KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

クリスティ『邪悪の家(エンド・ハウスの怪事件)』と『エッジウェア卿の死』/ハヤカワ「クリスティー文庫」の「裏表紙」は読むな!!!

 はじめにおことわりしますが、今回の記事はタイトルの2作の他、『アクロイド殺し』などのアガサ・クリスティ作品のネタバレが全開なので、これらのミステリ小説を未読でそのうち読みたいと想われる方は読まないで下さい。

 5月の連休明け翌週の月曜日(5/10)から昨日(6/18)までの40日間、馬車馬のように働いた。その間に読み終えた本はわずかに4冊で、うち3冊がアガサ・クリスティのミステリ。クリスティの長篇は翻訳なのに読みやすく(おそらくもともとの英語の文章が読みやすいのだろう)、延べ数時間で読めるので、時間がない時に暇を見つけて読むのに都合が良いことを今年に入って知ったのだ。この40日間に読んだのは、ポアロ(ポワロ)ものの第一短篇集『ポアロ登場』(ハヤカワ文庫)とポアロもの長篇第6作の『邪悪の家(エンド・ハウスの怪事件*1)』(同)、それに『エッジウェア卿殺人事件(エッジウェア卿の死*2)』(新潮文庫)の3冊。なおクリスティの他に読んだ1冊は、クリスティよりもさらにお手軽な東野圭吾ガリレオシリーズ第7作『虚像の道化師』(文春文庫)だった。この40日間は軽読書しかできなかったのだ。だから弊ブログの更新もこれが今月最初になる。なお今月はあと一度、連休明け最初の土日に第1回と第2回を公開したまま連載を中断している黒木登志夫『新型コロナの科学』(中公新書)の第3回の公開を予定している。

 短篇集『ポアロ登場』は面白くなかった。コナン・ドイルで一番良いのが第一短篇集の『シャーロック・ホームズの冒険』であることとは正反対で、今までに読んだクリスティのミステリの中で一番つまらなかった。クリスティの短篇集でもミス・マープルものの第一短篇集『ミス・マープルと13の謎(火曜クラブ)』*3は結構面白く、ことに12番目に置かれた「バンガローの事件」は、私にいわせれば「三人称小説版『アクロイド殺し』」というべき、非常に印象的な作品だった。なのに短篇集でのポアロものはさっぱり。ポアロヘイスティングズのコンビは、ホームズとワトスン(ワトソン)のコンビほど短篇で強い印象を読者に与えることはできず仕舞いといったところだろうか。

 今回のメインは、現在の日本で多くの作品の版権を独占していてスタンダードになっている早川書房の「クリスティー文庫」のタイトルで呼ぶと『邪悪の家』と『エッジウェア卿の死』の2作だが、これらはクリスティの最高傑作『アクロイド殺し』の6年後から7年後にあたる1932年と1933年の作品だ。この2作には多くの共通点があるが、出来は後者の方がすぐれている。

 私は、早川書房の他社から出ている翻訳が図書館の棚にあったら、そちらを優先して借りることにしている、その理由は、ハヤカワ版にはネタバレを回避する努力が不足していて、解説文や序文*4、それに裏表紙の文章などによって犯人が事実上わかってしまう弊害があるからだ。解説文は本文を読み終えたあとでなければ読まないが、そこに未読の作品名が出てきた時には素早く読み飛ばして頭に入れないようにするなどの、無駄な努力を強いられることがある。

 しかしついつい目に入ってしまうのがカバーの裏表紙に書かれた作品紹介だ。今回読んだ長篇2作はいずれもこのパターンで、裏表紙によって犯人の見当がついてしまった。『エッジウェア卿の死』は、図書館にハヤカワ文庫と新潮文庫の2冊があったので新潮文庫の方を借りたのだが、両方を手にとってうっかりハヤカワ文庫の裏表紙が目に入ってしまった。しまった、またやられたと思ったが後の祭り。新潮文庫版の本文を読み始めて、あの人が犯人ならトリックはこれしかないだろうな、とすぐに気づき、結局その通りの結末だった。ミステリを読んでトリックも簡単に見破る機会など、マニアの方なら結構あるのかもしれないが、私にとっては滅多にないことだ。読み終えたあとアマゾンや読書メーターを覗いてみたら、私と同様にトリックがわかったと仰る方は結構多かった。ミステリにおいては古典的なトリックを用いた作品だといえる。

