KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

モーツァルトのピアノ協奏曲第25番第1楽章は全曲が「運命の動機」に支配された、まさにベートーヴェンを呼び込まんばかりの音楽

 すっかり暇なし状態が続いてしまった今年の12月だが、家に仕事を持ち込んだ時にも、その仕事をやりながら音楽だけは聴けるので、10月末に買い込んだマレイ・ペライアモーツァルトピアノ協奏曲全集を2か月かけて聴き終えた。私は渋谷のタワーレコードの店頭で、10年以上前に「初回限定生産盤」としてソニーミュージックから出たこの"Made in E.U."の12枚組を3千何百円で買った。これは紙の箱に紙ジャケット入りの12枚のCDが収められているだけで、英語仕様、解説が記載された冊子もついていない簡素なものだが、慣れ親しんだモーツァルトのピアノ協奏曲に日本語や英語の解説など全く要らないのでこれで良いのである。現在はさらに値引きされてネットで買えるようなので、以下にタワーレコードのサイトをリンクする。これは思わぬ掘り出し物だった。

 

tower.jp

 

 下記は2012年についたはてなブックマーク。円安の今でも3千数百円だが、2012年には2190円だったらしい。それがまだ在庫として残っているようだ。先日2か月ぶり谷のタワレコに行ったら同じ品がまた置いてあった。

 

マレイ・ペライア/Mozart: The Piano Concertos<初回生産限定盤>

全集としては最高と評判のペライア演奏のモーツァルト・ピアノ協奏曲全集CD12枚セットが現在2190円。迷わず買うべし。自分も買った。本当に好かった。ステマに非ず。

2012/02/25 23:25

b.hatena.ne.jp

 

 現在ならペライアの弾くモーツァルトの協奏曲はSpotifyその他に月額の料金を払っている人なら余分な出費なしで聴けることは知っているし、私もSpotifyYMOのアルバムのうち最初の何枚だかだとかジャズ、それに太田裕美のアルバムなどを聴いた。後者では太田のさるアルバムに収められた曲がジョン・ゾーンを刺激して "Forbidden Friut" =下記リンク=を作らせたのではないかと思ってしまった。

 

www.youtube.com

 

 しかし、モーツァルトのピアノ協奏曲のように同じ曲種で20曲以上もの名作が残されている作品群では、全集盤のCDを手元に置いて、といっても私は1枚聴くごとにアップルのミュージック(旧iTunes)に入れて、2度目からはそちらで聴いているので手元にCDを置く必要は必ずしもないわけだが、通して聴いてモーツァルトの音楽の変遷を知ることができたのは大変に良かった。

 そういえばアガサ・クリスティのミステリ群もほぼ成立順に読んでいて7作を残すまでになったが、若い頃には作中のヒロインに無邪気にイギリスの悪名高い帝国主義者(植民地政治家)セシル・ローズ(1853-1902)の現ジンバブエ(一時期、ローズの名前をとったローデシアと言っていた時代もあった)にある墓参りをさせて読者の私をむかつかせていたクリスティにとって、晩年(1965年)のイギリスのあり方は苦々しいものだったに違いない。

 前者の「若い頃」の作品は『茶色の服の男』(1924)を指す。

 

ameblo.jp

 

 上記リンクには「中村能三(なかむら・よしみ, 1903-1981)訳」とあるが、現在では深町眞理子による新訳版に置き換えられている。

 

www.hayakawa-online.co.jp

 

 上記埋め込みリンクの画像をご覧の通り、私のような年寄りの男が本屋のレジで買ったり図書館の窓口に持って行って借りたりするのにはいささか恥ずかしい表紙だが、折良く職場近くの図書館が、土日などに時々行く南砂町の江東図書館などではかなり前から導入されていた自動貸出機を導入したばかりだったので、恥ずかしい思いをすることなく借りることができた。2009年からつけている読書リストを参照すると、読んだのは2021年6月下旬だった。

 それが41年後に書かれた1965年の『バートラム・ホテルにて』になると様相が一変する。

 

www.hayakawa-online.co.jp

 

 このハヤカワ・クリスティー文庫ではミステリ評論家・佳多山大地(1972-)の解説が秀逸だ。巧みにネタバレも避けられているので、以下に引用する。

 

 熱心なクリスティーファンにとって、本書は衝撃的な内容を含んでいます。作品の肝となるところだけに迂遠な物言いをしますが、ミス・マープルが娘時代に来たときとほとんど変わらぬ印象を覚えるバートラム・ホテルとは、まさしく時代の変化とは無縁のヴィレッジ・ミステリ的空間――グランド・ホテル形式のセント・メアリ・ミード村――と言えましょうが、長き年月にわたり、かの世界の中心に居続けた名探偵役自身、その舞台装置がそこはかとなく醸し出す“ウソ臭さ”をはっきりと認知するに至るのです(老嬢は事件の真相を悟るのに、「変れば変るほど同じことになる」というフランスの警句をチェスタトンばりに逆立ちさせて――「同じであればあるほど、物は変る」もまた真なりと喝破します。要するに、クリスティーが本書の下敷きにしたのは、偉大な先達チェスタトンの『詩人と狂人たち』だったかもしれません)。

 

アガサ・クリスティー『バートラム・ホテルにて』(ハヤカワ・クリスティー文庫2004)414頁)

 

 本作はミステリ作品として優れているとは全くいえない。物語の後半、それも全体の7割ほどの達してやっと起きた事件の犯人は、クリスティ作品のパターンを熟知している人間にとっては意外でもなんでもない。複数のポワロ探偵ものに用いられたパターンからしておおよそ見当はついたが、これもクリスティの初期作品によく見られた多重どんでん返しで読ませる。でも最後はやはりあの人が犯人だったか、というところだった。やっぱりあの人以外にあり得ないよなあと思った。後期クリスティにはこうした見当がつきにくい作品が多かったのだが、こうして初期のパターンに回帰しながら、読後感が初期作品とはかなり異なるのは、クリスティがミス・マープルに言わせた「同じであればあるほど、物は変る」の例なのかもしれない。

 こうして書きながら思い出したのは、日本の少なくない読者が誤読したカズオ・イシグロの『日の名残り』(1989)だ。ノーベル文学賞を受賞したことで読者が増えた(私もその一人だ)イシグロのこの作品を読んで「『三丁目の夕日』が好きな読者が好みそうな小説だ」と書いた人がいたが、それこそ私の言う誤読の典型例だ。イシグロは「信頼できない語り手」の技法を用いてまさにそれを逆立ちさせ、「同じであればあるほど、物は変る」ことを見事に示した。

