押し入れを整理していたら昔テレビ放送を録画したVHSのビデオテープが出てきた。その中の1本に、1991年12月8日にNHK教育テレビ(現Eテレ)の『芸術劇場』が収められていた。この日の番組では、最初の1時間が『モーツァルト・オン・ツアー ウィーン・プラハ もう一つの世界』と銘打ったアンドレ・プレヴィン(1929-2019)の解説と演奏が収められていて、その1時間番組の前半でプレヴィンが『フィガロの結婚』の西洋史における意味合いが解説し、後半でフィガロと並行して書かれたピアノ協奏曲第24番ハ短調K491の全曲を弾き振りする番組が吹き替えと字幕付きで流された。続いて、この日の放送のメインとして『フィガロの結婚』の1991年ザルツブルク・イースター音楽祭公演が3時間20分流された。ミヒャエル・ハンぺの演出で、ハイティンク指揮ベルリン・フィル、トマス・アレン(アルマヴィーヴァ伯爵)、リューバ・カザルノフスカヤ(伯爵夫人)、フェルッチョ・フルラネット(フィガロ)、ドーン・アップショー(スザンナ)らが歌っている。この4時間20分の放送をずっと見ていた記憶がある。放送日はモーツァルト200周忌(1991年12月5日)の3日後で日曜日だった。
しかしプレヴィンが語った解説の内容はすっかり忘れていた。プレヴィンはなんと『フィガロの結婚』が革命的な性格を持っていることを力説していたのだった。革命といっても18世紀末だからむろん共産革命ではなく市民革命であり、『フィガロの結婚』は、その初演の数年後に現実となったフランス革命と同期した音楽だというのがプレヴィンの論旨だ。その意味で、革命勃発後に創作活動のピークを迎え、一度はナポレオンに検定しようとしてそれを破棄したという第3交響曲『エロイカ』を作曲したベートーヴェンの先駆者としてのモーツァルト像をプレヴィンは力説していたといえる。それが1991年のモーツァルト・イヤーに音楽の啓蒙番組で放送されていた。未だに洋菓子的なモーツァルトのイメージから脱却できない日本とは大違いだと改めて思った。日本では2022年の安倍晋三暗殺を機に、ようやく権威主義をめぐる与野党支持者の動揺が起き始めている状態だ。私は日本の現状を、フランスより200年以上遅れてやっとこさ市民革命的な機運が目に見えるようになってきた状態の社会だと認識している。誰だったかが指摘していたが、モーツァルトもベートーヴェンもきわめて政治的な音楽を書いた。前記『モーツァルト・オン・ツアー』からプレヴィンの解説の字幕を以下に文字起こしする。
モーツァルトは客席の貴族たちに力強く宣言しているのです。最後に頂点に立つのは貴族ではなく私たち庶民だと。
モーツァルトを抜きにしてこの時期のウィーンは語れませんが、貴族はわき役に過ぎないのです。
(『モーツァルト・オン・ツアー;ウィーン・プラハ〜もう一つの世界』より、アンドレ・プレヴィンの解説)
プレヴィンは、今でも軍楽隊がブラスバンドへの編曲をよく演奏するというアリア「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」についても下記のように語った。
現代でも軍隊の儀式でよく演奏されるなど、この曲は勇壮な行進曲のようです。しかしその歌詞の意味するところは、軍隊の華やかさや勇壮さは、戦争の恐怖を隠すものに過ぎないということです。
「思想というのは語るよりも歌う方が理解されやすいこともある」と『フィガロ』を聴いたある人は批評しました。
宮廷は『フィガロ』の上演禁止にさまざまな陰謀を張り巡らせました。『フィガロ』のもつ革命的な思想は葬り去られたかに見え、9回の上演のあと、公演は打ち切られました。
しかし3年後の1789年、フランス革命が始まったころには、『フィガロ』は公演も28回を数え、不動のレパートリーになったのです。
初演当初から『フィガロ』はプラハでの上演の招待を受けています。芸術を愛する町、プラハからの招待はこの上ない栄誉でした。プラハの音楽家は、モーツァルトへの尊敬と賞賛を惜しみませんでした。(同前)
これらのプレヴィンの解説は、少し前に弊ブログで紹介した大のモーツァルティアンである高野麻衣氏による下記のモーツァルト評とみごとにシンクロする。
