KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

カズオ・イシグロ『日の名残り』を読む/丸谷才一はこの小説を「誤読」したのか

 村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』を再読したあと、本を2冊読んだ。うち1冊は、今月出たばかりの田中雄一著『ノモンハン事件 責任なき戦い』(講談社現代新書)を読んだが、これはあまり良くなかった。

 

bookclub.kodansha.co.jp

 

 この本は昨年(2018年)夏に放送されたNHKスペシャル(未視聴)をベースに書籍化した内容らしいが、専門家の知見として頼っているのが主に秦郁彦であるのがいただけないし、何より辻政信に対する突っ込みが甘過ぎる。例えばあとがきに、

 旧軍を象徴する“悪”の象徴として描かれてきた辻にも人間的な顔があったこと、また辻に光を当てたことで、責任を互いに押しつけ合う陸軍という巨大組織の闇も見えてきた。(231-232頁)

 などと書かれている。後者はその通りであるにしても、「絶対悪」あるいは「根源的な悪」と呼ばれる巨大な悪行は「根っからの悪人」のみがなし得ることだ、などと著者は考えていたのだろうか。そうだとしたらあまりにも認識が浅すぎる。「人間的な顔」を持つ人間に、軍隊という暴力装置の中で他の人間たちを動かす権限をひとたび与えた*1ことが、「絶対悪」あるいは「根源的な悪」が生じたのだ。「絶対悪」は何も辻政信個人に宿るものではなく、暴力装置において他人を自由に動かす権力に宿る。他人は自分ではないから、他人が受ける苦しみは権力を操る人間にはわからない。だから多くの兵士を無駄死にさせたノモンハンガダルカナルにおける辻の悪行が生まれたのだ。軍隊と同様の暴力装置である政治権力を縛る「立憲主義」という思想は、このような「絶対悪」「根源的な悪」を発動させないために構築されたと私は考えている。だからこそ、この「立憲主義」を蔑ろにしようとしている現在の安倍晋三政権を私は「『根源的な悪』の段階に到達している」と認識しているのである。

 まあNHKスタッフによる限界があからさまなノモンハン事件本についてはこれくらいにする。今回の本論は、よく村上春樹と比較されることのあるカズオ・イシグロの『日の名残り』(ハヤカワepi文庫)だ。こちらの方がNHKノモンハン本より早く読み始め、一時並行して読んでいたが先に読み終えた。

 

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 イシグロの小説を読むのは昨年秋に読んだ第1長篇の『遠い山なみの光』に続いて2作目。『日の名残り』は彼の第3長篇に当たる。読み終えたあとにネット検索をかけて知ったのだが、この作品をイシグロの最高傑作に挙げる人が多いそうだ。先日、『ねじまき鳥クロニクル』を村上春樹の最高傑作に挙げる人が多いらしいことを同書再読後にかけたネット検索で知ったが、ともに先の大戦を重要な背景とする2作家の「最高傑作」を続けて読んだのは単なる偶然だ。ただ、『ねじまき鳥クロニクル』を読んだことが、半年ほど「積ん読」にしてあった『日の名残り』を読もうと思うきっかけにはなった。

 

 以下、思いっ切りネタバレとなる小説のあらすじを書くので、未読の方はここで読むのを止めていただきたい。ただ、「これは二度読まれるべき小説だ」という私の意見を記憶にとどめていただければ幸いだ。

 

 小説の初めの方で、執事(butler)という日本ではなじみがない職業に関する蘊蓄(それは「品格(dignity)」という言葉で表される)を長々と聞かされて、正直言って「何じゃこりゃ」と思ったし、語り手のスティーブンスがむき出しにする保守思想には強い反感を感じさせるが、その一方でスティーブンスはかつて一緒に働いた女中頭*2のミス・ケントン(いや結婚してミセス・ベンになっているのだが語り手はミス・ケントンと語り続ける)との再会には異様なまでに執心している。ミス・ケントンとは、スティーブンスがかつて好きだった女性であることを読み逃す読者はまずいないだろう。

