KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

ベートーヴェンは「改革者」ではなく、反動的な政治体制で生きることを余儀なくされた「革命家」だった

 神子島慶洋氏の下記ツイートに触発されて、今月に入って一度も更新していないこのブログに記事を書こうと急に思い立った。

 

 

 残念ながら「ベートーヴェン=改革家」という神子島氏の意見は、私にはピンとこない。古典派の作曲家で改革家といえばなんといってもハイドンの名前を思い出す。

 私は90年代末から2000年代にかけて、ハイドン交響曲弦楽四重奏曲にずいぶんはまった。そのきっかけになったのは、フランス・ブリュッヘンがエイジ・オブ・インライトゥメント管弦楽団を指揮した、ハイドンの<疾風怒濤期の交響曲>19曲の5枚組CDだ。楽団名は17〜18世紀の欧州の啓蒙運動(the Enlightenment)に由来するものらしい。「啓蒙時代のオーケストラ」の意味だ。

 このCDに収められているのは、いずれもハイドン中期の作品だが、ハイドンは個々の交響曲のいずれをとっても、何かしらの実験をやっている。有名なのは第45番の「告別交響曲」(フィナーレで演奏者が次々に席を立って行き、最後に第1ヴァイオリンの2人だけが残る。筒井康隆の小説『残像に口紅を』(1989)を200年以上前に先取りしたかのような音楽だ(告別交響曲は1772年作曲)。

 告別交響曲の実験は誰にでもわかりやすいが、多くの曲で行われている実験に気づくには、クラシック音楽に長年親しんだ「年季」が必要だ。ハイドンはそんな音楽を書いた作曲家だった。

 弦楽四重奏曲では、「太陽四重奏曲」作品20の6曲が疾風怒濤期の代表作だろうか。しかし、ハイドンが疾風怒濤期(シュトゥルム・ウント・ドランク)時代を終えて古典的な作風を確立したといわれ、モーツァルトに多大な影響を与えたことでも知られる作品33の「ロシア四重奏曲」セットにも、面白い実験がある。

 作品33の最初に置かれた第1曲の主調は「ロ短調」なのだが、曲の始まりは長調ニ長調)に聞こえる。あれ、短調の曲のはずなのに、と思っているうちに短調に転調するのだ。この曲を聴いて直ちに思い出したのがブラームスクラリネット五重奏曲であって、あの曲もロ短調のはずなのにニ長調みたいな始まり方をする。あ、ブラームスハイドンのアイデアをパクったんだなと初めて気づいた。

 ハイドンではもう1曲、作品64の6曲セットの第2曲もロ短調だが、この曲も作品33-1と同じ「ニ長調で始まったと見せかけてすぐにロ短調に転じる」手を使っているから、ハイドンは作品33-1でやった実験をよほど気に入ったものらしい。しかし二番煎じではもはや実験とはいえないし、曲全体の出来からいっても作品64-2は作品33-1に劣ると思う。ハイドンが再び素晴らしい弦楽四重奏曲を書くのは、晩年の作品76の6曲と作品77の2曲だった。これらの8曲がおそらくハイドン弦楽四重奏曲の頂点だろうが、ハイドンはそのあとも弦楽四重奏曲を書こうとしていた。しかしハイドンはその曲の第2楽章と第3楽章しか完成できず、その状態のまま筆を擱いて発表したという。この最後の曲が、また実験精神に富んだ曲なのだ(第83番ニ短調作品103)。結局ハイドンは筆を擱くまで実験を続けた作曲家だったと思う。

