KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

東野圭吾『容疑者Xの献身』『白馬山荘殺人事件』を読む

 このブログにも書いたことがあるかもしれないが、私は高校1年か2年生くらいの頃まではミステリーを好んで読んだもののその後読む機会が激減した。特に、1989年に『カラマーゾフの兄弟』を読んだ時、この小説を超えるミステリーなんかあり得ないんだから、などと勝手な理屈を捏ね上げて、以後四半世紀近くの間ミステリーはほとんど読まなかった。この態度を突如変えたのは2013年で、図書館で借りて読んだ松本清張の『Dの複合』にはまってしまったのだった。以後清張のミステリー長篇はおよそ4分の3を読んだ。

 しかし、未読で残っている清張作品(多くは雑誌等に発表されてからかなり遅れて単行本化された作品)を分厚くて文字の小さい全集(文藝春秋刊、全66冊)で読もうと思うまでには至っていないので、他の作家のミステリーも時たま読むようになった。

 東野圭吾の『容疑者Xの献身』(文春文庫2008; 単行本初出文藝春秋2005)と『白馬山荘殺人事件』(光文社文庫新装版2020; 初版1990, 単行本初出カッパ・ノベルス1986)を読んだのもその一環だ。読んだのも作品が書かれたのも『白馬山荘』の方が早いが、作品の出来は直木賞を獲った『容疑者X』の方が段違いに良い(というより、作者の最高傑作ともされているらしい)ので、こちらをメインに取り上げる。この作品は2008年に映画化もされているようだ。

 

books.bunshun.jp

 

 以下の文章では露骨なネタバレは避けるが、トリック等を強く示唆するような文章がどうしても含まれるので、小説を未読の方は読まれない方が良いかと思う。

 本作のトリックには、正直言って全く気づかなかった。社会派とされる清張の作品を多く読んできた私は謎解きにはさほど頓着しない読み方をしている、というより、謎解きよりも人間心理に重きを置いているせいもあるかもしれない。

 しかしそれよりも、最初から犯人を明示しているかのような作品の作りに完全に騙されていたというべきだろう。まさかあんなトリックが仕組まれていようとは。

 これが本格推理小説といえるかどうかという論争が一部にあったようだが、私はそんな論争には興味がない。私は筒井康隆ロートレック荘事件』(新潮社1990*1)の叙述トリックは見抜いたが、本作では及びもつかなかった。

 だが、真相が明かされた時、トリックには感嘆したと同時に大いなる興醒めもしたのだった(以後の文章は限りなくネタバレに近いので、それを避けたい方は以下を読まないで下さい)。

 あれは決して許される行為ではない。アマゾンカスタマーレビュー読書メーター、ことに後者には、本作を読んで感動したとかいう感想文が多数あるが、私はそのことに背筋が寒くなった。先ほどドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に言及したが、ドストエフスキーには『罪と罰』もある。ラスコーリニコフじゃあるまいし、と思った。また、浦沢直樹の漫画『MONSTER』にも「人の命は平等だ」という主人公のセリフがある。

 さらには、本作でも探偵役の「ガリレオ」こと湯川学は下記のように発言している。

 

「この世に無駄な歯車なんかないし、その使い道を決められるのは歯車自身だけだ、ということをいいたかったんだ」

 

東野圭吾容疑者Xの献身』(文春文庫2008)291頁)

  

 これが著者・東野圭吾のファイナルアンサーだ。だから本作の結末はあのようでしかあり得なかった。本作のエンディングで正しい。

 とはいえ、アマゾンカスタマーレビューや読書メーターの感想文に見られる通り、ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフ(『罪と罰』)やヨハン・リーベルト及びエヴァ・ハイネマン(『MONSTER』)、あるいは日本の政界でしばらく前に話題になった某元号新選組の大西恒樹と同じような発想をする人たちを少なからず生み出してしまったことを考えれば、私なら本作に星5つ満点で5点はつけられない。せっかくのトリックにもかかわらず、4点止まりといったところだろうか。

 作者若書きの『白馬山荘殺人事件』の方は、『容疑者Xの献身』と比較するとだいぶ落ちる。

 

 こちらは、まだ図書館が開いていなかった頃にタイトルに惹かれて買ったのだが、意に反して「白馬山荘」とは白馬岳の頂上の、新田次郎の「強力伝」で描かれた風景指示盤があるあの山小屋ではなく、麓にある単なるペンションだった。それを確かめずにタイトルだけで本を買った私が悪いのだが。

