KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

2021年5〜7月に読んだ本; 吉見俊哉『東京復興ならず』/カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』/成長を続けたアガサ・クリスティと衰退の一途をたどる東野圭吾

 5月の連休明けからずっと忙しく、一昨年以来2年半の間、弊ブログを最低月1回更新してきた記録が途切れるピンチになった。そこで、このところ読んだ本(大半が小説で、うち半分以上がミステリだが)をいくつか取り上げて感想を軽くまとめてみる。

 まず、小説以外では2週間かけて少しずつ読み進めた吉見俊哉『東京復興ならず - 文化首都構想の挫折と戦後日本』中公新書2021)を読み終えたのは、東京五輪の開会式が行われた7月23日だった。著者は「もともとオリンピックシティ東京への批判」(本書295頁)として東京五輪開催が決まった2013年から企画を始めた本書をようやく今年4月に発刊したとのことだ。

 以下、中公のサイトから本書の紹介文を引用する。

 

東京復興ならず

文化首都構想の挫折と戦後日本

吉見俊哉

 

空襲で焼け野原となった東京は、戦災復興、高度経済成長と一九六四年五輪、バブル経済、そして二〇二〇年五輪といった機会のたびに、破壊と大規模開発を繰り返し巨大化してきた。だが、戦後の東京には「文化」を軸とした、現在とは異なる復興の可能性があった……。南原繁や石川栄耀の文化首都構想、丹下健三の「東京計画1960」など、さまざまな「幻の東京計画」をたどりながら、東京の失われた未来を構想しなおす。

 

出典:https://www.chuko.co.jp/shinsho/2021/06/102649.html

 

 「文化首都構想」とは言っても一筋縄ではいかない代物で、光の部分と影の部分がある。とはいえ「文化首都東京」が実現しなかったことは確かだ。ナオミ・クラインの「ショック・ドクトリン」をもじった「お祭りドクトリン」と著者が呼ぶところの1964年の東京五輪を契機に、東京は一極集中を強めて文化よりも経済の中心として巨大化していった。それが見直されたのが1970年代末の大平正芳政権時代で、大平は経済中心から文化中心へと重点を移そうと試みたが、1980年の衆参同日選挙の真っ只中の突然の死去によって、その試みを挫折した。再び経済重視の中央集権思考を強めたのが、1982年秋に田中角栄の力を借りて総理大臣についに成り上がった中曽根康弘であって、「民間活力の活用」、通称「民活」路線によるグローバル新自由主義路線を敷いた。1999年に都知事に就任しやがった石原慎太郎が言い出しっぺとなって執拗な招致活動が行われた「再度の東京五輪」は、1964年の夢よもう一度との意味の他に、1989年末から始まったバブル崩壊によって宙に浮いた臨海都市の開発に再度の弾みをつける「お祭りドクトリン」を狙ったものだったが、グローバル新自由主義が産んだ鬼っ子ともいうべき新型コロナウイルスに阻まれつつある。東京五輪は1940年のように中止にはならなかったが、2020年ではなく2021年に行われているが、大会期間中に感染が急拡大し、これまでで最多の新規陽性者数を記録しようとしている。

 アマゾンカスタマーレビューの数も少ないなど、あまり話題にはなっていない本のようだが、なかなか興味深く読んだ。

 あとは小説になるが、 1999年から2002年にかけて読んだアゴタ・クリストフの三部作である『悪童日記』、『ふたりの証拠』、『第三の嘘』(いずれもハヤカワepi文庫)を再読し、カズオ・イシグロの第6長篇にして、日本ではもっとも評判が高い『わたしを離さないで』(ハヤカワepi文庫)は初めて読んだ。

 後者は同じイシグロの『日の名残り』ほどには面白くなかった。ネタバレを避けるために内容は紹介しないが*1、イシグロ得意の「信頼できない語り手」の手法が用いられているとはいえず、誤読の余地が少なくエモーショナルな色合いが強い。イシグロ自身は本作では「信頼できない語り手」は使わず、ストレートな話者の一人称にしたと語っているようだ。その通りだと私も思う。またイシグロは本作がイギリスを舞台にしているにもかかわらず、自作の中でももっとも日本的な作品だと語ったとのことだが、なるほど、主人公たちが反乱を起こすでもなく運命を受け入れているあたりは「日本(人)的」かもしれないと思った。いずれにせよこの作品がイシグロの最高傑作であると仮にするならば、村上春樹も十分イシグロと張り合えるか、または村上の作品の方が良いのではないだろうか。ただ、村上には『日の名残り』は書けないだろう。私は『日の名残り』の方が『わたしを離さないで』よりもずっと良いと思う。ただ、弊ブログにも以前書いた通り、『日の名残り』は本邦では多くの読者たちに誤読されている。

 

www.hayakawa-online.co.jp

 

www.hayakawa-online.co.jp

 

 上記早川書房のサイトにも、読者を誤読に誘うような文章が掲げられているようだ。この煽り文では『日の名残り』はまるであの西岸良平の糞漫画『三丁目の夕日』みたいではないか。せめてこの小説を誤読しない程度には日本の読書家たちの読解力が改善されてほしいものだ。一言だけ書いておくと、『日の名残り』の主人公には、『わたしを離さないで』の主人公他の登場人物たちと同じくらいのエモーションの強度がある。それを「信頼できない語り手」が隠していることを読解できるかが読者の課題だ。

 あとはミステリ。多くがアガサ・クリスティで残りの少しが東野圭吾だが、東野圭吾がどんどん退歩する一方の作家であることを知ったのが、ガリレオシリーズ第8作の『禁断の魔術』(文春文庫)だった。この作品はまず短篇(あるいは中篇)として2012年に書かれ、のち文庫化に際して2015年に長篇に改められたという。

 

books.bunshun.jp

 

 本作は「理系ミステリ」とのことで、「科学技術の平和利用」がテーマのようだが、探偵役の湯川学がなぜか高校生に「レールガン」なる古典電磁気学を利用した兵器技術を教えたことが物語の発端になった。レールガンとは電磁気学ローレンツ力を利用した、主に兵器に用いられる技術だが、一発発射するとレールの金属がプラズマ化して損傷するなどメンテが大変なため、大国による軍事技術開発の長年の努力にもかかわらず実用化されていないようだ。

 大電流を流すために危険だし、どう考えても民生用の技術ではない。こんなものを本職の物理学者が高校生に教え込むという設定自体が「あり得ない」のだが、湯川学という名前の探偵役(「ガリレオ」)は、レールガンは人殺しのための技術ではないと主張する。それならなぜ「レールガン」という名前がついているのだろうか。

 以下はネタバレになるが、湯川から「レールガン」を学んだ高校生は卒業して大学に入るが、その途端に新聞記者だった姉が急死して大学を辞めてしまう。姉が死んだのは、彼女の取材の対象だった大物政治家との不倫の現場だったホテルで発作を起こしたところ、不倫の露見を恐れた大物政治家がホテルから逃げ出したために亡くなってしまったものだった。真相を知った弟は、レールガンを使って大物政治家を殺そうとする。小説は、湯川がそれを止められるかどうかの活劇を描いている。そこには推理の要素はほとんどないので、推理小説としての面白さは全くない。

 上記の筋立ては、私が愛好して止まない松本清張の短篇「捜査圏外の条件」の前半と瓜二つだ。清張の作品では犯人の姉ではなく妹が不倫の現場で見捨てられ、身元不明の死体になってしまった。犯人は、その復讐のために7年間自らの気配を消したのち復讐を遂げるが、妹が生前好んでいた流行歌「上海帰りのリル」から足がついてしまう。

 東野圭吾の「ガリレオシリーズ」では第5作(長篇では第2作)の『聖女の救済』が、1年間何もしないでやおら復讐を遂げる点で前記清張の「捜査圏外の条件」を連想させる。「捜査圏外の条件」は、前半部分で東野の『聖女の救済』に、後半部分で同じ東野の『禁断の魔術』に影響を与えている。東野自身、作家になる前に清張作品を愛読した時期があったらしいことを考慮すると、ここで指摘した清張の影響はまず間違いないだろうと私は考えている。

 しかし、清張と東野では結末が全く違う。清張作品では復讐を果たした犯人は殺人が露見して自殺するが、東野作品では自らが伝授した殺人技術によって復讐が成就することを阻止する。それで、姉を見殺しにされた若者は、復讐という名の殺人を犯さずに済んだ、良かった、良かった」というのが東野のコンセプトなのだが、果たして物語としてそれで良いのか。殺人未遂事件を起こした若者は逮捕され、その後の人生に明るい展望など描きようがないだろうし、昔総理大臣だった佐藤栄作を思わせる風貌の人物として描かれた政治家は、なんら罰を受けることなくのうのうと生き延びる。清張だったらこんなエンディングには絶対にしなかったはずだ。

 最悪なのは「ガリレオ」こと湯川学であって、私は湯川こそこの小説で一番の悪玉ではないかと思う。いうまでもなく、高校生に殺人兵器の技術を教え込んだからだ。湯川はこれを人殺しのための技術ではないと主張するが、「ガン」と名のついたこの技術が何に利用されるべきなのか、湯川は何も語っていない。これほど筋の通らない話はない。

 それに何より、本作は短篇あるいは中篇を引き延ばして改作した長篇であるせいか、文章が間延びしていて退屈する。ガリレオシリーズでは第3作(長篇第1作)の『容疑者Xの献身』が最悪の作品だと思うし、ブログ記事でもさんざんにこき下ろしてきたが、それでも読者を引きつける文章力があったし、トリックにはもののみごとに騙された。いわば、エネルギーは大きいがベクトルの向きがおかしな作品だった。

 しかし、『禁断の魔術』の間延びした文章にはいっこうに引き込まれない。エネルギー密度はスカスカで、ベクトルの向きは相変わらず間違っているという、取り柄が全くないミステリもどきになってしまった。東野圭吾は『禁断の魔術』を書いた50代には衰退の一途をたどっていたのではないか。

 その点は、「ミステリの女王」と謳われたアガサ・クリスティとは好対照だ。東野圭吾ノンポリであるのに対してクリスティは憎ったらしい保守派で、ことにデビューした1920年代前半の作品では、ヒロインがローデシア(現ジンバブエ)にある植民地主義セシル・ローズの墓参りをしたり(『茶色の服の男』)、犯罪者の子は悪人である可能性が高いとエルキュール・ポワロに言わせ、その通りの結末だったり(『ゴルフ場殺人事件』)、あげくの果てには「共産主義者アイルランド独立党と(イギリスの)労働党を横並びに一つの悪とみなしている箇所があって、これはいくらなんでもひどい」「政治音痴なところがある」と文庫本の解説者(杉江松恋氏)に酷評される始末だ(『秘密機関』)。ところが、こんな処置なしの人だったクリスティも、30年代、40年代(それぞれクリスティの40代、50代)と時代が進んで年をとるにつれ、若い頃の単細胞的な価値観に変化が生じる。たとえば、『動く指』(1943)は、その20年前に書いた『ゴルフ場殺人事件』と同じく、一人称の語り手のロマンスを盛り込んだミステリだが、『ゴルフ場殺人事件』で「犯罪者の娘は犯罪者」との偏見(あるいは差別思想)を臆面もなくひけらかしたのとは対照的に、語り手が「犯罪者の娘」と結ばれる。つまりクリスティは20年前に持っていた差別思想を事実上撤回している。このヒロインがなかなか個性的で、勉強は苦手でシェリーやワーズワースの詩やシェークスピアの戯曲はつまらない、でも『リア王』のゴネリルとリーガン*2は好きで、科目では数学が得意だという。おっ、と思ったのは、語り手とヒロインがともに中国の水墨画に感心する場面だ。若い頃のクリスティは、中近東だろうが極東だろうが見下す対象でしかなく、日本の「キモノ」はよく出てくるが良い描かれ方はしておらず、たいてい悪役が着ている。だから、クリスティ作品の登場人物が水墨画に感心するなんて、と思ったのだ。もっとも本作が書かれた1943年は第二次大戦中だから、当時のクリスティの日本観は推して知るべしだし、それは当然のことでもあるが。

 ただ、クリスティと東野圭吾を比較して思うのは、かつてのイギリスと今の日本という、ともに衰退国にありながら、クリスティの方は作品で試行を重ねながら自己の価値観や世界観も日々アップデートしている様子が作品から伝わってくるのに対し、30代後半から台頭して40代で大物にのし上がった東野圭吾は「犯罪者の家族は責任を負うべし」との思想を堅持するなど思考のアップデートが全く見られない上、決定的な成功を収めた作品で、愛する女性のために罪のないホームレスを虐殺した極悪非道の男の物語を「献身的な純愛」の物語にでっち上げる(『容疑者Xの献身』)という信じ難いほど差別的な思考を露呈した。その作品の大成功で勘違いしたのか、短篇または中篇を単に長篇に引き延ばしただけのスカスカの作品を発表し、そこでは高校生に危険な殺人兵器の作り方を教えた悪質きわまりない「物理学者」が、それは人殺しのための技術ではないなどと平然とうそぶき、自らが教えた殺人兵器を用いて、姉のかたきの極悪の政治家を殺そうとした青年を止めるという、いったい何を考えているのかと言いたくなるほどの「超駄作」を発表し、それを自ら「最高のガリレオ」などと抜かした。確かに実生活では復讐のための殺人などやってはならないが、それならなぜ「忠臣蔵」が今でも人気があったり、東野圭吾自身が影響を受けた松本清張が少なくない復讐譚を書いたのだろうか。それはフィクションでなら許されるのだ。スポーツで「死」や」「殺」などの言葉が普通に用いられるのと同じく、人間が誰しもなく持つ暴力性を解放する行為なのだ。このことは何もスポーツや大衆芸能ばかりではなく、「芸術」と呼ばれる分野でも例外ではない。それに東野のコンセプトによると、愛する女性のために罪のないホームレスを虐殺することは「献身的な純愛」だが、姉のかたきである罪深い大物政治家に対する復讐は、たとえフィクションであってもやってはならないことになってしまう。同じ名前の小山田圭吾と比較しても、どちらがより悪質な差別思想の持ち主かわからないくらいだ。こんな東野が日本では大物小説家として現在も通用しており、香港の政治活動家として有名な周庭も東野作品を村上春樹作品と並んで愛読していて、獄中に東野の小説を差し入れしてもらったと聞く。しかし東野の小説など反体制の政治活動家にとっては百害あって一利なしとしか、私には思えない。

 長いエントリを悪口で締めるのも気分が悪いので、クリスティの『メソポタミヤの殺人』が、やはり「信頼できない語り手」の手法を用いていて、今度はさすがに殺人犯ではないものの、思い込みで読者をミスリードするのに利用されている。クリスティはある時期からポワロものの長篇の語り手だったヘイスティングズの出番を激減させるが、これは明らかに成功だった。ヘイスティングズを語り手にした作品群では、ストーリーの構造がガラス張りと思われるほどミエミエで、早川書房の煽り文句のせいもあって読む前からどんな筋立てかわかってしまうほどだが、三人称の形式で登場人物の心理の動きをチラ見させる手法や、ヘイスティングズ以外の「信頼できない語り手」を用いた作品などで、読者を欺くことに確かに成功しているように思われる。但し、『メソポタミヤの殺人』は犯人がわかった(トリックはわからなかったが)。この作品は、ロマンスの要素がほとんどないことを除いて、ミス・マープルものの『動く指』とよく似た構造の筋立てだ(作品の成立は1936年の『メソポタミヤの殺人』の方が早い)。一人称の語り手を用いている点でも共通している。このように、クリスティ作品では時期の近い2つの作品の構造が似ていることが多い。似た小説を書きながら、少しずつ幅を広げていくのがクリスティのやり方だったようだ。

 こうして、私は東野圭吾の文庫化された「ガリレオシリーズ」を全部読み終えて、東野を読もうという気がすっかり失せてしまったのに対し、クリスティ作品は今後もストレス解消のために読み続けることになるだろう。もっとも、これからしばらくはクリスティ作品も断たなければならないほど仕事の予定が立て込んでいるのだが。本記事を書くのにも時間をかけ過ぎてしまった。

*1:この小説は予備知識なしに読むに限る。本邦では2016年に綾瀬はるか主演でドラマ化されたらしいが(TBS)、幸い視聴率は低かったらしい。

*2:リア王の娘の三姉妹の長女と次女で、悪役として有名=引用者註。

クリスティ『邪悪の家(エンド・ハウスの怪事件)』と『エッジウェア卿の死』/ハヤカワ「クリスティー文庫」の「裏表紙」は読むな!!!