 ミス・ケントンに対する恋心はともかく、読み始めの方で延々と続く執事の品格云々の物言いには正直言って退屈させられる。しかし、スティーブンスがかつて仕えたダーリントン卿が第1次大戦の敗戦国・ドイツに同情的であったことが明かされるあたりから、徐々に物語の風向きが変わり始める。1923年代に屋敷で催された会議の描写では対独強硬派であったはずのフランス人貴族が寝返って、アメリカ人が悪者にされる。その後ナチスが台頭すると、一時反ユダヤ主義に感化されたダーリントン卿は2人のユダヤ人女中の解雇をスティーブンスに命じる。スティーブンスは「本心ではその解雇には大反対でした」(ハヤカワepi文庫版206頁)と言いつつ、主人の命令に従う。一方、ミス・ケントンは2人の解雇についてスティーブンスに強く反発するが、スティーブンスはそれを抑え込んでしまう。のち主人は改心して解雇は誤りだったと認めるが、女中の消息はもはやわからず、2人は戻ってこない。その段階になって初めて、スティーブンスはミス・ケントンに「あのような解雇に賛成できないのは当然です。それは誰にも自明なことだと思っていました」(同216頁)などといけしゃあしゃあと言い放つ。このあたりで私は「何言ってるんだよ今頃」と思い、このような人間が言う「品格」なるものを大いに疑うとともに、読み手に対する(語り手ではなく)作者の視点の圧力が増してくることを感じる。この時点で既に物語は半分を過ぎている。このすぐあとに、スティーブンスが雇い入れに強く反対した女中・ライザの雇い入れをミス・ケントンの主張を容れて認めると、ミス・ケントンは短期間でライザを一人前の女中に育て上げるが、ライザは下僕の一人と駆け落ちしてしまうという出来事が発生する。この一件なんでもないエピソードは、結末への伏線になっている。

 その後、ミス・ケントンは結婚して屋敷を去っていく。ミス・ケントンは、今日が相手からの結婚申し込みに答える日だとスティーブンスに伝える。しかしその日は屋敷でもっとも重要な会議が催されることになっていた。それはダーリントン卿がイギリス政府の首相と外相に対ナチス・ドイツ融和工作を働きかけるための工作を行うための会議で、ナチス・ドイツの外相・リッベントロップも同席していた。その夜、1923年の会議にも招かれていた若き貴族レジナルド・カーディナル卿が、ダーリントン卿はヒットラーの招待を受け入れろと英国首脳を説得しているぞとスティーブンスに強く警告し、卿を止めるよう求めるが、スティーブンスは肯わない。カーディナル卿は「君は平気かい、スティーブンス? ダーリントン卿が崖から転げ落ちようとしているのを、黙って見ているつもりかい?」(同323頁)とまで問い詰めるが、スティーブンスは「申し訳ございません。何のことを言っておられるのか、私にはよく理解できかねます」(同)と、どこまでも頑なに突っぱねる。スティーブンスが会議に出すポートワインを運んでいる時、もう夜が遅いというのにミス・ケントンの部屋の扉が開き、短い会話を交わす。ワインを運び終えて再びミス・ケントンの部屋の前を通りがかると、まだ部屋の灯りがついているのを知ったスティーブンスは、ドアの向こうでミス・ケントンが泣いているに違いないと確信する(同328頁)。

 スティーブンスがミス・ケントンと再会した時、物語にはもう文庫本で22頁しか残っていない(同332頁)。ダーリントン卿を止めてくれとスティーブンスに懇願したカーディナル卿は戦死し、ダーリントン卿にひどい打撃を与えた。ダーリントン卿自身もナチス・ドイツに協力した戦争責任を問われて新聞に批判され、その結果ダーリントン卿は自殺に追い込まれる(卿の自殺はミス・ケントンとの会話=同337頁=でほのめかされる)。この小説のクライマックスであるミス・ケントンの告白(同342〜343頁)を聞いたスティーブンスがミス・ケントンと「最後に目を合わせた時、ミス・ケントンの目に涙があふれているのが見え」た(同344頁)。

 以上見た通り、スティーブンスはすべてを知っていた。2人のユダヤ人女中の解雇が誤りだったことも、「ダーリントン卿が崖から転げ落ちようとしている」ことも、ミス・ケントンの真意も。

