KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

「弾薬のように短気」だったモーツァルトとその苦難の人生

 モーツァルトベートーヴェンに関して、片割月さんと仰る方から2件のコメントをいただいた。反応が遅れて誠に申し訳ないけれども、以下にご紹介する。コメントを引用しようとして初めて気づいたのだが、下記のブログを運営されている。

 

nw7hvnc37uel.blog.fc2.com

 

 2021年までは下記ブログを運営されていたようだ。

 

poppy445.blog.fc2.com

 

 いずれも私の古巣である懐かしのFC2ブログだ。私は2006年4月にFC2ブログを開設し、同年7月に当初は副次的なブログとしての位置付けで「はてなダイアリー」を開設したが、2011年にFC2ブログのサーバー "fc63" がひどいトラブルを起こした。その頃から徐々にはてなダイアリーを中心に運営するようになり、現在に至っている。

 『徒然草子』の最初の下記記事を拝読した。

 

ブログの名前は「枕草子」と「徒然草」をミックスしたものですが、同じ名前のブログがいくつもあるんですね(汗)

ま、いいか。

日本の古典文学では源氏物語枕草子が大好きです。

清女、紫女はひたすら仰ぎ見る存在ですが、私は月女として、心ひとつに、おのづから思ふことを、たはぶれに書きつけんと思います。

 

URL: http://poppy445.blog.fc2.com/blog-entry-1.html

 

 私は学校では古文が一番苦手で、次いで英語と歴史が苦手でした。基本的に理系の人間でしたが、文系で唯一得意だったのは政治経済で、だからブログはその方面ばかり書いています。

 もともと理系人間だった私が現在では文系方面のことばかり書くのは、30代後半から40代前半にかけて組織内で苦難の時代を経験し、それを契機に人間に対する関心が強まったからでした。

 音楽については、子ども時代から若い頃にかけては音楽そのものにしか興味がなかったので、音楽と社会や文化との関係はほとんど考えませんでした。歳をとった今になって、やっと両者を結びつけて考えるようになり、その観点から昔大好きだったモーツァルトをみると、実に興味深い人生だったこと、それも一般に思われているイメージとは異なって、ベートーヴェンにまさるとも劣らないくらいにたいへん苦難に満ちた人生を送ったことを認識して、数十年ぶりにモーツァルト熱が再燃したというのが昨年10月末以来現在までのことです。いや、その少し前の時期にも、大のモーツァルティアンだった大岡昇平の音楽論を集めた本(珍品!)を読みながらモーツァルトを聴いたりはしていましたけど。

 片割月さんのブログの古い2011年の記事から以下に少し引用します。フィギュアスケート浅田真央さんに関する記事です。

 

昨季の「バラード」や今季の「ジュピター」もそうだが、真央選手の演技は古典派のギャラント様式、又はロココ様式の美しさを思わせる。

見る度に癒される。

 

ゴテゴテした装飾を取り除き、流麗にして風雅、簡素にして明朗。音楽で言えばモーツァルトがパリ滞在時に作曲した一群のピアノ・ソナタやセレナードのような楽想が、まるで通奏低音として真央選手の足下から聞こえてくるようだ。

 

URL: http://poppy445.blog.fc2.com/blog-entry-16.html

 

 ところがどっこい。実は私も最近認識したばかりなのですが、パリはモーツァルトにとってあらゆるヨーロッパの都市の中で相性が最悪だった都市で*1マンハイムで熱愛したアロイジア・ヴェーバーと彼女の一家にしばしの別れを惜しまれながら(とモーツァルトは勝手に思っていた)やってきたこの都市でさんざんに冷遇されたり、母親を亡くして、それをモーツァルトのせいだと思い込んだ父や姉との後年の不和の遠因になったり、果ては故郷・ザルツブルクへの帰途で立ち寄ったミュンヘンで(ヴェーバー一家はマンハイムから移転していました)アロイジアに相手にされず失恋したり(アロイジアはパリで就職できなかった無職のモーツァルトになど用はなかったと言われています)とさんざんな日々を送りました。以前はモーツァルトはパリで5曲のピアノソナタを作曲したとされていましたが、近年第10番K330から第13番K333まではもっとあとの時代の作品であることが判明し、第7番K309と第9番K311はパリに行く前に立ち寄ったマンハイムで書いていたので、パリではピアノソナタは第8番イ短調K310ただ一曲を書いただけでした。K310がどんな曲かご説明の必要はありますまい。またモーツァルトが得意とした機会音楽であるセレナードはパリでは一曲も作られませんでした。モーツァルトは手紙で、イタリア語の歌詞の歌をフランス語で歌われてはたまらない、とフランス語およびフランス人をこき下ろしています。