 はじめにおことわりしますが、今回の記事はタイトルの2作の他、『アクロイド殺し』などのアガサ・クリスティ作品のネタバレが全開なので、これらのミステリ小説を未読でそのうち読みたいと想われる方は読まないで下さい。

 5月の連休明け翌週の月曜日(5/10)から昨日(6/18)までの40日間、馬車馬のように働いた。その間に読み終えた本はわずかに4冊で、うち3冊がアガサ・クリスティのミステリ。クリスティの長篇は翻訳なのに読みやすく(おそらくもともとの英語の文章が読みやすいのだろう)、延べ数時間で読めるので、時間がない時に暇を見つけて読むのに都合が良いことを今年に入って知ったのだ。この40日間に読んだのは、ポアロ(ポワロ)ものの第一短篇集『ポアロ登場』(ハヤカワ文庫)とポアロもの長篇第6作の『邪悪の家(エンド・ハウスの怪事件*1)』(同)、それに『エッジウェア卿殺人事件(エッジウェア卿の死*2)』(新潮文庫)の3冊。なおクリスティの他に読んだ1冊は、クリスティよりもさらにお手軽な東野圭吾ガリレオシリーズ第7作『虚像の道化師』(文春文庫)だった。この40日間は軽読書しかできなかったのだ。だから弊ブログの更新もこれが今月最初になる。なお今月はあと一度、連休明け最初の土日に第1回と第2回を公開したまま連載を中断している黒木登志夫『新型コロナの科学』(中公新書)の第3回の公開を予定している。

 短篇集『ポアロ登場』は面白くなかった。コナン・ドイルで一番良いのが第一短篇集の『シャーロック・ホームズの冒険』であることとは正反対で、今までに読んだクリスティのミステリの中で一番つまらなかった。クリスティの短篇集でもミス・マープルものの第一短篇集『ミス・マープルと13の謎(火曜クラブ)』*3は結構面白く、ことに12番目に置かれた「バンガローの事件」は、私にいわせれば「三人称小説版『アクロイド殺し』」というべき、非常に印象的な作品だった。なのに短篇集でのポアロものはさっぱり。ポアロヘイスティングズのコンビは、ホームズとワトスン(ワトソン)のコンビほど短篇で強い印象を読者に与えることはできず仕舞いといったところだろうか。

 今回のメインは、現在の日本で多くの作品の版権を独占していてスタンダードになっている早川書房の「クリスティー文庫」のタイトルで呼ぶと『邪悪の家』と『エッジウェア卿の死』の2作だが、これらはクリスティの最高傑作『アクロイド殺し』の6年後から7年後にあたる1932年と1933年の作品だ。この2作には多くの共通点があるが、出来は後者の方がすぐれている。

 私は、早川書房の他社から出ている翻訳が図書館の棚にあったら、そちらを優先して借りることにしている、その理由は、ハヤカワ版にはネタバレを回避する努力が不足していて、解説文や序文*4、それに裏表紙の文章などによって犯人が事実上わかってしまう弊害があるからだ。解説文は本文を読み終えたあとでなければ読まないが、そこに未読の作品名が出てきた時には素早く読み飛ばして頭に入れないようにするなどの、無駄な努力を強いられることがある。

 しかしついつい目に入ってしまうのがカバーの裏表紙に書かれた作品紹介だ。今回読んだ長篇2作はいずれもこのパターンで、裏表紙によって犯人の見当がついてしまった。『エッジウェア卿の死』は、図書館にハヤカワ文庫と新潮文庫の2冊があったので新潮文庫の方を借りたのだが、両方を手にとってうっかりハヤカワ文庫の裏表紙が目に入ってしまった。しまった、またやられたと思ったが後の祭り。新潮文庫版の本文を読み始めて、あの人が犯人ならトリックはこれしかないだろうな、とすぐに気づき、結局その通りの結末だった。ミステリを読んでトリックも簡単に見破る機会など、マニアの方なら結構あるのかもしれないが、私にとっては滅多にないことだ。読み終えたあとアマゾンや読書メーターを覗いてみたら、私と同様にトリックがわかったと仰る方は結構多かった。ミステリにおいては古典的なトリックを用いた作品だといえる。

 『邪悪の家』の方は、犯人の見当がついたら、その犯人ならば殺人自体のトリックは必要ないものだったのでもっと興醒めだった。しかも、ハヤカワのクリスティー文庫版には目次に各章のタイトルが書かれていて、それを見ても、やっぱりその展開かよ、と確信を強めた。結局その予想を全く裏切らない、あまりにも予想通りの展開だった。ただ、英語の愛称のトリックには気づかなかったが、そもそもMagdalaなんて名前の女性がイギリスに本当にいるのだろうか、とそっちの方が気になってしまった。マグダラといえば新約聖書に出てくるマグダラのマリアだが、ローマ・カトリックでは聖女でありながら「罪深い女」ともされているという話は、宗教にはまるで疎い私も仄聞していた。また、ヒロインのニックは "Old Nick(悪魔)" として悪名高かった祖父に育てられ、それでニックという小悪魔ならぬ「孫悪魔」の意味を込めた愛称で呼ばれるようになったという。

 そのニックが岬に建てられた「地の果ての家」で何度も命を狙われていずれも危機一髪で助かったというのが、原題の "Peril at End House" という意味だろう。ネットで調べると、『邪悪の家』というのは詩人で翻訳家の田村隆一(1923-1998)の訳本で用いられたタイトルで、それ以前に松本恵子(1891-1976)が1956年に大日本雄弁会講談社(現講談社)の「クリスチー探偵小説集」中の1冊として邦訳を出した時には『みさき荘の秘密』と題されていたようだ。タイトルは「最果ての家で危機一髪」といった意味であって、今までの邦訳本のタイトルからあえて選ぶなら、創元推理文庫版で用いられている『エンド・ハウスの怪事件』が一番良いと思う。少なくともハヤカワ「クリスティー文庫」の『邪悪の家』というタイトルを、私は好まない。

 ここでネタバレを書くと、何度も命を狙われたというのは狂言であって、いざ「惨劇」が起きた時に死ぬのは別人であり、その犯人は今まで命を狙われていたはずの「ニック」ことマグダラ・バックリーだった。ハヤカワ文庫の裏表紙には、何度も命を狙われたあと惨劇が起きたと書かれているだけだが、その「惨劇」で殺されたのは今まで何度も命を狙われたのとは別人に違いないとピンときた。これはミステリでは定番のトリックだから、同様の感想を持った人はネットで見た各種感想文を見ても大勢おられた。

 さらにハヤカワ文庫の目次を見ると、AからIとか "J" とか "K" とかいう、人間を表す符号が書いてあるが、これが登場人物のAからIまでの9人ではなく、10人目の人物が犯人として浮上するも、真犯人はその "J" でもない、これまで全く疑われていなかった "K" という人物だという意味であろうことは容易に想像がつく。そしてこの想像は裏表紙の文章から受ける印象とみごとなまでに整合するので、ああ、そういう話なんだろうなと想像がついたという次第。あとは、その予想が当たっていたことを確かめる読書だった。殺されたのは、主人公ニックの従妹、マギー・バックリーだったのだ。マギーを殺したのはニックに違いないと私は確信した。

 本作で一番気づきにくいのは、フーダニット(誰が殺人を犯したか)ではなく、ニックとマギーの本名がともにマグダラであり、ニックはマギーになり代わって遺産を受けようと企んでマギーを殺したという動機だ。

 各種感想文を読むと、この「名前(愛称)」のトリックまで見破らないとわかったことにはならない、などと言って必死でクリスティを擁護している読者が少なからずいる。確かに本作最大のトリックはそこにあるのだが、なぜそんなにむきになるのか私にはさっぱりわからない。そんなことを言うなら、なぜクリスティが普通に用いられるMagdalenaではなくMagdalaなどという、聖書イギリス人にはほとんどいないであろう名前をつけ、彼女の愛称を「ニック」にしたのかというあたりまで理解できなければ、クリスティの意図が本当にわかったことにはならないのではなかろうか(もちろん私にもクリスティの真意などわからない)。少なくとも本作の犯人を見破ることが極めて容易であることは間違いない。

 なお、ネット検索で知ったが、1990年代に活躍したテニスのマレーバ三姉妹の末妹の名前がマグダレナであり、彼女の愛称は「マギー」だったらしい。普通にはマギーといえば正式な名前はマーガレットであることが多いが、マグダレナがマギーならマグダラもマギーであってもおかしくない。しかし、マギーからマグダラにたどり着くのは普通には困難だ。だからクリスティはニックに、一族にはマグダラという名前が多いと言わせている。だが私はクリスティが読者に与えたそのヒントには気づけなかった。そんなに難しい謎ではないから、気づいた方もおられるに違いないと思うが。

 作品全体としていえば、『エンド・ハウスの怪事件(邪悪の家)』はクリスティ作品の中では出来の良い部類には決して入らないだろう。

 『エッジウェア卿の死』は、その『エンド・ハウスの怪事件』とはっきり言って同工異曲の作品だが、出来は『エンドハウス』よりはずっと良い。それは、この作品の「悪のヒロイン」ジェーン・ウィルキンスン*5のキャラクターが、ニック・バックリーと比較して、より一層「エッジが立っている」ところにある。つまりヒロインの「悪の魅力」においてジェーンの方がニックよりも上なのだ。2人ともどうしようもない極悪人ではあるが。

 それに、『エッジウェア卿の死』は『アクロイド殺し』との関連が強い。まずタイトルが似ている。"The Murder of Roger Ackroyd" と "Lord Edgware Dies" だ。直訳すると「ロジャー・アクロイドの殺害」と「エッジウェア卿死す」。さらに、この長篇はこの記事の最初の方で触れた短篇集『ミス・マープルと13の謎』の12番目に置かれた作中の白眉の短篇「バンガローの事件」を下敷きにしている。ヒロインはともにJaneという名のactress(女優)だ。今ならactor(俳優)と表記すべきかもしれないが。

 そして、最初に書いた通り「バンガローの事件」は、もし実行された場合「お馬鹿な女優」のはずのジェーン・ヘリアが犯人になるところだった。その事件について語るジェーンは、自分が犯行を企んでいたことを隠してしゃべり、最後にミス・マープルに真相を指摘される。私が「三人称小説版『アクロイド殺し』」だと評するゆえんだ。

 ジェーン・ウィルキンスンはそのキャラクターを同じ名前のジェーン・ヘリアから継承している。しかし当然ながら本作の語り手ではない。そんなことをやったら『アクロイド殺し』の二番煎じにしかならない。ジェーンは語り手どころか途中から出てこなくなる。そして最後の最後に「意外な犯人」としてポアロに名指されるが、うっかりハヤカワ文庫の裏表紙を読んでしまった私には意外でも何でもなかったし、前述の通りメインのトリックも見破っていた。

 もっとも、クリスティ作品を何作も読んでいると、ことに本作をよく似た趣向の前作『エンド・ハウスの怪事件(邪悪の家)』を読んだあとだと、仮にハヤカワ文庫の裏表紙を見ていなかったとしてもジェーンを疑ったことは確実だし、その場合トリックも見破れた可能性が高いとは思う。それは『邪悪の家』でも同じで、どのみちあの展開になったのだからハヤカワ文庫の裏表紙を読んでいなくともニック以外を疑うことはできなかったに違いない。しかしそれでも、ハヤカワ文庫の裏表紙たちには「余計なことをしやがって」という恨みしか持ち得ないのである。

 『アクロイド殺し』は、中学生の頃に語り手のシェパード医師を疑いながら読んでいた途中に、本当にそのシェパードが犯人だったことを級友にネタバレされて読むのを止め、今年に入って46年ぶりか47年ぶりに初めて全部を読み通したのだった。その後、駄作との悪名高い『ビッグ4』は読んでいないが、『青列車の秘密』は読んでいる途中に、『邪悪の家』と『エッジウェア卿の死』については前述の通り、読む前から犯人の見当がついた*6。その最後の『エッジウェア卿の死』の最後の第31章「ある人間の記文」で、語り手のヘイスティングズが処刑された犯人であるジェーン・ウィルキンスンからポワロ*7に送られてきた「手記の写し」を紹介している。その中でジェーンは「あなたは時折り、扱われた事件の記録を出版なさっておられます。でも、犯人自身の手記を、出版なさったことはないと存じます」(新潮文庫版『エッジウェア卿殺人事件』291頁)と書いている。つまり、ジェーンは「『アクロイド殺し』なんて知らないよ」と言っているわけだ。このあたりが興味深かった。

 クリスティはこの作品の終わり近くでヘイスティングズを南米に送り返してしまい、次のポアロもの第8作『オリエント急行殺人事件』にはヘイスティングズは出てこない。この『オリエント急行殺人事件』でクリスティはようやく『アクロイド殺し』の呪縛から完全に離れ、次のステップに進んだように思う。

 こう考えると、『エッジウェア卿の死』は、クリスティが『アクロイド』の呪縛を断ち切るプロセスが直接に反映された作品だといえるのではないか。ヘイスティングズの南米への強制送還も、その一つの表れだろう。ヘイスティングズは確かに愛敬のあるキャラクターだが、一方で作品をマンネリ化させる要因にもなっていた。このあと、長篇では『ABC殺人事件』や『カーテン』ほか1作、短篇では多数の作品にまだヘイスティングズが出てくるらしいが(いずれも未読)、ヘイスティングズが出てこなくなればクリスティ作品のパターンが変わり、犯人当ても今までのような連戦連勝はできなくなるかもしれないなと思った。

 正直言ってポアロもその作者のクリスティも鼻につく。クリスティは極端な大英帝国主義者であり、フランスに対する対抗心が強く、アメリカを見下していて同国の台頭を快く思っておらず、日本・中国・インドなどのアジア諸国に対しては差別意識がはなはだしい。クリスティの頭の中にはこのような階層構造があったに違いないことが強く感じられるで、これまで何度神経を逆撫でされたかわからない。クリスティがもう少し長く生きていたらマギーことマーガレット・サッチャーを熱烈に支持したに違いない。

 しかし作品は読みやすく、赤川次郎が『そして誰もいなくなった』のハヤカワ文庫版解説に書いた通り、一晩で読み通せる長さだから多忙期の軽読書には適している。もう少しお世話になるとしよう。