革命前夜の時代の空気をかぎとり《フィガロの結婚》や《ドン・ジョヴァンニ》(=貴族が謝罪・破滅する物語)を描いた先進性だとか、そうした信念のためなら上に歯向かうベートーヴェン並の反骨心だとか、それでも音楽にはエレガンスを貫いたある種のダンディズムだとか、そういう「モーツァルトの素顔」がもっと、広く知られるべきと思っている。
上記アンドレ・プレヴィンや高野麻衣氏らの意見こそ、モーツァルトを深く愛する人たちの認識なのだ。私はこれらを「密教の教義」と言っても過言ではないと思う。「洋菓子」的なモーツァルト観との落差は、あまりにも大きい。
さて、モーツァルトのシリーズ最終回は、レクィエムではなく『魔笛』で締める。
この読書・音楽ブログでは、かつてよく松本清張の作品を取り上げてきた。その清張の晩年の短篇集『草の径』に『魔笛』と劇場支配人兼台本作家のシカネーダーを取り上げた短篇がある。図書館で初めて借りてそれを知った時には驚いた。かつて弊ブログで一度だけ言及したことがある。
kj-books-and-music.hatenablog.com
埋め込みリンクに表示された文章に見る通り、かつて弊ブログは松本清張作品ばかり取り上げていた。記事のタイトルにした「捜査圏外の条件」は、私が清張の短篇中もっとも好む作品であって、兄が妹の仇をとったものの犯行が露呈して終わる倒叙形式のミステリだ。作品のモチーフは戦後1950年代初めの流行歌「上海帰りのリル」であり、この歌を2018年にずいぶん聴き込んだので、おそらくカラオケに行けば(カラオケにはもう15年ほども行ったことがないが)歌えるだろう。これは戦前はやったらしい「上海リル」という歌のアンサーソングで、この「上海リル」のほうも随分聴き込んだ。何人かの歌手が歌っていたが、そのうちの1人は江戸川蘭子という、おそらく江戸川乱歩をもじった(つまりエドガー・アラン・ポーを芸名上の祖父とする)人だった。
その短篇と流行歌を取り上げた記事に下記のように書いた。
清張最晩年に「モーツァルトの伯楽」(1990)という短編があるが、これはモーツァルトの没後200年を翌年に控えて当時プチブームが起きつつあった頃、自らも死を2年後に控えた清張がモーツァルト最後の『魔笛』の台本を書いたエマヌエル・シカネーダーに焦点を当てて彼とモーツァルトとの関係を描いた異色の短編だ。このブログには取り上げなかったが、最晩年の短篇集『草の径』に収録されている。
80歳になってなお好奇心を失わなかった清張に感心したし、先日読んだ清張未完の絶筆『神々の乱心』を読んだ時にも思ったことだが、清張には82歳で死ぬまで頭脳の衰えは全くなかった(目が悪くなり、体調全般も悪化して死期の近いことを感じていたらしいが)。このことにも驚かされる。
URL: https://kj-books-and-music.hatenablog.com/entry/2018/03/30/090512
この「モーツァルトの伯楽」に関する言及をネット検索で調べたところ、下記がヒットした。まずモーツァルティアンの愛好者たちが作った同好会(確か会員をケッヘル番号に合わせた626人に限定していると聞く)の会報で言及されている。
上記リンクのPDFファイルの3ページ目に掲載されている。次の会報にも続きが掲載されているがリンク及び内容の紹介は省略する。
私が今回のネット検索で一番驚いたのは、清張が『魔笛』に興味を持ったのは、何も没後200年の時流に乗ろうとしたからではなく、もっと早い時期だったらしいことだ。下記ブログ記事に紹介されている。ブログ主の浜地道雄氏が2009年にインターネット新聞『JANJAN』に書いた記事をブログに再掲したもののようだ。
以下引用する。
創作ノートに秘かに記されていた『魔笛』をめぐる構想
2009/05/28
今年は、松本清張生誕100年である。北九州市小倉にある松本清張記念館をはじめ、各地でさまざまの行事が行われるようだ。
筆者も清張への思いを元に、NYからムンバイ、イラン、そして日本の飛鳥・正倉院まで、グローバルに駆けめぐるロマンを記した。
【ムンバイ同時テロ】タージ・マハール・ホテル炎上に思う 2008/11/28
主題は「ゾロアスター(拝火)教」だ。