 ようやく本論に入る。片割月さんからいただいた2件のコメントを以下に引用する。

 

kj-books-and-music.hatenablog.com

 

片割月 

 

初めましてm(__)m

以前からkojitaken様のブログ、面白く拝見しておりました。

私はモーツァルトについては宗教音楽とオペラは素晴らしく、深い感銘を受けて来ましたが、彼の器楽曲の方はイマイチ(クラリネット協奏曲は例外的に感銘を受けましたが)でした。

が、この数年、色々と聴き込んで来まして、ピアノ協奏曲の良さも少しづつですが分かって来ました。その中では24番と25番は素晴らしいと思います。特に24番は出だしがまるでホラー映画かサスペンスドラマの効果音の如き、異様な戦慄、いや、旋律に衝撃を受けました。オペラの「ドン・ジョバンニ」の世界をも連想させます。なかなか急進的な音楽。まるで、貴族を中心とした聴衆のことなど忘れたかのような。

私はこの24番とクラリネット協奏曲が今の所、一番好きです。御存知と思いますが、クラリネット協奏曲も実はなかなか急進的というか、第一楽章の展開部や第三楽章の終結部(コーダ)における…モーツァルトとしては…異例とも言えるほどの長大さに、次のベートーヴェンを先取りした感もします。そして、クラリネットの哀愁漂う音色が曲にピッタリです。涙が流れそうな程に。

25番の「ダ・ダ・ダ・ダーン」が「運命」の動機ですか。なるほど、言われてみればそうですね。が、何とも言えないのかな。当時の作曲家達が先達の旋律や動機を「借用」したり、無意識のうちに取り入れてしまうことは良くあったそうですし。偶然も少なくなかったのではないでしょうか。

御存知と思いますが、これなどまさに、「盗作か」と思えるくらいに似ていますよね。

モーツァルト「オフェットリウム」K222
動画の1分10秒から「歓喜の歌」が流れる
https://www.youtube.com/watch?v=x82r-149QGY&t=2s

初めてなのに図々しくも長文になってしまい済みません。

また、お邪魔させて下さいませm(__)m

 

 件の「タタタターン」の4音動機ですが、「運命はかく扉を叩く」というのはベートーヴェンの自称弟子・シンドラーの捏造で、ベートーヴェンは実際にはそんなことは言っていないらしいので、以後「運命の動機」という言葉は使わないことにします。そもそも、ベートーヴェンの第5交響曲については、高校生時代に学校の図書館に置いてあった『吉田秀和全集』(白水社)中の「名曲300選」*2

私は、ベートーヴェンの作品、ことに『第五』などは、今や、標題楽的な考え方を、まったく排除してきいて、しかも傑作であることを、直接経験すべきだと思う。

吉田秀和『LP300選』(新潮文庫,1981)157頁)

と書かれているのを読んで以来、「運命」という副題を基本的に使わないことにしています。でもブログの記事では、いちいち断るのは面倒ですし。「運命の動機」は便利な言葉なので妥協して「運命」の2文字を使っていたのでした。でもシンドラーの悪行を描いたかげはら史帆さんの『ベートーヴェン捏造』も読んだことですし、今後はシンドラーなんぞに靡いてたまるかとの思いも込めて「タタタターン」または「『タタタターン』の4音動機」と表記することにします。

