KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

どうしようもない陰謀論者だったレオポルト・モーツァルトは息子ヴォルフガングを「神童ショー」に引き回し、息子の擁護者たちを疑い、彼らを不当に貶めて(=恩を仇で返して)息子の天才を実際以上に粉飾していた(呆)

 もう1月も下旬に入り、1年で最も寒い季節になってしまったが、やっと2024年初の更新になる。

 昨年10月末にかつてのモーツァルティアンの血が騒ぐきっかけがあって、何十年ぶりかでモーツァルトを聴きながら家に持ち帰った仕事を処理するという、学生時代を思い出さずにはいられない生活をしていたので、今年最初の記事としてそのモーツァルトを取り上げようとしていたのだが、記事がうまくまとまらずに収拾がつかなくなっていた。この土日はそれなりに時間があったので再チャレンジすることにした。

 最近になってモーツァルトがなかなか宮廷楽師として就職できなかった二大元凶が父のレオポルト・モーツァルトと、事実上神聖ローマ帝国の女帝だったマリア・テレジアであることを認識した。若い頃の私はモーツァルトの音楽の大ファンではあっても人間に対する関心が薄かったので、モーツァルトの人生については何も頭に入っていなかった。

 だから、マリア・テレジアモーツァルトの宮廷への雇用を妨害した事実は、2020年に光文社新書から出た石井宏の『モーツァルトは「アマデウス」ではない」(下記に光文社のサイトをリンク)のアマゾンカスタマーレビューで初めてまともに認識した次第。

 

shinsho.shueisha.co.jp

 

 下記は上記光文社新書のカスタマーレビューへのリンクと引用。

 

La dolce vita

★★★★★ ウィーンでの陰湿で執拗なモーツァルト潰しの実態

2020年4月26日に日本でレビュー済み

 

モ-ツァルトが洗礼の時に父親によって命名されたラテン語フルネームは、ヨアネス・クリソストムス・ヴォルフガングス・テ-オフィルスだが、最後のテ-オフィルスをドイツ語に置き換えるとゴットリ-プになり、イタリア語ではアマデ-オと訳される。モ-ツァルトは3回のイタリア旅行でヴァティカン、ヴェローナボローニャのそれぞれの都市から法外で名誉な肩書を授与された。そのイタリア人達からの呼び名がアマデ-オだったようで、彼はこの地での大成功を生涯忘れることなく、公式のサインには好んでこれを記したと説明されている。

 

ミラノの宮廷作曲家としてのオファーを打診したフェルディナント大公は、まだ少年だったために母のマリア・テレ-ジアに助言を求めた。ウィ-ンからの返書がここでも紹介されているが、女帝は面と向かっては褒めちぎっていたモ-ツァルト親子に関して、大公には河原乞食同然の旅芸人であり、息子の名誉を傷つける無用の人々とこき下ろしたために、フェルディナントはオファーを取り下げた。マリア・テレ-ジアは後々のハプスブルク継承権を目論んで、子女子息を問わず自身の子供達をヨ-ロッパのめぼしい王家に次々と政略結婚させた。そうした権謀術数には長けていたが、こと芸術に関しては社交辞令、あるいは刺身のつま程度にしか考えていなかったことが想像される。それは後世に祀り上げられた芸術の庇護者の名折れでしかないだろう。

 

いずれにしても当時のウィ-ンには、かなり陰湿かつ執拗なモ-ツァルト潰しの動向があり、彼のコンサートやオペラ上演には必ず妨害が入ったようだ。しかし度重なる就職活動に失敗したことが、モ-ツァルトをウィ-ンで独立させ、短い期間であったにも拘らず自由な音楽活動をさせることになったのは運命の皮肉だろうか。お仕着せの作曲家として宮廷内に留まって能力を発揮するには、彼の才能はあまりにも破格だったからだ。本書のテ-マは、現代ではモ-ツァルトの名前として罷り通っているアマデウスが、実は本人自身が一度もこの名でのサインをしなかったという事実を明らかにすることで、内容は学術的だが石井氏の平易な筆致で分かり易く、また伝記作品としても興味深く読める一冊だ。

 

URL: https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R3AUZGRWUV8OKX

 

 私も上記引用文を読んだ時にはマリア・テレジアに対して腹を立てたが、よく調べてみるとマリア・テレジアモーツァルト父子を激しくdisった手紙はどんなモーツァルトの伝記や研究本にも書いてある周知の事実だった。当然私も中学か高校の頃に読んだことがあるはずだが、人間に対する関心が薄い少年だったから読み飛ばしたに過ぎないのだろう。

