KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

モーツァルトの268回目の誕生日

 今日1月27日はモーツァルトの誕生日。ヴォルフガング・アマデウスモーツァルトは今から268年前の1756年1月27日に生まれ、1791年12月5日、35歳10か月でこの世を去った。

 私がモーツァルトにはまったのは中学生時代の1975年で、それから来年で半世紀になる。最初にはまった彼の曲は交響曲第40番ト短調K550だった。カール・ベーム指揮ベルリン・フィルの演奏で、裏面は同第41番ハ長調「ジュピター」。最初は父から借りたレコードで聴いていた。ピアノ協奏曲では第26番「戴冠式」を聴いたが、これはベートーヴェンの「皇帝」協奏曲(第5番)の裏面で、残念ながら「皇帝」ほどには面白くなかった*1。あとグリュミオーが弾いたヴァイオリン協奏曲の第3番と第5番。このうち第5番は亡父が大好きだった曲の一つで、しょっちゅうこの曲のレコードをかけていた。

 ところである人から飼っていた2匹の犬のうち1匹がモーツァルトの音楽に反応すると聞いた。一般には、飼い犬が笑っているように見えたり音楽に反応しているように見えるのは、実際に嬉しかったり音楽に反応したりしているのではなく、飼い主の表情の変化に反応しているのだといわれている。しかしモーツァルトに反応したのは2匹のうち1匹だけであり、モーツァルトに陶酔する(?)犬は他の音楽には反応しないのだという。そうなると、モーツァルトの音楽が犬の心に直接反応している可能性も捨てがたい。

 そう考えて思い出されるのは、弊ブログで完結編を未だに書けずにいるトルストイの中篇小説「クロイツェル・ソナタ」に書かれている音楽論だ。以下原卓也の訳文(新潮文庫版)から引用する。

 

 この音楽ってやつは、それを作った人間のひたっていた心境に、じかにすぐわたしを運んでくれるんですよ。その人間と魂が融け合い、その人間といっしょに一つの心境から別の心境へ移ってゆくのですが、なぜそうしているのかは、自分でもわからないのです。

トルストイ原卓也訳)「クロイツェル・ソナタ」(新潮文庫2015年改版134頁=2020年発行第42刷より)

 

 ベートーヴェンの「クロイツェル・ソナタ」(ヴァイオリンソナタ第9番作品47)は、この作曲家には珍しく、演奏会に間に合わせるために超特急で書いた作品とのことで(これはモーツァルトにはよくあるパターンだ)、そのせいかどうか、第1楽章の主部プレストは激情をもろにぶつけたような音楽だ。それを小説の主人公である妻殺しの殺人者は、前記の引用文に続けて以下のように語る。

 

 たとえばこのクロイツェル・ソナタにしても、それを作ったベートーベンは、なぜ自分がそういう心境にあったかを知っていたわけですし、その心境が彼を一定の行為にかりたてたのですから、彼にとってはその心境が意味をもっていたわけですが、こっちにとっては何の意味もないんですよ。ですから音楽は人を苛立たせるだけで、決着はつけてくれないんです。(同142頁)

 

 これらの文章は音楽の本質を突いていると思わずにはいられない。なおトルストイベートーヴェンの「クロイツェル・ソナタ」のうち、第1楽章の序奏を除いたプレストの主部にのみ反応したようだ。第2楽章と第3楽章は素っ気なく切り捨てている。しかし本記事はベートーヴェン(やトルストイ)ではなく、モーツァルトの誕生日にちなんだ記事なので、これ以上深入りはしない。

 ここで私が言いたいのは、音楽には時空を超えて作曲家の心が聴き手の心に対してある種の作用を及ぼす性質があるということだ。そしてその作用は人間に対してのみならず、ヒト以外の生物に対しても起きるのかもしれない。ある犬がモーツァルトの音楽にのみ反応するのはその表れではなかろうか。そのような仮説を立てている。そういえばモーツァルト一家は犬を飼っていて、犬は家族の一員として可愛がられていたとのことだ。

 それに、モーツァルトのある種の音楽には特別な特徴がある。それは、彼には天啓を受けた瞬間がある、そう直感させる曲がいくつかあることだ。

 その典型的な例が、映画『アマデウス』でサリエリにショックを与えた場面で用いられた、いわゆる13管楽器のためのセレナードK361(セレナード第10番)の第3楽章だ。以下にピーター・シェーファー(1926-2016)が書いた戯曲の江守徹(1944-)による翻訳の当該部分を引用した下記リンクから孫引きする。

 

www.classic-suganne.com

 

戯曲では、サリエリは回想として次のようなセリフを吐きます。

 