 で、その「タタタターン」が他の作曲家、特にハイドンモーツァルトが多用していた事実は確かにありますし、そのことはこのブログにも何度も書いたのですが、モーツァルトのピアノ協奏曲第25番の第1楽章には楽章全体がこのリズムパターンで統一されている点に特徴があり、ベートーヴェンの第5交響曲はそのコンセプトを一つの楽章だけではなく曲全体を統一するところに新しさがあったと思ったのでした。つまり、ベートーヴェンが得意とした構造美についてもモーツァルトは先駆者だったことを、ブログ記事中に引用した他の方が書いた文章を通じて認識した次第です。もっとも、そういう点ではハイドンの音楽により先駆的な作品が多く見出されるとも思いますが(ハイドンには実に実験的な作品が多く、感心させられます)。

 それから「第九」の「歓喜の歌」と同じ節が出てくるモーツァルトのK222、ニ短調のオッフェルトリウムは、調性が同じレクィエムK626の先駆的作品として知られていますが、ネットで調べてみるとこの曲をベートーヴェンが実際に知っていた可能性がかなりあるようです。

 

note.com

 

 以下引用します。

 

ベートーヴェン交響曲第9番の主題となる歓喜のメロディーの最初の形は、1794~95年作の歌曲「愛されない男のため息-応えてくれる愛」(相愛)に現れます。この歌曲を第1歩として、1803年には歌曲「人生の幸せ」(「友情の幸せ」)、1808年のピアノ、合唱と管弦楽のための幻想曲ハ短調「合唱幻想曲」に、1810年の歌曲「彩られたリボンで」に、1819年の歌曲「さあ、友よ結婚の神を賛美せよ」(結婚歌)に1822年の歌曲「盟友歌」にと、1本の赤い糸のようにベートーヴェンの作曲活動の間をぬってきています。(1)

 

 モーツァルトのオッフェルトリウム「ミセリコルディアス・ドミニ」K.222にベートーヴェン歓喜の歌のメロディーが現れることが知られていますが、音楽史年表からベートーヴェンモーツァルトのこのモテットの主題を使用したのではないかとの仮説が得られます。

 

 1775年、モーツァルトはこのモテットをバイエルン選帝侯の依頼によって作曲しましたが、その初演の1月半の後、ウィーン宮廷のマクシミリアン・フランツ大公がザルツブルクを訪れ、モーツァルトは歓迎のために牧歌劇「羊飼いの王」K.208を作曲し、上演しています。マクシミリアン大公は1768年に12歳のときにウィーンでモーツァルトの孤児院ミサ曲K.139を聴き大きな感動を得て、それ以来皇帝ヨーゼフ2世とともにモーツァルトを擁護していました。モーツァルトは孤児院ミサ曲以来7年間の教会音楽における自身の作曲者として成長を示すために、このオッフェルトリウムの楽譜をマクシミリアン大公に奉呈したのではないかとみられます。

 

 後に、マクシミリアン大公はケルン大司教・選帝侯としてボンに赴任しますが、ボンを新たな音楽の都にするために、モーツァルトの歌劇を含めた多くの楽譜がボンに持ち込まれました。ボンに新たに創設された宮廷楽団には、ビオラ奏者として若きベートーヴェンが加わりますが、ベートーヴェンは宮廷音楽家として多くのモーツァルトの作品を演奏します。この折にベートーヴェンモーツァルトのモテットのメロディーを書き留めたとしても不思議ではありません。なお、この時代、作曲者が他の作曲者の主題を利用し作曲することはよく行われていたことですし、変奏曲の主題に他の作曲家の主題を用いることも多く行われていました。

 

音楽史年表より】

1775年3月初旬初演、モーツァルト(19)、オッフェルトリウム「ミセリコルディアス・ドミニ(主のお憐れみを)」ニ短調K.222

ミュンヘンの選帝侯礼拝堂で初演される。バイエルン選帝侯マクシミリアン3世の所望に応じて、自らの対位法的力量を示すべく作曲される。(2)

