KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

【ネタバレあり】小泉喜美子『弁護側の証人』(1963) は「映像化絶対不可能」との宣伝文句だが、1980年にNHKのドラマ『冬の祝婚歌』で映像化されている

 4月に読んだ本は5冊だけだったが、うち4冊がミステリで、しかもその中には批判する目的でしか読まない東野圭吾作品が1つ含まれている。昨年来の多忙の疲れが新年度に入ってもまだ残っている体感がある。だから打率1割4分台にまで落ちてスワローズ7連敗の戦犯と叩かれている村上宗隆を責める気も起きない。お互い去年はきつかったよなあとつい思ってしまうからだ。もちろん村上の足元にも及ばない私だけれども。

 しかしそんな4月最後に読んだ小泉喜美子の歴史的名作ミステリ『弁護側の証人』(1963, 集英社文庫新版2009)は良かった。本作はアガサ・クリスティのファン、特にアガサのミステリをあらかた読み終えた読者には強くおすすめしたい一作だ。

 

 以下の文章には本作のネタバレを含むので、本作を未読かつ今後読みたいと思われる方は絶対に読まないでいただきたい。これはネタバレ厳禁の作品なのだ。残念ながら後述の理由によって私自身はネタをある程度どころか相当程度に知った状態で本作を読む羽目になってしまったが。

 本作のタイトルは、アガサ・クリスティの「検察側の証人」からとられており、この作品には短篇小説版*1と戯曲版*2がある。私は両方とも読んでいて弊ブログにも取り上げたことがあるが、その記事では小説の内容には触れておらず、ハヤカワ文庫版の短篇小説版と戯曲版で人名の表記が異なるという瑣末事に触れているだけだ。

 

kj-books-and-music.hatenablog.com

 

 しかし内容的には「検察側の証人」よりも同じクリスティの『アクロイド殺し』からの影響の方が強い。といってもトリックは『アクロイド殺し』とは全く異なる。『アクロイド殺し』と同じなら犯人はヒロインの漣子(なみこ)になってしまうが、そういう作品ではない。『弁護側の証人』は、『アクロイド殺し』とは異なる叙述トリックに挑戦して、それにみごとに成功した作品なのである。

 そんな叙述トリックが用いられたこの小説の集英社文庫版には一時期「映像化絶対不可能」と書かれた帯がついていたらしい。また、ネット検索をかけたら、下記の記述があるはてなブログの記事がみつかった。

 

type-r.hatenablog.com

 

●『弁護側の証人』 小泉喜美子

■あらすじ『ヌードダンサーのミミイ・ローイこと漣子は、八島財閥の御曹司・杉彦と恋に落ち、玉の輿に乗った。しかし幸福な新婚生活は長くは続かなかった。義父である当主・龍之助が何者かに殺害されたのだ。真犯人は誰なのか?弁護側が召喚した証人をめぐって、生死を賭けた法廷での闘いが始まる。「弁護側の証人」とは果たして何者なのか?日本ミステリー史に燦然と輝く、伝説のどんでん返し小説!』

1925年に発表されたアガサ・クリスティの『検察側の証人』に対抗意識を燃やしたことがバレバレなタイトルですけど、中身の方もなかなか優れた推理小説で、古い作品ながらミステリーファンの間ではいまだに高く評価されている一作です。『検察側の証人』の方はマレーネ・ディートリッヒが出演し、ビリー・ワイルダー監督の手によって映画化されましたが、本作の映画化はちょっと難しいでしょうねえ。

 

URL: https://type-r.hatenablog.com/entry/20141016

 

 上記ブログ記事には、昔読んだ筒井康隆の『ロートレック荘事件』も取り上げられている。

 

●『ロートレック荘事件』 筒井康隆

■あらすじ『夏の終わり、郊外の瀟洒な洋館に将来を約束された青年たちと美貌の娘たちが集まった。ロートレックの作品に彩られ、優雅な数日間のバカンスが始まったかに見えたのだが…。二発の銃声が惨劇の始まりを告げた。一人また一人と美女が殺される。邸内の人間の犯行か?アリバイを持たぬ者は?動機は?推理小説史上初の仰天トリックが読者を迷宮へと誘う、空前絶後のメタ・ミステリー!』

