に当って、不合理によって読者を失望させることが、先ず、すくない。ただクリスチー女史には、優雅な美人は絶対に犯人にならないという女らしい癖があって、この癖が分ると、謎ときがよほど楽になるのである。

 一般に「アクロイド殺し」をもって代表させているが、却々(なかなか)もって一作二作で片づけられるようなボンクラではなく、「スタイルズ荘」「三幕の悲劇」その他傑作は無数であるが、特に「吹雪の山荘」は意表をつくトリックによって、軽妙、抜群の発明品であり、推理小説のトリックに新天地をひらいたものとして、必読をおすすめしたい。

「吹雪の山荘」のトリックほど平凡なものはない。現実に最もありうることで、奇も変もないのであるが、恐らく全ての読者がトリックを見のがしてしまうのである。読者は解決に至って、あまりにも当然さにアッと驚き、あまりにも合理性の確実さに舌をまいて呆れはてるであろう。しかし、読みすすんで行くうちは、この悠々と露出しているトリックに、どうしても気附くことができないのである。このトリックの在り方は、推理作家が最大のお手本とすべきものであろう。

 クイーンも亦、クリスチー女史につぐ天才であり、筆も軽く、謎ときゲームの妙味に終始し、濫作しつつ、駄作のすくない才人であるが、トリックや推理の確実性、合理性という点で、クリスチー女史に一歩をゆずる。読者に決定的な証拠を与えていない場合が多く、組み立てに確実さが不足している。それが犯人であってもフシギではなかった、という程度にしか読者が納得させられない場合が多いのである。

 この二人をのぞくと、あとは天分が落ちるようだ。一二の傑作はあって、全作にわたっては駄作が多く、合理性が不足して、解決を読んで納得させられない場合が多い。概ね解決が意外であるが、合理的に意外であること、納得のゆく意外であることの重要な要素が欠けているのである。推理小説の解決は意外でなければならないが、不合理に意外ではゼロであり、不合理の意外さだったら、どんなボンクラでも不意打をくらわせることが出来るのは当然である。

 クロフツの作品は推理小説の型としては異色あるものだが、「樽」のような名作をのぞくと、駄作が多く、不合理に意外であったり、はからざる大集団の犯罪であったり、そのヒントが与えられておらず、謎ときゲームとしては、最後に至って失望させられることの方が多いようだ。

 カーも意外を狙いすぎて不合理が多すぎる。「魔棺殺人事件」は落第。

 個々の傑作としては、クリスチー女史、クィーン、ヴァン・ダインの諸作は別として、「矢の家」「観光船殺人事件」「ヨット殺人事件」「赤毛のレドメイン」ほかに思いだせないが、まだ私の読んだ限りでも十ぐらいは良いものがあったはず、しかし、百読んで、二ツか三ツ失望しないものがある程度だ。世界的に名の知れた人々の作品で、そうなのである。

坂口安吾推理小説論」より)

 

出典:https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/43189_22524.html

 

 前述のように、坂口安吾が傑作に数え入れた『赤毛のレドメイン(家)』でさえ、私には面白くなかった。クリスティの作品は、作者がかなりきわどいヒントを与えることが多いために犯人当ては比較的し易いが、トリックや動機まではなかなか当てにくく、そこが読者を飽きさせない特徴だと私は思う。

 『シタフォードの秘密』以外に単純なトリックといえば、『メソポタミヤの殺人』が思い出される。ポワロの謎解きの場面で「なんだ、そんなトリックかよ」と思ったが、読んでいる最中には全く思いつかなかった。読書サイトを見ると、ヒントが与えられていないと言ってずいぶん怒っている読者がいたが、頁をめくり返してみると、重大なヒントは確かにさらっと書かれていた。要するに種明かしされて怒った読者が不注意だっただけの話だ。クリスティは作品から受けるイメージとは相当に違って、基本的にフェアなのである。ヒントは確かに出している。だから、あの『アクロイド殺し』だって、注意深く読んでいれば真犯人を言い当てることができるはずだ。私は中学生時代、もしかしたらこいつ自身が犯人なんじゃないかと思い始めていたある日、級友にネタバレを食らってしまったのだった。このことはもう何度も書いた。

