KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

モーツァルトには革命前夜の時代の空気をかぎとり、オペラで貴族が謝罪・破滅する物語を描いた先進性や、信念のためなら上に歯向かうベートーヴェン並の反骨心があった(高野麻衣氏)

 昨年10月末に突然かつてのモーツァルト熱を再燃させて現在に至るが、年度末でもあり、弊ブログのモーツァルト関連記事に一区切りをつけることにした。

 私は10〜20代の頃にモーツァルトの音楽にずいぶん嵌ったが、痛恨なことに当時の私は人間に対する関心が薄かったため、モーツァルトの音楽には興味があっても「人間モーツァルト」への関心があまりにも低かった。しかし、昨年来いろいろ調べてわかったことは、モーツァルトほど興味深い人生を送った作曲家はほとんどいないことだった。唯一比較できるのは14歳年下のベートーヴェンくらいではなかったか。そのベートーヴェンに関しては青木やよひ氏の本を読んだことがあったが、モーツァルトについては1984年に出た下記新潮文庫を読んだ程度で、この本もおそらく処分してしまって手元にはないと思う。

 

www.shinchosha.co.jp

 

 しかし、当然ながら世のモーツァルティアンは私のような迂闊者ばかりではなかった。たとえば高野麻衣さんという方が書かれた下記記事を読んで私はたいへん感心した。2017年に公開された英国/チェコ合作映画『プラハのモーツァルト 誘惑のマスカレード』を評した記事だ。私はこの映画の存在さえ知らなかった。

 

mai-takano.com

 

 以下一部を引用する。

 

アマデウス』やあまたの「音楽家を身近に」キャンペーンによって、女好きでちょっと下品な変わり者のイメージが打ち立てられてしまったモーツァルト

だが、私はそれよりも、革命前夜の時代の空気をかぎとり《フィガロの結婚》や《ドン・ジョヴァンニ》(=貴族が謝罪・破滅する物語)を描いた先進性だとか、そうした信念のためなら上に歯向かうベートーヴェン並の反骨心だとか、それでも音楽にはエレガンスを貫いたある種のダンディズムだとか、そういう「モーツァルトの素顔」がもっと、広く知られるべきと思っている。

そして、そういうモーツァルトと変わり者のモーツァルトのあいだにあるギャップにこそ、この音楽家の魅力は詰まっていると思う。バーナードのモーツァルトは、それを体現していた。

この、迷子のような表情を浮かべた彼を見たとき、「ああ、これがモーツァルト」という天啓が聞こえたほどだった。

URL: https://mai-takano.com/?p=38

 

 まさにモーツァルティアンの鑑! これほど心から共感できるモーツァルト評には出会ったことがない。それほど強く印象に残る文章だった。先進性や反骨心だけならベートーヴェンにはあるいは勝てないかもしれない。しかし「それでも音楽にはエレガンスを貫いたある種のダンディズム」、そうだ、それがモーツァルトなのだ。だが後者だけ見て前者が見えない人たちが多すぎる。この記事を書こうとして、そういえばチャイコフスキーに『モーツァルティアーナ』という題の管弦楽組曲があったよなあと思い出して調べたら、Wikipediaチャイコフスキーモーツァルトをわかっていなかったと批判した文章があったのを見つけて、チャイコさんには悪いけれども溜飲を下げてしまったのだった。以下に引用する。

 

『モーツァルティアーナ』には「過去を現在の世界に」再創造したいという願いを込めたのだと、チャイコフスキーは出版社のユルゲンソンに書き送っている。しかしながら、イーゴリ・ストラヴィンスキーが行ったように自らの様式で音楽を作り変えることはせず[注 2]モーツァルトの楽曲を補強することもなかった。とりわけ、後の時代から見た際にチャイコフスキーが目的を果たし損ねたと感じられるのは、第3曲の「祈り」(Preghiera)である。彼はモーツァルトの楽曲を直接使わず、フランツ・リストモーツァルトの音楽を独特な方法で扱った『システィナ礼拝堂にて』S.461という作品を素材として用いた。その結果、今日ではモーツァルトが書いた清澄かつ繊細な原曲の扱いとしては、あまりに感傷的で華美であるという評価が一般的となってしまったのである[8]

 

ジグ」と「メヌエット」の書法は効果的である。しかし、これらを開始の2曲に選択したという事実からは、チャイコフスキーも当時の人々の多くと同じように、モーツァルトの軽妙な面と深遠な面の区別が十分につかなかったのだと考えることができる。最終の変奏曲ではモーツァルトがこの主題を用いて探究した点のいくつかについて、チャイコフスキーは特徴的な色鮮やかな管弦楽法によって描き出すことに成功している。それでもなお、モーツァルトが深みを持つというよりむしろバロックの可憐さを象徴するものとして立ち現れるのである。一見するとモーツァルト音楽の真の力量や多様性にチャイコフスキーの目が向いていない様に見えることの原因は、彼の心理状態が沈みがちに過去を振り返り、それを失われた純粋さや至福と結び付けずにおれなかったという点に求められるのかもしれない。このため、彼は単純に感傷的な視点へと避けがたく傾いていったのである[9]

 

URL: 組曲第4番 (チャイコフスキー) - Wikipedia

 

 弊ブログによくコメントを下さる片割月さんとのやりとりにも書いたことだが、私も昔からモーツァルトベートーヴェンとの断絶よりも連続性に関心があった。しかし『フィガロの結婚』や『ドン・ジョヴァンニ』を「貴族が謝罪・破滅する物語』ととらえてそれを評価する視座など持ったこともなかった。最近になって水谷彰良氏が2004年に出したサリエリ(サリエーリ)の伝記を読んで、王侯貴族に引き立てられて不満を持たなかったサリエリには持ち合わせがなかった毒が『フィガロの結婚』には込められていて(それも台本作家のダ・ポンテがいったん消した毒をモーツァルトが復活させた)、それがオペラが後世から評価される理由だろうという意味のことが書かれているのを読んで、自らの不明を恥じたのだった。もっとも吉田秀和NHK-FMの番組でもモーツァルトはなぜ明るい『フィガロの結婚(K492) を書きながらそれと並行してハ短調のピアノ協奏曲第24番 (K491) を書いたのだろうかなどと言っていた。

 

モーツァルトの「かなしさの疾走」は、映画後半にかけて急激に高まっていく。 

 

本作のおもしろさは、モーツァルトが探偵役を務めるミステリーでもあることだ。ある父親と娘を襲った悲劇—―そしてもうひとつの悲劇を線で結び、証人たちから話を聞き、真実を解き明かしていくモーツァルト

 

そして、元凶であるサロカ男爵(=貴族)を断罪するため、この名探偵(=平民)にできるのはペンを執ることのみ。墓地にそびえる石像を見つめるモーツァルトのなかに、《ドン・ジョヴァンニ》の主題が降りてくる一連のシークエンスは必見だ。

 

URL: https://mai-takano.com/?p=38

 

 へえ、そんな映画なのか。それは是非一度視聴してみたい。

 

ドン・ジョヴァンニ》に新しい解釈が加わったことも、大いなる収穫だった。

ここ数十年はやはり『アマデウス』の影響か、「騎士団長殺し(=父殺し)」をした大罪人が地獄に堕ちるという《ドン・ジョヴァンニ》の筋書きに、ステージパパ・レオポルトに逆らったモーツァルト自身の後悔を読み解くのが定説のようになっていた。前述の村上春樹の小説も、この父殺しとのリンクが指摘されることが多い。

しかし、真相はわからない。サロカ男爵の事件はもちろんフィクションだが、同じように貴族の横暴への怒りがあったかもしれない。もっと新しい、隠された事件があったかもしれない。歴史に定説なんかないのだ、とあらためて思わされる。

URL: https://mai-takano.com/?p=38

 

 「ステージパパ・レオポルトに逆らったモーツァルト自身の後悔を読み解くのが定説のようになっていた」とは聞き捨てならない話だ。モーツァルトドン・ジョヴァンニを自らに重ね合わせていた可能性ならあると思うが、モーツァルトはオペラの主役であるドン・ジョヴァンニと同様、レオポルトに逆らったことを後悔など絶対にしなかったはずだと私は確信している。そもそもレオポルトこそ、コロレド大司教マリア・テレジアと並ぶモーツァルトの生涯における三大障害物の一つだったではないか。モーツァルトはあのように生きるしかなかったのだ、と私は思う。

 ところで先日その『ドン・ジョヴァンニ』のDVDを視聴しながら、モーツァルトは書きながらドンナ・アンナに姉のナンネルを重ね合わせていたのではないかと思った。レオポルトはヴォルフガングに背かれたあと愛情の対象をマリア・アンナ(ナンネル)に移し替え、それがナンネルの結婚を遅らせた上、彼女を生涯ザルツブルクに縛りつける原因になったのではないか。モーツァルトとコンスタンツェの結婚をレオポルトもナンネルも喜ばず、1778年の母アンナ・マリアの死をヴォルフガングのせいにしたレオポルトの悪影響も受けたか、あれほど仲の良かった姉弟モーツァルトが『ドン・ジョヴァンニ』を書いた頃にはすっかり疎遠になっていた。ヴォルフガングは姉の結婚式には出席せず、父の死に目にも会わなかったが、後者はナンネルがヴォルフガングに知らせなかったからだとも言われる。そしてヴォルフガングの葬式にもナンネルは出なかった(コンスタンツェも体調不良だかで出なかったとされる)。このようにモーツァルトの死に方は悲惨だったが、真に地獄に落ちるべきは彼よりもレオポルトではなかったかと私などは思うのである。

 そういえば先日CDを整理していたら、一枚も持っていなかったと思われるレオポルト・モーツァルトの作品が収められたCDが出てきた。それはウィントン・マルサリスがレイモンド・レッパード指揮イギリス室内管弦楽団との協演で1983年に録音したハイドンやフンメルらのトランペット協奏曲集で、ハイドンの名曲の直後にレオポルトの作品が収められていたのだった。出谷啓氏の解説には下記のように書かれている。

 

彼は有名なヴァイオリンの教則本を残しているが、現実的で計算高かった性格からか、その作風はむしろ保守的で、さまざまな種類の作品を書いたが、フランス・スタイルのロココ趣味の香りをうかがわせている。

 

 抜群のインテリにして音楽理論にも精通したレオポルトだが、作曲の才能は大したことがなかったらしく(とはいえヴォルフガングの少年時代の交響曲では、父子のどちらが作ったかで意見が分かれるレベルの作品を書くことはできた。だがおそらくは保守的な性格ゆえにその先には進めなかったのだろう)、彼のトランペット協奏曲も全く印象に残らなかったのだった。

 

 もっともコンスタンツェやアロイジアを生んだウェーバー家もレオポルトがナンネルが嫌った理由も全くはわからなくはない怪しげな面は確かにあった。

 たとえば大作曲家のカール・マリア・フォン・ウェーバー(1786-1826)はコンスタンツェらの父方の従弟だが、私がふと気づいたのは「なぜ写譜屋の家のいとこの名前に貴族を表す『フォン』がついているんだろう」ということだった。これは彼が貴族を僭称していたからに違いないと思ってネット検索をかけたら案の定だった。下記はサンノゼピアノ教室講師の井出亜里氏が書いた記事へのリンク。

 

jweeklyusa.com

 

 以下引用する。

 

 子供を大音楽家にしたいあまり教育に力を入れすぎ、害にもなる親がいます。古くはベートーヴェンの父ヨハン。記憶に新しいのはマイケル・ジャクソンの父ジョゼフ。今月は、彼らに劣らぬ迷惑親父に翻弄された作曲家、カール・ウェーバーをご紹介します。

 

 “魔弾の射手”や“舞踏への勧誘”で有名なウェーバー。1786年11月18日、ドイツでウェーバー家の三男として生まれます。病弱で、小児麻痺を患い片足が不自由でした。フルネームはカール・マリア・フリードリヒ・エルンスト・フォン・ウェーバー“フォン”は貴族を表す称号ですが、ウェーバーの家系は貴族ではありません。父フランツは1600年代に先祖が男爵に叙せられたと言うのですが、どうも怪しい。フランツの兄はフリドリン・ウェーバーですし、父も同名のフリドリン・ウェーバー。“フォン”はどこにもありません。フランツのでっちあげだろうと研究者は見ています。男爵は男爵でもホラ吹き男爵の父を持つとどうなるか。見ていきましょう。

 

 ウェーバーの父フランツの夢はベートヴェンの父と同じものでした。それは「第二のモーツァルトを生み出し一攫千金」。自身も音楽家だった父親です。名声と富は勿論、もう一つ、強力な動機がありました。姪の結婚相手がモーツァルトその人だったのです。つまり、兄の娘がアマデウスモーツァルトの結婚相手。あの悪妻として名を馳せたコンスタンツェです。兄には負けられぬ。モーツァルトに続けとばかりに長男次男をハイドンに弟子入りさせますが、双方神童には程遠い。そこへ生まれた三男カール。是が非でも大音楽家にしなければならぬと一層の音楽教育を施しました。学校へは行かせず、著名な音楽家に次々と弟子入りさせたのです。それが実ってカールは貴族の家に招かれる演奏家になりました。

 

美しいバリトンヴォイスは戻らない

 

 17歳のカールは社交界でも大人気。ピアノもギターも達者な上、美しいバリトンの歌声で上流社会に馴染んでいきます。一方、オペラを作って発表していたものの、こちらは鳴かず飛ばず。しかし貴族の後ろ盾も強力になり、劇場の楽長に任命されました。    
 悲劇が起こったのは20歳の時。訪ねた友人が瀕死のカールを見つけたのです。銅板印刷の研究をしていた父が、残った硝酸(医薬用劇物)をワインの空き瓶に入れ、棚に置きっぱなしにしていたのでした。知らずにラッパ飲みしたカールは喉から胃までを焼かれ、虫の息。病院で命は取り留めたものの、美しいバリトンは失われてしまったのです。

 

父により投獄、追放、夜逃げ旅

 

 健康を著しく害し、楽長の座を追われたカール。次の仕事は公爵家の記録係でした。音楽を仕事にできない不満はあっても2年間、実直に勤務。公金も任されるようになり、それを家に置いていたある日、嗅ぎ付けたのが父親です。借金取りに追われ、金の無心に訪れた息子宅で大金を発見。これは良い好都合と、持ち逃げしました。結果、カールは投獄され、その後父子そろって国外追放。罪人として公国を追われてしまったのです。

 

死してなお迷惑かけるダメ親父


 1810年、遂に好機が訪れました。オペラ“シルヴァーナ”がフランクフルトで大成功。名声を得たカールは各地への演奏旅行で1812年までにかなりの財を得ました。懐も暖かくなり、ほっと一息ついたところへ父死亡の通知。しかしタダで死なないダメ親父。莫大な借金を遺しました。借金取り達は一番余裕がありそうな三男の作曲家に群がります。カールは借金返済でスッカラカン。おまけに演奏旅行中。
 あわや異土の乞食か、と思われたその時、救いの手が差し出されました。プラハに指揮者として招かれたのです。ここで3年間、指揮者、芸術監督、ピアニストとして必死に働きました。

 

父親を反面教師に財のこす

 

 30歳で結婚、二児をもうけると、創作意欲はますます高まります。1819年にピアノ曲“舞踏への勧誘”、翌年にオペラ“魔弾の射手”を作曲。1821年にオペラが初演されるや、空前絶後の大成功。この演奏を聴いて、ワーグナーベルリオーズが作曲家を志したと言われています。しかし名声の代償は健康でした。この頃、体の異変を覚えたカールは結核に侵されたことを知ります。それでも1826年2月、単身イギリスへの演奏旅行を決意。オペラ「オベロン」の作曲依頼があったからですが、実は、病身を妻子から隔離し、彼らにまとまったお金を遺すためでもあったのです。
 4月12日の“オベロン”初演は成功し、病躯に鞭打って自らタクトを振り続けること11回。約2か月の契約は6月4日に完了しました。明日は帰国という6月5日の夜、精魂尽き果てたカールは、一人ロンドンで客死したのです。享年39歳。
 自分の父とは異なり、家族のために生きた彼の遺骨は18年後、ワーグナーの尽力により遺児マックスと共にドレスデンに戻り、今もそこで眠っています。