筒井康隆と言えば『時をかける少女』が有名ですが、他にも『七瀬ふたたび』や『パプリカ』など多数の作品が映像化されてきました。その中でも唯一「映像化不可能」と謳われているのが本作なのです。SF作家として知られる筒井康隆が書いた推理小説ということであまり期待しないで読んでみたら、意外にも本格ミステリーの傑作でビックリ仰天!まんまと騙されてしまいましたよ。

 

URL: https://type-r.hatenablog.com/entry/20141016

 

 この『ロートレック荘事件』の叙述トリックは私にはわかった。それどころか私は中学生時代に『アクロイド殺し』を「この〇〇〇は怪しいなあ、もしかしたらこいつが犯人なんじゃないか」と疑いながら読んでいたのだが、読み終えないうちに同級生との会話でこの作品の話題を出したらネタバレを食ってしまったという痛恨の思い出がある。要するに大金星をあげる前に快挙を阻止されたようなもので、2007年の山井大介か今年の村上頌樹かといったところだった。言いたいのは叙述トリックを見抜く才能はどうやら少しはあるらしいということだが、それにもかかわらず『弁護側の証人』のトリックは見抜けなかった。あれは、作者と読者の思考回路の類似度が高ければ見抜けるが、そうでなければ見抜けないのだと思う。小説ではなく音楽の分野では私はどうやら坂本龍一の顕著な劣化版みたいなものらしく、坂本の音楽に関する発言をネットの動画経由で聞いてはうんうんと頷く今日この頃なのだが、小説では筒井康隆の実験的小説群が面白くてたまらなかった時期が長かった。

 ところで、上記ブログ記事に「本作の映画化はちょっと難しいでしょうねえ」と評されており、文庫本にもそれを謳った帯がかけられていたらしい本作は、映画化こそされていないものの、かつてテレビドラマ化されていたのだった。しかも私はそれを見ていて、犯人を言い当てていたのだった。

 そのテレビドラマとは、1980年2月の月〜金曜日に20回連続で放送された『冬の祝婚歌』だった。映像のごく一部だけはNHKのサイトで確認できる。

 

www2.nhk.or.jp

 

銀河テレビ小説 冬の祝婚歌

 

放送年:1979年度

大富豪の一人息子に見初められ、玉の輿に乗った貧しいショーダンサー。幸せな結婚生活が始まったはずだったが、上流階級の家庭内にはさまざまなエゴが渦巻いていた…。ドロドロとした人間模様を軸に、愛欲に翻弄される女性の波瀾に満ちた日々を描いた。(全20話)

原作:小泉喜美子 音楽:松田昌

 

URL: https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009044114_00000

 

 出演者として高橋洋子本田博太郎小山明子の名前が書かれている。この高橋洋子の好演が光った。彼女は1973年度のNHKの朝ドラ『北の家族』のヒロインだが、この朝ドラが良いとは全然思わなかったので、最初はああ、昔朝ドラをやった人かと軽く見ていたのだが、撮影が進むにつれて高橋が乗ってきたのかどうか、途中からぐんぐん良くなっていったことに驚かされた思い出がある。高橋が『雨が好き』で中央公論新人賞をとったのは翌1981年のことで、ああ、やっぱり感性に独特のものを持った人なんだろうなと思ったが、今に至るまで高橋の小説を読んだことはない。

 『弁護側の証人』のアマゾンカスタマーレビューでも『冬の祝婚歌』に触れたレビューが2件あった。以下引用する。

 

Hideji

★★★☆☆  冬の祝婚歌

2014年9月14日に日本でレビュー済み

 

大学受験直前の2月,NHKの銀河テレビドラマで「冬の祝婚歌」と題して放映されていました。その主題歌(歌詞はない)のメロディーとともに張り詰めていた当時が思い出されます。この書はその原作にあたるわけですけど,犯人は誰なのかと思いながら,素直に引き込まれるように読めました。

 

URL: https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R2R5Y2SO1SM0VN

 

 上記は私の同世代と思われる方のレビューだが、褒めているのに星は3つしかない。気に入ったのは『冬の祝婚歌』の方で、小説『弁護人の証人』には難点を感じたのかもしれない。私はどちらも良いとは思うが、ドラマで覚えていたのは高橋洋子が好演していたことのほかもう一つだけあって、それは残念至極ながら犯人が誰かということだった。つまり私は『弁護側の証人』も『アクロイド殺し』と同様に犯人を知った状態で読み始め、それにもかかわらず両作とも歴史的名作であるとの結論に達した。