*1:創元推理文庫版のタイトル

*2:ハヤカワ「クリスティー文庫」版のタイトル

*3:ミス・マープルと13の謎』は、私が読んだ創元推理文庫版で、イギリス版のタイトルに基づく。ハヤカワの「クリスティー文庫」では『火曜クラブ』であり、アメリカ版のタイトルに基づく。

*4:ハヤカワ「クリスティー文庫」では、クリスティの孫のマシュー・プリチャードが書いた序文がいくつかの作品の冒頭に掲載されているが、多くの場合ネタバレが含まれているというとんでもない代物だ。

*5:ハヤカワ文庫版ではウィルキンソン

*6:しかし、ポアロものではない『そして誰もいなくなった』は、途中で死んだことになっていた誰かが犯人だということを事前に知っていたにもかかわらず、それが誰かはわからなかった。候補として考えた3人のうちの1人ではあったが、その中で最初に「死んで」しまったせいもある。しかし私は『アクロイド』がアンフェアだとは全く思わないけれども、『そして誰もいなくなった』には、クリスティ自身が「信頼できない語り手」になっているとしか言いようがない若干のアンフェアさが認められることと、あの「死体運搬」の時に死体ではなく生体であることに気づかれないことなどあり得ないという2つの理由によって、『そして誰もいなくなった』を『アクロイド殺し』よりも上位に置くことは絶対にできないと考えている。だから今までのところ、『そして誰もいなくなった』はクリスティ作品のナンバー2であり、ナンバー1は依然として『アクロイド殺し』だ。とはいえ、『そして誰もいなくなった』の後半の緊張感は素晴らしい。

*7:新潮文庫版の表記に基づく。

黒木登志夫『新型コロナの科学』を読む(第2回)/日本の新型コロナ対応の「ベスト10」と「ワースト10」

 前回の続き。引き続き黒木登志夫著『新型コロナの科学』中公新書2020)より。

 

 本書第4章が「すべては武漢から始まった」、第5章は「そして、パンデミックになった」、第6章は「日本の新型コロナ」、同第7章は「日本はいかに対応したか」とそれぞれ題されている。これらの章に描き出された経緯のうち、第4章で武漢ウイルス研究所から新型コロナウイルスが漏れ出した疑いがあるとの著者の指摘は、知らなかったので興味深かった。

 著者の疑念の根拠は、同研究所に勤める中国人学者の石正麗氏が、実験室の生物学的安全レベルを表すBSL (Biosafety level) で「BSL2」に分類される実験室で研究を行っていたことによる。BSL2は「許可された人のみ入室可。室内には安全キャビネット、滅菌器などの設置が必要」とはされているが、「室内を陰圧にする必要はない」というレベルだ。この環境で研究していたことを石氏本人が証言した。これに対して著者は下記のように書いている。

 

 BSL2で実験していたとは! 最後の証言には、正直驚いた。空気圧を低くする必要のないBSL2だとウイルスが外に漏れる危険性がある。素性のわからない危険ウイルスはBSL4、少なくともBSL3で使うべきである。国立感染研の基準では、新型コロナウイルスは気圧が陰圧に調整されているBSL3で実験を行うことになっている。感染者用病室もBSL3と同じように、陰圧に調整されているし、防護服を着ることになっている。空気圧を陰圧にする必要のないBSL2だと外に漏れる危険性がある。武漢ウイルス研究所は、かなり気楽にBSL2で実験していることがわかった。

 

(黒木登志夫『新型コロナの科学 - パンデミック、そして共生の未来へ』(中公新書2020)122頁)

 

 この「武漢ウイルス研究所からの漏洩」説は、ネトウヨによって「ウイルス兵器」などという陰謀論説がばら撒かれたために却って注目されなくなってしまったが、上記のようなお粗末な実験環境に起因する漏洩が全世界的な感染の発端だった可能性は確かにありそうだ。何しろ中国当局は、当初武漢での感染を隠蔽しようとしていた。習近平政権が全く信用できないことは間違いない。

 だが、武漢由来の最初のウイルスは感染力がのちの変異株ほど強くなかった。最初の大きな変異はヨーロッパで起きた。それがいわゆる「欧州型」と呼ばれるD614G変異株である。日本の第1波は、前半に武漢由来のD614による小さなピークがあったあと、D614Gの比較的大きなピークがあった。このD614Gこそ昨年4月8日の緊急事態宣言発出を必要とした原因になった変異株である(にもかかわらず、現在は「従来型」と呼ばれている)。本書では、D614Gは「G614」と表記されている。G614とD614Gの両方の表記があることは、昨年12月21日の忽那賢志医師の下記記事などで確認できる。

 

news.yahoo.co.jp

 

現在はウイルス表面にあるスパイク蛋白というタンパク質の614番目のアミノ酸残基がアスパラギン酸(D)からグリシン(G)に置き換わる変異で感染性が増した「G614(D614G)」と呼ばれる新型コロナウイルスが世界で流行するウイルスの主流の株として入れ替わっています。

 

出典:https://news.yahoo.co.jp/byline/kutsunasatoshi/20201221-00213726/

 

 私がメインブログの『kojitakenの日記』に毎週公開しているグラフに当てはめると下図の通り。

 

f:id:kojitaken:20210508124603p:plain

国内のCOVID-19新規陽性者数及び死亡者数 (2020/3-2021/5, 7日間移動平均対数=NHK)

 

 武漢型(D614)のピークは、7日間移動平均では昨年3月14日に1日平均46.6人でピークの極大となり、これがピークアウトするかに見えた同3月20日(のちのちまで問題視された例の「緩み」の3連休の初日)あたりから陽性者数が急拡大した。もちろんこれは3連休の2週間前頃の感染を反映したものであって3連休中の人の移動が引き起こしたものではない。3連休の人の緩みは、翌4月上旬に陽性者数の急増となって表れた。また時の安倍晋三政権が、習近平の来日が中止に決まったあとに中国や韓国からの人の流れの遮断をしながら、欧州やアメリカからの人の流れを遮断するのが遅れたのも感染拡大を悪化させた大きな要因の一つだ。なおこの段落は私の意見を書いたものであって、著書からの引用ではないことをおことわりしておく。

 著者は、一般に第2波とされる時期までに現れた波について、それぞれのピークは、次に述べるゲノム解析からもはっきりした特徴をもっているので、第一波、第二波、第三波と、三つに分けるのが正しいはずである。しかし、国際的にも、棒グラフでもはっきり分かる二つの山(引用略)を、それぞれ、第一波、第二波と呼んでいる。ここでは、第一波の武漢型とヨーロッパ型を区別する必要があるときには、それぞれを、第一波武漢型)と第一波(ヨーロッパ型)と区別することにした。(本書130-131頁)

と書いている。私の『kojitakenの日記』でも、最初はヨーロッパ型を「第2波」と表記してきたが、多くが昨年夏の波を第2波と呼び始めてからはそれに合わせて表記を改めた。

 今回の核心部はここからである。日本では第1波が欧米と比較して軽かった。また他の東アジア諸国も同様だった。そのことから「ファクターX」の議論が起きた。そのあたりは本書第6章第6節「ファクターX」に書かれている。TBSでやった日本語の「これはペンです」と英語の "This is a pen" の発音で、話し手の前に置かれた紙の動き方が全然異なるという懐かしい話も出てくる。この話の言い出しっぺは本書と同じ中公新書から『感染症・増補版』を出している井上栄氏で、この本は昨年読んだので下記記事を公開した。発音の件も同記事で取り上げている。

 

kj-books-and-music.hatenablog.com

 

 しかし、日本の新型コロナ対応自体はほめられたものではなかった。以下、本書第7章の冒頭部分を引用する。

 

 前章で、日本のコロナ感染の広がりについて見てきた。日本はコロナにどのように対応したのか。司令塔もないまま、硬直化した行政にしばられ、PCR検査に反対し、中途半端に行動を規制し、それでも感染者数、死亡者数が最小限に収まったのだから、官邸スタッフがいみじくも言ったように、「泥縄だったけれど結果オーライだった」としかいいようがない。10月までの段階で、日本の対応のどこが問題だったのか、厳しく検証してみよう。(本書159頁)

 

 韓国や台湾は動きが早かったのに日本は遅かった。以下引用を続ける。

 

 韓国と台湾は、驚くほどすばやく対応した。台湾は、武漢当局が原因不明の肺炎発生を発表したその日(2019年12月31日)のうちに対策を開始し、1週間のうちにすべてを整えた(第8章)。韓国は、1月20日、最初の感染者が武漢から入国して1週間後には、PCR検査キットの開発と大量生産を医療メーカーに要請し、2週間後には1日あたり10万キットを生産した。それによりドライブスルーやウォークスルー検査など独創的な検査態勢が可能になった。検査をバックアップする病院体制もすでに整備されていた。日本の初期対応は韓国、台湾と比べて明らかに遅かった。スピード感のない日本の対応は、今日まで続いている。(本書161-162頁)

 

 以後、アメリカをはじめ世界の主要国にはあるCDCCenters for Disease Control and Prevention, 疾病対策予防センター)が日本にはないこと(本書162頁)、専門家会議が分科会に格下げされ、そのメンバーに感染症の数理分析の西浦博の名前がなかったこと(同163頁)、尾身茂を初めとする専門家たちが「驚くほどものわかりがよくなり、政府の方針にお墨付きを与える立場に甘んじてしまった」(同163頁)ことなど、矢継ぎ早に批判の言葉が繰り出される。以下本書からさらに引用する。

 いわゆる第二波の最中、東京都の小池百合子知事までもが、心配は必要ないという説明を繰り返した。その理由は、検査が増えたから感染者が増えたので、想定内の数字だというトランプ大統領も同じことを言っていた)。医療機器は整っているから大丈夫という説明であった。

 7月になり感染が急速に増えているのにもかかわらず、人の移動、集まりを認める方針がつぎつぎに出された。その最たる施策が1兆7000億円の巨額の予算を組んだGo Toキャンペーンである。かくして、専門家たちのお墨付きを得たGo To政策は、国民の政策をよそに、東京を外して7月22日にスタートした。

 政府の中枢部もおかしくなった。国会は閉会し、最重要問題を議論する場はなくなった。安倍首相(当時)に代わって、菅官房長官(当時)が説明するようになったが、国民の理解を求めるわけでもなく、現状の分析を語るのでもなく、上から目線で一方的に政府の方針を伝えるだけである。この組織改編を一番喜んだのは、新型コロナウイルスであった。

 われわれは、専門家としての見識ある説明を求めているのだ。専門家が、正確に理解できるよう現状を語り、その上で、政治家が誠意をもって説得力ある言葉で対策を語る。政治家と科学者の信頼と協力がなければ、パンデミックの難局は乗り切れない。

 

 本書には書かれていないが、第2波の致死率は低かった。日本国内では第1波の致死率が5.3〜5.4%だったのに対し、第2波の致死率は0.9〜1.0%だった。第2波の致死率に関しては著者自身が山中伸弥教授のウェブサイトに掲載した下記リンク先に言及がある。

 

 以下引用する。

致死率が世界で低下していることを考えると、致死率を抑え、感染を広げる⽅向にウイルスが変異したのかも知れない。このような変異はウイルスの⽣存に叶っているので、あり得ることだ。(上記リンク先より引用)

 

 実際、確か東京・埼玉型と呼ばれていたと思うが、この第2波の原因となったウイルスは弱毒性の変異株だったという研究結果が報じられたことを覚えている。しかし第3波のウイルスは決して弱毒性ではなかったし、現在の第4波で脅威とされて恐れられているN501Yに至っては強毒性の変異株だった。長い目で見ればウイルスは弱毒化するのだろうけれど、ウイルスの変異自体はランダムに起きるので、一時的には強毒性の変異株が猛威をふるうこともあり、それが今だということだろう。それを、ウイルスは必ず弱毒化するかのような発言を一時期テレビで大々的にやらかしていたのが、かの京大の万年准教授・宮沢孝幸だった(もちろん宮沢の悪口は本書には書かれていないが)。

 論外の宮沢はともかく、第2波のウイルスが弱毒性で感染状況が予想されたほど悪くならなかったことが、政府や東京都・大阪府など自治体の緩みに繋がったのではないか。私はそう考えている。実際、第3波が急拡大している時に、菅義偉が頑なに何もしなかったのはあまりにもひど過ぎた。第3波の減衰と第4波の立ち上がりが重なったことが、N501Yを検出する際のS/N(信号雑音比)を下げてしまったことは間違いあるまい。

 この第7章には前回取り上げた第7節「選択もされず集中もされず」が含まれている。また第8節「最大の問題はPCR検査」と第9節「官僚たち」については次回取り上げる。

 今回は、第7章最後の第10節「ベスト10、ワースト10」を取り上げて締めくくりたい。

 著者が選んだベスト10の第1位は「国民」だ。「国民は、要請レベルにもかかわらず、行動を自粛し、マスク着用、手洗いなどを励行した。経済的に苦しい人もよく耐えた」(本書184頁)と称えられている。

 第2位以下は、「三密とクラスター対策」、「医療従事者」、「保健所職員」、「介護施設」、「専門家の発言」、「中央、地方自治体の担当者」、「ゲノム解析」、「在外邦人救出便」、「新型コロナ対応・民間臨時調査会」と続く。第6位の「専門家の発言」については「少なくとも、分科会に編成替えまでの専門家は、使命感から積極的に発言し、国民に警鐘を鳴らし続けた。われわれも専門家の発言に注意していた」(本書184頁)、第7位の「中央、地方自治体の担当者」については「医療従事者だけではなく、関係したすべての公務員は、一生懸命仕事をした」(同)、そして第10位の「新型コロナ対応・民間臨時調査会」については「この報告書がなければ、コロナ禍の中、政府内で何が起こっていたか、どこに問題があったかを知ることはできなかった」(本書185頁)とコメントされている(他の順位にも全部コメントがついているが、引用を省略する)。

 一方、ワースト10の1位は「PCR検査」。これについては次回取り上げる。第2位は「厚労省」で、「国民を守ることよりも行政的整合性を守ることに重きをおき、融通性に欠けていた。PCR検査では国民に背をむけ、裏で政治工作をした」(本書185頁)とこき下ろされている。第3位は「一斉休校」で、「文科大臣、専門家の意見を聞かずに、安倍首相の側近内閣府官僚の進言によって断行された一斉休校によって、教育の現場、父系の生活は大きな影響を受けた」(同)とのこと。もっとも私の意見は若干異なり、休校自体は悪くなかったが、官邸の動機が不純だったと考えている。今井尚哉は、東京五輪を無事開催にこぎ着けるためにこの策を思いつき、安倍晋三がそれに飛びついたのが真相だろうと私は推測している。第4位は「アベノマスク」で、「マスクを配布すれば国民の不安は消えますという首相の側近内閣府官僚(佐伯耕三=引用者註)の信玄によって実行されたマスクは、160億円もの税金の無駄遣いであった」(同)とのことで、これはその通りだと私も思う。第5位は第3位と第4位の元凶でもある「首相側近内閣府官僚」であり、「証拠に基づく政策(EBPM)の重要性が言われているなか、彼らは大臣、専門家を無視し、政策を首相に進言した。それを受け入れた首相(安倍晋三=引用者註)は、さらに問題である」(本書185-186頁)とのこと。この厳しい糾弾には快哉を叫んでしまった(笑)。