 

URL: https://jweeklyusa.com/8273/columns/sanjosepiano/

 

 ウェーバーの代表作『魔弾の射手』は1975年夏休みに放送されたNHK-FMのクラシック入門番組で序曲を初めて聴き、1982年頃に同じくNHK-FMでハイライトが放送された(おそらくカルロス・クライバー指揮)のをエアチェックしてよく聴いていた。なかなか良い曲が多いと思って結構気に入ったが、ここ40年ほどは聴いていない。CDも「舞踏への招待」が収められているのを1枚持っているかどうかというのと、ホルンの小協奏曲だったかリヒャルト・シュトラウスの1番と2番の協奏曲の余白に入れたのを持っている程度。しかも後者は名曲とは決していえない。あと、昔ジャズのベニー・グッドマンクラリネット協奏曲の1番2番を吹いたのを聴いたことがあるが、こちらはそこそこ良い曲だった。しかしこのジャンルにはモーツァルトの作品があるので、もちろんそれとは比較の対象にならない。そうそう、リヒテルが彼のピアノソナタの3番だったかを弾いたCDも持っているが、あまり印象に残っていない。組み合わされていたハイドンベートーヴェンソナタが目当てで買ったCDだった。

 彼の人生について、硝酸を誤飲して声が出なくなったことと、ドイツ・オペラの草分けとしてワーグナーに硝酸もとい称賛されたことは知っていた。ナチスの時代にはドイツで『魔弾の射手』が頻繁に上演されたものの、それが災いしてかどうか、戦後はあまり上演されなくなったとも聞く。しかし引用文に書かれているような苦難の人生だったとは全く知らなかった。

 それにしてもベートーヴェンの父親もそうだが、ウェーバーの父親は本当にどうしようもなかったらしい。こんな人がアロイジアやコンスタンツェの叔父だったのだ。これではレオポルトやナンネルの気持ちもわからなくもない。しかもコンスタンツェには、次回(とりあえずのモーツァルトシリーズ最終回)の『魔笛』編でも取り上げることになると思うが、『魔笛』に関する資料(史料)を湮滅した疑惑もある。この点ではベートーヴェンの不肖の弟子、シンドラーと張り合えるのではないか。最近モーツァルトについていろいろ調べている過程で、残念ながらコンスタンツェの株はかなり下がってしまったのだった。ハ短調ミサのクリステ・エレイソンや、なんといってもエト・インカルナートゥス・エストを歌ったらしいというのがコンスタンツェの好印象のポイントだったのだが、歌唱の技巧にやや難点があったとされる彼女はこれらを歌ったのではなく第2ソプラノだったのではないかとの説を高橋英郎氏が唱えていたらしいことを知って(まあ氏の説が正しいかどうかは知らないが)幻滅したという要因もある。

 でもまあウェーバーモーツァルトベートーヴェンとはまた全然違う苦悩の人生を送ったのだった。こうしていろいろ知っていくと、作曲家に短命の人が多いのもむべなるかなと思う。今回はウェーバーに同情したところで記事を終える。

水谷彰良『サリエーリ - モーツァルトに消された宮廷楽長』(音楽之友社, 2004) を読む

 明日には図書館に返さなければならないので、水谷彰良著『サリエーリ - モーツァルトに消された宮廷楽長』(音楽之友社, 2004)についてメモを残しておく。下記は2019年の復刊版へのリンク。

 

www.fukkan.com

 

 本文を始める前に、弊ブログにいただいた下記コメントを紹介する。

 

kj-books-and-music.hatenablog.com

 

まやや&充実 (id:mayaya_jujitsu)

 

水谷彰良氏『サリエーリ モーツァルトに消された宮廷楽長』は、数年前に自分がサリエリに関心を持った時に読んだ本の一冊です。水谷氏は日本におけるサリエリ研究の第一人者ではと思います。

サリエリモーツァルト毒殺は虚偽」ぐらいは知っていたのですが、いざサリエリを調べてみると、フランス革命を挟んで社会も音楽の世界も激変したこの時代に、革命前でも後でも第一線で活躍し続けた、音楽史においても相当な重要人物なのでは?と驚きました。
(自分にとってモーツァルトフランツ・リストは「全く別時代の人」というイメージだったのですが、サリエリがその両者と交流があったというだけでも驚き。)

サリエリで一番印象的だったのが、フランス革命を経て「貴族や王侯の音楽」から「市民の音楽」へと移行していく時代の中、音楽振興と音楽家たちの支援のためにウィーン学友協会の設立や発展にかかわっていたという点でした。
帝国宮廷楽長という「旧時代のドン」「権威の頂点」みたいな地位にいたサリエリが、新しい時代の流れに適応しようとし、後世の音楽家たちや音楽界のために活動していたのかという驚き。知るほどに興味深い人物だと思いました。

 

 本の内容については、2018年に発信された下記「はてなブログ」のエントリを参照されたい。これだけの内容のブログ記事を書くのにいったいどれほどの時間がかかっただろうか。大変な力作の記事だと感服するしかない。

 

tonikaku-read.hatenablog.com

 

 記事の末尾で、メゾソプラノチェチーリア・バルトリ(1966-)が2003年に録音した「サリエリ・アルバム」に言及されているが、私はSpotifyでそれを聴きながらこの記事を書いている。

 

open.spotify.com

 

 サリエリの音楽は、舞台を見ずに音楽だけ聴いても現代の耳にも十分聴くに耐えるものだ。それは断言できる。

 私はサリエリの生涯について何も知らなかった。それも「ほとんど知らなかった」というより「全く知らなかった」に近いレベルだ。なにしろ孤児だったイタリア人の彼がスカウトされて16歳からウィーンで働き始めたことさえ知らなかった。スマホのゲームにサリエリをモチーフにしたキャラクターが出てくるらしいことももちろん知らなかった。それがあったために2004年に刊行されたものの絶版になっていた本書が「再版ドットコム」から再販されたものらしい。

 前記はてなブログ記事に「君主ヨーゼフ二世の行なった劇場改革により、ヴィーンの劇場事情はドイツ語文化に傾斜。イタリア人であるサリエーリはしばし不遇をかこつ」と書かれているが、いくら啓蒙的だとは言っても専制君主にドイツ語の台本に音楽をつけろと注文されてはたまらなかっただろう。しかしその一方で、ヨーゼフ2世の母の女帝マリア・テレジアには書簡に「私は私たちの作曲家であるガスマン、サリエーリ、グルックたちよりも、イタリア人の作品を好みます。彼らもときには一つや二つ良い曲を書きますが、私は全体としては常にイタリア人のものが好きなのです」(本書37-38頁)と書かれる始末だ。これは本書を読んでいて一番腹が立ったくだりである。なにしろマリア・テレジアといえばモーツァルト(父子)をやはり書簡で乞食呼ばわりしてモーツァルトのミラノでの就職を妨害した人物だ。マリア・テレジアとは権力悪の化身のような人間だったに違いないと確信した。サリエリも、女帝にそんな風にみられていると知ったら憮然としたに違いない。自分はイタリア人なのに、なんで独墺系の専制君主にドイツ人呼ばわりされて差別されなければならないのか、と。人の世とはあまりにも不条理なものだ。

 そんなわけで、私はサリエリモーツァルトの確執よりも、権力だの階級だのに振り回される人間の悲哀が強く印象に残ったのだった。モーツァルトは父親の悪影響を受けて陰謀論に凝り固まってサリエリを敵視したが、そのように使用人同士が争ってエネルギーを無駄に使ってくれることこそ、権力や上位の階級の人間の思う壺なんだな、と思うばかりである。

 18世紀の西洋音楽というのはいうまでもなく王侯貴族を喜ばせるための音楽であり、19世紀のドイツを中心とした音楽では、王侯貴族に代わって作曲家が専制君主に地位についたといえるかもしれない。私はアンリ・ゲオンを読んだことはないけれども、大のモーツァルティアンだった彼がワーグナーを蛇蝎の如く忌み嫌ったのには、権力主義に対するゲオン流の反発があったからかもしれないと思った。1883年に死んだワーグナーはもちろん20世紀のナチス・ドイツとは(直接には)何のかかわりもないけれども、しかしながら彼の反ユダヤ人思想がヒトラーに強い影響を与えたことも事実だ。

 クラシック音楽にはそういう背景があるから、私と同世代くらいまでのクラシック音楽ファンにはやたらと権威主義的な傾向が強かった。だから私はクラシックは好きでもクラシック音楽のファンだのマニアだのには嫌いなタイプの人間の方が多かったくらいだが、私より若い世代の人たちがそんな呪縛から解放されつつあることにはつい最近気づいたばかりだ。

 そうはいっても、本書が読ませるのはやはりモーツァルトが出てくるあたりからだ。それに至るまでの記述は、何しろサリエリの音楽を知らないものだからいささか隔靴掻痒気味になるのもやむを得ない。

 そうそう、記事を書くBGMとして聴いていたバルトリサリエリ・アルバムが終わったので、今度は2021年にリリースされたオペラ『アルミーダ』(1771)の(おそらく)全曲盤をかけながら書いている。

 

open.spotify.com

 

 上記は初演当時サリエリ20歳の若書きの作品で(当時モーツァルトは15歳)、そう思って聴くせいか、いかにも古典派の時代にイタリア人の若者が書いたらしいみずみずしい音楽に聴こえる。誰だったかがモーツァルトの音楽はサリエリと比べると重厚に聴こえると書いていたが、確かにそんな気がする。

 本書で興味深いのは、同じボーマルシェ原作、ダ・ポンテ台本に音楽をつけたモーツァルトサリエリを対比して評したくだりだ。以下に本書から引用する。

 

(前略)つまり、(ダ・ポンテは=引用者註)兵士ではなく専制君主を主役に据えたのである。(中略)これによりボーマルシェの《タラール》の核心である危険思想は姿を消し、毒気を抜かれたごとく一般的なイタリア・オペラの筋書きになってしまった。その点でダ・ポンテは《フィガロの結婚》と同じ手法を用いたわけだが、唯一の違いはモーツァルトがダ・ポンテの抜き去った毒を音楽で回復しようと狙ったのに対し(後世が評価するのはまさにそこだろう)サリエーリはその意図を持たなかったことだ。しかし、これをもってサリエーリを責めるのは酷だろう。そもそも彼は皇帝の寵愛を受けながら宮廷作曲家としてキャリアを重ね、君主制と貴族社会になんの疑問も抱いていなかったからだ。ヨーゼフ二世は彼にとって理想的君主であり、その権威を貶めたり、疑念を喚起する作品を書こうと考えたことは一度もなかった。《タラール》も王立音楽アカデミーから与えられた台本に作曲しただけで、自発的に選んだわけではない。

 

水谷彰良『サリエーリ - モーツァルトに消された宮廷楽長』(音楽之友社, 2004) 151頁)

 

 モーツァルトが100本以上の台本を検討した結果選んだのが『フィガロの結婚』だったことはよく知られている。まさにサリエリとは対照的だ。

 しかしヨーゼフ2世が1790年に死ぬと、次の皇帝レオポルト2世は一転してサリエリモーツァルトも冷遇した。このあたりが王侯貴族に振り回される作曲家が属する階級の悲哀だろう。サリエリモーツァルトが「和解」した最大の原因はこの専制君主の交代であったに違いない。疑う余地がない。

 この1790年というのはフランス革命が前年に始まった、西洋の歴史の転回点ともいえる年だ。作曲家の地位も、この頃を契機に飛躍的に上昇することになる。その典型例がハイドンだ。たとえば、下記サイトにはハンガリーハイドンが貴族のような生活をしていたかのように書かれている。

 

note.com

 

 以下引用する。

 

ハイドンに学ぶ!庶民の音楽家がすべきこと

 

実は音楽家という枠組みが特殊枠なのは
今にはじまったことではありません。

 

例えば大工の父と、料理人の母の間に生まれたハイドンは、典型例。

 

ハイドンは生涯のほとんどをエステルハージ家に仕え
その暮らしぶりもお付きの人がいたほど
エステルハージ家の人たちにかなり近い貴族の暮らしをしていたと言われています。

 

(中略)

 

ハイドンだってたまたまエステルハージ家の中で
特に音楽が好きな当主が多い時期に入り込めたけど
晩年音楽に興味のない当主に変わると、追い出されたりしています。

 

サリエリだって
モーツァルトに貴族お抱えポジションを奪われないように
必死でした。

 

モーツァルトは借金に追われ続けた晩年を過ごしています。

 

URL: https://note.com/kotaro_studio/n/n1f0d5b60c3ba

 

 だがそれは本当だろうか。

 たとえば、何度も引用する本だが、石井宏『反音楽史』(新潮文庫,2010)には下記のように書かれている。

 

 ハイドンエステルハージ家との雇傭契約書は現在まで保存されているが、それは十四条にわたり、どこの楽長職でも要求されたことのない厳しい条文が列記されている。

(中略)

第十二条 ハイドンは従僕たちと同じ食事をとることができる。その食事を取らない場合、一日当り半グルデンの食事手当が支給される。

 

(中略)また第十二条では、宮廷楽士たちが従僕たちと同程度の賄つきであったことがわかる。ザルツブルク時代のモーツァルトはこれが大嫌いだった。というのは彼はプライドが高かったらで、無教養でゴロツキのような従僕や楽士たちと一緒に食事を取るなどまっぴら御免なのであった。

 それからのハイドンは良く耐えた。

(中略)こうしてハイドンは波風立てずに58歳までの約30年間を二代にわたる主君にひたすら篤実に仕えた。1790年エステルハージ家の楽団は一旦解散され、ハイドンは1400グルデンの年金を終身支給される身分になった。少なからぬ額である。

 

(石井宏『反音楽史 - さらば、ベートーヴェン』(新潮文庫, 2010) 260-264頁)

 

 上記引用文を読むと、果たしてハイドンエステルハージ家で「貴族の暮らしをしていた」かどうかははなはだ疑問だ。

 ハイドンの代表作の数々は、むしろ1790年にエステルハージ家の雇われ楽長の職から解放されたあとに、フリーランスの作曲家として活躍した時期以降の晩年に集中している。ハイドンはその後1794年に改めてエステルハージ家に迎え入れられたが、彼が「貴族の生活をしていた」とすれば、それはイギリスのロンドンで大成功を収めた実績のある彼に対して、エステルハージ家もそれなりの処遇をしないわけにはいかなくなったからではないのだろうか。つまり1794年以降の話ではないかと私などは思うのである。

 しかしモーツァルトは生きてその時代を迎えることはできなかった。

 そしてサリエリサリエリで、死後一気に評価が高まったモーツァルトと比較されて「時代遅れの作曲家」とみなされるようになったようだ。サリエリがその生涯で最後に書いた歌劇は1802年作の彼としては2作目のドイツ語のジングシュピール『黒人』だが、この作品は2年間お蔵入りしたあとに1804年に初演されたものの「モーツァルトとケルビーニの作品を通じて私たちが真価を理解した力強さや性格描写が、この作品には欠けていた」*1と評されるなどして失敗に終わった。以下水谷氏の本から引用する。

 

前記批評の「モーツァルトとケルビーニの作品を通じて私たちが真価を理解した力強さや性格描写」という言葉が、サリエーリの時代がすでに過ぎ去ったことを端的に表していた。モーツァルト作品の再評価が始まり、力強い作風の《メデ》(1797) や救出オペラの先駆的作品《二日間》(1800) でケルビーニがロマン派歌劇の到来を告げたとき、サリエーリは時代に取り残されてしまったのである。

 

水谷彰良『サリエーリ - モーツァルトに消された宮廷楽長』(音楽之友社, 2004) 213頁)

 