 

何でも乱読家

★★☆☆☆ 改めて・・・。

2017年1月26日に日本でレビュー済み

 

大昔、多分30年以上前にNHKでドラマ化されていました。

大体、「原作の方が良い」なのですが、これは「TVドラマの方が良い」。

確か、主役は高橋洋子さんだったと思います。

 

URL: https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R3QAPIP96ABJTQ

 

 この人もドラマ派だな。

 私がこのドラマのリンクが張られたNHKのサイトにたどりついたのは、坂本龍一Eテレで2010年代にやっていた音楽教育番組「スコラ」の映像が公開されているかどうかを知るためだったが、NHKの過去の番組を思い出して『冬の祝婚歌』にたどり着いたのだった*3

 本作は1963年の発表当時とそれから60年が現在では喋り言葉も書き言葉もずいぶん変化してしまったので、それ故の読みづらさは確かにあるのだが、特に「読書メーター」に顕著なのだが、だからといってせっかくの叙述トリックの名作を読んだのに、トリックが仕掛けられた偶数章の読み直しもしないで感想文を書いて消費を終わらせてしまう読み方ではあまりにももったいないと思った。それがこの記事を書いた最大の動機だ。

 前述の通り、私は1980年にこの小説を原作としたドラマをほぼ全回熱中して視聴し、犯人も言い当てたのに、そのことと主演女優が好演したことを除いてストーリーはすっかり忘れてしまった。しかし前述の経緯から犯人が誰かは忘れようがなかった。また、軽いネット検索で本作が叙述トリックの作品であることも知った*4。それにもかかわらず、また序章の叙述に不確かなところがあることには気づいたが、それでも本作のトリックを見抜けなかったことには下記2つの要因がある。

 1つは、叙述トリックといえば例の「信頼できない語り手」が短絡的に思い浮かぶが、それを本作に当てはめたらヒロインが犯人になってしまい、それがあり得ないことは43年前に見たテレビドラマから明らかだが、それでも原作とドラマとでは犯人の設定が違うのかもしれないと疑いながら読んでしまったこと。

 もう1つは、昨年夏以来の仕事が近年になくハードだったために現在も疲れが残っていていて、読書にもなかなか集中できないことで、だからハードルの低いミステリを読んで読書の習慣を取り戻そうとしている時期にあたることが挙げられる。でもこちらはいささか言い訳じみている(笑)。

 読みながら考えたのは、この進行でどうやったらあの人が犯人だという結末に繋げることができるのだろうかということだった。間違っても「意外な犯人」ではなく、それどころかクリスティが愛用した「一番怪しい奴が本当に犯人だった」パターンなのだが、つなげ方は第11章冒頭で作者から種明かしされるまでわからなかった。事実上『アクロイド殺し』の犯人を中学生時代の初読未遂時に見抜き*5に見抜き、1990年代には『ロートレック荘事件』のトリックも見破れたのに、今回はこれだけ条件が揃いながら見抜けなかった。第11章の冒頭で作者が種明かしをした瞬間にすべてがわかったがあとの祭り。ものの見事にやられてしまった。

 本作は「犯人がわかった」だけではトリックを見破ったことにはならない。叙述トリックの仕掛けがまるごとわかっていなければ「作者に勝った」ことにはならないのである。

 私が良いと思えたレビューはアマゾンカスタマーレビューや読書メーターや「ミステリの祭典」*6には後述の1件だけしかなかった。しかしそれらのサイトではない独立したブログ記事その他のサイトには、さすがに良い分析がいくつもあった。

 私がもっとも良い分析だと思ったのは下記リンクの記事。

 

 以下一部を引用する。

 

(前略)本書の全編にわたる曖昧な記述、とりわけ「序章」の判決の中で……を死刑に処する。”(14頁)と被告の名前が伏せられている点などは、叙述トリックの存在をあからさまに示唆しているともいえるのですが、しかしそれはあくまでも示唆にとどまる――どちらとも解釈できる――ものであって、続く本篇を読んでいくうちに眩惑されてしまう可能性も高いでしょう。

 加えて本書では、““弁護側の証人”が誰なのか?”という興味が盛り込まれ、それが一種の“煙幕”となっているのも見逃せないところです。実際、「第十一章」で緒方警部補が“弁護側の証人”として法廷に登場した場面(205頁)では、証人があまりに“そのまま”なので唖然とさせられた一方で、被告の正体という最大のポイントから巧みに目をそらされていたことに気づいてうならされました。