 また、マリア・テレジアにこのような悪い心証を与えても仕方ないことをモーツァルトの父・レオポルトはしていたともいえる。

 

julius-caesar1958.amebaownd.com

 

 以下上記リンク先から引用する。

 

 1776年、ミラノにあった宮廷劇場テアトロ・ドゥカーレが火事で焼失。新たに建設されたのが「スカラ座」である。名前の由来は、建設された場所に以前サンタ・マリア・アッラ・スカラ教会があったから。庶民も入場できる新しいオペラ座の建設を命じたのはマリア・テレジア。ミラノは、18世紀初頭のスペイン継承戦争後、1714年のラシュタット条約によってオーストリアハプスブルク家に帰属していた。

 

 このようにマリア・テレジアは芸術に理解がなかったわけではない(統治の手段という側面が強いが)。しかし、四男フェルディナント大公が「モーツァルト(15歳)を宮廷劇場(ミラノ)で召しかかえたい」と求めてきた時、こう言って拒絶した。

 

「あなたは若いザルツブルク人を自分のために雇うのを求めていますね。私にはどうしてかわからないし、あなたが作曲家とか無用な人間を必要としているとは信じられません。・・・あなたに無用な人間を養わないように、そして決してあなたのもとで働くようなこうした人たちに肩書など与えてはなりません。乞食のように世の中を渡り歩いているような人たちは、奉公人たちに悪影響を及ぼすことになります。・・・」(1771年12月12日付マリア・テレジアのフェルディナント大公宛の手紙)

 

 「乞食のように世の中を渡り歩いている」とは強烈な表現だ。なぜこんな表現をしたのか。最初の御前演奏(1762年10月13日)からこの手紙までの9年の間にモーツァルト親子はのべ6年間旅を続けた。特に、御前演奏の翌年から行われたヨーロッパ縦断旅行は、なんと3年5カ月に及んだ。父レオポルトザルツブルク宮廷楽団副楽長という立場にあったにもかかわらずである。そんなことが可能だったのは、当時のザルツブルク大司教が「寛大な司教」と言われたシュラッテンバッハ伯だったから。伯爵がレオポルトの長期の休暇願を容認したからモーツァルト親子は長期の演奏旅行を続けることが可能だったのだ。

 

 しかしマリア・テレジアが「女帝」として推し進めていたのは中央集権化。各地方の貴族や領主たちが、皇帝の意志を顧みず、勝手放題に支配していたのを、国家が全権限を掌握し、君主の決定がそのまま国家全域に伝達されるような体制に変革することだった。だから、1771年12月16日(先のマリア・テレジアの手紙のわずか2カ月後)に亡くなったシュラッテンバッハ伯の後任となったコロレド大司教モーツァルトの天敵のように対立するのもこの点から考える必要がある。彼は前任者のように寛大ではなく、以後モーツァルトにとっては忌まわしい人物となり、ついには大喧嘩の末、1781年、モーツァルトがウィーンに定住する原因をつくった。モーツァルトが希に見る大天才であることを見抜けなかったことは事実であるが、宮廷に仕える音楽家に対する普通の処遇をしようとしただけなのだ。マリア・テレジアの構想に忠実な地方官僚だったのだ。

 

 ところで、シュラッテンバッハ伯が大司教だったのは1753年~1771年。モーツアルトが生まれる3年前から15歳まで。その間に、レオポルトはヨーロッパ縦断旅行(7歳~10歳 3年5カ月)、第1回ウィーン旅行(11歳~12歳 1年4カ月)、イタリア旅行(13歳~15歳 1年2カ月)を行い、モーツァルトの才能を開花させ、偉大な音楽家に成長させた。その意味ではシュラッテンバッハ伯の功績の大きさはいくら強調しても強調しすぎることはないだろうが。

 

URL: https://julius-caesar1958.amebaownd.com/posts/4986425/

 

 『モーツァルトは「アマデウス」ではない」を書いた音楽評論家・石井宏は2004年に出し、2010年に新潮文庫入りした『反音楽史 - さらば、ベートーヴェン』は昔読んだことがあり、私が運営するメインブログに取り上げたこともある(下記リンク)。

 

kojitaken.hatenablog.com

 

 以下引用する。

 