 モーツァルトの場合は、作品の一部にずいぶん革命的なところがあった。私がいつも思うのは「第40番」として有名なト短調交響曲(K.550)のフィナーレであって、このフィナーレの展開部では、5度上への転調を延々と繰り返して主調に戻ろうとしない転調がいつ果てるともなく続く。無機的とも機械的とも感じられるこの箇所は、機能和声の破壊とも呼びたくなるものであって*1、実際展開部の初めには12音音楽を想起させる音列が現れる*2。実はこの音列は、展開部の核心部で行われる転調を短くまとめた形になっている*3。さらに、展開部冒頭で12音音楽風の音列のすぐあとに出てきたニ短調の一節(第1主題の変形)は、前述の展開部の核心部で12音音楽風の音列(減7度下降と減4度上昇の繰り返し)をなぞって行われる機械的な転調(今度は多少の調性感を伴っているがすぐに転調してしまう)が続いたあと、主調のト短調からはもっとも離れた調とされる嬰ハ短調(最初に出てきたニ短調の半音下)で再び現れて強奏され、展開部のクライマックスを築く。ここに至って音楽はようやく調性感を完全に取り戻すが、もとの世界とはパラレルワールドみたいな関係にある場所での狂躁といった趣がある。これが一段落すると、今度は5度下への転調を機械的に6度繰り返してト短調に戻り、再現部が始まる。このフィナーレの展開部は「悪魔的」としかいいようがないものだ。第1楽章の美しい旋律があまりにも有名なこの曲だが、フィナーレにこれほどまでにも奇怪な箇所がある。この部分は、実験的とか改革などではなく革命的としか呼べないと私は考える。

 ハイドンが「生涯実験」の作曲家で、モーツァルトが革命的なところもあった作曲家だったといえるなら、ベートーヴェンにはモーツァルトをさらに推し進めた革命家の役割しか残っていない。事実、ベートーヴェンは想像した音楽においても政治思想においても「革命家」としか言いようがなかった。

 しかし、「革命家」というだけではベートーヴェンを十分に表現したものとはいえないとも、正直言って思うのだ。そこで今回引っ張り出すのは、2015年に河出書房新社から刊行された「文藝別冊・フルトヴェングラー - 最高最大の指揮者 増補新版」に掲載されている吉田秀和丸山眞男の対談「芸術と政治 - クルト・リース『フルトヴェングラー』をめぐって」だ。これは『現代藝術』1959年3月号に掲載された対談だ。

 

 

 ここで吉田と丸山は、フルトヴェングラートスカニーニと対比して論じている。そこにベートーヴェンと政治の関係が触れられている。以下、吉田秀和の言葉を引用する。

 

吉田 トスカニーニは、フルトヴェングラーのような態度をした人間*4ベートーヴェンを演奏できるわけがないと言いますけれども、フルトヴェングラーは、反対の意見を持っていた。そもそもベートーヴェンの中にそうした二面があったと思うんです。ベートーヴェンの音楽というのは、革命を起したフランス人がかいたのじゃなく、ヨーロッパでもいちばん反動的な、メッテルニヒ支配下オーストリーでかかれた。だからフルトヴェングラーが典型的に示しているものは、まさにそういいうふうにしか出せない形をもっている。

 

出典:丸山眞男吉田秀和「芸術と政治 - クルト・リース『フルトヴェングラー』をめぐって」(「現代藝術」1959年3月号);「文藝別冊・フルトヴェングラー - 最高最大の指揮者 増補新版」(2015), 113頁より孫引き

 

 これは腑に落ちる指摘だ。ベートーヴェンの音楽は、重苦しい空気に覆われた反動国で書かれた「革命家」の音楽だった。

  上記の文章から思い出されるのは、青木やよひ著『ベートーヴェンの生涯』(平凡社ライブラリー, 2018)だ。

 

www.heibonsha.co.jp

 

 同書218頁から「「メッテルニヒ体制の下で」と書かれた節が始まるが、時のオーストリア外相・メッテルニヒは1819年に「カールスバート議定書」を出して反動的な監視社会をウィーンに作り上げた。当時のウィーンには正規のスパイが7千〜1万人いたほか、秘密警察はそれ以外に多くの馭者、ボーイ、従者、娼婦などにも情報提供を求めていたという。青木氏は「まさに密告社会である」と論評している*5。以下同書から引用する。

 

 こうした息苦しい雰囲気がウィーンの人々を、気分転換としての明るく軽快なワルツやポルカといったダンス音楽に走らせ、華麗なイタリア・オペラに熱狂させたとしても、無理からぬ気がする。だがそうしたウィーン音楽界の流行が、ベートーヴェンの疎外感を強め、また密告の雰囲気が晩年に募りゆく彼の猜疑心のもとになったことを、後世の私たちは忘れてはならない。ベートーヴェンだけではない。シューベルトウェーバーはもとより、ベルリオーズやリストにいたるまで、この暗く陰鬱な時代の影を背負っていたのだった。彼らにとってベートーヴェンは、暗い海の彼方で光をともす灯台のような存在だったのかもしれない。