ゾロアスター、すなわち、ニーチェによる「ツァラトゥストラはかく語りき」(Also sprach Zarathustra)だし、リヒャルト・シュトラウスの同名交響詩だし、スタンリー・キューブリックの映画「2001年宇宙の旅」だし、マーラーの「交響曲第3番」(の第4楽章)だ。
そして、忘れてならないのは『魔笛』(モーツァルトの最後のオペラ)だ。そこでは「昼(光)=善」と「夜(闇)=悪」の対立が主題だ。主人公、光の代表者である「ザラストロ」こそ、ゾロアスターに他ならない。しかし、この点、つまり『魔笛』とゾロアスター教の関係を説明した解説書は専門書にも多くはない。
ところがなんと、松本清張が解説をしているのである。
『過ぎゆく日暦(カレンダー)』。何というノスタルジックで心をうつ表題だろう。
参照:『過ぎゆく日暦』 新潮社紹介文はこうだ:
「広大な“清張文学”を支えていたものは、倦(う)むことのない取材と、こまめに記けられた『日記』であった。〈流れ作業〉で解剖が進むニューヨークの死体収容所。文豪・鴎外を始終悩ませた家族の不和。ゾロアスター教の拝火殿を眺望しながら、モーツァルトの『魔笛』を考える旅日記……。何気ないメモと、ふとした雑感が小説の土台に据えられてゆく。創作の臨場感あふれる“清張ノート”。」
「雑記帳」「備忘録」なのだ。ところが、その乱雑に置かれてる記録のひとつひとつが、実に奥の深い記述であり、読む者をとりこにする。
その、(記載順に)昭和56年3月3日(火)、昭和48年4月15日(日)、16日(月)付け「民族学の衰退。イランの拝火神殿跡。モッツアルトの『魔笛』」という項に16ページに亘って記されている。DVD『魔笛』 (上)1976:ゲルト・バーナー指揮、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団・ライプツィヒ歌劇場オペラ合唱団、ザラストロ(ヘルマン・クリスティアン・ポルスター)。1976年収録、DVDは2998年*1ドリームライフから発売。
「どのモーツァルト評伝をみても、『魔笛』論を読んでもそんなこと(=魔笛のテーマがゾロアスター教から採り入れたこと)にはほとんど触れてない。ぜんぶフリーメイソンが主題だと述べている」。さらにいくつかのモーツァルト専門解説書を挙げて、「正面から言及しないのは不思議である」としている。「音楽にはまったく不案内なわたしだが」としながら、いささか自慢気味である。
たしかに、拙稿「題名のない音楽会」から中東問題を探る、で紹介した「ドヴォルザーク」 など、筆者が常々感心してる音楽解説サイトLiberaria Musicにも「フリーメイソンと『魔笛』」は解説されているがゾロアスター教との関係は言及されていない。
以上、筆者も清張にあやかってちょっぴり自慢気味に、ご紹介した次第。
URL: https://hamajimichio.hatenablog.com/entry/2021/09/30/212005
私は2013年秋に突如清張作品にはまった。折良くその頃、光文社があまたの清張作品の中でもあまり有名でない作品も含めて大量に字の大きな文庫本にしてくれたこともあって、清張の全ミステリの7割以上、おそらく約4分の3を読んだ。しかしその後他社が版権を手放さなくなったためか、最近は光文社による文庫化があまり進まなくなっている。そのため残り4分の1ほどの未読作品が残っている。
ミステリ作品でさえそうだから、清張の日記類にはほとんど目を通していない。だから浜地氏が記事中で言及した『過ぎゆく日暦(カレンダー)』(新潮社)もそのタイトルさえ知らなかった。
浜地氏によると、清張は1973年には既に『魔笛』に関心を持っていたようだ。清張が1992年まで生きたことは清張作品とモーツァルトの音楽をともに愛する読者の私たちには幸運だったというほかない。
私はこの記事を書くために『魔笛』について考えている最中に、「そういえばザラストロというのはゾロアスターだったよな」と思ってネット検索をかけたら、少なくない興味深い記事がいくつもヒットしたのだが、どこで最初に「ザラストロ」がゾロアスターのイタリア語読みであることを知ったのかは思い出せない。しかし、読書記録を参照すると2017年に清張の『草の径』を読んでいるので、その時に知った可能性がある。
