KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

【ネタバレ満載】カズオ・イシグロ『クララとお日さま』詳論 〜 本作で一番戦慄した箇所は第四部中ほど(全体の3分の2くらい)のある場面だった

 前回取り上げたカズオ・イシグロの『クララとお日さま』について、sumita-mさんのブログが弊ブログへの言及を含む記事を下記記事を公開された。それに触発されて、この小説についてもう少し書くことにした。

 ところで、今回の記事のタイトルに【ネタバレ満載】と銘打った。これは、弊ブログの読者の方にはできるだけ本作を予備知識なしでお読みいただきたいと思うからだ。本作はミステリではないし、作者のカズオ・イシグロ自身はネタバレ大いに結構というスタンスらしいのだが、私は本作のあらすじをあらかじめ知ってしまうと大いに興趣が削がれると思った。だから前回の記事では「これくらいは書いておいても大丈夫だろう」と思った箇所に限定して短い文章を書いたのだった。

 しかし、sumita-sさんが本作の内容にもっと踏み込んだ記事を公開されたので、私ももう少し踏み込んで書いてみたいと思った。そうすると、どうしてもこの本を読んだ時に「意表を突かれた」点に触れないわけにはいかない。その知識は未読の方にはあらかじめ知っていただきたくないと思うので、【ネタバレ満載】と銘打った次第。以上の理由により、本作をお読みでない方にはこの記事を読むことはおすすめしない。

 

sumita-m.hatenadiary.com

 

 以下引用する。

 

(前略)古寺多見氏が『クララとお日さま』で注目した点と、私が印象的だと思った部分は違う。氏は語り手である「クララ」の「太陽神信仰」に注目している。

(中略)

さて、『クララとお日さま』で最も戦慄的なのは最後の最後。短い第六部だと思う。「お日さま」のご加護によって「ジョジー」の生命が恢復するというクライマックスが終わった後の後日談。ここで、メタ・ナラティヴ的な仕掛けが開示されるとともに、また新たな謎が喚起されて、物語はフェイド・アウトしていく。

 

URL: https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2024/03/25/085151

 

 第六部というと、クララが廃品置き場に置かれていることが明らかにされる箇所だろうか。

 そうだとしたら、それに関しては私は本作を読み始めた段階で想定したいくつかのエンディングの一つだったので、「やはりそうきたか」と思ったのだった。前回、2021年7月に読んだイシグロ作品『わたしを離さないで』からの類推で想定したものだ。

 この暗転については石田純一氏の下記記事が詳しく論じている。

 

www.vogue.co.jp

 

 上記記事は前回も取り上げたが、前回は埋め込みリンクにはしなかった。その理由は、埋め込みリンクにすると「人ならざる存在が人間の少女を救う」と書かれた文章が目に入るからだ。その救済の部分は第六部に次いで短い第五部にあり、ここで物語は大きく転回する。しかし、まるでアガサ・クリスティのミステリのように、物語は再度大きく転回する。それが第六部だ。クリスティ作品でのそれを、私は「多段どんでん返し」と勝手に名付けている。それは、松本清張なども愛用したミステリの王道パターンの一つだ。私は本作を読む前位に各部の長さを確認し、第五部と第六部が非常に短いことを知って、ここに何らかの仕掛けがあるんだろうなと思っていた。

 池田純一氏は書く。

 

だが、これはイシグロ作品にはよくあることなのだが、意地の悪いことに彼は、読後に、物語としてそれまで読んできた内容を、はたして額面通りに受け止めてよいのかどうか、はたと疑問を抱かせるような仕掛けを施してくる。

今回の場合は、物語で最後にクララが廃棄された場面が描かれたこと。クララは、ジョジーの「ズッ友」というわけではなかった。期間限定の未成年者向けのオモチャにすぎなかった。クララ=AFもまた、卒業すべき対象だったのだ。それまでジョジーに対するクララの献身的な行動を見守ってきた読者からすれば、この最後の場面は少なからず衝撃を受けてもおかしくはない。

 

URL: https://www.vogue.co.jp/change/article/vogue-book-club-klara-and-the-sun

 

 氏が書く通り、「イシグロ作品にはよくあること」なので、私には覚悟ができていたのだった。

 しかし、本作には私が想定できなかった大きな転換点が一つあって、私はそれに大きな衝撃を受けたのだった。それは本作で最も長い第四部(文庫本で130ページある)の途中、全体の3分の2ほどの箇所にある、ジョージー*1の母親・クリシーがジョージーのためを偽装してAFのクララを購入した真意を作者に知らされた時だった。

