KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

カズオ・イシグロ『クララとお日さま』(2021) を読む

 今回は前回に予告したモーツァルトシリーズの最終回(『魔笛』篇)は先送りして、久しぶりに音楽と関係ない本の話題。

 カズオ・イシグロの『クララとお日さま』(ハヤカワepi文庫, 2023)、これは昨年8月に文庫化され、本を買ったのは10月頃だったと思うが、ようやく読む時間がとれたので、日曜日(17日)に読み始めて今朝読み終えた。イシグロのノーベル賞受賞後第一作で、単行本初出は2021年だった(イギリス、アメリカ、日本の3国で同時発売)。

 

www.hayakawa-online.co.jp

 

 イシグロの小説を読んだのは4作目(すべて長篇)。ロボットのクララの一人称で語られる物語というだけで、2021年5月に読んだ『わたしを離さないで』(2005)が直ちに思い出された。ディストピア小説であり、その点ではジョージ・オーウェルの伝統を汲むイギリスの作家らしいといえるかもしれない。

 主人公(語り手)がロボットであること以外は予備知識なしで読んだのが良かった。『日の名残り』(1989)を超えるとはいえないが、これまで読んだイシグロ作品の中では同作に次いで良かった。つまり一般の評価の高い『わたしを離さないで』よりも良いと思った。余談だが、私はイシグロの作品を読む度に、以前弊ブログに取り上げての『日の名残り』の誤読の状況は少しは改善されているだろうかと見にいくのだが、今回見たらここの「誤読の殿堂」ぶりは今までにも増してひどくなっていた印象を受け、大いに落胆した。やはりこの国の読書家たちも「飼い慣らされる」ことが好きなんだなあと。

 

kj-books-and-music.hatenablog.com

 

bookmeter.com

 

 『クララとお日さま』や『日の名残り』などのイシグロ作品はもちろん、19世紀のチャールズ・ディケンズについても、イギリスの小説を読む時には階級や格差等の視点を欠かすことはできない。また『日の名残り』のように第二次世界大戦に対する読者の歴史認識が問われる場合もある*1。しかしそれらに思いが至らない本邦の読書家たちが多すぎるのではないだろうか。

 『クララとお日さま』については、これ以上余分な情報を書きたくないので一点だけ特に注目したことを書くと、登場する人間たちの誰一人からも宗教心など欠片も感じられないのに対し、ロボットのクララが強い太陽神信仰(のようなもの)を持っている設定になっていることが興味深かった。自らが太陽光エネルギーによって駆動されるからという作者の理屈なのだろうが、とても皮肉が効いている。

 あとは、ネット検索で感心した書評を以下にリンクしておく。できれば本作を読む前にご覧いただきたくはないけれど。なお、埋め込みリンクにするとネタバレの文章が表示されるようなので、下記の形式のリンクにした。

 

 

 イシグロ自身は自作のネタバレなど全然問題ないと言ってはいるが、やはり本を読む場合にはできるだけネタバレはない方が良いだろう。

 アガサ・クリスティなどミステリを主に書く作家の作品は特にそうで、今年に入ってから読んだ『終りなき夜に生れつく』などは、ミステリなのか普通小説なのかもわからない予備知識ゼロの状態で読んだのが大成功だった。何しろ、図書館の書架に並んでいるタイトルを見て、勝手にメアリ・ウェストマコット名義の作品かと思い込んでいたくらいだった(さすがにそうではないことは読む前に知った)。

 イシグロ作品はそれらクリスティ作品と同じハヤカワ文庫に収められているので文庫本としてはサイズも文字の大きさも大きく、かつ土屋政雄氏の翻訳文も読み易い。

 

 今回は記事の本編が比較的短かったので、弊ブログにいただいたコメントをいくつかご紹介する。

 

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 片割月  

kojitaken様、コメントありがとうございます。

>「説教を読まされたら嫌だなあ」と思って長年敬遠していたのを昨年になってやっと読んだら、あまりの面白さに驚いた次第です。

私も若い頃には敬遠していました。しかし、「クロイツエル」もそうですが、他にも御存知かもしれませんが、「イワン・イリッチの死」という、ある凡庸な官吏が病気であっけなく死んでしまうというお話しですが、生きるとは?という根本的な問いに満ちた傑作と思います。

