KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

信頼できない語り手といえばカズオ・イシグロ、カズオ・イシグロといえば信頼できない語り手(三宅香帆氏)/リストのピアノ協奏曲第1番を久々に聴き込む

 昨年(2024年)にもっとも売れた新書本の1つだったという『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書)を書いた三宅香帆という人が、売れっ子の若手文芸評論家だということさえ私は知らなかった。

 その三宅氏は1994年1月に徳島県美馬市に生まれた高知県育ちの人で、京大文学部に進んで大学院の博士前期課程を修了し、2019年に同後期課程を中退して東京で就職したが、2022年に会社勤めを辞めて文芸評論家として独立したという。

 そんな三宅氏の最愛の作家がカズオ・イシグロとのことで、8月1日にYouTube上に下記動画をアップロードしていた。

 

www.youtube.com

 

 メインで取り上げられているのが『わたしを離さないで』、『日の名残り』、『遠い山なみの光』の3冊で、私はイシグロの小説はその3冊と『クララとお日さま』の計4冊しか読んでいない。しかし三宅氏によれば寡作のイシグロは全部で8作の長篇小説しか書いていないとのことだから、その半分は読んだことになる。

 このうち『遠い山なみの光』は、本記事公開の5日、今年の9月5日に映画が劇場公開されるとのことで、それに合わせて文庫本が改訂された。といっても三宅氏が書いた解説文が新たに書き加えられただけの改訂版らしい。残念ながら私は古い販を持っているので、三宅氏の解説文のためだけに新装版を買い直そうとは思わない。

 本ブログはイシグロ作品の中ではなんといっても『日の名残り』に強いこだわりがある。そして、三宅氏がベストセラーになった前記新書本で指摘した「ノイズ」、私は相変わらずその新書本を読んでいないので三宅氏の論旨と合っているかは自信がないけれども、物語の時代や政治、あるいは戦争といった背景を考察しなければ理解できない小説の最たる作品こそこの『日の名残り』だと思ったものだから、三宅氏とイシグロの名前、それに『日の名残り』の作品名などでネット検索をかけたら、ぴったしカンカンというべきか、上記動画がヒットし、イシグロこそ三宅氏最愛の作家だと知ったのだった。

 上記動画から『日の名残り』について触れた部分からのいくつかのスクリーンショットを下記に示す。

 

 

 

 


 そう、それに気づけない読者など「お呼びでない」小説だといえる。上記動画の中で三宅氏は「第二次世界大戦」と言うべきところを「第一次世界大戦」と言い間違えているが、標準的な(極右ではない)イギリス人にとって第二次世界大戦で敵国のドイツに協力することが何を意味するか、それにさえ気づくことができない読者は論外なのだ。

 『日の名残り』はアガサ・クリスティの『アクロイド殺し』とは違い、読者に気づいてもらうべく文章を書いている。だから、たとえ読者が(イシグロが想定していない)日本人であっても、第二次世界大戦について小学生程度の知識があれば、スティーブンスが本心を語っていることに気づいて当たり前である。しかし『読書メーター』は今回見直しても相変わらず「誤読の殿堂」のままだった。

 下記のくだりには爆笑してしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 確かに嫌だ。

 動画の順序としては前後するが、『日の名残り』の解説に入る前に、三宅氏は下記のように語っていたのだった。

 

 

 

 

 

 

 


 やっぱり文学を専門にしている人たちの間ではそれが常識なんだろうねえ。私もずっとそうだろうと思っていた。でもそれが戦前の法学の理論における「顕教」(天皇主権説)と「密教」(天皇機関説)における「密教」の位置づけにとどまっていて、日本のブログや「読書メーター」では、『日の名残り』を「執事道」に生きた老執事がしみじみと自らの人生を回想する物語ととらえる感想文ばかりだったので、それを「誤読」と決めつけて批判する記事をこのブログに何度も何度も書いてきたのだった。

 今回、人気の若手文芸評論家であるらしい三宅香帆氏の動画が公開されたことで、そういった悪しき傾向が少しでも改められれば、と願う。それこそ文学史を問う大学入試試験に「信頼できない語り手」を問う問題が出されるようになれば良い。