 本作は、『容疑者Xの献身』より20年近くも前の1986年に単行本が刊行された。当時はバブル期(1986年12月〜1991年3月)の直前で、著者は20代後半だった。当時の文化を反映して、ペンションだのスキーだのテニスだのといった単語が出てくるが、私は当時からこれらに代表される80年代の文化が大嫌いだった。だから懐かしさなど全然感じなかった。

 本作は新田次郎の「強力伝」でも松本清張の「遭難」でも加藤薫の「遭難」でもなく、もっとも近いのは坂口安吾の『不連続殺人事件』(1948)ではないかと思った。安吾作品では○○○が○○が、同じ密室殺人事件の本作もそうではないか、その場合の○○○は○○○ではないかと勝手に想像していたらその通りだったので拍子抜けした。トリックは込み入っていそうだから想像する気にもならなかったが予想通り込み入っていたし、暗号は絶対に解けない代物に違いないと想像していたらこれも予想通りだったことなど、作品全体としてもあまり感心しなかったので、こちらは5点満点の2点といったところだろうか。もっともこの低い採点は、山小屋かと思ったらペンションだったという当方の早合点による身勝手な理由によるところが大きいから、作者にとっては良い迷惑かもしれない。しかし、本作を書いた頃には作者はまだあまり売れていなかったとのことで、いくらなんでも本作だけで作者を評価するわけにはいくまいと思って『容疑者Xの献身』に手を出したところ、そちらは「大当たり」だった。

 なお私は80年代のバブル期にはペンションに泊まったことは一度もないが、2005年に八ヶ岳天狗岳から北横岳方面に縦走した時に泊まった。80年代当時には八ヶ岳の東南麓にあるJR清里駅近辺にペンションが多く建っていたそうだが、現在はずいぶんさびれたらしい。

 

chinobouken.com

 

 そういえば書き忘れていたが、作者の東野圭吾は大阪出身だが『容疑者Xの献身』の舞台は隅田川を挟んだ東京都江東区と同中央区、それに旧江戸川が流れる同江戸川区などの東京東部だ。このうち前者に関する描写として下記の文章を引用する。

 

 橋を渡ると、彼は袂にある階段を下りていった。橋の下をくぐり、隅田川に沿って歩き始めた。川の両側には遊歩道が作られている。もっとも、家族連れやカップルが散歩を楽しむのは、この先の清洲橋あたりからで、新大橋の近くには休日でもあまり人が近寄らない。その理由はこの場所に来てみればすぐにわかる。青いビニールシートに覆われたホームレスたちの住まいが、ずらりと並んでいるからだ。すぐ上を高速道路が通っているので、風雨から逃れるためにもこの場所はちょうどいいのかもしれない。その証拠に、川の反対側には青い小屋など一つもない。もちろん、彼等なりに集団を形成しておいたほうが何かと都合がいい、という事情もあるのだろう。

 

 このくだりは雑誌連載第1回に当たるから、『オール讀物』2003年6月号に掲載されたことになる。当時の隅田川新大橋付近はこんな様子だったようだ。なお作中では数学教師の石神の住まいは江東区森下あたりにあり、そこから清澄庭園の手前にある高校(2009年発行の地図を参照する限り実在しないようだ)に通勤するのに、真っ直ぐ南下する最短距離をとらずに、わざわざ新大橋を渡って自宅アパートの隣室に住むヒロインが務める弁当屋で弁当を買ったあと、南下して清洲橋を渡って清澄庭園近くの高校に出勤している。これがたいへんな遠回りであることは、一時墨田区の流域によく歩きに行っていた私にはよくわかる*2。しかるに、このようなストーカー丸わかりの行為にヒロインは気づいていなかったというのだから、想像を絶する鈍感さというほかない。この点に限らず、『容疑者Xの献身』の弱点の一つとして、ヒロインがあまりにも魅力に乏しいことも指摘しておかなければならなかった。この点と前述の非人道性が、この直木賞受賞作に5点満点をどうしてもつけられない理由になっている。

 それはともかく、敗戦後の解放感に満ちた1948年の安吾作品からバブル期前夜の虚しさを感じされる1986年の『白馬山荘殺人事件』を経て、格差と貧困の影が濃くなった2003〜05年(小泉純一郎政権時代)の『容疑者Xの献身』へと、ミステリー作品を通して日本現代史が実感できる。

*1:1989年以降に読んだ数少ないミステリーのうちの1冊だ。

*2:その後の都や区によるホームレス排除で現在はどうなっているのだろうか。涼しくなったらまた隅田川流域を歩いてみたいと思った。