KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

岸田文雄首相の思わぬ“挫折”…正月休暇用に購入した『カラマーゾフの兄弟』を1巻で投げ出していた! (Smart FLASH)

 『kojitakenの日記』に、連日立民代表の泉健太をこき下ろす記事ばかり書いてきたが、日本国総理大臣にして自民党総裁岸田文雄も泉と同じくらい大嫌いだ。その岸田がますます嫌いになる一幕があった。岸田は年末に東京都心の八重洲ブックセンターで15冊の本を買い込み、うち5冊は17年前の2006年に話題になった亀山郁夫光文社古典新訳文庫版のドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』全5巻だったが、岸田はこれを第1巻の途中で投げ出し、長男に読んで中身を教えてくれと言ったのだという。朝日新聞論説委員の駒木明義氏がツイートで呆れていた。

 

 

 「『長男』に読ませる」か。それなら岸田はカラマーゾフ3兄弟の父、フョードル・カラマーゾフに相当するわけだから息子の誰かに殺されてしまうことになる。この小説ははてさて犯人は誰でしょうというミステリー仕立ての趣向もあって、大袈裟にいえば芸術としてだけではなくエンターテインメントとしても抜群に面白い小説だと思うのだがそれはさておき、おおかた昨年はロシアがウクライナを侵略し日本では安倍晋三が殺された年だったから、小説にはとんと縁がなかったに違いない岸田が読もうと思い立ったのだろうが、多忙であるに決まっている総理大臣が正月休みだけで読み切れる小説でないことくらいわからなかったのかと開いた口がふさがらないが塞がらなかった。

 朝日の駒木記者は訳者の亀山氏らとロシアの音楽や文学に関する下記の鼎談を行ったくらいの教養人だから、心底から岸田を軽蔑しているのではないかと思われる。

 

ontomo-mag.com

 

 上記リンクの鼎談は2018年に行われたが、その頃岸田は「次の次の総理」を目指してひたすら安倍晋三に取り入り、翌年の参院選では安倍と菅義偉に岸田の一の子分だった溝手顕正の首を獲られてまでもなお安倍の靴を舐め続けた。

 岸田は権力志向の強さにおいては泉健太と同じくらい強烈だが、泉のように用意周到な権力工作を仕掛けまくるのではなく、ひたすら最高権力者に媚び続けた不甲斐なさ。私は泉のようなギラギラした権力志向の人間も大嫌いだが、ひたすら上司に媚び続けるだけで私の予想に反して本当に「次の次の総理」になってしまった岸田は全くの論外だ。泉は大嫌いではあっても権力を得るまでのプロセスのしたたかさには敬意を払えるが、岸田に対してはひたすら軽蔑の念しか持てない。こんな人を「ハト派」だとかいう理由で支持したり肯定的だったりする人の気がしれないといつも思っている。反吐が出るほど岸田が大嫌いだ。

 同じ「安倍のあとの総理」でも岸田と対照的だったのが福田康夫だ。私は福田を21世紀のこれまでの日本で一番「ましな総理」だったと思っているが、福田の権力行使で感心したのは、第1次安倍内閣からの引き継ぎ事項をことごとく棚上げして安倍の極右政治をいったんは終わらせたことだ。権力者はそういうことがドライにできなければならない。泉健太にはそれができるし現にやっているが、それは私が望ましいと思う方向性とは真逆(まぎゃく)だから激しく嫌っているのである。立民支持層の間には、枝野には枝野の良さがあり、泉には泉の良さがあるなどと言う人たちもいるが、あまりにもおめでた過ぎる。彼らは権力の恐ろしさを理解していないと私は思っている。

 岸田は総理大臣就任直後に、口先だけでは「新しい資本主義」と言い、新自由主義からの脱却を口にしたが、現に今までやってきたことはといえば、軍事費倍増なる破天荒かつ衰退国日本に追い討ちを掛けるようなトンデモ政策であり、安倍の国葬であり、原発の再推進という軍事大国化と矛盾する、つまり日本の安全保障上のリスクを高めるだけの政策だ。安倍晋三でさえ、岸田を含む他人に対しては極右風を吹きまくったものの自分がやった時には岸田みたいに極端にはやらなかった。こと政策だけを抽出すれば、岸田は誰よりも極右的で、かつ誰よりも新自由主義的な政策を推進しているといえるのではないか。おそらく岸田は歴代総理大臣の中でももっとも無能な人間だろう。

 正月休みに『カラマーゾフの兄弟』を読もうとしたことなど、大袈裟に言えば「文学を舐めている」とともに、総理大臣の職責の重さを全く自覚していないことが絶望的だ。文学に無関心ではないから本を買ったのだろうが、それならもっと若い時に読んで自分の血肉にしておかなければならなかった。岸田は一体何歳なのか、もしかしたら私より年下なのかと思って調べてみたら、1957年生まれで私より何歳か年上の65歳だった。このドストエフスキーの大作を読んだ人がこの国にどのくらいいるのかは全く知らないが、私が本作を原卓也訳の新潮文庫版で初めて読んだのは28歳の時で、しまった、もっと若い頃に読んでおかなければならなかったと、少年・青年時代のうかつさを悔やんだものだった。その後、2006年に「くだんの亀山訳」が評判をとったので期待して再読したものの、読みやすいという評判に反して(私にとっては)原卓也訳よりずっと読みにくかったので失望した記憶がある。1944年生まれの辺見庸が今でもカラマーゾフばかり読んでいると書いていたように思うが、私は辺見とは違って文学部出ではなく、文学部出の人の文章を読んでは感心して、自らがいかに文学の素養に欠けるかを痛感しているような人間だ。しかしそんな私でも文学に対する経緯だけは持っていると思っている。岸田にはそれすらない。岸田が長男に読んで中身を教えてくれと言ったという話が本当かどうかは知らないが、私が岸田の長男(ミーチャ格?)なら、なんと恥ずかしい父親だろうかと呆れるに違いない。岸田は下記リンク先にでも目を通しておけば良いのである。

 

honcierge.jp

 

 岸田の発想はまるで受験勉強だな、さすがは進学校出身だなとも思うが、しかしながら大学受験の世界でも岸田は周囲と比較すると強者ではなかったようだ。岸田の強みは血筋だけであり、この点で安倍晋三と共通している。だから安倍が岸田にシンパシーを抱き、本当に自分の次の次の総理大臣にしてしまったものだろうか。

 私自身は昨年前半は比較的時間がとれたのでチャールズ・ディケンズの長篇『荒涼館』(佐々木徹訳岩波文庫版,2017)の全4巻を黄金週間の休みを利用して読んだ。この小説は初めの方が読みにくいが途中からは引き込まれた。それでももっとも読むスピードがもっとも上がった最終第4巻を読むのに1日かかり、結局4月29日から黄金週間明け最初の土日明けの5月9日に読了している。つまり11日かかった。日曜日中に読み切れずに日付が変わってやっと読み終えたのだが、確か日曜日の午前中だかに第3巻を読み終え、図書館に第4巻を借りに行って午後に読み始めたのだった。熱中して読んだ本でさえそのくらい時間がかかったのだから、多忙でないはずがない総理大臣が正月休みにドストエフスキーの大作を読み切れるはずがない。いや立花隆ばりの速読術を駆使すればそうではないのかもしれないが、飛ばし読みできる本とそうではない本があり、『カラマーゾフの兄弟』が後者の範疇に属することは当たり前だ。

 しかし日本の政治家には本当に教養人が少ない。安倍晋三百田尚樹の小説を含むネトウヨ好みの本ばかり読んでいた印象がある。西ドイツのシュミット元首相がピアニストとしても玄人はだしで、クリストフ・エッシェンバッハらとともにモーツァルトの3台ピアノのための協奏曲で第3ピアノを弾いたレコードを出した(1982年)こととは大違いだよなあと昔から嘆息していたが、岸田文雄のひどさは歴代総理大臣の中でも飛び抜けている。

 ここまで書いて、この記事を当初予定していた『kojitakenの日記』ではなく、こちらの読書ブログで公開することに変更した。年明けの今月もまだ大きな山を越えたとはいえ多忙期の末期に当たっていてそれなりに忙しいので、自らに月1回のブログ更新のノルマを達成するためにはこちらに公開した方が良いと思ったからだ。

 遅まきながら、今年もよろしくお願いします。『kojitakenの日記』でも新年の挨拶はまだしていなかったのだった。

黒川祐次『物語 ウクライナの歴史』(中公新書, 2002)を読む

 今年後半は仕事に割かざるを得ない時間が多すぎて閉口した。9月には弊ブログの更新回数が一桁だったし、更新回数を増やした10月と11月は読んだ本がそれぞれアガサ・クリスティのミステリ1冊ずつという惨状。年末年始も来年早々の仕事のために一定の時間を割かざるを得ないが、それでもここ数か月の中では一番息がつける時期ではあった。今月読んだ本は、クリスティのミステリ1冊を含む4冊で(年間トータルでは2012年以降最少の53冊だった)、その中の1冊が今年前半に買ったまま積ん読になっていた下記の本だった。

 

www.chuko.co.jp

 

 何しろウクライナのことは全然知らず、ウクライナ戦争が勃発した時には、なんでロシアが骨肉相食むような戦争を仕掛けたのかと訝るくらいの無知だったので、少しはウクライナについて知っておかなければならないと思ったのだ。

 ウクライナというとチャイコフスキー交響曲第2番「小ロシア」というこの大作曲家の交響曲の中では一番冴えない曲と、ムソルグスキーの「展覧会の絵」の終曲「キエフの大門」と、それに何より1986年に起きたチェルノブイリ原発事故のイメージしかなかった。その印象を一変させてくれた本だった。

 本書は20年前の2002年に、当時58歳の元外交官によって書かれた。ウクライナの独立は1991年末だったのでそれから10年強しか経っていない時点での出版だ。本文はウクライナの独立までしか書かれていない。独立までのウクライナの歴史を概観した内容だ。しかしそれがなかなか興味深かった。

 アマゾンカスタマーレビューに筆頭で表示されたのは、プーチンのロシアによるウクライナ戦争の開戦を絡めたレビューだった。長いが以下に引用する。

 

https://www.amazon.co.jp/-/en/gp/customer-reviews/R1IT3LL4P05AR6

 

「僕はアリーが好きだ」

★★★★★ 「ボルシェビキの政策によって生じたのがソビエトのウクライナであり、現在も『ウラジーミル・イリイチ・レーニンのウクライナ』と呼ばれるにふさわしい。」

Reviewed in Japan on November 21, 2022

 

今年2月24日ロシアはウクライナに侵攻しましたが、その前にロシアのプーチン大統領は何度かテレビ演説を行っていました。そして、私が見た限り、メディアで頻繁に報道された演説は2月24日の侵攻直前に行われたテレビ演説でした。しかし、侵攻の三日前に当たる2月21日にもテレビ演説は行われていました。その内容はNHKのサイトで全文を和訳で読むことができます。タイトルに引用したのはその演説からの抜粋です。

 

プーチン大統領は以下の様に続けます。

「彼はその作者であり設計者である。このことは、ウクライナに文字どおり押し込められたドンバスに対するレーニンの厳しい指令などの古文書によって、完全に裏付けられている。それなのに今、『恩を感じている子孫たち』はウクライナにあるレーニン像を取り壊した。」

 

現在もレーニンウクライナと呼ばれるにふさわしい?