この曲の中でバイオリンが度々、ベートーヴェン交響曲第9番の終楽章の歓喜の歌の旋律をかなでる。(3)

 

URL: https://note.com/ahayakawa500/n/na31c83ba7def

 

 K222では「歓喜の歌」の旋律は、最初はヴァイオリンでニ短調の平行長調であるヘ長調で奏されますが、最後はニ短調で繰り返し出てくるので、音楽は当然ながら「第九」よりは「レクィエム」の世界にずっと近いです。メロディーについては、中田章が作曲した「早春譜」やそれに似ているとよく言われる「知床旅情」がモーツァルトの「春への憧れ」K596やその原型であるピアノ協奏曲第27番K595の終楽章のロンド主題と同じように、あるいはモーツァルトの「バスティアンとバスティエンヌ」K50の序曲とベートーヴェンエロイカと同じように、分散和音か二度音程の繰り返しかの違いこそあるもののありふれたメロディーなので、偶然似てしまった可能性が強く、ベートーヴェンの第5交響曲のスケッチにモーツァルト第40番のフィナーレのメロディーが書かれていたらしい例(こちらはほぼ確実にモーツァルトからの「引用」であろうと推測されます)とは違います。ただ、調性も異なり楽譜も流布していなかったであろう「バスティアンとバスティエンヌ」序曲(ト長調)とエロイカ変ホ長調)の場合はほぼ間違いなく偶然だろうと思いますが、K222と「歓喜の歌」とは本当に判断がつきません。なおエロイカの場合はむしろモーツァルトの第39番K.543の第1楽章の方が類似性が高いのではないかとも思います。同じ変ホ長調ですし。K222はヘ長調ニ短調で「歓喜の歌」はニ長調であるところが意味深です。ニ短調は第9の第1,2楽章の調性ですし。でもベートーヴェンが「歓喜の歌」の節を使おうとした先例として有名な合唱幻想曲作品80ではハ長調で出てきますから、それを考えるとやっぱり偶然かなとも思います。もっとも合唱幻想曲の節は同じベートーヴェンの曲の割にはモーツァルトのK222と比較しても「歓喜の歌」に似ていないようにも思いますが。

 片割月さんからはもう1件コメントをいただいている。

 

kj-books-and-music.hatenablog.com

 

片割月 

 

kojitaken様、こんばんは。

>私がモーツァルトにはまったのは中学生時代の1975年で
>このうち第5番は亡父が大好きだった曲の一つで、しょっちゅうこの曲のレコードをかけていた。

この辺り、私自身の経験からも、その時の様子が分かるような気がします。

私の場合は母がベートーヴェンの「田園」「運命」「バイオリンと管弦楽のためのロマンス・ヘ長調」「ドボルザークの「新世界」「8番」等を聴いていましたので、その影響を受けました。小学4年から中学にかけて、これらの音楽家の曲を起点としてクラシックに魅了されて行きました。

kojitaken様の場合はモーツァルトに限らず、幅広く聴かれていたのでしょうね。

専門家のどなたかが言っていたと記憶していますが、私のように子供の頃に最初にベートーヴェン交響曲に魅了され「ベートーヴェン耳」になる例もあれば、最初にモーツァルトの「ジュピター」「40番」等に魅了され「モーツァルト耳」になる例があり、両者はその後のクラシック音楽への好みが分かれるとか。

私の場合はその後、ワーグナーブラームスチャイコフスキー等の音楽へと向かい、なかなかモーツァルトハイドンには向かいませんでした。「ベートーヴェン耳」には彼等の交響曲の素晴らしさがなかなか。。。今もまだダメです(^-^;

トルストイと「クロイツェル・ソナタ」ですが、ドストエフスキーは「熱情ソナタ」が好きだったそうです。手紙か何かで語っていたので事実でしょう。

ロシアの両文豪が揃ってベートーヴェンを聴いていたというのは面白いですね。

もう少し書きたいのですが、キリが無いのでこの辺りでやめます。

ありがとうございました。

 