 いくら息子を宮廷で雇ってもらおうとしても、その度に「イタリア人の壁」に跳ね返された父レオポルトは、ある時、大作曲家ハイドンの弟、ミヒャエル・ハイドンにこう愚痴ったそうだ。

私がいやだったのは、ハイドン君、そんなことじゃない。みんな策謀、陰謀なんだ。陰謀にやられたということなんだ。だが、もっとひどいのは、そのイタリア人の陰謀にドイツ人が加担しているということだ。あのウィーンのおえら方、グルックとかハッセ(ともにイタリア・オペラを書くドイツ人音楽家)とかいった連中までがヴォルフガングを潰そうとする。音楽はアフリージョのような奴らに握られている。こんな国に何を望める? アフリージョは泥棒だ。あいつは息子の作曲に対して一グルデンも払わなかった。その男が私にこう言うんだ。「お前は息子を売って商売にしている」とな。


(石井宏『反音楽史―さらば、ベートーヴェン』(新潮文庫、2010年)34頁)


 これに対して、ミヒャエル・ハイドンが冷静に「アフリージョの言うとおりだ」と答えたために、2人は口喧嘩になったという。

 これは、9時間にも及ぶというフェリシアン・マルソーとマルセル・ブリュヴァルの映画「モーツァルト」(1982年)に出てくるシーンらしいから、実話かどうかはわからないが、レオポルト・モーツァルトが「イタリア人陰謀論」に取り憑かれていたことは事実らしい。

 この本によると、商業都市アウクスブルクの製本職人の家の長男に生まれたレオポルトは大変なインテリで、奨学生として中学(ギムナジウム)に進学し、ラテン語の読み書きまでできた上、何万人、いや何十万人に一人というようなエリートとしてザルツブルクの大学に留学したのだという。それが、在学中に「ひとりだけの反乱」を起こしたとして退学になり、放浪生活をしたあげく、身分の低い職業だった楽士になったのだそうだ*1

 なるほど、そういう栄光と挫折を経験した人間だからこそ、「イタリア人陰謀論」に深くはまり込んでしまったのだなと妙に納得した次第である。頭の良い人間ほど、ひとたび挫折を経験すると、深く深く陰謀論にとらわれてしまうものなのだろうか。イタリアとドイツの宮廷と宮廷お抱えのドイツ人音楽家が「悪徳トライアングル」を形成しているのだ、とレオポルト・モーツァルトは思っていたのかもしれない。ザルツブルクの大学を退学になった反乱も、レオポルトの脳内では「冤罪」ということになっているのかもな、とふと思った。

 

URL: https://kojitaken.hatenablog.com/entry/20101225/1293257565

 

 実際にはイタリア人ではなく独墺系の人間だったマリア・テレジアのせいでヴォルフガングはイタリアの宮廷に雇用されなかったのだが、その事実を知らなかったレオポルトはイタリア人、それにグルックやハッセといった「イタリア人とグルになった」と彼が勝手に決めつけた人たちのせいにしていたのだった。

 しかし、一番悪いのはレオポルトだったのだ。

 なおレオポルトは実際にグルックやハッセを疑って陰謀論的な悪口を言っていたらしい。実際に、ドイツ系の音楽家連中の間にもモーツァルトの才能に嫉妬して反モーツァルトの策謀に関与した人たちは少なからずいたようだが、今でも音楽史上に名を残しており、タワーレコードなどでその作品のCDを現物で買うことができるグルックやハッセなどはモーツァルトを擁護していた人たちなのだった。

 たとえばグルックについては、モーツァルトグルックの主題による変奏曲K455を作曲もしている。以下、森下未知世氏のサイト「mozart con grazia」より。

 

(前略)ウィーンで次第に人気が出てきたモーツァルトに対して、嫉妬から反対派が増え始めたが、長老グルックだけは常に好意的で、モーツァルトの演奏会に度々姿を見せていたという。 そこで1783年3月23日の演奏会ではそのグルックに敬意を表して、1764年に初演され、1780年にドイツ語翻訳のジングシュピールとして上演されたグルックのオペラ「思いがけない巡り会い La rancontre imprévue」(原題「メッカの巡礼者 Les Pèlerins de Mecque」)の中のアリエッタ「愚民の思いは Unser dummer Pöbel meint」を主題に即興的に変奏したのであった。 グルックは、18才も年下の妻が持っていた宮廷との縁故と、自身の控えめな性格のお陰でウィーン宮廷楽団でオペラ監督という定職を得て、1758年から64年まで9本のオペラ・コミックを書いていた。 そのうちの「思いがけない巡り会い」がドイツ語のジングシュピールに改作されて彼の生涯のヒット作になったという。