 またこれらのイギリスの例は、その西岸良平の『三丁目の夕日』から直ちに連想される安倍晋三(1954-2022)がつい先年まで権勢を誇っていた「安倍派」の違法行為が暴かれ始めて自民党政権を存亡の危機に至らせようとしている現在の日本とも通底する。ことに日本は昔からイギリスをお手本にし、マーガレット・サッチャー(1925-2013)が1979年に新自由主義の悪政を始めるや、アメリカのロナルド・レーガン(1911-2004)に続いて中曽根康弘(1918-2019)がサッチャーを模倣し、後年には小泉純一郎(1942-)が竹中平蔵(1951-)と組んで、アメリカには及ばないかもしれないが本家のイギリス以上にネオリベが跋扈する国にしてしまったし、選挙制度に関しても小沢一郎(1942-)が旗を振った「政治改革」の名の下に衆院選選挙制度をイギリスに倣って小選挙区制中心に作り変えてしまった。結果的に、それが1993-94年と2009-12年の二度の政権交代はあったものの、自民党政治を今日まで延命させた大きな元凶になっている。

 そんな日本にあっても、ゴリゴリの保守人士だったアガサ・クリスティが晩年の1965年に、間違いなく苦い思いを込めて「同じであればあるほど、物は変る」と書いたことはまことに興味深い。

 本論にするつもりだったモーツァルトから大きく逸れてしまったが、クリスティの人生に20世紀イギリスの社会の変遷が大きく反映されているように、モーツァルトの人生にも18世紀ヨーロッパの社会の変遷が大きく反映されている。

 私はモーツァルトのピアノ協奏曲を年代順に聴きながら、並行して1980〜87年にNHK-FMで放送された吉田秀和(1913-2012)の『名曲のたのしみ モーツァルト その生涯と音楽」の音声ファイルがYouTubeにアップロードされていることを知ってそれを時々聴き(第1回から第16回までと、ケッヘル300番前後の作品について語られている何回かを聴き終えた)、さらに近年のモーツァルト研究が反映されている Mozart con grazia というサイトを参照しながら、おそらく1980年代で時間が止まっていた私のモーツァルトの音楽に関する認識をアップデートしながら、かつてはその音楽には強い関心を持ちながらその生き方にはあまり関心があったとはいえないモーツァルトの人生に初めて関心を持つようになった。これがここ2か月ほどのことだ。

 今回特に取り上げたいのはピアノ協奏曲第25番ハ長調K.503、特にその第1楽章だ。下記にSpotifyのサイトにあるペライアの演奏のリンクを示す。但しプレビュー版だと途中までしか聴けないことをおことわりしておく。

 

open.spotify.com

 

 私がモーツァルトのピアノ協奏曲で一番好きなのは第24番ハ短調K.491だった。学生時代にはその1つ前の第23番イ長調K.488が一番好きで、第24番はむしろピンとこない曲の筆頭だったが、20代後半だった1980年代後半、おそらく1987年か88年にグレン・グールド演奏のCDを聴いて、印象が一変した。モーツァルトは好きではないと公言していたグールドがただ1曲だけ残したモーツァルトの協奏曲がこの第24番だった。それはいかにもバッハの演奏で名を馳せたグールドらしい演奏であって、万人におすすめできるものでは決してないが、第24番の協奏曲自体が聴き手を選ぶ曲だと指摘した人がいる。創価大の山岡政紀教授だ。31年前、当時30歳の山岡氏は下記のように書いた。

 

モーツァルトを旅する(22)  ピアノ協奏曲第24番ハ短調K491 ー人間の魂の実像ー

 

 これが本当にモーツァルトの音楽だろうか──

 いつだったかは忘れたが、初めてこの曲を聴いた時の驚きは決して忘れることができない。

 ──不思議なる音楽、モーツァルトのピアノ協奏曲第24番。それはすべてのピアノ協奏曲の最高峰であった。

 24番を旅したならば、その旅行記もまた最高の言葉に満ちていなくてはならない。2年に及ぶ連載の中でも、これほど緊張する瞬間があったろうか。その時が今、訪れているのだ。

 しかも、この曲は間違いなく聴く者を選ぶ。誰でも感動できる代物ではない。だからこそ余計に、その局所的な己れの感動を普遍的な言葉に翻訳することにためらいを覚える。

 だがそのことはこれ以上、言うまい。この旅行記は読む人におもねることはないかもしれない。それでもいい。自己満足と言われてもいいのだ。24番がモー ツァルトの真実の独白であるならば、この旅行記はその上を旅した私の真実の独白であっていいのだ。

 

(中略)

 

 果して24番が我々に訴えかけたものは何だったのだろう。23番(K488)が宇宙や自然との調和に霊感を受けたものとすれば、24番は対照的 に、人間の魂という大宇宙からの霊感を受け、苦悩、怒り、孤独をありのままに描きつつ、それから逃げることなく、凝視し続けたことの結実ではないだろう か。その中にあって第2楽章がもたらす安堵感は計り知れないほど澄み渡っている。苦しみも喜びもあってこそ真の人間の姿であることを全面的に受け入れよう としているように私には思えてならない。

 この曲をモーツァルトの全作品中、唯一の真実の叫びと敢えて私は断定したい。涙を催させることのできる希有の音楽である24番への畏敬の念と、その感動 を伝えてくれた内田光子への感謝の念を表明しつつ、筆を置きたい。

 

(『Oracion Vol.3 No.12 <1992.12> モス・クラブ刊より)

 

URL: https://home.soka.ac.jp/~myamaoka/mozart22.htm

 

 私は昔から内田光子が苦手で、ジェフリー・テイト(1943-2017)との共演も1986年録音の第22,23番をカップリングしたCDがピンとこなかったのでそれ以来内田のCDを1枚も買うことなく今に至っている。それはともかく、第24番が「苦悩、怒り、孤独をありのままに描きつつ、それから逃げることなく、凝視し続けたことの結実」だとの表現には、特に「孤独」の一語について強く共感する。グールドの演奏、ことに変奏曲形式で書かれた第3楽章の第8変奏がその極北だった。この楽章は、モーツァルトが書いたあらゆる変奏曲の頂点に位置するものだと私は考えている。第5変奏などにちょっとバッハ的な響きもあり、だからグールドがこの曲にだけは少し惹かれたのかとも思ったが、驚くほど遅いテンポで弾かれた第8変奏には驚かされた。そしてこの変奏から感じられたのが「孤独を直視する人間の姿」だったのだ。