それから演奏がすぐに始まりました。厳粛な変ホ長調アダージョでした。導入部は単純でした。ファゴットとバセット・ホルンの低い調子はまるでオンボロのアコーディオンを思わせました。突然、オーボエの高い旋律が加わってきました。それは私の耳にしっかりとついて離れず。胸を刺し貫き、息が詰まるほどだった。アコーディオンはうめき声をあげ、それにかぶせて高音楽器がむせぶような調べを奏で、音が矢のように私に降り注いできた。そしてその音は苦痛となって私に襲いかかったのです。主よ、お教えください!あの音の中にあったもの、あれは何なのです?満足できるようなものでないにもかかわらず、聞く人を満足させずにはおかないあの音、あれは主よ、あなたの思し召しなのですか?あなたのものなのですか?

突然私は、恐ろしさにぞっとしました。私はたった今、〝神の声〟を聞いたのではないか。そしてそれを産み出したのは〝けだもの〟ではないか。その声を私は既に聞いている、猥褻な言葉を平気でわめく子供のようなあの声!

 

サリエリは、神は不公平だ、敬虔に神を信じる私には才能を与えず、よりにもよってあの下品な男に、あなたの声を現世に伝える役目を与えるなんて…!と神を呪い、悪魔の手先となって神の寵児モーツァルトを滅ぼしてやる、と誓うのです。

 

URL: https://www.classic-suganne.com/entry/2018/07/15/172544

 

 映画館で映画を見る習慣がほとんどない私が東京・渋谷の映画館であの映画を見たのは1985年だったが、私がこの曲を初めて聴いたのはおそらく1976年頃だ。しかしその時にこの楽章が特に印象に残ったわけではない。それから数年経った1980年にFM放送で聴いた時、しかもその演奏は名盤ともてはやされるようなレコードがかかったわけではなく、日本国内の演奏家たちによる演奏会の録音だったと記憶するのだが、上記引用文にもある第3楽章の短い導入部のあとオーボエに始まってクラリネットに受け渡される管楽器のリレーで奏でられる音楽を聴いた時、あの天才モーツァルトにもそうそういつもあったわけではない特別な天啓を受けた瞬間があったことを確信した。その音楽をサリエリが嫉妬した場面に使うとは、モーツァルティアンなら誰しも同じことを感じるのだなあと感心した。

 ところでモーツァルトの父レオポルトがどうしようもない陰謀論者だったことは前回の記事に書いたが、モーツァルト自身も父の悪影響を受けてか自らが父に宛てた手紙にサリエリの悪口をよく書いていたらしい。そのモーツァルトが死の2か月前にサリエリとその愛人を『魔笛』に招待したところ、サリエリがこのジングシュピール(ドイツ語の歌芝居)を気に入ってブラヴォーを連発して大喜びしたという話がある。

 ネット検索をかけると、モーツァルトサリエリの関係についてサリエリ側に立って書かれた文章が見つかったので、以下にリンクする。

 

itaken1.jimdo.com

 

 以下に一部を引用する。

 

(前略)サリエリモーツァルトの関係ですが、モーツァルト自身は書簡の中で何度もサリエリの悪口を言っています。自分のオペラの上演の邪魔をしている、ということを書くわけですね。現実には、モーツァルトが書簡に書いている陰謀、あるいは邪魔立てに関して証明できる材料は全くありません。ですから現代のモーツァルト研究者はみな、サリエリモーツァルトの妨害をしていたということすら否定しています。それだけではなく、逆に、モーツァルトには父親譲りの猜疑心でありますとか、イタリア人に対する敵愾心、敵対心があり、そうしたものが書簡に反映されている、という解釈になっています。ですから、私がサリエリを好きだから擁護するわけではなく、現在ではモーツァルト研究者もそのように考えていて、原因がモーツァルトの側にあったと言われているのです。

 

後にモーツァルトの毒殺疑惑が出ますけれども、現代の研究者の一人は「モーツァルトサリエリを毒殺するなら話はわかる」と言っています。なぜならサリエリは宮廷楽長の地位にあり、ヨーロッパ中で──イタリアでも、フランスでも──評価され、オペラ作曲家としても頂点にあった人物です。これに対しモーツァルトは、イタリアでオペラを作曲しても初演だけで忘れられ、ウィーンに来て書きたくても全然仕事がないのですね。冷や飯を食べ、しかもモーツァルトは「ザルツブルグ出の田舎者」という見られ方を皇室の人間にされていたのです。そもそも当時は、モーツァルトのようなドイツ・オーストリア系の人間には宮廷楽長になるチャンスがなかったのです。モーツァルトの父親はずっと副楽長のままでした。なぜなら楽長は常にイタリア人だったからです。そうした環境にあって、父親の不遇な姿を見ていたモーツァルトは、自分も出世の目がないのですから、宮廷楽長のサリエリが自分の足を引っ張っていると解釈するしかなかったといってよいと思います。