 ところで、以上に見た通り、「信頼できない語り手」とは「読者の認識を揺るがす不確かな語り手の視点」というのが文学理論における意味らしい。前記『アクロイド殺し』のような「読者を騙す語り手」とは意味合いが異なるようだ。もっとも後者に関してもルーツはチェーホフの『狩場の悲劇』(1885)という先例があり、中公文庫入りして江東図書館に置いてあったので借りて読んで弊ブログに下記記事を公開したことがある。その記事のタイトルに「信頼的ない語り手」という言葉を使ったが、いささか誤用気味だったかもしれない。

 

kj-books-and-music.hatenablog.com

 

 三宅香帆氏には下記note記事もある。

 

note.com

 

 この中に、『日の名残り』を含む初期3作品への言及があるので以下に引用する。引用文中の赤字ボールドは引用者(私)による。それ以外の黒字ボールドは原文による。

 

イシグロのデビュー作『遠い山なみの光』そして『浮世の画家』は、「日本を舞台にしていること」によく焦点が当たる。日系イギリス人作家が描いた戦後日本の物語、という経歴も含めた評価。しかし重要なのは舞台設定ではない、と私は考える。戦後イギリスを舞台にした三作目『日の名残り』も含め、イシグロの初期三作品は、ほとんど同じ話を書いているからだ。

 

戦後、無理やり故郷を捨て渡英したことが、娘が自殺する原因を作ってしまったのではないかと回想する母の物語『遠い山なみの光』。戦時中の価値観のなかで成功した画風を、戦後も捨てられずもがく画家を描いた『浮世の画家』。そして戦時中ドイツに肩入れしていた主人を持つが、その思想は間違いだったのではないか、と戦後になって思いを馳せる執事の物語『日の名残り』。

 

つまり三作品とも、「戦争というひとつの大きな時代が終わったのに、その時代の変化を受け入れきれず戸惑う人々の物語」だった。

 

イシグロは、日本とイギリス、場所を変えてほとんど同じ話を書いている。――これは別に作品の新しさがないとかそういう話ではなく、たぶん書きたいものを持っている作家というのは、同じ話をぐるぐると繰り返してしまうのだと思う。というか作家のみならず、私たちもそうだろうけど。自分にとって大切な話を、皆、手を変え品を変えなぜか繰り返してしまう。

 

信じていた思想、つまりは「親」的なものが、突然消失する。でもだからといって「親」への愛情や執着が消え去るわけではない。その狭間で人々は孤独に苦悩を抱える。親――信じていた大きな背中――の失踪による孤独と、愛情。それがこの三作品のテーマだった。

 

URL: https://note.com/nyake/n/naf8c46003608

 

 赤字ボールド部分については、そのくらいは読み取れて当たり前だからという理由でわざわざ「ネタバレ」と断っていないものと思われるが、弊ブログが最初に『日の名残り』を誤読したと私が認定したブログは、それさえ読み取れずにドイツの要人との密約成立について「スティーブンスは『勝利』と言っているではないか」と言い募っていた。だから論外なのである。

 しかしスティーブンスが隠しているのはそれだけではない。新たな「西側」の盟主国にのし上がったアメリカに対する感情もあるし、もっとプライベートな件に関しても隠している。とはいえそれらを読み取ることは読者にとってそんなに難しいことではない。だから、『日の名残り』は「信頼できない語り手」の小説であることが読み取りやすいというかわかりやすい文学作品だと私は思う。

 「書きたいものを持っている作家というのは、同じ話をぐるぐると繰り返してしまう」というのは村上春樹なんかもそうだよなあ、と思ったらその村上春樹村上龍への言及も記事に出てきた。下記の引用文中の青字及び赤字ボールドは引用者による。

 

イシグロって本当に日本で人気の作家だよな、と、書店に行くと思う。翻訳がかなり読みやすいとか、ノーベル賞とか、それらしい理由を挙げようと思えば挙げられるけど、それにしたってTBSで日本版実写化の企画が現代海外文学ってなかなかない。なんでこんなに日本で人気なんだろう、とたまに考える。