 このようにして、私は第24番を一推しするようになった。しかし、山岡氏が第24番と並べて下記のように称賛した第25番の良さは、長年わからなかった。

 

モーツァルトを旅する(21)  ピアノ協奏曲第25番ハ長調K503 ー栄光への憧憬ー


 永遠に不滅の二人の大作曲家、ベートーベンとモーツァルト。この二人の人間性をめぐって後世の我々は様々な思いを巡らす。モーツァルトは・・・あふれ出る楽想のままに、変化に富んだ27曲のピアノ協奏曲を生み出し、音楽の可能性を開き、ベートーベンへの道を創った。ベートーベンは・・・その偉大な10曲の交響曲で、二管編成の近代オーケストラの形態を完成させ、交響曲というジャンルを古典音楽の中心に据える役割を果たした。

 二人の音楽を対比して、ベートーベンは男性的である一方、モーツァルトは女性的だという評論をしばしば耳にする。力強さと優しさ、壮大さと優美さ、いろ んな言葉で二人は対比された。なるほどそうかもしれない。しかし、そのことが意味しているものは何なのか。その本質は決して単純なものではない。なぜかならば、モーツァルトはれっきとした男性なのだ。彼を支えた創作への強い意志は、むしろ男性的な強靭さを感じさせるほどである。彼は一体、本当に女性的なの か、もしそうであるならば、何がそうさせたのか。

 端的に言うならば、ベートーベンは度重なる苦難を不屈の精神で乗り越え、勝利していった人であったのに対し、モーツァルトは苦難に対し、余りにも従順で あり、不遇の人生を甘んじて受け、そして早逝した人だった。その素直さのままに、彼の音楽もまた流れるように自然で、純粋で、何か無抵抗な点において女性的なものを感じさせた。このように見ていけば先に述べた両者の対比はそれなりに首肯できる。

 だが、それだけでは、二人の音楽に一つの流れがあったことを、受け継がれたものがあったことを見落としてしまうのではないだろうか。モーツァルトが内に 秘めたまま世を去った、勝利の賛歌、栄光の凱歌。ベートーベンはそれを継承し、モーツァルトとは違った生き様の中で、それを形に表したのだ。

 これだけは確かに言える。もし、この世にモーツァルトが存在しなかったならば、ベートーベンもまた、存在しなかったであろう、と。

 モーツァルトがベートーベンへの道を作った曲を一曲挙げよと言われれば、私はまず、「一曲だけ挙げることはできない」と断わって、ピアノ協奏曲第24番ハ短調(K491)と第25番のペアを推すであろう。そして許されるならば、交響曲第40番ト短調(K550)と第41番ハ短調(K551)、弦楽 五重奏曲第3番ハ長調(K515)と第4番ト短調(K516)、そしてピアノ協奏曲第20番ニ短調(K466)と第21ハ長調(K467)と、合計4組8 曲を挙げるだろう。これらのペアは、いずれもそれぞれがほぼ同時期に作曲され、しかも全く対照的なハ長調短調のペアなのである(このことは連載第5回で も述べた)。

 私自身にとっても、モーツァルトの音楽の中で、私が最も愛するのがピアノ協奏曲第17番(K453)であるならば、最も尊敬するのは1786年に生まれた第24番と第25番のペアである。

 神の存在を信じさせるほどの、人間を超えた神秘性を持つ最高の作品、24番。そこには苦悩、孤独、憂愁、悲嘆、様々な激しい感情がうずまいている。背筋 が寒くなるようだ。

 それに対し、25番第1楽章の冒頭の壮大さ、快活さはどうだろう。勝利を収めて凱旋する王者の行進のように堂々としている。24番において問題提起されたものが、すべて解決したような安堵感がここにはある。モーツァルトにしては珍しく、男性的な強さを感じさせる。

 しかし、この第一印象は、直後にハ短調のモチーフが現れることによって早くも変更を余儀なくされる。そして、短調長調の間を行ったり来たりする心の振 幅こそ、ああ、これがモーツァルトだったんだ、と思い出させられるのである。

 再び、壮麗なトゥッティの後にあまりにも対照的なこじんまりとしたピアノ独奏が登場する。何人もの大男が大事に抱き上げたカゴの中から、少女が顔をのぞ かせて、大男にか弱い声で語りかける、そんな感じがするほどかわいらしい。

 不思議なことに、そのかわいらしい旋律にかぶさるように再び冒頭の壮大なテーマがオーケストラとピアノの共同作業で始まるのだ。そして、ふと気が付くと、ピアノは23番のような流麗なパッセージを奏でている。第2主題もまた少女がピクニックをしながら歌う鼻歌のように優しい。

 楽章全体を通じて何度も登場するフランス国歌風の主題も特徴的だ。このまま国歌を歌いあげるように高まっていくのかと思うとすぐはぐらかされる。

 圧巻は展開部である。国歌風の主題が一音ずつ上げて繰り返される。その間、妙な緊張感が高まっていく。歌い上げたい歌があるのに、力が足りず歌いきれない。くやしくてもう一度歌おうと試みるのだが、やはり力尽きる。それを繰り返すうちに、突然フガートとなり、この国歌風のモチーフがピアノ、オーボエファゴット、弦楽器、ピアノ、オーボエ、フルート、弦楽器と入り乱れ、魔法をかけられているような緊張感を維持したまま続き、ようやく落ち着きを取り戻し たかと思うと、再び再現部となり、壮大なテーマに突入する。この展開部にはモーツァルトの作曲技術の粋が集められていると言ってよい。

 壮大のように見せかけて実は繊細なこの楽章から私が感じるものは、強さ、栄光への憧れである。モーツァルトが胸に秘めていたもの。まだ直に手にしてはい ないものの、しかし、それがどんな形をしているかを彼は知っていたのだ。

 彼は決してただ苦難に甘んじたのではなかったのだ。

 ベートーベンは、この楽章に見えかくれする男性的な力強さから、恐らく多くの啓発を受けたろう。そして、彼は人生の格闘を続けた末に、モーツァルトが手にしなかったものを直に手にしたのだ。