 

 けれどもモーツァルトの亡くなる年に、2人は和解します。ただし、2人が和解をしたというのは私が本に書いたことであって、和解をしたと証明する材料そのものは直接的にはありません。では、私は何を根拠に2人が和解したと書いたのか。その一部をここに挙げておきました。

 

要するに、サリエリモーツァルトの理解者だった皇帝ヨーゼフ2世が死んでしまうのですね。死んだ後、新しい皇帝が即位します。この新しい皇帝レーオポルト2世は、サリエリのことが嫌いだった。モーツァルトのことも評価した様子がない。2人とも、新しい皇帝が即位したとたんにオペラ劇場での仕事を失っていくわけです。そして新しい皇帝の即位式プラハで行われます。そのときサリエリはどうしたか。サリエリは宮廷楽長になっていましたから、新しい皇帝のために戴冠式を祝う曲を書いて演奏しなければいけないはずなのに、それをせず、モーツァルトの音楽を持って行きます。モーツァルトの曲を幾つも戴冠式へ持って行き、モーツァルトの曲で新しい皇帝の戴冠を祝ってしまうのです。なぜサリエリがそうしたのか、ということは判りません。ですが、その頃にはサリエリモーツァルトの音楽をきちんと評価していた、という解釈も可能です。あるいは、新しい皇帝が自分のことを嫌いということをサリエリも判っているわけですから、「だったらいいよ、自分は新しい曲を書かないからね」、そういう意趣返しのようにも思えます。

 

いずれにしろ、そのあたりでモーツァルトサリエリが急接近したのは確かです。なぜなら、モーツァルトの宗教曲を演奏しようと思っても楽譜が出版されていないわけですから、「貸して」とか言わないとなかなか難しいわけで、2人の間になんらかの交流がこの段階でできていたのは間違いないと思います。

 

そして、モーツァルト最後のオペラ《魔笛》の上演に、モーツァルトサリエリを招待します。サリエリとその愛人といわれたカタリーナ・カヴァリエーリを招待するのです。その有名な手紙を、4頁の真ん中に引用しておきました。そこにモーツァルトは、「サリエリが僕のオペラを観てくれて、すばらしいと褒めてくれた、こんなすばらしいもの見たことがない、と言ってくれた」ということをうれしそうに書いているのですね。そのときモーツァルトの妻は、モーツァルトの弟子ジュスマイアーと一緒に温泉か何かに行って遊んでいたのですが、その妻に宛ててそう書いているのです。そしてこの、サリエリと一緒に《魔笛》を観て、サリエリがこんなに褒めてくれたと書いた手紙が、モーツァルトの現存する最後の手紙なのです。

 

ですから私はこの手紙を根拠にしたというよりも、手紙に表れているモーツァルトのすこやかな様子が決して作り事ではなく、明らかにそこで2人の心の交流というべきものができていた、というふうに解釈しているわけです。

 

(中略)

 

しかしながら、その後サリエリは最晩年に思わぬ事態を迎えることになります。それがモーツァルト毒殺疑惑です。サリエリ75年の生涯のうち、最後の3年間は完全にウィーンの中で孤立し、モーツァルトを毒殺した人だということがマスコミ──当時の新聞など──に書かれています。そのことが彼の最後の3年間をどれほど悲惨なことにしたのかということは、私のこの本を読んでいただければご理解いただけると思います。最後の章は大変読み応えがあると自分で言うのもなんですが、批評で褒められた部分でありまして、なぜサリエリモーツァルト毒殺の犯人にされてしまったのかが判ります。

 

それは一種の冤罪でありまして、その冤罪を晴らすために今度はカルパーニという彼の友人──しかもウィーン刑事局の人物──が、一種の裁判の弁論のような形でサリエリ擁護の論文を新聞に発表します。さらに、それをめぐってさまざまな事態が起きるのですが、とりわけ最後の2年間はサリエリが病気でウィーンの総合病院に入院するのですね。そして入院した後、亡くなるまでの1年半のことは何も判っていないのです。にもかかわらず、その間のベートーヴェンの書簡集、そこに何が書かれているのかというのを6頁に挙げておきました。サリエリは無理やり病院に連れて行かれ、そしてサリエリは病院で発狂し、自分がモーツァルトを殺したのだと告白し、自分で喉をナイフで裂いた、ということが言われています。

 