ウクライナレーニンに恩を感じている子孫たち?

 

プーチン大統領の演説は私の理解の範囲を超えるものでした。そして、プーチン大統領の演説内容を理解するためには、ウクライナ史についての一定以上の理解が必要と感じました。そのため、入手しやすい本書を手に取ってみたのでした。本書を読み始めてみたところ、私の様な世界情勢に疎い人間から見てもとても分かりやすい内容で、一気に読むことができました。

 

そして、本書を読んでみて、私にはプーチン大統領がこの演説でどうも二つの重要なことに言及していない様に思われました。

 

一つ目は「中央ラーダ」です。本書には「中央ラーダ」に関連して以下記載がありました。

 

「一九一七年一二月ペトログラードのソヴィエト政府は、レーニントロツキー署名の最後通牒ウクライナ政府(=中央ラーダ:引用者)に送り、ウクライナボリシェヴィキ軍の自由行動を認めることなどを要求し、その代わりにウクライナ民共和国を承認すると通告してきた。ウクライナ政府はこれを拒否した。かくてボリシェヴィキは武力でウクライナを奪い取ることを決めた。(中略)こうして、以後中断を含みつつも一九二一年末まで四年間続くウクライナ民族主義者とボリシェヴィキの壮絶な戦いが始まるのである。」(186頁)

 

「しかしこの独立は無意味だったのではない。確かに短期間に終わったが、ウクライナは紛れもなく独立していた。そしてその記憶はソ連時代にも連綿として生き続け、第二次世界大戦のときにも幾多の独立運動に結びつき、ついにはソ連の崩壊時に本格的な独立となって実を結んだ。その意味でかつて独立国家であったという思いは、現代のウクライナ人にとって大きな誇りと支えになっている。現在の独立ウクライナの国旗、国歌、国章はいずれも一九一八年中央ラーダが定めた青と黄の二色旗、ヴェルビツキー作曲の『ウクライナはいまだ死なず』(一八六五年)、ヴォロディーミル聖公の『三叉の鉾』であることからも、現代のウクライナ国家は自らを中央ラーダの正統な後継者であると認識しているのである。」(203頁)

 

二つ目は「大飢饉」です。本書には「大飢饉」に関連して以下記載がありました。

 

飢饉は一九三三年春にそのピークを迎えた。飢饉はソ連の中ではウクライナと北カフカスで起きた。都市住民ではなく食糧を生産する農民が飢え、穀物生産の少ないロシア中心部ではなく穀倉のウクライナに飢饉が起きたということはまことに異常な事態である。農民はパンがなく、ねずみ、木の皮、葉まで食べた。人肉食いの話も多く伝わっている。村全体が死に絶えたところもあった。(中略)独立後のウクライナの公式見解を盛り込み、クチマ大統領(一九三八~)の巻頭言も載っている『ウクライナについての全て』(一九八八年)では、この飢饉によりウクライナ共和国では三五〇万人が餓死し、出生率の低下を含めた人口の減少は五〇〇万人におよび、その他北カフカス在住のウクライナ人約一〇〇万人が死んだとしている。(中略)この時期にもソ連は平然と穀物を輸出し続けていたのである。」(218-219頁)

 

プーチン大統領が演説で触れなかった「中央ラーダ」と「大飢饉」のことを考慮したら、「ウクライナの人々がレーニンに恩を感じてもおかしくはない」ということにはならないと、私には感じられました。

 

もしかしたら、ウクライナ侵攻肯定派の人々からは、「中央ラーダ? 中央ラーダがウクライナをうまく統一できなかったから、ボリシェヴィキが統一してやったんだろ」とか、「大飢饉? そもそもウクライナ人が国営農場や集団農場でしっかり働いて食料生産量が減らなかったら、そんなものは発生しなかっただろ」などと反論されるのかもしれません。しかしながら、本書を読んでみて、レーニンボリシェヴィキソ連共産党ウクライナで行ったことはウクライナの人々にとっては過酷なことであった様に、私には思われたのでした。

 

私はプーチン大統領の演説を自分なりに理解したいと思って本書を手に取りました。そのため、戦間期ウクライナについて主に知りたいと思っていました。そして、本書によってその知識を得ることが出来ました。一方で、ウクライナの現代史を知りたいと思っている方々には、他のレヴュワーの方々が指摘されている様に、本書は記載が1991年のウクライナ独立とソ連消滅で終わっているため、物足りないと映ってしまうかもしれません。ただ、ソ連消滅後のウクライナ史については、様々な文献によって情報を得ることができるため、それらによってソ連消滅後の知識を補うことができれば、本書はとても役に立つものと感じました。

 

 引用文中、赤字ボールドにした部分の「大飢饉」は天災ではなく人災だった。その責任者はスターリンであり、大飢饉によって死亡した人々は事実上スターリンに殺されたも同然だった。苦難続きだったウクライナの歴史においても、スターリン時代の陰惨さは一段と度外れており、読み進めるのが息苦しくなるほどだった。

 著者はスターリンについて下記のように書いている。なお、以下の引用文中では、読みやすさのために年数などの漢数字表記を算用数字に変換している。

 

(前略)原則には頑固だが戦術には柔軟だったレーニン1924年に53歳で死亡し、1927年にトロツキー(1879-1940)、ジノヴィエフ(1883-1836)らのライヴァルを追放してスターリン(1879-1953)が権力を掌握したのが転換点であった。ちなみにロシア革命レーニンに次ぐ大きな足跡を残したトロツキージノヴィエフはいずれもウクライナ生まれのユダヤ人だった。スターリンは自身グルジア人ながら、ロシア中心の中央集権主義者で、かねてから民族の自治拡大に反対であった。また彼は農民を信じておらず、農民は革命の担い手というより克服すべき対象と考えていた。彼は、農民の国で民族主義の強いウクライナにとりわけ猜疑心を抱いていたようである。さらにスターリンは、外国の脅威からソ連を守ることを至上命令とする「一国社会主義」の立場から、いかなる犠牲を払っても近代化、工業化した社会主義国を早急に作り上げなければならないと考えていた。その手段が数次にわたる5ヵ年計画であり、農業集団化だった。

 

(黒川祐次『物語 ウクライナの歴史』(中公新書, 2002)208-209頁)

 

 ウクライナの飢饉は、豊作だった1930年に穀物生産2100万トンのうちソ連政府の調達量が760万トン(1920年代の2倍)だったのが、不作で穀物生産が1400万トンに減った1931年と同じ生産量だった1932年にも調達量が据え置かれたことから起きた(本書211-212頁)。一言で言うと、スターリンの搾取によって多くの農民が餓死に追い込まれたのだ。少しあとの1940年代にはレイテ島などで日本軍が人肉食いを行ったことがよく知られているが、ウクライナでもこの大飢饉の期間に「人肉食いの話も多く伝わっている」(同212頁)という。本記事で最初に引用したアマゾンカスタマーレビューに書かれている通りである。日本軍やヒトラーとともに、スターリンも20世紀史上屈指の巨悪だった。

 プーチンはこのスターリンを初めとするソ連の悪行に頬被りした。プーチンこそヒトラースターリンのハイブリッドのような史上まれに見る大虐殺犯だと私は確信しているが、スターリンらの悪行に頬被りしたプーチンのあり方は、私の悪い印象をさらに強めるものだ。

 陰惨な話ばかりではなんなので、音楽の話も少し書いておく。ロシアの作曲家であるチャイコフスキーらだけではなくベートーヴェンパトロンだった貴族の話も本書には出てくる。

 ロシアのピョートル大帝(在位1682-1725)は膨脹政策をとり、ウクライナを痛めつけたが、アンナ女帝(在位1730-40)の時代を挟んでエリザベータ女帝(在位1741-62)の時代になると、「事態は意外なことから好転した」(本書121頁)という。以下再び本書から引用する。

 

左岸*1コサックの出身でサンクト・ペテルブルグの帝室合唱団で歌っていたオレクシー・ロズモフスキーはその美貌と美声からエリザベータに見初められ、後には秘密裏に女帝と結婚した。オレクシー自身は国政に関与しなかったが、ウクライナに対する愛国心をもち続け、女帝がウクライナに同情するようしむけた。(前掲書121-122頁)

 

 読みながら笑ってしまったが、ロズモフスキーという名前から私が連想したのはベートーヴェンの「ラズモフスキー四重奏曲」(作品59の3曲の弦楽四重奏曲)だった。

 ところが、このオレクシー・ロズモフスキーはベートーヴェンから前記弦楽四重奏曲の他、運命・田園の両交響曲(第5・第6交響曲)の献呈を受けたそのアンドレイ・ラズモフスキー(ロズモフスキーのロシア名)の伯父だったのだ。

 チャイコフスキーは本書のまえがきにもある通り、祖父がウクライナのコサックの出で、自身も毎年ウクライナのカーミアンカ(カーメンカ)にある妹の別荘に滞在していた。弦楽四重奏曲第1番第2楽章の「アンダンテ・カンタービレ」はその別荘で働いていたペチカ職人が鼻歌で歌っていたウクライナ民謡をもとにしたものだ(本書139頁)。そういえば、昔チャイコフスキーの音楽について書かれた解説文に、よく「ウクライナ民謡」という文字列を目にした記憶がある。以下、2022年3月2日付東亜日報(韓国)の日本版に掲載されたコラムを引用する。