 『邪悪の家』の方は、犯人の見当がついたら、その犯人ならば殺人自体のトリックは必要ないものだったのでもっと興醒めだった。しかも、ハヤカワのクリスティー文庫版には目次に各章のタイトルが書かれていて、それを見ても、やっぱりその展開かよ、と確信を強めた。結局その予想を全く裏切らない、あまりにも予想通りの展開だった。ただ、英語の愛称のトリックには気づかなかったが、そもそもMagdalaなんて名前の女性がイギリスに本当にいるのだろうか、とそっちの方が気になってしまった。マグダラといえば新約聖書に出てくるマグダラのマリアだが、ローマ・カトリックでは聖女でありながら「罪深い女」ともされているという話は、宗教にはまるで疎い私も仄聞していた。また、ヒロインのニックは "Old Nick(悪魔)" として悪名高かった祖父に育てられ、それでニックという小悪魔ならぬ「孫悪魔」の意味を込めた愛称で呼ばれるようになったという。

 そのニックが岬に建てられた「地の果ての家」で何度も命を狙われていずれも危機一髪で助かったというのが、原題の "Peril at End House" という意味だろう。ネットで調べると、『邪悪の家』というのは詩人で翻訳家の田村隆一(1923-1998)の訳本で用いられたタイトルで、それ以前に松本恵子(1891-1976)が1956年に大日本雄弁会講談社(現講談社)の「クリスチー探偵小説集」中の1冊として邦訳を出した時には『みさき荘の秘密』と題されていたようだ。タイトルは「最果ての家で危機一髪」といった意味であって、今までの邦訳本のタイトルからあえて選ぶなら、創元推理文庫版で用いられている『エンド・ハウスの怪事件』が一番良いと思う。少なくともハヤカワ「クリスティー文庫」の『邪悪の家』というタイトルを、私は好まない。

 ここでネタバレを書くと、何度も命を狙われたというのは狂言であって、いざ「惨劇」が起きた時に死ぬのは別人であり、その犯人は今まで命を狙われていたはずの「ニック」ことマグダラ・バックリーだった。ハヤカワ文庫の裏表紙には、何度も命を狙われたあと惨劇が起きたと書かれているだけだが、その「惨劇」で殺されたのは今まで何度も命を狙われたのとは別人に違いないとピンときた。これはミステリでは定番のトリックだから、同様の感想を持った人はネットで見た各種感想文を見ても大勢おられた。

 さらにハヤカワ文庫の目次を見ると、AからIとか "J" とか "K" とかいう、人間を表す符号が書いてあるが、これが登場人物のAからIまでの9人ではなく、10人目の人物が犯人として浮上するも、真犯人はその "J" でもない、これまで全く疑われていなかった "K" という人物だという意味であろうことは容易に想像がつく。そしてこの想像は裏表紙の文章から受ける印象とみごとなまでに整合するので、ああ、そういう話なんだろうなと想像がついたという次第。あとは、その予想が当たっていたことを確かめる読書だった。殺されたのは、主人公ニックの従妹、マギー・バックリーだったのだ。マギーを殺したのはニックに違いないと私は確信した。

 本作で一番気づきにくいのは、フーダニット(誰が殺人を犯したか)ではなく、ニックとマギーの本名がともにマグダラであり、ニックはマギーになり代わって遺産を受けようと企んでマギーを殺したという動機だ。

 各種感想文を読むと、この「名前(愛称)」のトリックまで見破らないとわかったことにはならない、などと言って必死でクリスティを擁護している読者が少なからずいる。確かに本作最大のトリックはそこにあるのだが、なぜそんなにむきになるのか私にはさっぱりわからない。そんなことを言うなら、なぜクリスティが普通に用いられるMagdalenaではなくMagdalaなどという、聖書イギリス人にはほとんどいないであろう名前をつけ、彼女の愛称を「ニック」にしたのかというあたりまで理解できなければ、クリスティの意図が本当にわかったことにはならないのではなかろうか(もちろん私にもクリスティの真意などわからない)。少なくとも本作の犯人を見破ることが極めて容易であることは間違いない。