 

この曲は以上のような状況で成立し、また動機もそこに見ることができる。 この時期に作られたピアノのための幻想曲や変奏曲は同じような理由によるものであり、アインシュタイン

この時期は、彼の偉大なアカデミー(予約演奏会)の時代、彼のピアノ・コンチェルト、管楽器を加えた五重奏曲、偉大なヴァイオリン・ソナタの時代であった。 アンコールが必要になったときは、例えばグルックの『わが愚かなる賤民は言う』による変奏曲などのような変奏曲を即興演奏した。 右の場合は、原曲の作曲者が1783年3月11日のモーツァルトのアカデミーに来場の栄を得たおりのことである。 ときにはまたもっと自由な形式で幻想曲を即興演奏したのである。

アインシュタイン] p.338

と説明している。

 

(中略)モーツァルトは1781年7月に「後宮からの誘拐」の作曲に着手するが、そこで東洋風の異国趣味を帯びた作品の一つとして、グルックの「メッカの巡礼たち」を十分に研究していたようである。 そして自分の作品が完成しても、グルックの他のオペラの完成が優先されることもよくわかっていた。 さまざまな事情(その中には妨害もあったが)から「後宮」の完成には1年近くかかり、1782年7月16日にブルク劇場で初演されたが、圧倒的な好評を得て上演を繰り返すことになった。 それにはグルックの支持もあったという。 その一方でモーツァルトは、老齢のグルックが死去したあと、自分が宮廷作曲家のポストを手に入れるための努力をすることを忘れていなかった。 モーツァルトは決して世間知らずの音楽オタクではなかった。

 

オペラ界は、陰謀、かけひき、策略、罠といった、相手をおとしめ、引きずり落とす術策を弄してやまぬ、おどろおどろしい世界であることは、今も昔も変わりない。 モーツァルトもそうした世界の只中で生きていくことになるのである。

 

確かに父レオポルトが心配して目が離せないという時期もあったが、モーツァルトにはそのような世界で生き抜いていける才能を十分に持っていたようである。 むしろ逆に謹厳実直なレオポルトの方が順応できずにいた。 グルックに対しての評価は悪く、かなり否定的に見ていたことが残された手紙からわかる。 したがって、息子がグルックに(だけでなく、当時のほかの革新的な作曲家にも)近づかないことを望んでいた。 しかしモーツァルトは時代を越えた天才であり、父が望む古くさい型枠に収めきれるものではなかったことは歴史が示す通りである。 イタリア人に牛耳られている宮廷音楽界にあって、それを悔しく思う気持ちを共有していたかもしれず、グルックモーツァルトの演奏会にはよく出かけ、作品を誉め、食事に招待してくれていたのである。 1783年3月23日の演奏会の直前には次のようなできごとがあったことをモーツァルトは父に伝えている。

義姉のランゲ夫人が劇場で演奏会を開き、ぼくも協奏曲を一曲弾きました。 劇場は大入り満員でした。 <中略> ぼくが舞台から去ったあとも、聴衆の拍手が鳴りやまないので、ぼくはもう一度ロンドーを弾かなくてはなりませんでした。 すると、まさに嵐のような拍手です。 これは3月23日の日曜日に予定しているぼくの演奏会のよい宣伝になります。 ほかに、コンセール・スピリチュエルのために書いたぼくのシンフォニーも演奏しました。 義姉は、例のアリア『私は知らぬ、このやさしい愛情がどこからやってくるのか』を歌いました。 ぼくの妻がいたランゲ夫妻の桟敷席の隣に、グルックが来ていました。 彼はぼくのシンフォニーとアリアをしきりに誉めて、次の日曜日にぼくら4人全員を昼食に招待してくれました。

[書簡全集 V] p.346

そのような親密な関係があったからこそ、皇帝ヨーゼフ2世臨席のもとに行われた3月23日の演奏会で、彼の曲を主題にした変奏曲を即興演奏して敬意を表した話につながるのである。

 

URL: https://www.marimo.or.jp/~chezy/mozart/op4/k455.html

 

 また、ハッセもモーツァルト擁護派だった。そればかりではなく、ハッセは息子・ヴォルフガングをスポイルしかねないレオポルトへの懸念を持っていたようだ。

 以下、『モーツァルトは「アマデウス」ではない』から引用する。

 