 

イシグロのデビューは1982年、ノーベル賞が2017年。日本でいえば平成時代の作家だ。そしてその時代を考えると、イシグロの描く「大きな思想から取り残された人々の回想」というテーマは、日本で大きな物語(経済成長!大企業!結婚!家父長制!)が失われていった時代の空気と合っていたのではないか、とぼんやり思う。いや、あんまり時代の物語に還元しすぎるのもよくないけれど。それでもやはり、イシグロ作品の「戦後というシステムから取り残される人々の物語」は、日本の「昭和的な大きいシステムがなくなって戸惑う私たちの姿」と重なるのではないか。

 

例えば村上春樹村上龍も「システムと個人」というテーマを書くけれど。W村上は個人がシステムに対抗しようとする姿――たとえば企業や組織や大きい鳥に巻き込まれず、自分ひとりで戦う姿とか――を描く。対してイシグロはもう一歩進んで、「システムへの郷愁」を前面に据えている。もはや戦うべき大きいシステムなんてどこにもない時代の物語だ。そこに存在するのはただただ流れが速く、私たちを使い捨てるだけの世界である。

 

もちろん壁と卵だったら我々は卵なんだけど、壁になることができないというのも、孤独なものだと思う。

 

しかしイシグロのいいところは、ロマンチストなところだ。彼は、システムがなくなった後の世界においてもっとも大切なものは、個人同士の愛情である、と考えるのだ。

 

URL: https://note.com/nyake/n/naf8c46003608

 

 こういう分析は、文学的な才能がない私にはできない。脱帽する。

 それと、上記引用文の最後の部分は、『日の名残り』の核心部と深く関わっているようなあと感心するのだ。

 そんな三宅香帆氏の動画その他によって、「カズオ・イシグロといえば信頼できない語り手、信頼できない語り手といえばカズオ・イシグロ」ということが読書愛好者の常識になる日が早くくれば良いと思った。

 

 以下は音楽について書く。弊ブログで結末をこき下ろした村上春樹の『国境の南、太陽の西』だが、この小説に出てくて重要な役割を果たすリストのピアノ協奏曲第1番がちょっとしたマイブームになっている。

 私が持っているジョルジュ・シフラ演奏のCDにはあまり満足できない。やはりアルゲリッチ盤などが良いと思うが、中学生時代に父親から借りた「4大ピアノ協奏曲」の2枚組LPレコードの演奏者がネット検索でわかった。

 

gewandhaus.sakura.ne.jp

 

バッカウアー、ヘブラー、ハラシェヴィッチ、ジャニス による 「ピアノ協奏曲名演集」

2022年2月26日

 

今回は1960年代前期に国内盤フィリップスから「ピアノ協奏曲作品名演集」として2枚組LPでリリースされた懐かしいセット盤を紹介したい。 収録作品はギリシャ出身ジーナ・バッカウアー(Gina Bachauer/1913~1976)のベートーヴェン「皇帝」、ウィーン出身、イングリット・ヘブラー(Ingrid Haebler/1929~ )のモーツァルト戴冠式」、ポーランド出身1955年ショパン国際ピアノ・コンクール優勝のアダム・ハラシェヴィッチ(Adam Harasiewicz/1932~ )のショパン「ピアノ協奏曲第1番」そしてアメリカ出身超絶技巧派ピアニスト、バイロン・ジャニス(Byron Janis/1928~)のリスト「ピアノ協奏曲第1番」となっている。 いずれも1960年代初頭ステレオ録音の名盤を集めたものである。

 

またそれぞれのバックも順にスタニスラウ・スクロヴァチェフスキー指揮ロンドン交響楽団、コリン・デーヴィス指揮ロンドン交響楽団、ハインリヒ・ホルライザー指揮ウィーン交響楽団、キリル・コンドラシン指揮モスクワ・フィルハーモニー交響楽団と興味深かかった。

