KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

水谷彰良『サリエーリ - モーツァルトに消された宮廷楽長』(音楽之友社, 2004) を読む

 明日には図書館に返さなければならないので、水谷彰良著『サリエーリ - モーツァルトに消された宮廷楽長』(音楽之友社, 2004)についてメモを残しておく。下記は2019年の復刊版へのリンク。

 

www.fukkan.com

 

 本文を始める前に、弊ブログにいただいた下記コメントを紹介する。

 

kj-books-and-music.hatenablog.com

 

まやや&充実 (id:mayaya_jujitsu)

 

水谷彰良氏『サリエーリ モーツァルトに消された宮廷楽長』は、数年前に自分がサリエリに関心を持った時に読んだ本の一冊です。水谷氏は日本におけるサリエリ研究の第一人者ではと思います。

サリエリモーツァルト毒殺は虚偽」ぐらいは知っていたのですが、いざサリエリを調べてみると、フランス革命を挟んで社会も音楽の世界も激変したこの時代に、革命前でも後でも第一線で活躍し続けた、音楽史においても相当な重要人物なのでは?と驚きました。
(自分にとってモーツァルトフランツ・リストは「全く別時代の人」というイメージだったのですが、サリエリがその両者と交流があったというだけでも驚き。)

サリエリで一番印象的だったのが、フランス革命を経て「貴族や王侯の音楽」から「市民の音楽」へと移行していく時代の中、音楽振興と音楽家たちの支援のためにウィーン学友協会の設立や発展にかかわっていたという点でした。
帝国宮廷楽長という「旧時代のドン」「権威の頂点」みたいな地位にいたサリエリが、新しい時代の流れに適応しようとし、後世の音楽家たちや音楽界のために活動していたのかという驚き。知るほどに興味深い人物だと思いました。

 

 本の内容については、2018年に発信された下記「はてなブログ」のエントリを参照されたい。これだけの内容のブログ記事を書くのにいったいどれほどの時間がかかっただろうか。大変な力作の記事だと感服するしかない。

 

tonikaku-read.hatenablog.com

 

 記事の末尾で、メゾソプラノチェチーリア・バルトリ(1966-)が2003年に録音した「サリエリ・アルバム」に言及されているが、私はSpotifyでそれを聴きながらこの記事を書いている。

 

open.spotify.com

 

 サリエリの音楽は、舞台を見ずに音楽だけ聴いても現代の耳にも十分聴くに耐えるものだ。それは断言できる。

 私はサリエリの生涯について何も知らなかった。それも「ほとんど知らなかった」というより「全く知らなかった」に近いレベルだ。なにしろ孤児だったイタリア人の彼がスカウトされて16歳からウィーンで働き始めたことさえ知らなかった。スマホのゲームにサリエリをモチーフにしたキャラクターが出てくるらしいことももちろん知らなかった。それがあったために2004年に刊行されたものの絶版になっていた本書が「再版ドットコム」から再販されたものらしい。

 前記はてなブログ記事に「君主ヨーゼフ二世の行なった劇場改革により、ヴィーンの劇場事情はドイツ語文化に傾斜。イタリア人であるサリエーリはしばし不遇をかこつ」と書かれているが、いくら啓蒙的だとは言っても専制君主にドイツ語の台本に音楽をつけろと注文されてはたまらなかっただろう。しかしその一方で、ヨーゼフ2世の母の女帝マリア・テレジアには書簡に「私は私たちの作曲家であるガスマン、サリエーリ、グルックたちよりも、イタリア人の作品を好みます。彼らもときには一つや二つ良い曲を書きますが、私は全体としては常にイタリア人のものが好きなのです」(本書37-38頁)と書かれる始末だ。これは本書を読んでいて一番腹が立ったくだりである。なにしろマリア・テレジアといえばモーツァルト(父子)をやはり書簡で乞食呼ばわりしてモーツァルトのミラノでの就職を妨害した人物だ。マリア・テレジアとは権力悪の化身のような人間だったに違いないと確信した。サリエリも、女帝にそんな風にみられていると知ったら憮然としたに違いない。自分はイタリア人なのに、なんで独墺系の専制君主にドイツ人呼ばわりされて差別されなければならないのか、と。人の世とはあまりにも不条理なものだ。