 作品の舞台である未来のアメリカ(とおぼしき地)においては、子どもは「向上処置」を受けるかどうかで選別される。これについて池田氏の記事から引用する。

 

階層社会への批判。

 

この小説世界の子どもたちは、ある年齢になると、「向上処置(リフト)」するかどうかの選択を迫られる。向上処置は、いまでいうゲノム編集技術によってなされるもので、イシグロが執筆の際にイメージしていたのはCRISPRだった。

 

ちなみにCRISPRの開発者であるジェニファー・ダウドナ教授(米カリフォルニア大学バークレー校)とエマニュエル・シャルパンティエ教授(独マックスプランク研究所)の2人の女性研究者は2020年のノーベル化学賞受賞者である。イシグロは、このCRISPRのような安価ゆえに普及が早いと見込まれる技術を今回の作品で採用し、近未来としての現実感を醸し出すことに成功している。

 

ところで、今、向上処置を選択するといったが、この選択は、事実上、その子どもの家庭の裕福さによって決まる。つまり、金持ちの家の子どもは、向上処置をした上で大学に進学し、上層社会での人生に歩みだす進路が与えられる。それが当然の社会となっている。イシグロのいるイギリスで伝統的に繰り返されてきた、「オックスブリッジ」──開校以来800 年以上の伝統をもつオックスフォード⼤学とケンブリッジ⼤学の総称──の卒業生から統治階級が再生産される社会の未来版である。

 

ただし、ゲノム編集に基づく向上処置には副作用による病が生じることがある。つまり、向上処置の判断にはリスクが伴う。だが、向上処置なしでは大学進学の道はほぼ閉ざされてしまう。そうなると、子どもの将来のこともさることながら、上層階級の親の見栄から向上処置がなされることも実際には多いことだろう。ここには、メリトクラシー(能力・業績主義)による階層社会の正当化という方便に対するイシグロの批判が込められていると⾒てよいだろう。

 

その点で気にかけるべきは、『クララとお日さま』の舞台がイギリスではなくアメリカであることだ。イシグロの見立てでは、自由で平等な社会として始まったはずのアメリカも、AIやゲノム編集技術を経て、イギリスのような階級社会へ転じていくのだ。

 

URL: https://www.vogue.co.jp/change/article/vogue-book-club-klara-and-the-sun

 

 ジョージーは富裕層に属するので、母親のクリシーは彼女に向上処置を受けさせたが、彼女にはサリーという姉がいて、サリーは向上処置の副作用で死んでしまったのだった。

 それでもサリーを忘れられないクリシーはサリーの人形を作らせたが、それは捨てられてしまったらしい。しかしクリシーによると、ジョージーはそのサリーの人形を覚えているという。

 姉に次いで妹のジョージーも向上処置の副作用で生命の危機に晒された。このことは物語の最初の方で提示される。第一部から第四部に至るまで、ジョージーの状態は悪化の一途をたどるが、第四部でクララを購入したクリシーの真の狙いが明かされる。それは本物そっくりのジョージーの人形に、ジョージーの思考やしぐさなどを学習したクララのAI(人工知能)を埋め込み、ジョージーの代わりにすることだった。

 これにはさすがに戦慄させられた。なんてことを考えるのか。結局こいつ(クリシー)が考えていることは娘のためではなく自分のためなのかと腹も立った。この展開は全く予想していなかったので意表を突かれた。

 それと同時に、何かが起きてジョージーが助かるのなら、それはクリシーにとってはクララが用済みになることを意味するから、そうなればクララは(クリシーに)廃棄されるであろうことは当然予想できた。だから第五部でクララの信仰が通じて奇跡が起きたあと、第六部での廃品置き場行きに「やはりそうきたか」と思ったのだった。

 リアリズム的にいえばジョージーがクララの廃棄に反対しなかったことは仕方ないだろう。それは私が13年使ったiMacを昨年更新した時の感慨のようなものだ。それよりもクララの廃棄を決めたのが明らかにクリシーであることに私は注目した。ほんと、このクリシーってどうしようもないやつだなと。