 とはいえ、題名にもなっている“弁護側の証人”は単なるミスディレクションではなく、本書のテーマ――“事件の捜査にあたった警察官は、みずからの誤認逮捕をみとめてはいけないのか?”(209頁)という問い、そして“無実の人を死刑にしないことは、願いではなく義務である”という宣言(203頁)――を浮かび上がらせるためのものと考えるべきではないでしょうか。

 

URL: http://www5a.biglobe.ne.jp/~sakatam/book/bengo.html

 

 上記レビューにも明記されている通り、「叙述トリックの存在をあからさまに示唆している」のはその通りだから、ミステリに慣れた読者(コナン・ドイルアガサ・クリスティ松本清張にのみ極端に偏り、その他はほとんど知らない私はこの範疇には属さない)には「一発で見抜けた」人は少なくないのだろうと思う。しかし「なんとなく犯人がわかった」というだけなら、前述の通りそもそも最初から一番疑わしい奴が真犯人だったというストーリーなのだから何の自慢にもならないのである。本当にわかったのであれば作品に仕掛けられた仕組みくらいは説明してもらいたいと思う。

 私は『アクロイド殺し』式の「信頼できない語り手」にこだわってしまった間抜けな読者なのだが、だからこそかもしれないけれども文体の人称にこだわった。簡単にわかることだが、本作は全11章を序章と終章で挟んだ全13章からなり、序章を第0章、終章を第12章と考えると、偶数章がヒロインの一人称、奇数章が三人称で書かれている。そこには「信頼できない語り手」は存在しない。偶数章は短く、奇数章は長い。ヒロインが過去を回想する部分を除くと、一見、章の順番に沿った時系列でストーリーが進んでいるように思われる。

 しかし実はそうではない。この物語は第1章で始まり、以下第3章以降第9章まで奇数章に沿った時系列で進む。そして第9章のあとに序章が接続され、以下第2章から第10章までの偶数章が続き、そのあとに第11章と終章と続くのである。

 これだけの有名作品なのだから、時系列が上記の順番になっていることは既に誰かに指摘されているだろうと思うが、私が調べた範囲ではみつからなかった。ご存知の方がおられたら教えてただければ幸いだ。

 そして、そのカラクリに気づかなかった私のような読者は、トリックが仕掛けられた偶数章だけ読み直してみるべきなのである。

 この「偶数章」というワードに着目して「弁護側の証人 偶数章」の検索語を用いて検索をかけると「ミステリの祭典」のあるレビューがヒットする。それが前述のアマゾンカスタマーレビュー、読書メーターと合わせて私が唯一良いと思ったレビューだ。以下引用する。

 

No.40

10点

斎藤警部

2015/08/17 10:12

 

【徐々にネタバレ度が強くなりますので、未読の方は適当な所を見極めて引き返すか、最初から読まないかでお願い致します】

 

私の様な鈍い人には、一瞬では分からず、時間をもらってやっと分かったつもりでいると、、「いや、何? .. ああ、そういう事!!」と更に一段深い所の真相に気付いてしまうという、誠に罪深い企みに貫かれた古典名作。

 

読了後「かなり面白かったけど、結末は言われるほど驚かなかったな、まぁ7点でしょう」くらいに思いましたが、ある事に気付いて「いやいや8点は行くでしょう」と思い直し、やがってもっと大きな企みに思い当たり「馬鹿な、こりゃ9点相当じゃないか!」と心を入れ替えるまで優に%&!$分以上(恥ずかしくて書けません)掛かった私は何たる粗忽者だった事か。

 

物語自体がミステリとして十二分に面白いし、叙述トリックの仕掛けがその物語を根底から引っくり返してしまうのでなく、半分だけドンデン返し、物語側ではなく読者側にだけドンデン返しを喰らわす感覚がニクいです。 いえ物語の側にも大きな反転があるのですが、実はそれが先に書いた「もう一段深い真相」なんだけど、そっちの方を気付かせない方便で読者の側だけにもう一つの欺瞞を巧みに施すというね。。 何と言うか、一口に叙述トリックと言っても本当に幅広く奥深い可能性があるんだなぁというか、誰か作品内で「叙述講義」でもおっ始めてくれないかなぁ、というか。ぃややっぱりそれはやめなさい、というか。