 第6位「感染予防対策の遅れ」では「3月のヨーロッパ型ウイルスの流入予防対策に後れを取った。第二波の最中にGo Toキャンペーンを実行し、感染を広げた」(本書186頁)との罪状が挙げられている。確かに、武漢(中国)よりもヨーロッパに感染の中心が移っていることがニュースでも報じられている時期に、安倍政権は中国や韓国からの人流を止めることばかりやっていて、欧米から流入し放題になっていることには私も大いにイライラさせられた。これは安倍晋三が感染抑止よりもネトウヨ受けばかり意識していたためであろう。Go Toも、菅義偉固執した悪印象が非常に強く、事実菅はコロナ対策に関しては安倍にも劣る劣悪な宰相ではあるが、Go Toキャンペーンは安倍政権時代に始められたことを忘れてはならないだろう。安倍の最悪の置き土産だった。

 第7位は「分科会専門家」で、専門家はベストとワーストの両方に出てくる。著者曰く、「分科会委員に格下げされてからの専門家は、政府の政策にお墨付きを与えるだけの立場に甘んじてしまった。専門家が正論を言わなくなったら専門家ではない」(本書186頁)とのことで、これもまっとうな批判だろう。第8位は「スピード感の欠如」で、「初動態勢から今日に至るまで、すべての対応が遅すぎた。早かったのは、学校一斉休校とアベノマスクだけである」(同)、第9位「情報不足」は「感染情報は非常に限られていた。感染の実態(院内感染者、死亡者数、発症日別統計など)の発表がなかった。政策決定に至る過程も不透明であった」(同)、第10位「リスクコミュニケーション」は「現状を科学的に分かりやすく説明し、質問に応えるリスクコミュニケーションがなかった。国民はテレビの情報番組に頼らざるを得なかった」(同)と続く。

 それでも、第1波と第2波の頃は日本に運があり、陽性者も死亡者も少なかった。しかしそれで安倍政権や菅政権がコロナを甘く見てしまい、それが第3波以降だけで9千人もの死者を出す*1惨状につながってしまった。しかも第4波では大阪府などで医療崩壊が発生するなど、状況は本書が書かれた時点と比較しても、ずっと深刻化してしまったのだ。(この項続く)

*1:昨年11月1日から今年5月8日までに発表された死亡者数は8,990人に達した。

黒木登志夫『新型コロナの科学』を読む(第1回)/日本では感染症の分野が「選択もされず集中もされず」、その結果新型コロナ対応に立ち遅れた

 連休中に本を7冊ほど読んだが、その中から黒木登志夫著『新型コロナの科学 - パンデミック、そして共生の未来へ』(中公新書2020)を何度かに分けて取り上げる。

 上記中公のサイトから、本書の概要を引用する。

 

新型コロナの科学

パンデミック、そして共生の未来へ

黒木登志夫 著

 

未曾有のパンデミックはなぜ起きたか――。世界を一変させた新型コロナウイルス。本書は、治療薬やワクチン開発を含む研究の最前線を紹介。膨大な資料からその正体を探る。ロックダウン前夜のベネチア雲南省の洞窟、武漢ウイルス研究所、ダイヤモンド・プリンセス号と舞台を移してウイルスの変遷を辿り、見えない敵に立ち向かう人々のドラマを生き生きと描く。日本政府の対応にも鋭く迫り、今後の課題を浮き彫りにする。

 

 著者の本を読むのはこれが2冊目だ。2016年に同じ中公新書の『研究不正 - 科学者の捏造、改竄、盗用』を読んだ。これは、例の「STAP細胞事件」から2年後に出版された本だが、当時は本ブログの開設前だった*1。同事件における捏造の犯人だった小保方晴子には今も熱烈な「信者」がいるが*2、著者は小保方を含む日本人の研究不正実行犯に対しては実名を使わずにイニシャルで表記している(たとえば小保方晴子は「HO」)。

 その『研究不正』の著者と同じ人が書いていると気づいたのは、本書を8割方読んだ時だった。本書の中に研究不正への言及があり、引用資料に著書自身の『研究不正』が挙げられていたことによって初めて気づいた。

 著者は感染症の専門家ではなくがんの専門家で、東北大学東京大学ウィスコンシン大学、WHO国際がん研究機関、昭和大学でがんの基礎研究を行った。2001年から2008年まで岐阜大学学長、2000年から2020年まで日本癌学会会長を務めた。山中伸弥氏のサイトに著者のページ(下記URL)がある。山中氏が尊敬する癌学者であり、サイエンスライターでもあるとのことだ。

 

 本書は昨年末の刊行だから、本文には日本の第2波までしか書かれておらず、「再校時の追記」に第3波への言及があるものの、第3波による陽性者の爆発的増加は本書刊行のあとのことだから、当然ながらそれ以降については書かれていない。

 しかし、昨年秋までの総まとめとして実に良い本だ。昨年の経緯については、直近のことだからよく覚えているつもりだったが、読んでいて「そういえばそんなことがあったな」と記憶を喚起される箇所も少なくなかった。

 結局、日本は今回のコロナ禍において、欧米よりもずっと少ない感染者数で現在に至っているにもかかわらず、「コロナ敗戦」としか言いようがない惨状を呈している。他のアジア諸国と比較して、島国という有利差があるにもかかわらずウイルスの抑え込みに失敗し、前首相・安倍晋三が根拠もなく信じていた「優秀なわが国の科学者がワクチンを開発する」という願望も現実とはならなかった。その原因として著者が挙げているのが、第7章第7節のタイトルにもなっている「選択もされず集中もされず」という新自由主義政策だ(但し、著者自身は「新自由主義」という言葉を一切使っていない)。以下、本書から引用する。

 

 公衆衛生に関する行政組織もまた、政府の「選択と集中」政策の中で、選択もされず集中もされず、予算と人員は切られ、縮小の一途をたどっている。感染症対策の中核を担う国立感染研、地方衛生研究所、保健所は、すべて縮小されている。(略)予算は10年間で約17%減少し、研究者も18人減の307人となった(2019年度)。(略)保健所もまた大幅に(45%)減少した。(略)

 地方衛生研究所は、2003年から2008年までの5年間だけで、職員は13%減、予算は30%減、研究費は47%も減少している。サポーターもなく、合理化の「草刈り場」になっている地方衛生研究所は、この10年間にさらに状況が悪化しているであろうことが想像に難くない。そのような中、地方衛生研究所が新型コロナウイルスのゲノムを解析し、感染予防の基礎データを提供していることに感謝したい。

 さらに、2019年から厚労省は、公立・公的病院を統合し、2020年秋までに病院を減らす政策を準備していた。しかし、コロナによる医療崩壊の危機に際し、さすがの厚労省も、「コロナウイルス感染症拡大防止の観点」から、再編統合の期限延期通知を出した(3月4日)

 このような一連の動きの背景にある「選択と集中」「グローバル化」については、第13章で改めて触れる。

 

(黒木登志夫『新型コロナの科学 - パンデミック、そして共生の未来へ』(中公新書2020)173-174頁)

 

 上記引用文の最後に言及された本書第13章から、該当箇所を以下引用する。

 

 成長神話の信者たちは、無駄なものは切り捨てろという。成長しつつある、あるいは成長が期待できるものを選択し集中しろという。しかし、選択もされず、集中もされず、消えそうになっているものがたくさんあるのだ。コロナ禍の中で、人々が頼りにしている数々の組織もその一つだ。感染症関係の予算は削られ、自治体で保健を担う衛生研究所や保健所は縮小された。医療は効率化を強制され、空いている病床は廃止された。しかし、突然現れた新型コロナウイルスによって、われわれは、何が本当に大事か気がついた。選択と集中は、企業の戦略としては重要かもしれないが、国民を守る上では、選択も集中もできない大切なものがあるのだ。

 

(黒木登志夫『新型コロナの科学 - パンデミック、そして共生の未来へ』(中公新書2020)291-292頁)

 

 「選択と集中」は、新自由主義経済政策の核心の一つだろう。菅義偉の経済政策のブレーンには代表的な新自由主義者である竹中平蔵がいる。また、日本の政治勢力の中でもっとも過激な新自由主義政策をとっているのが大阪維新の会及びその国政政党版たる日本維新の会であることは常識だろう。

 日本が東アジア諸国の中で新型コロナウイルス対応において最低にランクされ、その日本国内でもっとも新型コロナ対応が拙劣だったのが、大阪維新の会が牛耳る大阪府だったことは偶然ではない。

 新自由主義にかまけた日本、中でも大阪府は、手痛い「敗戦」を喫したのである。(この項続く)

*1:メインブログの『kojitakenの日記』でも取り上げていない。

*2:彼女の人気には、芸能界から転身した某男性政治家の「信者」を連想させる根強さがある。

東野利夫『汚名 -「九大生体解剖事件」の真相』(文春文庫)を読む(改題・再掲)

 東野利夫(とうの・としお)さんの訃報に接した。訃報は下記ツイート経由で知った。

 

 

 東野氏の著作『汚名 -「九大生体解剖事件」の真相』(絶版)を2012年に読んだことがある。当時、まだこのブログは開設していなかったので、メインブログにしている『kojitakenの日記』に長文の記事を載せた*1。だが、記事中のリンク切れが多数あるし、何よりもう9年前の記事なのでアクセスがしづらくなっている。そこで著者への追悼の意を込めて、以下に再掲することにした。再掲に当たって、リンク切れ及びそれに伴う部分を含み、若干の文章を書き換えた。

 なお、下記の書評では著者の東野利夫さんに対してかなり批判的なことも書いているが、追悼文において故人の批判をタブーとするようなことがあってはならないというのが私の信念だ。ご了承のほどをお願いしたい。


 

 2012815日付の毎日新聞のサイトに下記記事が掲載された*2

九大生体解剖事件:「戦争は人を狂わす」最後の目撃者語る


 1945年5月、大分、熊本両県境に墜落したB29搭乗の米兵8人が次々と旧九州帝国大(現九州大)医学部に運ばれ、やがて死亡した。連合国軍総司令部(GHQ)が「類例ない野蛮さ」と表現した「九大生体解剖事件」。医学生として立ち会った福岡市の医師、東野利夫さん(86)は何を目撃し、何を思ったのか。「戦争は人を狂わせる。悲惨と愚劣しか残らない」。67年後の今、東野さんは改めて平和の尊さを訴える。

 東野さんは1945年、同大医学部に入学。約1カ月後、配属された解剖学教室で、事件は起きた。「手術する場所を貸してほしい」。外科医から解剖学教室の教授に連絡があった。数日後、米兵の捕虜2人が運ばれてきた。麻酔がかけられ、肺の手術が始まった。透明の液体が体内に入れられたが、その液体が代用血液として試された海水だったことは後に知った。

 実験手術だった。軍の立ち会いの下、4回にわたって8人に上り、うち2回を目撃。無傷の捕虜にも施され、終わると血液は抜かれ、息絶えた。「ただ不思議で怖くて、緊張して体が固まった」。

 東野さんはGHQの調べを受け、裁判の証言台にも立った。主導していたとされる軍医は空襲で死亡、執刀した外科医も拘置所で自殺した。

 「軍人と医者が残虐非道なことをしたが、これは事件の本質ではない」。東野さんは独自に調査中、気が付いた。「当時の心理状態は平和な時代には考えられないほど、おかしな状態だった」。戦争末期の空気と混乱は医者をも狂わせた。

 事件の目撃者が東野さんだけとなり、講演にも力を入れたが、体力の衰えで数年前から休止した。時代は移りゆくが、平和への思い、願いに変わりはない。「非戦を誓った憲法9条は必ず守ること。そして捕虜に対し学内の医師がメスを持ったという事実を正面から受け止め、母校の敷地に8人の慰霊碑を造ってほしい」【金秀蓮】

 

【ことば】九大生体解剖事件

 1945年5~6月、墜落したB29に乗っていた米軍捕虜計8人が、旧九州帝国大医学部で実験手術を受け死亡した。西部軍司令部は8人について、広島へ移送後に被爆し死亡したとしたが、GHQの調査などで発覚。計28人が起訴され、5人の絞首刑を含む計23人が有罪判決を受けた。

 

毎日新聞 20120815日 2102分(最終更新 0815日 2256分)

 

 この記事について、2ちゃんねるでは「金秀蓮」という記者の名前に条件反射したヒステリックな反応が起き、生体解剖事件は捏造だったと証明されたんだろ、などと息巻く向きもあった。しかし、捏造であることが明らかになったのは、この事件に絡んでセンセーショナルに取り沙汰され、遠藤周作の小説『海と毒薬』の終わり近くにも取り入れられた「人肉試食」(生体解剖された米軍飛行士の肝臓を摘出してそれを西部軍関係者が試食した疑惑)だけだ。生体解剖事件はれっきとした歴史的事実である。

 この記事はさほど長くないためか、論点が明確ではないのだが、記事に取り上げられている東野利夫さんは1979年に『汚名 「九大生体解剖事件」の真相』(文藝春秋)を出版している。この本は1985年に文春文庫入りしたが、現在は絶版になっている。

 200510月に九州朝日放送(福岡)が放送した『テレメンタリー2005・許されざるメス~九州大学生体解剖事件』で東野さんの証言が取り上げられ、それが同年度のテレビ朝日系列「テレメンタリー」の優秀作品賞をとって、翌200686日放送のテレビ朝日ザ・スクープ』で上記番組のダイジェストとともに東野さんと『ザ・スクープ』のキャスター・鳥越俊太郎の対談が放送された。

 このテレビ番組の影響もあってか、この件は当時、一部でそれなりに注目された。翌年になって、上記東野さんの著書がネットオークションにかけられているのを見た私はこの本を入手した。しかし、なぜか本を読まずに今まできてしまった。私がネットオークションで本を入手したのは、記憶が正しければ2007年夏で、安倍晋三参院選に惨敗して、そのひと月あまり後に突然の辞任をする前の頃だったので、ネットで安倍晋三disることに熱中するあまり、本を読む機を逸してしまった。その後、本は押し入れに眠っていた。

 最初に引用した毎日新聞の記事は、その眠りを覚まし、長年放置していた宿題をやれと私に命じているように思われた。そんなきっかけで、本を読み始めた。東野さんが単行本を出版してから33年が経っていた。

 東野利夫さんは、九州帝国大学医学部解剖学教室の平光吾一教授(1887-1967)の下で学ぶ新入医学生だった(19454月入学)。平光教授は、生体解剖事件で手を下した人ではないが、手術を実行した同大第一外科の石山福二郎教授に解剖実習室を貸し、4日に分けて計8人に対して行われた生体解剖(実験手術)の第3回目に立ち会ったことなどから罪に問われて逮捕され、重労働25年の刑を受けている(1955年出所、東京で開業したのち、1967512日死去)。東野さんが本を著した動機は、師である平光教授の無念を晴らしたい、というものだった。

 東野さんは最初と2回目の実験手術の場に居合わせたが、初回の手術を目撃していたら、背後に平光教授がいた。教授は東野さんと目が合うと室外に出て行き、東野さんはその後を追ったが、研究室の前まで来た時、教授は東野さんを振り返り、「君、君はよくあんな手術を平気で見れるね」と言った*3

 東野さんは最初と2回目の実験手術の場に居合わせたが、初回の手術を目撃していたら、背後に平光教授がいた。教授は東野さんと目が合うと室外に出て行き、東野さんはその後を追ったが、研究室の前まで来た時、教授は東野さんを振り返り、「君、君はよくあんな手術を平気で見れるね」と言った*1