 実は私が小学校4年生の時に1枚だけ父に与えられたレコードはドヴォルザークの『新世界より』だったのでした。

 その後中学校1年生の頃に十何枚かのレコードを貸してもらって、最初に気に入ったのはメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲でした。ベートーヴェン交響曲第3,5,9番のレコードがありました。

 ですが、ベートーヴェンの場合は、ことに第5交響曲に対して、前記の吉田秀和が言う「標題楽的な考え方を、まったく排除してきいて、しかも傑作であることを、直接経験す」ることは、子ども時代の私にはどうしてもできませんでした。例の「苦悩を貫いて歓喜へ」というモットーだかプログラムだかを押し付けられるかのような抵抗がありました。そんなこと言ったって人生の最後は「死」じゃないかと思ったのでした。しかもベートーヴェンにはトルストイに「不道徳」と非難されたクロイツェル・ソナタやそれと同質の情念を私に感じさせる、ドストエフスキーが好んだとおっしゃる熱情ソナタのような作品もあるし、何よりベートーヴェン自身の晩年のピアノソナタ弦楽四重奏曲は決して「苦悩を貫いて歓喜へ」の音楽とはいえないわけです。

 その一方で、ベートーヴェンは「元祖モーツァルティアン」のような人でした。私はその観点からベートーヴェンへの関心を強めていきました。モーツァルトは1791年に悲惨な死に方をしましたが、1827年に死んだベートーヴェンの晩年にはサリエリ(1825年死去)がモーツァルトを毒殺したことを悔いて精神に異常をきたしたなどの噂がウィーンを駆け巡ったことからもうかがわれる通り、モーツァルトは既に大作曲家として認められていました。それには、ピアノ協奏曲第20番ニ短調K466のカデンツァを作ったベートーヴェンの貢献も大きかったのではないかと思います。

 ベートーヴェンは耳疾という音楽家として最大級の苦悩を経験したけれども、モーツァルトにも就職に苦しんだための生活苦をはじめとする別種の苦悩があったのでした。

 その性格においても、モーツァルトベートーヴェンと同じくらい短気で怒りっぽい人でした。たとえば、英語で書かれた下記記事(2006年7月24日)の冒頭の文章は、最近私が持つようになったモーツァルトのイメージに近いです。

 

www.newyorker.com

 

Wolfgang Amadè Mozart, as he usually spelled his name, was a small man with a plain, pockmarked face, whose most striking feature was a pair of intense blue-gray eyes. When he was in a convivial mood, his gaze was said to be warm, even seductive. But he often gave the impression of being not entirely present, as if his mind were caught up in an invisible event. Portraits suggest a man aware of his separation from the world. In one, he wears a hard, distant look; in another, his face glows with sadness. In several pictures, his left eye droops a little, perhaps from fatigue. “As touchy as gunpowder,” one friend called him. Nonetheless, he was generally well liked.

 

URL: https://www.newyorker.com/magazine/2006/07/24/the-storm-of-style

 

 小男で顔に天然痘にかかった痕のあばたがあるモーツァルトは「弾薬のように怒りっぽい」人だったというのです。

 記事に添えられた、左利き*3モーツァルトを描いた漫画には

Scholars now see Mozart not as a naïve prodigy or a suffering outcast but as a hardworking, ambitious musician.

と書かれています。勤勉で野心的な音楽家。現在の日本人でいえば野球のことしか考えていないように見える大谷翔平選手みたいなあり方といえるでしょうか。

 またモーツァルト自身も

私の芸術の実践が簡単になったと思うのは間違いだ。 親愛なる友よ、私ほど作曲の研究に力を注いだ者はいないと断言しよう。私が頻繁に、そして熱心に研究しなかった音楽界の有名な巨匠はほとんどいないのだ。