 

今にして思えば、何気ない第1章の書き出しこそ、プロローグでのちょっとした不自然さの巧みな目くらましになっていたんだなあ。。 あれが無かったら鈍い私でさえ気付いていたかも。 やられたよ。

 

間抜けな話で恐縮ですがね、「第十一章 証人」のね、特に出だしあたりは"違和感"がテーマなんだな、って思ってたんですよ、最後の反転に導くためのね。 そしたら、よく考えてみたら"反転"そのものじゃないか、ってね。 最後まで読んでからもっかい考えて、やっと気付いたって言う。

 

そっかー、「序章」にちょいとした伏線がいくつも張られていたんだよなあ、無意識に違和感で記憶しちゃってたじゃないか、嗚呼それなのに。。

 

社会派要素が充分に織り込まれているのも良い感じですね。 叙述と社会派の融合がこんな太古の昔に既に実を結んでいただなんて! それと、全体に渡ってどこか爽やかな雰囲気が保たれているのも素晴らしい。読後感もすぅっと気分の良いものですし。

 

最後までエダ乃至「わたし」への疑いをキープせずにいられなかった私は本当にウブなおバカさんだよ、って思います。 作者の企みはそんな皮相なレベルとは全く違う所にあったんです。

 

「殺人交叉点」は物語のあまりの音圧に圧死終わり、「葉桜」は「いえ、二度読みまでしなくとも充分に分かりました」と納得終わり、「イニシエーションなんとか」は「おお! 後で二度読みしようっと!」と仮置き終わり、しましたが、本作はどれとも違った。 直ぐに偶数章だけ(第0章=プロローグを含み)パラパラっと読み直してしまいましたよ。

 

叙述トリックと分かって読んだからこそ「なのに、やられた!」の衝撃は強かった、という側面も大きいです。 叙述擦れを自覚する人にも、未読でしたら是非、勇んで読んでいただきたい。

 

済みません、題名『弁護側の証人』に込められた意味が分かるまで更に数日掛かってしまった。。 参った! やっぱり10点にします。 それにしてもどえらくフェミニンな推理小説

 

URL: https://mystery-reviews.com/content/book_select?id=2553

 

 上記は本当に良いレビューだ。「叙述と社会派の融合がこんな太古の昔に既に実を結んでいた」という指摘など本当にその通りだと思うが、それを指摘するレビューはほとんどない。現在だって冤罪をひっくり返すために弁護側の証人に立つ警察官などリアルにはあり得ない(その逆ならいくらでもいるが)。「どえらくフェミニンな推理小説」だとは私も思った。

 そして何より、レビュー主はしっかり「偶数章だけ(第0章=プロローグを含み)パラパラっと読み直してしまいました」と書いている。私も同じことをやった。

 レビュー主は

最後までエダ乃至「わたし」への疑いをキープせずにいられなかった私は本当にウブなおバカさんだよ、って思います

と書いているが、私なんか読む前から真犯人がわかっていたのに、それでも「原作とドラマとでは真犯人の設定が違うのではないか」などという屁理屈を勝手にこしらえて、『アクロイド殺し』流の「信頼できない語り手」の可能性を捨てきれなかったのだから、本当にどうしようもない間抜けである。

 なお本作の社会性については、下記ブログ記事にも指摘されている。

 

mysterytuusinn.seesaa.net

 

 以下引用する。

 

(前略)この『弁護側の証人』はトリックのネタが割れても充分に再読に耐える作りなのも驚きです。

 

初読時に上記の叙述によるサプライズが存在し、再読時には高度な社会派サスペンスとして楽しめる……まさに、一粒で二度美味しい作品となっています。

 

社会派サスペンスとしては、冤罪を阻止する為に自らの誤りを認める捜査官の存在が特筆。

このメッセージ性の豊かさも見逃せません。

 

URL: http://mysterytuusinn.seesaa.net/article/182318491.html

 

 とにかく1963年の作品とは思えない先進性には目を見張らされる。

 