 3度目の実験手術の場に、東野さんは居合わせていない。3度目は、また捕虜が来ているという知らせを受けた平光教授が解剖実習室に行くと、開頭手術に手こずっていた実行犯の第一外科教授・石山福二郎から質問を受けた。脳神経の部位がどこにあるかも理解していないままに手術を行っていた石山は平光教授の説明を理解できなかったため、平光教授は自らの研究室から脳の標本を取りに行き、解剖実習室に戻ってきたら、脳の術野からかなりひどく出血していた。平光教授は標本で切開の場所が間違っていることを説明し、「ちょっと無理だよ、その手術は」と言ったが、出術は続行された。平光教授は部屋を出て行き、その後ほどなく、捕虜は死亡した*4

 この件以外にも訴因はあるが、解剖実習室を石山教授に貸し、手術への助言を行ったことが平光教授が重い罪に問われる原因になった。

 ここで事件の背景に触れておく。ネットで見つけた「北沢杏子の月替わりメッセージ」中の下記の文章がよくまとまっているのでこれを借用して引用する。

 事件は、5月5日にマリアナ基地から出撃したB29爆撃機の1機が、九州・久留米市郊外の太刀洗飛行場を爆撃して帰投中に日本軍戦闘機によって被爆。搭乗員11名がパラシュートで投下したことから始まる。村人たちは猟銃、竹槍はもとより、草刈鎌や鍬まで持ち出し、復讐しようと殺気立った。こうしてアメリカ搭乗員1名は自決、1名は警防団の銃撃で死亡、1名は樹に引っ掛かって大怪我を負ったものの、9名が福岡市西部軍司令部に護送された。

 東野利夫著『汚名──九大 生体解剖事件の真相(文春文庫)』によると、9名の捕虜の処遇について、俘虜管理責任者である防空担当加藤直吉参謀のもとに、東京の本部から暗号電報が入った。「1.東京の俘虜収容所はすでに一杯である/1.従って敵機搭乗員全員を送る必要はない/1.情報価値のある機長だけ東京に送れ/1.あとは、各軍司令部で適当に処置せよ」との内容であった。数日後、大森卓軍医(九大医学部外科出身)は加藤参謀から、こう相談を持ちかけられた。「いずれにせよ、捕虜の奴らが銃殺になるのは時間の問題。医学のほうで何か役に立てる方法はないかね」と。こうしてワトキンズ機長だけが東京に送られ、あとの8名は九州大学平光(ひらこう)吾一教授の解剖実習室で5月17日から6月3日の間に、2名、2名、1名、3名の順に生体解剖され、肺、心臓、肝臓などを切除、他の諸器官も標本として切り取られ、死亡した。

 

(「北沢杏子の月替わりメッセージ 2006. 1月」より)

 

出典:http://www.ahni.co.jp/kitazawa/sei/kantougen0601.htm

 

 東野さんの本を読んでいてやり切れなくなるのは、戦後、事件の発覚を恐れた西部軍参謀の佐藤吉直やその上司である軍司令官の中将・横山勇らによる隠蔽工作や取り調べの過程における責任逃れである。彼らは当初、捕虜たちを西部軍の本拠である広島に送り、広島で原爆投下にあって全員死亡したというでっち上げを行った。しかし、全員の遺骨があったりしたことがかえって怪しまれ(広島の犠牲者の多くは身元不明だった)、内部告発もあって事件は発覚した。そして取り調べの過程において佐藤と横山は互いに責任をなすり合っていたのだった。事件の責任も大半は空襲で死んだ小森軍医と自殺した石山教授になすりつけられたが、この事件においてもっとも責任が重いのは西部軍、ひいては「1.東京の俘虜収容所はすでに一杯である/1.従って敵機搭乗員全員を送る必要はない/1.情報価値のある機長だけ東京に送れ/1.あとは、各軍司令部で適当に処置せよ」などという暗号電報を送りつけてきた大本営であることは当然だろう。

 なお、戦後事件が発覚した当時、新聞でセンセーショナルに報じられたという「人肉(米軍捕虜の肝臓)試食」は米軍によるでっち上げだった。1948827日に言い渡された判決で、人肉試食の罪で起訴された5人の被告は全員無罪判決を受けている。

 遠藤周作の代表作といわれる小説『海と毒薬』(1957年)には、その末尾に「人肉試食」の場面が出てくるが、それは史実とは異なるわけである。

 東野利夫さんは講演でよく「遠藤周作氏の『海と毒薬』はこの事件とは関係ありません」と言ったのだそうだ。確かに人肉試食の事実はなかった。そして遠藤周作自身が1962年に下記のように書いている

 青春のころ、九州のその街にいき、西日本新聞の草葉氏に協力していただいてこの事件の細かい内容をメモに取りつづけた。大学病院のなかもうろつきまわった。生体解剖が行われたという建物はまだ残っていたが、その屋上にのぼると黒い街と黒い海とがみえた。しかしこうして集めた事件の内容メモをぼくはその後小説にとってそんなものは必要じゃない。捨ててしまった。生体解剖が行われたという現実の行為以外は登場人物もそこに至る過程もぼくは勝手に考え、自分で勝手に創っていかねばならぬ。……もちろんこんな医師(勝呂と戸田)は現実のあの事件のなかにはいない。

 しかしあの小説を書いてから、ぼくは実際に事件に参加した人たちから手紙をもらった。そのなかのある人たちは、ぼくがあの小説によって彼等を裁断し非難したのだと考えたようである。だが、とんでもない。小説家には人間を裁く権利などないのである。ぼくはその人たちに返事を書いたが、この誤解はぼくにとって大変つらい経験だった。

 

遠藤周作『海と毒薬』(新潮文庫2003年改版)206頁、佐伯彰一氏の解説文より)

 

 東野利夫さんの『汚名 「九大生体解剖事件」の真相』を読んだあと、遠藤周作の『海と毒薬』を再読して、遠藤氏の言葉が真実であることを実感した。『海と毒薬』には九州帝大医学部解剖学教室の平光吾一教授に相当する役柄の登場人物は出てこないことはもちろん、手術を実行した石山福二郎に相当する登場人物に関しても設定が大きく変えられている。小説では、軍部と癒着していたライバルの外科教授に対抗しようと焦った橋本教授が、前医学部長の親類に当たる田部夫人の手術で点数稼ぎをしようとしたものの手術に失敗して患者を死なせてしまい、追い詰められた揚げ句に生体解剖に手を出したというストーリーで、生体解剖を行った教授も橋本教授だけではなく、ライバルの権藤教授も別の日に手術を行うことになっていた。しかし、史実では石山福二郎自身が軍部と強く癒着して権勢を誇った医者であり、もちろん生体解剖の直前に前医学部長の近親者を手術のミスで死なせてしまった事実もない。4度の実験手術(生体解剖)は全て石山教授が執刀し、小森卓軍医が立ち会った。小説で強い印象を残す看護婦に相当する人物も存在しないし、捕虜を殺しても良心の呵責を感じない戸田医師にいたっては神戸の六甲小学校とN中学を卒業したという設定だが、これは遠藤周作自身の経歴と一致する。

 遠藤周作の『海と毒薬』は、2012年13月にテレビドラマ化されて話題になった山崎豊子の『運命の人』などとは全く異なる。『運命の人』は最後の第4巻を除いて現実に起きた「西山事件」(外務省機密漏洩事件、1972年)を、細部の一部を変えながらなぞっていて、だからこそナベツネ渡邉恒雄)に批判を受けることになったが、遠藤周作の『海と毒薬』は創作の度合いがきわめて高い、第一級の文学作品である。「人肉試食」の部分はむしろこの小説にとってはなくもがなの部分であって、あの部分がなくとも完成度の高い名作になったといえるのではないか。当該部分があるために、「この人肉試食の件は史実とは異なる」という注釈をつけざるを得ないのが惜しまれる。

 ただ、東野さんが『海と毒薬』に強くこだわるのには理由がある。『海と毒薬』が『文学界』19576月号、8月号、10月号の3回に分けて発表された直後、『文藝春秋195712月号に、ほかならぬ東野さんの恩師・平光吾一元九州帝大教授が「戦争医学の汚辱にふれて -生体解剖事件始末記-」と題した寄稿文を発表したのである。この小論は文春文庫で読めるらしいが未読だ。だが、ネット検索でこの小論に書かれている平光氏の主張に対する批判を見つけた。それは、『社会医学研究』20092月号に掲載された滋賀医科大学の西山勝夫教授の総説「『15年戦争』への日本の医学医療の荷担の解明について」である*5。以下引用する。 

 戦後7年経った平光吾一(元九州帝国大学医学部解剖学教授、重労働25年の量刑)の「医学の進歩はこのような戦争中の機会を利用してなされることが多い。その許されざる手術を敢えて犯した勇気ある石山教授が、自殺前せめて一片の研究記録なりとも残しておいてくれたら、医学の進歩にどれ程役立ったことだろうか」という見解には、ニュルンベルク医師裁判にみられるような人間・生命の尊厳、人権や医の倫理についての認識や検証の跡は見られない。

 

 私は残念ながら東野さんの意には沿えず、上記引用文中の平光元教授の主張に賛成することは到底できない。西山教授による手厳しい平光教授批判は妥当と考える。平光教授が受けた量刑は過重だったとは思うが、同教授に責任なしとはいえないというのが私の結論だ。

 東野さんの本の末尾には、東京に移送されたために生体解剖を免れたB29のワトキンズ機長と東野さんが1980年に行った対談が掲載されている。これは、1979年発行の単行本には掲載されておらず、1985年発行の文春文庫版でしか読めない。この対談でワトキンズ機長は次のように述べている。

死んでいった部下たちは可哀そうだったが、ナチスがやったような残虐な殺され方ではなく、麻酔をかけられてわからないようになって死んでいったのがせめてもの私の救いです。

 そうだろうか。私だったらそんな死に方は真っ平御免だ。このワトキンズ機長の言葉を、当時大学に入りたてだったとはいえ、事件に関わった人が注釈なしで載せることは果たして妥当といえるのだろうか。そう思った。

 この記事の最初の方で言及した、テレビ朝日系で2006年に放送された『ザ・スクープ』の動画も私は見たが、ここにも気になる言葉があった。平光教授は下記のように述懐していた。

日本国土を無差別爆撃し、無辜の市民を殺害した敵国軍人が殺されるのは当然だと思った。ましてただ一人の倅をレイテ島で失った私にすればそれが戦争であり自然のなりゆきだと信じていた。

 この平光元教授の言葉を受けて、2006年、80歳に達していた東野さんはこう語った。

その頃日本人はアメリカに強い激高心を持っていた。医者が人命にかかわる人体実験をしたことは悪い、絶対に悪いけれども、それを間違えさせるほど戦争は人間を狂わせた。

 だから「戦争はいけない、憲法9条を守りましょう」という東野さんの主張につながるのだろう。だが、そんな結論で良いのだろうか。

 私には、1979年に上坂冬子の取材に答えた、この事件の被告にして絞首刑の判決を受けた鳥巣太郎助教授(のち減刑され釈放)の言葉の方が重く響く。以下、鳥巣徐教授の言葉を取り上げた下記ブログ記事から引用する。

ameblo.jp

 

遠藤周作の小説『海と毒薬』のモデルとなった九州帝国大学生体解剖事件を、アメリ国立公文書館に眠る資料をもとに再構成した一編。

 

‘Record of Trial in the Case of United States vs K. Aihara, et 29, Part 1, 1940 - 1948’及び‘Exhibits in the Case of United States vs K. Aihara, et 29, Part 1, 1940 - 1948’なる上坂が依拠したと思しき資料はいまでも現地で閲覧可能だが、この先の電子化もまずないであろうことから、この事件に関しては本書がいまでも基本資料となるはずだ(ただし中公文庫版では仮名を用いている)。

 

周知のように米軍捕虜8名が生きながらにして臨床実験のために解剖され殺害された九州大学が舞台の事件で、大本営から価値ある「捕虜」以外は「適当に処置せよ」と通達され対応に困っていた軍に対し、偕行社病院副院長格であった小森卓軍医が言外に人体実験に使用したいと希望し受け入れられたところからこの事件は幕をあける。

 

当時「搭乗員」は国際法における「捕虜」とみなされないがゆえ(「空襲時ノ敵航空機搭乗員に關スル件」)、捕虜以下の取扱いを受け多数が無残に処刑されており、また搭乗員ではないが捕虜に対する生体実験も行われたという日本軍の性格を見るならば(立川 2007:116-119,113*6)、この事件もその一環として考えることもできそうだが、重要なのは研究者もしくは医者の側からのアプローチと、それを助長するかのような怨嗟の雰囲気、つまりB29による爆撃の被害への怨恨がこの事件を比較的抵抗なく惹起せしめたということだ。

 

確かに一般的なイメージとは異なり九州大学教授石山福二郎が自身の研究のために積極的に捕虜獲得に尽力したという事実はない。むしろ石山は小森から話をもちかけられた際、単純に医療手術だと誤解していた節があったくらいなのだが、とはいえ「生体解剖」なる小森の意図を実行に移すわけだから弁護のしようがない。とにかくこれが医学と研究者の問題であることは注意する必要がある。そして捕虜への私刑じみた行為がままあり、それが許容されていたということも。

 

このあたりは丹念な上坂の叙述を追ってもらえばよいのだが、実は本書は「生体解剖」の実態もさることながら、取り調べおよび裁判の様子、また死ぬまでこの事件に対し思いを馳せてきた弟子たちの様子など、事件のその後にも読みどころがある。

 

作者が、個人として組織にあらがうことは無意味なのではないかと、生体解剖に一貫して消極的な反抗を示していた鳥巣太郎に問うている。昭和54年のことである。「それをいうてはいかんのです」と、彼は声を荒げて反論した。

 

「どんなことでも自分さえしっかりしとれば阻止できるのです。[…]言い訳は許されんとです。[…]とにかくどんな事情があろうと、仕方がなかったなどというてはいかんのです」

 

事件から約35年。彼がいうのはきわめて真っ当で、それでいて時として困難な身の処し方である。生体解剖であろうとよくある日常であろうと、取るべき道にさほどの差はないようだ。

 

出典:https://ameblo.jp/mothra-flight/entry-10302897868.html

 

 引用文中、生体解剖を阻止したかったけれどもできなかった鳥巣元助教授の悲憤と痛恨がにじみ出た言葉をボールド体にした。『ザ・スクープ』には鳥巣元助教授のご子息で自らも医者の鳥巣要道さんが、父は事件について何も語らなかったと述懐するシーンが出てくる。記事が指摘する「医者の側からのアプローチ」は必ずやあったに違いないと想像させるのは、平光教授が『文藝春秋』に書いた「医学の進歩はこのような戦争中の機会を利用してなされることが多い」という文章である。

 

 長いこの記事の最初に紹介した、この件を取り上げた毎日新聞の記事を論評した下記ブログ記事から引用する。

apeman.hatenablog.com

 

(前略)記事中に次のような一節があります。

「軍人と医者が残虐非道なことをしたが、これは事件の本質ではない」。東野さんは独自に調査中、気が付いた。「当時の心理状態は平和な時代には考えられないほど、おかしな状態だった」。戦争末期の空気と混乱は医者をも狂わせた。


かなり短くまとめられているため、証言者の言わんとすることがかなりわかりにくくなっています。ただ、記事のタイトルとあわせ、「戦争末期の空気と混乱は医者をも狂わせた」が記者の伝えようとするメッセージであることは明らかです。