そういえば最近やっと気づいたのだが、『魔笛』はドイツ語のジングシュピールでありながら登場人物の名前はイタリア語だ*2。ベートーヴェンの『フィデリオ』に至ってはもろイタリアオペラである。これも最近知ったのだが、絶対音楽の王者みたいに思われているベートーヴェンだが、実はオペラや他の舞台音楽への関心が高かったそうだ。彼が大のモーツァルティアンだったことは誰でも知っているが、ロッシーニの才能も高く評価していたという*3。ロッシーニをけなしてベートーヴェンを神格化したのはシューマンもワーグナーも同じだった。ブラームスはシューマンの直系だ。つまり互いに対立していたワーグナー派もブラームス派も政治的には保守派あるいは右派だったといえるわけで、このあたりがモーツァルトやベートーヴェンとは大いに異なるところなのではないかと思う。つまり先駆者たちが持っていた強い反骨精神は、最初から偉大な先駆者たちを持っていた独墺系の後続の作曲家にはいささか欠けていたのではないか。なおベートーヴェンがオペラを1曲しか書かなかったのは、イタリア語が苦手だったことに加えて、オペラにはモーツァルトの名作が多いからではないかと思う。音楽は何もオペラだけではないのだから、勝てないものに張り合う必要などないのである。それなのに、ベートーヴェンに心酔するあまり、「絶対音楽>>オペラや標題音楽」みたいな誤った価値観を作り上げたこと、及びそれへの信奉を強要するところから、ドイツ音楽至上主義的「クラシック音楽」の悪しき権威主義が生じたのではないか。そう思うようになった。
『魔笛』に話を戻すと、この2幕からなるオペラというかジングシュピールの前半(第1幕)と後半(第2幕)とで善役と悪役が交替することは、この歌劇を見たことがある人なら誰でも知っている。私は前述の1991年のモーツァルト没後200年の年にNHK教育テレビで2種類の『魔笛』を見て、そのうちショルティがウィーン・フィルを指揮した1991年ザルツブルク音楽祭での上演はそれを録画したVHSのビデオテープを今も持っているが(その前に前述のプレヴィンの『モーツァルト・オン・ツアー』でピアノ協奏曲第27番を弾いた回が放送され、それも録画した)、その頃に知った。
ここではまず『松岡正剛の千夜千冊』に収められた下記記事の前半を引用する。後半は何度読んでも頭が混乱してなかなか理解できないので引用しない。理解できない文章を引用しても仕方ないからである。
森に迷いこんだ異国の王子タミーノは、夜の女王の娘パミーナの絵姿を見てたちまち激しい恋情を懐(いだ)く。夜の女王はパミーナが邪悪なザラストロの手に奪われていったことを嘆いて、なんとかタミーノに救出を頼む。タミーノは陽気な鳥刺しパパゲーノを連れて、魔法の笛と杖を与えられ、ザラストロの神殿めざして救出に向かう。
御存知、モーツァルトの『魔笛』である。話は意外な展開を見せて、タミーノはザラストロがほんとうは叡知と徳目をもっていて、邪悪なのは夜の女王のほうであることを知る。ザラストロは夜の女王からパミーナを守るために神殿に匿っていた。こうしてタミーノとパミーナは初めて出会うのだが、そこには幾多の試練が待っていた。二人はこれを乗り越えて結ばれ、夜の女王の一党は滅びる。ザラストロの僧たちは光輝の合唱をする。
『魔笛』にさまざまな物語要素が混在していることは、いろいろ指摘されてきた。しかしたとえば、夜の女王がヨーロッパ伝統の魔法使いの形象であること、パパゲーノが『ピーターパン』のティンカーベルなどにつながる妖精であって典型的なトリックスターの意義をあらわしていること、ザラストロがゾロアスターであって、かのニーチェのツァラトゥストラであることなどは、やかましい連中にとっては大事な議論のアイテムだろうが、ここではさておく。
今夜はちょっと別の視点から『魔笛』の話をしながら、本書の意図と限界に入っていきたい。
音楽業界では『魔笛』は同情されてきた。シカネーダーの原作台本は数々の平仄(ひょうそく)があわないものになっていて、モーツァルトがこんなちぐはぐな台本に曲をつけることになったのは大変だったろうというのだ。シカネーダーが途中で台本を変更したために、モーツァルトが半ばまで作曲したものを、一度は最初から、また途中で何度か作り直したこともわかっている。
