今年(2021年)も昨年に続いて思うような読書はできなかった。昨年は66冊*1しか読めなかった。ちょうど100冊を読みはしたものの、半分以上が10年前には見向きもしなかったミステリだった。うちアガサ・クリスティ作品が42冊(冒険ものなどを含む)だった。昨年来のコロナ禍の影響で仕事の手数が増え、自由時間が圧迫されたのが最大の理由だ。
今月(12月)はことのほか時間がとれなかったのでブログの更新回数も激減したが、ミステリ以外の4冊を含む8冊を読んだ。しかしわれながらつまらない帳尻合わせだったな、とも思う。
まず、月の初め頃に懸案にしていた斎藤幸平の『人新世の「資本論」』(集英社新書,2020)をようやく読んだ。最近の本に多い二重カバーに私の大嫌いな佐藤優と白井聡の名前が大々的に出ており、ネット検索をかけると著者と白井の対談が引っかかりもする。
本書はマルクスや経済の本というよりは「気候変動に本気で立ち向かえ」と檄を飛ばす本だ。気候変動対策はもう待ったなしであり、そんな時に富裕層の欲望を満足させるための経済成長など論外だと言っている。但し、貧困に苦しむ人たちなどにとっての経済成長は必要だとも書かれている。
そこでなぜマルクスか。マルクスと脱成長とは食い合わせが非常に悪いのではないかとは本書を読む前に私が思ったことでもあった。時間とスペースをあまりとれないので前記白井聡との対談から著者・斎藤幸平の言葉を引用する。
斎藤 これまでマルクス主義者は、どうしても生産力至上主義という発想にとらわれていたので、非常に優秀な研究者でも、なかなか脱成長という考え方を受け入れることができませんでした。
正直なところ、私自身も、経済成長や技術発展の可能性に関して楽観視していたところがありました。実際、去年の夏に海外の出版社に提出した出版企画書にも、脱成長を批判しつつ、マルクスは持続可能な発展を擁護していたと書いていたくらいでしたから。
しかし、気候変動が急速に深刻化していくなかで、認識を改めざるを得なくなった。特に、グレタ・トゥーンベリたち「未来のための金曜日」や、イギリスの「絶滅への反逆」という社会運動から衝撃的な影響を受けました。そういった運動に理論が応答するためにも、『未来への大分岐』(集英社新書)の内容を発展させていったわけですが、そうするなかで、「経済成長パラダイム」そのものを乗り越えることを真剣に検討することを強(し)いられたのです。
そして、そうした目で、マルクスが残した膨大な手書きの研究ノートを検討するなかで、最晩年のマルクスが、脱成長を機軸にしたコミュニズムに転換していることに気がついてしまった。
(中略)『資本論』第一巻を刊行したあと、マルクスはまとまった著作は出していませんが、晩年の彼の遺したノートには、現代の問題を解決する大きな鉱脈が眠っています。人々が持続可能な社会で、豊かに暮らすために、資本主義社会を乗り越えないといけないということを、最もはっきりと示した思想家がマルクスなのです。繰り返せば、資本主義を前提とする限りでは、解決策はない。これは、グリーン・ニューディールで「緑の成長」をめざすケインズ主義とは完全に異なるマルクス独自の発想です。
「SDG's (sustainable development goals = 持続可能な開発目標)ではもはや気候変動への対処は不能」との斎藤の主張には賛否両論があろう。ただ私の直感をいえば、斎藤の主張は否定しきれないと思った。2004年に中国が1950〜60年代の日本のような一大土建国家に化しつつあると思われる光景を目撃した時、こういうのが世界各地でずっと続いたら地球は持たなくなるんじゃないかと思った時の印象が強いからだ。そしてここ数年、気候変動が大きくなったことを体感できるようになったと思っている。そんな時代なのに麻生太郎が「平均気温気温が2度上がったおかげで、北海道のお米はおいしくなった」などという暴言を発した。いうまでもなく麻生の暴言は下記「BuzzFeed」のファクトチェックを参照するまでもなく「誤り」だが、麻生のように気候変動に全く問題意識を持たない政治家に、ついこの間まで財務大臣を長年にわたって担当させてきた政党を秋の衆院選に勝利させたこの国に絶望感を抱かずにはいられない。
