KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

アガサ・クリスティ『杉の柩』を読む 〜 個の時代へと拡散していく流れにクリスティ作品の「類型の人物像」が対応しきれなくなったとの山野辺若氏の指摘が興味深い

 1940年にアガサ・クリスティの『杉の柩』に、当時13歳か14歳だったプリンセス・エリザベスの未来の良人(おっと)選びの話が出てくることを『kojitakenの日記』に書いた。

 

kojitaken.hatenablog.com

 

 上記記事を書いた時点では半分くらいしか読んでいないが、昨日(11/27)の日本シリーズ中継が始まる前、というよりテレビ観戦に備えて早い風呂に入る前に読み終えた。

 

www.hayakawa-online.co.jp

 

 本作はクリスティの名探偵ポワロもの長篇の33作中18番目に当たる。第14作『もの言えぬ証人』(1937)あたりから作風が変わりつつあると以前書いたが、第16作『死との約束』(1938)でそれはさらに顕著になり、今回読んだ『杉の柩』で決定的になった。

 作風の変化を特徴づけるものは、人間の心理描写が初期の作品のように類型的ではなく、深みというか立体性や多様性が出てきたことだ。『杉の柩』の主人公・エリノア・カーライル Elinor Carlisle は、物語の最初と最後とでは別人のような印象を受ける。

 本作に先立つ前述の『死との約束』及びそれに続く第17作『ポアロのクリスマス』(1938)の両作は、犯人の意外性に大きな特徴があるが、本作は打って変わってクリスティ作品の中では犯人当てがもっとも容易な作品であろう。犯人が使ったトリックも、具体的な物質名まではわからなかったが容易に想像がついた。被害者の素姓も推定は容易だし、そこまでわかればもう少し突っ込んで考えれば犯人の素姓にたどり着いてもおかしくはなかった。私はそこまで気合いを入れては読まなかったために犯人の素姓に気づくには至らなかったが、『読書メーター』の感想文を見ていたら「犯人の正体がわかった」と書いていた人がいた。このサイトは文字数が限られているので詳細には書かれていないが、犯人の正体(素姓)がわかったからにはレビューは被害者の素姓も読み取れていたはずだ。確かに本作第三部で真相が明かされてみれば、いつものクリスティの手口だから犯人の設定はそうでしかあり得ないのだった。私はまだまだミステリー、というかクリスティ作品の読みのレベルが低いようだ。とはいえクリスティのミステリはもう半分くらい読んでしまった。

 しかし、本書の特徴は謎の難易度ではなく、心理劇と恋愛劇をミステリと組み合わせたところにある。前々作『死との約束』はタイトルと開始部のおどろおどろしさからは想像もつかないエンディングに驚かされたが、本作もタイトル"Sad Cypress" の由来だというシェイクスピアの戯曲『十二夜』中の詩(もちろん私は知らなかった)の暗い印象とエンディングとが鮮やかな対照をなしている。シェイクスピアの詩は下記ブログ記事で参照できる。

 

parfum-satori.hatenablog.com

 

 正直言って、ちょっとポワロものとは信じられないようなエンディングだが、これについて杉江松恋氏が面白いことを言っている。

 

www.hayakawabooks.com

 

クリスティーが自作を語った中で、「『杉の棺』はいい本になるはずだったのに、ポアロが出てきてだめにしたわ」と言ってるんです(アガサ・クリスティー読本所収、フランシス・ウィンダム「クリスティー語る」)。僕はポアロ贔屓だけど、その気持ちはよくわかる(笑)。ノンシリーズでやったほうが良かったと思ったんでしょうね。

 

出典:https://www.hayakawabooks.com/n/nd88fb710fbdd

 

 そう、最後の場面でのポワロが発した言葉は「ポワロ離れ」しているのだ。

 本書はハヤカワのクリスティー文庫で読んだが、山野辺若(イラストレーター・文筆家)の解説が興味深かった。いくつか引く。

 まず、イラストレーターの山野辺氏は、クリスティ作品を読んでいるうちに19世紀の写実主義の画家オノレ・ドーミエ(1808-1879)の諷刺画が頭をかすめたと書く。以下引用する(なお、引用に際して原文の漢数字をアラビア数字に書き改めた。以下同様)。

 

 (前略)彼*1は守衛や商店主から政治家、弁護士、銀行家、資本家など、中産階級の人々を痛烈な皮肉と笑いを込めて描き続けた。彼の描くデフォルメされた人物の表情には社会的地位からくる特有の性格が見事に描き出されており、21世紀に生きる私たちが見ても彼が言わんとしたことが一目で伝わってくる素晴らしいものが多い。