生体解剖を目撃した証言者が長年の思索の果てにたどり着いた結論であるのならば、それには相応の敬意が払われねばなりませんが、他方で戦後世代が簡単に「戦争の狂気」と総括するのには問題があります。(後略)

 

出典:https://apeman.hatenablog.com/entry/20120824/p1

 

 残念ながら、「戦争末期の空気と混乱は医者をも狂わせた」というのは東野さんのメッセージであり、それを毎日新聞の金秀蓮記者はもちろん、2006年に『ザ・スクープ』のキャスターを務めた毎日新聞OB鳥越俊太郎氏もそのまま受け売りしている。これが私の理解である。

 最初に東野利夫さんの本を読み始めた時の動機からは残念ながらかなり離れた結論にたどり着いてしまったが、自分を偽るのは信条に反するので、感じ考えたことを記事にした次第。

 最後に、東野利夫さんの著書も上坂冬子氏の著書もともに絶版になっているのは残念なことだ。版元からの再版を期待したい。

*1:https://kojitaken.hatenablog.com/entry/20120826/1345957386

*2:http://mainichi.jp/select/news/20120816k0000m040050000c.html(リンク切れ)

*3:東野利夫『汚名 「九大生体解剖事件」の真相』(文春文庫,198565-66

*4:前掲書88-92頁の記載より。原著では石山福二郎は「石村吉二郎」の仮名で表記されている。また、当記事の論旨に沿って表現をかなり変更した。

*5:http://avic.doc-net.or.jp/AVICJRHCPW/Organization%20meeting/Nishiyama_09_26-2-011.pdf

*6:立川京一,2007,「旧軍における捕虜の取扱い」,『防衛研究所要』第10巻第1号,防衛研究所.99-142頁(http://www.nids.go.jp/dissemination/kiyo/pdf/bulletin_j10_1_3.pdf=リンク切れ)=引用者註

『アクロイド殺し』の○○トリックは「史上初」ではなく40年前にチェーホフが使っていたが「イギリスで初めて麻雀シーンを登場させた小説」だったらしい

 前回取り上げたアガサ・クリスティの『アクロイド殺し』で一番驚かされたのは、まさか半世紀前にクラスメートの心ないネタバレによって最後まで読み切れなかったあの本が、最近になって犯人を知らないままに読んだ同じクリスティの何冊かの本よりもはるかに面白かったことだ。

 前回も書いた通り、中学生の頃に予備知識なしで読み進めていた『アクロイド殺人事件』(中村能三が訳した新潮文庫版のタイトル)で、私は真犯人を疑っていた。今ではありふれたトリックらしいが、当時の私はシャーロック・ホームズの初期作品(短篇集2冊と長篇2冊)のほか、ヴァン・ダイン(『グリーン家殺人事件』)やエラリー・クイーン(『Xの悲劇』『Yの悲劇』)など、ごく少数の海外の古典的名作しか知らなかった。今回読了後、予備知識がほとんどないのに真犯人を疑って読んだ読者がどれくらいいるかと思って『読書メーター』の書評を全部見てみたら、結構いた。もちろんその大多数は最近の日本のミステリで同様の○○トリックを知っていた人の感想だったが、そうではなくミステリなどほとんど読まないという人でも、あの人自身が真犯人ではないかと疑った人たちは結構いたようだ。つまりクリスティはそのような書き方をしていた。

 このことをよく表現していたのが、古い新潮文庫版についた下記「アマゾンカスタマーレビュー」だ。

 

yutaitoo

★★★★☆ 丁寧に読みすぎると犯人がわかってしまう

Reviewed in Japan on November 25, 2011

 

クリスティの作品は、トリックそのものに無理があるもの(『そして誰もいなくなった』の再現性のないトリックなど)や、犯行形態の必然性に無理があるもの(『ABC』のハイリスクすぎる連続殺人など)が多く、基本的にあまり好きではないのだが、この『アクロイド』はそういう意味では無理がなく、すんなりと納得できた。

 

賛否を巻き起こした話題のトリックであるが、直木賞作家の道尾某などの読むに堪えない低レベルな作品に比べて、洗練度は桁違いである。

 

ただし、わりと無防備に犯人をほのめかす記述が意外に多いため、伏線を見逃すまいと丹念に丁寧に文章を読み進めるタイプの読者の方には、早い段階で犯人が分かってしまう可能性が高いと思う。

 

早いテンポでまず一度読了し、再読して納得する、という読み方がお勧めかもしれない。

 

出典:https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R36M3NXF7I7KI9

 

 やはりそうか。私が最初に(途中まで)読んだのは中学1年生の頃だったと記憶するが、文庫本はやたらと時間をかけて(何日も、あるいは1週間以上)読んでいた。最初から真犯人を疑っていたわけではないが(例の「空白の10分」など全く気づかなかった*1)、読み進めていくにつれ、あの○○が怪しいという心証が強まっていった。今にして思えば、それは作者が多く繰り出したほのめかしのために違いない。しかしクリスティはほのめかしは多用するものの、物証のヒントはなかなか出さない。

 だから、同じ新潮文庫版についた、下記の酷評のレビューにも一理あると思った。

 

長い道

★☆☆☆☆ 犯人の設定はフェア。手がかりの出し方がアンフェア。

Reviewed in Japan on August 14, 2018

 

一応、犯人は途中で分かりました。わかったんだから手がかりは出ているんです。ただその出し方がアンフェア。

アンフェアな出し方をしたので、記述が不自然な場所が散見します。

 

クリスティの手がかりの出し方は、基本的にずるいです。きちんと出す気が最初からないと思いますね。中でもこの作品は一番ひどいです。

 

ミステリが好きで、古典と呼ばれる作品(クイーン、クリスティ、ヴァンダイン、カー、ドイル)はほとんど読みましたが、犯人がわかったのに、こんなに後味の悪い作品は皆無です。個人的にはワースト1位です。

 

しかも、この作品を批評すると「犯人がわからなった腹いせだ」みたいな反論をする人の多いこと。

「だから、犯人はわかったんだって。わかったけど、納得できない書き方なんだって」

と言い返したいです。

 

出典:https://www.amazon.co.jp/-/en/gp/customer-reviews/R3N2594407EY4D

 

 本作では、仮に真犯人の見当がついた場合でも、そのアリバイ崩しはなかなか困難だ。たとえばハヤカワ文庫版144頁で秘書のレイモンドが「アクロイドさんは録音機(ディクタフォン)を買うことを検討されていたんです」と語る。録音機はもちろんアリバイ作りの常套手段となる機器だが、レイモンドはすぐに「アクロイドさんは購入を決断できなかったんです」と言って、購入を否定してしまっている。しかしアクロイドはディクタフォンを購入していた。それを読者が知らされるのは大詰めの第23章(ハヤカワ文庫版408頁)になってからだ*2。さらに、フローラ・アクロイドの「9時45分にアクロイドに会った」証言も障害になる。フローラは、ポアロが指摘した「5人全員が隠し事をしている」と言ったうちの4番目に隠し事が暴かれた登場人物であって、その時点で「9時45分」の証言が覆された。こういうアリバイ崩しはどう考えても読者が合理的思考から導けるものとはいえないのではないか。

 ともあれこの時点でフローラがこそ泥ではあったものの殺人犯ではないことが明らかになり、隠し事が明らかにされていないのは真犯人1人に絞られる。そして、真犯人の隠し事(真犯人はある人物を隠していた)が終盤の第24章で初めて暴かれたあと、続く第25章の最後で真犯人がポアロに名指される。このあたりの畳みかけるような展開はさすがにスリリングだ。

 実は、真犯人は5人のうち真っ先に些細な隠し事をポアロに責められているが、これは別にアンフェアではなく作者の巧妙なミスディレクションだろう。5人とも隠し事が示された以上、もっとも些細な隠し事をしていた人物のそれをリセットしてノーカウントにするのは当然だから、このミスディレクションをアンフェアだということはできない。しかし、ディクタフォンの購入に踏み切れなかったはずのアクロイドが実は買っていて、それを知っていたのは犯行に用いた真犯人を別にすれば、ひそかに捜査していたポアロだけだったことがあとで示されるのは、いささかアンフェアだというほかない。

 とはいえ、この手のご都合主義はミステリにはつきものだ。些細なアンフェアさはあるとはいえ、私は下記のレビューに軍配を上げたい。

 

森 郊外

★★★★★ クリスティーの本格物の最高傑作!

Reviewed in Japan on February 13, 2009

 

クリスティーなら本書と「そして誰もいなくなった」、この2作を読めば充分だろう。他の作品はこの2作から格段に落ちる。といって、クリスティーが悪いのではなく、この2作品が群を抜いて優れているからだが。

 

後に執筆された作品群の多くが、エラリー・クイーンディクスン・カーの作品に較べるとどうしても本格推理ものとしては落ちる感じがするのは、読者に与える手がかりが少なく、その一方で(犯人が探偵に対して仕掛けるトリックではなく)作者が読者に対して仕掛けるミス・ディレクションによって誤魔化される感が強いからだが、本書は読者に充分すぎるほどの手がかりを与えながら(アンフェアだという人は、いったいどこを見てアンフェアだと言ってるのだろう?)、最後の最後であっと驚かせる趣向がすごいのだ。

 

この驚愕のラストに匹敵する作品は、私が知る限りでは、エラリー・クイーンの「Yの悲劇」と「レーン最後の事件」、それにモーリス・ルブランの「813」だけだ。

 

出典:https://www.amazon.co.jp/-/en/gp/customer-reviews/RA3JIIRVVBA0H

 

 作者が提示した手がかりに気づいていてもいなくても、あるいは今回の私のように読む前から真犯人を知っていても、第25章の末尾に至るクライマックスは確かに素晴らしい。とはいえ、中学1年生の時に旧友のネタバレにさえ遭わなければ大金星を挙げられたかもしれないのになあ、とそれだけは残念だ。しかしそうなっていたら本作を再読(途中からは初読だが)することもなく、従って本作の真価はわからなかっただろうから、これで良かったのかもしれない。

 なお上記レビューに挙げられている『レーン最後の事件』は、やはりネタバレの被害を受けてしまったために今に至るまで読まずにいる作品だ。意外な犯人の他の代表例(「××が犯人」)だが、意趣返しにネタバレをやっておくと、以下の本論(ここまでは長い長い前振りなのだ)と密接な関連がある。だからそれを知りたくない方は続きを読まない方が賢明だ。

 ここからが本論だが、新潮文庫版についたカスタマーレビューと比べて、ハヤカワ文庫版の読書メーターの方は、もう2000件近くも感想文があるにもかかわらず、似たような感想文ばかりであって、このサイトの利用者の間には強烈な同調圧力がかかっているんだなあ、まるでTwitterで特定の政治家や政党の「信者」たちが日々垂れ流している「呟き」とそっくりだなあ、と呆れてしまった。

 それで、本作と広義では同じ手法に括られることがあるカズオ・イシグロの『日の名残り』の読書メーターを改めて眺めてみると、相変わらずの「誤読の殿堂」ぶりだった*3。「信頼できない語り手」の語りをそのまま信頼してしまって、老境に達した執事の静かな物語だ、などと思い込んでしまった読者たちばかりであることには呆れ返る。海外の純文学の翻訳書を読もうとする程度には文学好きの人たちでもこのレベルなのだ。いかに日本社会が強烈な同調圧力に締めつけられているかがよくわかって絶望的な気分になる。

 『アクロイド殺し』についた「読書メーター」の感想文でも、ただ一言「フェアかアンフェアかといわれたらフェアだ」と書いただけのものや、ハヤカワ文庫版につけられた笠井潔のわかったようなわからないような解説文(ここで笠井は、手記を一人称小説だと読者に思い込ませたのが本作最大のトリックだと主張している)を手放しで礼賛したり(中には笠井の解説文の主旨をそのまま自らの感想文にしている例まであった)と、驚き呆れるばかりの「金太郎飴」状態だった。笠井潔東野圭吾の『容疑者Xの献身』を痛烈にこき下ろしているのだが、それに対しては「読者メーター」に感想文を書いている人たちはどう思うのだろうか。

 だが「読書メーター」には2000件も感想文があるから、その中には目を惹くものもある。今回もっとも注目したのは下記の指摘だった。

 

bookmeter.com

 

 「読書メーター」の感想文には「このトリックを初めて使ったクリスティはすごい!」というものが滅茶苦茶に多いのだが、初めてと思われた試みが実はそうではなかった例は少なくない。音楽の例でいえば、十二音技法の創始者シェーンベルクではないし、無音の音楽を最初に作曲したのはジョン・ケージではない。彼らと同様に、「○○○が犯人」の創始者アガサ・クリスティではなかったということだ。

 この件に関して、ネット検索をかけて、下記サイトを見つけた。

 

 以下に問題の箇所を引用する。

 

 探偵小説として見た場合、『狩場の悲劇』には注目すべき点がいくつかある。この作品を紹介したもののほとんどが明らかにしているため、ここでもばらしてしまうが、これはクリスティーアクロイド殺し(1926)と同じ趣向を使っているのである。もうひとつは、探偵役(裁判官)が犯人という趣向である。おそらく、これらの趣向の最も早い使用例と思われる。

 

出典:http://mysterydata.web.fc2.com/HST/HST_07_03.html

 

 なんと、チェーホフは「○○○が犯人」と「××が犯人」のトリックを同時に使っていた。「××である○○○」が犯人だったらしいからだ。それをチェーホフはクリスティに先駆けること41年、1884年にやっていた。時にチェーホフ24歳。

 しかしもったいないことに、チェーホフには読者を騙そうとする気は全くなかったらしい。以下再び引用する。

 

 しかし、チェーホフはこの作品で読者を驚かそうとは思っていないように見える。というのは、前述の「作者による注記」があまりにくどく、すぐに真犯人がわかってしまうからだ。注記がなければ、かなり意外性のある構成になりえただろう。そのためか、東都書房版《世界推理小説大系》に収録されたときは、この注記は削除されている。つまりチェーホフにとっては、意外な結末よりも、こうした趣向そのものに意味があったということになる。

 とはいえ、まがりなりにも「探偵小説」的構成をとったため、不満も残ることになる。前半、詳細に書かれる主人公の内面は、犯行以降、描くことが出来なくなった。「この長篇の芸術的価値が、物語の後半、女主人公の殺害の瞬間から急に低下している」(ちくま書房解説)と見なされるのも、やむを得ない。こういう論調は、探偵小説ファンにとっては「わかっちゃいねえなあ」的反感をもつ最たるものだが、ことこの作品については的を射ているといわざるを得ないし、おそらく作者自身もそう感じていたフシがある。犯罪者の内面を描きたいのなら、こういう構成にしたのは失敗だった。そのためかどうか、チェーホフはこの唯一の長篇小説を生涯無視していたらしい。

 

出典:http://mysterydata.web.fc2.com/HST/HST_07_03.html

 

 作者自ら認める失敗作では、よほどの好事家でもなければ読まない小説にとどまっても仕方ない*4。『アクロイド殺し』には、他にもいくつかの先例があることが知られているが、いずれも後世に残る作品にはなっていない。何も初めてやった者がえらいというわけではないということだ。

 ところで『アクロイド殺し』のラストで、ポアロが真犯人に自殺を教唆する場面がある。「読書メーター」ではこのことを批判する人たちが多かった。青山剛章の漫画『名探偵コナン』で、探偵が犯人を死なせてしまうことをタブーとしている影響が大きいようだ。