 1804年といえばベートーヴェンが中期に入った頃だ。このベートーヴェンも一時サリエリに師事したことがあるが、わがままさにおいてはモーツァルトと双璧ともいうべきこの作曲家もサリエリと衝突したことがある。しかしそれも(モーツァルトの場合と同様)非はベートーヴェンの側にあったと著者は断じている。興味深いのは、サリエリと喧嘩していた頃のベートーヴェンサリエリの「奸計」云々という言葉を手紙に書き残しているらしいことだ。以下本書からベートーヴェンが書いた文章を引用する。

 

「(前略)未亡人のための音楽会に当たっては、小生に対する憎しみから唾棄すべき奸計が行われ、なかでもサリエーリ氏が先頭になって、彼の仲間で小生のために演奏した音楽家はみな絶交すると威かしたのです」(前掲書198頁)

 

 あまりにもモーツァルト父子と酷似したベートーヴェンの思考回路に、思わず笑ってしまった。昔も今も、陰謀論というのが人間が陥りやすい罠であることをよく表しているように思われる。なおベートーヴェンものちにサリエリとの関係を修復したとのこと。

 その他に、前述の石井宏が2020年に出した本で、サリエリが謀略好きな性格だった状況証拠の一つとして挙げた、レオポルト2世によるダ・ポンテの宮廷からの解雇(1791年1月)にサリエリが関与したのではないかとの疑惑にも著者は言及し、それを否定している(といっても本書の方が石井宏の本より16年も早く出ているのだが)。以下に引用する。

 

ダ・ポンテは自分の解雇をサリエーリの差し金と考え、書簡や回想録で彼を糾弾しているが、サリエーリ自身が劇場指揮者のポストを追われたのだから逆恨み以外のなにものでもない。(前掲書169頁)

 

 これには私も「そりゃそうだろう」との心証を持った。先に述べたモーツァルトがいっこうに宮廷に就職できなかった件の真犯人はマリア・テレジアだったのに、モーツァルト父子がサリエーリもその一人である「イタ公」のせいにしていたのと同じように、明らかに真犯人はレオポルト2世であるにもかかわらず、ダ・ポンテは自分と同じ階級の人間のせいにしようとしたのだ。これこそ権力や上位階級の人間の思う壺である。なにしろダ・ポンテ自身がレオポルト2世が彼に語ったという下記の言葉を間に受けて、サリエリをに憎むに至ったようなのである。

 

 ああ、サリエーリについては余に話すまでもない。彼のことはよく知っておるのだ。彼の陰謀も、カヴァリエーリのそれも。彼は我慢ならぬエゴイストで、余の劇場で自分のオペラと自分の女の成功だけを望んでおるのだ。単にそなたの敵というだけではない。すべての宮廷音楽家、すべての歌手、すべてのイタリア人の敵であり、そしてなにより余が彼を知るにゆえに、余の敵でもある。世は自分の劇場に、彼も、彼のドイツ女 [カヴァリエーリ] も、もはや欲しない。(ダ・ポンテ『回想録』)(前掲書169頁)

 

 レオポルト2世がダ・ポンテの怒りをサリエリに向けるように仕向けたことは間違いないだろう。レオポルト2世は自分がイタリア人でもないくせにサリエリを「すべてのイタリア人の敵」などと罵っているが、それをおかしいとも思わないダ・ポンテもダ・ポンテだ。おそらく王族を批判してはならないという心理機制が働いているのだろうが、それにしてもレオポルト2世という人も母親のマリア・テレジアを連想させる「権力悪の権化」であったように私には思われる。上記引用文など、これこそ自分が切ろうとしている配下の者同士を反目させようとする分断の奸計以外の何物でもなかろう。こういうことばかり始終やっているのが権力者というものだ。

 また著者は「現代の音楽書」にも批判の矢を放つ。以下引用する。

 

 現代の音楽書には、モーツァルトの死を知ったサリエーリが「あんな天才に生きていられたら、われわれは飯の食い上げだ」と言った、と記したものもある。けれどもそれは、ニーメチェクがモーツァルト伝の第二版に挿入したエピソードを故意に捻じ曲げたものであろう。そこにはこう書かれていた――「ヴィーン在住の今なお健在な、さして有名でないある作曲家は、モーツァルトが死んだ時、ありのまま正直に友人にこう語った。〈確かにあの偉大な天才が逝ってしまったのは残念です。しかし、彼が死んだのは私たちには幸せですよ。なぜなら、彼がひょっとしてもっと長生きしていたとしたら、実際どうなったでしょうか。世間は私たちの作品に対して一斤のパンもくれないでしょう〉」(ニーメチェク『モーツァルトの生涯』第二版)。この「さほど有名でもないある作曲家」がサリエーリである可能性はゼロであろう。(前掲書176-177頁)

 

 これまた説得力十分の指摘である。しかし著者はこんなことが書かれた音楽書の出典を挙げていない。しかし私はその現物をたまたま図書館で目撃したばかりだった。だからネタバレと思われる書名をここで挙げておく。

 その本のタイトルは『モーツァルト頌』であり、編集者は吉田秀和(1913-2012)と高橋英郎(1931-2014)であり、1966年に白水社から刊行され、1995年に新装版が出版された。私が図書館で参照したのは後者である。この本にはおよそ500人ほどの人たち(日本人は一人もいなかったはずだ)によるモーツァルトへの賛辞が収められているが、問題のサリエリの言葉には引用元がニーメチェクであることと「吉田秀和訳」との訳者名が明記されている。従って犯人は吉田秀和である。もちろん「さほど有名でもないある作曲家」をサリエリと認定した最初の人が吉田だったかどうかは知らない。しかし少なくともこの風説の拡散に吉田が関与したことは否定できないだろう。私は吉田には半世紀近くお世話になっている者ではあるが、誤りは誤りである。彼の誤りを知ったからには指摘しないわけにはいかない。

 以上で、図書館に返す前に書きたいことはほぼ書き尽くしたように思う。覚悟はしていたがたいへんな時間がかかってしまった。サリエリの『アルミーダ』の全曲盤はとっくに終わり、その後サリエリモーツァルトを含むこの時代の、つまり古典派の時代の音楽がランダムにかかっている。その中にはサリエリの作品もあれば、モーツァルトの劇場的セレナータ『アルバのアスカニオ』K111中のアリアもあった。今はボッケリーニの交響曲ニ短調作品12-4の第2楽章がかかっている。何やらおどろおどろしい副題がついた曲だったと思うが思い出せない。音楽の聴き方(聴かれ方)も昔とはずいぶん違ったものになったんだなあと思わずにはいられない。あ、今度はクープランの「神秘なバリケード」がかかった。

*1:水谷彰良著前掲書212頁

NHKオンデマンドで、宮城聰演出のベルリン国立歌劇場2022年公演 モーツァルトの歌劇「ポントの王ミトリダーテ」(K 87) を視聴した

 吉田秀和の昔のNHK-FMの解説で最近聴いたモーツァルト14歳の時のオペラ『ポントの王ミトリダーテ』K87が、音楽だけではなく劇としても面白そうだったので、これは是非動画見たいと思ってネット検索をかけたところ、一昨年(2022年)のベルリン国立歌劇場公演でこのオペラが宮城聰の演出で上演され、それをNHKが放送していたことを知った。

 このオペラは3時間近くかかる長いものなので、どこかの三連休で見たいと思っていたが、やっとそのチャンスがめぐってきたので、NHKオンデマンドで220円で購入して(視聴有効期間は3日間)視聴した。

 私は演劇には全く疎くて、宮城聰という人も全く知らなかったが、結構注目されたようだ。下記に一例を示す。

 

ameblo.jp

 

宮城聡の演出が話題に。番組冒頭の宮城聡の発言が実に良い。「オペラセリアの登場人物は一般人ではなく、歴史の教訓や知恵を体現してる神話的人物なので、過剰な演技は良くない。歌舞伎的な様式的な演技を歌手に求めた」。

 

これは、神話や歴史上の設定を現代政治や企業社会に置き換えて、「現代で言えば要するにこういうことです」と観客に読み替えさせる流行の演出とは逆の考え方である。例えば、シモン・ボッカネグラが田舎の土建業者から成りあがった市長だったりするw

とはいえ常々、エリザベス女王が、企業の女社長みたいに描かれるのには辟易としている。だから欧州のゴミ演出見たくないんですよw

 

歌手たちも、正面を向いて淡々と歌うことに面食らって、苦労したようである。そもそも日本ですら、「オペラ歌手が舞台に出て来て棒立ちで歌うのは良くない」と昔のオペラの本には書いてあった。

 

URL: https://ameblo.jp/mazepparrigo/entry-12803175687.html

 

 宮城聰という人はいろいろ面白いらしい。以下mixiより。

 

mixi.jp

 

ある日友人から、こんなメールが届いたのだ。

「さて、ご存知かも知れませんが、東京駅でマハーバーラタの野外公演があるそうです。」

ええええ~~~っ、ご存じないですーー!
礼もそこそこに、大慌てでその場で公式サイトにアクセスすると、幸運にも席に空きがあったので、その場でチケットを購入した。
細かいことを調べたのは、その後だ。

宮城聡は、かつて、ク・ナウカという劇団を率いており、それを解散した後は、フランスのアヴィニョン演劇祭で招待上演したり、静岡の舞台芸術センターで芸術監督を務めたりと、今や日本を代表する舞台演出家の一人であるはずだ。
アヴィニョンでも上演した代表作『ナラ王の冒険』は、国内外で頻繁に上演を続けている。
最近は、オペラ『ポントの王ミトリダーテ』(モーツァルトの作品だって!)を手掛け、実はTV放送分を録画してあるのだけれど、まだ観ていない。

私が彼の舞台を初めて生で観たのは、なんと歌舞伎である。
インドの叙事詩マハーバーラタ』を愛好する私は、これが尾上菊之助の手で歌舞伎化されると聞いて恐る恐る観に行ったのだが、敵役の中村七之助に圧倒され、音楽に打ちのめされ、筋の運びの妙に感心し、マイッタマイッタと思いながらプログラムに目を通してみると、それが宮城聡の演出と知って倒れそうになったのだ。
そんなこと、何も知らずに観に行ってたよ。

 

URL: https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1986216020&owner_id=24016198

 

 私など目を白黒させるばかり。

 でも「歌舞伎」で思い出されたのは、つい最近聴いたばかりの43年前の吉田秀和NHK-FM放送で6回連続でこのオペラが取り上げられたうちの第5回の放送だった。下記にリンクを示す。

 

www.youtube.com

 

 上記YouTubeの25分50秒あたりで、このオペラの第3幕のある場面を吉田は「日本の歌舞伎みたいな感じですね」と評しているのだった。その41年後に宮城聰が本当に歌舞伎の様式を取り入れてこのオペラを演出した。偶然といえばそれまでだが、実に面白いと思った。

 一昨日の記事でその光文社新書の著書を私が酷評した森本恭正は、吉田秀和モーツァルトの戴冠ミサ曲K317のキリエを日本語の「お母さん」という言葉に当てはめた解説に対して、

何か気味の悪い、濁ったインクで書かれたメモを呑み込んでしまったかのような不快感を覚えた。そして唐突に、数十年前、ウィーンで開かれた立食パーティーで、寿司の屋台に並んだヨーロッパ人たちが、一流の寿司職人が握った寿司に醤油をどぼどぼとかけて、満足げに食べていた光景を思い出した。

(森本恭正『日本のクラシックは歪んでいる - 12の批判的考察』(光文社新書)152頁)

と吉田をこき下ろしているが、森本は宮城の『ポントの王ミトリダーテ』の演出にも同じ感想を持つのだろうかと思った。

 私が連想したのは、読み終えたばかりの水谷彰良『サリエーリ - モーツァルトに消された宮廷楽長』(音楽之友社, 2004)に書かれた、サリエリが弟子のシューベルト

「音楽をつけるに値しない野蛮な言葉 [ドイツ語] 」ではなく、イタリア語の詩に作曲するよう忠告した。(同書236頁)

というエピソードだった。結局シューベルトは師のサリエリの教えを守らずに成功したためか、著者の水谷氏が

サリエーリが不充分な教育を施し、それがシューベルトの形成に何の寄与もしなかったとする不当な非難が、後年彼らの回想録で繰り返されることになる。(同237頁)

と憤っているが、これはドイツ語を馬鹿にして、半世紀以上もウィーンに住みながら、結局最後までドイツ語がうまくしゃべれなかったというサリエリにも「不当な非難」を受ける隙があったといえるのではないかと思った。私がまた連想したのは昔日本プロ野球にやってきたメジャーリーガーたちのことだ。一方、大谷翔平は英語が結構達者になったと聞く。

 森本恭正についていうと、森本とはまるで「名誉オーストリア人」みたいな人だなと思った。彼は著書でさんざん「反権威主義」を言っているが、私には森本自身が大の権威主義者であるようにしか見えない。

 もっとも、歌舞伎の様式を取り入れた『ポントの王ミトリダーテ』の宮城演出の良し悪しについては私はわからなかった。なんと言っても、私自身が演劇には無知にすぎるからだ。

 私が言えることはただ一つ、14歳のモーツァルトの書いた音楽は素晴らしいということだけだ。同じ頃に書いた他の作品と比較しても群を抜いている。モーツァルトは8歳くらいの子どもの頃からオペラへの関心が強かったそうだが、やはりやりたいことをやる時には人間は力を出す。オペラを書いた時の少年モーツァルトの音楽は、勉強の課題をこなすような感覚で書かれたと思われる子ども時代の交響曲群とは出来が全く違うのである。

 とりわけ私の印象に強く残ったのは、第13曲のホルンのオブリガート付きのアリアだった。

 このアリアに触れたブログ記事を以下に紹介する。

 

zauberfloete.seesaa.net

 

私自身このオペラ自体あまり馴染みがないのだが、ポントの王ミトリダーテ」と聞いて真っ先に思い出すのは、モーツァルトが最初に(そして最後になったしまったが)作曲したホルンのオブリガート付きのアリア。
第2幕 シーファレによって歌われるアリア「あなたから遠く離れて」(第13曲)。
テ・カナワが歌うモーツァルト・アリア集(PHILIPS/1987)に収録されていた(ホルン:フランク・ロイド)。

(中略)

ただ上記アリアでは、ソロ・ホルン奏者も舞台に上がり一緒に演奏するという演出。

 

URL: https://zauberfloete.seesaa.net/article/499519543.html

 

 ここは音楽(ソプラノとホルンとの絡み)と演出の両方が非常に良かった。今回視聴したこのオペラの中でもっとも強く印象に残った。

 ソプラノと管楽器の掛け合いというと、すぐに思い出されるのはコンスタンツェが歌ったというハ短調ミサK427の「エト・インカルナートゥス・エスト」であり、これはモーツァルトの全作品中でも超絶名曲の一つだが、その曲を思い出したくらいだ(もちろんあの曲には及ばないが)。余談だが、ネット検索で調べたらコンスタンツェがハ短調ミサ曲で歌ったのは第一ソプラノではなく第二ソプラノだったのではないかとの説もあるようだ。

 

ハ短調ミサの「クリステ・エレイソン」や「エト・インカルナートゥス・エスト」に見られる美しいソプラノソロ、「ラウダムス・テ」に見られるコロラトゥーラの華やかなソロ、これらは、モーツァルトにより新妻コンスタンツェのために作曲され、初演の折りにコンスタンツェによって歌われたと考えられています。今から3年前、私が高橋英郎先生のお宅をお伺いした際に、「ハ短調ミサのソプラノのソロをコンスタンツェが歌ったことは事実だけれど、第一ソプラノではなく第二だったのではないか」との先生のご指摘は、これまでコンスタンツェが第一ソプラノを歌ったと信じて疑わなかった私にとって、ショッキングな話でした。確かに先生のご指摘のように、コンスタンツェがハ短調ミサのソロが歌える位のヴィルトゥオーゾであれば、モーツァルトはソプラノ歌手として名高かった姉のアロイジアに対してそうであったように、妹のコンスタンツェに対しても多くの歌曲を残したであろうし、コンスタンツェの第二の夫となったニッセンが著したモーツァルトの伝記にもコンスタンツェの声楽や音楽の才能についての記述があってもおかしくない。にもかかわらず、モーツァルトがコンスタンツェに捧げた曲は未完成のアリア一曲と、3つの練習曲を数えるのみなのです。そして、残された資料などをじっくり考えていくと、「歌ったのはキリエのソロだけだったのでは?」とまで思うようになりました。そこで、このことについて、この紙面をお借りして少し述べさせていただこうかと思います。