 しかし、スティーブンスにそれらを「見て見ぬふり」させてしまったのが「執事の品格」とやらだった。私の表現では、イギリスの歴史が作った階級社会における「執事」の職業倫理がスティーブンスの人生を台無しにしてしまったということになる。それらを悟ったスティーブンスは、夕暮れの海を見ながら悔悟の涙を流す(349頁)。

 

 以上があらすじだが、スティーブンスの人生のすべてが失敗だったことが明らかになったあとの数頁でも、なおスティーブンスは「執事の品格」にこだわる態度を貫き通している。もちろんスティーブンスは表面を取り繕っているだけなのだが、この技法は「信頼できない語り手(unreliable narrator)」と呼ばれ、カズオ・イシグロの小説で多用される手法とのことだ。たとえば下記渡辺由佳里氏のコラムを参照されたい。

 

www.newsweekjapan.jp

 

 以下、上記コラムから引用する。

 

(前略)イシグロの作品は「信頼できない語り手(unreliable narrator)」で知られている。つまり、語り手自身が自分の人生や自分を取り囲む世界についてかならずしも真実を語っていないのだ。現実から目を背けている場合もあれば、現実を知らされていない場合もある。

だが、読者が小説を読み解くときには、語り手の視点に頼るしかない。物語が進むにつれ、馴染みある日常世界の下に隠されていた暗い深淵のような真実が顕わになってくる。そこで、読者は、語り手とともに強い感情に揺すぶられる。

浮世の画家』と『日の名残り』はイシグロ自身が何度か語っているように、設定こそ違うが「無駄にした人生」をテーマにした同様の作品である。前者はアーティストとしての人生、後者は執事としての職業人生と愛や結婚という個人的な人生の両方だ。どちらの語り手も、手遅れになるまで現実から目を背けてきたことに気付かされる。「暗い深淵」をさらに鮮やかに描いたのが『わたしを離さないで』だ。主人公が知る強烈な現実に、読者は足元をすくわれたような目眩いと絶望を感じさせられる。(後略)

 

出典:https://www.newsweekjapan.jp/watanabe/2017/10/post-36.php

 

 ハヤカワepi文庫版には故丸谷才一(1925-2012)の秀逸な解説がついているが、これも基本的に「信頼できない語り手」論を踏まえている。丸谷は『日の名残り』を下記のようにまとめている。なお下記批評の初出は1990年の『週刊朝日』とのことだ。文庫本の解説では、その書評を引用してさらにそれを敷衍している。

 

 イシグロの長篇小説『日の名残り』の主人公スティーブンスは執事である。彼は以前、政界の名士であるダーリントン卿に仕えてゐて、有能な執事として自他ともに許してゐた。しかし彼には第二次世界大戦前夜から戦後にかけてのダーリントン卿の重大な失敗を救ふことなどもちろんできなかつたし、そして自分自身の私生活もまた失敗だつたと断定せざるを得ない。旅の終わりにそのことを確認して、スティーブンスは海を見ながら泣く。夕暮である。『日の名残り』はそれゆゑ、まるでウッドハウスジーヴズもののきれいな裏返しであるようにわたしには見えた。

 つまりイシグロは大英帝国の栄光が失せた今日のイギリスを風刺してゐる。ただしじつに温和に、優しく、静かに。それは過去のイギリスへの賛嘆ではないかと思はれるほどだ。

(中略)

 しかし物語は整然とそしてゆるやかに展開して(略)、スティーブンスが信じてゐた執事としての美徳とは、実は彼を恋ひ慕つてゐた女中頭の恋ごころもわからぬ程度の、人間としての鈍感さにすぎないと判明する。そしてその残酷な自己省察は、彼が忠誠を献げたダーリントン卿とは、戦後、対独協力者として葬り去られる程度の人物に過ぎなかつた、という認識と重なりあふ。

 これは充分に悲劇的な物語で、現代イギリスの衰へた倫理と風俗に対する洞察の力は恐ろしいばかりだ。これだけ丁寧に歴史につきあひながら、しかしなまなましくは決してなく社会をとらえる方法は、わたしを驚かす。殊に、登場人物に対する優しいあつかひがすばらしい。イシグロは執事、女中頭、貴族を、ユーモアのこもつた筆致で描きながら、しかし彼らの悲劇を物語つていく。