 そんなわけで、私はサリエリモーツァルトの確執よりも、権力だの階級だのに振り回される人間の悲哀が強く印象に残ったのだった。モーツァルトは父親の悪影響を受けて陰謀論に凝り固まってサリエリを敵視したが、そのように使用人同士が争ってエネルギーを無駄に使ってくれることこそ、権力や上位の階級の人間の思う壺なんだな、と思うばかりである。

 18世紀の西洋音楽というのはいうまでもなく王侯貴族を喜ばせるための音楽であり、19世紀のドイツを中心とした音楽では、王侯貴族に代わって作曲家が専制君主に地位についたといえるかもしれない。私はアンリ・ゲオンを読んだことはないけれども、大のモーツァルティアンだった彼がワーグナーを蛇蝎の如く忌み嫌ったのには、権力主義に対するゲオン流の反発があったからかもしれないと思った。1883年に死んだワーグナーはもちろん20世紀のナチス・ドイツとは(直接には)何のかかわりもないけれども、しかしながら彼の反ユダヤ人思想がヒトラーに強い影響を与えたことも事実だ。

 クラシック音楽にはそういう背景があるから、私と同世代くらいまでのクラシック音楽ファンにはやたらと権威主義的な傾向が強かった。だから私はクラシックは好きでもクラシック音楽のファンだのマニアだのには嫌いなタイプの人間の方が多かったくらいだが、私より若い世代の人たちがそんな呪縛から解放されつつあることにはつい最近気づいたばかりだ。

 そうはいっても、本書が読ませるのはやはりモーツァルトが出てくるあたりからだ。それに至るまでの記述は、何しろサリエリの音楽を知らないものだからいささか隔靴掻痒気味になるのもやむを得ない。

 そうそう、記事を書くBGMとして聴いていたバルトリサリエリ・アルバムが終わったので、今度は2021年にリリースされたオペラ『アルミーダ』(1771)の(おそらく)全曲盤をかけながら書いている。

 

open.spotify.com

 

 上記は初演当時サリエリ20歳の若書きの作品で(当時モーツァルトは15歳)、そう思って聴くせいか、いかにも古典派の時代にイタリア人の若者が書いたらしいみずみずしい音楽に聴こえる。誰だったかがモーツァルトの音楽はサリエリと比べると重厚に聴こえると書いていたが、確かにそんな気がする。

 本書で興味深いのは、同じボーマルシェ原作、ダ・ポンテ台本に音楽をつけたモーツァルトサリエリを対比して評したくだりだ。以下に本書から引用する。

 

(前略)つまり、(ダ・ポンテは=引用者註)兵士ではなく専制君主を主役に据えたのである。(中略)これによりボーマルシェの《タラール》の核心である危険思想は姿を消し、毒気を抜かれたごとく一般的なイタリア・オペラの筋書きになってしまった。その点でダ・ポンテは《フィガロの結婚》と同じ手法を用いたわけだが、唯一の違いはモーツァルトがダ・ポンテの抜き去った毒を音楽で回復しようと狙ったのに対し(後世が評価するのはまさにそこだろう)サリエーリはその意図を持たなかったことだ。しかし、これをもってサリエーリを責めるのは酷だろう。そもそも彼は皇帝の寵愛を受けながら宮廷作曲家としてキャリアを重ね、君主制と貴族社会になんの疑問も抱いていなかったからだ。ヨーゼフ二世は彼にとって理想的君主であり、その権威を貶めたり、疑念を喚起する作品を書こうと考えたことは一度もなかった。《タラール》も王立音楽アカデミーから与えられた台本に作曲しただけで、自発的に選んだわけではない。

 