と言ったらしいです*4

 モーツァルトは "Wolfgang Amadè Mozart" と署名していました。昨日、白水社の『モーツァルト書簡全集』の一部を図書館で少し読みましたが、「ヴォルフガング・アマデー・モーツァルト」と訳されていました。モーツァルトの先例名は "Johannes Chrysostomus Wolfgangus Theophilus Mozart" といいますが、これはラテン語の名前で、このうち「神に愛された」という意味の Thephilus に相当するイタリア名が Amadeo で、イタリア旅行した時にモーツァルトは「アマデーオ」と呼ばれました。モーツァルトはそれを気に入りましたが、そのままだといかにもイタリア風なので o をとってフランス風に Amadè と名乗ったものらしいです。ちなみにドイツ名だと Gottlieb(ゴットリープ)になります。下記Xが書く通りです。

 

 

 だから石井宏が『モーツァルトは「アマデウス」ではない』(集英社新書,2020)などと書くわけですが、考えてみたらイタリア人ながらウィーンで「モーツァルト殺し」と噂されながら精神に異常をきたして死んだサリエリも不運な人です。私が連想せずにはいられないのは、中国ではトップのグループに入れないために世界各地に散り散りになっている卓球選手たちのことで、たとえば今年のパリ五輪代表に選ばれた張本兄妹も中国系の選手です。最初にこれを認識したのは2004年のアテネ五輪団体戦福原愛とフルゲームの激戦を演じて惜敗したオーストラリア代表のミャオミャオ(苗苗)選手(私は福原選手よりもこの選手の方を応援していました)や、その次のアメリカ選で対戦して福原選手が4-0でストレート勝ちしたガオジュン(高軍)選手を知った時でした。彼ら彼女らは「鶏口となるも牛後となるなかれ」を地で行っているわけですが、そのオペラ作曲家版がサリエリたちではなかったかと。なお図書館にはサリエーリの伝記(以前弊ブログで紹介した「サリエリモーツァルト」を書いた水谷彰良氏が2004年に音楽之友社から出した『サリエーリ モーツァルトに消された宮廷楽長』というタイトルの本)も置いてあったので、暇な時というか今月最後の月曜日に休みをとる予定なので、その3連休のタイミングあたりにでも借りて読もうかと思っています。モーツァルトの現存する最後の書簡にサリエリとその愛人を『魔笛』のボックス席に招待し、サリエリがブラヴォーを連発したことが書いてあるのは事実で、昨日はそれを『モーツァルト書簡全集』の最終巻(第6巻)で確認してきました。どう考えてもサリエリモーツァルトを殺す動機はないわけですし*5、それどころかモーツァルトを殺してしまったら自らがブラヴォーを発し、かつ自らの地位を脅かす恐れがなくなった(なぜなら宮廷楽長は終身職だから)モーツァルトの新曲はもう聴けなくなるわけですから、サリエリ犯人説はまずあり得ないと思われます。仮にモーツァルトの死因が本当に毒殺であったとしたら、貴族に反逆的だったモーツァルトを狙った極右の犯行ではなかったかと想像する次第です。

 「モーツァルト耳とベートーヴェン耳」の話は面白いですが、それよりも1970年頃に見られた劇的な社会構造の変化が人心をも変えたのではないかと私は思っています。大阪万博のあった1970年にはまだこの年が生誕200年のアニヴァーサリーイヤーだったベートーヴェンの天下でしたが、翌1971年から吉田秀和NHK-FMの番組『名曲のたのしみ』でモーツァルトを取り上げ始め、それとほぼ時を同じくして朝日新聞に「音楽展望」のコラムを書き始めた頃から様相が変わり始めたのではないかと思います。私がクラシックを聴き始めた1974〜75年頃あたりがベートーヴェンからモーツァルトへの人気ナンバーワンの交代期だったように思いますが、1970年頃からの世相はというと「モーレツからビューティフルへ」という富士ゼロックスのCMが放送されたのが1970年で、1971年のドルショック、1973年の石油ショックと続いてこの年に高度成長経済が終わり、1974年から翌75年にかけてはスタグフレーション(不況下の物価高)が起きました。