ところで斎藤幸平の本を絶賛していた一人が佐藤優だ。私はこの佐藤が大嫌いで、近年はことにマルクスを悪用して人々の牙を抜いてしまおうとしているかのような一連の講演録を読んでは腹を立てていた(それらをブログで取り上げたことがないと記憶するが)。先日本屋に行ったら相変わらず池上彰とつるんで講談社現代新書から駄本を出していたが買わなかった。しかしドストエフスキーの「五大長篇」を解説した講演会を活字化した下記新潮文庫は薄かったので買って読み、またしても激怒したのだった。
何に腹を立てたかというと、佐藤が『カラマーゾフの兄弟』に出てくる「大審問官」の論理を大々的に肯定していたことだ。佐藤は、カラマーゾフ家の三男・アリョーシャが心酔したゾシマ長老の遺体が腐敗したのは「ゾシマが間違えた信仰をしていた」*2からだという。ロシア正教では「聖人は腐らない」*3はずだというのだ。そして「大審問官」を、佐藤の講演当時総理大臣だった菅義偉や、プーチン、そして習近平らも同じ考え方をしている、と言いつつ*4、「ドストエフスキーが、大審問官を肯定的に評価しているのは明らかではないでしょうか」*5と言い放っている。つまり佐藤は菅(義)やプーチンや習近平を肯定しているともとれる。私はこれを読んで、佐藤は自らを大審問官になぞらえているのではないかと疑った。またこのような佐藤のあり方は、佐藤が創価学会を強く擁護していることとも関係があるかもしれないとも思った。
私は佐藤に強く反発したので、またドストエフスキーを読み直してみようかとも思った。『罪と罰』と『カラマーゾフの兄弟』はこれまで二度ずつ読んだが(もしかしたら『罪と罰』は3度読んだかもしれない)、他の3長篇は一度ずつしか読んだことがなく、ことに1989年に『悪霊』を読んだ時には集中して読めなかった。「五大長篇」の中では最後に、岩波文庫から米川正夫訳の久し振りの重版がされた時に読んだ『未成年』を読んだのは確か「3」のつく年だったはずだが、それがスワローズが日本一になった1993年だったか、タイガースが星野仙一監督下でリーグ優勝した2003年だったかは思い出せなかった。この記事を書くために引っ張り出してみたら1993年だった。現在は工藤精一郎訳の新潮文庫も(おそらく文字が大きくなって)再版されているはずだから、30年前後読み返していない3長篇と、『カラマーゾフの兄弟』の三度目は是非読もうと思った。なお、過去二度読んだ時には、ゾシマ長老の遺体が腐敗したのはドストエフスキーの皮肉なリアリズムゆえだとしか思えなかった。
非ミステリの3冊目は山本圭『現代民主主義』(中公新書, 2021)。これは春先に買った本だったと思うが、途中まで読んだところで止めていて、そのことさえ忘れていた。今月に入ってようやくそのことに気づいて残りを読んだ。こんなありさまなので論評はできない。中公のサイトへのリンクのみ示す。
コロナ禍に入る前は頑張ってかつて苦手意識を持っていた村上春樹を呼んでいたが、コロナ禍以降この人の本から再び遠ざかっていた。ただ、小説としては最後に*6、記録を調べてみると2019年12月に読んだ『羊をめぐる冒険』(1982)が、苦手意識を持つに至ったその前の2冊から受けた印象とずいぶん違っていたので、いずれその2冊を読み返してみようとはその時から思っていたのだったが、かつての苦手意識が災いしてなかなか手が出なかった。しかしスワローズが日本一になった今年のプロ野球日本シリーズをきっかけに、2作のうち、1978年4月1日のプロ野球開幕日に当時スワローズの選手だった故デーブ・ヒルトン(2017年に67歳で死去)の二塁打を見て書こうと思い立ったという『風の歌を聴け』(講談社文庫新版2004, 単行本初出1979)をおそらく三十数年ぶりに読み返した。
つまり今年のスワローズがトリガーとなった読書だった。ちなみに1978年の日本シリーズで西宮球場での第3戦に5対0で完敗したスワローズが続く第4戦でも5回を終えて5対0とリードされ、6回表に4点を返したものの9回表も盗塁失敗で二死無走者になったところから一人走者が出て、そこで先発の今井雄太郎を山田久志に代え損ねた阪急・上田利治監督の隙を突いて、ヒルトンが左翼席に逆転2ランをかっ飛ばした。高校の中間試験のために学校に午前中しかいなかったためかどうか、私はこのヒルトンの逆転2ランを白黒テレビで見て、当時はまだ「にわかスワローズファン」でしかなかったとはいえ、鳥肌が立った*7。翌日の第5戦では、初回からスワローズ打線が前日セーブを挙げ損ねた山田久志を打ち込んで快勝し、敵地で連勝して王手をかけた。ヒルトンの一発が文字通り流れを変えたのだった。
