KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

2021年5〜7月に読んだ本; 吉見俊哉『東京復興ならず』/カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』/成長を続けたアガサ・クリスティと衰退の一途をたどる東野圭吾

 5月の連休明けからずっと忙しく、一昨年以来2年半の間、弊ブログを最低月1回更新してきた記録が途切れるピンチになった。そこで、このところ読んだ本(大半が小説で、うち半分以上がミステリだが)をいくつか取り上げて感想を軽くまとめてみる。

 まず、小説以外では2週間かけて少しずつ読み進めた吉見俊哉『東京復興ならず - 文化首都構想の挫折と戦後日本』中公新書2021)を読み終えたのは、東京五輪の開会式が行われた7月23日だった。著者は「もともとオリンピックシティ東京への批判」(本書295頁)として東京五輪開催が決まった2013年から企画を始めた本書をようやく今年4月に発刊したとのことだ。

 以下、中公のサイトから本書の紹介文を引用する。

 

東京復興ならず

文化首都構想の挫折と戦後日本

吉見俊哉

 

空襲で焼け野原となった東京は、戦災復興、高度経済成長と一九六四年五輪、バブル経済、そして二〇二〇年五輪といった機会のたびに、破壊と大規模開発を繰り返し巨大化してきた。だが、戦後の東京には「文化」を軸とした、現在とは異なる復興の可能性があった……。南原繁や石川栄耀の文化首都構想、丹下健三の「東京計画1960」など、さまざまな「幻の東京計画」をたどりながら、東京の失われた未来を構想しなおす。

 

出典:https://www.chuko.co.jp/shinsho/2021/06/102649.html

 

 「文化首都構想」とは言っても一筋縄ではいかない代物で、光の部分と影の部分がある。とはいえ「文化首都東京」が実現しなかったことは確かだ。ナオミ・クラインの「ショック・ドクトリン」をもじった「お祭りドクトリン」と著者が呼ぶところの1964年の東京五輪を契機に、東京は一極集中を強めて文化よりも経済の中心として巨大化していった。それが見直されたのが1970年代末の大平正芳政権時代で、大平は経済中心から文化中心へと重点を移そうと試みたが、1980年の衆参同日選挙の真っ只中の突然の死去によって、その試みを挫折した。再び経済重視の中央集権思考を強めたのが、1982年秋に田中角栄の力を借りて総理大臣についに成り上がった中曽根康弘であって、「民間活力の活用」、通称「民活」路線によるグローバル新自由主義路線を敷いた。1999年に都知事に就任しやがった石原慎太郎が言い出しっぺとなって執拗な招致活動が行われた「再度の東京五輪」は、1964年の夢よもう一度との意味の他に、1989年末から始まったバブル崩壊によって宙に浮いた臨海都市の開発に再度の弾みをつける「お祭りドクトリン」を狙ったものだったが、グローバル新自由主義が産んだ鬼っ子ともいうべき新型コロナウイルスに阻まれつつある。東京五輪は1940年のように中止にはならなかったが、2020年ではなく2021年に行われているが、大会期間中に感染が急拡大し、これまでで最多の新規陽性者数を記録しようとしている。

 アマゾンカスタマーレビューの数も少ないなど、あまり話題にはなっていない本のようだが、なかなか興味深く読んだ。

 あとは小説になるが、 1999年から2002年にかけて読んだアゴタ・クリストフの三部作である『悪童日記』、『ふたりの証拠』、『第三の嘘』(いずれもハヤカワepi文庫)を再読し、カズオ・イシグロの第6長篇にして、日本ではもっとも評判が高い『わたしを離さないで』(ハヤカワepi文庫)は初めて読んだ。