トルストイドストエフスキーも長編ばかりが読まれ、絶賛されますが、中・短編にも名品がありますね。ドストエフスキーの「永遠の夫」や「賭博者」なんて、テーマが明快なだけにインパクトがあります。

先日、映画化もされ有名になった村上春樹の「ドライヴ・マイ・カー」を読んだとき、「あ、これはドストエフスキーの『永遠の夫』をかなり参考にしたな」と分かりました。

ちなみに、私は村上春樹はあまり好きではありません。何冊かは読んでいますけど。この人、女性を「都合の良い女」みたいに仕立てているのが随所に見られ、如何にも通俗的で非文学的だし、不快なんですよね。

 

 トルストイの「イワン・イリッチの死」とドストエフスキーの「永遠の夫」は未読です。ドスト氏の「賭博者」は1992年頃に読んで大いにウケました。ドスト氏もそうですが、モーツァルトも賭博狂で、彼の晩年の借金は多くは賭博のせいだと聞いたことがあります。

 ドストエフスキーでは、短篇や中篇ではなく長篇ですが、2010年に読んだ『虐げられた人々』が印象に残りました。5大長篇を書く前の作品で、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番が効果的に使われています。2010年5月にメインブログに取り上げました(下記リンク)。短い記事ですが。

 

kojitaken.hatenablog.com

 

 村上春樹は当たり外れが大きいと思います。私は長年食わず嫌いで、2012年に『ねじまき鳥クロニクル』を読んで「当たり」と思いましたが(この作品はロッシーニシューマンと、モーツァルトの『魔笛』を上中下巻のモチーフにそれぞれ取り入れています)、次に読んだ『ノルウェイの森』が大外れで、そのせいでまた村上の長篇を数年間読まなくなりました。その後『ハードボイルド・ワンダーランド』系の作品は読めて、しかもかなり面白いとようやく思えるようになった次第です。『騎士団長殺し』はモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』がモチーフで、かつ作者がドンナ・アンナが父の仇であるはずのドン・ジョヴァンニに当たる人物を助ける設定にしたのは何故だろうか、もう一度読んだらわかるだろうかと思うようになった次第です。

 一方イシグロの長篇はこれまで4冊読んで外れなしなので、やはりイシグロの方が村上よりも上なのではないかと勝手に思っています。しかし村上は音楽に関する感性が独特なんですよね。シューベルトピアノソナタ第17番を小説のモチーフにした上、この曲についての評論を書くなど。しかもその評論集はジャズ、ロック、クラシックの3本立てで計10件(ジャズ4、ロック、クラシック各3)。そして関西の他の土地の出身にして育ちが阪神間、それなのにスワローズファンになったという点に親近感もあるので、どうしても受けつけない『ノルウェイの森』などがあるにもかかわらず無視できない作家です。あの人は被部落差別が近くにあることを17歳になるまで全く知らなかったと言っていましたが、ずっと阪神間に住んでいる人は他所から来た人間にはなかなかそういうことを教えないことは私も知っています。でも17歳とはあまりにも遅いなあと思うのですが、それはおそらく年齢差によるもので、村上の小中高時代と私のそれは時期が全く重なりませんので、おそらく村上の頃には同和教育が全く行われていなかったからなのでしょう。そういう世代的な弱点が村上にはあるかもしれません(だから村上は阪神間での部落差別の認識のなさについて中上健次に怒られたそうです)。

 

kj-books-and-music.hatenablog.com

 

 とおりすがり

このところ、拝読していて…
ある意味、逆・陰謀論的かと思わされてしまいます
ウィーンで新参者が受け入れられなくて、被害妄想に陥るのは無理もありません。
オポルトも、現代の「慶応虐待」とでもいえるかもしれませんが…
ショスタコーヴィチは、自身も消される恐れがあり、他に多大な迷惑をかけてしまうような危ない時期を、2回も、なんとか乗り切った。
「反形式主義的ラヨーク」で勘弁してあげてください。
娘と息子は、父が泣いている姿を見たのは、最初の妻が死んだときと、共産党に入党させられた時だ、といっています(『わが父ショスタコーヴィチ 初めて語られる大作曲家の素顔』 ガリーナ・ショスタコーヴィチ、マキシム・ショスタコーヴィチ(語り)、ミハイル・アールドフ著 田仲泰子監修 音楽之友社)。
一面、ショスタコは色男でならしてたそうですね。
カルメン交響曲は特にその成果でしょう(笑)