今年はスワローズが日本一になったので、ついつい野球の話にそれてしまったが、当時苦手意識を持った村上作品を再読して意外に思ったことは、細部が奇妙に記憶に残っていたことだ。読んだ時には熱狂したのに、後年になったら何も覚えていない本が少なからずあることと鋭い対照をなす。
作品の舞台の「人口7万と少し」の街が兵庫県の芦屋市をモデルにしているに違いないことは、村上と同様に阪神間に育った人間*8として読んだ当時から印象に残っていたが、それ以外にも、14歳になるまで全然しゃべらなかった「僕」が突如として三ヶ月間しゃべりまくり、そのあとおしゃべりでも無口でもない普通の少年になったこととか、指が4本しかない女の子のこととか、レコード屋の店員をしていたその女の子から、ベートーベンのピアノ協奏曲第3番のレコードをバックハウスとグールドのどちらかを選ぶかと聞かれてグールドを選んだことなど。今回は、真ん中の方に出てくる6回表に投手陣が崩壊したプロ野球のチームは、きっと神宮球場で読売を相手にした時のスワローズ、いやアトムズなんだろうなと思った。村上が本作を書いた1978年にスワローズは優勝したが、1970年に「アトムズ」と言っていた頃には本当に弱くて、確か読売戦と阪神戦の対戦成績がともに5勝21敗で、勝率2割にも満たなかったはずだからだ。調べてみるとこの年のアトムズは33勝92敗5引き分けで、優勝した読売には45.5ゲーム差、5位中日には22ゲーム差をそれぞれつけられた。アトムズは読売と阪神以外の3球団との対戦成績も23勝50敗5引き分けで、3回に1回も勝てなかったのだ。なんというおそるべき弱さ。12月24日生まれの本書の主人公とは違って、1949年1月12日生まれの村上春樹は、1970年には既に東京に住んで早稲田大学に通っており、これも本書の内容とは違って京都生まれで生粋の「芦屋っ子」ではない村上(西宮市在住歴もある)*9は、当時両親の家があった芦屋に帰省する生活を送っていた。当時の阪神間にアトムズファンなどほとんどいなかったに違いない。いしいひさいちが住んでいた岡山も同様だが。なおジャイアンツを相手に新人投手がノーヒットノーランを記録する話も出てくるが、まるで1987年の中日・近藤真一を予告しているかのようだ。
残り4冊がミステリ。まず嫌って止まないはずの東野圭吾をまた読んでしまった。クリスティさえ読む時間がない時、腹立ち紛れに手を出してしまう。今回は1994年に書かれた『むかし僕が死んだ家』(講談社文庫, 1997)だった。
ヒロインの沙也加という名の少女には幼い頃の記憶が全然ない。一度も名前が表記されない沙也加のかつての恋人である主人公が、沙也加とともに長野県の山の中にある「幻の家」に行き、彼女の記憶を取り戻そうとする話。
ヒロインの名前は先日「自殺」が報じられた芸能人と同じだが、松田聖子に代表される「80年代の文化」やそれを承けた「90年代の文化」が嫌いな私は、ヒロインの名前からこの芸能人を連想することは全くなかった。当該の芸能人は私が本書を読み終えた翌日(12/18)に自殺し、そのニュースを知ったのはさらにその翌日だった。ネタバレを避けるために曖昧な書き方をするが、本書では沙也加は「死んだが、死ななかった」。
読んでいる最中に思ったのは、東野は1994年にこんな小説を書いていたのかということだ。この本は東野には珍しく内発性を感じさせた。東野にはあざといまでの職人芸を感じさせる本が多く、技巧は大したものだと感心しながらもどうしても好きにはなれなかった。だが本書は違った。ただ、内発的にこんな話が出てくる東野圭吾という人が持つ「虚無性」にはちょっとぎょっとさせられた。そしてこの人なら、私が批判し続けて止まない『容疑者Xの献身』(2005)のタイトルにある「献身」という言葉をダブルミーニングとして用いていることもあり得るのではないかと初めて思った。つまり、東野自身は自らが描いた「容疑者X」の行為が本当に「献身」であるなどとは全く考えていない可能性だ。俺の読者たちはあれを読んで本当に「感動」してるんだぜ、あんなのは「献身」でもなんでもないのに、と東野自身が思っている可能性がある。これまではさすがにそれはあり得ないだろうと思っていたが、本書を読んで、そうではないかもしれないと初めて思った。