 後者は同じイシグロの『日の名残り』ほどには面白くなかった。ネタバレを避けるために内容は紹介しないが*1、イシグロ得意の「信頼できない語り手」の手法が用いられているとはいえず、誤読の余地が少なくエモーショナルな色合いが強い。イシグロ自身は本作では「信頼できない語り手」は使わず、ストレートな話者の一人称にしたと語っているようだ。その通りだと私も思う。またイシグロは本作がイギリスを舞台にしているにもかかわらず、自作の中でももっとも日本的な作品だと語ったとのことだが、なるほど、主人公たちが反乱を起こすでもなく運命を受け入れているあたりは「日本(人)的」かもしれないと思った。いずれにせよこの作品がイシグロの最高傑作であると仮にするならば、村上春樹も十分イシグロと張り合えるか、または村上の作品の方が良いのではないだろうか。ただ、村上には『日の名残り』は書けないだろう。私は『日の名残り』の方が『わたしを離さないで』よりもずっと良いと思う。ただ、弊ブログにも以前書いた通り、『日の名残り』は本邦では多くの読者たちに誤読されている。

 

www.hayakawa-online.co.jp

 

www.hayakawa-online.co.jp

 

 上記早川書房のサイトにも、読者を誤読に誘うような文章が掲げられているようだ。この煽り文では『日の名残り』はまるであの西岸良平の糞漫画『三丁目の夕日』みたいではないか。せめてこの小説を誤読しない程度には日本の読書家たちの読解力が改善されてほしいものだ。一言だけ書いておくと、『日の名残り』の主人公には、『わたしを離さないで』の主人公他の登場人物たちと同じくらいのエモーションの強度がある。それを「信頼できない語り手」が隠していることを読解できるかが読者の課題だ。

 あとはミステリ。多くがアガサ・クリスティで残りの少しが東野圭吾だが、東野圭吾がどんどん退歩する一方の作家であることを知ったのが、ガリレオシリーズ第8作の『禁断の魔術』(文春文庫)だった。この作品はまず短篇(あるいは中篇)として2012年に書かれ、のち文庫化に際して2015年に長篇に改められたという。

 

books.bunshun.jp

 

 本作は「理系ミステリ」とのことで、「科学技術の平和利用」がテーマのようだが、探偵役の湯川学がなぜか高校生に「レールガン」なる古典電磁気学を利用した兵器技術を教えたことが物語の発端になった。レールガンとは電磁気学ローレンツ力を利用した、主に兵器に用いられる技術だが、一発発射するとレールの金属がプラズマ化して損傷するなどメンテが大変なため、大国による軍事技術開発の長年の努力にもかかわらず実用化されていないようだ。

 大電流を流すために危険だし、どう考えても民生用の技術ではない。こんなものを本職の物理学者が高校生に教え込むという設定自体が「あり得ない」のだが、湯川学という名前の探偵役(「ガリレオ」)は、レールガンは人殺しのための技術ではないと主張する。それならなぜ「レールガン」という名前がついているのだろうか。

 以下はネタバレになるが、湯川から「レールガン」を学んだ高校生は卒業して大学に入るが、その途端に新聞記者だった姉が急死して大学を辞めてしまう。姉が死んだのは、彼女の取材の対象だった大物政治家との不倫の現場だったホテルで発作を起こしたところ、不倫の露見を恐れた大物政治家がホテルから逃げ出したために亡くなってしまったものだった。真相を知った弟は、レールガンを使って大物政治家を殺そうとする。小説は、湯川がそれを止められるかどうかの活劇を描いている。そこには推理の要素はほとんどないので、推理小説としての面白さは全くない。

 上記の筋立ては、私が愛好して止まない松本清張の短篇「捜査圏外の条件」の前半と瓜二つだ。清張の作品では犯人の姉ではなく妹が不倫の現場で見捨てられ、身元不明の死体になってしまった。犯人は、その復讐のために7年間自らの気配を消したのち復讐を遂げるが、妹が生前好んでいた流行歌「上海帰りのリル」から足がついてしまう。

 東野圭吾の「ガリレオシリーズ」では第5作(長篇では第2作)の『聖女の救済』が、1年間何もしないでやおら復讐を遂げる点で前記清張の「捜査圏外の条件」を連想させる。「捜査圏外の条件」は、前半部分で東野の『聖女の救済』に、後半部分で同じ東野の『禁断の魔術』に影響を与えている。東野自身、作家になる前に清張作品を愛読した時期があったらしいことを考慮すると、ここで指摘した清張の影響はまず間違いないだろうと私は考えている。