 

www.donga.com

 

2022年北京冬季五輪の閉会式で、チャイコフスキーのピアノ協奏曲1番の導入部が流れた。正常な状況なら、マススタート50キロ種目の優勝者がロシア選手だったため、ロシア国歌が流れるべきだった。閉会式は、マラソンに該当するその種目の授賞式を兼ねた席だった。ところが、ロシアが国家主導の禁止薬物服用で制裁を受けているため、ロシア作曲家の協奏曲が流れたのだ。

 

いつ、どこで聴いても美しいチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番は、ウクライナと深い関わりがある。最初の楽章と最後の楽章は、ウクライナ民謡からテーマとメロディーの一部を借りてきた。チャイコフスキーは、視覚障害者の楽士が街で歌う美しい歌を心に留めていて、作曲に活用した。ウクライナの民俗音楽が持つ美しいメロディーと叙情性は、彼を魅了させた。音楽だけではなかった。ウクライナのすべてのものが、彼を引き付けた。ロシアのヴォトキンスクで生まれたが、祖父の故郷ウクライナを自分の故郷だと考えた。そのうえ、彼がとても愛した2歳下の妹がそこに住んでいた。彼はそこで1年の数か月を過ごした。「私は、モスクワとサンクトペテルブルクでは得られなかった心の平和を、ウクライナで見つけました」。そこは彼にとって、平和と癒しの空間だった。彼は創作に必要な心の平和をそこで求め、ピアノ協奏曲1番や交響曲2番を含む約30曲を作曲した。ウクライナは、彼を心理的行き詰まりから解放した。すると音楽が、美しくてきらびやかな音楽がすらすらと流れてきた。

 

彼にインスピレーションを与えたウクライナが、戦争に巻き込まれている。彼の祖父がかつて暮らしていたキエフを、ロシア軍に踏みにじられた。ロシアは、チャイコフスキーのピアノ協奏曲1番を選び、世界の人々の耳に聞かせることだけはわかっていたが、彼の音楽に染み込んでいるウクライナに対する愛情はわかりえなかった。彼らは、ちゃんと彼の音楽を聞くべきだった。「チャイコフスキーの音楽、その平穏の中に戻ることを…」

 

出典:https://www.donga.com/jp/article/all/20220302/3227953/1

 

 フランスの文豪・バルザックウクライナとの関わりもスケールが並外れている、といってもスターリンのような悪い意味においてではない。

 さすがにこれを転記するのは面倒だよなと思ってネット検索をかけたら、本書の記述に基づいたブログ記事があったので以下に引用する。

 

literaselect.seesaa.net

 

 知る人ぞ知るかもしれないが、バルザックは死の直前ポーランド人貴族のハンスカ伯爵夫人と懇ろになり終に結婚した。黒川裕次*2シュテファン・ツヴァイクの伝記『バルザック』を引いてこう記している。

キエフより100キロ以上南西のヴェルヒヴニャという村に、2万ヘクタールの領地に3000人の農奴を持つポーランド人貴族ハンスキ伯爵の城館(シャトー)があった。その妻ハンスカ伯爵夫人は美貌で有名だった。城館にはあらゆる贅沢品がそろい、子供にも恵まれ、ハンスキ夫妻は平和で幸せな生活を送っていた。しかし教養あるハンスカ夫人にとっては田舎の生活は退屈で精神的刺激がなかった。

 週一度の大事件は郵便の到着でバルザックの小説の愛読者になった[やがて]バルザックと秘密の文通を始め

 1841年ハンスキ伯爵が死に、1847年バルザックははるばるウクライナの彼女の城館まで訪れ、滞在する。そして二人はとうとう1850年3月、近くの町ベルディチェフの聖バルバラ教会で結婚式を挙げた。しかし結婚生活は短かった。結婚後ウクライナからパリに向う途次バルザックは病にかかり、パリに着いてまもなく同年8月死んだ。(止め)

 

 バルザックの館とは足かけ3年住んだこの城館内のバルザックが居住していた部屋のことだ。殆ど一般には知られていないと黒川は云う。

 

出典:http://literaselect.seesaa.net/article/389941276.html

 

 本書は上記のようなエピソードが随所にちりばめられた読みやすい本なのでおすすめである。もちろん考えさせられる箇所も多い。

 本書の末尾には、ウクライナと日本には共通点が意外に多いと書かれている。しかし本書は2002年に刊行されているため、まさかその9年後に日本で東電原発事故が起き、世界最悪の原発事故だったチェルノブイリ原発事故に次いで2番目に悪い原発事故が日本で起きたという大きな共通点が加わろうとは夢にも思わなかったに違いない。

 これで本年の弊ブログの公開はおしまい。9月と10月にはブログを更新できず、連続のブログ更新は44か月で止まってしまったが、来年は再び最低月1回の更新をしたいと思っている。それでは、良いお年をお迎え下さい。

*1:ドニエプル川の東岸=引用者註

*2:「祐次」の誤記=引用者註

ベートーヴェンの「皇帝協奏曲」と「告別ソナタ」にはそっくりの箇所がある。その謎を解いてみた

 ベートーヴェンの皇帝協奏曲(ピアノ協奏曲第5番変ホ長調作品73)は亡父がよくレコードをかけていたので、昔からよく耳になじんでいた。

 その後自分でもベートーヴェンを含むクラシック音楽を聴くようになったが、私の一番のひいきは最初はモーツァルトで、のちにはバッハになった。しかし決してベートーヴェンを嫌っていたわけではない。ただ、運命だの第九だのは時に敬遠したくなることがあるだけだ。

 ベートーヴェンピアノソナタはたいてい好きだった。熱情ソナタだけは少し苦手だが、第2楽章の変奏曲は大好きである。一番好きなソナタは第30番ホ長調作品109だ。

 ベートーヴェンピアノソナタは32曲あるが、作曲者自身がタイトルをつけたソナタは2曲しかない。そのうちの1曲である告別ソナタ(第26番作品81a)を初めて聴いたのは中学生の頃だったが、その時に終楽章(第3楽章)の一節が皇帝協奏曲の同じ終楽章(こちらも第3楽章)と似ていることに気づいた。

 先日、あるきっかけで久々に告別ソナタの第3楽章が思い浮かんだ。それはしばらく会っていなかった人と出くわしたことによるもので、まさしくソナタの第3楽章のタイトル「再会」に対応していた。人間の頭とはいったいどういう構造になっているんだろうかとわれながら感心したのだった。

 このことをきっかけに、このソナタのこの楽章に関して昔から気づいていた皇帝協奏曲との類似のことを思い出し、ネット検索をかけてみたら、やはり当該の類似に気づいている人がいて、それぞれブログ記事で指摘していた。それも2件みつかった。

 1件目は2010年に公開された下記ブログ記事。

 

hornpipe.exblog.jp

 

 引用は省略する。両曲の類似点が2箇所指摘されているが、私が言っているのはその最初の方だ。ブログ主は

前にこのブログで書いた、同じ作曲者が皇帝とほぼ同時期に書いたピアノソナタ「告別」との類似です。と言っても、これは多くの人が到底肯定できるものじゃないかも知れません。

と書いておられるが、少なくとも私には皇帝、もとい肯定できる。

 私はピアノは弾けないが楽譜は少し読めるので、まさに私が似ていると思っていた箇所が指摘されていることがわかった。両曲とも8分の6拍子で3連符を使って、右手が1小節に18の音を弾く箇所だ。そうか、その部分だけ3連符を使っているから気づきやすいのかと初めて理解した。

 皇帝協奏曲では、ロンドの中間部で主題が調を変えて3度変奏されるうち、ハ長調で書かれた最初の変奏に出てくる。一方、告別ソナタでは第2主題のあとに出てくるパッセージ(経過句)に出てくる。こちらは調を変えて2度出てくるが、最初に変ロ長調で出てくる箇所が引用されている。音の高さが2度違うだけなので楽譜の対比は容易だ。対比すると、告別ソナタの方は3連符がその前の小節から始まっている点が少し違うくらいで、似ているというよりはあとから作られた告別ソナタで皇帝協奏曲の一節を引用したといった方が良いのではないかと思った。

 もう1件のブログ記事は2014年に公開されている。書いたのはピアノを弾かれる方だ。

 

ameblo.jp

 

 以下該当箇所を引用する。

 

ところで聴いてて、「皇帝」の中の音型でピアノソナタの「告別」の終楽章の中のある音型とすごーくすごーく似てるところがあることに気がつきました。

 

同じ変ホ長調だし、これはなにかある!と調べたら

 

作られた年代、一緒なんです!

 

ベートーベンさんは同じ人を思い浮かべてこの曲を作ったはず~!!

 

もう、絶対~!!と、根拠のない自信に満ちている私です( ̄∇ ̄*)ゞ

 

 ブログ記事には楽譜の画像が2箇所貼り付けられているが、2箇所目の下に

↑↑↑

 

この部分が「皇帝」にも出てくるところです~(T_T)

 

たまりません~(T_T)

とある。そう、その箇所だ。

 

 ところで最近はWikipediaもずいぶん充実してきたもので、告別ソナタの項でこの類似が指摘されている。

 

ja.wikipedia.org

 

きらびやかな経過部を終えると変ロ長調の第2主題が提示される(譜例7)。第2主題が繰り返される際に現れるフレーズには、同時期に作曲された『皇帝協奏曲』の第3楽章のものと極めて類似したパッセージが用いられている[7]

 

 上記引用箇所からリンクされているのはハンガリー出身のピアニスト、シフ・アンドラーシュの演奏。なおWikipediaに表示される楽譜は第2主題の最初の4小節だけで、該当の類似箇所はそのあとに出てくる。このあたりがちょっと残念ではあるが、こんなことまでWikipediaに書かれるようになったかとちょっと感心した。

 以下は謎解き。なぜベートーヴェンは告別ソナタで皇帝協奏曲からの引用を行ったかという点だが、この謎解きはあまりにも簡単だった。前記引用した2件目のブログ記事に書かれている、

ベートーベンさんは同じ人を思い浮かべてこの曲を作ったはず~!!