 

URL: http://www.venus.dti.ne.jp/~kotani/OME/Missa-c-moll.html

 

 そうなのか。それは残念。

 でも「オブリガートを伴うアリア集」だというキリ・テ・カナワのアルバムは面白いかもしれない。この人が歌うカントルーブの『オーベルニュの歌』は私の愛聴盤だ。

 全曲で168分(2時間48分)の長丁場だったが、モーツァルトのオペラを通して視聴すできて本当に良かった。最近は土日でもまとまった時間がなかなかとれないことが多かったので、良いリフレッシュになった。

 なお出演者その他は下記の通り。前記ブログから引用する。もともとは2020年公演予定だったのがコロナ禍で2年延期になり、出演者はかなり入れ替わったようだ。

 

歌劇「ポントの王ミトリダーテ

  • 作曲:ヴォルフガング・アマデウスモーツァルト
  • 台本:ヴィットーリオ・アマデオ・チーニャ=サンティ (ジャン・ラシーヌの悲劇による)
  • 演出:宮城聰
  • 空間構成:木津潤平
  • 美術:深沢襟
  • 衣裳:高橋佳代
  • 照明:Irene Selka
  • 振付:太田垣悠
  • ドラマトゥルク:Detlef Giese
  • ミトリダーテ(テノール):ペネ・パティ
  • アスパージア(ソプラノ):アナ・マリア・ラービン
  • シーファレ(メゾ・ソプラノ):アンジェラ・ブラウアー
  • ファルナーチェ(カウンターテナー):ポール・アントワーヌ・ベノ・ジャン
  • イズメーネ(ソプラノ):サラ・アリスティドゥ
  • マルツィオ(テノール):サイ・ラティア
  • アルバーテ(メゾ・ソプラノ):アドリアーナ・ビニャーニ・レスカ
  • 管弦楽:レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴル
  • ホルン・ソロ:カルレス・チョルダ・サンス
  • 指揮:マルク・ミンコフスキ
  • 収録:2022年12月9、11日/ベルリン国立歌劇場

URL: https://zauberfloete.seesaa.net/article/499519543.html

 

森本恭正『日本のクラシック音楽は歪んでいる』(光文社新書,2024) の「調性音楽は階級を体現している」という主張には無理がある。また、専門家とは思えない教会旋法の説明のいい加減さに呆れた。

 最初に読み終えたミステリについて少しだけ書いておく。

 アガサ・クリスティのポワロものの31番目の長篇『ハロウィーン・パーティ』を、昨年新訳版が出たハヤカワ・クリスティー文庫で読んだ。旧版は中村能三(1903-1981)訳だったが、山本やよい氏(1947-)の訳に差し替えられた。

 

www.hayakawa-online.co.jp

 

 埋め込みリンクの画像でご覧いただける通り、ケネス・ブラナー監督・主演の映画が日本で公開されたタイミングに合わせて新訳版が出たもののようだ。図書館に置かれるまでは数か月かかるかなと思っていたが、先日区内の図書館に置いてあったので借りて読んだ。

 これはクリスティ79歳の1969年の作。ポワロ(クリスティ文庫での表記は「ポアロ」)ものの最終作『カーテン』は発表こそクリスティの死の前年の1975年だが書かれたのは1943年なので(ミス・マープルもの最終作の『スリーピング・マーダー』も同様)、クリスティのミステリをほぼ成立順に読むことにしている私は既に2021年の暮れに、クリスティのミステリとしては42番目に読んだ。その後は読むペースが落ちてきたがミステリに関しては終わりが見えた。ただ、順序としてはミステリ及び冒険ものの事実上の最終作『運命の裏木戸』(1973)を読む前にクリスティがメアリ・ウェストマコット名義で書いた恋愛小説6冊を先に読もうかと思っている。とりあえず、ミステリ及び冒険ものは『運命の裏木戸』を含めて、かつ戯曲を除いてあと5冊になった。

 今回読んだ『ハロウィーン・パーティ』はヒントがわかり易いというよりもかなり露骨なので、「…ということはこの人が犯人なのかな」とピンとくるが、クリスティは例によってその後でミスリーディングの技を繰り出してくる。でもあまり深く考えずに読んだらやっぱり、という読後感。でも終盤に緊張感を高める技術は相変わらず巧みで、その点だけをとってみれば、やたらと多重どんでん返しに凝りまくっていた初期の作品よりむしろ良いかもしれない。しかしやはり衰えは隠せないとも思わせた。

 次に取り上げるのは先月読んだクラシック音楽批判本だが、立ち読みしてあまりにも感心できない箇所があったのであえて買って読んだ。森本恭正(1953-)というクラシック音楽の本場オーストリアで活躍する作曲家・指揮者の人が書いた『日本のクラシック音楽は歪んでいる』という本だ。初版は2024年1月30日発行となっているが、これは通例により実際の発売日よりかなり遅い日付であり、読書記録を見ると1月16日から17日にかけて読んでいた。

 

www.kobunsha.com

 

 埋め込みリンクに光文社の紹介文が表示されないので、以下に引用する。

 

本書における批判の眼目は、日本における西洋音楽の導入において、いかに我々は間違ってそれらを受け入れ、その上その間違いに誰も気がつかず、あるいは気がついた者がいたとしても訂正せず、しかも現在まで間違い続けてきたか、という点である。
(「批評1 日本のクラシック音楽受容の躓き」より)
明治期に導入された西洋音楽。だが、その釦は最初から掛け違っていた。そして日本のクラシック音楽は、掛け違った釦のまま「権威」という衣を纏い、今日へと至る。作曲家・指揮者として活躍する著者が、二十年を超える思考の上に辿り着いて示す、西洋音楽の本質。

 

目次

批判1 日本のクラシック音楽受容の躓き
批判2 西洋音楽と日本音楽の隔たり
批判3 邦楽のルーツ
批判4 なぜ行進は左足から始まるのか
批判5 西洋音楽と暴力
批判6 バロック音楽が変えたもの
批判7 誰もが吉田秀和を讃えている
批判8 楽譜から見落とされる音
批判9 歌の翼
批判10 音楽を運ぶ
批判11 現代日本の音楽状況
批判12 創(キズ)を造る行為

 

URL: https://www.kobunsha.com/shelf/book/isbn/9784334101961

 

 著者は政治思想的には左寄りの人のようだが、主張は権威主義批判のトーンが強く、旧ソ連などには非常に批判的だ。上記引用文中に

日本のクラシック音楽は、掛け違った釦のまま「権威」という衣を纏い、今日へと至る。

と書かれていることに示されている通りだ。

 だが、それにもかかわらず批判しないわけにはいかない理由の一つとして、54頁で言及され、75〜80頁に長大な注釈がつけられている「教会旋法」の説明が実にいい加減であることを挙げたい。

 註の冒頭には「この注2では、段落を追うごとに解説が詳細かつ専門的になるので、随時中断して本文に戻っていただいて結構です」などと書かれているが、その専門的なはずの内容がいい加減なのである。読者が素人だと思って高を括って適当なことを書き飛ばしたものに違いない。

 カバーの裏表紙を見ると、著者は「ヴィトルト・ルトスワフスキ国際作曲コンクール審査官」を務める一方、「指揮者としてはオペラを含むバロックから現代までの作品を指揮。」と書かれているから、現代音楽の作曲家としてはそれなりに名が通っていると同時に、バロック音楽以降の西洋クラシック音楽の専門家であることは疑いないと思われる。だからこそこの光文社新書のいい加減極まりない執筆態度に腹が立つのだ。

 著者は「調性音楽は階級を体現している」と書く。一例を以下に引用する。ここで著者は旧ソ連を批判している。

 

 平等を謳ったはずの国家がなぜ、音を平等に扱おうとした(=12音技法を使おうとした=引用者註)作曲家を支援しないどころか、粛清までしたのか、それは言うまでもなく、ソヴィエト連邦が、スターリンを筆頭とする独裁国家でしかなかった、という証である。皮肉にも、階級闘争の果てに生まれた似非社会主義国家では、階級性を体現する調性音楽こそが、為政者にとって、その地位を保守するために必要な音楽だったというわけだ。(本書137頁)

 

 こんなことを書く以上、著者が作る現代音楽は調性を用いない音楽なのだろう。もちろん現代においては調性を用いない音楽などごく当たり前である。

 だが、それならなぜ著者は「オペラを含むバロックから現代までの作品」、それらは現代のごく一部の音楽を除いて調性音楽が大部分だと思うが、それらを指揮するのだろうか。

 もちろん調性音楽はクラシックに限らない。現在は世界中の音楽が調性音楽に席巻されているので、著者が書く通り、「今日でも世界の音楽界を支配しているのは、まるで、現代の階級社会そのままを体現しているかのような、調性音楽なのだ」(本書138頁)。著者は「もしかしたら、資本主義を押し広め、市場を開拓するには、戦争をするより、モーツァルトからロックに至るまでの〈階級性〉に満ちた調性音楽が、最も有用な手段だったのではないだろうか。これなら人を殺さなくて済む」(同146頁) とも書くが、ここで引用した著者の考え自体は、私も仮説として考えた時期が長かったので、こんな文章を書きたくなる気持ちはよくわかる。

 第7章には吉田秀和批判が書かれているが、吉田が戦争中に何をやっていたかについてを黒歴史にしてしまっているという著者の批判については、私も吉田が亡くなった2012年に同様のことをブログに書いた記憶がある。そして著者と同様に、吉田が書いたの楽曲分析にしばしば「これはこじつけではないか」と思ったことは、正直に書くと私にも何度もある。吉田を「印象批評が許された最後の人」ともしばしば評した。

 しかし、それにもかかわらず最近の私は、やはり吉田秀和は認めるほかないと思うようになった。以前にモーツァルトの音楽に陶酔する犬がいた(もう故人ならぬ故犬だが)という話を弊ブログに書いた。あるいは、ベートーヴェンのクロイツェルソナタを介して彼の心境が直接トルストイに伝わったとトルストイは感じたという話も書いた。音楽には言語化できない要素が多く、そこから言葉を引き出してくる点において、どうしても敵わないと思う人が私には何人かいる。その一人が吉田秀和で、他には村上春樹やこの間亡くなった小澤征爾、それに1996年に相次いで亡くなった武満徹柴田南雄らがその範疇に入る。村上、小澤、武満の3人については、武満と小澤、小澤と村上の対談本を読んでそう思った。柴田については、昔彼が書いた単行本に書かれていたシェーンベルクショスタコーヴィチに関する文章を読んで思った。なお柴田の一族には理系の学者が多い。音楽には理系の要素もかなり強い。

 しかし、階級云々の文系的な話について少し書いておくと、この間、吉田秀和が1950年に書いた『音楽家の世界 - クラシックへの招待』(河出文庫版, 2023)に下記の文章を見つけて笑ってしまった。以下引用する。

 

www.kawade.co.jp

 

バッハのところでもいったように、トニカ(主音)とかドミナント(属音)とかいうのは、その音の階級(価値の体系)を指す言葉で、とくにこの二つの関係が音楽を作る骨子なのである(河出文庫版187頁)。

 

 何のことはない、調性音楽の階級性については森本が嫌う吉田秀和も指摘していたのだった。しかも1950年に。しかし、手元にある柴田南雄音楽史と音楽論』(岩波現代文庫, 2014;初出は放送大学教育振興会1988)には以下のように書かれている*1

 

www.iwanami.co.jp

 

 また、1430年代が和声法の上でT(トニック、中心音)、D(ドミナント、中心音の完全5度上。完全5度は振動比2対3)、S(サブドミナント、中心音の5度下=4度上。完全4度は3対4)の3種の機能が確立した年代であることは、デュファイのミサ曲の和音構成、TDSの頻度を一時代前のアルス・ノヴァのギヨーム・ド・マショーのそれと比較すれば明瞭である。(岩波現代文庫版128頁)

 

 それなら、機能和声が発明される前の「階級がない」(?) 音楽が階級などなかった平和な時代を反映していたかというと、そんなことは絶対にない。古代から奴隷制があった。

 そう考えると、調性音楽のトニカ、ドミナントの構造と人間社会の階級構造とをリンクさせる論法にはさすがに無理があるのではないかと思わずにはいられない。前者には自然科学のファクターも大きいと思われる。

 もちろん、機能和声の束縛から自らを解放したいという欲求は私にもあり、昨年亡くなった坂本龍一も同じようなことを言っていたが、それと階級社会とはまた別の話だろう。

 

 ところで、森本恭正が書いた教会旋法の説明について、具体的にどこがどういい加減なのかについてはここまで一言も書いてこなかった。これはきっちり論証しようと思ったら結構骨が折れる作業なのだ。だが、ブログに記事を書くためにかけたネット検索で、下記サイトを知った。

 

 上記リンクのサイトに、教会旋法の説明や6世紀に書かれたボエティウスの『音楽教程』の解説が載っている。後者は、昨年秋に講談社現代文庫から「本邦初訳」が発売されたので、酔狂にも買ってしまった。

 

bookclub.kodansha.co.jp

 

 しかし、結構読みづらそうなので、買う前から予想はしていたものの「積ん読」状態になっている。そこに前記「まうかめ堂」のサイト中の下記の文章が目を引いた。

 

ここからのページでは中世音楽を語る上で避けては通れない書物,ボエティウス Boethius (480-524年)の『音楽教程 De institutione musica』(510年前後)を取り上げたいと思います. この書物は中世を通じて音楽を学ぶ全ての者にとって最も権威ある教科書として,いわば音楽家 musicus になるための必読書として読まれた書物で,音楽に関わるすべての者が持つべき音楽上の基礎知識を与え,中世の音楽的思考の基盤となる書物と言ってよいものです. ただこの書は難解な書物としても知られ,原文は6世紀のローマ人の手によるラテン語ということで,なかなか門外漢には手の出しにくいものでした.

 

ところが,大変ありがたいことに最近この書物の伊藤友計さんによる邦訳が出版され,日本人にとってのこの書物へのアクセスのハードルは一気に下がりました.

 

とはいうものの,日本語で読めるようになったからと言って,この本の内容的なある種の「難解さ」が減るわけではありません. 何しろ1500年前の書物ですから,物事の捉え方や表現の仕方が現代とは大きくかけ離れています.

 

そこでここからのページでは,この本の解説というよりは(それは私の手にあまります),内容をきちんと理解するための覚書といったものを提示したいと考えています. 特に第二,三巻でなされる数比に関するやや踏み込んだ数学的な議論について, それらは内容的には高校レベルまで(たかだか数学I程度)ではあるのですが,記述・論述の仕方が現代とは大きく異なるため理解が困難になりそうなところが多く見られます. そういった部分を現代人により理解しやすい形に,「その箇所には要するに何が書いてあるのか」がわかるようなものを目指したいと思います. 一応これだけを読んでも原著の大まかな内容はフォローできるようにしたいと思いますが,原著を読みつつ適宜こちらを参照してもらった方が意味があるんじゃないかと思います.

