この記事は最初『kojitakenの日記』のために書き始めたが、こちらのブログの方が適切かと思い、こちらに載せることにした。
昨日「kojitakenの日記」に公開した記事のタイトル「辞意表明の確率」から連想していたのは、一昨年春に読んだ松本清張の短編小説「捜査圏外の条件」だった。
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両者の共通点は単に「漢字4文字+の+漢字2文字」というだけではない。
「捜査圏外の条件」は、1989年にテレビドラマ化されているようだが、下記リンクにある通り、「妹を見殺しにした男への復讐のため、7年間かけて完全犯罪をもくろむ男を描いた作品」なのだ。この「7年間」というのが、安倍政権発足後の7年8か月という、この国が壊れていった長く暗い年月と共通する。
上記ドラマの主演は古谷一行だが、伊藤蘭が出ていて、伊藤は清張の原作にはない役柄を演じている。無惨に見殺しにされた妹の役は甲斐智恵美だが、彼女は43歳の2006年に首つり自殺を遂げてしまった。もっとも私はこのドラマは見ていない。
この「完全犯罪を遂げようとして失敗した男」の暗い情念が、私の琴線に触れるのだ。「捜査圏外の条件」のモチーフになった1951年の流行歌「上海帰りのリル」は知らなかったがネット検索で知り、繰り返して聴いてはまった。近年はカラオケには全くい行っていないが、仮にカラオケに行けば歌えるだろう。「上海帰りのリル」は戦前のヒット曲「上海リル」のアンサーソングで、「上海リル」はアメリカ映画に出てくる歌だが、3人の女性歌手がそれぞれ異なった歌詞で歌っている。そのうちの1人は江戸川蘭子という、おそらくは江戸川乱歩からとられた芸名の人だった。このあたりの音楽探究もこのブログで取り上げた。
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この「上海リル」の方はカラオケでは歌えないが、「上海帰りのリル」の前奏には本歌の「上海リル」の節が使われていて、アンサーソングであることがわかる人にはわかるように仕掛けてあるのが面白いと思った。但し、メロディーの方はあとでできた「上海帰りのリル」の方が古くさく、いかにも「昔の歌謡曲」だ。だから覚えやすい。
安倍晋三の話から大きく脱線したが、結局「捜査圏外の条件」の主人公(犯人)が雌伏7年の完全犯罪のもくろみに失敗したように、安倍政権の終わりへの期待も、どうやらしぼんでしまいそうだ。まあそうなるだろうとは思っていたが。
ところで、清張の「捜査圏外の条件」を思い出した機会がもう一つあった。それが前回の記事で取り上げた東野圭吾の『容疑者Xの献身』だった。
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著者の東野圭吾は高校生の頃に松本清張を読み漁ったらしい。『容疑者Xの献身』の主人公は、ひそかに熱愛する女性への献身から、彼女(ら)の犯罪が絶対に露見しないようにするために完全犯罪をもくろんだ。このあたりを読みながら「捜査圏外の条件」を思い出していたのだった。前述のように、このあたりの暗い情念は私の琴線に触れるものがあった。
しかし、あのトリックは、トリックとしては最高なのだが倫理的にはまったくいただけなかった。そこが、こともあろうに自らの妹が愛唱していた「上海帰りのリル」から失敗を犯してしまった清張の「捜査圏外の条件」と東野圭吾の『容疑者Xの献身』との評価を分けてしまった。私の評価では「捜査圏外の条件」は5点満点の5点だが、『容疑者Xの献身』は、前の記事にも書いた通り5点満点の4点にしかならない。
このあたりが東野圭吾の弱点なのかどうかはもう少し読んでみなければわからないが、東野の『麒麟の翼』(講談社2011, 講談社文庫2014)を読み終えて、やはり清張と東野とを決定的に分けるところなのではないかとの心証が強まった。
舞台はまたしても日本橋。大阪出身の東野圭吾が上京後に住んだのは東京のどこなのかは知らないが、隅田川西岸のどこかなのだろうか。
東日本大震災の直前に刊行されたらしいこの作品は、翌年映画化されている。阿部寛と新垣結衣が出ている。私は映画はほとんど見ないので、阿部寛(あべ・ひろし)と言われてもピンと来ず、安倍晋三の父方の祖父にして平和主義者だったという安倍寛(あべ・かん)しか思い出さないような無粋な人間だ。安倍晋三は平和主義者と戦争犯罪容疑者の血を引く人間だが、平和主義者に言及する機会はほとんどなく、もっぱら戦犯容疑者ばかりを崇め奉ってこれまでの人生を生きてきた。
東野圭吾はこの『麒麟の翼』でも、派遣労働者が派遣先の工場での危険な作業によって後遺症を伴う負傷をしながら、派遣先の都合によって労災がもみ消されるという一幕を描いている。松本清張が現代に生きていたなら、このモチーフを大きく膨らませたのではないかと思わせる。しかし東野圭吾はそうはせず、単なるエピソードに留めてしまった。殺人事件の被害者にすべての罪をなすりつけたある登場人物が、被害者の息子にぶん殴られるだけで片付けられている。
こういう作品を読むと、東野圭吾という人はせっかくの社会派的題材を取り上げながら、自らがノンポリであるためにそれを活かせていないのではないかと疑ってしまう。『麒麟の翼』の犯人は意外な人物だが、読者がそれを言い当てることができる伏線が十分に張られてはいないように見えるし、その登場人物が犯人だったことで、読後感がいっそう悪くなってしまった。この作品には5点満点の3点しかつけられない。
一方、労働問題をモチーフにした清張作品で思い出されるのは、一般には知名度が低いであろう『湖底の光芒』だ。
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昨年1月に読んで上記ブログ記事に取り上げたが、今読み返すと上記エントリの出来は良くない。われながらまったく満足できない。そこで、下記「アマゾンカスタマーレビュー」を取り上げる。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RFJB7878HQM0B
以下引用する。