 

 とおりすがり

すみません
訂正です
「逆・陰謀論」は言い過ぎでした。
以下、文末に付け足しです
彼らに、そう、難きを強いなくてもいいのでは…

 

 取り消されたとのことですが「逆・陰謀論」には苦笑しました。

 まあモーツァルトといえば世間一般ではまだケーキ&カフェの喫茶店だとか(私の近所だと錦糸町にもありますが)広島の洋菓子店だとかで、甘いとか優しいとか明るいとかきれいなとかいうイメージなんでしょうし、大作曲家たちの間でさえ、独墺系の人たちはともかくロシアのチャイコフスキーあたりだと、当人はモーツァルティアンのつもりだったらしいけれどもどうやら「軽く明るく美しい」程度のイメージしか持っていなかったらしいとして後世から批判されているわけで、それらがいってみれば「顕教」なんだと思います。専門家筋や熱心なファンの間では(つまり「密教」では)、そんなチャイコフスキーへの批判だとか、百以上の台本から『フィガロの結婚』を選んで、しかもダ・ポンテが消した毒を復活させたモーツァルトに貴族に対する批判を認めるあたりまではもはや常識の範疇に入ると思います。それをさらに『ドン・ジョヴァンニ』や『魔笛』に当てはめて、特に後者についてはモーツァルトが市民革命をアジっていたのではないか、みたいな考え方をする人もいるわけで、そこまでいくと仮説の域を出ないと私は思いますが。つまり、弊ブログの一連の記事に違和感を持つ感性のほうが因襲によりとらわれがちだといえるのではないでしょうか。

 これについては、この記事の最初に取り上げたカズオ・イシグロの最高傑作といわれる『日の名残り』を「『品格ある執事』を目指して『執事道』を追求した初老男性が語る静謐な物語」ととらえるのが「顕教」で、大学の文学部英文学科などでは普通に教えられているであろう「信頼できない語り手」の技法を用いた小説だとする認識が未だに「密教」にとどまっていることと対応しているように思います。しかも『読書メーター』などでは前者が圧倒的多数で、その傾向は何年経っても全然変わらないんですよね。これには本当にがっくりきます。

 ショスタコーヴィチについては、作曲者への批判を弊ブログは亀山郁夫氏の指摘を引用した程度しか行っていません。亀山氏は筋金入りのショスタコーヴィチ愛好者ですから、その人による作曲家批判が厳しすぎることは全くないと私は思いますが。むしろ、かつて西側から御用作曲家とされてきた(東側からは社会主義リアリズムを実践する偉人とされてきたようですが)作曲家が、時代が変われば少し批判しただけで厳しすぎると言われるようになる両極端になってしまっているのは、決して健全な状態とはいえないと思います。

 なお私はショスタコーヴィチの愛好家だというさる野党幹部(現在は「議長」に収まっている)を批判する時に、「ショスタコーヴィチの音楽の一部に見られるような暴力性を感じる」としばしば書きますが、この人物の場合はショスタコ氏とは違って政治的主張による生命の危機に直面したことなどあっただろうかと思わせる人物で、それにもかかわらず昨今は党内で恣意的かつ正当性をあまり認め難い権力行使を繰り返しているわけで、この場合はショスタコしではなく「恣意」氏を主なターゲットにしています。

 一方で、私より二回りくらい下の世代の女性である、かげはら史帆さんや高野麻衣さんらのように、私と同世代または上の世代のクラシック音楽関係者やファンの間に根強くあった旧弊の権威主義に全くとらわれない人たちが出てきていたこと、それはほんの少し前に知ったばかりなのですが、大いに心強いことだと思います。個人もその個人が属する世代も、乗り越えられるべき存在だということです。

 コメント欄への返事の方が長くなってしまったかもしれません。今日はここまで。

*1:読者の歴史認識がしっかりしていれば「『執事の品格』を貫くスティーブンス万歳」的な能天気というか間抜けな感想など出てくるはずがなかろうと私などは思うのだが。