 この楽章から我々は、確かにベートーベンへと続く道が見えてくるのである。

 

(中略)

 

 この音楽の素晴らしさを教えてくれたのは内田光子だった。イギリス室内管弦楽団との息もピッタリである。凝縮された精神性を表現できる女流ピアニ ストとしては、内田こそ日本で随一であると言ってよい。

 そのCDは24番とのカップリングであった。この一枚は希有のCDである。モーツァルトの真実のすべてが凝縮され、時間を止めてしまったあの24番のあとに、それを打ち消すかのように未来に向かおうとする25番。やはり、この二曲は一つの組をなしているのだ。

 24番について語る日もいよいよ近いようだ。

 

(『Oracion』 Vol.3 No.11 <1992.11> モス・クラブ刊より)

 

URL: https://home.soka.ac.jp/~myamaoka/mozart21.htm

 

 それが今回初めてわかった。それは、おそらくペライアの演奏を聴いたからわかったのではなく、モーツァルトの全ピアノ協奏曲を、先達のソナタを編曲して音楽を学習する段階だった第1〜4番から順を追って聴いていったから初めてわかったのだと思う。

 曲の冒頭、オーケストラがトゥッティの強奏でハ長調の分散和音をゆっくり下降していく第1主題から私がいつも連想するのは、壮大な日の入りの光景だ。しかしそのあといきなりハ短調に転じてベートーヴェンの「運命の動機」に当たる「タタタタン」が出てくる。すぐにハ長調に戻ってヴァイオリンが上行音階を奏でるが、その間も低弦は「運命の動機」を鳴らし続ける。そのあと、西欧の学者や聴き手が「ラ・マルセイエーズ」を思わせるという経過句が、フランス国歌の長調ではなくハ短調で奏される。やがてフランス国歌風の経過句はハ長調に転じる。このように、目まぐるしくハ長調ハ短調を行ったり来たりしながら「運命の動機」が奏される。

 この楽章に「運命の動機」が出てくることには、初めて聴いた中学生の頃から気づいていたが、それが「ベートーヴェンに直結する音楽だ」と感じたのは今回が初めてだった。今まではずっと漫然と音楽を聴いていただけだった。

 実はフランス国歌風の経過句も「運命の動機」からできている。「タタタタッタッタッタッター」という節だが、最初の「タタタタッ」のあと音価を倍にした(テンポを半分にした)「タッタッタッター」も「運命の動機」なのだ。それどころか山岡氏が「少女がピクニックをしながら歌う鼻歌のように優しい」と評した第2主題の後半でも「運命の動機」が二度鳴らされる。しかもこのト長調の第2主題もしばしばト短調に傾く。提示部が「運命の動機」とともに終わるとト長調のの並行調のホ短調に転じて再び「運命の動機」からなる経過句が奏される展開部が始まるが、この展開部はもう「運命の動機」だらけだ。

 実は「運命の動機」はベートーヴェンだけではなく、ハイドンモーツァルトの音楽にしばしば出てくることを弊ブログの以前の記事にも書いたことがある。ハイドンの第49番とされる変ホ長調ソナタ、それに作品50-4、嬰ヘ短調弦楽四重奏曲のそれぞれの第1楽章がその例だし、モーツァルトでは管楽器のためのハ短調のセレナードK.388の第1楽章がもっとも目立つ例だ。調もベートーヴェンと同じハ短調だし、展開部が「運命の動機」だらけだというのも同じ。しかしそれらの音楽は、楽章全部がほぼ「運命の動機」で統一されているわけではない。それに対してモーツァルトのピアノ協奏曲第25番の第1楽章は楽章全体が「運命の動機」で統一されていると言っても過言ではない。だから「ベートーヴェンを呼び出さんばかりだ」と思ったのだ。

 実は、ベートーヴェン自身が書いたピアノ協奏曲第4番(ト長調作品58)の第1楽章がまさにそういう音楽だ。冒頭にピアノがいきなり奏する第1主題は第2音から第13音までに「運命の動機」が3度繰り返され、楽章全体が「運命の動機」からできている。第2主題だけは別だが。この曲では「運命の動機」は同音反復の4音からできているが、この点ではモーツァルトのK.503(第25番)と同じだ。ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番がモーツァルトのK.491(第24番)から強い影響を受けていることは自明だが、第4番もまたモーツァルトの第25番なくしては生まれなかった音楽かもしれない。仮にベートーヴェンが第25番を知っていた(聴いたことがあった)なら、との仮定の上に立った話ではあるが。

 なお、モーツァルトがピアノ協奏曲の一つの楽章を特定のリズムパターンで埋め尽くしたのは、何も第25番が初めてではなかった。第19番という先例があった。このことを教えてくれたのも前記の山岡政紀教授だった。以下引用する。

 

モーツァルトを旅する(9)  ピアノ協奏曲第19番ヘ長調K459 -素材から構築美への飛躍ー


 1784年に書かれた6曲のピアノ協奏曲(第14番~第19番)は、そのいずれもが名曲であることは既に本連載でも再三述べた。特に14番と17番のそれぞれの第2楽章の美しさはたとえようもない。しかしながら、注目すべき点はこれら二つの楽章に限らない。第1楽章に目を移してみると、16番以降の4曲では、軽快なタンタッタタンタンという統一されたリズムを主題に用いて実に多様な音楽作りをしている。今回は、このよく知られた特徴に注目してみたい。

 素材であるタンタッタタンタンは、全く多様な味付けで料理されている。16番(K451)では、モーツァルトの初期に数多く見られる序曲形式の交響曲を思わせる、シンフォニックなメロディーに。17番(K453)では、優雅にかつ、躍動的に舞う舞曲風のメロディーに。18番(K456)では物静かで優しそうな女性的なメロディーに。そして、最後の19番では、行進曲風の華やかなメロディーに。同じモチーフを続けて用いながら、これほど表情の異なる多様な音楽を作り上げることのできるモーツァルトはやはり天才である。

 このモチーフは、これら4曲のピアノ協奏曲に限ったものではない。今、私が思い付くだけでも、バイオリン協奏曲第4番「軍隊」(K216)、セレナーデ第6番「セレナータ・ノットゥルナ」(K239)、フルート協奏曲第1番(K313)では、それぞれ第1楽章の冒頭の主題に、タンタッタタンタンが用いられている。また、第1主題ではないものの、交響曲第35番「ハフナー」(K385)やピアノ協奏曲第27番(K595)では、経過句として、このモチーフが用いられている。