 しかし、清張と東野では結末が全く違う。清張作品では復讐を果たした犯人は殺人が露見して自殺するが、東野作品では自らが伝授した殺人技術によって復讐が成就することを阻止する。それで、姉を見殺しにされた若者は、復讐という名の殺人を犯さずに済んだ、良かった、良かった」というのが東野のコンセプトなのだが、果たして物語としてそれで良いのか。殺人未遂事件を起こした若者は逮捕され、その後の人生に明るい展望など描きようがないだろうし、昔総理大臣だった佐藤栄作を思わせる風貌の人物として描かれた政治家は、なんら罰を受けることなくのうのうと生き延びる。清張だったらこんなエンディングには絶対にしなかったはずだ。

 最悪なのは「ガリレオ」こと湯川学であって、私は湯川こそこの小説で一番の悪玉ではないかと思う。いうまでもなく、高校生に殺人兵器の技術を教え込んだからだ。湯川はこれを人殺しのための技術ではないと主張するが、「ガン」と名のついたこの技術が何に利用されるべきなのか、湯川は何も語っていない。これほど筋の通らない話はない。

 それに何より、本作は短篇あるいは中篇を引き延ばして改作した長篇であるせいか、文章が間延びしていて退屈する。ガリレオシリーズでは第3作(長篇第1作)の『容疑者Xの献身』が最悪の作品だと思うし、ブログ記事でもさんざんにこき下ろしてきたが、それでも読者を引きつける文章力があったし、トリックにはもののみごとに騙された。いわば、エネルギーは大きいがベクトルの向きがおかしな作品だった。

 しかし、『禁断の魔術』の間延びした文章にはいっこうに引き込まれない。エネルギー密度はスカスカで、ベクトルの向きは相変わらず間違っているという、取り柄が全くないミステリもどきになってしまった。東野圭吾は『禁断の魔術』を書いた50代には衰退の一途をたどっていたのではないか。

 その点は、「ミステリの女王」と謳われたアガサ・クリスティとは好対照だ。東野圭吾ノンポリであるのに対してクリスティは憎ったらしい保守派で、ことにデビューした1920年代前半の作品では、ヒロインがローデシア(現ジンバブエ)にある植民地主義セシル・ローズの墓参りをしたり(『茶色の服の男』)、犯罪者の子は悪人である可能性が高いとエルキュール・ポワロに言わせ、その通りの結末だったり(『ゴルフ場殺人事件』)、あげくの果てには「共産主義者アイルランド独立党と(イギリスの)労働党を横並びに一つの悪とみなしている箇所があって、これはいくらなんでもひどい」「政治音痴なところがある」と文庫本の解説者(杉江松恋氏)に酷評される始末だ(『秘密機関』)。ところが、こんな処置なしの人だったクリスティも、30年代、40年代(それぞれクリスティの40代、50代)と時代が進んで年をとるにつれ、若い頃の単細胞的な価値観に変化が生じる。たとえば、『動く指』(1943)は、その20年前に書いた『ゴルフ場殺人事件』と同じく、一人称の語り手のロマンスを盛り込んだミステリだが、『ゴルフ場殺人事件』で「犯罪者の娘は犯罪者」との偏見(あるいは差別思想)を臆面もなくひけらかしたのとは対照的に、語り手が「犯罪者の娘」と結ばれる。つまりクリスティは20年前に持っていた差別思想を事実上撤回している。このヒロインがなかなか個性的で、勉強は苦手でシェリーやワーズワースの詩やシェークスピアの戯曲はつまらない、でも『リア王』のゴネリルとリーガン*2は好きで、科目では数学が得意だという。おっ、と思ったのは、語り手とヒロインがともに中国の水墨画に感心する場面だ。若い頃のクリスティは、中近東だろうが極東だろうが見下す対象でしかなく、日本の「キモノ」はよく出てくるが良い描かれ方はしておらず、たいてい悪役が着ている。だから、クリスティ作品の登場人物が水墨画に感心するなんて、と思ったのだ。もっとも本作が書かれた1943年は第二次大戦中だから、当時のクリスティの日本観は推して知るべしだし、それは当然のことでもあるが。