 ところで、モーツァルトのオペラ妨害に明け暮れた感のあるウィーンで――ほとんどの作曲家、演奏家、歌手などがモーツァルト叩きに回っていた中で――長老のハッセとその親友であるメタスタージォは、共に当時のオペラの世界で最も尊敬を払われた人物であったが、その騒ぎには加わらなかった。というより、暴走する連中に対して、妙な運動はやめて、モーツァルト少年の天才を認めるよう、説得に回った形跡があり、レーオポルトも人伝てに知っていた。いわばメタスタージォとハッセの両大家は “モーツァルト派” だったが、そのハッセがモーツァルト親子について書いた簡にして要を得たみごとな文章がある。

 

 モーツァルト少年はその年齢からみたら確かにすばらしいもので、私は限りなくこの子が好きです。彼の父親は、私の見る限りにおいては、どこへ行っても不平を並べるような人だ。彼は少しばかり少年を崇めすぎており、そのため、この少年をスポイルするようなことを、いろいろやっている。私はあの少年の天分を高く評価するものだから、彼が父親の甘やかしによってスポイルされないで、立派な人間に成長することを願うものです。

(1771年3月23日付 オルテス宛ての書簡)

 

(石井宏『モーツァルトは「アマデウス」ではない』(光文社新書2020)100-101頁)

 

 上記引用文中のハッセの手紙は1771年3月に書かれた。1698年生まれのハッセは70歳を過ぎている。そのハッセは同じ年の10月にミラノの宮廷劇場で行われたフェルディナント大公の結婚式のために、彼の人生最後のオペラ『ルッジェーロまたは、偉大なる感謝の心』を書いた。ところが、そのハッセのオペラが同じ結婚式のために当時15歳のモーツァルトが書いた添え物のはずの劇場セレナータ(踊りをあちこちに取り入れた単純な劇=著者の説明による)と呼ばれる簡単なオペラ『アルバのアスカーニョ』に食われた(人気をすっかりさらわれた)。モーツァルトの伝記の多くにはそのように書かれているらしい。だが石井宏が『反音楽史』に書いたところによると、それがレオポルトの宣伝によるところが大きいらしい。以下、『反音楽史』から引用する。

 

 両者の評判についてモーツァルトの父レオポルトは故郷の妻に向かってこう報告する。

 

 16日には(正式の)オペラが上演され、17日にヴォルフガングのセレナータが上演された。異例なほどの大成功で、きょう再演されることになっている。大公は写譜を2セット注文された。街では廷臣たちやもろもろの人から声をかけられ、若い作曲家は祝福されている。心配していたが、ヴォルフガングのセレナータはハッセを殺してしまった……。

 

 レオポルト・はハッセのオペラには全く人気がなく、息子のセレナータだけが続演されていると手紙に書いたので、多くのモーツァルトの伝記にはハッセがつまらないオペラを書いて少年モーツァルトに敗北したと書いてあるが、記録を見るとハッセのオペラも順調に繰り返して上演されている。

 11月8日、ハッセとモーツァルト父子は少年の才能を高く評価し「こんな才能に出てこられたのでは、われわれは影が薄くなってしまう」と言ったとされている。

 しかし円満な常識を備えたハッセは十分に大人であった。彼が友人に宛てた手紙では、モーツァルトの父は次のように極めて的確に観察されている。

 

(石井宏『反音楽史 - さらば、ベートーヴェン』(新潮文庫,2010)169-170頁) 

 

 このあとに、前に引用したハッセのレオポルト評が書かれた手紙が引用されている(但し訳文は少し異なる)。つまりこの手紙は著者の石井宏がしばしば持ち出す十八番だと推測される。

 イタリア旅行中のモーツァルトでは、他にも怪しい案件がある。それは、14歳の時にボローニャでマルティーニ神父から対位法を学び、難問の試験を短時間で仕上げてボローニャのアカデミアの会員資格を受けた一件だ。

 この試験での答案であるモーツァルトの楽譜が残っているらしく、1980年に吉田秀和の解説でお馴染みだったNHK-FMの『名曲のたのしみ:モーツァルトの音楽と生涯』で紹介された。数年前にその放送の音声がYouTubeにアップロードされた。

 

www.youtube.com

 