ところが、この音楽業界の同情とは裏腹に、シカネーダーの「作りそこね」の部分とモーツァルトが加えた物語解釈と変更にこそ、われわれの意識の表象にひそむ重要な深層を浮かび上がらせるヒントがあるのではないかという見方もあった。本書のエーリッヒ・ノイマンもこの立場にたっている。
もともとこの物語の母型には二つのものがある。ひとつは善良な妖精と邪悪な魔法使いという童話的な対比で、もうひとつは主役を振られた男女が苦しみつつも愛を深めていくという母型だ。このばあい、ふつうならば、女王は善良な妖精の代表であり、魔法使いは悪の帝国を支配する。また童話的対比のなかの男女の愛の出来事の進行は、たいていは男の子(男性性)が不幸な女の子(姫)を救うというふうになる。
ところが、おそらくモーツァルトの強い意図か何かの勘によるものだったとおもわれるのだが、『魔笛』においては男女の立場がひっくりかえされて、夜の女王が悪の体現者となり、魔法使いが光の司祭になった。女の子のパミーナは実は幸福にいて、男の子のタミーノが苦悩者だったのだ。因習や誤解にとらわれていたのは男性性だったということになった。男性的人物と女性的人物との対比が逆転したのである。
モーツァルトがそのような意図をもったのは、モーツァルトがしだいに近づく死の意識につきまとわれ、フリーメーソンの秘儀に憧れていたため、こうした逆転によって秘儀の様相を入れこんだというふうに推測されている向きもあるのだが、フリーメーソンの影響がどれほどあったかという問題もここではさておきたい。
むしろ、男性性と女性性が入れ替わることによって、物語の継ぎ目にあらわれたテキストの重層性が立ち上がり、そこに、われわれが注目すべき「父なるもの」(パトリズム)と「母なるもの」(マトリズム)の対立と超越という普遍的課題が、シカネーダーやモーツァルトの作業をこえて立ちあらわれたということを重視したい。(後略)
(『松岡正剛の千夜千冊』第1120夜 エーリッヒ・ノイマン『女性の深層』より)
最後は、以前ピアノ協奏曲第25番の回でも紹介した東賢太郎氏の記事。私が見るに、筆者の東氏はどう考えても保守派の陣営にいるのに、保守派の人とは信じられない思考をされていることにしばしば驚かされる。
以下引用する。
モーツァルトは父の強硬な反対をうけてコンスタンツェとなかなか結婚できなかった。父は手紙でこう諭しました。
愛する息子よ、やめときなさい、おまえの評判にかかわるぞ、私だって何を言われるかわからない、おまえはその女の計略にひっかかってだまされてるんだ、その女の母親はとんでもないワルで有名だぞ、おまえは目先のことにすぐ熱くなる性格なんだ、それを自覚しなさい、その女の家に下宿するなんてとんでもない、すぐにそこを出なさい
父の厳命で仕方なく下宿を出たモーツァルトが引っ越したのは、そこから歩いて3分もかからないアパートでした。こういう経緯があっても彼は父にないしょでコンスタンツェと逢引きをつづけ、ついに無断でシュテファン寺院で結婚式をあげてしまう。それは禁断の苦しみの末にやって来た人生最高の喜びの瞬間だったろう。
魔笛を考えるに重要なのが「後宮からの誘拐」というジングシュピール(ドイツ語歌劇)です。トルコの後宮(ハーレム)に囚われている女性を婚約者が救いだす話です。その女性の役名がコンスタンツェだった。これは偶然かもしれませんが、モーツァルトが母の囚われの身に見えていた本物のコンスタンツェを意識しなかったことはないでしょう。彼はこの曲を結婚式(1782年8月4日)直前の7月16日に初演したのです。ヨゼフ2世ご臨席のもとで。8年後にやってくる逆境に比べなんと順風満帆だったことだろう。思い出のこの曲が、そこで書くことになる魔笛の作曲に無縁でなかったと考えるには意味があります。
「女性の救出劇」というコンセプトといえば、魔笛の第1幕はまさにそれです。後宮ではザラストロのかわりに太守セリムという王がいます。コンスタンツェに愛情を寄せているのですが決して暴力的にコンスタンツェを我が物にしようとはしない、ある意味でありえないほど非現実的な王様で、逃走に失敗してつかまった二人を成敗するどころか帰国まで許すのです。粗暴で好色なトルコ人という当時のウィーン市民の常識とかけはなれた人物として、いわば偶像化されている(歌はまったく歌わない)。