 

もう、絶対~!!と、根拠のない自信に満ちている私です( ̄∇ ̄*)ゞ

という指摘が「ぴったしカンカン」だった。

 

 前記Wikipediaから再び引用する。

 

本作にはベートーヴェン自身が標題を与えているが、そのようなピアノソナタはこの『告別』と『悲愴』としかない。その背景には彼のパトロン、弟子であり友人でもあったルドルフ大公ウィーン脱出が関係している[1]

オーストリア1809年4月9日ナポレオン率いるフランス軍と戦闘状態に陥った。ナポレオンの軍勢は5月12日までにウィーンへと侵攻しており、神聖ローマ帝国皇帝フランツ2世の弟にあたり皇族の身分であったルドルフ大公は5月4日に同市を離れることになる。ベートーヴェンピアノソナタの第1楽章の草稿に「Das Lebewohl(告別)」と記すとともに「1809年5月4日、ウィーンにて、敬愛するルドルフ大公殿下の出発に際して。」と書き入れた[1]オーストリアの降伏により同年10月14日終戦フランス軍が撤退した後の1810年1月30日にルドルフ大公はウィーンへと戻った。第2楽章の「Die Abwesenheit(不在)」はこの期間のことを示しており、さらに第3楽章には「Das Wiedersehen(再会)」、「敬愛するルドルフ大公殿下帰還、1810年1月30日」と書き込まれている[2]

 

 つまりベートーヴェンが告別ソナタを作曲した動機はルドルフ大公との別れと再会だった。

 ということは、もしかしたら皇帝協奏曲はそのルドルフ大公と関係がある作品だったのではないかと思って調べてみると、案の定だった。

 今度は、Wikipediaの皇帝協奏曲の項から引用する。

 

ja.wikipedia.org

 

折しも、当楽曲のスケッチおよび作曲に取り組んでいる最中にあった1809年、ナポレオン率いるフランス軍ベートーヴェンが居を構えていたウィーンを完全包囲し、その挙げ句にシェーンブルン宮殿を占拠した。これに対しカール大公率いるオーストリア軍は奮戦するもフランス軍の勢いを止める事は出来ず、遂にウィーン中心部を砲撃され、フランス軍によるウィーン入城を許してしまった。その後フランス・オーストリア両軍の間で休戦協定が結ばれるも、当時のオーストリア皇帝フランツを初め、ベートーヴェンを支援してきたルドルフ大公を初めとする貴族たちもこぞって疎開、ウィーンに於ける音楽活動は途絶えてしまう[5][7][8]

ちなみにこの頃のベートーヴェンはというと、彼の住居近くにも砲弾が落ちたことから弟カール宅の地下室に避難、不自由な生活の下でも作曲を続けていたものの、たまりかねてウィーンの街中を我が物顔で歩くフランス軍将校とすれ違った際に将校に向かって拳を上げながら「もし対位法と同じぐらい戦術に精通していたら、目に物を見せてくれように」と叫ぶこともあったといわれている[5][9]

当楽曲は、前記総譜スケッチを終えてから1年余りを経て、1810年11月に先ずロンドンクレメンティ社から、更に翌1811年3月から4月にかけてはドイツのブライトコプフ・ウント・ヘルテル社から、それぞれ出版されている[6]

初演とその後[編集]

初演については、先ずドイツに於ける初出版の2~3ヶ月前にあたる1811年1月13日に行われたロプコヴィツ侯爵宮殿に於ける定期演奏会の中で、ベートーヴェンの弟子の一人で彼のパトロンの一人でもあるルドルフ大公の独奏により非公開ながら初演を実施。その後、同年11月28日にライプツィヒに於けるゲヴァントハウス演奏会に於いてフリードリヒ・シュナイダーの独奏による初めての公開初演が行われ、更に翌1812年2月12日にはウィーンのケルントナートーア劇場に於いて同じくベートーヴェンの弟子の一人であるカール・チェルニーの独奏によるウィーン初演が行われている[6]

1802年に自らの聴覚障害(難聴)に憂いて「ハイリゲンシュタットの遺書」をしたためて以来、ベートーヴェンが抱える難聴は悪化の一途を辿ってきているが、それでもピアノ協奏曲のカテゴリに於ける前作『ピアノ協奏曲第4番ト長調』までは初演に際してベートーヴェン自らが独奏ピアノを務めてきた[10]。しかし、当楽曲の作曲途上に於いてもたらされたフランス軍による爆撃音は、ただでさえ進行中だった難聴をより重症化させてしまい、ついには当楽曲の初演にピアノ独奏者として関わることを諦め、他のピアニストに委ねるに至っている[11]

とはいえ、当楽曲の初演は不評に終わり、その影響からかベートーヴェンの存命中に二度と演奏されることは無く、更に新たにピアノ協奏曲を自身の存命中に書き上げることは無かった[9][12][注 3]。後年、フランツ・リストが好んで演奏したところから、当楽曲は名曲の一つに数えられるに至っている[11]

なお当楽曲は、完成後最初に行われたロプコヴィツ侯爵宮殿に於ける非公開初演の場でピアノ独奏を務めたルドルフ大公に献呈されている[8]

 

 時系列的に言うと、皇帝協奏曲の作曲(1809年夏)→ 告別ソナタの作曲(1810年1月)→ 両曲のルドルフ大公への献呈(1811年)の順番になる。つまり、ベートーヴェンが思い浮かべていたのはルドルフ大公であり、大公との再会の喜びを、少し前に大公に献呈するつもりで書いた皇帝協奏曲からの引用部分に込めたのだ。それ以外の解釈はできない。

 相手が女性でなかったのは残念だが、その手の話は私がもっとも好きだと書いたピアノソナタ第30番その他に絡んでいくらでもあるので、本記事では省略する。本記事では、単にベートーヴェンの音楽の謎を一つ解いたぞと威張りたいだけである。もちろん同様の指摘は過去に多数なされているだろうとは思うが。

2022年8月に読んだ本 〜 アガサ・クリスティー『葬儀を終えて』(ハヤカワ文庫・新訳版)、黒木登志夫『変異ウイルスとの闘い』(中公新書)

 8月は非常に忙しくて本もまともに読めなかった。しかし2019年1月以来の43か月連続更新が途切れるのも癪なので、今月読んだたった2冊の本の書名を挙げておく。

 1冊目は、昨年1月以来20か月連続で読んでいるアガサ・クリスティの『葬儀を終えて』。一昨年にハヤカワクリスティー文庫で新訳版(加賀山卓朗訳)が出たが、その版で読んだ。

 

www.hayakawa-online.co.jp

 

 作者62歳の1953年の作品で、創作活動の中期の後半あたりに位置するのだろうが、あっと驚く大技を使っている。私見では犯人の当てにくさは『アクロイド殺し』を上回り、『死との約束』や『ポアロのクリスマス』と肩を並べる。ただ、その2作と比べると、全くの想定外ではなく、「えっ、そのパターンだとあの人が犯人ってことになってしまうじゃん。でも、まさかね」と思ってしまったのだった。その「まさか」だった。ものの見事にクリスティの術中にはまってしまった。あることに気づかなければ、「まさか」の謎は解決できない。それに気づくかどうかにかかっている。ヒントはフェアに提示されているのだ。

 そのヒントが新訳では明確に訳されているのに対し、加島祥造の旧訳では肝心な形容詞が訳されていないために気づきにくい。ヒントはその1箇所だけではないので気づくのが不可能とは言わないが、新訳を読む方がヒントに気づくチャンスは多い。その意味でも、本作は旧訳よりも新訳を読む方が絶対におすすめだ。私がこのことに気づいたのは、図書館に旧訳版も新訳版と並んで置いてあったので、本を返しに行った時に訳文を比較したからだ。このヒントは本の初めの方に出てくるので、油断も隙もあったものではない。私は全く気づかなかったのだった。私の場合、クリスティ作品の犯人は当たることの方が多いが、本作は前述の『死との約束』、『ポアロのクリスマス』と並ぶ三大完敗だった。もちろんミステリを読む時は、今回のようにしてやられた時の方が面白いし、評価も上がる。過去に何度も書いたが、大昔の中学生時代に『アクロイド殺し』を読んでいた最中に、悪友にネタバレを食って犯人を知ってしまったのだったが、その時「えっ、本当にあいつが犯人だったのか」と思った。つまり、その時点で私は真犯人を十分疑っていたのだった。当時、同じ趣向の作品は一つも知らなかったにかかわらず。おそらく、私の思考回路がクリスティと似ているところがあるためではないかと想像するが、その私でも全く想定できなかった「意外な犯人」の作品もクリスティには少なからずあるということだ*1

 

 今月もう1冊読んだ本は、黒木登志夫著『変異ウイルスとの闘いコロナ治療薬とワクチン』(中公新書, 2022)。

 

www.chuko.co.jp

 

 一昨年に同じ著者による同じ中公新書から出た『新型コロナの科学』の続篇だが、今年3月までの知見に基づいて書かれている。そのため、第7波の死亡者数が過去の波で最多となった現時点では、著者がもっとも可能性が高いと書いた楽観的な「終わりの始まり」のシナリオが崩れ、同じく著者が提示した、より悲観的なシナリオの方が当たりつつある。ただ、もう一つ提示した最悪のシナリオには至っていないようだ。

 私のようなど素人にとっては前作の方が面白かったが、専門家筋の間では本作の方が評価が高いようだ。なお、今年1月に86歳になった著者は来年第3作を上梓するつもりらしい。頭の下がる話である。

 なお本書では前作に続いて新型コロナ対応に貢献したベストに日本国民を選んでいるが、ワーストに選ばれたのが菅義偉肝煎りの「GoToキャンペーン」だった。これには大いに溜飲を下げた次第。

 来月はせめて3冊は読みたいところだが、相変わらず暇はきわめて少ない。

*1:なお『オリエント急行の殺人』は読む前からネタバレを食っていた。

中河原理という音楽評論家を知っていますか。氏は統一教会の機関紙『世界日報』に音楽時評を書いていた元朝日新聞記者

 下記ツイートを見てふと「中河原理」の名前を思い出したのだった。

 

 

 岡田克也枝野幸男安住淳の3人が『世界日報』に登場したことは、当の『世界日報』側が立憲民主党の石垣のりこ議員に対する「脅迫」めいた「抗議文」の文中で明らかにしたことだ。下記リンクに示す。