 上記リンクの動画の33分25秒くらいから吉田氏が解説を始め、そのあと音楽を聴くことができる「アンティフォン」K44及びK86がそれらの曲であって、K44はレッスンを受ける過程でのモーツァルトの作曲、K86は試験の答案としてモーツァルトが書いたものだと説明されている。しかし同時に、両曲の出来栄えが違い、答案として書かれたK86はレッスン中の作曲とされるK44より聴き劣りすると吉田氏が指摘し、実際にK44にはマルティーニ師の手が入っているのではないかと推測する研究者もいると言っている。

 私はこれらの音楽を全く知らなかったどころか、「アンティフォン」という用語自体初耳だった。Wikipediaによると、

アンティフォン英語/ロシア語) は、キリスト教聖歌の隊形の1つで、合唱を2つに分けて交互に歌う。東西の聖・公・使徒伝承教会(カトリック教会正教会)で、現在も一般的に行なわれている。

とのこと。なお番組で放送された演奏は、佐藤公孝指揮イリス合唱団とのことで、これは東京の国立(くにたち)音楽学校の学生たちを同大学の佐藤公孝教授(当時。現国立大名誉教授)が指揮したものらしい。

 これらの音楽についても前記「Mozart con grazia」を参照してみた。

 まずK44。

 

アカデミア・フィラルモニカの試験は1770年10月9日に行われ、アンティフォン『まず神の国を求めよ ニ短調 K.86 (73v)』を書き上げたことからアカデミア会員の資格が授けられたのだったが、この曲はその練習のために作曲したものといわれ、ケッヘル番号は直前の K.73u に位置づけられていた。 しかし現在は、モーツァルトの真作ではないとし、マルティーニ師の手本を少年モーツァルトが筆写したものと推定され、新全集には載っていない。 その理由はアンティフォン『まず神の国を求めよ』や同時期の『ミゼレーレ イ短調 K.85 (73s)』などと比べて、書法がはるかに成熟し、譜面にも書き損じや訂正がないことであるという。

 

URL: https://www.marimo.or.jp/~chezy/mozart/op0/k44.html

 

 なんと、K44の方はマルティーニ師の手が入っているどころか、マルティーニ師の作品そのものらしい。現在ではそう推測されているようだ。

 次いでK86。

 

ボローニャで、特に対位法の指導を受けていたマルティーニ師の推挙を得て、この向うところ敵なしの天才少年はアカデミア・フィラルモニカの厳格な対位法の試験を受けることになった。 そのためにイタリア旅行の日程が遅れたとする「1770年10月20日」の手紙(レオポルトからザルツブルクの妻へ)が残っていて、それには父親の誇らしい気持ちが書かれている。 詳しい文面を省略して、その内容を簡潔に表わすと

ヴォルフガングは、10月9日、一室にとじこめられ、四声のアンティフォナ《クエリーテ・プリムム・レーニュム・デイ (Quaerite primum regnum Dei)》を書かされたが、ふつうの人では3時間でも出来ないのに、モーツァルトは、1時間もかからずこれを完成し、いならぶひとたちをびっくりさせた。 このため、満場一致で、モーツァルトは、ボローニャのアカデーミア・フィラルモニカの会員になることができたのである。 元来、会員資格は満20歳以上のもので、しかもこのアカデーミアで勉強したものに限られていたが、モーツァルトの場合にはそうした慣例をやぶって特別に与えられたわけである。
同書 p.55

というものである。 そして、ここで作られたのが、この曲(K.86)なのである。 モーツァルトが試験に合格した証拠として、当時の理事長ペトロニオ・ランツィによる文書

我がアカデミア・フィラルモニカの声望と偉大さをより増すことと我が会員の知識とその進歩を公然のものとするために、ザルツブルク出身のヴォルフガング・アマデーウス・モーツァルト氏に1770年10月9日付けで当アカデミアのマイスターコンポニストの称号を授与することに致しました。 多くの会員がその才能と業績を永遠に記憶すべくここに本通知に署名し、当会の印を付します。
[ドイッチュ&アイブル] p.99

が残っている。 さらに、マルティーニ師が「様々な様式を持つ音楽作品を完全にマスターしている」と証明する文書も残されているが、ただし、必ずしも試験の結果が最上の出来だったとは言いがたいようである。 アインシュタインによれば