 さて、楽章全体とこのモチーフとの関わりの深さには濃淡がある。17番では第1主題の初めの1小節にこのモチーフが用いられているに過ぎない。それに対し、19番では、驚いたことに、第1楽章の最初から最後まで、展開部でさえも、ずっとこのタンタッタタンタンのリズムによって作り上げられている。スコアで勘定したところ、全405小節のうち、102小節にこのリズムがあった。展開部はニ短調でピアノが低音から高音に駆け上がり、頂点で不安定な動きをする。そのとき、木管がタンタッタタンタンを重ねている。これまで第1楽章の第1主題のモチーフとして明解で快活なイメージのあったこのモチーフが実に暗い影を落しているのである。ここに20番の第2楽章の中間部の嵐との類似を見いだすのはさほど困難なことではない。展開部から再現部への以降は、ちょうど雨が止み、雲間から日光が射してくるような安堵感があるが、ここでも終始、タンタッタタンタンが用いられている。同じ素材が1曲の中でも実に表情豊かに、様々な顔を見せている。本当に不思議とすら言える曲である。

 16番が作曲された1784年3月からこの19番が作曲された同年12月までわずか10ケ月の間に、同じモチーフをもとに4曲のピアノ協奏曲を作曲しているが、素人的な発想では、作曲時期が近いだけに、全く異なる音楽を作ろうと考えるのが自然である。しかし、モーツァルトはしつこいほど同じモチーフにこだわり、しかも結果としては確かに異なる音楽に仕上がっているというのがおもしろい。これはモーツァルトの自信の表れではないだろうか。彼の音楽的才能は、単に美しいメロディーを作り上げることにあるのではなく、まるで建築士か料理人のように、どのような素材であってもその組合せ、組立て、という全体的構築において、発揮されたと言ってよい。だから、同じモチーフだろうが何だろうが、それをどんなふうにでも料理できるという自負がなければ、このような試みはできないと思う。そして、18番で既に3曲までこのモチーフで作曲しているにも関わらず、発想をかえるどころか、極め付けの、タンタッタタンタンだらけの曲を作ったのである。このあと、年が明けて、初めての短調のピアノ協奏曲である20番で大きく曲想を変えていることからすると、この19番は、1984年の6曲のピアノ協奏曲の総仕上げであり、4曲の姉妹作品の中でも総仕上げであり、さらに偶然だとは思うが、10番代の総仕上げとも思える。

 この曲は、6年後の1790年10月、皇帝レオポルト二世の戴冠式の際に、「戴冠式」のあだ名を持つ26番と共に演奏されたので、「第二戴冠式」とも呼ばれる。しかし、順番から言っても、曲の仕上がりから言っても、こちらが「第1」で、26番こそ「第2」と言ったほうがよいのではないかと思う。13番とそっくりの26番は、14番での飛躍的向上の以前に逆戻りしたような曲である。もちろんそれはそれなりに上品で楽しい曲であることは本連載の第1回でも述べた通りだが、19番のこの徹底した構築美にはとても叶わないと言えよう。(後略)

 

(『OracionVol.21 <1991.9> モス・クラブ刊より)

 

URL: https://home.soka.ac.jp/~myamaoka/mozart09.htm

 

 実は、この第19番も第25番と同様、これまで私にはよくわからない曲だった。正直言って、今回モーツァルトの全ピアノ協奏曲を2か月かけて順番に聴き通しても、第25番を聴き直した時に感じた「天啓」のようなものは第19番からは得られなかったが、その後山岡氏の作品論に接して、こういう観点があるのかと目から鱗が落ちる思いだった。いつか第19番の真価が私にもわかる日がくるかもしれない。

 前述の通り、第25番から新たに得られた感覚はまさに「天啓」であって、ベートーヴェンはこの曲を知っており、それから影響を受けたに違いないと私は確信したのだった。そこでネット検索をかけたら、私が感じたまさにその通りのことが書かれた文章に行き当たった。それを最後に紹介する。ソナー・メンバーズ・クラブという団体のサイトに収められた東賢太郎氏の記事だ。東氏は過去に日本の大企業の役員を務めたが、その役員を辞めて起業家となった経歴をお持ちのようだ。

 

sonarmc.com

 

モーツァルト ピアノ協奏曲第25番ハ長調 K.503

2014 JAN 3 2:02:22 am by 東 賢太郎

 

<どうして25番なのか?>

 

モーツァルトのピアノ協奏曲の最初の稿を25番から始めるのは意味がある。

 

この曲は作曲の動機もわからず専門家の間でも評価が二分する。だが僕は大好きだ。堂々としたハ長調はジュピター交響曲の調であり、第1楽章の展開部では6声のポリフォニーがその終楽章を予感させる。弾むようなリズムが高揚したハレの気分のうちにどこか典礼風な格調を添え、雰囲気は「戴冠式ミサ曲」K.317の「クレド」に似ている(というより、そっくりだ)。明るいだけではなく、副主題はたいそう頻繁に短調に転じて微妙な綾と翳りを織りなしていく。

 

第2楽章は謎めいたロマンティックな表情をはらみ、これを書いたころのモーツァルトの心中にある秘匿された何ものかを暗示する。第3楽章はオペラ「イドメネオ」のガヴォットの主題だがやはりどこか典礼の気分があり展開部の転調の見事さはドン・ジョバンニの世界を垣間見る。この終楽章が見事に演奏されたときの晴れやかな気分は替え難い喜びだ。ピアノ協奏曲の中で最もシンフォニックなのが25番である。

 

しかしそれだけならそこまで魅かれたりはしない。非常に不思議な曲なのだ。24番は明らかに不思議の衣装をまとっている。誰が聴いても不可解なほどに悲痛であり、モーツァルトの心を覆っていた何ものかは誤解しようがないほど如実にその姿を見せている。ところがこの25番はハレの衣装を着ている。だからその裾や胸元からちらりとのぞく「影」が漆黒の不気味さで聴き手に迫ってくるのだ。その影がなんだったのか、僕はとても知りたい。

 

モーツァルトのピアノ協奏曲を初めて聴きはじめるなら普通まずは人気で横綱級の20番、23番、27番あたりから入るだろう。次いで9番、14番、17番、19番、21番、22番、 26番というところが大関、小結グループ。24番と25番は一般にはそのグループに位置するだろうが、僕はこの2曲を横綱に入れ、いやむしろその上に置いてもいいと考えている。

 

24番(ハ短調K.491)に「フィガロの結婚」(K.492)が続き、25番(ハ長調K.503)に交響曲第38番「プラハ」(K.504)が続くのも興味深い。この4つが作られたあたりがモーツァルトのウィーンでの人気がピークアウトしたころであり、フリーメーソンに深入りした時期であり、プラハで人気が上昇していくころである。ベートーベンがウィーンでモーツァルトに会ったのはこの2曲が書かれた翌年だ。つまり24番、25番は最新のピアノ協奏曲だった。24番がベートーベンの3番のモデルだったことは再三書いたが、25番はどうだろう?