 私にベートーヴェンの5枚(交響曲第3,5,9番とヴァイオリン協奏曲、それにピアノ協奏曲第5番「皇帝」。そうそう「ロマンス第2番」もありました)のレコードを貸してくれた父も、1970年代半ば頃にはどう思い出してもベートーヴェンよりモーツァルトを多く聴いていました。記事に書いたヴァイオリン協奏曲第5番の他に覚えているのは、弦楽三重奏のためのディヴェルディメント変ホ長調K563と、K313,314のフルート協奏曲/オーボエ協奏曲*6などでした。父は他の作曲家ではブルックナーシベリウスが好きで、ブルックナーでは第4番「ロマンティック」、シベリウスでは「フィンランディア」ばかりかけていましたね。私はブルックナーでは第7,8番をごくたまに聴く程度で、シベリウスは「フィンランディア」はあまりにもベタなので敬遠していますが、それと同様のコンセプトで書かれたと思われる第2交響曲には結構燃えます。このあたりは私にもそれなりにナショナリスティックな部分も多少はあるんだろうなとうすうす自覚する一方、あれを「シベリウスの田園交響曲」などと評した音楽評論家たちはバッカじゃなかろかルンバ♪、と少年時代の昔から思っていました。

 モーツァルトに関しては、ベートーヴェン以降との断絶よりもモーツァルトベートーヴェンの連続性の方に興味があります。今日は本当はオペラ『ドン・ジョヴァンニ』を題材にして「闘うモーツァルト」をテーマに記事を書こうと思っていましたが、その前段階を書き終えたところでもう1万字を超えたので、それは次回以降に回します。

 そうそう、書き忘れてましたが、モーツァルトベートーヴェンの時代にはフランス革命がありました。1970年から180年前の1790年頃にヨーロッパでは大きな社会構造の変化であり、ベートーヴェンが自立した音楽家として成功できたのはそのおかげもあったと思います。ギリギリでその恩恵に浴することができたのが晩年のハイドンで、彼は長年のハンガリー勤めから解放されたあと、渡英して自立した作曲家として成功してウィーンに戻りました。晩年の弦楽四重奏曲からは故モーツァルトや若いベートーヴェン何するものぞ、という気迫が感じられますが、70歳を少し過ぎた頃に健康に問題が生じたものか、晩年の輝きは長続きしなかったようです。モーツァルトは残念ながら早く生まれ過ぎました。晩年の1789年から1790年にかけてはスランプの時期で、ようやく1791年に力を取り戻したかと思われた時に死の病(あるいは毒物?)に倒れてしまいました。

 1810年代以降の反動の時代には作曲家(や指揮者?)の権力ばかりが増すようになって、クラシック音楽の世界に権威主義が広がっていったのではないかとの仮説を立てています。1790年までの王侯や貴族の支配に代わる別の権威主義が幅を利かせたのが19世紀のドイツを中心とする芸術音楽の世界だったのではないでしょうか。その中でも特に問題含みだったのが自らも反ユダヤ思想を持っていたワーグナーではなかったかと思いますが、幸か不幸か私がワグネリアンになることはありませんでした。

*1:モーツァルトと相性がもっとも良かった都市はプラハ、また作曲でもっとも大きな影響を受けた国はイタリアだった。

*2:新潮文庫版の『LP300選』(1981)が手元にあるが、書かれたのは1961年。

*3:ベートーヴェンも左利きだったらしい。ともに短気な小男だったことを含めて、よくよくこの2人には共通点が多い。

*4:https://avareurgente.com/ja/ren-sheng-yi-chan-soshite100notian-cai-vuoruhugangumotsuarutoming-yan-ji

*5:モーツァルトにはサリエリを殺す動機はあったわけで、ミステリなら『魔笛』のボックス席でモーツァルトサリエリのグラスに毒薬を入れるのを見たサリエリモーツァルトが目を逸らした隙にグラスを差し替えた、などと想像することもできようが、さすがにリアリティが全くない。

*6:K313がフルート協奏曲第1番、K314が同第2番だが、後者はその原曲であるオーボエ協奏曲の楽譜が発見されたために両方の形態で演奏される。