 

URL: https://maucamedus.net/boethius/index.html

 

 これはありがたい。もっと暇になったらチャレンジしてみたいと思った。

 ここまで、森本の教会旋法に関する注釈がいい加減であることの根拠は示してこなかった。実はこれを論証するのは結構骨が折れるのだ。しかし、前記「まうかめ堂」の教会旋法の項にある下記の批判に当てはまっていることを発見したので、今回はそれだけを指摘しておく。

 まず森本の本の注釈を引用する。

 

実際に、キーボードの白鍵をたどって音を確認された方はお気づきかもしれないが、長音階はヒポリディアと、短音階はヒポドリアと全く同じになる。だから、1600年の少し前あたりから、ヨーロッパの音楽が、このヒポリディア(長調)とヒポドリア(短調)に収斂されていったのだ。(77頁)

 

 これに対し、「まうかめ堂」は下記のように書いている。

 

「全ての旋法が長調短調の二つの種類の音階に解消してしまうまで」なんてことは何重にも正しくないので不用意に言わないほうが良いでしょうね…。

URL: https://maucamedus.net/solmization/modus01.html

 

 森本の本では、絶対音感相対音感について書いた文章も疑問だ。いや、以下の疑問を持つのはもしかした私だけで、森本が書いていることの方が正しいのかもしれないが。以下引用する。

 

 ある調査によると、日本の音楽大学ピアノ科の学生のほとんどが絶対音感の持ち主だという。それはよい。では同じピアノ科で相対音感の持ち主はというと、約一割しかいなかったという。(213頁)

 

 私は相対音感は小学校1年性の頃には既にあった。ヤマハ音楽教室で聴音をやったら、わかったのは私だけで、クラスの他の児童は誰もわからなかったという経験がある。しかし小学生の頃には当時は絶対音感はなかった。絶対音感が身についたのは、クラシック音楽を聴くようになったあとの中学生時代で、それも聴き始めてから1年経つか経たないかの頃だった。家にピアノがあって妹が習っていたので、そのピアノを我流で弾いて音にしていた(だから間違っても「ピアノが弾ける」域には達していない)ために絶対音感が身についたのかもしれない*2。訓練などは何もしてない。私の絶対音感は、最初、あれっ、この曲って何調なんじゃないかとふと気づいたところから始まった。最初の頃は半音の違いはわからず、たとえば当時よく聴いていたモーツァルト交響曲第40番の第4楽章展開部のクライマックスが主調のト短調から一番遠い嬰ハ短調だということまではわからず、ニ短調に聞こえた。あの展開部は、5度上へ5度上への転調があまりにも矢継ぎ早なので相対音感も追いつかなかったのだった。そのさらに1年後くらいには絶対音感の精度が上がって、やっと絶対音感が身についたと自覚することができた。それが中学校3年生の頃だ。だから、よく言われる何歳までに絶対音感を身につけなければ一生ダメだというのは俗説の嘘だと信じて疑わなかったのだが、もしかしたら相対音感がない人でも絶対音感を身につけることも可能で、それができるのが7歳くらいまでなのかもしれない。それは本書を読んで初めて思ったことだ。それまでは、つまり今年初め頃までは相対音感のない絶対音感などあり得ないと思っていた。

 それで思うのだが、相対音感なしの絶対音感の持ち主がピアノ科の大多数を占めるという話が本当なら、それは決して望ましいあり方ではないのではなかろうか。そうであれば『日本のクラシック音楽は歪んでいる』という森本の本のタイトルにも多少の理はあるのかもしれない。

*1:引用に際し、漢数字を算用数字に改めた。

*2:最近、吉田秀和の番組を40年以上ぶりに再び聴いて、ああ、吉田氏にも絶対音感があったんだろうなと思った。それはモーツァルト交響曲第32番をクリストファー・ホグウッド古楽アンサンブルを指揮したレコードをかけた時、ピッチが低いけれどもとても面白いですよと言っていたことで気づいた。吉田氏もピアノを弾けるレベルには達していないけれどもK333のソナタなどをよく音にしていたというから私と同じようなプロセスで絶対音感を持つに至ったのではないかと想像している。

息子ヴォルフガングの天才に寄生して宮廷お抱えの楽師一家として余生を送ろうと企んだレオポルト・モーツァルトの野望を見破った女帝マリア・テレジア

 先月読んだかげはら史帆さんの『ベートーヴェンの捏造』(河出文庫,2023)の印象はとても強烈で忘れ難い。

 

www.kawade.co.jp

 

 この本については、モーツァルトの没後268回目の命日に公開した下記記事の最後に少しだけ触れた。

 

kj-books-and-music.hatenablog.com

 

 この本の単行本が出た2018年に、私と同世代のミステリ作家・宮部みゆきが「徹夜本」と絶賛した。

 

 

 歴史は勝者により語られる。まさにその通りであって、ベートーヴェンは彼に小判鮫のように貼りつき、「楽聖」その人からは蛇蝎の如く嫌われたシンドラーによって歴史が捏造された。彼の第5交響曲を「運命」と呼んだり、作品31-2のニ短調ピアノソナタを「テンペスト」と呼ぶのは、シンドラーの捏造に与することでしかない。

 モーツァルトの場合は、史実では彼の就職を妨害したのは神聖ローマ帝国の女帝マリア・テレジアだったことが確定した事実であるにもかかわらず、それを「イタ公」のせいだと信じ込んでいた陰謀論者の父親・レオポルトによる歴史捏造が今もまかり通っている。サリエリがその犠牲者の一人であることはいうまでもないが、15歳のモーツァルトが「にっくき」マリア・テレジアの依頼で書いた「劇場的セレナータ」(祝宴のための歌劇)である『アルバのアスカニオ』がミラノで好評を博したことは事実だが、同じ宴のために上演された女帝お気に入りのドイツ人オペラ作曲家のヨハン・アドルフ・ハッセ(1699-1783)のオペラがモーツァルトのセレナータに食われて不評に終わったとするのはレオポルトの宣伝に過ぎず、事実であったかどうかはきわめて疑わしい。

 私が深く信頼するサイト「mozart con grazia」には下記のように書かれている。以下の引用文は長いが、このところ私がこだわっている事柄が過不足なく、実にみごとにまとめられている。

 

この劇場セレナータの目的からして、モーツァルトは「純粋な装飾的作品」を仕上げるだけでよかった。 そのために「合唱曲と舞踏曲と2種類のレチタティーヴォを、できるだけすぐれた音楽の衣装に包んで並べることだけを考えればよかった」(アインシュタイン)のである。 登場人物のなかで、ヴィーナス(Venera)はもちろんマリア・テレジア女帝であり、主人公であるアスカニオは皇子フェルディナンド大公である。

 

大公新夫妻は、いわば自分たち自身の最初の出会いが舞台の上で、英雄的・牧歌的な仮装の姿で演ぜられるのを見るわけである。 フェルディナントはつまり女神ヴィーナスの孫アスカーニオであり、マリア・ベアトリーチェアルケーウスの種族から出た羊飼の娘シルヴィアである。 事件の唯一の紛糾は、ヴィーナスがその孫に、自分が選ばれた者であることをはじめから誇示するのを禁ずることから生じ、シルヴィアの失神で頂点に達する。

アインシュタイン] p.541

 

作曲者だけでなく、上演する関係者は皆この機会にかける意気込みは相当なものだった。 上演までの練習などの状況はレオポルトの手紙で詳しく知ることができるが、ここでは省略する。 初演は10月15日の婚礼の翌々日の17日に行われ、老ハッセのオペラ『ルッジェロ Ruggiero』を完全に食ってしまったという。 そしてハッセは「この子は今に我々みんなを忘れさせてしまうだろう」と予言したとも伝えられている。 レオポルトの手紙によると、15日は大聖堂で婚礼と祝宴、16日にオペラ、そして17日にセレナータが上演され、18〜20日は何もなく、21日月曜日にまたセレナータが演奏されるはずだったが、あまりの人気に19日にも上演されたほどだった。

 

1771年10月19日、レオポルトからザルツブルクの妻へ


今、劇場に行くところです。 というのは、16日はオペラ、そして17日にはセレナータでしたが、このセレナータはびっくりするほど人気があったので、今日もまたくりかえし上演されなければならないのです。 大公はまた筆写譜を二部お命じになられました。 要するにだ! お気の毒だが、ヴォルフガングのセレナータがハッセのオペラをすっかり打ち負かしてしまったので、私はそれをどう説明してよいのかわからないほどです。

[書簡全集 II] pp.302-303

 

少年モーツァルトが最長老ハッセを打ち負かしたかどうかはわからないが、好評だったことは確かのようである。

 

1771年11月9日、レオポルトからザルツブルクの妻へ


昨日は私たちはハッセ氏とごいっしょして、フィルミアーン伯爵閣下のお邸で食事をしました。 ハッセ氏もヴォルフガングも作品のためにすばらしい贈物を頂戴しました。 お金を頂戴したのに加えて、ハッセ氏は嗅ぎ煙草入れを、またヴォルフガングはダイヤモンドをちりばめた時計をもらいました。

同書 p.315

 

この大成功を足がかりに、レオポルトは息子をミラノで何らかの安心できる地位が得られるように、若いフェルディナント大公に働きかけていた。 大公はその願いにこたえるつもりがあったようで、彼は母マリア・テレジア女帝に相談したが、その返事がくる前に、モーツァルト父子は希望がかなわないまま12月5日にミラノを離れ、15日ザルツブルクに帰郷。 それから間もなく、マリア・テレジア女帝からミラノの大公に次のような手紙が送られたのだった。

 

1771年12月12日


あなたはザルツブルク出身の若い人を使いたいと私に頼んで来られました。 私はあなたが作曲家のような役立たずを何故必要となさるのか分かりませんし、信じられません。 勿論それでもあなたがそれで満足なのでしたら否やは申しません。 しかし私が言っているのはあなたが役立たずのことで苦情を言わなければということであって、そういう人達があなたに仕えているかのような肩書きのことまでは含めていません。 そういう人達がまるで乞食のように世界中をほっつき回るとしたらそれは職務を侮辱するものです。 それに乞食には大家族がつきものです。

[ドイッチュ&アイブル] pp.107-108

 

ただし、レオポルトがミラノの自分の息子の就職を目論んで動き回っている噂は、ミラノの大公から直接相談を受けるまでもなく、もっと早くからウィーンに届いていただろう。

 

母親に従順な大公は、もちろんそれ以上モーツァルトの採用も考えなかったし、彼になんの称号も与えなかった。 もしレーオポルトが、かつては自分の子供たちに大公家の御用済みの衣服を贈った慈悲深い国母陛下が、実際には自分とヴォルフガングについてどう考えていたかを知ったとしたら、どうだろう! 無用の者ども、芸術のジプシー、わずらわしいやから、とは! レーオポルトの忠誠心は傷つけられたことであろう。

アインシュタイン] p.53

 

オポルトザルツブルク大司教から認められたミラノ滞在期間を、いろいろ理由をつけて引き伸ばしていたため、10月と11月分の俸給支払い差し止めを受けていた。 無駄に時間をつぶし、モーツァルト父子がザルツブルクに帰郷した翌日、1771年12月16日、シュラッテンバッハ大司教が死去、73歳。 帰郷早々レオポルトは2ヶ月分の俸給支払いを請願しなければならなかった。 大司教の葬儀は翌1772年1月2日、ミハエル・ハイドンのレクイエムで執り行われた。

 

URL: https://www.marimo.or.jp/~chezy/mozart/works/ascanio.html

 

 上記引用文を読めば、「ヴォルフガングのセレナータがハッセのオペラを完全に食ってしまった」というのが陰謀論者レオポルトの一方的な宣伝に過ぎないことや、ヴォルフガングの宮廷への就職を妨害したのが他ならぬマリア・テレジアその人だったことが理解できるだろう。だから私はレオポルトに対してもマリア・テレジアに対しても「敵」と認定しているのである(笑)。

 もっとも、レオポルトこそヴォルフガングの才能を引き出した人であることは論を俟たないし、マリア・テレジアについても石井宏は著書『反音楽史』(新潮文庫, 2010)において下記の注目すべき指摘をしている。

 

 これまでの伝記ではモーツァルトの何度にも及ぶ就職運動は、彼が単独で採用されることを希望する行為ととらえられてきたが、メイナード・ソロモンは大著『モーツァルト(石井訳)の中で、父レオポルトの意図は常に “家族と一緒に働ける” か “家族を養うに足る” 職場という限定がついたものであることを喝破してモーツァルトの伝記に新しい側面を開いて見せた。それによっていくつかのほかの謎も解けるのであるが、ソロモンより二百年も前にマリア・テレジアモーツァルト青年の係累を問題にしている。つまりレオポルトの下心を見破っていたのであり、女帝の頭脳が並のものではないことに驚かされる。

 

(石井宏『反音楽史 - さらば、ベートーヴェン』(新潮文庫,2010) 40頁)

 

 要するに石井は、レオポルトには息子のヴォルフガングに寄生して余生を送ろうという野心があり、マリア・テレジアはそんなレオポルトの邪(よこしま)な狙いを見破ったというのである。この仮説が正しいなら、ヴォルフガングの就職活動は、あるは父だの姉だのといった係累が付録としてついてくるものでなければうまくいった可能性があることになる。

 もちろんそうなったなら、モーツァルトはワンオブただのイタリア・オペラ作曲家に終わり、ベートーヴェン以降の音楽もあのようにはならなかったことは明らかだが、ひとたびヴォルフガング・アマデー・モーツァルトに感情移入したからには、レオポルトに対する敵意をますます強めないわけにはいかない(笑)。

 そもそもレオポルトは、パリでヴォルフガングと同居していた妻が客死した時には「瀉血が遅かったのではないか」と息子宛の手紙に書いていた。お前が不注意だったから妻が死んだのだと言わんばかりだが、瀉血とはいったいいかなる療法だったのか。以下Wikipediaより。

 

瀉血(しゃけつ)とは、人体の血液を外部に排出させることで症状の改善を求める治療法の一つである。古くは中世ヨーロッパ、さらに近代のヨーロッパやアメリカ合衆国の医師たちに熱心に信じられ、さかんに行われた[1] が、現代では医学的根拠は無かったと考えられている。

現在の瀉血は限定的な症状の治療に用いられるのみである。

 

ヨーロッパでの瀉血の歴史[編集]

(前略)さらに時代を下ると伝染病敗血症循環器系障害等にまで積極的に使用されたという。この時代においては衛生の維持が不十分であったため、切開部が感染症を引き起こすことも多く、また体力が落ちている患者にまで瀉血療法を行った結果、いたずらに体力を消耗させ、死に至るケースも珍しくなかった。このようなケースで亡くなったと見られる著名人には、エイダ・ラブレスモーツァルトジョージ・ワシントンなどがいる。(後略)

 

出典:瀉血 - Wikipedia

 

 なんと、1791年のヴォルフガング自身の直接の死因は問題の瀉血療法だったと考えられているのだ。そしてモーツァルトの母(レオポルトの妻)アンナ・マリアも1778年6月11日に行われた瀉血の直後に容態が悪化して寝たきりになり、ほぼ3週間後の7月3日に亡くなったのだった。もしモーツァルト母子のパリ旅行にレオポルトが同行していたとしたら、アンナ・マリアの死期はさらに早まったであろうことはほぼ確実だろう。レオポルトとはなんと罪深い人間だったのだろうか。

 とはいえ、もともとパリまで息子に同行する計画ではなかったアンナ・マリアがパリまで息子についてきたのは、途中で立ち寄ったマンハイムで当時15歳だったアロイジア・ヴェーバーにのぼせ上がってしまった息子を監視するためだったというのだから、あえて冷たい書き方をすると、半分は自滅に近いともいえる。

 さらに余談になるが、この経緯は1827年ベートーヴェンが死んだ時のことを連想させる。ベートーヴェンは甥のカールを自分の思い通りにしようとして甥を自殺未遂に追い込んだ挙句に、甥と一緒に田舎暮らしを始めたが、突然それが嫌になって冬に馬車で無理にウィーンに戻ろうとしたために体調を崩して死に至ったのだった。このあたりの経緯はたとえば前述のかげはら史帆『ベートーヴェン捏造』に書かれている。ベートーヴェンを神聖視していたロマン・ロラン(1866-1944)はカールをならず者のように書いたというが、かげはらは前述書において下記のように書いている。

 

 ベートーヴェンは、なぜ甥に対して病的な執着心をもってしまったのか。彼自身が幼少期に父ヨハンから受けたスパルタ教育のトラウマが虐待の連鎖を生み、甥への過度の束縛につながったという見方が現在では一般的だ。カールが成長するにつれ、叔父と甥はたびたび衝突するようになった。

 