それは「啓蒙君主のアイコン」としての偶像でしょう。マリア・テレジアが亡くなって、息子のヨゼフ2世(左)という正に啓蒙主義的な思想の皇帝が現れた、そればかりか、彼はイタリア物一辺倒だったオペラにドイツ語歌劇という新風を国策として吹き込んだのです。絵にかいたような啓蒙君主の登場です。ウィーンでサラリーマンをやめフリーランスとなったモーツァルトにとって救いの神のようなトップであり、人生初めてつかんだ出世のチャンスで全身全霊のおべっかをもりこんだ作品が「後宮」だったとも考えられます。
ところが、ヨゼフ2世は90年2月に逝去します。ダ・ポンテとの「フィガロ・コンビ」で書いた「コシ・ファン・トゥッテ」初演の1か月後のことです。後任のレオポルト2世(左、右がヨゼフ2世)は兄の啓蒙思想の反動政治を行いますが、注目すべきはダ・ポンテを国外追放したことです。僕はこれまで何度も「フィガロ事件」がモーツァルトの人生に落とした暗い影を書いてきましたが、このコンビはいわばレノン・マッカートニーであって、もし片方が英国王室を侮辱したか何かで国外追放されたりしたら相棒もどんな境遇になったか、想像に難くないでしょう。
90年10月にフランクフルトで行われたレオポルト2世の戴冠式でピアノ協奏曲(第19番と26番)を演奏したり涙ぐましいおべっかと就職活動を駆使したが成果はありませんでした。時はおりしもフランス革命戦争前夜だったことを忘れてはなりません。前年89年にバスティーユ襲撃があり妹のマリー・アントワネットは逃亡の計画を兄に伝えていました。彼女が後ろ手に縛られ肥料運搬車で市中を引き回された末にギロチンで首をはねられたのはその3年後のことです。
フランスの同盟国オーストリアのアンシャン・レジーム側にとって、このような日増しに緊迫、不穏の度を加える空気の中で即位したレオポルト2世がフィガロを書いた危険分子を国外に追放したのは当然であり、残った片割れの楽師の就職活動など目もくれるはずがなかった、いやむしろどうやって潰そうか思案中であってもおかしくなかった。出来なかったのは彼がまだ人気、知名度があったからでしょう。海外に就職はできない。モーツァルトが最後の年1791年にやおらエキサイトして名曲を連発したのはその危機感と無縁でなく、人気こそが彼の命綱だったからでしょう。
革命においてフランス国民議会は「人権宣言」を発表し新憲法を作りましたが、それを採択した400名の議員の内300名以上はフリーメーソンだったことは特筆してもし切れることではありません。モーツァルトはパリに知人がおりフランス革命の動向をよく知っており、自分を袋小路の鼠のように追い込んでいる神聖ローマ帝国アンシャン・レジームの倒壊を密かに願ったとしても不思議ではなく、フリーメーソンを暗示するオペラを大衆に浸透させてヒットさせてしまいたいと考えたのではないか。
このことは彼と同じぐらい反アンシャン・レジームの啓蒙派ながら、まだ旧体制に依存して食っていかねばならなかったベートーベンがフランス革命の寵児ナポレオンの出現に熱狂し、期待を込め、あの巨大にして斬新なエロイカ交響曲を書いてしまった、その衝動とエネルギーの巨大さの実例を見ればさほど見当違いな空想とも言い切れないように思うのです。フィガロより、ドン・ジョバンニより、コシ・ファン・トゥッテより、明らかに支離滅裂な台本にそのどれよりも偉大な音楽を書いたモーツァルト。その台本への共感こそが実はエネルギーの源泉であったと解釈する方が腑に落ちると思います。
魔笛がそういうオペラだったとするならフリーメーソン内部で使う典礼音楽を書くのとは意味が違い、大衆扇動、プロパガンダです。フランスの三色旗につながる自由・平等・博愛の思想を巧妙にポピュリズムにまぶして拡散させようと考えたのではないか。しかしその行為はフィガロに続く第2の「自爆テロ」になりかねない、まことに危険なリスクを内包していることをモーツァルトが知らなかったとは思えません。しかし、袋小路の鼠に残された選択肢は限られていた。だから彼はその真意をオブラートに包もうと考えたはずです。