なお本作の主人公はその『容疑者Xの献身』が含まれる「ガリレオシリーズ」を思わせるものだが、その第1作である『探偵ガリレオ』(1998)より前に本作は書かれている。もしかしたら「ガリレオシリーズ第0作」なのではないかと思ったが、読了後ネット検索をかけると、今年(2021年)刊行されたシリーズ最新作に本書の主人公との関係が示唆されているらしい。まあそんなのを読む日がいつになるか、あるいは本当に来るかどうかはわからないが。
もう一つ強く思ったのは、このヒロイン・沙也加は、まるで浦沢直樹の長篇漫画『MONSTER』(1994〜2002)のヒロインのニナ・フォルトナーみたいだなということだ。本の最初からそう思ったが、最後にニナ(アンナ)が漫画の初めの方で発したさる印象的な言葉を沙也加が発したことを「思い出した」場面を読んで、さらに強く思った。それで、漫画家の浦沢直樹というより編集者の長崎尚志が、1994年当時にはまだ売れっ子ではなかった東野圭吾の『むかし僕が死んだ家』を読んでいた可能性はないだろうかと思ったのだった。本書は今では講談社文庫から出ているが、単行本初出は双葉社で、同社が出している月刊誌『小説推理』に連載されていたという。双葉社は『漫画アクション』を出している出版社だから、漫画雑誌の編集者が本作を参考にした可能性はなきにしもあらずではなかろうか。少なくとも、一部から漫画連載時に似ていると言われていたアゴタ・クリストフの『悪童日記』(1986)などよりよほど類似性は高いだろう。
なお、チャーミーという猫が出てきた時点で、文庫本の解説文を書いている推理作家の黒川博行氏がそのからくりに「ピンときた」そうだが、私も同じだった。私の場合その理由は、昔、『水もれ甲介』という石立鉄男主演(弟役を演じた原田大二郎の印象も強かった)のドラマの再放送を見ていたからだ。あのドラマには村地弘美が「チャミー」(朝美)という愛称の妹の役で出ていた。ところがそのあとに本物の「さやか」が出てきたからかえって面食らった次第。小説の最後がどうなるかは、東野自身のガリレオシリーズ第6作『真夏の方程式』(2011)からほぼ見当がついたし、概ね予想通りの結末だった。その結末はまたしても漫画『MONSTER』を強く連想させるものだったが、本作の方が早く、しかも『MONSTER』の連載開始の半年前に刊行されている。
残る3冊がアガサ・クリスティだが、まず戯曲『検察側の証人』(1953)を読んだ。
これは、1925年に発表された同名の短篇小説*10を1953年に戯曲に書き改めたもので、結末が変えられている。私は短篇を既に読んでいた。短篇の結末と戯曲の結末のどちらが良いとも私にはいえない。ただ、加藤恭平(1936-1985)訳のヒロインの名前を「ローマイン」とする表記はいただけない。彼女の名前は "Romaine" であり、「ローマイン」ではドイツ読みでも英語読みでもないからだ。短篇集の小倉多加志(1911-1991)訳も古いが、こちらの「ロメイン」の方が良いと思う。発音記号は [rouméin] らしいので、「ロウメイン」または「ローメイン」がより近いかもしれないが、「マイ」はいただけない。「ローマイネ」ならまだ良いかもしれないが。私が言いたいのは「イギリス風かドイツ風かどちらかであってほしい」ということだ。「ローマイネ」だとどちら風かわからない。もっとも、かつて "Irene" をアメリカ英語では「アイリーン」、イギリス英語では「アイリーネ」と発音するという話があったから、「ローメイネ」なのかもしれないが、いずれにせよ「ローマイン」はないだろうと勝手に思っている。ドイツ人なら "Romeine" と綴りそうな気もするが、このあたりになると英語も決して得意ではなく、ましてやドイツ語にはさっぱりの私があまり変なことは書かない方が良いかもしれない。