 なお、ネット検索で知ったが、1990年代に活躍したテニスのマレーバ三姉妹の末妹の名前がマグダレナであり、彼女の愛称は「マギー」だったらしい。普通にはマギーといえば正式な名前はマーガレットであることが多いが、マグダレナがマギーならマグダラもマギーであってもおかしくない。しかし、マギーからマグダラにたどり着くのは普通には困難だ。だからクリスティはニックに、一族にはマグダラという名前が多いと言わせている。だが私はクリスティが読者に与えたそのヒントには気づけなかった。そんなに難しい謎ではないから、気づいた方もおられるに違いないと思うが。

 作品全体としていえば、『エンド・ハウスの怪事件(邪悪の家)』はクリスティ作品の中では出来の良い部類には決して入らないだろう。

 『エッジウェア卿の死』は、その『エンド・ハウスの怪事件』とはっきり言って同工異曲の作品だが、出来は『エンドハウス』よりはずっと良い。それは、この作品の「悪のヒロイン」ジェーン・ウィルキンスン*5のキャラクターが、ニック・バックリーと比較して、より一層「エッジが立っている」ところにある。つまりヒロインの「悪の魅力」においてジェーンの方がニックよりも上なのだ。2人ともどうしようもない極悪人ではあるが。

 それに、『エッジウェア卿の死』は『アクロイド殺し』との関連が強い。まずタイトルが似ている。"The Murder of Roger Ackroyd" と "Lord Edgware Dies" だ。直訳すると「ロジャー・アクロイドの殺害」と「エッジウェア卿死す」。さらに、この長篇はこの記事の最初の方で触れた短篇集『ミス・マープルと13の謎』の12番目に置かれた作中の白眉の短篇「バンガローの事件」を下敷きにしている。ヒロインはともにJaneという名のactress(女優)だ。今ならactor(俳優)と表記すべきかもしれないが。

 そして、最初に書いた通り「バンガローの事件」は、もし実行された場合「お馬鹿な女優」のはずのジェーン・ヘリアが犯人になるところだった。その事件について語るジェーンは、自分が犯行を企んでいたことを隠してしゃべり、最後にミス・マープルに真相を指摘される。私が「三人称小説版『アクロイド殺し』」だと評するゆえんだ。

 ジェーン・ウィルキンスンはそのキャラクターを同じ名前のジェーン・ヘリアから継承している。しかし当然ながら本作の語り手ではない。そんなことをやったら『アクロイド殺し』の二番煎じにしかならない。ジェーンは語り手どころか途中から出てこなくなる。そして最後の最後に「意外な犯人」としてポアロに名指されるが、うっかりハヤカワ文庫の裏表紙を読んでしまった私には意外でも何でもなかったし、前述の通りメインのトリックも見破っていた。

 もっとも、クリスティ作品を何作も読んでいると、ことに本作をよく似た趣向の前作『エンド・ハウスの怪事件(邪悪の家)』を読んだあとだと、仮にハヤカワ文庫の裏表紙を見ていなかったとしてもジェーンを疑ったことは確実だし、その場合トリックも見破れた可能性が高いとは思う。それは『邪悪の家』でも同じで、どのみちあの展開になったのだからハヤカワ文庫の裏表紙を読んでいなくともニック以外を疑うことはできなかったに違いない。しかしそれでも、ハヤカワ文庫の裏表紙たちには「余計なことをしやがって」という恨みしか持ち得ないのである。