 私が中学生時代にネタバレに遭って『アクロイド』を読了するのを放棄した時にも最後の部分だけは読んだので、ポアロが真犯人に自殺を強要したことはよく覚えていた。というより、覚えていたのは真犯人が誰かというほかにはそのことだけだった。そして、非常に嫌な気持ちになった。

 しかし、それをいうなら先ほど言及した某作と某々作の両方で、探偵は本当に自ら手を下している。シリーズ4作のうち2作で殺人を犯した上に、最後には自殺しているのである*5推理小説にはそういう例もある。

 また、20世紀前半のイギリスには死刑制度があり、殺人犯はすぐに絞首刑にされることが多かったらしい。そうすると、真相を知らない「善良な○」を悲しませないために真犯人に自殺を勧める行為は「あり」かもしれなかったと今では思う。犯行が明るみに出たらどうせ絞首刑にされるに決まっているのだから、それなら○の犯行を知らないまま○の死を悲しませるだけの方がまだマシだという理屈だ。

 探偵にそんな行動をとらせないために必要なのは死刑の廃止であって、実際に今のイギリスでは死刑は廃止されている。ポアロの言動を批判する人たちは、死刑制度についてはいかなる考えをお持ちなのだろうかと思わずにはいられない。

 イギリスにおける死刑制度については、下記リンク先が興味深い。

 

blogos.com

 

 以下引用する。

 

(前略)1920年代、死刑廃止運動が新たな盛り上がりを見せた。エディス・トンプソンという女性とその愛人がトンプソンの夫を殺した罪で絞首刑となったが、トンプソン自身が実際に殺害に手を貸したかどうかには疑わしさが残り、執行に疑問符が付いた。

 道徳上及び人道的理由から刑法改革を目指す「ハワード同盟」や「死刑廃止全国協議会」が中心となって死刑廃止運動を進める中、1927年、労働党は時の党首でのちに首相となるラムジーマクドナルドの指揮の下、廃止を求める「死刑についてのマニフェスト」と題された文書を発表する。篤志家の女性バイオレット・バンデル・エルストは、死刑は「野蛮」で「社会の害悪」として廃止運動を活発に行った。

 議会も死刑廃止を取り上げるようになり、1929年には死刑制度について考える委員会を設置。翌年には死刑執行の5年間の停止を提言した。しかし、重要性が低いと考えられ、死刑問題は政治の場からいったんは姿を消した。

 

出典:https://blogos.com/article/317099/

 

 『アクロイド殺し』は上記の時代に書かれた(新聞連載が1925年、単行本化が1926年)。なおクリスティ自身は強硬な保守派の人で、死刑存置論者だった。死刑存置論をミス・マープルに語らせているし、そのマープルものの『牧師館の殺人』では、死刑廃止論者が真犯人の強硬を知って厳罰論に豹変したなどという描写もしている。正直言って、これには大いに鼻白んだ。

 引用を続ける。

 

冤罪で行われた絞首刑が相次いで発覚

 

 死刑廃止が大きな政治問題として取り上げられるようになるのは、第2次世界大戦が終了する1945年。廃止を支持する議員が多い労働党が、この年から政権を担った。シドニー・シルバーマン労働党議員が、刑事司法(1948年)に死刑廃止を組み込もうと尽力したが、これは実現しなかった。

 しかし、1950年代に入って、複数の殺害事件が国民の大きな注目の的となる。

 ロンドンに住むトラックの運転手ティモシー・エバンズが妻と幼児を殺害した罪で有罪とされ、1950年に絞首刑となった。しかし、その3年後、隣人のジョン・クリスティが真犯人であったことが判明した。エバンズは無実の罪で命を落としたことが分かったのである。クリスティはほかの複数の市民を殺害した罪で1953年に絞首刑となった。

 1953年1月、警察官を銃殺した罪でデレク・ベントリーが絞首刑にされた。しかし、実際に銃を撃ったのはベントリーとともに強盗を行ったクリストファー・クレイツだった。ベントリーが死後の赦免を受けたのは1998年のことである。

 1955年には、ボーイフレンドのデービッド・ブレイクリーをロンドンのパブの前で射殺した女性ルース・エリスが世間の格別の注目を浴びた。裁判が始まると、ブレイクリーがいかにエリスを虐待していたかが分かってきた。射殺は許される行為ではないにしても、多くの国民にとって「理解できる」行為だった。エリスは殺人罪で有罪となり、絞首刑に処された。このころまでには女性が殺害を犯しても死刑になることはほとんどなく、実際にエリスが絞首刑になってしまったことは社会に大きな衝撃を与えた。

 1965年、殺人(死刑廃止)法案が議会で可決された。これは殺人罪で有罪となった人に5年間の死刑執行を停止させる法律だった。1969年、停止は恒常化した。最後に殺人罪で絞首刑が執行されたのは、1964年である。(後略)

 

出典:https://blogos.com/article/317099/?p=2

 

 極悪人のジョン・クリスティならぬアガサ・クリスティが亡くなった1976年には、イギリスではもはや殺人罪による絞首刑が行われなくなって10年以上経っていた。人の一生の間には社会は大きく変わるものだ。たとえばクリスティ晩年の1970年代にポアロが真犯人に自殺を勧めたのであれば非難されるべき言動に違いないが(だからこそ70年代に本作を読んだ私も嫌な気がした)、『アクロイド殺し』が書かれたのはイギリスではまだ殺人犯をバンバン絞首台に送り込んでいた1925年だった。

 なお、上記リンク先は引用文以降の部分も必読であって、1964年を最後に殺人罪で絞首刑が行われていないイギリスであっても死刑の完全廃止は1998年だった。また、世論は1960年代初頭で80%以上、1990年代初頭でも70%以上が死刑制度賛成だったが、その後減少に転じ、2014年に初めて5割を切った(48%)という。人心の変化には書くも長い時間を要するのだ。イギリスで5割を切った2014年に、日本では死刑存置論が80%以上だったというから、日本はイギリスよりも半世紀遅れていることになる。

 さて、本作で「○○○が犯人」の一番乗りの小説ではないことを明らかにした『ロジャー・アクロイド殺し*6だが、思わぬ「一番乗り」があった。それは「イギリス文学で最初に麻雀シーンが登場する作品」の栄誉だ。

 

 以下引用する。

 

 ミステリーの女王として有名なアガサ・クリスティの長編第6作(AD1926(昭和元年)発表)。イギリス文学で最初に麻雀シーンが登場する作品である。

 

 R.グレイブ&A.ホッジスの「TheWeekend」には、イギリスに麻雀が伝来したのは1923年のこととある。たしかに1923年にはEileen BeckによるMahjong do's and don'ts、Jeen Bray によるHow to play Mahjongという本格的な麻雀書がLondonで出版されている。

 

 しかしそして英米上海租界で密接な関係にあり、上海とイギリスの往来も活発であった。そしてHow to play MahjongはNewYorkとの同時発売である。また上海租界のMahjong company of Chainaで出版されたJoseph P.BubcockのBubcock's rules for mahjongg the red book of rules1920年の出版である。

 

 そのような観点から考えると、客観的に確認できるという意味では1923年であっても、実際に麻雀がイギリスに上陸したのは、それより1年くらいは前ではないかとも推測される。そして麻雀書の刊行とともにイギリスでも麻雀ブームが巻き起こり、1925、6年にはピークに達した。

 

 このアクロイド殺人事件は、キングスアボットというイギリスの田園都市に起こった殺人事件を、かの有名なエルキュール・ポアロが解決するというストーリー。内容もさる事ながら、それまでの推理小説の手法を一変させたエポックメーキングな小説として有名である。

 

 麻雀シーンは関係者が麻雀をしながら事件について話し合う形で登場する(後略)

 

出典:http://www9.plala.or.jp/majan/cla21.html

 

 引用文に少しいちゃもんをつけると、上記引用文中の「昭和元年」には違和感がある。あえて元号を表記するのを認めるにしても「大正15年」とすべきであろう。「昭和元年」は年末の7日間しかなかったからだ。また、前述の通り『アクロイド殺し』の単行本化は1926年だが、発表は1925年(大正14年)である。

 それはともかく、『アクロイド殺し』は『ロンドン・イブニング・ニューズ』紙*7に1925年7月16日から同年9月16日まで全54回で連載された。その夕刊紙連載の新聞小説で、クリスティは当時発売されて間もなかったスタイラス(触針)式のオフィス用録音機「ディクタフォン」やブームが最盛期だったと思われる麻雀を小説に取り入れたわけだ。新聞小説ならではの読者サービスだったのかもしれない。

 なお上記サイトには日本語訳の該当場面が引用されているが、おそらく中村能三訳の新潮文庫版だろう。下記の通り、ハヤカワ文庫版の羽田詩津子訳が「チャウ」と表記している鳴き声が「チョー」と表記されている。

 

 「近ごろでは」とミス・ガネットが一時話題を変えた。

 「チョーというのは間違いで、吃というのが正しいんだそうですよ」

 

 同じ箇所の羽田訳は下記の通り。

 

 「最近では」とミス・ガネットの話が少しの間それた。「“チャウ”ではなくて“チー”というのが正しいみたいよ」(ハヤカワ文庫版284頁)

 

 原文は下記の通り。

 

'I believe,' said Miss Gannett, temporarily diverted, 'that it's the right thing nowadays to say “Chee” not “Chow.”'

 

 やっぱり「チャウ」ちゃう?(チャウチャウちゃう。シェパードや)

 

 ごちそうさま。『アクロイド殺し』についてネットで延々と渉猟した結果はあらかた書き尽くした。これで本を図書館に返せる。

*1:本論とは全く関係ないが、「空白の一日」なる邪悪なトリックを考えついた人物が1978年にいた。あれこそ本当の極悪人だろう。

*2:このあたりのずるい手口を東野圭吾が真似ている。ガリレオシリーズの長篇第2作『聖女の救済』で物証となり得るさるアイテムに私は気づいていたが、途中で刑事がそれを処分したことにされていた。しかし実際には処分されておらず、それが事件の解決につながった。

*3:たとえば『日の名残り』を日本の漫画『三丁目の夕日』と一緒くたにした下記書評などは、著者のカズオ・イシグロに対する侮辱ですらあると思う。https://bookmeter.com/reviews/92638590

*4:ネタバレの片棒を担いだ弊ブログが書いてもあとの祭りではあるが、チェーホフの『狩場の悲劇』に関する「ミステリの祭典」のサイトでは、3人の評者のいずれもがクリスティの作品との関連に触れないという驚くべきフェアさを発揮している(http://mystery-reviews.com/content/book_select?id=6468)。しかしこの小説をネタバレなし、かつ著者による注釈が取り除かれた状態で読める幸運な読者が果たしてどれくらいいるのだろうか。

*5:この件に関してネタバレを気にされない方は、例えば下記ブログ記事などを参照されたい。https://m8a0y1u.hatenablog.com/entry/2020/05/03/223000

*6:読書メーター」では本作の書名を、かつて普通だった『アクロイド殺人事件』あるいは『アクロイド殺害事件』ではなく、『アクロイド殺し』としていることを褒めそやす意見が「同調圧力」的に多かったが、私はさらに一歩進んで、原作に忠実にフルネームで『ロジャー・アクロイド殺し』にすべきだと思う。たとえば『安倍殺し』では殺されたのが晋太郎か寛か晋三か、はたまた晴明なのかがさっぱりわからないだろう。

*7:1980年に『ロンドン・イブニング・スタンダード』紙に併合されたらしい。

犯人を知っていて読んでも抜群に面白かったアガサ・クリスティの『アクロイド殺し』

 初めにおことわりしておきますが、表題作を未読の方はこの記事を読まないようにお願いします。それどころか検索語「アクロイド」でネット検索をかけることも絶対にお薦めできません。露骨なネタバレは行いませんが、それでも容易に真相の見当がついてしまうと思われるからです。

 私自身は中学生の頃にネタバレの被害に遭って、途中まで読んでいたこの本(1958年発売の中村能三訳新潮文庫版)をそれ以上読む気がしなくなって読み続けるのを放棄した。それから半世紀近くが経った今回、初めて羽田詩津子訳のハヤカワ文庫版で全篇を通して読んだ。

 

www.hayakawa-online.co.jp

 

 この作品の需要は今でも高いらしく、今年に入ってから図書館に行くたびに置いてないかチェックし始めてから3か月にしてやっと見つけた。本作はクリスティ作品の中でも飛び抜けて人気の高い作品であって、『そして誰もいなくなった』や『オリエント急行殺人事件』でもここまではいかない。

 本作をテレビドラマ化した作品を見てしまった例、さらに本作と同様の犯人設定を用いた日本国内の多くのミステリー(東野圭吾にもその手の作品があるし、読んだことはないが古くは横溝正史を含めて最近の作品にも多数の例があるらしい)に先に接したために本作の犯人に早々と気づいてしまった例*1なども含め、全くの予備知識なしで本作に接することができなかった読者の方が多いのではないかと想像される。

 試しに「アマゾンカスタマーレビュー」や「読書メーター」を覗いてみると、早い段階から真犯人に気づいたという読者は少なくない。しかしそれは、先に複雑怪奇なマーラー交響曲を知ってしまってリスナーがベートーヴェンの第3交響曲エロイカ」や第9交響曲をあとから聴いて(さすがにそんな聴き手はほとんどいないと思うが)驚きを感じなかったようなものではないか。

 ここで『エロイカ』の例を挙げたが、『アクロイド殺し』は作者アガサ・クリスティにとってエルキュール・ポアロを探偵役に設定した長篇ミステリーの3作目に当たる。私は『アクロイド』が借りられないうちに、ポアロものの長篇第1作『スタイルズ荘の怪事件』と同第2作『ゴルフ場殺人事件』を読んだが、その2作から見ると本作には紛れもなく大きな飛躍がある。「クリスティの『エロイカ』」なる表現が思い浮かんでしまった。このたとえでいうと、コナン・ドイルハイドンモーツァルトに相当するだろうか。

 「アマゾンカスタマーレビュー」に私の読後感に非常に近い書評があったので以下に引用する。

 

本好き

★★★★★ ネタバレぎりぎり

Reviewed in Japan on September 9, 2020

 

と言っても、多くの人にそのメイントリックはバレている、言わずと知れたミステリの女王の名作です。

 

子供の頃、藤原宰太郎という大悪人のおかげで、読む前にトリックを知ってしまいました。

それでもいつか読もうと思いつつ、幾十年

 

大人になってやっと初めて読みましたが、真犯人を知っていても面白い!

直前に『ナイルに死す』を読んでいましたが、改めてクリスティの筆運びの巧さに舌を巻きました。これも、大人になって初めて感じられたこと。

そして、この作品は特にユーモアが魅力的なエッセンスになっていて、しかもそれがまた周到なミスディおっっっと!!

あんまり言うとネタバレになる。でも、ネタバレしている。それでもこれだけ読ませる、クリスティはやっぱり凄い!