 

<運命動機は25番から来た?>

 

僕は24番だけでなく25番も後輩に影響を刻印した、つまり、第5交響曲の運命動機はここから来たと信じている。下の楽譜は25番の第1楽章だ。赤枠にそれが明確に出てくる。ここだけではない、各所に タタタターンが現れる。この音型がパッセージの一部やカデンツァとして現れる例はいろいろな作品で枚挙にいとまがないだろう。しかしここでのように、あたかも何か宗教儀式の合図でもあるかのように、それだけが裸で意味深長に鳴る例は知らない。この赤枠部分が僕に想起させるのは魔笛にでてくるザラストロの神殿の秘教的な雰囲気だ。それがフリーメーソンと関係あるかどうかはわからないが、そうであっても不思議ではない。

 

運命動機は第1楽章でも第2楽章でも支配的である。前者の展開部などそれの嵐といってもいい。最初の「タ」を2つに割ったタタタンタンタンというリズムは第1楽章トランペットの合いの手のパンパカパンパンパンや第3楽章に現れ、それは同じハ長調のジュピター交響曲に特徴的なリズムである(第4楽章のエンディングを想起されたい。25番のそれも同じだ)。ジュピターにもやはりある祝典的な雰囲気は25番と無縁でない。ジュピターも運命も25番も、冒頭に短いが強力な「リズム動機」を弦楽器群が叩きつけて開始するのは同じである。そして、それは魔笛の序曲においてもまた同じなのである。

 

(楽譜の引用を省略=引用者注)

 

そして青枠の部分を見ていただきたい。西洋人の学者にはこれがラ・マルセイエーズに似ていると説く人がいるが、そんな後世にできた曲のことは関係ない。僕は違う。このハ短調の調べが想起させるのはパパゲーノである。どの歌に似ているというよりも雰囲気、長調短調の頻繁な交代などがピッタリなのだ。このメロディが彼の歌としてそのまま魔笛に出てきて何の違和感もない。そしてご覧のように運命動機からできている。ベートーベンが魔笛を好んでいたことは以前に書いた通りである。

 

<ベートーベンは25番を聴いた?>

 

この協奏曲はウィーンでモーツァルトの独奏によって演奏されたが、それは1787年4月7日のことである。16歳のベートーベンがボンからウィーンに着いた日付はわかっていないが音楽学者バリー・クーパーによると「4月初め」とされる。彼はボンのパトロンモーツァルトの後継者になるべく送り出されたのである。その演奏会に間に合うように着いた可能性も大いにあるし、その後に会った時にその憧れの大先輩の最新作の協奏曲が若者の視野に入らなかったというのは考えにくいだろう。

 

そんなに簡単に他人の作品が影響してしまうものなのだろうか?格好の例がある。ベートーベンがまさにその第5交響曲を作曲していた頃のスケッチ帳にはモーツァルトの40番の交響曲からのパッセージが書かれている。5番の第3楽章の主題は40番の最終楽章の主題にそっくりなのにお気づきだろうか。偶然似てしまったのでは断じてなく、彼は素材としてそれのスケッチを創作ノートに書き出し、あれこれトランスフォームを試みた結果としてあの第3楽章を書いたはずだ。その同じ5番の冒頭動機が、思い出の25番のもっと単純であからさまな動機から来ていないと証明するのは、きっと何人にも困難ではないだろうか。

 

フリーメーソン短調作品とフィガロ

 

モーツァルトはそのウィーンで1784年2月28歳にして初めて自作の「作品目録」を書きだした。記載の第1号はピアノ協奏曲第14番であり、その年に彼はそのジャンルで 14-19番の6曲を作曲して、もちろん自分で弾いた。226日から411日までの45日間には25回も弾いた。今なら超売れっ子のシンガーソングライターだ。そして返す刀で翌年にかけ、前々年より手がけてきた渾身の力作である弦楽四重奏曲14-19番(いわゆる「ハイドンセット」)を完成させる。

 

(絵画の画像の引用を省略=引用者注)

 

彼がフリーメイソンのメンバーになったのはこの年の12月だ。右の絵はその集会風景で、右端の人物がモーツァルトとされている。フリーメーソンは貴族・学者・医師・富裕市民がこぞって入会していた結社で、そのウィーン支部啓蒙主義的君主であった皇帝ヨーゼフ2世が庇護していた。やがてフランス革命の精神となる「自由、平等、博愛」をかかげ身分ではなく自己の修練による向上をめざす。できあがってしまっていた宗教ヒエラルキーの下層階級に生まれたモーツァルトは、天賦の才をもってしてもそれを打破はできないフラストレーションに苛まれていた。だから彼にとってその新しい教義は大変都合がよく、魅せられたものと思われる。

 

1785年(29歳)にはピアノ協奏曲20-22番が生まれる。異例のニ短調である20番(K.466)に先立つ作品が、ハイドンセットの締めくくりの一作であり異様な不協和音の序奏部を持つ弦楽四重奏曲第19番(K.465)なのはきわめて暗示的だ。前年よりこの年にかけてピアノソナタ第14番、幻想曲、フリーメーソンのための葬送音楽という3つのハ短調作品、そしてピアノ四重奏曲 1 ト短調短調作品が続出し、それが翌年のピアノ協奏曲第24番ハ短調(K.491)という傑作に結実するのである。

 

その1786年(30歳)には23-25番のピアノ協奏曲が書かれているわけだが、24番と25番の間に完成されたのがオペラ「フィガロの結婚であった。そしてこのオペラこそモーツァルトの人気に致命傷を加えることになる。彼がこれを書く契機はフリーメーソンを通じてふきこまれた革命前のパリの熱い空気だったことは疑いない。これを大ヒットさせて、革命はともかくも既存のヒエラルキーをひっくり返してやろうぐらいのことは充分考えるエネルギーと人気を彼は持っていたと僕は思う。