(かげはら史帆『ベートーヴェン捏造 - 名プロデューサーは嘘をつく』(河出文庫,2023) 121頁)

 

 かげはらさんといえば、彼女がポストした下記Xが非常に印象に残った。私はXのアカウントを持っていないためなかなかXにはアクセスしづらいので、忘れないうちにリンクを張っておく。

 

 

 「ヨゼP」には本当に笑ってしまった。昔、というか1998年にプロ野球セ・リーグ日本シリーズで38年ぶりの優勝を遂げた(後者の間隔は昨年の阪神タイガースと全く同じ)横浜ベイスターズ戸叶尚(とかの・ひさし)投手が女性ファンたちから「トカ P」と呼ばれていて、それをホエールズ時代からのファンに揶揄されていたことを思い出したが、かげはらさんは「ヨゼP」呼ばわりからは想像もつかない本格派だ。そのことは『ベートーヴェン捏造』巻末の註(参照文献)を見るだけで明らかだろう。前記石井宏の本にはレファレンスなどつけられていないのである。

 やはり時代は変わるものだなあと痛感する。私が1970年代に西洋のクラシック音楽に親しむようになった頃には、クラシックについて書かれた日本の文章は権威主義に満ちあふれていた。ある者はベートーヴェンフルトヴェングラークナッパーツブッシュらを神聖視し(宇野功芳もその一人だった)、別のある者は「社会主義リアリズム」を信奉していた。前述の宇野のように、一見自由奔放に書いていたかのように見えた者も、その内実は権威主義者そのものだった。私など、同じ音楽雑誌で宇野をこき下ろしていた諸井誠(1930-2013)の評論に快哉を叫んだものだ(1980〜90年代だった)。

 その当時と比較して、かげはら史帆さんに代表される、私より若い世代による西洋音楽の受容の自由自在さに今頃になって気づいて目を見開かされる。やはり時代は進歩していくものだ。つまらない保守思想なんかにかまけるのはやはり間違っていると改めて思った。

 またかげはらさんのベートーヴェンもの(というよりシンドラーもの)を単行本初出時に絶賛していた、私と同世代にして現在私が住む東京都江東区出身の宮部みゆきにも感心した。こんな感受性はたとえば東野圭吾(私と同郷の大阪府出身)などには持ち合わせはあるまい。余談だが先日、宮部氏が1993年に書いたエスパーものの時代小説『震える岩』を読んだのだった。

 

bookclub.kodansha.co.jp

 

 モーツァルトに話を戻す。前記「mozart con grazia」や石井宏の本は例外として、少年モーツァルトの「劇場用セレナータ」が老ハッセのオペラを食ってしまったという、18世紀にレオポルト・モーツァルトが捏造した歴史をいまだに鵜呑みにしている例ばかり見てうんざりした私は、この経緯について吉田秀和(1913-2012)はNHK-FMでどう紹介したのだろうかと興味津々で、1981年に放送されたこの放送の第38回*1のYouYubeの動画を視聴した。下記にリンクを示す。

 

www.youtube.com

 

 私は吉田秀和もどうせレオポルトが発した嘘宣伝を受け売りして垂れ流してたんだろうなと想像していた。

 しかし違った。以下、YouTubeの「文字起こし」を参照しながら引用する。動画の11分51秒あたりからだ。

 

 結果は大成功。

 同じ機会に、当時国際的にも名声の非常に高かったヨーハン・アードルフ・ハッセという作曲家が、オペラ・セリア『ルッジェーロ』というのを新しく書いて上演したんですけども、レオポルトの手紙によりますと、そのハッセのオペラよりも、モーツァルトの書いたセレナータ・テアトラーレ (serenata teatrale =劇場用セレナータ) の方がはるかに好評を得て、その後でも何回も繰り返し上演されて、ハッセには気の毒みたいだ、というようなことが書いてあります。

 まあ、本当か嘘か。根も葉もないことでもないんでしょうけど、レオポルトっていう人は、どちらかというとあの、やっぱり評判が良かった、とても成功した、何回もやられた、だから競争相手はうまくいかなかったということを書きたがる傾向がありますね。それはやっぱり当時いろんなことで、情報が遠いところまですぐ伝わるというわけにはいきかねた時代に、子どものモーツァルトが作曲したらその曲の評判がどうだった 皆知りたがる時に、早く自分の手でその評判を送っておきたいというそういう気持ちがなかったとはいえないような気が僕はいたします。

 

吉田秀和「名曲のたのしみ モーツァルト 音楽とその生涯」第38回 (1981年3月1日、NHK-FMにて放送)

 

URL: https://www.youtube.com/watch?v=1Sh8FqXCun0

 

 さすがはモーツァルトの手紙の選集を出したことのある評論家だけのことはあって、吉田秀和レオポルト・モーツァルトの性格(の難点)をきっちり押さえた解説をしていたのだった。

 だからこそ今でも番組がYouTubeにアップロードされて聴かれるのだろう。

 私が初めてYouTubeのこのシリーズにアクセスしたのは、昨年10月末か11月初めだったと記憶するが、その後別の方による吉田秀和の番組のアップロードなどがあったためか、チャンネルの登録者数がこのところ徐々に増えているようだ。実は私はまだ登録していないのだが、近いうちに登録しようと思っている。今のところ、初回から今回紹介した「アルバのアスカニオ」の第1回までと、私が少年時代に聴いていたこの番組の第1期(1974〜80年)の放送と内容が被り始める第100回前後からあとの放送を聴いたが、当時この放送をほぼ欠かさずエアチェックして現在それらをYouTubeにアップロードされているのは、いささか大袈裟な表現かもしれないけれども、たいへんな偉業であると深く感服する次第だ。

*1:YouTube動画の画面には「第37回」とあるが、ファイルをアップロードできなかった放送がそれまでに1回あるので、NHK-FMの番組としては第38回にあたる。

「伝ハイドン」→「伝レオポルト・モーツァルト」→「アンゲラー作」の「おもちゃのシンフォニー」をBGMにしたNHK「おかあさんといっしょ」のアニメと半世紀以上ぶりに再会した/「アルビノーニのアダージョ」は20世紀の研究家による偽作

 これまで記事にしようと思いながらなかなか書けなかったクラシック音楽関係の暇ネタを放出することにする。

 私が小学生だった1971年頃に、よくNHKの「おかあさんといっしょ」で昔ハイドン作と思われていた時代が長かったらしい「おもちゃのシンフォニー」をBGMにしたアニメーションが流れていたことがあった。私には年少の妹があり、テレビでこの番組がよくついていた。

 その後中学生になって1975年の夏休みにNHK-FMで故千蔵八郎武蔵野音楽大学名誉教授(1923-2010)が解説したクラシック音楽入門の特集が平日の5日間だったか10日間(2週間)のどちらだったかは忘れたが聴いた。この時の印象が強烈で、その後すぐに聴き始めた吉田秀和(1913-2012)の「名曲のたのしみ モーツァルトの音楽とその生涯」とともに私の趣味と嗜好を決定づけた*1。その千蔵氏の番組でだったかどうか、「おもちゃのシンフォニー」が紹介された。実は原作はハイドンではなくレオポルト・モーツァルトの作品だとも解説されたような気もするがさだかではない。現在ではエドムント・アンゲラー(1740-1794)という人の作品だということになっているが、本当にこの人のオリジナルの作品であるかどうかについては異論があるようだ*2。ほぼ間違いないのは番組に「おもちゃのシンフォニー」がかかったことで、私はそれを聴いて、あっ、「おかあさんといっしょ」で流れていたあの曲だと思ったのだった。現在ではクラシックのオーケストラがこの曲を録音してCDなりにして発売する機会はほとんどないと思われるが、ネット検索をかけたらカラヤンが1957年にフィルハーモニア管弦楽団を指揮した録音がYouTubeにあった。下記にリンクする。

 

www.youtube.com

 

 それから半世紀近くが経つ。

 この間ネット検索をかけたら、「おかあさんといっしょ」で流れていたアニメーションに関するQ&Aがいくつか引っかかった。下記は2022年のYahoo! 知恵袋へのリンク。

 

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

 

 以下引用する。

 

ID非公開さん

2022/6/5 22:51

 

45年くらい前の子供向けテレビ番組の中で、ハイドンのおもちゃの交響曲にのせて、折り紙の風車を並べた物ような模様か、幾何学模様のような物が、

あちこちランダムにパクパク開いたり閉じたりするような映像ってありませんでしたっけ?

おぼろげに消えかけている記憶で、そんな映像をうっすらと覚えています。

ナレーションや登場人物はありません。

番組はカリキュラマシーンかなという気がしていますが。

何の番組かお分かりでしたら教えてください。

できればその映像がまた見たいのですが、どこかで見れるでしょうか。

 

ベストアンサー

レンタルおっさんさん

2022/6/8 22:58

 

それ、NH教育だったような記憶があります。

 

質問者からのお礼コメント

 

NHKと教えてくださりありがとうございます。教えてくださったおかげでNHK おもちゃの交響曲と検索して分かった事がいくつかありました。71年頃?の、おかあさんといっしょの、幼児のためのアニメーションというコーナーで作られた物で、もう映像は残っていないようです。

夢のような記憶なので、夢ではない事が分かってとても嬉しいです。ありがとうございました!

 

お礼日時:2022/6/10 14:09

 

 Yahoo! 知恵袋には上記の12年前の2010年にも同様のQ&Aがあった。

 

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

 

 以下引用する。

 

joh********さん

2010/8/14 18:57

 

35~40年くらい前NHKの教育テレビで、”おもちゃの交響曲”に合わせて四角や三角が人の形になったりするアニメーションがありましたよね?

35~40年くらい前NHKの教育テレビで”おもちゃの交響曲”に合わせて四角や三角が人の形になったりするアニメーションがありましたよね?非常に短いアナログのアニメーションで、おもちゃの交響曲の第一楽章と第三楽章があったような気がします。第三楽章は鳥が、人の体をくわえて逃げていくような内容で、インパクトがあったのでいまだに記憶に残っています。先日家族でその話が出て、なんとかその映像が見たくなり、you tubeで探したのですが、見つかりませんでした。

みなさん記憶にありませんか?どこか見れるサイトはありませんか?

ベストアンサー

 

エルガーさん

2010/8/16 16:42

 

私もそのようなアニメ、すごく印象に残っています。鳥とか、三角形や四角形とか万華鏡のように出てきて、おもちゃの交響曲がそのアニメにすごくはまっていたんですよね。私も今でもこの交響曲を聴くと、じつはそのアニメを思い出すのですよ。(笑い)

 

時期としては昭和46年(1971年)くらいかな、たしか「みんなの歌」ではないのですが、「みんなの歌」とか子供向けの番組の合間にやっていたような…それも夕方頃だったかなあ…。

 

ユーチューブでもないかもしれませんし、もうNHKの“資料館”くらいの世界かもしれませんね。当時はおそらく番組として載っていたはずですから、昔の新聞の縮刷版などの番組表に、そのアニメの番組が載っているかもしれません。それでそれが番組クラスのものであれば、NHKに聞いてみれば、何か収穫があるかもしれませんね。

 

自分も当時子供でして、そのアニメとか、夕方6時からの「こどもニュース」とその時のBGMとか、6時以降の「ねこじゃら市の11人」とか、「アバラ」とかいう犬が出てくるドラマなんて、記憶にあります。

 

話しがずれて恐縮ですが、一番強烈だったのは、これもNHKですが、ニュースか天気予報の合間か何かに、こんなこわいCM(というかキャンペーン・フィラー)がありました。

あらすじは、不気味なBGMとともに子供が池で一人で遊んでいて、そのうち、池にその子が遊んでいた遊具が浮かんでいて、「けんちゃん、どこいったのかしら」という母の声という設定で、子供の水遊びは注意しましょう、なんていうテロップがすうっとでてくるのです。いまのACなんで問題にならないくらいこわかったです。

 

 ベストアンサーの最後に書かれている「こわいCM」は全く知らない。

 しかし、1971年頃にNHKの「おかあさんといっしょ」で流れていた「おもちゃのシンフォニー」つきのアニメーションはネット検索にヒットした。YouTubeではなくTikTokにあった。下記にリンクに示す。

 

www.tiktok.com

 

 質問者の方は「おもちゃの交響曲の第一楽章と第三楽章があったような気がします」と書かれているが、BGMに使われているのは第2楽章と第3楽章だ。同じ音楽が加速しながら演奏される第3楽章は印象的だ*3

 でも、不思議なことに1975年にNHK-FMでこの曲を聴いた時には、第1楽章にも聴き覚えがあった。それで思ったのは、もしかしたらこのアニメーションに別のバージョンがあったのではないかということだ。つまりもう1つは第1楽章をバックにしていたのではないか。こう考えてみると、そういえば昔からアニメーションには2種類あったって思ってなかったっけ、とも思う。

 いずれにせよ1971年頃のアニメーションとのことだから、半世紀以上経ってから再会したしたことになる。長い間生きていたらこんなこともあるのだなあ。

 以下は長い余談。おもちゃのシンフォニーの本当の最初の作者はパパ・ハイドンでもヴォルファール(ヴォルフガングの愛称。間違っても「アマデウス」ではない)のステージ・パパだったレオポルトでもなさそうだが、この時代には偽作(贋作)や疑作が多かった。モーツァルト(ヴォルファールの方)の作品がどうか疑わしいとされる曲の中には、当時のイタリアの人気作曲家だったルイジ・ボッケリーニ(1743-1805)の某作に似ていることが疑われた理由だったが、そのボッケリーニの曲自体が別人の作品(「類似ボッケリーニ」だった?)だったことが判明した例などもあるそうだ。もちろん、似ていたのが偽作だったからといって「伝モーツァルト」の作品が真作とされるようになったわけではない。

 私は1976年からバッハをはじめとするバロック音楽も聴くようになったが、その頃から別人の作品ではないかと疑っていたのが「アルビノーニアダージョ」だった。というのは、有名なこの作品を知る前に、トマゾ・アルビノーニ(1671-1751)の「オーボエ協奏曲ニ短調作品9-2」を聴き、その第2楽章アダージョに感心したことがあったのだが、そのイメージと「アルビノーニアダージョ」との印象が全く違っていたからだ。

 まずオーボエ協奏曲の方は下記。

 

www.youtube.com

 

 第2楽章アダージョは4分12秒くらいから始まる。アルビノーニはイタリアの人気オペラ作曲家だったらしいがオペラの楽譜は大部分が逸失し、現在では作品番号つきで印刷された器楽曲が主に聴かれる。しかし私の知る限り、この作品9-2のアダージョが飛び抜けて印象に残り、アルビノーニの他の作品でこれに匹敵する曲に出会ったことはない。上記リンクは現代音楽の作曲でも知られるハインツ・ホリガーオーボエとイ・ムジチ合奏団の演奏で、昔からこれが定番だった。

 一方「アルビノーニアダージョ」は下記。カラヤン指揮ベルリン・フィルの演奏だが、この元ナチ党員は本当に雑食性の人だったんだなあと改めて思う。こちらのYouTubeは24万回も再生されていて今も大評判のようだが、私には「何だ、このムードミュージックは」としか思われない。

 

www.youtube.com

 

 そういえばこの「アダージョカラヤン」というのはずいぶんな人気盤だったが私は持っていない。嘆かわしいことにこのCDで「アルビノーニアダージョ」の直前に収められているのがモーツァルトのK287のディヴェルティメント変ロ長調の第4楽章で、これはカラヤンの指揮にしては珍しく、決して悪くはないのだが、私が持っているのはジェフリー・テイト指揮イギリス室内管弦楽団の演奏で、テイト盤ではソナタ形式のこの楽章の提示部ばかりか展開部から再現部までもリピートしているのでこの楽章に10分以上をかけているので、このシューベルトばりの「天国的な長さ」の演奏の方が良いと思う。「アダージョカラヤン」で「アルビノーニアダージョ」のあとに入っているのはベートーヴェンの第7交響曲の第2楽章だが、この楽章はアレグレットであって決してアダージョではないはずだ。