水谷彰良『サリエーリ - モーツァルトに消された宮廷楽長』(音楽之友社, 2004) 151頁)

 

 モーツァルトが100本以上の台本を検討した結果選んだのが『フィガロの結婚』だったことはよく知られている。まさにサリエリとは対照的だ。

 しかしヨーゼフ2世が1790年に死ぬと、次の皇帝レオポルト2世は一転してサリエリモーツァルトも冷遇した。このあたりが王侯貴族に振り回される作曲家が属する階級の悲哀だろう。サリエリモーツァルトが「和解」した最大の原因はこの専制君主の交代であったに違いない。疑う余地がない。

 この1790年というのはフランス革命が前年に始まった、西洋の歴史の転回点ともいえる年だ。作曲家の地位も、この頃を契機に飛躍的に上昇することになる。その典型例がハイドンだ。たとえば、下記サイトにはハンガリーハイドンが貴族のような生活をしていたかのように書かれている。

 

note.com

 

 以下引用する。

 

ハイドンに学ぶ!庶民の音楽家がすべきこと

 

実は音楽家という枠組みが特殊枠なのは
今にはじまったことではありません。

 

例えば大工の父と、料理人の母の間に生まれたハイドンは、典型例。

 

ハイドンは生涯のほとんどをエステルハージ家に仕え
その暮らしぶりもお付きの人がいたほど
エステルハージ家の人たちにかなり近い貴族の暮らしをしていたと言われています。

 

(中略)

 

ハイドンだってたまたまエステルハージ家の中で
特に音楽が好きな当主が多い時期に入り込めたけど
晩年音楽に興味のない当主に変わると、追い出されたりしています。

 

サリエリだって
モーツァルトに貴族お抱えポジションを奪われないように
必死でした。

 

モーツァルトは借金に追われ続けた晩年を過ごしています。

 

URL: https://note.com/kotaro_studio/n/n1f0d5b60c3ba

 

 だがそれは本当だろうか。

 たとえば、何度も引用する本だが、石井宏『反音楽史』(新潮文庫,2010)には下記のように書かれている。

 

 ハイドンエステルハージ家との雇傭契約書は現在まで保存されているが、それは十四条にわたり、どこの楽長職でも要求されたことのない厳しい条文が列記されている。

(中略)

第十二条 ハイドンは従僕たちと同じ食事をとることができる。その食事を取らない場合、一日当り半グルデンの食事手当が支給される。

 

(中略)また第十二条では、宮廷楽士たちが従僕たちと同程度の賄つきであったことがわかる。ザルツブルク時代のモーツァルトはこれが大嫌いだった。というのは彼はプライドが高かったらで、無教養でゴロツキのような従僕や楽士たちと一緒に食事を取るなどまっぴら御免なのであった。

 それからのハイドンは良く耐えた。

(中略)こうしてハイドンは波風立てずに58歳までの約30年間を二代にわたる主君にひたすら篤実に仕えた。1790年エステルハージ家の楽団は一旦解散され、ハイドンは1400グルデンの年金を終身支給される身分になった。少なからぬ額である。

 

(石井宏『反音楽史 - さらば、ベートーヴェン』(新潮文庫, 2010) 260-264頁)

 

 上記引用文を読むと、果たしてハイドンエステルハージ家で「貴族の暮らしをしていた」かどうかははなはだ疑問だ。

 ハイドンの代表作の数々は、むしろ1790年にエステルハージ家の雇われ楽長の職から解放されたあとに、フリーランスの作曲家として活躍した時期以降の晩年に集中している。ハイドンはその後1794年に改めてエステルハージ家に迎え入れられたが、彼が「貴族の生活をしていた」とすれば、それはイギリスのロンドンで大成功を収めた実績のある彼に対して、エステルハージ家もそれなりの処遇をしないわけにはいかなくなったからではないのだろうか。つまり1794年以降の話ではないかと私などは思うのである。