 

カズオ・イシグロ日の名残り』(ハヤカワepi文庫)359-361頁掲載 丸谷才一氏の解説「旅の終り」より)

 

 実に説得力の強い解説だと思ったが、検索語「日の名残り 丸谷才一」でネット検索をかけてみると、この解説文がずいぶん不評を買っていることがわかる。丸谷才一はこの小説を誤読しているという反発が多い。その多くは、上記引用文中の「実は彼を恋ひ慕つてゐた女中頭の恋ごころもわからぬ程度の、人間としての鈍感さにすぎない」という部分を槍玉に挙げている。いや、スティーブンスはミス・ケントンが自分に対して抱いていた恋心をわかっていた、というのが丸谷才一を批判する人たちの言い分だ。

 この文章には私も当初引っかかった。上記あらすじに示したように、スティーブンスがミス・ケントンの恋心に薄々気づいていたことは確実だし、二人が相思相愛であることを読み落とす読者などほとんどいないだろうと思ったのだ。

 しかし、丸谷の文章をよく読むと、鈍感云々の主語になっているのはスティーブンスではなく、「スティーブンスが信じてゐた執事としての美徳」であることがわかる。これなら納得できるし、丸谷はおそらく意識的に誤読を誘発しやすい文章を書いたのではないかと思った。

 

 あるブログのコメント欄に、このことを指摘した例があるので指摘しておく。

 

 まず、ブログ主が丸谷才一を批判したブログ記事にリンクを張る。

 

ameblo.jp

 

 以下ブログから丸谷の「誤読」を指摘した部分を引用する。

 

(前略)ただ、土屋政雄氏の訳に忠実に読み進んだあと、解説の丸谷才一氏の文章を読んでみると、丸谷氏は誤読しているのではないかと思えて仕方ありませんでした。


「スティーブンスが信じてゐた執事としての美徳とは、実は彼を恋ひ慕つてゐた女中頭の恋ごころもわからぬ程度の、人間としての鈍感さにすぎないと判明する。そしてこの残酷な自己省察は、彼が忠誠を献げたダーリントン卿とは、戦後、対独協力者として葬り去られる程度の人物に過ぎなかった、といふ認識と重なりあふ。」


ダーリントン卿については(3)で書くつもりですので、今回は「彼を恋い慕っていた女中頭の恋ごころもわからぬ程度の鈍感さ」について考えてみたいと思います。

 

(中略)

 

丸谷氏が言うように、スティーブンスは、ミス・ケントンの自分への恋心に気づいていなかったのでしょうか。


いいえ、そんなことはないはずです。

 

「私は両手にお盆をもち、廊下の暗がりの中に立っておりました。そして、心に確信めいたものが湧いてくるのを感じておりました。この瞬間、ドアの向こう側で、私からほんの数ヤードのところで、ミス・ケントンが泣いているのだ……と。それを裏付ける証拠は、何もありません、もちろん、泣き声などが聞こえたわけではありません。が、あの瞬間、もし私がドアをノックし、部屋に入っていったなら、私は涙に顔を濡らしたミス・ケントンを発見していたことでしょう。当時もいまも、そのことは信じて疑いません。」(327頁)

 

どうしてスティーブンスは、ミス・ケントンがドアの向こう側で泣いていると思ったのでしょう。

 

その日は、語り手のスティーブンスにとって、「執事人生の集大成」といえるような、執事という「地位にふさわしい品格」を保ち続けたという、勝利感と高揚感をもたらした一日でした。

それは、イギリスの首相と外相と、ドイツ駐英大使がダーリントンホールにやってきた夜、ヨーロッパでも最も大きな影響力を持つ人々が、大陸の運命について意見を交わしていたその夜のことだったのです。

 

上記の正式な客が来る前に、ダーリントン卿の親友の息子である、カーディナルがダーリントンホールを訪れ、それをミス・ケントンに伝えにいくところから追っていきましょう。(後略)

 

出典:https://ameblo.jp/morohi/entry-12082825330.html

 