 

僕は長らくフィガロの底抜けの明るさと24番の底なしの暗さが隣の作品番号で並んでいる異様さを説明することができないでいた。それを説明した書物に出会ったこともない。フリーメーソンという通奏低音が底流にあったのではないか。24番はメーソンの儀式の気分を反映しており、フィガロは思想を反映していると考えれば矛盾は解ける。そして25番は、24番の兄弟分として、やはりメーソンの儀式の気分を色濃く漂わせている。ザラストロの神殿の情景はそうして生まれているのではないかと考えると、僕なりにとても腑に落ちるのである。

 

フリーメーソンがそこまで影響したと結論するためにはもう少し説明が要るだろう。モーツァルトウィーンでどんな動機によって行動していたかという点が理解されなければならない。その動機については確たる証拠文献はない。だから手紙という入手できる中では最も信頼できるファーストハンドの文献から推察するしかない。以下は、それの僕なりの解釈である。

 

フィガロやっちまった経緯>

 

1781年(25歳)5月9日にモーツァルトザルツブルグ大司教と大口論となり、今流にいえばワンマン社長と大喧嘩して辞表を叩きつけた。当然ながら即刻クビになり、大司教の侍従に足蹴を食らわされて追い出された。サラリーマンには向いていない男だったのだ。逆にサラリーマン人生をまっとうし、息子にもそれを期待していた父レオポルドは激怒し、悲しみ、やがて勘当同然の扱いをするにいたる。この「脱藩騒動」はモーツァルトの人生の汚点、消し難いトラウマになった。この野郎、今に見てろよという復讐心がめらめらと燃え立った。

 

そこから3年間、彼は怒涛の勢いで仕事をする。そして彼の人生の分岐点となる1784年がやってくる。もちろん勢いの原動力は脱藩のトラウマだ。望外の評判と報酬を得ることに成功した28歳が書き始めた「作品目録」は都会で築いた3年間の実績への自信のあかしである。2LDKぐらいで新婚生活をスタートした若夫婦が都心の豪邸に引っ越して貴族なみの消費生活をするまでになった。フィガロの結婚がそこで書かれたのでフィガロハウスと呼ばれるようになるその住居でハイドンセットが書かれ、そこにそれを献呈した大家ハイドン様と親父殿を呼びつけてそれを演奏する。破竹の勢いの彼は皇帝ヨーゼフ2世の目に留まり、ウィーン宮廷に雇われる。

 

ヨーゼフ2世(右)はマリア・テレジアの長男だ。王でありながら「民衆王」「皇帝革命家」と呼ばれた啓蒙主義でもあり、だからフリーメーソンを庇護した。特権階級であり、いわばハプスブルグ株式会社の重役連中であったウィーンの貴族、富裕層が、へたすると従業員組合みたいになりかねないメーソンにこぞって参加したというのが僕にはどうも腑に落ちなかった。組合員が結集してオーナー社長を解任してしまったフランスはメーソンの標語でもある「自由、平等、博愛」が国旗にまでなったが、ハプスブルグ株式会社ではオーナー家は第1次世界大戦まで健在だったことは言うまでもない。

 

元来は保守的であるはずの貴族、富裕層がフリーメーソンに急速になびいたのは新社長ヨーゼフ2世の顔色うかがいにすぎなかったというのが僕の仮説である。そうとは知らない得意絶頂のモーツァルトが親父もハイドンまでもメーソンに引き入れたのが分岐点の翌年1785年だ。あの社長についていけば大丈夫と。その年1月に彼はメーソンの第2位階に昇進、4月には第3位階「親方(マイスター)」に飛び級のような昇進をしている。そこで彼はメーソンのための厳粛な気分の音楽を書く。その気分が短調作品の続出」の背景として投影されており、自由・平等・博愛の統治下では貴族の顔色を気にせず書きたいものを書いたという結果だと思う。

 

しかし社長の権限にも限度はあるものだ。オーナー会長の母マリア・テレジアはまだ代表権を持っておりかつて強引に謁見してきたザルツブルグ子会社の従業員にすぎない親父レオポルドを嫌っていた。だから会長子飼いの宮廷役人は、田舎出で生え抜き社員でない息子アマデウスにハナから「いじめモード」だった。前任者の半分以下の給料とダンス音楽作曲などの些末な仕事しか与えなかったことでそれがわかる。そこでモーツァルトの反骨精神は大爆発を迎える。「この野郎、今に見てろよ」が再度めらめらと燃え上がった。悪いことに、いつやるの?今でしょ!という台本が出てきてしまった。フランスの劇作家ボーマルシェ「狂おしき1日、あるいはフィガロの結婚なる戯曲である。

 

この芝居は①「セビリアの理髪師」②「フィガロの結婚」③「罪の母」という3部作でフランス革命前夜のパリで大ヒットしており、後にロッシーニがオペラ化して有名になる①をイタリア人のジョヴァンニ・パイジエッロがオペラ化するとまたたく間にヨーロッパ中で人気をさらった。いわば60年代のビートルズみたいなものだった。その1782年のウィーン上演は武道館ライブだ。モーツァルトは手紙に記していないが見た可能性は高いのではないか。現にそのCDを聴いてみて驚いたが、序曲からしモーツァルトの「フィガロの結婚」はパイジエッロの「セビリアの理髪師」に大変に似た雰囲気を持っている。これだ、これならいける!と勇気づけられたのではないか。

 

しかしウィーンはパリよりずっと保守的だった。ウィーン革命などハナから起きる余地もなかった。ウィーンでも②の戯曲の上演をという要請があったが皇帝は「体制批判、革命促進につながる」として禁じた。その状況を充分に踏まえていたにもかかわらず、モーツァルトは脚本家ダ・ポンテと一緒に②のオペラ化を進めてしまったのである。やっちまったわけだ。何のため?このオペラに散りばめられた珠玉のナンバーの数々を聴けば「音楽のため」と答えざるを得ない。しかし、それでも僕は「この野郎!」が動機であったと結論したい

 