 

 私がこの2枚組を聴いていたのは1975〜77年頃だが、LP自体は1960年代初頭の発売らしく、ちょうど村上作品で始と島本さんが聴いていたのと同じ頃だ。しかし彼らが聴いたリストの協奏曲のLPには第1番と第2番がおそらく表裏面に収録されていたから、LPは間違いなく別物ではある。なおイングリット・ヘブラーは2023年、バイロン・ジャニスは2024年にそれぞれ亡くなったがいずれも90歳を超える長寿だった。またアダム・ハラシェヴィッチは今年7月に93歳の誕生日を迎えた。4人のピアニストのうち50代で早く亡くなったのはジーナ・バッカウアーただ一人で、残り3人は90歳以上の長寿だったが、概してクラシック音楽の世界では作曲家の人生は短く、演奏家の寿命は長い。リパッティやグールドは例外だったし、指揮者は特に長生きで、68歳で亡くなったヴィルヘルム・フルトヴェングラーは残念な例外だった。

 2件前(だったと思う)に公開した記事でも紹介したが、下記ブログ記事に引用された主人公の「始」によるリストのピアノ協奏曲の描写は実に印象的だ。

 

rose-music-etc.livedoor.biz

 

 以下、上記ブログ記事から孫引きするとともに、上記記事で省略された部分も書き加えて村上作品から引用する。

 

 そしてまた、それは美しい音楽だった。最初のうち、それは大仰で、技巧的で、どちらかといえばとりとめのない音楽のように僕の耳には響いた。でも何度か聴いているうちに、まるでぼやけた映像がだんだん固まっていくみたいに、その音楽は僕の意識の中で少しずつまとまりのようなものを持ちはじめた。目を閉じてじっと意識を集中していると、その音楽の響きの中にいくつもの渦が巻いているのを見ることができた。ひとつの渦が生まれると、その渦からもうひとつ別の渦が生まれた。そしてその渦はもうひとつの渦と結びついていった。それらの渦は、もちろん今になって思うことなのだけれど。観念的で抽象的な性質を持つものだった。僕はそのような渦の存在をなんとか島本さんに伝えたかった。でもそれは日常的に使っている言葉で説明できる種類のものではなかった。それを正確に表現するためには、もっと違った種類の言葉が必要だったが、僕はそのような言葉をまだ知らなかった。そしてまた僕の感じているそういうものごとが、あえて口にして他人に伝えるだけの価値を持ったものなのかどうかもわからなかった。

 

村上春樹国境の南、太陽の西』(講談社文庫版, 1995) 16頁)

 

 上記の文章を読んだ時、私は、ああこれは第2番ではなく第1番の協奏曲のことを言っているんだな、と直感した。前記ブログ主とは逆の感想だが、私は手元にあったリストのピアノ協奏曲第1番、この最初聴いた時にはさっぱりわからなかった音楽を結構聴き込んだのだった。その後、第1番よりも詩情豊かだという評判の第2番もFMラジオで聴いたが、第1番より良いとは思えなかった。私は未だにリストの第2協奏曲にはあまりなじめていない。

 ネット検索をかけると、リストの第1ピアノ協奏曲に対する20世紀ハンガリーの大作曲家、バルトーク・ベーラによる下記の評価がWikipediaに載っている。

 

バルトーク・ベーラは本作について「循環形式によるソナタ形式を初めて完全に実現させた作品であり、共通の主題が変奏の原理によって扱われている」と述べた。

 

 私の手元にはちくま学芸文庫の『バルトーク音楽論集』(2018)があるので参照したが、上記引用文に対応する文章が159頁にあるだけで、それ以上の分析はされていなかった。

 また半世紀近く前の記憶なのでうろ覚えだが、LPのライナーノーツにはゲーテの『ファウスト』になぞらえる文章が書かれていたような記憶がある。それこそ「信頼できない語り手」の記述にしかならないが、冒頭の半音階下降を含む主題がファウストに、第2楽章の序奏に続いてピアノが演奏するロ長調の美しい主題がグレートヒェンに、またそのあとに出てくる変ホ短調スケルツォ主題がメフィストフェレスにそれぞれなぞらえていたような気がする。もっとも白状すると私は『ファウスト』を読んだことはない。