 初期のクリスティー作品のコミカルともとれる極端な人物像の設定と、その事件の舞台がほとんど中産階級層で起こることが、私にドーミエを連想させたのだろう。

 

アガサ・クリスティー(恩地三保子訳)『杉の柩』(ハヤカワ文庫,2004405頁=山野辺若氏の解説文より)

 

 続いて、山野辺氏はクリスティのポワロもの長篇第1作である『スタイルズ荘の怪事件』(1920)の旧版(ハヤカワ・ミステリ文庫版, 1982)に旧版を翻訳していた詩人の田村隆一(1923-1998)が書いた解説を引用する。田村は「2つの大戦のあいだ、つまり、1920年代から1940年代の中期までの25年間は、まさにクリスティー的殺人事件の黄金時代ではなかったか、とぼくは思うんです。退役軍人、提督、地主貴族、金利生活者、舞台俳優、外交官、牧師、医師、……そういった類型が類型として社会に生きていた時代、人間の性格が、だれの目にもはっきりと見えた*2時代」と書いた。それを承けた山野辺氏自身の文章を以下に再び引用する。

 

(前略)初期のポアロ作品にはドーミエの描いていた世界と同質のものが色濃く残っていた。

 だが、それも時代が下ると様相が変わってくる。中期から後期の作品を読むに従って、私の中にあったドーミエのイメージはクリスティーの作品から徐々に薄れていった。

 『杉の柩』が出版されたのが1940年。ドイツのポーランド侵攻が1939年の9月。再び世界が悲劇の戦乱に突入しようとしていた実に焦げ臭い時期に書かれている。

(中略)クリスティーお得意の上層中産階級を舞台にしてはいるが、個人の心理を事細かに描いているため初期の作品のように類型化された人物による事件という印象は全くない。これは、作品を重ねるにつれてクリスティーの技にいっそうの磨きが掛かったためなのはもちろんだが、その一方、混迷を深めながら加速度的に個の時代へと拡散していく流れの中で類型の人物がもはや対応しきれなくなった結果ともいえるのだろう。この作品を読み始めた時点で、私の中でドーミエのイメージはほぼその効力を失っていた。現代に生きる私も、エリノアの心の揺れは実感をもって受け止められるものだったのだ。

 『杉の柩』は良質の推理劇でありながら、同時にエリノアの心を細かに描いた恋愛劇、そして四人四様の生き様を追うことでビクトリア朝時代の残像と新たなる “個” の時代の訪れを匂わせた時代劇ともなっている。この作品は、この時代を描きながらも真っ向から普遍的な男女の心理を扱うことで、現代にも十分通用する作品となっているのだ。いつの世でも、良質なものはいともたやすく時を越える。

 

アガサ・クリスティー(恩地三保子訳)『杉の柩』(ハヤカワ文庫,2004406-408頁=山野辺若氏の解説文より)

 

 実にうまいこと書くなあと感心するとともに共感した。

 私はクリスティ1920年代の作品に、歴史観、社会観、人間観などがいかにも紋切り型だなあという印象を持つ。しかしその印象はが30年代に書かれたいくつかの作品から薄れていき、1940年に書かれた本作『杉の柩』に至って、作者が「大きく舵を切った」との印象を持った。

 その作風の変化をもたらした大きな要因の一つが第2次世界大戦だったと思われることも強調したい。

 よく、ヨーロッパでは戦争といえば第2次大戦ではなく第1次大戦を指すと言われるが、少なくともイギリスでは第2次大戦が社会に与えた影響は第1次大戦に劣らず大きかったのではないか。私はポワロものでは本作よりあとに書かれた作品はまだ読んでいないが、少し前にミス・マープルものの『予告殺人』(1950)を読んで、第2次大戦の爪痕の深さを感じた。

 日本では「個の時代へと拡散していく流れ」はイギリスやアメリカ、ヨーロッパよりも大きく遅れたと思われるが、21世紀に入って、戦争を経ていないにもかかわらず、ようやく大きな流れの変化が起き始めているように思われる。それにエスタブリッシュメント道が全力で抵抗しているために社会に大きな緊張が起き始めているのではないか。

 そんな時代に、20世紀イギリスの保守人士だったアガサ・クリスティの作品群を成立順に読むことには興趣が尽きない。

*1:ドーミエ=引用者註

*2:原文では傍点=引用者註