クリスティの2冊目はクリスティファンの間で高く評価されているらしい『五匹の子豚』(1942)。ポワロものの長篇第21作とのことだが、第19作『愛国殺人』と第20作『白昼の悪魔』が図書館で借り出し中だったために先に読んだ。
なるほどこれは名作だ。クリスティが技巧の限りを尽くしている。真犯人はいかにもクリスティが犯人に設定しそうな人物で、私は最初の頃からこの人物を疑っていたが、クリスティが繰り出すミスリーディングに引っ掛かって意見を変えてしまって失敗した。ただ、印象に残る度合いでは先月読んだポワロもの長篇第18作『杉の柩』の方が上かもしれない。あの作品には犯人の意外性が欠けており、読者が犯人を外しようがないのが欠点といえば欠点かもしれないが。解説者は『五匹の子豚』が「名犯人」だと書いていたが、私がより強くそう思うのは、マープルもの第4作の『予告殺人』の犯人の方だった。これは1950年にクリスティが60歳に達して後期に差しかかった頃の作品だから、余計にそう思うのかもしれないが。
ところで本作はクリスティが中期から後期にかけて多く書いた「回想の殺人」つまり殺人が犯されてから長い年月を経たあとに蒸し返される殺人事件を書いたもののうち最初に発表された作品だが、実際には本作の前にクリスティの死後(1976年10月)に発表されたマープルものの最終作『スリーピング・マーダー』の方が先に書かれていたことを本書の解説を読んで知った。
それなら、クリスティを41冊読んできた今年最後にその『スリーピング・マーダー』か、またはそれと同じ頃に書かれたポワロものの最終作『カーテン』を読んでみようかと思った。区の図書館に行ったら前者は置いてなくて後者だけ置いてあったので、今年最後に読み終える本はクリスティの『カーテン』になった。クリスティの死の前年、1975年に刊行されたが、書かれたのは1940年代初頭だという。
以下、露骨なネタバレだけは避けるが、内容を強くほのめかすことは避けられないので、未読かつそれを知りたくない読者はこの続きを読まないでいただきたい。
私自身は回避しがたいネタバレによって、「ポワロが○○」のと「ポワロが××」ということは知っていた。ただ「××」は表現が微妙になる。
少年時代の1974年か75年に『アクロイド殺し』を「もしかしたらこいつ自身が犯人ではないか」と疑いながら読んでいたところ、級友にその通りであることをネタバレされるという被害を受けて、以後昨年末までクリスティ作品をどうしても読めなかったことを弊ブログに何度も書いた。その反動で今年だけで一気に42冊も読んでしまったが、本作がこの42冊目という縁起の悪い数字にふさわしい作品であることは、発表当時の世評などから知っていた。それに、クリスティが死後に発表するつもりだった本作を死の前年に発表した頃には、エラリー・クイーンの某作とその結末をネタバレによって不幸にも知っていた(おかげで当該作品は今に至るまで読んだことがない)ので、クリスティが同じことをやった可能性が高いのではないかと、刊行が発表された報道を知った時から思っていた。そしてそれは想像通りだった。その後45年間クリスティは読まなかったので記憶が曖昧になってはいたが、つい最近ダメ押しのネタバレを食って、やはりそうだったかと改めて思った。
そして、もしそういう小説なら、その中身は先ほど東野圭吾作品の時にも引き合いに出した浦沢直樹の『MONSTER』みたいなものなのではないかとひそかに想像していた。とはいっても、ニナ・フォルトナーが記憶を取り戻す件ではなく、漫画のタイトルになっているモンスターみたいな人物とポワロが対峙するのではないかとの想像だ。
その想像は当たっていた。本作の犯人と読者に思わせた「X」こそ、『MONSTER』に出てくるヨハンのような人間だった。話の展開はその通りとなったが、ことにポワロの相棒のヘイスティングズまでもが○○○○○とした時には少なからずぎょっとした。だが、それほどの事情でもなければポワロが○○を実行できないというエクスキューズなんだろうなと容易に想像がついた。同時に「X」の正体はこいつで間違いないとの見当もついた。「読書メーター」の感想文を見ると「X」が誰かは早い段階でわかったという方が多かったが、そういう方はおそらく「ポワロが××」との情報を読む前から知っていたのではないか。それを知っていれば「X」が誰かであるかの推定はきわめて容易だ。