 

 

 なお抗議文の末尾の日付が「平成4年」になっているのは誤記であり、本文中には「2022年」と書かれている。弊ブログのように現元号を忌避しているのなら統一教会は思わぬ「お仲間」になるのだが、まさかそんなことはあるまい。

 『世界日報』の編集方針は、おそらく彼らにとっての宿敵『赤旗』をモデルにして、一般紙に準じた紙面の体裁をとっている。だから「改憲」の共通項で民主系の政治家が多数登場するわけだ。彼らは藤倉善郎氏や鈴木エイト氏も「統一教会関連議員」には含めていない。もちろん岡田、枝野、安住各議員が早めにコメントすべきであることはいうまでもないが。

 そう考えているうちに思い出したのが中河原理(1931-1998)の名前だった。1970年代の中学生時代に、初心者向けのクラシック音楽解説本でずいぶんお世話になったし、1977年から6年ぶりに読むようになった朝日新聞の夕刊文化面でも演奏会評だかでしばしば名前を見たように記憶する。以下Wikipediaから引用する。

 

中河 原理(なかがわ げんり、1931年11月4日 - 1998年4月3日)は、朝日新聞記者、音楽評論家

来歴[編集]

作家・中河与一の次男[1]として東京都に生まれる。

旧制成蹊高等学校卒業。

東京大学英文科卒業、同修士課程修了、朝日新聞社に入社、音楽評論家として活動した。

平明で的確なクラシック音楽評で知られた[1]

1998年4月3日、心筋梗塞のため66歳で亡くなった[1]

 

出典:中河原理 - Wikipedia

 

 しかしある時期から中河氏に対する印象が大きく悪化した。それは氏が『世界日報』に音楽時評を書いていることを知った方からだ。そのことは上記Wikipediaには出てこないし、氏は24年前に亡くなっているので検索語「中河原理 世界日報」でググっても、下記URLが引っ掛かったのみだ。しかし、そこにはっきり中河氏が『世界日報』に音楽評論を書いていたことが示されていた。下記にリンクを示すが、作家の河野多惠子(1926-2015)の追悼文に中河氏の名前が出てくる。

 

sub.worldtimes.co.jp

 

 以下に関連箇所のみ引用する。

 

 河野さんは人間を霊的なものと認識していて、その世界を言葉で探ろうとしていた。作者と想像力についてこう説明する。「タコと糸との関係ね。糸をこう引いたからといって、タコがどこへ行くか計算ができない」。

 手にある糸と、偶然と必然で動くタコが、タイアップしているという。「言葉や文章で表現できないものは無い」と思ってはいるが、「他の芸術を言葉で伝達することだけは不可能」とも語る。

 そんな話を聞いたので、小紙に連載された音楽評論家・故中河原理さんの「音楽時評」が初めて本になった時、書評をお願いすると引き受けてくれた。その文章に深い感銘を受けたようで賛辞を惜しまず、「いい人を見つけたわね」と称えてくれた。

出典:https://sub.worldtimes.co.jp/column/updraft/36703.html

 

 どうやら河野多惠子も『世界日報』に中河氏の著書の書評を書いたことがあるらしい。『世界日報』に登場したというわけだ。しかしどの程度の頻度で同志に登場していたかのはわからないし、河野氏の名前と「世界日報」あるいは「統一教会」を検索語にしてググっても、少なくともトップページにめぼしいサイトは引っ掛からない。

 中河氏が『世界日報』に音楽時評を書いていたのを知ったのはおそらく前世紀のことで、もしかしたら1980年代だったかもしれない。当時は「それで『原理』という名前なのかな」と思った。大学の「原理研究会」を連想したのだ。しかし、もし氏が朝日新聞を辞めて音楽評論家として生計を立てようとしていた等の事情があったとしたら、単に収入を得るためだけの理由で世界日報に音楽時評を連載したものかもしれない。朝日新聞にはあの大御所・吉田秀和(1913-2012)が「音楽展望」だったかを書いていたので、中河氏の入りこむ余地など全くなかった。

 果たして故中河氏を「統一教会関連人士」といえるかどうかも微妙なのではないかと今の私は思う。

 統一教会を批判する側(私もその一人である)は、あまり攻撃範囲を広げ過ぎない方が良いのではないかと思う。攻撃目標が曖昧になり、敵の本丸を逃がしてしまったら元も子もないからである。

中北浩爾『日本共産党 - 「革命」を夢見た100年』を読む - (1) 日本共産党の「民主集中制」の問題点

 本記事は、当初『kojitakenの日記』の下記記事の後半部分として書き始めていたものだ。

 

kojitaken.hatenablog.com

 

 以下、今年(2022年)5月に刊行された中北浩爾『日本共産党 - 「革命」を夢見た100年』(中公新書)を参照しながら、日本共産党民主集中制に関する問題点について書く。

 

 まず、下記こたつぬこ(木下ちがや)氏のツイートと、それに対する反応のうち、同氏が発したリツイートに注目した。

 

 

 

 「『民主集中制』『統一と団結』といったキーワードで批判されるかも」というのは、「『志位和夫やってらんねえよ』とか炸裂トークやったら」、共産党員や同党支持者が「それは『民主集中制』や『統一と団結』に反する」として批判するのではないかとの意味だ。しかし志位和夫が現実にやっていることは、「天皇制など自身の個人的な思い入れを「これが共産党の立場」「共産党の目指すもの」と勝手に決めて発言」しているだけではないか、という痛烈な志位批判のレスだ。それを木下氏がリツイートしている。

 

 下記は、上記のすぐあとに氏が発信したツイート。

 

 

 氏はおそらく共産党員であろうから、直接「民主集中制」を批判しなかったものと推測されるが、その含意は明らかだろう。

 日本共産党民主集中制の問題については、下記中北浩爾著『日本共産党』(中公新書, 2022)の序章でも取り上げられている。

 

www.chuko.co.jp

 

 著者の基本的なスタンスは「はじめに」に示されている。以下引用する。

 

(前略)あたかも日本共産党社会民主主義政党に変化したような主張が現れている。他方で、今なお同党が暴力革命の方針を保持しているという見方が、警察庁公安調査庁を中心に維持され、政府の公式見解になっている。結論的にいって、いずれも妥当な評価ではない。共産党には、過去から変わった部分と変わらない部分とが並存する。その両面を正確に捉えなければならない。(本書i頁)

 

 続く「序論」で、著者は世界の急進左派政党を「保守派共産主義」「改革派共産主義」「民主的社会主義」「革命的極左*1の4つの類型に分類する。著者は日本共産党を第3の「民主的社会主義」の類型ではなく、第2の「改革派共産主義」に属するとみる(序章「国際比較のなかの日本共産党」の第2節「日本共産党の柔軟性と教条性」, 本書16頁)。

 しかし、日本共産党には「教条性」も残っているとする。

 

 その一方で、日本共産党には保守派共産主義の残滓もみられる。共産党の組織原則とされてきた民主主義的中央集権制民主集中制の堅持である。(本書18頁)

 

(前略)現在も中央集権が民主主義に優越しているのが実情であり、綱領や規約の解釈権も党中央によって握られている。末端組織の支部でも、党中央への信頼が一因とはいえ、批判的な意見を煙たがる空気があり、異論を口にする党員は上級の党会議の代議員などにまず選ばれないと聞く。(本書21頁)

 

 本書の終章「日本共産党と日本政治の今後」にも民主集中制への言及がある。以下にやや長く引用する。

 

 その一方で、共産党は分派の禁止を伴う民主集中制を維持している。つまり、党組織の外延部分については市民に開きつつも、中核部分は固く閉ざしている。例えば、立憲民主党は、年間2000円*2で登録できる協力党員(サポーター)に代表選挙の投票権を付与している。しかし、JCPサポーターは無料で登録できる代わりに、重要な意思決定に関わることができない。

 

 共産党の人事は事実上の任命制であり、党員ですら委員長選挙の直接的な投票権を持たない。天安門事件や東欧革命が起きた翌年*3の第19回党大会の際には、民主集中制を見直して党内民主主義を活性化すべき、最高幹部は全党員の直接選挙で選出すべきといった投稿が党員から寄せられたが、いまだ実現をみていない。共産党民主集中制を近代政党として当然の組織原理と主張するが、かくも厳格に分派を禁止し、強力な党内統制を加えている政党は例外的である。

 

 ソ連の解体から30年あまりを経てもなお、日本共産党民主集中制の組織原理を維持しているだけでなく、科学的社会主義と称する共産党イデオロギーについても見直しの兆しをみせていない。

 

 日本共産党が自主独立路線を確立して以降、ソ連や中国の大国主義・覇権主義と戦ってきたことは確かだとしても、革命を成功させた各国共産党がことごとく人権の抑圧など共産主義の理想に反したのはなぜなのか、日本共産党は本当に兄弟党の失敗から無縁であり得るのか、ロシア革命に始まる共産主義マルクス・レーニン主義)そのものに欠陥があるのではないか、こうした疑問に対して科学的な反論を十分に行っていない。そうである限り、共産党は多くの若者を惹きつけた過去の輝きを取り戻すことができないであろう。

 

 ソ連研究者の塩川伸明は、1994年の著作で共産主義社会主義)の可能性について次のように書いている*4

 

「負けたのは特定の型の社会主義に過ぎない」という人は、往々にして、「社会主義Aは失敗したが、社会主義Bはまだ試されていない」という風に考えがちである。だがそれは社会主義の歴史を踏まえない見方である。1950年代半ばのスターリン批判以降、さまざまな国でさまざまな仕方でスターリン社会主義からの脱却の試みが30年以上もの間続いてきたことを思えば、問題は、「社会主義Aも、社会主義Bも、社会主義Cも、社会主義Dも、社会主義Eも……失敗した後に、なおかつ社会主義Xの可能性をいえるか」という風にたてられなければならない。そして、これだけ挫折の例が繰り返されれば、もはや望みは一般的にないだろうと考えるのが帰納論理である。

 

(中北浩爾著『日本共産党』(中公新書, 2022)398-399頁)

 