確たる理由はない。僕自身がやっちまっている。完全な自己都合、要は勝手に部長だった会社を辞めている。移った先も日本の大企業だからお金のためではない。そしてそこも役員で辞めさせていただいている。サラリーマンには向いていない男だった。そんな経験のある人はあまりいないから僕はそれをわかりあう友達がいない。そうしたらそこにモーツァルトがいたのだ。自分の失敗経験からの直感としか申し上げようがないが、僕はこのフィガロ前後の話になるとつい他人事でなくなって「そうだ、やったれやったれ!」と応援団の気持ちになるのである。モーツァルトに半端でない共感と愛情が湧き出てきてしまう。

 

「この野郎」の「野郎」には、彼を足蹴にした大司教や貴族ども、性根の曲がった宮廷の小役人ども、そして小役人にとりいってドイツ人排斥を画策するイタリア人楽師どもが入っていたに違いない。彼のミラノでの就職を邪魔していじめたマリア・テレジアも入っていたかもしれない。しかし「今に見てろ」でギャフンと言わせるのは美しい音楽によるしかないのだ。だから彼は皇帝じきじきに依頼されて仕方なくフィガロ作曲を一時中断して書いたオペラ「劇場支配人」には力をセーブまでして、フィガロに渾身の剛速球を投じたのである。

 

音楽は愛された。しかしウィーンの「なんちゃって啓蒙派」である保守貴族たちにとってオペラの筋書きはあまりに不快だった。なにせ、部下の女房に手を出そうとする社長に、あろうことか社長夫人の手によりセクハラ宣告の鉄槌が下される間抜けな話である。笑いものになる社長こそ「この野郎」どもなのだ。ざまーみろ。文句あっか?この音楽の人気、見てみんかい。モーツァルトはドヤ顔だったろう。そしてこの瞬間に、彼のコンサートのお客のほとんどでもあった貴族と富裕層は彼を見限って、彼を切り捨てていくのである。

 

<147年も演奏されなかった25番>

 

25番はやっちまった後に書かれた最初のピアノ協奏曲である。この協奏曲がウィーンで最後にモーツァルトの独奏によって演奏されたのは1787年4月7日のことである。そして、アルトゥーロ・シュナーベルが1934年に弾いたのがその次だった。なんということだろうか。ウィーンでは147年も演奏されなかったということだ。ピアノ協奏曲はシンガーソングライターの「持ち歌」だ。シンガーの人気がなければヒットはしないのだ。いかに彼の人気が凋落したか、象徴的な数字ではないか。

 

それは仕方ないが、そのあおりを食って忘れられてしまうには25番はあまりに良い曲であり重要な曲だ。それを黙って見ているわけにはいかない、そう思ったことが本稿になっている。ひとりでも25番の良さを発見して愛聴してくれる人が出れば幸甚に思う。楽典や歴史の細かいことはどうでもいい。モーツァルトの音楽は誰の耳にも、どんな初心者の耳にも楽しいものだと信じる。難しいことはまったくない。難しいことをいう必要もない。一生の楽しみを約束してくれる宝の山だとお約束する。(後略)

 

出典: モーツァルト ピアノ協奏曲第25番ハ長調 K.503 | Sonar Members Club No.1

 

 東賢太郎氏も前述の山岡政紀氏と同様、第25番を第24番と並べてモーツァルトのピアノ協奏曲の最上位に位置付けている。私の場合、第25番の再発見が昨日今日の話だからまだそこまではいかないが、第24番に次ぐまでには一気に順位を引き上げた。

 東氏が書いた上記引用文に書かれた仮説にどこまで信憑性があるかは私には全くわからないが、間違いなくいえることは、モーツァルトが亡くなった1791年にはかなりの程度まで進んでいたフランス革命と、それに全くついていけなかった保守反動の社会だったに違いないウィーンとの落差が、晩年のモーツァルトにとって大きな逆風になったに違いないことだ。

 フランス革命ベートーヴェンとの間に切っても切れない関係があることは周知だ。このように、音楽と政治とは決して切り離して考えることはできない。

 なおモーツァルトの25番でのハ長調ハ短調との交錯は、23番(イ長調)や25番と同じハ長調の21番などの「明」と、24番(やニ短調の20番)の「暗」とを総合した音楽、という一種弁証法的な言い方もできるかもしれないが、子ども時代のモーツァルトの音楽に、既にハ短調ハ長調とを交錯させた音楽があることを最近初めて認識した。それは「孤児院ミサ」と呼ばれるK.139のミサ曲で、モーツァルトが12歳の時に書いた最初のミサ曲らしい。この記事でクリスティのミステリの話を終えて本論に入ってから初めの方で触れた吉田秀和解説のNHK-FMの番組で1980年7月20日に放送された音声ファイルがアップロードされたYouTube(下記リンク)を聴いて知った。43年前にこの番組を聴いた記憶はないので、おそらくこの回は聴かなかったのだろう。

 

www.youtube.com

 

 この曲に限った話ではないが、どうやらモーツァルトは子ども時代から、クラヴィーア(ピアノ)の白鍵だけからなるハ長調と同じ主音を持つハ短調という調性におどろおどろしいというか悲劇的な印象を持っていたらしい。そう感じた。

 ベートーヴェンは、交響曲第5番ではその悲劇のハ短調と闘って最後にハ長調で勝利を収める音楽を書いたが、晩年のピアノソナタ第32番(作品111)では悲劇のハ短調を、途中にスケルツォ風の部分を挟みながらもその前後は静謐な変奏曲であるハ長調で閉じた。モーツァルトはそのどちらでもなく、ハ長調ハ短調とを共存させたピアノ協奏曲第25番の第1楽章を書いた。

 このあたりの2人の作曲家の対比は実に興味深い。

 今年は残り4日の平日にノルマを4件も抱えるなど最後まで解決しない多忙さで暮れようとしている。来年も年明け早々の15日までは息つく間もないという、若い頃や壮年期にも経験のない、いやネット検索をかけたら最近は64歳までを壮年期というらしいから現在はその終わり近いに時期にいるが、そんなとんでもない時期にいるからこそ、フランス革命やそれとは対照的な保守反動のウィーンに生きたモーツァルトの音楽が心に染み入るのかもしれない。そんな感慨を持つ。

 メインブログには年内にあといくつか記事を公開すると思うが、こちらのブログはこの記事が年内最後の更新になる。引用文を入れて2万字を超えたこの記事を最後までお読みいただく方がどのくらいおられるかはわからないが、年末の挨拶で締めくくりたい。

 それでは皆様、良いお年を。