ただ、『MONSTER』と本作とでは解決が大いに異なる。漫画の方では主人公のテンマとヒロインのニナがずっととろうとしていた手段が最後に否定される。というより、ニナがテンマを止めた。この漫画には第9巻と第18巻の2箇所に大きなクライマックスがあるが、後者が前者を否定するところにこの漫画の強いメッセージ性がある。これは浦沢直樹というより編集者の長崎尚志の思想によるものではないかと私は想像するし、私は『カーテン』よりも『MONSTER』に軍配を上げるものだ。
その観点からいえば、例の東野圭吾の『容疑者Xの献身』はどうなるか。「X」に虐殺された「技師」なるホームレスは『カーテン』の「X」でもなく『MONSTER』のヨハンでもない。殺される理由など全くなかった人間だ。その人を虫けらのように殺した「容疑者X」の行為が「献身」や「純愛」に当たるとは、作者の東野圭吾自身も全く考えていないのではないか。今月の一連の読書で強く思ったのはこのことだ。
このように、エンタメ小説や漫画であっても考える材料はいくらでもある。
なお、『カーテン』のハヤカワ文庫版に解説を書いた推理作家の山田正紀によると、『カーテン』はドイツ軍によるロンドン大空襲が行われた日に書き始められたという。その日は1940年9月7日だ。そして山田は、
この『カーテン』で描かれる「究極の悪」こそは、なにより「戦争」の象徴たるべきものではないか。この恐るべき犯人の、犯行の動機ともいえない動機こそは、「戦争」の純粋悪そのものではないだろうか。(本書374頁)
と書く。山田は「究極の悪」「純粋悪」と表現しているが、ここでも『MONSTER』でニナ・フォルトナーがヨハンを「絶対悪」と形容したことを思い出させる。しかし、ニナ(とテンマ)はエルキュール・ポワロとは異なる結論を出したのだった。
なおこの問題については、ヒトラー暗殺計画に加担して処刑されたディートリヒ・ボンヘッファー(1906-1945)を持ち出すまでもなく、簡単に結論が出せないことはいうまでもない。
ただ、東野圭吾の『容疑者Xの献身』に描かれた犯人を「献身」「純愛」などの美辞麗句で持ち上げるのが論外であることだけは絶対に間違いない。いくらエンタメ小説であってもそのような受け取り方は言語道断であろう。
以上で2021年の読書ブログ記事を終わる。クリスティ作品では、年初くらいはノーテンキなものを読もうと思って、1920年代の小説の中では唯一未読だった『おしどり探偵』(1929)を正月に読もうと思っているが、作者の全盛期だった1930年代の小説は、恋愛小説や一部の短篇を除いてほぼ読み尽くしたので、来年は今年のように「クリスティばかり読む」状態から脱却するつもりだ。仕事にもう少し余裕ができれば良いのだが。
それでは皆様、良いお年をお迎えください。
*1:上下巻あるいは上中下巻は1冊とカウントする。
*2:本書214頁
*3:同213頁
*4:同203頁
*5:同208頁
*6:2019年12月に『羊をめぐる冒険』を読んだ直後に、ジャズ・ロック・クラシックの音楽評論集『意味がなければスイングはない』
*7:テレビで見た野球中継で同様の記憶があるのは、他に2001年のMLBのワールドシリーズ第5戦で、ヤンキースの打者が9回二死無走者から同点ホームランを打った時だけだ。この時には私はヤンキースの相手だったダイヤモンドバックスを応援していた。
*8:あの地域には前述の西宮球場も存在していたにもかかわらず、阪神ファンと読売ファンしかいないも同然だった。
*9:そのために芦屋(や神戸)に多く残っている被差別部落問題を村上がよく知らずに級友に教えてもらったエピソードがエッセイ集に収録されている。同様の件で村上はのちに中上健次に叱責されてもいる。なお私も大阪府出身なので(神戸市東部を含む)阪神間には少年時代に住んではいたものの。同地域の被差別部落については知らないことが多い。
*10:短篇集『死の猟犬』(1933) 収録