 カラヤンの悪口ばかりになってしまったが、アルビノーニアダージョが偽作であることが正式に判明したのは1990年のことだったそうだ。以下Wikipediaより。

 

アダージョ ト短調』は、レモ・ジャゾットが作曲した弦楽合奏オルガンのための楽曲。弦楽合奏のみでも演奏される。1958年に初めて出版された。

この作品は、トマゾ・アルビノーニの『ソナタ ト短調』の断片に基づく編曲と推測され、その断片は第二次世界大戦中の連合軍によるドレスデン空襲の後で、旧ザクセン国立図書館の廃墟から発見されたと伝えられてきた。作品は常に「アルビノーニアダージョ」や「アルビノーニ作曲のト短調アダージョ、ジャゾット編曲」などと呼ばれてきた。しかしこの作品はジャゾット独自の作品であり、原作となるアルビノーニの素材はまったく含まれていなかった[1]

大衆文化における「アダージョ」の利用[編集]

雄渾多感な旋律と陰翳に富んだ和声法ゆえの親しみやすい印象から広まり、クラシック音楽の入門としてだけでなく、ポピュラー音楽に転用されたり、BGMや映像作品の伴奏音楽として利用されたりした。

また、日本や欧米では葬儀のとき最も使われている曲の一つでもある。ドアーズのアルバム『アメリカン・プレイヤー』収録の「友人同士の宴」では、『アルビノーニアダージョ』の編曲と思しき楽曲に乗せてジム・モリスンが詩の朗読を行なっており、イングヴェイ・マルムスティーンの『イカロス組曲』作品4は、もっぱら『アルビノーニアダージョ』を下敷きにしている。DJティエストTiësto)はアルバム『Parade of the Athletes』(2004年アテネオリンピック開会式に使用され、日本選手団の入場の際に流れていた)において、『バーバーのアダージョ』とともに『アルビノーニアダージョ』を用いた。ルネッサンスは、『アルビノーニアダージョ』に歌詞をつけて「Cold is Being」という曲にしている(アルバム『運命のカード』に収録)[2]

オーソン・ウェルズ1962年の映画『審判』(The Trial)やルドルフ・トーメRudolf Thome)監督の1970年の『Rote Sonne』、『ローラーボール』(1975年制作版)やメル・ギブソン主演の1981年『誓い』(Gallipoli)、2015年成島出の映画『ソロモンの偽証 前篇・事件[3]といった映画の伴奏音楽ないしはテーマ曲として利用されている。

1992年5月、ボスニア内戦で包囲されたサラエボ市内の市場裏で食料品を買おうとしていて砲弾の直撃で亡くなった22人の民間人死者を追悼し、その翌日から地元のチェリスト、ヴェドラン・スマイロヴィッチが「アダージョ」を22日間その場で演奏した。このエピソードを元にした小説、スティーヴン・ギャロウェイ『サラエボチェリスト』が書かれた。[4]

 

URL: アルビノーニのアダージョ - Wikipedia

 

 幸か不幸か、私は「アルビノーニアダージョ」が好きだったことは一度もなかった。偽作であることが確定していたとは今回のネット検索で知ったばかりだが、さもありなんとしか思わなかった。

*1:このうち吉田秀和の番組はモーツァルトの生涯に沿って作品を順次紹介していくもので、第1期は1974年1月に始まって1980年1月に終わった。その後モーツァルトのレコードが増えて、第1期には紹介できなかった作品も紹介できるようになったとの名目で、同じ趣向の放送が1980年4月から1987年1月までもう一度行われた。以前にも何度か書いたことだが、私が驚いたことに、この第2期の放送をほぼ毎回エアチェックした上、そのカセットテープを保存されている方がいて、2017年から現在に至るまで、録音し損ねた何度かの回を除いて第1回から1983年4月放送分までをYouTubeにアップロードされているので、今でも吉田氏の声を聴き直すことができる(それ以降の放送分も徐々にアップロードされると思われる)。NHKにはおそらく第1期の初めの頃の録音は残っていないだろうが、一般家庭にもラジカセが普及していた第2期の放送あたりは全部NHKに残っているのではないかと思われるが、そのあたりは明らかにされていない。吉田氏の没後に時々かつての放送の一部が再放送されたことがあるようなので、ある時期以降は録音が残っていることは確実だろう。しかし私が聴き始めた1975年の8月だか9月だかはわからないけれども、その時期となると残っていない可能性の方が高そうだ。第2期は非常に幸運なことに今でも初回から聴けるけれども、第1期は最終回に至るまでYouTube等で聴き直したことは一度もない。

*2:この件の論考に関しては下記URLを参照されたい。http://jymid.music.coocan.jp/kaisetu/kindersym.htm

*3:なおNHK版(?)ではメロディーの途中で加速しているが、原曲では同じ音楽がテンポを変えて、あとほど速く3度繰り返される。

「弾薬のように短気」だったモーツァルトとその苦難の人生

 モーツァルトベートーヴェンに関して、片割月さんと仰る方から2件のコメントをいただいた。反応が遅れて誠に申し訳ないけれども、以下にご紹介する。コメントを引用しようとして初めて気づいたのだが、下記のブログを運営されている。

 

nw7hvnc37uel.blog.fc2.com

 

 2021年までは下記ブログを運営されていたようだ。

 

poppy445.blog.fc2.com

 

 いずれも私の古巣である懐かしのFC2ブログだ。私は2006年4月にFC2ブログを開設し、同年7月に当初は副次的なブログとしての位置付けで「はてなダイアリー」を開設したが、2011年にFC2ブログのサーバー "fc63" がひどいトラブルを起こした。その頃から徐々にはてなダイアリーを中心に運営するようになり、現在に至っている。

 『徒然草子』の最初の下記記事を拝読した。

 

ブログの名前は「枕草子」と「徒然草」をミックスしたものですが、同じ名前のブログがいくつもあるんですね(汗)

ま、いいか。

日本の古典文学では源氏物語枕草子が大好きです。

清女、紫女はひたすら仰ぎ見る存在ですが、私は月女として、心ひとつに、おのづから思ふことを、たはぶれに書きつけんと思います。

 

URL: http://poppy445.blog.fc2.com/blog-entry-1.html

 

 私は学校では古文が一番苦手で、次いで英語と歴史が苦手でした。基本的に理系の人間でしたが、文系で唯一得意だったのは政治経済で、だからブログはその方面ばかり書いています。

 もともと理系人間だった私が現在では文系方面のことばかり書くのは、30代後半から40代前半にかけて組織内で苦難の時代を経験し、それを契機に人間に対する関心が強まったからでした。

 音楽については、子ども時代から若い頃にかけては音楽そのものにしか興味がなかったので、音楽と社会や文化との関係はほとんど考えませんでした。歳をとった今になって、やっと両者を結びつけて考えるようになり、その観点から昔大好きだったモーツァルトをみると、実に興味深い人生だったこと、それも一般に思われているイメージとは異なって、ベートーヴェンにまさるとも劣らないくらいにたいへん苦難に満ちた人生を送ったことを認識して、数十年ぶりにモーツァルト熱が再燃したというのが昨年10月末以来現在までのことです。いや、その少し前の時期にも、大のモーツァルティアンだった大岡昇平の音楽論を集めた本(珍品!)を読みながらモーツァルトを聴いたりはしていましたけど。

 片割月さんのブログの古い2011年の記事から以下に少し引用します。フィギュアスケート浅田真央さんに関する記事です。

 

昨季の「バラード」や今季の「ジュピター」もそうだが、真央選手の演技は古典派のギャラント様式、又はロココ様式の美しさを思わせる。

見る度に癒される。

 

ゴテゴテした装飾を取り除き、流麗にして風雅、簡素にして明朗。音楽で言えばモーツァルトがパリ滞在時に作曲した一群のピアノ・ソナタやセレナードのような楽想が、まるで通奏低音として真央選手の足下から聞こえてくるようだ。

 

URL: http://poppy445.blog.fc2.com/blog-entry-16.html

 

 ところがどっこい。実は私も最近認識したばかりなのですが、パリはモーツァルトにとってあらゆるヨーロッパの都市の中で相性が最悪だった都市で*1マンハイムで熱愛したアロイジア・ヴェーバーと彼女の一家にしばしの別れを惜しまれながら(とモーツァルトは勝手に思っていた)やってきたこの都市でさんざんに冷遇されたり、母親を亡くして、それをモーツァルトのせいだと思い込んだ父や姉との後年の不和の遠因になったり、果ては故郷・ザルツブルクへの帰途で立ち寄ったミュンヘンで(ヴェーバー一家はマンハイムから移転していました)アロイジアに相手にされず失恋したり(アロイジアはパリで就職できなかった無職のモーツァルトになど用はなかったと言われています)とさんざんな日々を送りました。以前はモーツァルトはパリで5曲のピアノソナタを作曲したとされていましたが、近年第10番K330から第13番K333まではもっとあとの時代の作品であることが判明し、第7番K309と第9番K311はパリに行く前に立ち寄ったマンハイムで書いていたので、パリではピアノソナタは第8番イ短調K310ただ一曲を書いただけでした。K310がどんな曲かご説明の必要はありますまい。またモーツァルトが得意とした機会音楽であるセレナードはパリでは一曲も作られませんでした。モーツァルトは手紙で、イタリア語の歌詞の歌をフランス語で歌われてはたまらない、とフランス語およびフランス人をこき下ろしています。

 ようやく本論に入る。片割月さんからいただいた2件のコメントを以下に引用する。

 

kj-books-and-music.hatenablog.com

 

片割月 

 

初めましてm(__)m

以前からkojitaken様のブログ、面白く拝見しておりました。

私はモーツァルトについては宗教音楽とオペラは素晴らしく、深い感銘を受けて来ましたが、彼の器楽曲の方はイマイチ(クラリネット協奏曲は例外的に感銘を受けましたが)でした。

が、この数年、色々と聴き込んで来まして、ピアノ協奏曲の良さも少しづつですが分かって来ました。その中では24番と25番は素晴らしいと思います。特に24番は出だしがまるでホラー映画かサスペンスドラマの効果音の如き、異様な戦慄、いや、旋律に衝撃を受けました。オペラの「ドン・ジョバンニ」の世界をも連想させます。なかなか急進的な音楽。まるで、貴族を中心とした聴衆のことなど忘れたかのような。

私はこの24番とクラリネット協奏曲が今の所、一番好きです。御存知と思いますが、クラリネット協奏曲も実はなかなか急進的というか、第一楽章の展開部や第三楽章の終結部(コーダ)における…モーツァルトとしては…異例とも言えるほどの長大さに、次のベートーヴェンを先取りした感もします。そして、クラリネットの哀愁漂う音色が曲にピッタリです。涙が流れそうな程に。

25番の「ダ・ダ・ダ・ダーン」が「運命」の動機ですか。なるほど、言われてみればそうですね。が、何とも言えないのかな。当時の作曲家達が先達の旋律や動機を「借用」したり、無意識のうちに取り入れてしまうことは良くあったそうですし。偶然も少なくなかったのではないでしょうか。

御存知と思いますが、これなどまさに、「盗作か」と思えるくらいに似ていますよね。

モーツァルト「オフェットリウム」K222
動画の1分10秒から「歓喜の歌」が流れる
https://www.youtube.com/watch?v=x82r-149QGY&t=2s

初めてなのに図々しくも長文になってしまい済みません。

また、お邪魔させて下さいませm(__)m

 

 件の「タタタターン」の4音動機ですが、「運命はかく扉を叩く」というのはベートーヴェンの自称弟子・シンドラーの捏造で、ベートーヴェンは実際にはそんなことは言っていないらしいので、以後「運命の動機」という言葉は使わないことにします。そもそも、ベートーヴェンの第5交響曲については、高校生時代に学校の図書館に置いてあった『吉田秀和全集』(白水社)中の「名曲300選」*2

私は、ベートーヴェンの作品、ことに『第五』などは、今や、標題楽的な考え方を、まったく排除してきいて、しかも傑作であることを、直接経験すべきだと思う。

吉田秀和『LP300選』(新潮文庫,1981)157頁)

と書かれているのを読んで以来、「運命」という副題を基本的に使わないことにしています。でもブログの記事では、いちいち断るのは面倒ですし。「運命の動機」は便利な言葉なので妥協して「運命」の2文字を使っていたのでした。でもシンドラーの悪行を描いたかげはら史帆さんの『ベートーヴェン捏造』も読んだことですし、今後はシンドラーなんぞに靡いてたまるかとの思いも込めて「タタタターン」または「『タタタターン』の4音動機」と表記することにします。

 で、その「タタタターン」が他の作曲家、特にハイドンモーツァルトが多用していた事実は確かにありますし、そのことはこのブログにも何度も書いたのですが、モーツァルトのピアノ協奏曲第25番の第1楽章には楽章全体がこのリズムパターンで統一されている点に特徴があり、ベートーヴェンの第5交響曲はそのコンセプトを一つの楽章だけではなく曲全体を統一するところに新しさがあったと思ったのでした。つまり、ベートーヴェンが得意とした構造美についてもモーツァルトは先駆者だったことを、ブログ記事中に引用した他の方が書いた文章を通じて認識した次第です。もっとも、そういう点ではハイドンの音楽により先駆的な作品が多く見出されるとも思いますが(ハイドンには実に実験的な作品が多く、感心させられます)。

 それから「第九」の「歓喜の歌」と同じ節が出てくるモーツァルトのK222、ニ短調のオッフェルトリウムは、調性が同じレクィエムK626の先駆的作品として知られていますが、ネットで調べてみるとこの曲をベートーヴェンが実際に知っていた可能性がかなりあるようです。

 

note.com

 

 以下引用します。

 

ベートーヴェン交響曲第9番の主題となる歓喜のメロディーの最初の形は、1794~95年作の歌曲「愛されない男のため息-応えてくれる愛」(相愛)に現れます。この歌曲を第1歩として、1803年には歌曲「人生の幸せ」(「友情の幸せ」)、1808年のピアノ、合唱と管弦楽のための幻想曲ハ短調「合唱幻想曲」に、1810年の歌曲「彩られたリボンで」に、1819年の歌曲「さあ、友よ結婚の神を賛美せよ」(結婚歌)に1822年の歌曲「盟友歌」にと、1本の赤い糸のようにベートーヴェンの作曲活動の間をぬってきています。(1)

 

 モーツァルトのオッフェルトリウム「ミセリコルディアス・ドミニ」K.222にベートーヴェン歓喜の歌のメロディーが現れることが知られていますが、音楽史年表からベートーヴェンモーツァルトのこのモテットの主題を使用したのではないかとの仮説が得られます。

 

 1775年、モーツァルトはこのモテットをバイエルン選帝侯の依頼によって作曲しましたが、その初演の1月半の後、ウィーン宮廷のマクシミリアン・フランツ大公がザルツブルクを訪れ、モーツァルトは歓迎のために牧歌劇「羊飼いの王」K.208を作曲し、上演しています。マクシミリアン大公は1768年に12歳のときにウィーンでモーツァルトの孤児院ミサ曲K.139を聴き大きな感動を得て、それ以来皇帝ヨーゼフ2世とともにモーツァルトを擁護していました。モーツァルトは孤児院ミサ曲以来7年間の教会音楽における自身の作曲者として成長を示すために、このオッフェルトリウムの楽譜をマクシミリアン大公に奉呈したのではないかとみられます。

 

 後に、マクシミリアン大公はケルン大司教・選帝侯としてボンに赴任しますが、ボンを新たな音楽の都にするために、モーツァルトの歌劇を含めた多くの楽譜がボンに持ち込まれました。ボンに新たに創設された宮廷楽団には、ビオラ奏者として若きベートーヴェンが加わりますが、ベートーヴェンは宮廷音楽家として多くのモーツァルトの作品を演奏します。この折にベートーヴェンモーツァルトのモテットのメロディーを書き留めたとしても不思議ではありません。なお、この時代、作曲者が他の作曲者の主題を利用し作曲することはよく行われていたことですし、変奏曲の主題に他の作曲家の主題を用いることも多く行われていました。