でも、それらはすべてその時代のウィーンの噂に過ぎません。疑惑のある人物が隔離されて人の前からいなくなる。そして、その人物に対してあることないこと言われるというのは、現代のさまざまな事件でも起こることで、珍しいことではないのですね。ただしサリエリは妻に先立たれ、独り病院で──ボケてはいなかったと思いますが──老衰に近くなっていくわけですから、反論できないのです。世間では、そのサリエリについてまことしやかなことが言われ、毒殺犯に仕立て上げられた、というのが事の真相であるわけです。

 

そのモーツァルト毒殺疑惑を題材にしたドラマが、サリエリの亡くなった数年後に書かれました。有名なロシアの文豪プーシキンの書いた『モーツァルトサリエリ』という劇詩です。そして、その劇詩を基にして1人の作曲家が19世紀末にオペラを書きました。それがリムスキー・コルサコフの作曲した《モーツァルトサリエリ》という作品です。これは残念ながら、きちんと市販されている上演映像がないのですが、ご覧いただきたいと思って今日は持って来ました。時間の関係で、途中で止めさせていただきますが、英語による上演です。このオペラは2人芝居で、モーツァルトサリエリが出てきます。最後にサリエリモーツァルトを家に招待し、一緒に食事をするときにモーツァルトの飲むグラスに毒を入れるのですね。そして、モーツァルトがそれを飲もうとするのを見たサリエリは、「あっ、飲んではいけない!」と言うのですが、もう手遅れでモーツァルトは飲んでしまう。そしてモーツァルトは、「なんだか調子が悪くなった、眠くなった。失礼するよ」と言って出て行く。そして、その後のサリエリのモノローグで終わります。そこでサリエリが何を言うかというと、「天才というものは、かつてすばらしい芸術のために殺人を犯さなかっただろうか。ミケランジェロは、すばらしい絵を描くために人を殺さなかっただろうか?」ということを言います。

 

このオペラのフィナーレ部分で流れるのがモーツァルトの《レクイエム》なのですね。モーツァルトサリエリに《レクイエム》の楽譜を見せます──自分はこういう曲を書いている、と。サリエリはその《レクイエム》の楽譜を見る。すると音楽がわっと鳴ってくるのですが、楽譜を見ながらサリエリがショックを受けて泣くシーンがあります。そしてその後に、モーツァルトがその場を立ち去っていきます。(後略)

 

出典:サリエリとモーツァルト - イタリア研究会

 

 以上はサリエリ側に立った言い分だが、これがモーツァルト側から見ると言い分がまた少し異なる。前回の記事でも取り上げた石井宏(1930-)は西洋音楽のドイツ中心史観に異を唱えている人だが、基本的にはモーツァルト側の人だ。その石井の『モーツァルトは「アマデウス」ではない』集英社新書,2020)から以下に引用する。

 

 モーツァルトが死ぬと、まもなく、ウィーンの街には「モーツァルトは毒殺された」のだという噂が立ちのぼり、駆けめぐることになる。そしてその毒殺の下手人と目されたのは宮廷楽長アントーニォ・サリエーリであった。

(中略)しかし、若いときならいざ知らず、サリエーリはすでに宮廷楽長に昇進しており、この地位は終身職であったから、彼の身は安泰であり、今さらモーツァルトにやきもちを焼いたり、つけ狙ったりする必要はなかった。むしろ、モーツァルトのほうがサリエーリを暗殺でもしない限り、出世の道は閉ざされていた。

 だが、モーツァルトが何者かによって毒殺されたという噂は、あながち根も葉もないことではない。(略)本人自ら「おれは毒を盛られた」と口にしていたからである。

(中略)ウィーンという都は当時から19世紀にかけて、陰謀の飛び交う街として有名であった。だれそれが何を画策しているという話は日常茶飯事の話題であり、何もサリエーリ一人が悪人だったとは言えないのだが、それにしてもサリエーリが、自分の気に食わない人物を排除しようとする傾向のあったことを証明する話は一つならず存在していて、《フィガロ》の台本作家のダ・ポンテが宮廷詩人の職を追われたのもかつての恩人サリエーリに後ろから斬られたものだと言う。ダ・ポンテはサリエーリに就職を世話してもらった間柄であり、たとえサリエーリの音楽や性行に批判的であったとしても、恩義を感じていたことは確かで、サリエーリに対する害意は持っていなかった。

 

(石井宏『モーツァルトは「アマデウス」ではない』(集英社新書2020)183-185頁)

 