候補者はグレゴリオ聖歌の一曲を受け取るが、モーツァルトの場合には交誦(アンティフォナ)のメロディーであって、彼は一室に閉じこめられて、それに三つの上声部を《厳格な様式で》作曲しなければならなかった。 ところでモーツァルトは完全に失敗した。 レーオポルトがヴォルフガングの課題の立派な解決能力について言いふらした自慢は「ほら」だということが立証されている。 ボローニャのアカデミア・フィラルモニカと音楽高等学校の文庫には、この事件の三通の文書がすべて保存されている。 すなわち閉じこめられた室内でモーツァルトが仕上げたもとの作品、マルティーニ神父の修正、やがて審査員に提出されたこの修正のモーツァルトの写しである。 親切なマルティーニ神父の助力にもかかわらず、評定は良くなかった。 「1時間足らずののちに、モーツァルト氏はその試作を提出したが、それは特別な事情を考慮に入れれば十分なものと判定された。」 これは人情のある寛大な判断であって、のちにモーツァルトの実力によって正当化されることになった本能的な正しさを含んでいる。 アカデミア・フィラルモニカはその名簿のなかに、ヴォルフガング・アマデーウス・モーツァルトの名以上に偉大な会員、高貴な名を誇ることはできないのである。
アインシュタイン] pp.209-210

ということであり、オカールも「ギリギリの入会許可であり、評点は『可』であった」と述べている。 モーツァルトの神童ぶりを強調するあまり、父レオポルトが多少誇張して書き残した「手紙」をもとに、のちに作られた伝記が「熟練した成人でも難しい試験に、14歳の少年がやすやすと合格した」と言われている有名な曲であるが、実際はそうでもないというのである。

提出された曲は(公式の記録にあるように)、彼が「1時間もたたないうちに」書いたものではなく、マルティーニ神父が手を入れた曲なのである。 アカデミアの実力者である神父は、ヴォルフガングの書いた曲が審査員たちにとって、あまりに個性的だと判断したのではないか。 そして結局、審査員たちはマルティーニ神父の訂正したものを見て、ザルツブルクの若き音楽家モーツァルトが、アカデミア会員となる資格が充分にあると考えたのであろう。
[ド・ニ] p.61

 

さらに、マルティーニ神父がモーツァルトの書いたものを修正したのではなく、師自身が作曲したものを「モーツァルトの曲」として提出したのではないかと推測する説すらもあるという。 もしそれが事実だとすれば、マルティーニ師がそこまでする理由(動機)は何であろうか。 敢えて考えれば、レオポルトから何らかの働きかけがあったのではないかと想像できないこともない。 すなわち、想像をたくましくすれば、音楽の本場イタリアでの目覚ましい成果を必要とするあまりレオポルトが裏工作をしたのではないかと考えられなくもないというのである。 ただし確証もなくあれこれ推測するのは差し控えなければならない。

 

アンティフォンまたはアンティフォナとは、合唱を2つに分けて交互に歌うもので、「交唱」または「交誦」と訳されている。 モーツァルトに課せられた試験では、「交誦聖歌集」から第一旋法のアンティフォナ「Quaerite primum regnum Dei.」が採られ、それをバス声部に置いて、厳格な対位法様式による4声部に仕上げるものであったが、14歳の少年が書いたものには「厳格対位法の観点からは、いくつかの規則違反を犯している」という。 もちろん模範解答として用意してあったマルティーニ神父のものには一つも誤りはない。 ド・ニは次のように指摘している。

これと同じ頃に作曲された交響曲ト長調 K.74)や、あの素晴らしいオペラ『ポントの王ミトリダーテ』(K.87)と比較してみると、モーツァルトが書いた曲もマルティーニ神父が訂正した曲も、大して立派なものではない。 この曲は彼が尊敬する神父と、息子をアカデミアの会員にしたくて仕方なかった父親の両方を、同時に満足させなければならないという緊張感のなかで書いた、様式の稽古用の作品といってよかろう。 したがって、どのモーツァルトの伝記でも素晴らしい手柄のように語られているこの曲は、もっと割引いて考えなければならない。
同書 p.61

様々な見方があるが、アカデミア・フィラルモニカの審査基準を満たしたことは確かであり、誇張された話を差し引いた上で、14才の少年モーツァルトに入会を認めても良いだけの実力があったと考えるべきであろう。 しかしこれだけではモーツァルトのイタリア旅行が大成功ではないことをレオポルトはよくわかっていた。 オペラが書けなければ大作曲家と言えないからである。(後略)

 

URL: https://www.marimo.or.jp/~chezy/mozart/op0/k86.html

 