 (第11章に続く)奇数章のあとに(序章を含む)偶数章が続くと読める小説としては、以前にも弊ブログで取り上げた村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』があるが、これは本作よりずっとあとの1985年の作品だ。この作品も「1985年の作品とは思えない先進性」が評価されることがあるが、本作はそれよりもさらに古い、しかも純文学ではなくミステリの範疇に属する大衆小説なのだ。なお村上春樹は『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』について、上記のような時系列の物語ではないかとの質問に対して、そういう意図で書いたわけではないと言っているようだ。

 奇数章と偶数章で人称を書き分ける手法にはおそらく先例があるのではないかと想像するが、具体例は知らない。クリスティの『ABC殺人事件』(1936)に一部だけヘイスティングズではなく別の人間の一人称になっていたり、三人称で書かれた部分があるが、小泉作品のような規則性はない。人称と同時に時系列まで奇数章/偶数章で書き分けた作品になると、さらに希少なのではないかと思う。

 なお本作中に一箇所クリスティの『アクロイド殺し』への言及があるので以下に書き出しておく。それは三人称で書かれた第5章の中にある。

 

彼女は『レベッカ』のほかに『黒い天使』も『アクロイド殺し』も読んでいた。上手につくり上げられた人殺しや犯罪の話には、奇妙に人を酔わせる、ぞくぞくしたなにかがあるものだ。

 

小泉喜美子『弁護側の証人』(集英社文庫, 2009新版)123頁)

 

 村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』について書いた時にも、まるでメビウスの環のような構成だと書いた記憶があるが、それは本作にも当てはまる。

 その同じキーワードである「メビウスの輪(帯)」を作者自身が使っているのが東野圭吾の『片想い』(文春文庫2004, 単行本初出2001)だ。この作品でいう「メビウスの輪」とは今でいうLGBTQのことで、これは東野作品によくあるトンデモ倫理的な面は比較的少なく、それどころかジェンダーをテーマとした社会派風の作品だ。

 しかし、札付きの悪書と私が認定した『容疑者Xの献身』を知っている私は、後年にあんなのを書いた東野にジェンダーをテーマにされても説得力なんかないよ、としか思えなかった。

 アガサ・クリスティはこの半年ほど毎月1冊ずつのペースだったが、今月は『蒼ざめた馬』(1961)と『鏡は横にひび割れて』(1972)の2作を読んだ。これでクリスティの未読長編は残すところ一桁の9作になった。『鏡は横にひび割れて』を高く評価する人もハヤカワ文庫の解説者を含めて少なからずいるようだが、私はこの作品を全然評価しない。養子に対する犯人の仕打ちはもちろん、障害を持って生まれてきた自らの実子に対する仕打ちも実にひどいものだからだ。これでは犯人への同情などできない。しかも、久々に気合を入れて書いたと思われるこの作品で、クリスティはかつてのパターンに立ち返っているので、成立順に読んできた私には、ああ、これは『エンドハウスの怪事件(邪悪の家)』(や後年の『予告殺人』)と同じパターンの作品だから、あの人が犯人なんだろうなとの目星は簡単についた。しかも前述の理由によって本作同様犯人の推定自体は容易だった『予告殺人』では可能だった、犯人への感情移入もできない。未読の長篇には評価の高い作品は残っていないので、さしものクリスティも60歳の時に書いた『予告殺人』以降には、それを超える作品は生み出せなかったんなだと思った。

 ミステリ以外ではジーン・シャープの『独裁体制から民主主義へ - 権力に対抗するための教科書』(瀧口範子訳, ちくま学芸文庫2012)の1冊だけ読んだ。

 

www.chikumashobo.co.jp

 

 短いこの本を読むのに1か月もかかってしまった。残念ながら、そのくらい集中力の持続に問題を抱える日々が続いている。

*1:1925年作品、ホラー小説の短篇集『死の猟犬』(1933)収録。

*2:1953年作品。

*3:なお1980年に放送されたNHKの番組で飛び抜けて強く印象に残っているのはドラマ『四季 ユートピアノ』だ。このドラマが2000年に再放送された時にも見入ってしまったが、現在はそれからさらに23年が過ぎてしまった。これも映像のごく一部が公開されている。https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009010252_00000 まあこちらについては海賊版と思われる動画が流布してはいるが。

*4:詳細が書かれた部分が目に入らないようにすぐウィンドウを閉じたので、どういうトリックかは知らずに済んだ。

*5:結局『アクロイド殺し』を終わりまで通して読んだのは2021年4月が初めてだったが。

*6:「祭典」と「採点」とを掛け合わせた名称。