 あるいは『エッジウェア卿の死』のトリックも、多くの読者の意表を突くものだったに違いない。幸か不幸か、ハヤカワのクリスティー文庫の裏表紙を見て読む前に犯人の見当がついた私は、この人が犯人だとしたらどんなトリックがあり得るだろうかと考えていたらトリックに思い当たり、その通りの種明かしだった。しかし犯人の予断を持っていなければ気づいたかどうかはわからない。

 『シタフォードの秘密』のトリックは、『エッジウェア卿の死』は言うに及ばず、『メソポタミヤの殺人』と比較してももっとシンプルだ。坂口安吾が絶賛する通りである。私は安吾が絶賛したくだりを読んだあとに『シタフォードの秘密』を読んだが、それでもトリックを見破ることはできなかった。クリスティ作品の常で、ミスリードは張りめぐらせまくっているのだが、それでも犯人の見当はつく。最初から一番怪しかった人物が、複雑なミスリードの人間関係を知らされたあと、最後にまた「やっぱりこの人が犯人だよなあ」と思わされる。結局その人が犯人だったから、「フーダニット」まではクリアできた。しかし、その人が犯人であれば当然思いついてしかるべきトリックには、とうとう最後まで気づけなかったのである。脱帽するしかなかった。

 ハヤカワクリスティー文庫版につけられた作家・飛鳥部勝則氏(1964-)の解説も、トリックを絶賛する点で坂口安吾の「推理小説論」と共通している。以下その冒頭部分を引用する。

 

 『シタフォードの秘密』はよくできたフーダニットのお手本のような作品である。この作品の――あまりにも当然でありながら誰にも気づかれない――トリックはクリスティーの発明の中でも最上のものの一つで、それを補強する叙述のテクニックを含めて、女史がいかに推理小説愛好家の心理を読むのに長けていたかがわかる。周囲のすべてのものをかしずかせるのが《女王》だとするなら、クリスティーこそ二十世紀ミステリーの女王だったのだ。

 冒頭からして素晴らしい。閉ざされた雪の山荘で降霊会が行われ、霊魂が死の宣告をする。そしてその同時刻に、予言された人物が、(別の場所で*5)実際に殺されていた……というのである。

 ところでこれは典型的なハウダニットパターンの展開である。そんなことが起こったら、登場人物たちは《何故、どうして》と迷い、ひいては《どうやって、どんな方法で》という具合にストーリーが展開していくのが普通なのだ。しかしクリスティーの場合には、ついにそうはならない。一般的な推理作家なら、ハウダニットになりそうな設定とトリック――本来《どうやって殺したのか》というネタを、クリスティーは《誰が殺したのか》というパターンに無理なく持っていき、活かしきる。ここに、『シタフォードの秘密』の著しい特色がある。

 

アガサ・クリスティー田村隆一訳)『シタフォードの秘密』(ハヤカワ文庫,2004)427-428頁、飛鳥部勝則氏の解説より)

 

 なるほど、これは目から鱗の指摘だ。確かにクリスティはあの単純きわまりないトリックを「フーダニット」にもっていき、数々のミスリード網を張り巡らせるという手法で読者を欺こうとする。でもクリスティの常で、その一方大胆なヒントを与えてもいるので、注意深く読みさえすれば、種明かしの前には犯人が誰であるかは見当がつくことが多い。私にとっては、この『シタフォードの秘密』も、記事の前半で取り上げた『予告殺人』もそのパターンだった。しかし種明かしの場面で、本作ではそのトリックが、『予告殺人』では○○○○○がそれぞれ明かされて、しまった、なんでこんな簡単なことに気づかなかったのかと臍を噛んだ。こういうのを「騙される快感」というのだろうが、これこそミステリを読む楽しみではないだろうか。

 しかし、意外にも読書サイトでは本作の評判はあまり良くない。「トリックがありふれている(or 安易だ)」といった類の感想文が多い。それにもかかわらず、「犯人もトリックも簡単にわかったよ」という感想文は、アマゾンカスタマーレビューと読書メーターで参照した100件以上の感想文のうち3例しかなかった*6。つまり、トリックの単純さに腹を立てた読者の大部分は、トリックを見破ることができなかったに違いない。

 これを「やられた」と言って楽しめない読者はいったいミステリに何を望んでいるのだろうか。東野圭吾の初期作品のように、複雑怪奇で思いつけるはずもない密室トリックをよしとするのか、それとも東野の中期作品のように、罪のないホームレスを虐殺する行為を愛する女性への「献身」にしてしまう極悪非道な悪人小説をよしとするのか、あるいは東野の後期作品のように、実用化困難かつ危険極まりない兵器技術を大学の物理学教授が高校の学園祭の出し物として高校生に教え込み、あげくの果てに極悪政治家が報いを受けずに逃げ切ってしまう荒唐無稽かつ「悪が栄える」トンデモ小説をよしとするのだろうか。