 無謀にも、参考文献も楽譜もなしで分析もどきに挑戦してみた。

 

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 第1楽章冒頭に提示される主題が「循環主題」であることは疑いないが、この主題は変形された時には半音階への下降音型に簡略化されることがある。何度か聴き直してそのことに気づいた。第1楽章の中で前記の循環主題に対比されるのは、最初ハ短調の属音(ト音)から主音(ハ音)までの全音階下降で始まり、次いで遠隔のイ長調で繰り返される主題だろうか。循環主題の半音階に副主題の全音階が対比されるわけだ。

 第2楽章は「ミーファラーソーラドーレーミー」で始まる上行音型に「ミーレドーミーシーラソー」という下降音型が続く主題で始まる。いずれも全音階に基づく。そのうちに主題後半の下降音型によって次第に緊張感が高まるが、そこに「ミファミード♯レレー ラシラーファ♯ソソー」というハ長調のかわいらしい音型が現れる。シャープ5個のロ長調の主題に対して、シャープもフラットもない、半音上のハ長調は対比されている。この主題はLPのライナーノーツでも聴き手の注意が喚起されていた箇所だったはずだ。この音型はロ長調下属調であるホ長調(シャープ4個)で繰り返されるがロ長調には戻らずに変ホ短調スケルツォ部分へと移行する。この曲の楽章構成については、確かスケルツォの部分を独立した第3楽章と見る流儀と、緩徐楽章とスケルツォを一緒にして第2楽章と見る2つの流儀があったはずで、確かLPのライナーノーツは後者ではなかったかと思う。スケルツォからフィナーレへの移行部分では、前記の「かわいらしい音型」が再現し、この音型がブリッジになって曲想が盛り上がったところに冒頭の循環主題が再現して、フィナーレへとつながる。この移行部分の盛り上がりはベートーヴェンの第5交響曲を少し思い出させる。

 フィナーレの主題は第2楽章の美しい主題の変奏だが、勇ましいマーチの形に変わっている。このあたりはベルリオーズの「幻想交響曲」からおどろおどろしさを除去したような趣がある。さらにはスケルツォの音型も加わり、フィナーレの末尾では行進曲の曲想に半音階の下降音型、つまり循環主題に由来する音型も加わって、これまでに出てきた主題群が渾然一体となって曲を終える。

 以上、バルトークが指摘した「循環主題によるソナタ形式」の説明には全然なっていないが、村上春樹が書いた

音楽の響きの中にいくつもの渦が巻いているのを見ることができた。ひとつの渦が生まれると、その渦からもうひとつ別の渦が生まれた。そしてその渦はもうひとつの渦と結びついていった。

という文章との対比は、もしかしたら少しはおわかりいただけるのではないだろうか。

 第1楽章内では半音下降を主な要素とする循環主題から、全音階的な下降音階を主な要素とする主題が生まれ、それが全音階的な上行音型を主な要素とする第2楽章の主題に変容した。そしてフィナーレで循環主題が第2楽章との主題と結びつく。

 これは少年時代の始にとっては島本さんと結ばれるという夢を喚起する音楽ではなかっただろうか。

 リストのピアノ協奏曲第1番を聴き直しながらそんなことを思った。

 小説で始が平然と(資本主義の)「悪」の世界に戻っていって、消えたのは島本さんだけだったという小説のろくでもない結末は私には到底容認できないが、リストのピアノ協奏曲第1番を上記の引用文のように表現し、それをモチーフの一つにして、他にはジャズの「スタークロスト ラヴァーズ」をモチーフにしているが、これがまた悲しい音楽である。これらを小説に取り入れた村上の音楽的才能は、これまた私には及びもつかない。

 

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 8月は読書・音楽ブログに少し多めの記事を書いた。まだ書きたい題材があるので、9月も少しはブログを更新できるだろうと思う。