 赤字ボールドの部分は、スティーブンスがミス・ケントンが自分に寄せる恋心を無視してまで「勝利感と高揚感」をもたらした会合が、実はヒットラーの意を受けたダーリントン卿による英国首相・外相に対する融和工作だったことによって、その空虚さが示されている。

 そして、ダーリントン卿の親友の息子であるレジナルド・ガーディナル卿は第2時世界大戦で戦死してしまったのだ。

 そして、ミス・ケントンも少なくとも結婚後数年間は夫を愛することもできない不幸な日々を送ることになった。

 これが、「執事の品格」とやらがもたらした悲劇だったのだ。


  上記ブログのコメント欄より。

 

誤読ではないと、、、。

「スティーブンスが信じてゐた執事としての美徳とは、実は彼を恋ひ慕つてゐた女中頭の恋ごころもわからぬ程度の、人間としての鈍感さにすぎないと判明する。そしてこの残酷な自己省察は、彼が忠誠を献げたダーリントン卿とは、戦後、対独協力者として葬り去られる程度の人物に過ぎなかった、といふ認識と重なりあふ。」
一部のみを切り取ってしまうと勘違いしやすいのですが、
丸山氏の言いたかったことは、「スティーブンスが信じていた執事としての美徳が、恋ごころもわからぬ程度の、人間としての鈍感さにすぎないようなものだった、とスティーブンス自身が自己省察によって気づき、それはダーリントン卿が、戦後、対独協力者として葬り去られる程度の人物に過ぎなかった、といふ世間の認識と同じような間違いだと気がついた」という意味だと思います。鈍感さとは、スティーブンスが信じようとしていた執事としての「美徳」のことであってスティーブンス自身のことではありません。彼が自分が信じていた「美徳」に反する自身に気付き混乱した様子も表現されており、それを丸山氏が理解できていないとは思えないのですが。

 

 「丸山氏」は「丸谷氏」の誤記だが、それを除けばコメント主の言う通りだ。

 ブログ主はよく小説を読み込んでいるとは思うけれども、背景となる歴史(特にナチスドイツや第2次世界大戦)や、それが人々に与えた影響にあまりにも無頓着なのだと私は思う。

 なお、上記エントリの続編も問題含みだ。下記エントリでもブログ主は丸谷才一の「誤読」をあげつらい、ダーリントン卿(やスティーブンス)を正当化しているのだが、こういう認識こそ、イシグロがこの小説を書いたあと、イギリスのあとを追うかのように、というよりイギリスよりずっと深刻な「斜陽国」になってしまったこの国の人々に多く見られる病理ではないかと思わずにはいられない。上記ブログ主は「信頼できない語り手」についても知識があるにもかかわらず(書評の第1回で「信頼できない語り手」について触れている)この認識なのだから、最初から歴史認識に思いを致そうとする態度自体が欠落しているとしか思えない。イシグロは、記述のあらすじに示した通り、小説中ではっきりスティーブンスもミス・ケントンもダーリントン卿の誤りを明確に認識しており、スティーブンスにはダーリントン卿に諌言することもしようと思えばできたはずだ。もちろんそれは「執事の品格」あるいは執事の職業倫理は抵触するのだが、それは「執事の品格」や執事の職業倫理自体が間違っているのだ。

 

 

ameblo.jp

 

 このような歴史認識の欠落の問題は、何も上記ブログ主に限らず、実に多くの感想文に見られる。アマゾンカスタマーレビューや「読書メーター」を見ても、スティーブンスの「執事の品格」に感心した、という感想文が大多数で、心の底からうんざりさせられた。

 

 検索語「日の名残り 信頼できない語り手」でネット検索をかけると、下記記事がヒットするが、これも問題含みだ。

 

honcierge.jp

 

 以下引用する。

 

さらにスティーブンスは、次のようなことを述べています。

どこの誰に生まれついたって、
金持ちだって貧乏人だって、みんな自由をもってる。
自由に生まれついたから、意見も自由に言えるし、
投票で議員を選んだり、辞めさせたりもできる。
それが人間の尊厳であり品格ってもんですよ。
(『日の名残り』より引用)