 ただ、クリスティと東野圭吾を比較して思うのは、かつてのイギリスと今の日本という、ともに衰退国にありながら、クリスティの方は作品で試行を重ねながら自己の価値観や世界観も日々アップデートしている様子が作品から伝わってくるのに対し、30代後半から台頭して40代で大物にのし上がった東野圭吾は「犯罪者の家族は責任を負うべし」との思想を堅持するなど思考のアップデートが全く見られない上、決定的な成功を収めた作品で、愛する女性のために罪のないホームレスを虐殺した極悪非道の男の物語を「献身的な純愛」の物語にでっち上げる(『容疑者Xの献身』)という信じ難いほど差別的な思考を露呈した。その作品の大成功で勘違いしたのか、短篇または中篇を単に長篇に引き延ばしただけのスカスカの作品を発表し、そこでは高校生に危険な殺人兵器の作り方を教えた悪質きわまりない「物理学者」が、それは人殺しのための技術ではないなどと平然とうそぶき、自らが教えた殺人兵器を用いて、姉のかたきの極悪の政治家を殺そうとした青年を止めるという、いったい何を考えているのかと言いたくなるほどの「超駄作」を発表し、それを自ら「最高のガリレオ」などと抜かした。確かに実生活では復讐のための殺人などやってはならないが、それならなぜ「忠臣蔵」が今でも人気があったり、東野圭吾自身が影響を受けた松本清張が少なくない復讐譚を書いたのだろうか。それはフィクションでなら許されるのだ。スポーツで「死」や」「殺」などの言葉が普通に用いられるのと同じく、人間が誰しもなく持つ暴力性を解放する行為なのだ。このことは何もスポーツや大衆芸能ばかりではなく、「芸術」と呼ばれる分野でも例外ではない。それに東野のコンセプトによると、愛する女性のために罪のないホームレスを虐殺することは「献身的な純愛」だが、姉のかたきである罪深い大物政治家に対する復讐は、たとえフィクションであってもやってはならないことになってしまう。同じ名前の小山田圭吾と比較しても、どちらがより悪質な差別思想の持ち主かわからないくらいだ。こんな東野が日本では大物小説家として現在も通用しており、香港の政治活動家として有名な周庭も東野作品を村上春樹作品と並んで愛読していて、獄中に東野の小説を差し入れしてもらったと聞く。しかし東野の小説など反体制の政治活動家にとっては百害あって一利なしとしか、私には思えない。

 長いエントリを悪口で締めるのも気分が悪いので、クリスティの『メソポタミヤの殺人』が、やはり「信頼できない語り手」の手法を用いていて、今度はさすがに殺人犯ではないものの、思い込みで読者をミスリードするのに利用されている。クリスティはある時期からポワロものの長篇の語り手だったヘイスティングズの出番を激減させるが、これは明らかに成功だった。ヘイスティングズを語り手にした作品群では、ストーリーの構造がガラス張りと思われるほどミエミエで、早川書房の煽り文句のせいもあって読む前からどんな筋立てかわかってしまうほどだが、三人称の形式で登場人物の心理の動きをチラ見させる手法や、ヘイスティングズ以外の「信頼できない語り手」を用いた作品などで、読者を欺くことに確かに成功しているように思われる。但し、『メソポタミヤの殺人』は犯人がわかった(トリックはわからなかったが)。この作品は、ロマンスの要素がほとんどないことを除いて、ミス・マープルものの『動く指』とよく似た構造の筋立てだ(作品の成立は1936年の『メソポタミヤの殺人』の方が早い)。一人称の語り手を用いている点でも共通している。このように、クリスティ作品では時期の近い2つの作品の構造が似ていることが多い。似た小説を書きながら、少しずつ幅を広げていくのがクリスティのやり方だったようだ。

 こうして、私は東野圭吾の文庫化された「ガリレオシリーズ」を全部読み終えて、東野を読もうという気がすっかり失せてしまったのに対し、クリスティ作品は今後もストレス解消のために読み続けることになるだろう。もっとも、これからしばらくはクリスティ作品も断たなければならないほど仕事の予定が立て込んでいるのだが。本記事を書くのにも時間をかけ過ぎてしまった。

*1:この小説は予備知識なしに読むに限る。本邦では2016年に綾瀬はるか主演でドラマ化されたらしいが(TBS)、幸い視聴率は低かったらしい。

*2:リア王の娘の三姉妹の長女と次女で、悪役として有名=引用者註。