 日本共産党がある時期以降、ソ連からも中国からも距離をとった、自主独立のいわゆる「宮本路線」をとったのは大成功だった。宮本顕治はその一方で民主集中制を堅持し、袴田里見野坂参三らを切り捨てていったが、民主集中制を問題視していつか武闘路線へ回帰するではないかとの、かつて共産党に対する強力な批判者だった立花隆らが指摘した懸念は現実にならなかった。その一方、ソ連及び中国に対する批判が功を奏して現在まで生き延びてきた。

 私は中北浩爾の著書を読む前の先月、立花隆の『日本共産党の研究』(講談社文庫1983, 雑誌連載『文藝春秋』1975-77, 単行本初出講談社1978)を読んだが、これを読み終えたあとにも、歴史的審判に耐えた「宮本路線」とは大したものだったんだなあ、と逆に感心したくらいだ。批判本を発刊後40年経って読んで、逆にその批判に耐えた人物を評価させるなど、滅多にない事例だ。

 その宮本顕治民主集中制について、下記松竹伸幸氏が中北浩爾著『日本共産党』を取り上げた3回連載のブログ記事の最終回に注目した。

 

ameblo.jp

 

 以下、松竹氏のブログ記事からまたしてもやや長い、というより記事の大半を以下に引用する。

 

 この書評の「上」で紹介した産経新聞書評で、佐藤優さんは、共産党がまだ暴力革命を捨てていないという見方をしている。そこが中北さんの本の評価とは違うと述べている。なぜ佐藤さんがそこにこだわるのかは分からない。共産党の現在の方針のどこを見ても、暴力革命などというものは欠片も見えてこないからだ。宮本路線にもとづく共産党の前進についても、中北さんが言うように、暴力革命路線から決別したからこそ達成されたものである。

 

 もしかしたら佐藤さんは、共産党民主集中制が組織原則だから、ある日、中央が暴力革命を公然と唱えはじめたら、都道府県から地区から支部まで党員は従うものだと言いたいのかもしれない。実際に過去に暴力革命の方針をとったことがあり、少なくない党員が従ったのだから、佐藤さんの危惧は無根拠ではないのかもしれない。しかし、それにしても、党員が従ったのは51年綱領がそういうものだったからである。61年綱領の採択以降60年も経つのに、見方が変わらないのは知的な誠実さが足りないと思う。現在の綱領に反するような方針が採択されたとして、それに従う党員は一人もいないだろう。

 

 ところで、この本にも出て来るが、その50年問題のとき、宮本顕治さんは九州地方委員会に左遷されていた。その頃、私の父親は長崎県の崎戸炭鉱の党細胞(支部)に所属していて(のちに作家となった井上光晴さんなどもいたそうだ)、父自身は宮本さんとは面識がなかったのだが、当時の父を指導していた幹部からは、私が成長する過程で宮本さんのことをよく聞かされた(父とともに50年代に生活苦で離党)。暴力革命路線と決別し、党の統一をはかる過程で、宮本さんの名前で党中央が「全ての党員に宛てる手紙」を出したのだが、その指導者がそれをいつまでも大事に保存していてびっくりした。

 

 いや、思い出話をしたいわけではない。そうやって左遷されたりして、共産党は暴力革命だということで国民から不人気な状態では、普通なら、宮本さんのように頑張れない。民主集中制の組織原則では党員の意見が反映されず問題だとする人は多いのだけれど(この本の著者もその一人である)、民主集中制の組織原則のもとでも、左遷された人がトップにまで登り詰めることができたのだ。その体験から宮本さんは、民主集中制でも個人の意見が中央を変えることができると思って、この原則を大事にしたのかもしれない。

 

 ただそれも、宮本さんほどの胆力と頭脳があれば、という条件付きだと思う。普通の党員には現実味のない話である。50年問題からの脱却のような大きな論争をしなくても、普通の党員の普通の路線上の模索が、何かに結実させるようなことができないのだろうか。

 

 この本の著者は、「党員ですら委員長選挙の直接的な投票権を持たない」ことを問題点として指摘している。それが一つの契機となるのではと、このブログでも書いてきた。(後略)

 

出典:https://ameblo.jp/matutake-nobuyuki/entry-12748368016.html

 

 引用文の冒頭に佐藤優産経新聞に書いた中北本の書評への言及があるが、最近は産経のサイトにも有料記事が増えたので、無料で読むことはできない。産経を儲けさせるのは嫌だから有料記事のURLもリンクしない。しかしその佐藤が来月、朝日新聞出版から「日本共産党の100年」と題した本を出すらしいとの情報は読者にお伝えしておく。本体価格1700円とのことだからおそらくハードカバー本だが、私は佐藤を批判する目的で買って読もうと思っている。マルクスにせよドストエフスキーにせよ、私は佐藤優に対して常に反感を持たずにはいられないからだ。

 ところで宮本顕治の件だが、宮本は1950年以降の一時期、党内反主流派の「国際派」に属し、徳田球一野坂参三が属していた党内主流派の「所感派」から分派認定を受けた。宮本自身が民主集中制違反に問われたわけだ。しかし国際派はそこから反撃に転じ、1954年には所感派と国際派が歩み寄り、1958年には宮本は党の最高権力者のポストだった党書記長に就任した。これが共産党の党史において、執行部に分派認定を受けた集団が党中央に返り咲いた唯一の事例であることは中北本が教えるところだ。つまり、自分くらいの「胆力と頭脳」があれば、民主集中制下であっても「個人の意見が中央を変えることができる」と宮本顕治は思っていたのではないか。松竹氏はそう言っているわけだ。

 しかし松竹氏が書く通り、それは「宮本さんほどの胆力と頭脳があれば、という条件付きであって、「普通の党員には現実味のない話」だろう。

 そして、思っていることをはっきり書かせていただくと、現在日本共産党の党執行部にいる志位和夫委員長や小池晃書記局長に宮顕ほどの胆力と頭脳があるかといえばそれは大いに疑問であって、それどころか志位和夫不破哲三にも遠く全く及ばないのではないかと思われる。その一つの表れが2019年9月に志位がにれいわ新選組*5代表の山本太郎と結んだ野党連合政権との協力合意だ。

 前述の木下ちがや氏は当時からこの合意に警鐘を鳴らしていたが誰にも顧みられなかったとのことだ。私には氏の議論よりレベルの低い直感的な話しかできないが、当時から疑問に思っていたのは、日本共産党がかつて分派認定したはずの「日本共産党(左派)」の実質的な機関紙である『長周新聞』に熱烈な応援を受けていることが当時既に知られていたれいわ新選組と、なぜかくもあっさりと合意してしまったのかということだった。

 「日本共産党(左派)」は毛沢東主義の立場に立つ分派で、中北本の4類型に当てはめると「革命的極左」に該当する。一時れいわ新選組のブレーンではないかと言われた(現在は訣別したとの説があるが不明)斎藤まさしと近い立場だといえるかもしれない。

 中北本にも「日本共産党(左派)」と『長周新聞』への言及が出てくるので、以下に引用する。

 

 日本共産党の内部では、これら*6と並行して教条主義的批判の対象となってきた中国派の排除が進んだ。党中央の幹部では1966年10月13日の中央委員会総会で西沢隆二*7の除名処分が決まり、地方では山口県委員会の外郭紙『長周新聞』を握る福田正義らが除名された。やがて福田は「日本共産党(左派)」を結成することになる。(本書236頁)

 

 『長周新聞』には現在も日本共産党を批判する記事を多数掲載しているはずだ。少なくとも私がかつて目を通した時にはそうだった。

 ところが、その『長周新聞』に熱烈に応援されているばかりか、2019年当時ブレーンにマオイストにしてかつてポル・ポトにも肯定的だったとされる斎藤まさしがいるらしいと言われていたれいわ新選組と、なぜ志位和夫はあっさり「合意」してしまったのかと不思議でならなかった。なんでかつての「分派」につながっているかもしれない政党と不用意に手を結ぶのか、と思ったのだ。

 その後、新選組共産党に対する「抱きつき」戦術を強め、現在行われている参議院選挙の東京選挙区でも、「共産党公認の山添拓の当選は堅いから、私が共産党幹部なら政策が共産党に近い山本太郎に10万票を融通する」などという怪文書講談社のサイトから堂々と発信されるに至った。この「怪文書」の効果かどうかはわからないが、朝日新聞の情勢調査では山本太郎の当選可能性が強まる一方、山添拓が当落線上に転落したとのことだ。

 

 

 執行部がこんなていたらくなのに下からの意見が全然通らず、前記のれいわ新選組との合意のように見られる不用意な決定をしてしまう。このような共産党の現状には、どう考えても大きな問題があるとしか思えない。これを解決するためには「民主集中制」を見直すことが必要条件ではないか。これが私の長年の持論である。

*1:レーニン主義トロツキズム毛沢東主義などが「革命的極左」に属する。レーニン主義者を自称する白井聡や、『長周新聞』を実質的な機関紙としているとされる「日本共産党(左派)」はこの第4の類型に属することになる。

*2:本書の表記は漢数字の「二〇〇〇円」。以下同様=引用者註

*3:1990年=引用者註

*4:塩川伸明社会主義とは何だったか』(勁草書房, 1994)113-114頁=原註

*5:本記事で取り扱う問題の重大性に鑑み、あえてNGワードの自己規制を破って新選組の正式名称を表記した。

*6:日本共産党が繰り広げた文化大革命批判=引用者註

*7:筆名ぬやまひろし。彼が作詞した「若者よ、身体を鍛えておけ」という怪しげな歌詞の歌を高校の音楽の授業で習った。おそらく教師は左翼の人だったのだろう。=引用者註

本多勝一『アムンセンとスコット』(朝日文庫)は、本文もさることながら山口周の解説文が非常に示唆的

 かつての朝日新聞のスター記者にして、1992年以降は『週刊金曜日』の創設者として知られる本多勝一が1980年代に書いた『アムンセンとスコット』(単行本初出は教育社,1986)が昨年末に朝日文庫入りした。それを買い込んで積ん読にしていたが、読み始めたら面白く、引き込まれていった。

 

publications.asahi.com

 

 著者の本多勝一自身の名前がクレジットされた記事がネットでも読める。下記はプレジデント・オンラインという、かつての本多からは結びつきが考えられないサイトへのリンク。

 

president.jp

 