人間は階級によって縛られた存在ではありません。自由な存在なのです。だからこそ意見も自由に言えるし、選挙の投票もできるし、議員を辞めさせることもできます。自由こそが人間の尊厳であり、品格であるということを伝えた言葉です。

 

出典:https://honcierge.jp/articles/shelf_story/6672

 

 この記事の著者はいったい何を書いているのだろうか。

 これはスティーブンスの言葉ではない。スティーブンスが仕える貴族階級を批判する言葉であって、旅の「三日目の夜」に「デボン州タビストック近くのモスクム」で村人のミスター・スミスが発した言葉だ。引用文の直後には「旦那の前で偉そうなこと言って申し訳ありませんけどね」という挑戦的な文句が続く。そして、スティーブンスはダーリントン卿に対して決して自由な意見を口にすることはできない人間なのであって、だからこそダーリントン卿は破滅に追い込まれたのだ*3

 

 こんな頓珍漢な引用の誤りをする記事の著者が出した結論も、当然のごとく頓珍漢だ。

 

日の名残り』においては、第2次世界大戦へと向かっていくヨーロッパ全体の歴史、そしてその後の世界の変化、民主主義の理想とその弱点、ナチスドイツのような全体主義に対する個人の力の限界、イギリス人とアメリカ人の性格上の違いなど、さまざまなテーマが重層的に描かれています。

そんななかでスティーブンスは、「尊敬される執事とは?」「人間として身につけるべき品格とは?」という問いを突き詰めていくのです。つまりカズオ・イシグロが本作で提示したのは、人間としてどのように生きるべきかという壮大な理念なのです。

 

出典:https://honcierge.jp/articles/shelf_story/6672

 

 スティーブンスが突き詰めた問いについてはその通りだが、カズオ・イシグロはそれが空しい努力だったと言いたいのだ。それを理解していない記事の著者は、アマゾンカスタマーレビューや読書メーターの多くの読書と同様、『日の名残り』を誤読した結論を読者に示している。こんな読書ガイドがまかり通るのだから呆れたものだ。

 

 カズオ・イシグロ自身、日本系イギリス人というマイノリティであり、イギリスの階級社会によって不愉快な目にあったことは一度や二度ではないのではないかとも想像される。カズオ・イシグロが「執事の品格」を肯定的に捉えていると信じて疑わない方がおかしい。

 もちろんイシグロはスティーブンスというイシグロが創作した主人公を否定しているのではなく、むしろ愛情を込めて描いているのだが、「執事の品格」や英国の階級社会に対しては明確に否定的なメッセージを発している。この点を読み違えてはなるまいと思うのだが、日本ではあまりにも多くの人たちがこの小説を誤読している。スティーブンスに「サムライ」を見たり、階級社会の職業倫理を絶賛したりする感想文で読書サイトが埋め尽くされているのを見て愕然とした。

 思えば、イシグロがノーベル文学賞を受賞した時も、「日本出身の」なる肩書き付きで報じられ、まるで村上春樹ノーベル賞候補といわれながらいっこうに獲れない代償みたいな扱いだったことを、不快感とともに思い出す。

 「『日本スゴイ』の範疇に属する小説家」が書いた「最高傑作」を褒めるのに、「信頼できない語り手」の語り口を信頼して、階級社会の産物であって日本で生きる人間にはなじみがないはずの「執事」の職業倫理をひたすら絶賛する、という欺瞞に満ちた「感想文」ばかりが大量生産されていたらしいことを知って、斜陽国ニッポンのお寒い現実にますます絶望を深める今日この頃なのだった。

*1:辻政信は軍隊内での地位は低かったが、目上の人たちの心を掴む能力に長けていたことと、いわゆる「下剋上」の気風が軍隊にあったことから、地位不相応な権限を得て、権力をことができたのだった。

*2:「女中」は差別用語かと思われるが、訳者が用いているのでそのまま用いる。

*3:他にも、国際連盟がうまく行かなかったのは、貴族どもがお屋敷で決めた密室談合で国際政治が動いているからだという指摘とか、上記モスクムでスティーブンが同地に流れ着いた元社会主義者だという医者に「召使い(servant)ではないか」といわれる部分など、歴史認識や階級に関する言及が到るところに出てくる。