 ネットを見ていると、推理作家の若竹七海氏(1963-)が本作を駄作と評しているらしい。若竹氏も前記飛鳥部氏と同世代の人のようだが、私はお二方とも作品を読んだことがないばかりか、申し訳ないがお名前も存じ上げなかった。私とも世代が近い2人の本作に対する評は対照的だ。江戸川乱歩がどういう理由で本作を高く評価したかを私は知らないが、飛鳥部氏の評価は坂口安吾の評価と同系列であり、私もそちらに軍配を上げたい。東野圭吾なんぞを大御所に祭り上げる今の日本のミステリ読みたちには、私はついていけない。

 なお、坂口安吾の「推理小説論」で、横溝正史の『蝶々殺人事件』(角川文庫1973, 2020改版)が絶賛されていたので、「推理小説論」をまともに読む前に読んでおこうと思い、生涯で初めてこの横溝作品を読んだ。表題作は敗戦直後の1946〜47年に書かれた。併録の短篇2篇(「蜘蛛と百合」、「薔薇と鬱金*7」)はいずれも1933年の作品だが、まだ読んでいない。

 

www.kadokawa.co.jp

 

 本作は、横溝作品としては例外的に怪奇趣味があまりなく、本格推理小説を指向した作品とのことだ。読んでみると、クロフツの『樽』とクリスティの某作品*8のハイブリッドで、「読者への挑戦」めいた段落が挿入してあるところはエラリー・クイーン流だ。しかし私はクロフツの『樽』を読んだばかりだし、クリスティのあの作品には思うところがたくさんあるので、「初めはクロフツを思わせておきながら、実はクリスティだった*9」この作品は、坂口安吾の絶賛にもかかわらず、クロフツにもクリスティにも遠く及ばないと思った。小説世界に没入することは私にはできなかった。2013年に最初に『Dの複合』を読んでたちまちはまった松本清張のようなわけには全くいかなかった。

 やはり私は江戸川乱歩とも横溝正史とも相性がきわめて悪いようだ。

*1:本作ではフィリッパは "Phillipa"、つまりLを重ねるがあとのPは重ねないで綴られる。一方、「きかんしゃトーマス」では "Philippa" と、Lは重ねずにあとのPを重ねて綴られている。ややこしい限りだ。

*2:一部に、両単語には微妙な意味の違いがあるとの説もあるが、意味は全く変わらないとの説の方が有力のようだ。

*3:https://bookmeter.com/reviews/97619354

*4:もちろんネタバレを警戒したためだ。『シタフォードの秘密』を読み終えてから坂口の「推理小説論」を読むと、案の定ネタバレが書いてあった。

*5:引用者註。

*6:私見では、現在60歳を中心としてプラスマイナス10歳くらいの年齢層の読者には、他の年齢層と比較して本作のトリックを見破れる人が多いのではないかと思う。私は幸か不幸か、彼らと同じ範疇に属する人間ではなかったためにトリックに気づけなかったが。

*7:うこんこう。チューリップのこと=引用者註。

*8:有名な某作品よりも、その数年前に書かれたさる冒険小説に近い。私はハヤカワ文庫で、冒険小説だから大丈夫だろうと思って解説から読んだらネタバレが書いてあったので、またしてもやられてしまった(怒)。クリスティは冒険小説にもあのネタを仕込んでいたのだった。

*9:大坪直行氏(1935-)が書いた角川文庫版の解説は、横溝正史存命中に書かれたと思われる文面なので、1973年の角川文庫初出時に掲載されたままの文章だと思われるが、本作のほか、他の横溝作品のネタバレまで書いてあった。あの三文字のタイトルの横溝作品がそうだということはクリスティ作品を読んだあとのネット検索で知っていたし、そもそも当該の横溝作品を読みたいとは全く思わないから私にはどうでも良いのだが、多くの読者にとっては迷惑千万な話だろう。大坪氏の解説は本作のネタバレもやっている。昔の文庫本にはこういう解説文が多かった。今回この解説文を先に読まなかったのは正解だった。