 本多は『アムンセンとスコット』では、1980〜90年代の彼が愛用した「ノルヱー」(ノルウェー)や、片仮名の「ワ」「ヰ」に濁点を振って英語などの "va", "vi " の発音を表そうとした独特の片仮名表記を用いているが、上記プレジデント・オンラインの記事では「ノルウェー」という普通の表記を用いている。また本書では「ワ」に濁点の文字で表記されて然るべきと思われる人名 "Evans" が「エバンズ」と表記されているなど、不徹底な箇所がある。しかしこれらは余談だ。

 本書を取り上げようと思ったのは、巻末の山口周氏の解説が興味深かったからだ。

 山口氏は1970年生まれの52歳で、Wikipediaによると「著作家・パブリックスピーカー・経営コンサルタント」とのこと。2019年には前記ダイヤモンド・オンラインでアムンセンとスコットの南極点到達一番乗り争いを取り上げている。

 

diamond.jp

 

 本書と関連する部分のみ以下に引用する。

 

エリートがアントレプレナーに敗れる理由

 

 イノベーションの歴史を振り返ると、この「命令を受けたエリート」VS「好奇心に突き動かされた起業家」という戦いの構図がたびたび現れます。そして、多くの場合、本来であればより人的資源、物的資源、経済的資源に恵まれていたはずの前者が敗れています。

 これはなぜなのでしょうか? もちろんさまざまな要因が作用しています。筆者が所属するコーン・フェリーのこれまでの研究から、一つ確実に指摘できると考えられるのは、「モチベーションが違う」ということです。

 モチベーションの問題を考えるにあたって、非常に象徴的な示唆を与えてくれるのがアムンセンとスコットによって競われた南極点到達レースです。

 

 20世紀の初頭において、どの国が極点に一番乗りするかは領土拡張を志向する多くの帝国主義国家にとって非常な関心事でした。そのような時代において、ノルウェイの探検家、ロアール・アムンセンは、幼少時より極点への一番乗りを夢見て、人生のすべての活動をその夢の実現のためにプログラムしていました。

 たとえば、次のようなエピソードを読めばその徹底ぶりがうかがえるでしょう。自分の周りにいたらほとんど狂人です。

  • 子どもの頃、極点での寒さに耐えられる体に鍛えようと、寒い冬に部屋の窓を全開にして薄着で寝ていた
  • 過去の探検の事例分析を行い、船長と探検隊長の不和が最大の失敗要因であると把握。同一人物が船長と隊長を兼ねれば失敗の最大要因を回避できると考え、探検家になる前にわざわざ船長の資格をとった
  • 犬ゾリ、スキー、キャンプなどの「極地で付帯的に必要になる技術や知識」についても、子どものときから積極的に「実地」での経験をつみ、学習していった

 一方、このレースをアムンセンと争うことになるイギリスのロバート・スコットは、軍人エリートの家系に生まれたイギリス海軍の少佐であり、自分もまた軍隊で出世することを夢見ていました。

 当然ながらスコットには、アムンセンが抱いていたような極点に対する憧れはありません。彼はいわば、帝国主義にとって最後に残された大陸である南極への尖兵として、軍から命令を受けて南極へ赴いたに過ぎないのです。

 したがって、極地での過去の探検隊の経験や、求められる訓練、知識についてもまったくの素人といっていいものでした。

 さてこのレースの結果は、皆さんもご存知の通り、「圧倒的大差」でアムンセンの勝利に終わります。

 アムンセン隊は、犬ゾリを使って1日に50キロを進むような猛スピードであっという間に極点に到達し、スムーズに帰還しています。当然ながら一人の犠牲者を出すこともなく、隊員の健康状態はすこぶる良好でした。

 一方のスコット隊はしかし、主力移動手段として期待して用意した動力ソリ、馬がまったく役に立たず、最終的には犬を乗せた重さ240キロのソリを人が引いて歩く、という意味不明な状況に陥り、ついに食料も燃料も尽きて全滅してしまいます。

 一体何がマズかったのか。スコットの敗因についてはさまざまな分析が行われていますが、ここで筆者が取り上げて考察したいと思うのは、「探検そのものの準備と実行の巧拙」ではなく、もっと根源的な「人選の問題」という論点です。

 先述した通り、このレースは軍人エリートの家系に生まれ、自らもそうありたいと願うスコットと、幼少時より極地探検への憧れを抱き続け、人生そのものを一流の極地探検家になるためにプログラムしたアムンセンのあいだで争われ、そしてアムンセンの圧倒的な勝利に終わりました。

 ここで着目したいのが、この2人を駆り立てていた「モチベーション」です。

 同じ「南極点到達」という目標に向かって活動しながら、彼ら2人は大きく異なるモチベーションに駆動されていました。スコットのモチベーションは、おそらく海軍から与えられたミッションを完遂し、高い評価を得て出世するという点にあったでしょう。

 一方で、アムンセンのモチベーションは、おそらく南極点に最初に到達し、探検家として名を成したい、というただそれだけのものだったでしょう。

 つまり、スコットが「上司から与えられた命令を完遂して評価されたい」という承認欲求に突き動かされていたのに対して、アムンセンは極めて内発的なモチベーションによって突き動かされていた、ということです。

 この「上司からの命令で動くエリート」と「内発的動機に駆動されるアマチュア」という構図は、インターネット黎明期の頃から、たびたび見られた戦いの構図であり、多くの場合は「内発的動機に駆動されるアマチュア」に「上司からの命令で動くエリート」が完敗するという結果になっています。

 

出典:https://diamond.jp/articles/-/211296?page=2

 

 結果をすでに知っている人に対して、アムンセンとスコットの立場を比較して、「どちらかを選べ」と言えば、スコットの立場を選ぶ人はいないでしょう。

 前者が元から大好きだった探検を心底楽しみながら遂行し、無事に生還して探検家としての盛名を得たのに対して、後者はまったく興味のなかった探検を上司の命令だからということで仕方なく受け入れ、拷問のような苦労を積み重ねた末に、部下全員と自分の生命まで失っているのです。

 探検隊の最後の一人となったスコットの日記には「残念だがこれ以上書くことができない」と記され絶筆となっています……何ともはや。

 しかし、では今日、どれだけの人が自分の内発的動機とフィットする「場」に身を置けているかとあらためて考えてみれば、多くの人はスコットと同じように「上司の命令だから」ということで、モチベーションの湧かない仕事に身をやつしながら、内発的動機に駆動されて自由自在に高いモビリティを発揮しているニュータイプたちに翻弄され、きりきり舞いさせられているのではないでしょうか。

 そのような場所に身を置いていれば、いずれ自身もまたスコットと同じような社会的結末へと至ることになる可能性があります。

(本原稿は『ニュータイプの時代――新時代を生き抜く24の思考・行動様式』山口周著、ダイヤモンド社からの抜粋です)

 

出典:https://diamond.jp/articles/-/211296?page=3

 

 アムンセンとスコットに関する上記の対比と同様の記載は本書の解説文にも出てくる。

 しかし、山口は本書の解説文で上記に当たる「パーソナリティーの側面=内発的動機の有無」に加えて、「マネジメントの側面=権力格差の大小」をも分析している。というより、こちらの分析の方が先に書かれている。以下に本書から引用する。

 

 まず「マネジメントの側面=権力格差の大小」という点について述べたいと思います。アムンセンとスコットのリーダーシップの違いがもっとも顕著に現れていると思われるのが、彼らのチームにおける「権力の格差」です。「権力の格差」とは、リーダーとメンバーとのあいだにおける権力の差で、もともとはオランダの組織心理学者、へールト・ホフステードが提唱した概念です。ホフステードはIBMからの依頼に基づいて、全世界のIBMオフィスにおける上司と部下の権力の格差を調査し、それを「権力指標 = Power Distance Index」として数値化しました。

 ホフステードによると、権力格差の大きいチームでは、リーダーの命令は絶対であり、メンバーがリーダーの指示に反論することはあり得ない、という空気が支配することになります。一方で、権力格差の小さいチームでは、組織はよりフラットになり、リーダーとメンバーが意見をぶつけ合いながら集合的に意思決定されることが歓迎されるようになります。ホフステードのスコアリングによると、アムンセンの出身国であるノルウェイは権力格差の非常に小さい国となっていますが(原註あり)、それは本書に登場するさまざまなエピソードからも感じることができます。

 

本多勝一『アムンセンとスコット』(朝日文庫,2021)333-334頁)

 

 引用文中、「(原註あり)」と記した箇所の原註は下記の通り。

 

 ノルウェイの権力格差指標は18。スコットの出身国であるイギリスは35となっている。ちなみに日本のスコアは54。儒教の影響圏にある国は全般に格差が大きい。(同335頁)

 

 上記がいつごろ行われた調査なのか記載されていないが、ネット検索をかけると山口自身が書いた記事(下記リンク)がヒットし、それによると1967〜73年に行われた調査とのことだ。およそ半世紀前の研究結果ではある。

 

toyokeizai.net

 

 ノルウェイ(におけるIBM)が比較的フラットな組織であるのに対して、現在も階級制度が強く残存しているであろうイギリス(のIBM)では権力格差が大きい。しかし日本(のIBM)における権力格差はもっと大きいということなのだろう。2005年に亡くなった亡父がかつて「日本IBM? あれは日本の会社だ」とその体質を一言で切り捨てていたことを思い出す。日本の企業における業務命令が絶対の体質は私もよく知っており、会社内で下からの意見を汲み上げることなどほとんどない、というのが持論だ。

 山口は、アムンセン隊について「隊員一人ひとりの意見を尊重し、結果としてチームの参画意識、自主性、モチベーションを高く保とうとしたアムンセンのチーム運営に関する姿勢が窺えます」と高く評価する。スコット隊に対する下記の論評とは対照的だ。

 

 一方のスコット隊は、チーム運営に厳格な海軍の階級制度を取り入れていました。考えるのは隊長であるスコットで、メンバーは忠実に従順にスコットの命令に従うことを求められたのです。結果、自主性も参画意識も持てないメンバーはモチベーションを低下させ、ケアレスミスを連発することになります。スコット隊の隊員はありとあらゆる状況で小さなケアレスミスを積み重ね、結局はそれらのミスが全滅に至る決定的な状況を招いてしまいます。