 だいぶ雲行きが怪しくなってきた。石井は上記引用文の直後に、シーラ・ホッジスという人が書いたロレンツォ・ダ・ポンテの伝記から、サリエリを「頭の働きの素早い天性の策謀家」とこき下ろした文章を引用している。ダ・ポンテは『フィガロの結婚』を書く前のモーツァルトの手紙に「サリエリ一味」の人間だと書かれていた人だ。

 石井宏は書く。

 このあと19世紀に入り、メッテルニヒが実権を握るようになると、ウィーンでの陰謀・策謀はさらにひどくなる。体制転覆の謀議なども行われるようになると、それに対抗するかのように、それに対抗するかのように有名なメッテルニヒ警察国家が実現し、街には私服の密偵がうろうろするようになっていくのである。(前掲書192頁)

 

 「会議は踊る」で悪名高いウィーン会議が行われた1814年からドイツ三月革命が起きた1848年までの34年間は、ヨーロッパの長い「反動の時代」だった。日本でも安倍晋三が総理大臣に返り咲いた2012年から菅義偉が首相を辞任した2021年までの9年間はそれと似たような反動の時代であり、その矛盾が現在一気に噴出しているのではないかと私は考えているが、そんな時代には誰が誰を追い落とそうとするとかそんな話ばかりが目立つ。

 サリエリが死んだ1825年はベートーヴェンが死ぬ2年前であり、ベートーヴェンの会話帳にもサリエリの晩年にサリエリモーツァルト殺しを自白して自ら喉を切って自殺を図ったらしいという話が出てくることは、前記「サリエリモーツァルト」に書かれている通りだし、石井宏の本にもその件は出てくる。しかし、そのベートーヴェンの会話帳の半分以上を廃棄したり、改竄やら捏造やらをやらかした極悪人がいた。

 その名をアントン・フェリックス・シンドラー(1795-1864)という(「シントラー」とも表記される)。この極悪人はベートーヴェンの秘書を務めたが、自らは大の「ベートーヴェン信者」でありながら当のベートーヴェンから激しく嫌われ、いったんは秘書をクビになったりした。それでもめげなかったこの人間はベートーヴェンの最晩年に和解した。そしていかにも「信者」らしく、自らが著したベートーヴェンの伝記において、ベートーヴェンのイメージを損ねたり、何よりシンドラー自身に不都合になる事実を隠蔽して改竄と捏造に明け暮れたのだった*2。その結果ベートーヴェンは過度に神格化されてしまった。そのシンドラーについて、事実に基づきながらシンドラーの心の動きは推測してミステリ仕立ての読み物に仕立てた快著がかげはら史帆の『ベートーヴェン捏造 - 名プロデューサーは嘘をつく』(河出文庫2023, 単行本初出柏書房2018)だ。

 

www.kawade.co.jp

 

 この本は河出文庫版を買って読んだ。帯にミステリ作家の宮部みゆきが書いた「この驚きをぜひ分かち合いたい。徹夜本です。」という惹句が掲げられている。私は徹夜こそしなかったが2日で読んだ。

 でもこれもモーツァルトではなくベートーヴェンの話題になるのでここではこれ以上立ち入らない。気が向いたら来週以降に弊ブログで改めてとりあげるかもしれないが、取り上げないかもしれない。読書ブログの記事はどうしても長くなるし、本記事もそうだけれどすぐに脱線してしまってなかなかまとまらないのだ。ただ、シンドラーが道を踏み外したきっかけは東欧出身の彼がウィーン大学に進んだ1813年の翌年にウィーン会議が行われて、ヨーロッパ、ことにウィーンが暗鬱な反動の時代に入ったことが挙げられることは指摘しておきたい。どうやら反動の時代には陰謀(論)やら「信者」やらが続出するものらしい。

*1:他にショパンとリストのそれぞれ第1番を収録した「ピアノ協奏曲名曲選」みたいなレコードだった。演奏家もバラバラ。ショパンやリストも「皇帝」には全く及ばないと思った。今思えば「戴冠式」はモーツァルトのピアノ協奏曲の中では最上の作品ではないし、ショパンやリストは協奏曲よりもピアノ独奏の曲の方がよほど良いので、この4作ではベートーヴェンが突出していても仕方がなかった。

*2:モーツァルトの伝記にも同様の弊害がある。最初にモーツァルトの伝記を書いたニッセンはモーツァルトの妻・コンスタンツェの再婚相手なので、モーツァルト自身のイメージを損ねたり、何よりコンスタンツェに都合の悪い事実は隠蔽されてしまった。その後アメリカの学者などがモーツァルトベートーヴェンに都合の悪い事実も明記した伝記を書いたが、それが気に食わないドイツ人などから「ドイツの文化を理解していない」などの批判を浴びたらしい。