 しかしモーツァルトは生きてその時代を迎えることはできなかった。

 そしてサリエリサリエリで、死後一気に評価が高まったモーツァルトと比較されて「時代遅れの作曲家」とみなされるようになったようだ。サリエリがその生涯で最後に書いた歌劇は1802年作の彼としては2作目のドイツ語のジングシュピール『黒人』だが、この作品は2年間お蔵入りしたあとに1804年に初演されたものの「モーツァルトとケルビーニの作品を通じて私たちが真価を理解した力強さや性格描写が、この作品には欠けていた」*1と評されるなどして失敗に終わった。以下水谷氏の本から引用する。

 

前記批評の「モーツァルトとケルビーニの作品を通じて私たちが真価を理解した力強さや性格描写」という言葉が、サリエーリの時代がすでに過ぎ去ったことを端的に表していた。モーツァルト作品の再評価が始まり、力強い作風の《メデ》(1797) や救出オペラの先駆的作品《二日間》(1800) でケルビーニがロマン派歌劇の到来を告げたとき、サリエーリは時代に取り残されてしまったのである。

 

水谷彰良『サリエーリ - モーツァルトに消された宮廷楽長』(音楽之友社, 2004) 213頁)

 

 1804年といえばベートーヴェンが中期に入った頃だ。このベートーヴェンも一時サリエリに師事したことがあるが、わがままさにおいてはモーツァルトと双璧ともいうべきこの作曲家もサリエリと衝突したことがある。しかしそれも(モーツァルトの場合と同様)非はベートーヴェンの側にあったと著者は断じている。興味深いのは、サリエリと喧嘩していた頃のベートーヴェンサリエリの「奸計」云々という言葉を手紙に書き残しているらしいことだ。以下本書からベートーヴェンが書いた文章を引用する。

 

「(前略)未亡人のための音楽会に当たっては、小生に対する憎しみから唾棄すべき奸計が行われ、なかでもサリエーリ氏が先頭になって、彼の仲間で小生のために演奏した音楽家はみな絶交すると威かしたのです」(前掲書198頁)

 

 あまりにもモーツァルト父子と酷似したベートーヴェンの思考回路に、思わず笑ってしまった。昔も今も、陰謀論というのが人間が陥りやすい罠であることをよく表しているように思われる。なおベートーヴェンものちにサリエリとの関係を修復したとのこと。

 その他に、前述の石井宏が2020年に出した本で、サリエリが謀略好きな性格だった状況証拠の一つとして挙げた、レオポルト2世によるダ・ポンテの宮廷からの解雇(1791年1月)にサリエリが関与したのではないかとの疑惑にも著者は言及し、それを否定している(といっても本書の方が石井宏の本より16年も早く出ているのだが)。以下に引用する。

 

ダ・ポンテは自分の解雇をサリエーリの差し金と考え、書簡や回想録で彼を糾弾しているが、サリエーリ自身が劇場指揮者のポストを追われたのだから逆恨み以外のなにものでもない。(前掲書169頁)

 

 これには私も「そりゃそうだろう」との心証を持った。先に述べたモーツァルトがいっこうに宮廷に就職できなかった件の真犯人はマリア・テレジアだったのに、モーツァルト父子がサリエーリもその一人である「イタ公」のせいにしていたのと同じように、明らかに真犯人はレオポルト2世であるにもかかわらず、ダ・ポンテは自分と同じ階級の人間のせいにしようとしたのだ。これこそ権力や上位階級の人間の思う壺である。なにしろダ・ポンテ自身がレオポルト2世が彼に語ったという下記の言葉を間に受けて、サリエリをに憎むに至ったようなのである。

 

 ああ、サリエーリについては余に話すまでもない。彼のことはよく知っておるのだ。彼の陰謀も、カヴァリエーリのそれも。彼は我慢ならぬエゴイストで、余の劇場で自分のオペラと自分の女の成功だけを望んでおるのだ。単にそなたの敵というだけではない。すべての宮廷音楽家、すべての歌手、すべてのイタリア人の敵であり、そしてなにより余が彼を知るにゆえに、余の敵でもある。世は自分の劇場に、彼も、彼のドイツ女 [カヴァリエーリ] も、もはや欲しない。(ダ・ポンテ『回想録』)(前掲書169頁)