 隊員が死亡していく順番にそれがよく現れています。記録を見返してみると、隊員が死んでいった順は、エバンス、オーツ、バワーズ、ウィルソン、そしてスコットとなっており、つまりは階級の低いものから順に死んでいます。隊長はその責任感から、最後まで頑張ったという能天気な見方もあるかもしれませんが、私は、スコット隊の厳格な身分制度が、階級の低いメンバーに心理的・肉体的なストレスを与え、死を早めたのだろうと考えています。

 

本多勝一『アムンセンとスコット』(朝日文庫,2021)335-336頁)

 

 本多勝一が書いた本文でもスコット隊の階級由来の問題点をいくつもの箇所で指摘し、たとえば下記のような印象的なくだりがある。

 

 現在にいたるまで、オーツの死は高く称賛され、エバンズの死は語られることが少ない傾向がある。スコットはオーツの最期を語る日記のなかで「(オーツの行動は)勇敢な男の、そしてイギリス紳士(傍点*1は本多)のものであった」と書いた。これはエバンズが決して並べない階級社会での言い方である。その結果、エバンズの真に英雄的な行為が小さく見られてしまっていることに対して、エバンズの立場を顕彰しておきたい。

 

本多勝一『アムンセンとスコット』(朝日文庫,2021)261頁)

 

 しかし、解説文での山口周の論評は、明らかに本多をも凌ぐ痛烈さである。

 山口はさらに、過去50年分、56か国のエヴェレスト登山隊における死亡者の発生率と権力指数の相関に関する南カリフォルニア大学の組織心理学研究者、エリック・アニシックの研究によると、権力格差の大きい文化圏の登山隊の方が、他方の登山隊と比較して死者が出る確率が著しく高いことが明らかになったと書いている(本書336頁)。こちらには下記リンクが示されている。

https://www.pnas.org/content/112/5/1338

 

 なお単独登山の場合は死亡率と権力格差には何の相関もないとのこと。

 山口の下記の文章は、その前半では日本の某政党がどうしても連想されてならない一方、後半では1950〜70年代に日本経済が高度成長を遂げた理由がよく説明できると思った。

 

 権力格差の大きいチームでは、地位の低いメンバーが発言を封じられることで、彼らの発見、あるいは懸念、あるいはアイデアが共有されず、結果的に意思決定の品質が悪化するのです。これは、想定外のことが次々に起き、リーダーの認知能力・知識・経験が限界に晒されるような環境下では致命的な状況といえます。

 一方で、アニシックの研究で非常に興味深いのは、予想外のことが起きないような安定的な状況においては、権力格差の大きさは、むしろチームのパフォーマンスを高めることがわかっています。そのような状況では、リーダーの意思決定が上意下達され、一糸乱れず実施される組織の方がパフォーマンスが高いのです。これはつまり、リーダーの認知能力や知識・経験の範囲内で対処が可能な状況においては、権力格差の大きさはチームのパフォーマンスにプラスの影響を与えるということです。

 

本多勝一『アムンセンとスコット』(朝日文庫,2021)336-337頁)

 

 上記に続く部分が、山口の解説文の核心部といえるかもしれない。以下に引用する。

 

 よく「理想的なリーダーシップ」といったことが語られますが、そんなものは存在しません。リーダーシップというのは極めて文脈依存的なもので、どのような状況・環境においても有効に機能するリーダーシップなどというものはあり得ないのです。

 アムンセンとスコットの対比に関して言えば、アムンセンによる、権力格差の小さいリーダーシップは、南極点到達という、極めて不確実性の高い営みにおいては有効に機能しなかったわけですが、だからといってここから「どのような状況においても権力格差の小さいリーダーシップが有効なのだ」と断ずるのは暴論でしかありません。

 この示唆を、現在を生きる私たちに当てはめてみればどのようになるでしょうか? 当時の南極は、前人未到の大地であり、そこがどのような場所であるかはよくわかっていませんでした。それはまさに、現在の我々にとっての「これからやってくるアフターコロナの世界」のような局面です。このような不確実性・不透明性の高い環境において有効なリーダーシップとはどのようなものか? について考える題材を本書は与えてくれると思います。

 

本多勝一『アムンセンとスコット』(朝日文庫,2021)337-338頁)

 

 特に示唆的なのは上記引用文中の最後の段落だ。

 日本は既に「人口オーナス期」(人口減少による経済や社会への不利益が続く時期)に入っているが、これに対する対処法の知見などほとんどない(経験がないのだから当たり前だ)。その不確実性に加えて「これからやってくるアフターコロナの世界」の不確実性がダブルパンチで襲いかかってくる。アムンセンやスコットが直面した南極到達にも比較されるべき困難な状況といえるだろう。こういう時期に何よりも求められるのは知恵であり、多くの人が持っている知恵を可能な限り有効に吸い上げてそれらを総合し、機能させることが求められる。

 ところが日本の政治状況について言えば、10年くらい前の民主党政権時代に「決められる政治」なるスローガンが喧伝されて、それに先立つ1990年代に行われた「政治改革」の「成果」と相俟って、政党の執行が独裁し、下部は執行部に付き従うだけという傾向が強まった。それ以前から公明党共産党はそういう性質を持つ政党だったが、自民党にせよ民主党にせよ上記の流れに従って権威主義的な政党に変貌していった。

 それらの「既成政党」に対抗する形で新たに現れた日本維新の党やれいわ新選組*2は、最初から公明党共産党をも上回る執行部、あるいは新選組の場合は党首単独が独裁する政党の性格を持っている。維新や新選組においては「権力格差」は特に大きいといえるだろう。

 しかし、上記山口周の議論を維新や新選組に当てはめると、これらの政党が「アフターコロナの世界」に対処できるとはおよそ思われない。

 それどころか、両党は本書刊行後にロシアがウクライナを侵攻して起きたウクライナ戦争で早くも馬脚を現した。維新OBの橋下徹新選組代表の山本太郎がともに事実上侵略者・プーチンの肩を持ったのである。これは、橋下や山本の体質と、世界でも稀に見る残忍な権力主義者であるプーチンのそれとの親和性が高いためだろうと私は考えている。

 プーチンのロシアにせよ橋下の影響力が強く残る維新にせよ山本が独裁する新選組にせよ、集合知が有効に働かないことは明らかだ。特に悲惨なのは新選組であって、山本が持つ陰謀論に惹かれやすい弱点を組織が修正することができず、逆に国政選挙の候補者たちの多くが陰謀論者であることなど、目を覆いたくなるぶざまさだ。

 山口は「アフターコロナの世界」と書いているが、山本太郎の暴走が始まったきっかけも新型コロナ感染症だった。コロナによって得意とする街宣を封じられた山本が打開策として選んだのは2020年の東京都知事選への強行出馬だったのである。この時、山本は宇都宮健児の出馬を取り下げてもらおうと工作したが失敗した。共産党立憲民主党(立民)は宇都宮を支持したため、山本が「野党共闘」に罅を入れた形になった。

 現在、一部の新選組シンパが「野党共闘を支持していた票が参院選で行き場を失うだろう」などと言っているが、昨年の衆院選での「野党共闘」の敗北で本格化した「野党共闘の崩壊」の最初のきっかけを作ったのは山本だったと私はみている。

 山本は2021年の衆院選でも東京8区からの出馬を強行しようとして失敗した。この時はこの山本の暴挙によってかえって同区で「野党共闘」がまとまる結果となり、この選挙区から立候補した立民の候補者が、自民党石原伸晃に比例復活も許さない圧勝をもたらしたが、選挙全体としては「野党共闘」は敗れた。山本は比例東京ブロックに回って当選した。

 ところが山本はきたる7月の参院選に出馬するために、自ら獲得した議席を投げ出した(衆議院議員を辞職)。ここまでくるともう滅茶苦茶だ。こんな人が率いる独裁政党が「アフターコロナの世界」に対処できようはずもない。

 山本が独裁する新選組は、今年の参院選でか、あるいは次の国政選挙でかはわからないが、いずれ行き詰まって破綻するだろうが、橋下徹大阪府知事選初当選から既に14年が経過し、大阪を中心とした関西ではすっかり定着した維新はそう簡単には引きずり下ろせない。それどころか今年の参院選で立民を上回る議席を獲得する可能性や、その後の衆院選野党第一党にのし上がる可能性さえある。しかし維新も新選組に負けず劣らず権力指数の高い政党だといえる。この政党もまた「アフターコロナの世界」に対処できようはずがない。

 政権政党自民党でも極右の元首相・安倍晋三が長く政権を担った2012〜20年の間に、すっかり独裁政党になってしまったし、野党第一党の立民も、せっかく2017年に「希望の党騒動」を奇貨として発足し、ボトムアップや「草の根」を標榜したにも関わらず、結局前代表・枝野幸男の個人商店と化したばかりか、衆院選敗北で枝野にとって代わって代表になった泉健太がドラスティックな政策の変更を衆院選の公約として打ち出しても、党員や支持者からろくすっぽ異議も上がらない惨状を呈している。

 また発足100年を迎えた共産党は、多くの論者から「民主集中制」の限界を指摘されている。先月発売された中公新書『日本共産党』*3の著者・中北浩爾も宮本顯治の路線が限界にきているとみているようだ。「民主集中制」の限界も、山口周が指摘する「権力格差」と関連づけて論じることができるのではないか。少なくとも民主集中制が「権力格差の小さい」制度であるとは私にはとても思われない。

 『アムンセンとスコット』の解説文について、「せっかくのドラマチックな物語をビジネスにおける教訓に転化してしまっていて個人的にはちょっと鼻白んだ」との感想を書いた人も見かけたが*4、私はそのような感想は持たなかった。山口周の解説文は、単に「ビジネス」にとどまらず、今後のこの国の舵取りにも適用できるものであり、その困難さは南極点への初到達と比較できるくらい困難極まりないものだと思うからである。

*1:原文の傍点に代えて太字とした=引用者註。

*2:『kojitakenの日記』では、アベノミクス、巨人(プロ野球チームの日本語の愛称としての用法に限る)、令和(れいわ)の3つの言葉を使用禁止用語に指定している。従ってこの政党名も通常「×××新選組」と表記しているが、ここでは初読の読者も想定して本記事限定であえてNGワードをそのまま用いる。

*3:この本は未読だが、読み終えたら弊ブログで記事を公開したいと考えている。

*4:https://bookmeter.com/books/18961308