 実際にK86を聴いてみて、そこにはモーツァルトらしさは何もない上、後年のモーツァルトの作曲につながるものも何一つない。そう私も思った。モーツァルトは後年、ヨハン・セバスティアン・バッハの影響を受けて自らの作品に対位法を取り入れるようになるが、大バッハの音楽は対位法と機能和声とを組み合わせたものであって、教会旋法に基づいて厳密なルールの下で作られ、機能和製の要素を持たないイタリアの古い対位法の音楽とは全然違う。

 ただ、K86がモーツァルトが全く寄与していないという推測はさすが違うのではないか、元の答案の出来があまり良くないからマルティーニ師が手を加えたところで「大して立派なものではない」音楽になったのではないかとは思う。これが最初からモーツァルトが何も関わっていないのであれば、レオポルトはただの嘘つきだと言わざるを得ない。

 以上見てきた通り、レオポルトのヴォルフガングへの仕打ちは確かにひどいし、その上ヴォルフガングを実物以上に大きく見せようとし過ぎである。

 しかしその反面、子ども時代のモーツァルトがいろんな国に出かけて各地の音楽を吸収していったメリットが大きかったことも否めない。特にイタリア旅行での収穫は大きかったと思われる。

 それは何もオペラに限ったことではない。私は昔から第25番ト短調K183より前のモーツァルト交響曲が退屈でたまらず、前述の吉田氏の番組のうち、子ども時代のオペラと交響曲の回はたいてい聴かなかった。同様に弦楽四重奏曲もケッヘル100番台はダメだろうと勝手に決めつけて第14〜19番のハイドン・セットとそのあとに書かれた4曲の計10曲しか知らずにいた。しかし、昨年末にイタリア四重奏団が弾いた弦楽四重奏曲全集のCDを買い、第2〜7番のミラノ四重奏曲6曲の瑞々しさに驚かされた。いずれも3楽章構成のこれらの曲は、イタリアで興り始めた弦楽四重奏曲*1の数々に影響されて書かれたと思われるが、それはモーツァルトが父から与えられた課題を黙々とこなしているという印象しか持てなかった子ども時代の交響曲の数々とは全く印象が異なる。しまった、もっと早くこれらの音楽に接しておけば良かったと思ったのだった。子ども時代のモーツァルトにもその後の時代にはない良さがあることに今頃気付いたのは大きな不覚だった。

 ここまでさんざんレオポルトの悪口を書いてきたが、あの時代にヴォルフガングの天才を引き出すにはあのようにやるしかなかったのかもしれない。我が子を猿回しの猿にして「神童ショー」を続けたり、その才能を実際以上に粉飾しようとしたり、あまつさえ陰謀論にかまけたりしたことは許し難いけれども。

 しかし権力(権威主義)や階級などの抑圧の強い社会は特にダメだ。現在の日本では世襲貴族は牛耳ってきた自民党政治の問題点がここにきて噴出している感がある。これなども今後この国に住む人間が徹底的に改めなければならない大きな課題だろう。

 なお今回取り上げた石井宏氏について少し書いておくと、ドイツ至上主義の音楽史観に挑む姿勢が今世紀に入ってからの氏の著作の大きな特徴だが、氏は音楽評論家であって、1980〜90年代にはモーツァルトのCDのライナーノーツを多數書いた人だ。特にピリオド楽器によるモーツァルトのCDに高い確率で解説文を書いている。私は1980年代後半からピリオド楽器によるモーツァルト演奏にずいぶんはまったから、石井氏がライナーノーツを書いたCDを多数持っている。だから石井氏はもともとモーツァルトの時代のドイツ音楽が専門の人だろうと思っている。氏は1930年生まれだが、おそらく60代以降にいわゆる「クラシック音楽」のドイツ至上主義批判に注力するようになったものであろう。確かに西洋の芸術音楽の歴史は、その大前提から疑って再構築しなければならないのではないかとは私も思う。

*1:弦楽四重奏曲の父」と呼ぶべきはハイドンではなくイタリアの作曲家たちであろう。但し私は一時期ハイドンにもずいぶんはまった。少年時代のモーツァルトを圧倒したらしいハイドンの作品20には私も圧倒された。私がiTunesに入れて聴いた弦楽四重奏曲のうち、モーツァルトニ短調K421とともにハイドンヘ短調作品20-5が特に再生の頻度が高かった。そういえば吉田秀和氏の番組の「私の視聴室」の回で、確か1982年か83年に東京クヮルテットによるハイドンの作品20-4と作品20-5が紹介されたと記憶する。それをエアチェックしてよく聴いた。その後はモザイク四重奏団によるハイドンピリオド楽器による演奏のCDをずいぶん集めもした。