 『アクロイド殺し』は、中学生の頃に語り手のシェパード医師を疑いながら読んでいた途中に、本当にそのシェパードが犯人だったことを級友にネタバレされて読むのを止め、今年に入って46年ぶりか47年ぶりに初めて全部を読み通したのだった。その後、駄作との悪名高い『ビッグ4』は読んでいないが、『青列車の秘密』は読んでいる途中に、『邪悪の家』と『エッジウェア卿の死』については前述の通り、読む前から犯人の見当がついた*6。その最後の『エッジウェア卿の死』の最後の第31章「ある人間の記文」で、語り手のヘイスティングズが処刑された犯人であるジェーン・ウィルキンスンからポワロ*7に送られてきた「手記の写し」を紹介している。その中でジェーンは「あなたは時折り、扱われた事件の記録を出版なさっておられます。でも、犯人自身の手記を、出版なさったことはないと存じます」(新潮文庫版『エッジウェア卿殺人事件』291頁)と書いている。つまり、ジェーンは「『アクロイド殺し』なんて知らないよ」と言っているわけだ。このあたりが興味深かった。

 クリスティはこの作品の終わり近くでヘイスティングズを南米に送り返してしまい、次のポアロもの第8作『オリエント急行殺人事件』にはヘイスティングズは出てこない。この『オリエント急行殺人事件』でクリスティはようやく『アクロイド殺し』の呪縛から完全に離れ、次のステップに進んだように思う。

 こう考えると、『エッジウェア卿の死』は、クリスティが『アクロイド』の呪縛を断ち切るプロセスが直接に反映された作品だといえるのではないか。ヘイスティングズの南米への強制送還も、その一つの表れだろう。ヘイスティングズは確かに愛敬のあるキャラクターだが、一方で作品をマンネリ化させる要因にもなっていた。このあと、長篇では『ABC殺人事件』や『カーテン』ほか1作、短篇では多数の作品にまだヘイスティングズが出てくるらしいが(いずれも未読)、ヘイスティングズが出てこなくなればクリスティ作品のパターンが変わり、犯人当ても今までのような連戦連勝はできなくなるかもしれないなと思った。

 正直言ってポアロもその作者のクリスティも鼻につく。クリスティは極端な大英帝国主義者であり、フランスに対する対抗心が強く、アメリカを見下していて同国の台頭を快く思っておらず、日本・中国・インドなどのアジア諸国に対しては差別意識がはなはだしい。クリスティの頭の中にはこのような階層構造があったに違いないことが強く感じられるで、これまで何度神経を逆撫でされたかわからない。クリスティがもう少し長く生きていたらマギーことマーガレット・サッチャーを熱烈に支持したに違いない。

 しかし作品は読みやすく、赤川次郎が『そして誰もいなくなった』のハヤカワ文庫版解説に書いた通り、一晩で読み通せる長さだから多忙期の軽読書には適している。もう少しお世話になるとしよう。

*1:創元推理文庫版のタイトル

*2:ハヤカワ「クリスティー文庫」版のタイトル

*3:ミス・マープルと13の謎』は、私が読んだ創元推理文庫版で、イギリス版のタイトルに基づく。ハヤカワの「クリスティー文庫」では『火曜クラブ』であり、アメリカ版のタイトルに基づく。

*4:ハヤカワ「クリスティー文庫」では、クリスティの孫のマシュー・プリチャードが書いた序文がいくつかの作品の冒頭に掲載されているが、多くの場合ネタバレが含まれているというとんでもない代物だ。

*5:ハヤカワ文庫版ではウィルキンソン

*6:しかし、ポアロものではない『そして誰もいなくなった』は、途中で死んだことになっていた誰かが犯人だということを事前に知っていたにもかかわらず、それが誰かはわからなかった。候補として考えた3人のうちの1人ではあったが、その中で最初に「死んで」しまったせいもある。しかし私は『アクロイド』がアンフェアだとは全く思わないけれども、『そして誰もいなくなった』には、クリスティ自身が「信頼できない語り手」になっているとしか言いようがない若干のアンフェアさが認められることと、あの「死体運搬」の時に死体ではなく生体であることに気づかれないことなどあり得ないという2つの理由によって、『そして誰もいなくなった』を『アクロイド殺し』よりも上位に置くことは絶対にできないと考えている。だから今までのところ、『そして誰もいなくなった』はクリスティ作品のナンバー2であり、ナンバー1は依然として『アクロイド殺し』だ。とはいえ、『そして誰もいなくなった』の後半の緊張感は素晴らしい。

*7:新潮文庫版の表記に基づく。