 本作でやりきれないのは、幼い頃から相思相愛だったジョージーとリックとが別々の階級に属するために疎遠になってしまうことだ。リックにとってはジョージーとは死別か別々の階級に属することによる別れかのどちらかしかなかった。クララとリックの願いがかなってジョージーは回復したが、その後のクララとリックに待ち受けていたのは幸せではなかった。それが階級社会というものだ。

 イシグロの作品にはいつもこうした「階級」に対する批判が強烈に込められている。それは『わたしを離さないで』もそうだし、多くの読者、というよりも日本では大部分の読者が誤読している(と私は断言する)『日の名残り』では特にそれが顕著だと思う。そして『日の名残り』にはそれに適応しようとする個人に対する強烈な批判も込められている。それが「信頼できない語り手」という手法を通じて表現されているわけだ。

 ジョージーとリックの選択において選択をしたのは常に親だった。ジョージーの母・クリシーはサリーの死にもかかわらずジョージーの時にもサイコロを振ったが、リックの母ヘレンはサイコロを振らなかった(富裕層から外れてしまってサイコロを振れなかったとの解釈も可能だ)。しかしヘレンはリックと一緒にバンスという知人に「向上処置」を受けていない生徒も受け入れる名門大学への縁故入学を頼みに行く。そしてリックを問い詰めるバンスに「そう、わたしたちは依怙贔屓をお願いしてる」と言い放ち、リックに対しては「バンスに頼んでいるのはおまえではなくわたし。で、求めているのは依怙贔屓。もちろん、そうなのよ」と言う*2

 ジョージーが今まさに死のうとしている時にクリシーがリックに言い放つ「あなたはいま自分が勝ったように感じているかしら」*3という言葉ほど腹立たしいものはない。ヘレンもそうだけれど、クリシーはもっとあからさまに「親のエゴ」をむき出しにする。

 だから、ジョージーが助かったことは良かったけれども、クリシーって本当に腹立つよなあ、と思わずにはいられない。

 そういえば似たような類型の人間が思い浮かぶ。私が思い出したのは、息子の音楽の才能を利用してハプスブルク家の宮廷に一家で入り込んで安楽な晩年を過ごそうとたくらみ、それを女帝マリア・テレジアにもののみごとに見抜かれたレオポルト・モーツァルトだった。そしてベートーヴェンの父親もカール・マリア・フォン・ウェーバーの、息子同様貴族を僭称した父親(モーツァルトの妻コンスタンツェの叔父)も息子にスパルタ教育を課した。ウェーバーなど上の二人の兄はうまくいかなかったのが三男で成功すると、父親はこの息子に寄生した。とんでもない悪党である。

 科学技術と人間の尊厳(というより優生思想の問題か)や、階層社会あるいは階級などの大問題に加えて、いつの世にもこの手の親のエゴには手がつけられないのかもしれない。

 そうそう、あやうく書き忘れるところだったが、『クララとお日さま』で一番大きな謎だと思ったのは、ジョージーが「お日さま」の恵みを受けて回復する場面で、家政婦のメラニアさんがそれを阻止しようとすることだった。なぜジョージーの側に立っているはずの彼女はそれを阻止しようとした(つまりジョージーを死なせようとしたのか)がよくわからなかったのだ。

 それは、ジョージーが社会階層の中で自分の手の届かないところに行ってしまうのを阻止したかったのかなあという仮説を立てているが、この仮説には全然自信がない。

 おまけ。宮部みゆきの『誰か Somebody』(文春文庫,2007;単行本初出実業之日本社2003)を一昨日(24日日曜日)に一気読みした。ネット検索で文春のサイトが引っかからないので読書メーターにリンクを張る。

 

bookmeter.com

 

 宮部みゆきを「基本的に善人」と評する人もいるが、彼女には本作のようなやりきれない作品が少なくないんだよね、との感想を持った。この作品にも姉妹が出てくる。

*1:訳者の土屋政雄氏はJosieを「ジョジー」と表記しているが、おそらく作品の舞台として想定されているアメリカでは、いやイギリスでもそうだろうと思うが、発音は「ジョウジー」の方が原語に近いだろう。しかし日本語の文章における見栄えの問題から私は「ジョージー」と表記したい。この表記にこだわるのは、私が1993年にカリフォルニアに2か月滞在した時の出張先にこの名前の印象的なヒスパニックのtechnicianがいたからである。Josieが彼女のもともとの名前ではなかった可能性がかなりあると思うが。

*2:ハヤカワ文庫版394頁

*3:ハヤカワ文庫版439頁