 

 レオポルト2世がダ・ポンテの怒りをサリエリに向けるように仕向けたことは間違いないだろう。レオポルト2世は自分がイタリア人でもないくせにサリエリを「すべてのイタリア人の敵」などと罵っているが、それをおかしいとも思わないダ・ポンテもダ・ポンテだ。おそらく王族を批判してはならないという心理機制が働いているのだろうが、それにしてもレオポルト2世という人も母親のマリア・テレジアを連想させる「権力悪の権化」であったように私には思われる。上記引用文など、これこそ自分が切ろうとしている配下の者同士を反目させようとする分断の奸計以外の何物でもなかろう。こういうことばかり始終やっているのが権力者というものだ。

 また著者は「現代の音楽書」にも批判の矢を放つ。以下引用する。

 

 現代の音楽書には、モーツァルトの死を知ったサリエーリが「あんな天才に生きていられたら、われわれは飯の食い上げだ」と言った、と記したものもある。けれどもそれは、ニーメチェクがモーツァルト伝の第二版に挿入したエピソードを故意に捻じ曲げたものであろう。そこにはこう書かれていた――「ヴィーン在住の今なお健在な、さして有名でないある作曲家は、モーツァルトが死んだ時、ありのまま正直に友人にこう語った。〈確かにあの偉大な天才が逝ってしまったのは残念です。しかし、彼が死んだのは私たちには幸せですよ。なぜなら、彼がひょっとしてもっと長生きしていたとしたら、実際どうなったでしょうか。世間は私たちの作品に対して一斤のパンもくれないでしょう〉」(ニーメチェク『モーツァルトの生涯』第二版)。この「さほど有名でもないある作曲家」がサリエーリである可能性はゼロであろう。(前掲書176-177頁)

 

 これまた説得力十分の指摘である。しかし著者はこんなことが書かれた音楽書の出典を挙げていない。しかし私はその現物をたまたま図書館で目撃したばかりだった。だからネタバレと思われる書名をここで挙げておく。

 その本のタイトルは『モーツァルト頌』であり、編集者は吉田秀和(1913-2012)と高橋英郎(1931-2014)であり、1966年に白水社から刊行され、1995年に新装版が出版された。私が図書館で参照したのは後者である。この本にはおよそ500人ほどの人たち(日本人は一人もいなかったはずだ)によるモーツァルトへの賛辞が収められているが、問題のサリエリの言葉には引用元がニーメチェクであることと「吉田秀和訳」との訳者名が明記されている。従って犯人は吉田秀和である。もちろん「さほど有名でもないある作曲家」をサリエリと認定した最初の人が吉田だったかどうかは知らない。しかし少なくともこの風説の拡散に吉田が関与したことは否定できないだろう。私は吉田には半世紀近くお世話になっている者ではあるが、誤りは誤りである。彼の誤りを知ったからには指摘しないわけにはいかない。

 以上で、図書館に返す前に書きたいことはほぼ書き尽くしたように思う。覚悟はしていたがたいへんな時間がかかってしまった。サリエリの『アルミーダ』の全曲盤はとっくに終わり、その後サリエリモーツァルトを含むこの時代の、つまり古典派の時代の音楽がランダムにかかっている。その中にはサリエリの作品もあれば、モーツァルトの劇場的セレナータ『アルバのアスカニオ』K111中のアリアもあった。今はボッケリーニの交響曲ニ短調作品12-4の第2楽章がかかっている。何やらおどろおどろしい副題がついた曲だったと思うが思い出せない。音楽の聴き方(聴かれ方)も昔とはずいぶん違ったものになったんだなあと思わずにはいられない。あ、今度はクープランの「神秘なバリケード」がかかった。

*1:水谷彰良著前掲書212頁