 

音楽史年表より】

1775年3月初旬初演、モーツァルト(19)、オッフェルトリウム「ミセリコルディアス・ドミニ(主のお憐れみを)」ニ短調K.222

ミュンヘンの選帝侯礼拝堂で初演される。バイエルン選帝侯マクシミリアン3世の所望に応じて、自らの対位法的力量を示すべく作曲される。(2)

この曲の中でバイオリンが度々、ベートーヴェン交響曲第9番の終楽章の歓喜の歌の旋律をかなでる。(3)

 

URL: https://note.com/ahayakawa500/n/na31c83ba7def

 

 K222では「歓喜の歌」の旋律は、最初はヴァイオリンでニ短調の平行長調であるヘ長調で奏されますが、最後はニ短調で繰り返し出てくるので、音楽は当然ながら「第九」よりは「レクィエム」の世界にずっと近いです。メロディーについては、中田章が作曲した「早春譜」やそれに似ているとよく言われる「知床旅情」がモーツァルトの「春への憧れ」K596やその原型であるピアノ協奏曲第27番K595の終楽章のロンド主題と同じように、あるいはモーツァルトの「バスティアンとバスティエンヌ」K50の序曲とベートーヴェンエロイカと同じように、分散和音か二度音程の繰り返しかの違いこそあるもののありふれたメロディーなので、偶然似てしまった可能性が強く、ベートーヴェンの第5交響曲のスケッチにモーツァルト第40番のフィナーレのメロディーが書かれていたらしい例(こちらはほぼ確実にモーツァルトからの「引用」であろうと推測されます)とは違います。ただ、調性も異なり楽譜も流布していなかったであろう「バスティアンとバスティエンヌ」序曲(ト長調)とエロイカ変ホ長調)の場合はほぼ間違いなく偶然だろうと思いますが、K222と「歓喜の歌」とは本当に判断がつきません。なおエロイカの場合はむしろモーツァルトの第39番K.543の第1楽章の方が類似性が高いのではないかとも思います。同じ変ホ長調ですし。K222はヘ長調ニ短調で「歓喜の歌」はニ長調であるところが意味深です。ニ短調は第9の第1,2楽章の調性ですし。でもベートーヴェンが「歓喜の歌」の節を使おうとした先例として有名な合唱幻想曲作品80ではハ長調で出てきますから、それを考えるとやっぱり偶然かなとも思います。もっとも合唱幻想曲の節は同じベートーヴェンの曲の割にはモーツァルトのK222と比較しても「歓喜の歌」に似ていないようにも思いますが。

 片割月さんからはもう1件コメントをいただいている。

 

kj-books-and-music.hatenablog.com

 

片割月 

 

kojitaken様、こんばんは。

>私がモーツァルトにはまったのは中学生時代の1975年で
>このうち第5番は亡父が大好きだった曲の一つで、しょっちゅうこの曲のレコードをかけていた。

この辺り、私自身の経験からも、その時の様子が分かるような気がします。

私の場合は母がベートーヴェンの「田園」「運命」「バイオリンと管弦楽のためのロマンス・ヘ長調」「ドボルザークの「新世界」「8番」等を聴いていましたので、その影響を受けました。小学4年から中学にかけて、これらの音楽家の曲を起点としてクラシックに魅了されて行きました。

kojitaken様の場合はモーツァルトに限らず、幅広く聴かれていたのでしょうね。

専門家のどなたかが言っていたと記憶していますが、私のように子供の頃に最初にベートーヴェン交響曲に魅了され「ベートーヴェン耳」になる例もあれば、最初にモーツァルトの「ジュピター」「40番」等に魅了され「モーツァルト耳」になる例があり、両者はその後のクラシック音楽への好みが分かれるとか。

私の場合はその後、ワーグナーブラームスチャイコフスキー等の音楽へと向かい、なかなかモーツァルトハイドンには向かいませんでした。「ベートーヴェン耳」には彼等の交響曲の素晴らしさがなかなか。。。今もまだダメです(^-^;

トルストイと「クロイツェル・ソナタ」ですが、ドストエフスキーは「熱情ソナタ」が好きだったそうです。手紙か何かで語っていたので事実でしょう。

ロシアの両文豪が揃ってベートーヴェンを聴いていたというのは面白いですね。

もう少し書きたいのですが、キリが無いのでこの辺りでやめます。

ありがとうございました。

 

 実は私が小学校4年生の時に1枚だけ父に与えられたレコードはドヴォルザークの『新世界より』だったのでした。

 その後中学校1年生の頃に十何枚かのレコードを貸してもらって、最初に気に入ったのはメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲でした。ベートーヴェン交響曲第3,5,9番のレコードがありました。

 ですが、ベートーヴェンの場合は、ことに第5交響曲に対して、前記の吉田秀和が言う「標題楽的な考え方を、まったく排除してきいて、しかも傑作であることを、直接経験す」ることは、子ども時代の私にはどうしてもできませんでした。例の「苦悩を貫いて歓喜へ」というモットーだかプログラムだかを押し付けられるかのような抵抗がありました。そんなこと言ったって人生の最後は「死」じゃないかと思ったのでした。しかもベートーヴェンにはトルストイに「不道徳」と非難されたクロイツェル・ソナタやそれと同質の情念を私に感じさせる、ドストエフスキーが好んだとおっしゃる熱情ソナタのような作品もあるし、何よりベートーヴェン自身の晩年のピアノソナタ弦楽四重奏曲は決して「苦悩を貫いて歓喜へ」の音楽とはいえないわけです。

 その一方で、ベートーヴェンは「元祖モーツァルティアン」のような人でした。私はその観点からベートーヴェンへの関心を強めていきました。モーツァルトは1791年に悲惨な死に方をしましたが、1827年に死んだベートーヴェンの晩年にはサリエリ(1825年死去)がモーツァルトを毒殺したことを悔いて精神に異常をきたしたなどの噂がウィーンを駆け巡ったことからもうかがわれる通り、モーツァルトは既に大作曲家として認められていました。それには、ピアノ協奏曲第20番ニ短調K466のカデンツァを作ったベートーヴェンの貢献も大きかったのではないかと思います。

 ベートーヴェンは耳疾という音楽家として最大級の苦悩を経験したけれども、モーツァルトにも就職に苦しんだための生活苦をはじめとする別種の苦悩があったのでした。

 その性格においても、モーツァルトベートーヴェンと同じくらい短気で怒りっぽい人でした。たとえば、英語で書かれた下記記事(2006年7月24日)の冒頭の文章は、最近私が持つようになったモーツァルトのイメージに近いです。

 

www.newyorker.com

 

Wolfgang Amadè Mozart, as he usually spelled his name, was a small man with a plain, pockmarked face, whose most striking feature was a pair of intense blue-gray eyes. When he was in a convivial mood, his gaze was said to be warm, even seductive. But he often gave the impression of being not entirely present, as if his mind were caught up in an invisible event. Portraits suggest a man aware of his separation from the world. In one, he wears a hard, distant look; in another, his face glows with sadness. In several pictures, his left eye droops a little, perhaps from fatigue. “As touchy as gunpowder,” one friend called him. Nonetheless, he was generally well liked.

 

URL: https://www.newyorker.com/magazine/2006/07/24/the-storm-of-style

 

 小男で顔に天然痘にかかった痕のあばたがあるモーツァルトは「弾薬のように怒りっぽい」人だったというのです。

 記事に添えられた、左利き*3モーツァルトを描いた漫画には

Scholars now see Mozart not as a naïve prodigy or a suffering outcast but as a hardworking, ambitious musician.

と書かれています。勤勉で野心的な音楽家。現在の日本人でいえば野球のことしか考えていないように見える大谷翔平選手みたいなあり方といえるでしょうか。

 またモーツァルト自身も

私の芸術の実践が簡単になったと思うのは間違いだ。 親愛なる友よ、私ほど作曲の研究に力を注いだ者はいないと断言しよう。私が頻繁に、そして熱心に研究しなかった音楽界の有名な巨匠はほとんどいないのだ。

と言ったらしいです*4

 モーツァルトは "Wolfgang Amadè Mozart" と署名していました。昨日、白水社の『モーツァルト書簡全集』の一部を図書館で少し読みましたが、「ヴォルフガング・アマデー・モーツァルト」と訳されていました。モーツァルトの先例名は "Johannes Chrysostomus Wolfgangus Theophilus Mozart" といいますが、これはラテン語の名前で、このうち「神に愛された」という意味の Thephilus に相当するイタリア名が Amadeo で、イタリア旅行した時にモーツァルトは「アマデーオ」と呼ばれました。モーツァルトはそれを気に入りましたが、そのままだといかにもイタリア風なので o をとってフランス風に Amadè と名乗ったものらしいです。ちなみにドイツ名だと Gottlieb(ゴットリープ)になります。下記Xが書く通りです。

 

 

 だから石井宏が『モーツァルトは「アマデウス」ではない』(集英社新書,2020)などと書くわけですが、考えてみたらイタリア人ながらウィーンで「モーツァルト殺し」と噂されながら精神に異常をきたして死んだサリエリも不運な人です。私が連想せずにはいられないのは、中国ではトップのグループに入れないために世界各地に散り散りになっている卓球選手たちのことで、たとえば今年のパリ五輪代表に選ばれた張本兄妹も中国系の選手です。最初にこれを認識したのは2004年のアテネ五輪団体戦福原愛とフルゲームの激戦を演じて惜敗したオーストラリア代表のミャオミャオ(苗苗)選手(私は福原選手よりもこの選手の方を応援していました)や、その次のアメリカ選で対戦して福原選手が4-0でストレート勝ちしたガオジュン(高軍)選手を知った時でした。彼ら彼女らは「鶏口となるも牛後となるなかれ」を地で行っているわけですが、そのオペラ作曲家版がサリエリたちではなかったかと。なお図書館にはサリエーリの伝記(以前弊ブログで紹介した「サリエリモーツァルト」を書いた水谷彰良氏が2004年に音楽之友社から出した『サリエーリ モーツァルトに消された宮廷楽長』というタイトルの本)も置いてあったので、暇な時というか今月最後の月曜日に休みをとる予定なので、その3連休のタイミングあたりにでも借りて読もうかと思っています。モーツァルトの現存する最後の書簡にサリエリとその愛人を『魔笛』のボックス席に招待し、サリエリがブラヴォーを連発したことが書いてあるのは事実で、昨日はそれを『モーツァルト書簡全集』の最終巻(第6巻)で確認してきました。どう考えてもサリエリモーツァルトを殺す動機はないわけですし*5、それどころかモーツァルトを殺してしまったら自らがブラヴォーを発し、かつ自らの地位を脅かす恐れがなくなった(なぜなら宮廷楽長は終身職だから)モーツァルトの新曲はもう聴けなくなるわけですから、サリエリ犯人説はまずあり得ないと思われます。仮にモーツァルトの死因が本当に毒殺であったとしたら、貴族に反逆的だったモーツァルトを狙った極右の犯行ではなかったかと想像する次第です。

 「モーツァルト耳とベートーヴェン耳」の話は面白いですが、それよりも1970年頃に見られた劇的な社会構造の変化が人心をも変えたのではないかと私は思っています。大阪万博のあった1970年にはまだこの年が生誕200年のアニヴァーサリーイヤーだったベートーヴェンの天下でしたが、翌1971年から吉田秀和NHK-FMの番組『名曲のたのしみ』でモーツァルトを取り上げ始め、それとほぼ時を同じくして朝日新聞に「音楽展望」のコラムを書き始めた頃から様相が変わり始めたのではないかと思います。私がクラシックを聴き始めた1974〜75年頃あたりがベートーヴェンからモーツァルトへの人気ナンバーワンの交代期だったように思いますが、1970年頃からの世相はというと「モーレツからビューティフルへ」という富士ゼロックスのCMが放送されたのが1970年で、1971年のドルショック、1973年の石油ショックと続いてこの年に高度成長経済が終わり、1974年から翌75年にかけてはスタグフレーション(不況下の物価高)が起きました。

 私にベートーヴェンの5枚(交響曲第3,5,9番とヴァイオリン協奏曲、それにピアノ協奏曲第5番「皇帝」。そうそう「ロマンス第2番」もありました)のレコードを貸してくれた父も、1970年代半ば頃にはどう思い出してもベートーヴェンよりモーツァルトを多く聴いていました。記事に書いたヴァイオリン協奏曲第5番の他に覚えているのは、弦楽三重奏のためのディヴェルディメント変ホ長調K563と、K313,314のフルート協奏曲/オーボエ協奏曲*6などでした。父は他の作曲家ではブルックナーシベリウスが好きで、ブルックナーでは第4番「ロマンティック」、シベリウスでは「フィンランディア」ばかりかけていましたね。私はブルックナーでは第7,8番をごくたまに聴く程度で、シベリウスは「フィンランディア」はあまりにもベタなので敬遠していますが、それと同様のコンセプトで書かれたと思われる第2交響曲には結構燃えます。このあたりは私にもそれなりにナショナリスティックな部分も多少はあるんだろうなとうすうす自覚する一方、あれを「シベリウスの田園交響曲」などと評した音楽評論家たちはバッカじゃなかろかルンバ♪、と少年時代の昔から思っていました。

 モーツァルトに関しては、ベートーヴェン以降との断絶よりもモーツァルトベートーヴェンの連続性の方に興味があります。今日は本当はオペラ『ドン・ジョヴァンニ』を題材にして「闘うモーツァルト」をテーマに記事を書こうと思っていましたが、その前段階を書き終えたところでもう1万字を超えたので、それは次回以降に回します。

 そうそう、書き忘れてましたが、モーツァルトベートーヴェンの時代にはフランス革命がありました。1970年から180年前の1790年頃にヨーロッパでは大きな社会構造の変化であり、ベートーヴェンが自立した音楽家として成功できたのはそのおかげもあったと思います。ギリギリでその恩恵に浴することができたのが晩年のハイドンで、彼は長年のハンガリー勤めから解放されたあと、渡英して自立した作曲家として成功してウィーンに戻りました。晩年の弦楽四重奏曲からは故モーツァルトや若いベートーヴェン何するものぞ、という気迫が感じられますが、70歳を少し過ぎた頃に健康に問題が生じたものか、晩年の輝きは長続きしなかったようです。モーツァルトは残念ながら早く生まれ過ぎました。晩年の1789年から1790年にかけてはスランプの時期で、ようやく1791年に力を取り戻したかと思われた時に死の病(あるいは毒物?)に倒れてしまいました。

 1810年代以降の反動の時代には作曲家(や指揮者?)の権力ばかりが増すようになって、クラシック音楽の世界に権威主義が広がっていったのではないかとの仮説を立てています。1790年までの王侯や貴族の支配に代わる別の権威主義が幅を利かせたのが19世紀のドイツを中心とする芸術音楽の世界だったのではないでしょうか。その中でも特に問題含みだったのが自らも反ユダヤ思想を持っていたワーグナーではなかったかと思いますが、幸か不幸か私がワグネリアンになることはありませんでした。

*1:モーツァルトと相性がもっとも良かった都市はプラハ、また作曲でもっとも大きな影響を受けた国はイタリアだった。

*2:新潮文庫版の『LP300選』(1981)が手元にあるが、書かれたのは1961年。

*3:ベートーヴェンも左利きだったらしい。ともに短気な小男だったことを含めて、よくよくこの2人には共通点が多い。

*4:https://avareurgente.com/ja/ren-sheng-yi-chan-soshite100notian-cai-vuoruhugangumotsuarutoming-yan-ji

*5:モーツァルトにはサリエリを殺す動機はあったわけで、ミステリなら『魔笛』のボックス席でモーツァルトサリエリのグラスに毒薬を入れるのを見たサリエリモーツァルトが目を逸らした隙にグラスを差し替えた、などと想像することもできようが、さすがにリアリティが全くない。

*6:K313がフルート協奏曲第1番、K314が同第2番だが、後者はその原曲であるオーボエ協奏曲の楽譜が発見されたために両方の形態で演奏される。