 幸いにもこの時期のベートーヴェンには、気心の知れた友人仲間がいて、かつてのように一人孤独に閉じこもるようなことはなかった。街のコーヒー店で新聞を熱心に読んでいるかと思えば、「狐の穴」とよんでいたシュタイナーの店のサロンや、あるいは行きつけのレストランや居酒屋で、友人たちを相手に熱弁をふるっていることもあった。彼は国内だけでなくヨーロッパ各国の政治情勢にも詳しく、常に一家言持っていた(もっとも、イギリスの議会制度を過大評価していたと批判する同時代人もいたが)

 そうした雰囲気が、当時使われていた『会話帳』から伝わってくる。耳の不自由な彼のためにそこに書き込んでいる友人たちはほとんどみな共和主義者だが、政府や警察や特権階級である貴族をもっとも手厳しく批判していたのはベートーヴェンだった。そしてこれは、この時代には投獄の危険を冒すことだった。心配した友人の一人が『会話症』(I, S.333) に書いている。

 

そんなに大声を出さないで下さい――あなたの人相は知られすぎているのですよ。

では、またにしましょう……いまはあいにくスパイのヘンゼルがここにいますから……

 

 1820年には、当時の警視総監セドルニツキー伯爵が、彼を逮捕すべきかどうかを皇帝に上申している。それが見送られたのは、第一に、ベートーヴェン自身が持っていた全ヨーロッパ的な名声だった。特に宮廷側としては1814〜15年のウィーン会議の折に、ハイドンモーツァルトに並ぶ最高の音楽家として月桂冠を与えた以上、その彼を投獄したりすれば国際的スキャンダルになりかねないと判断したからだろう。

 またベートーヴェンは、長年にわたるルドルフ大公の音楽の師であった。大公は現皇帝の異母弟の上、当時オルミュッツの大司教だった。しかも、その大公のためにちょうどその頃ベートーヴェンは『ミサ・ソレムニス』を作曲中だった。

 けっきょく当局は、ベートーヴェンの言動を十分把握していたが、それを奇人変人のたわ言として処理することを選んだものと思われる。

 

出典:青木やよひ『ベートーヴェンの生涯』(平凡社ライブラリー, 2018)219-221頁

 

 長い上記引用文の大半で描かれているのは「革命家ベートーヴェン」の顔だが、その中で青字ボールドにした部分にだけ、前記吉田秀和が指摘したベートーヴェンの第二の面が示されている。

 とはいえ、上記引用文を参照すれば、ベートーヴェンが漸進的な「改革者」などではなかったことは明らかだろう。それは何も彼の思想信条や生き方*6に限らず、音楽でも同じだ。いや、音楽においてこそベートーヴェンの革命性は際立っている。

 まとめると、冒頭でツイートを引用した神子島慶洋氏には誠に申し訳ないが、ベートーヴェンは「改革者」などではなく「革命家」だった。しかし、反動的な国で生きていくための妥協を強いられた「革命家」だった。以上のように私は考える。

*1:あるいはガン細胞の増殖をも連想した。元(主和音)に戻ろうとする機能が失われたかのような音楽がかなり長く続くのである。

*2:この音列に欠けている音が一つだけあり(曲の主音であるG(ト)音)、重複している音もあるため、12音音列にはならない。

*3:このことに気づいたのはほんの数年前だ。丹沢山塊の鍋割山に単独登山した時に、頭の中でこのフィナーレの展開部を反芻していたら、ふと気づいた。登山も、普段の平地歩きと違ってひたすら上へ上へと登っていく行為だから、このフィナーレの展開部と相通じるところがあるかもしれない。

*4:ナチ政権下のドイツにとどまって演奏活動を続けたことを指すと思われる=引用者註。

*5:青木やよひ『ベートーヴェンの生涯』(平凡社ライブラリー, 2018)219頁

*6:人聞きの悪い言い方をすれば「処世術」となろうか。しかし人間誰しも、生きていくために稼がなければならない。