脱帽。

 

出典:https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R2LAUV0EX29T5B

 

 本当にその通り、と思った。私の場合は最初に読んだのが『オリエント急行殺人事件』(光文社古典新訳文庫。ハヤカワ文庫版では『オリエント急行の殺人』)で、これも「犯人」を知っていたのに面白かったが、『アクロイド殺し』は『オリエント急行』の比ではなく、本当に抜群に面白かった。中学生の頃にネタバレの被害さえ受けなければ、と思ったが、仮にそうであったとしても中学生の頃だったら犯人の意外性以外印象に残らなかったのではないか。犯人を知っていて、どうやったら真犯人を割り出せるかを考えながら(ミステリー作品としては)やや丁寧に読んだら十分堪能できた。大人には大人の読み方がある。かつて少年少女時代に一度読んだだけの読者の方々にも再読をおすすめできる、これはそのような作品だ。これまでに読んだクリスティの8作(ポアロもの長篇5作、マープルもの長篇2作、同短篇集1作)の中でも群を抜いている。これが本エントリの結論だ。

 

 以下は長い蛇足になる。あくまで蛇足なので面倒な方はここで読み終えられても良い、というよりその方が良いだろう。

 私と同じ読み方をした「アマゾンカスタマーレビュー」の書評を以下にもう1件挙げる。

 

二次元世界の調教師

★★★★☆ 天下一品のミスリード

Reviewed in Japan on March 20, 2017

 

 ミステリの女王クリスティーの代表作で、当時フェアかどうかで論争を引き起こした意外な犯人の先駆者的作品。実の所私自身が読んだことがあるかどうか不明なんだけど、内容はまるで覚えていなかった。にも関わらず真犯人は誰だか読む前に知っていた。恐らくミステリ好きなら知らない人はいないと言えるくらいの有名作品だから。

 従ってどのくらい巧みに読者をミスリードしているか確かめるような、本来の楽しみ方とは違う読み方をしてしまった。そういう意味でクリスティーの企みは満点。何しろ私自身、読みながら本当にこいつが犯人でうまく小説として成り立つんだろうか? と不安になったくらいで、余計な事前知識なしで読んだら絶対この犯人はわかるまい。面倒なので細かい点を捕らえてどうこう言うのは控えたい。

 とにかく初めてこのトリックを使ったミステリとして価値の高い作品。読んでみて巧みなミスリードぶりに感心した。と同時に、途中で犯人がわかるなんて読者は、小説の読み方に問題があるのではないかと思った。

 普通の読解力でこの犯人がわかったら、絶対おかしいのだ。この作品はそうゆう結論には到達しないよう、悪知恵では天下一品のクリスティーが全力で書いているのだから。

 

出典:https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R1RDVGM12WMIUD

 

 「読みながら本当にこいつが犯人でうまく小説として成り立つんだろうか? と不安になった」というくだりには途中まで本当に同感だった。

 しかし、私には初めて途中まで読んで、級友のネタバレのために挫折した時、「えっ、やっぱり本当にそいつが犯人だったのか」と思った記憶が鮮明にある。ストーリーをほぼ完全に忘れてしまってからも、その記憶だけは残っている。そう思った理由は本の後半部分を読んでわかった。

 ハヤカワ文庫版の230頁で、主要な登場人物を集めたポアロが「この部屋の全員が何かを隠していらっしゃる」と怒鳴る場面があり、それに続いて下記の記述がある。

挑戦的な非難がましい視線で、ポアロはテーブルをひとわたり見渡した。すると、その視線を前に、全員が目を伏せた。そう、わたしも。(本書230頁)

 その後、登場人物たちが隠していた秘密が、1つ、また1つと明かされていくが、秘密が明かされない人物がいる。「こいつ」はその中の1人だった。だから中学生時代の私は「こいつ」を疑ったものに違いない。ただ、巧妙なことに、秘密が明かされない登場人物は「こいつ」だけではなかった。現在の私が予備知識なしで読んでも、「こいつ」ではなくその登場人物を疑った可能性が高い。

 ただ、エルキュール・ポアロ(ポワロ)には、というよりアガサ・クリスティにはほのめかしが過ぎる癖がある。『ゴルフ場殺人事件』と『青列車の秘密』はそれで真犯人の見当がついた。特に後者では、早い段階から真犯人がミエミエ*2で、かなり興醒めさせられた。

 「意外な犯人」がウリの本作でも、ハヤカワ文庫版316〜318頁でポアロがシェパード医師とその姉のキャロライン(カロライン*3)の前で繰り広げた長広舌は、露骨に「こいつ」を指し示すものだった。中学生時代にこのくだりまで読んだかは全く記憶にないが、現在予備知識なしで読んだとしても、この箇所で「こいつ」を強く疑った可能性がある。というのは、後述のように特にポアロを探偵役とするクリスティのミステリには、ポアロの強烈なほのめかしによって犯人の見当がつく作品が少なくないからだ。

 現在まで読み終えたポアロものは長篇の5作だけだが、他の作品でもポアロはこんな調子なのだろうか。もしそうだったら、いつかクリスティ作品に飽きがくるかもしれない。現在は『アクロイド』が犯人がわかっていても面白かったから、もう少し読んでみようと思っているが。

 なお本作に録音機(ディクタフォン)を用いたトリックが用いられているが、1926年にこのトリックを用いたミステリーを書いたのはかなり先進的だったのではないだろうか。そう思ってネット検索をかけ、下記の記述を発見した。

 

ディクタフォンとは?

 

ディクタフォンは、特殊な録音技術です。 これらのデバイスは、主に話し言葉の録音とその後の書き起こしを容易にするように設計されています。 この用語は、Dictaphone Corporationのブランド名に由来しますが、このタイプの機能を実行するデバイスの一般的な用語としてよく使用されます。 このタイプの録音デバイスは、通常、ポータブルであり、有用であるが完全ではないオーディオ忠実度でサウンドを録音するように設計されています。

ディクタフォンの歴史は、企業が設立された1920年代に遡ります。 最初のモデルは、スタイラスが録音面にパターンをエッチングする録音業界で使用されていた同じ録音技術のバージョンを使用していました。 その後、エッチングを後で再生できます。 これらのマシンは通常、人間の秘書の代わりに使用され、中央のタイピングプールで複数のソースからの文字をタイプアウトできます。(後略)

 

出典:https://www.netinbag.com/ja/technology/what-is-a-dictaphone.html

 

 もちろん、大がかりな録音設備はそれ以前からある。私がすぐに思い出すのは、1913年にニキシュ・アルトゥル*4(1855-1922)の指揮で録音されたベートーヴェンの第5交響曲の演奏で、1970年代後半にFM放送でその第1楽章だけ聴いたことがあるが、およそ聴くに堪えない音質だった。

 人の語った言葉をテープ起こしする事務機器として「ディクタフォン」が発売されたのは1923年だったという。以下、テープ起こし - Wikipedia から引用する。

 

1923年、エジソンの蝋管レコード技術を継承していたコロムビア・グラフォフォン(現コロムビア・レコード)から、事務機部門が「ディクタフォン社」(Dictaphone)として独立、蝋管をメディアとする事務用録音機「ディクタフォン」(en)を発売した。蝋管メディアには人の声で録音を行うことが容易というメリットがあり、これを活かしたものである。

 

ディクタフォンはタイプライターを用いる口述筆記事務を想定した録音機で、平均的水準のタイピングスキルしか持たない者でも再生を繰り返すことで録音の正確な文章化を容易としたため、1930年代まで欧米でのビジネス向け需要を席巻した。

 

弁護士ペリー・メイスン」シリーズなどで知られたアメリカの推理小説家ES・ガードナーは、長編小説1作を数日で執筆できるほど創作力のある多作家であったが、自身のタイピングでは着想した小説を思うように高速タイプできないため、タイピスト相手の口述筆記を試みた。だがこれでも速度に不満があり、1930年代には早くもディクタフォンに文章を口述、録音を秘書にタイプライターで清書させるという、現代的な口述筆記著述を常用するようになった。「テープ起こし」活用の先駆例であろう(彼はテープレコーダーが一般化すると、そちらを使うようになった)。

 

出典:テープ起こし - Wikipedia

 

 本書の真犯人はこの「ディクタフォン」をかばんに入れて持ち運んだ。その程度のサイズには小型化されていたわけだ。

 なお本作を「アンフェアだ」と酷評したヴァン・ダイン(本名はウィラード・ハンティントン・ライトというアメリカ人)にも同様の録音トリックを使った例があるらしいが、それは『アクロイド』よりもあとに発表された作品だ。

 今なら、録音機を使ったアリバイ工作など当たり前だが、1920年代にこのトリックを使ったことは、もしかしたら先例があるのかもしれないが結構先進的ではないか。クリスティの学生時代の専門は機械・電気・物理系ではなく薬学だったらしいが。

 1926年のディクタフォンの音質でこのトリックが有効だっただろうかとも思ったが、それは音質が改善された現在の視点であって、95年前には人の声が聞こえただけで十分だったに違いない。いや、オーケストラの楽器の音ではなく人の声であれば、現在でも有効なトリックかもしれない。

 なお、「ディクタフォン」と「アクロイド」を検索語としたネット検索をかけていたところ、下記ブログ記事をみつけて読んで、爆笑してしまった。

 

s-taka130922.hatenablog.com

 

 上記ブログ記事に紹介された本の著者によると、

事件を起きたときに短時間でポアロが指摘したようなトリック(ディクタフォンに時限装置を取り付けて指定の時間に起動させる)を実現させるのはかなり困難である

 とのこと。

 本の著者によると、真犯人は小説でポアロが名指しした人物ではなく、その○の○○○○○だという。

 ここまでくるとシャーロッキアンの世界に限りなく近づいている。世のシャーロッキアンたちが「ホームズとモリアーティ教授は同一人物だ」などとする仮説を構築しては楽しんでいることは中学生時代から知っていた。

 ただ、上記リンクのブログで紹介された本には、『アクロイド殺し』以外のクリスティ作品のネタバレも盛大に盛り込まれているそうだから読まない方が良さそうだ。なお書物の原著者は文学理論と精神分析の専門家とのこと。

 本作は「キングズ・アボット村」が舞台になっているが、直前に読んだミス・マープルものの長篇第1作『牧師館の殺人』で詳細に描かれた「セント・メアリ・ミード村」と酷似しており、『アクロイド殺し』の登場人物であるカロラインがミス・マープルの原型であることを作者のクリスティ自身が認めている。また、ポアロものの長篇第5作である『青列車の秘密』*5には、セント・メアリ・ミード村出身のミス・グレーという登場人物が出てくる。1920年代から1930年頃のクリスティは、イギリスの田舎の村での上流及び中流の人々を集中して描いていたようだ。『アクロイド殺し』第16章に描かれた麻雀の場面などまことに興味深かった。100年近く前のイギリスの村でこんな遊びをやっていたなんて。以下にこの場面に触れた「アマゾンカスタマーレビュー」を引用する。

 

青天井

★★★★☆ イギリスでも家庭麻雀?!

Reviewed in Japan on March 3, 2010

 

今から80年以上前の出版当時、イギリスで家庭に友人を招いてご婦人も一緒に麻雀が行われていたとは!! ポン、チーと鳴いてばかり、鳴き間違えもしょっちゅうで、安上がりを続けて勝っている人と大きな手を狙いながら上がりきれない人との言い合いなど、我らのヘボ麻雀と同じで笑えます。

また、オバサンの噂好きとそれに伴うあくなき好奇心や図々しさも、洋の東西を問わないなと感心。このオバサンが真犯人を察知するのかどうか、読後に残る興味です。

 

出典:https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R360LMDBMLYFJT

 

 まあ噂好きだったり図々しかったりするのは何も「オバサン」に限らず「オジサン」も、それどころか若者も少年少女も皆同じだと私などは思ってしまうけれども。カロライン(キャロライン)が真犯人を察知するかは、「しない」に賭けておく方が精神衛生上好ましいだろう。なぜなら作中でカロラインは推理を間違えてばかりいたからだ。いくら作者自身が「祖型」であるとは認めていても、ミス・マープルとは才能が違いすぎる。

 なお、作中では「チー」と鳴くか「チャウ」と鳴くかが軽く議論され、結局「チャウ」と鳴くことになった。ネット検索をかけると、フィリピン式麻雀では「チャウ」と鳴くらしい。関西出身の私は「違う」を意味する「ちゃう」と紛らわしいと思った。

 

 以下は蛇足の蛇足だが、『牧師館の殺人』はポアロものの第1作『スタイルズ荘の怪事件』と同工異曲であって、ハヤカワ文庫版では2冊とも同じクリスティの孫であるマシュー・プリチャードが序文を寄せていて、『スタイルズ荘』はそれで犯人の見当がついた。『牧師館』ではクリスティの孫による犯人のほのめかしには遭わなかったけれども、同じような登場人物がいるからもしかしたらまた同じパターンかなあと思いながら読んでいたら、本当にその通りだったので面食らった。結局これまでに読んだクリスティ作品の7つの長篇のうち、最初から犯人を知っていたのが『アクロイド』と『オリエント急行』の2作、ポアロのほのめかしで犯人がわかったのが『ゴルフ場』と『青列車』の2作、クリスティの孫のほのめかしで犯人がわかったのが『スタイルズ荘』の1作だ。残り2作のうちの1作が前記の『牧師館の殺人』だが、残る1作であるマープルものの『ポケットにライ麦を』が唯一、犯人の見当が本当につかなかったものの、読み終えたあとに同じマープルものの短篇中に含まれるある作品と同じ構図であることを知った。今にして思うと、短篇集の創元推理文庫の解説文はそのことを示唆していたのだった*6。それにこの作品もそうだが、「いかにも怪しげな人物として登場するけれども本当は悪くなさそうな登場人物が、実は本当に極悪人だった」真犯人や、そのパシリにされる共犯者がクリスティ作品には頻出する。つまりクリスティ作品では、よく似たパターンが何度も使われることが多い。

 それら諸作の中にあって『アクロイド殺し』はやはり傑出した作品だと思う。普段は東野圭吾に対する批判*7など辛口のことばかり書いている弊ブログとしては例外的に、文句なくお薦めできるミステリーだ。

*1:たとえば「アマゾンカスタマーレビュー」の下記URLの書評など。https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R2F28KLRGGGU6C

*2:いったんそれに気づいて読むと、その人物以外に犯人があり得ないことは相当に高い確度で確信できた。

*3:ハヤカワ文庫版では「キャロライン」と表記されているが、イギリス英語の発音では「カロライン」に近いはずだ。そういえばコナン・ドイルシャーロック・ホームズものの第1作に出てくるアイリーン・アドラーの「アイリーン」も、イギリス流の発音だと日本人の耳には、昔の延原謙訳での表記である「アイリーネ」に近いという話があり、そのことをブログ(『kojitakenの日記』)で取り上げた記憶がある。但し、現在も新潮文庫版に残る延原訳では「アイリーン」に改められている。

*4:ハンガリーの人なので、姓・名の順に表記した。

*5:同第4作である『ビッグ4』は実際には『アクロイド』よりも前に書かれており、推理小説でもないらしいから、『青列車の秘密』は『アクロイド』の次に書かれたポアロものの長篇に当たる。

*6:実は読んでいる最中にもそれには気づいていたが、途中で死んでしまったしなあ、と思って嫌疑から外してしまったのだった。但し、同作のハヤカワ文庫版『火曜クラブ』の解説文による他作品のネタバレは創元推理文庫版よりもはるかに悪質らしいので、前記のネタの示唆にもかかわらずハヤカワ文庫版の『火曜クラブ』よりも創元推理文庫版の『ミス・マープルと13の謎』の方をおすすめする。

*7:そういえば今回取り上げた『アクロイド殺し』ハヤカワ文庫版の解説文は、東野圭吾の『容疑者Xの献身』を痛烈に批判した笠井潔が書いている。