タミーノは原作では日本の狩りの装束で現れ、夜の女王は天空から登場し、ザラストロはゾロアスター教の始祖名であり、彼が崇めるオシリス-イシス神は古代エジプトの神です。当時誰も日本など知っていたはずもないので遠い異国であればなんでもよかった。古代エジプトが舞台だから登場人物はキリスト教徒ではない。この設定が回教世界(トルコ)の舞台設定である「後宮からの誘拐」と同じです。異教徒世界の寓話だよという偽装なのです。
トルコとは戦争はしたが相手がへばった。それ以来トルコへの憎悪は薄れてコーヒー、行進曲など好ましい異国情緒の対象となり、世論を喚起・説得する手段として「トルコでは・・・」という手が流行したそうです。太守セリムを偶像化し、しかし我が国もそれに匹敵する名君(ヨゼフ2世)を持ったではないかというオペラを書くことがなぜ皇帝への「おべっか」になったか、その意味はそれなのです。魔笛がそのレトリックを使って「古代エジプトでは・・・」と訴えたかったもの、それがメーソンを暗示する啓蒙思想だったと考えます。
ルイ16世とレオポルド2世はモーツァルトには重なって見えており、夜の女王のモデルがマリア・テレジアであったかもしれない。とても危険ですが、その願望を覆い隠すベールとして同じドイツ語オペラで大ヒットした旧作「後宮からの誘拐」の「女性救出ドラマ」というフレームワークはいかにも自然で、大衆に分かりやすいものでした。シカネーダーが書き始めたそれをモーツァルトが乗っ取って、メーソンの最高位で事務総長のイグナーツ・フォン・ボルンらがメーソン教義と儀式の核心部分を構成した。それが第2幕の変転の真相なのではないでしょうか。
(中略)
モーツァルトのフリーメーソン活動が「秘匿されるべき何ものか」を包含していたことは、妻のコンスタンツェと彼女の第2の夫ニッセンによって、そのほとんどの資料や手紙の文面が廃棄、削除されてしまっていることが証明しています。真相を政府に知られることを恐れたのです。夫の死後、コンスタンツェが政府から年金をもらうのに都合が悪かったとされていますが、それだけでなかった可能性は否定できません。
第2幕の大詰めにきてタミーノとパミーナ(メーソンの入信者)は表舞台から消え、自殺アリアからパパパ・・・まで、まったく非メーソン的であるパパゲーノが大変な存在感を持って舞台を独占する。これは第1幕の牧歌的世界と対を成して外郭を形成し、メーソン儀式をアンコとした入れ子構造でメーソンオペラの実体を隠ぺいするためではないでしょうか。筋書きがわけがわからないという我々の幻惑はひょっとして意図、計算された結果も知れません。
第1幕の冒頭で大蛇をやっつけたとウソをついて自慢するパパゲーノはこのオペラで終始一貫して舞台におり、入信儀式の試練の場にも立ち会って、 終始一貫してまぬけで人間くさく、火と水のシーンでいなくなったと思ったら自殺シーンですべて独占する。彼はメーソン臭さの中和剤であり、ほのぼの笑いを取る八つぁん熊さんであり、メーソンの殺気に光る刃を隠してしまう巧妙に配され、効果を計算され尽くした道化なのです。しかしその設計図の中で、モーツァルトの愛情がふんだんに盛り込まれた文字通りの主役になっている。オペラが終わるとハッピーにしてくれたのはパパゲーノだという印象になり、実はメーソンの教義が頭にこっそり刷りこまれたことは気づかないのです。
魔笛にフリーメーソンの影響があると主張する人はたくさんいますが、そんな程度ではない、これがモーツァルトを含むウィーンのメーソン幹部による革命陽動オペラなのだというのが僕の見方です。
「これがモーツァルトを含むウィーンのメーソン幹部による革命陽動オペラなのだ」とまで書かれてしまうと、さすがにそれは(陰謀)仮説であってエビデンスがないというしかない。東氏のこの説を無批判で受け入れてしまうと、それこそ「とおりすがり」なるコメンテーター氏が突然弊ブログに(すぐに撤回したとはいえ)一度は投げかけてきた「逆陰謀論」と言われても仕方ないかもしれない*4。しかし、前記プレヴィンの『フィガロの結婚』評や高野麻衣氏による「《フィガロの結婚》や《ドン・ジョヴァンニ》(=貴族が謝罪・破滅する物語)を描いた先進性」とのモーツァルト評を思い起こせば、必ずしも「荒唐無稽の陰謀論」として片付けられないものがあるように思う。
特に、上記引用文中で赤字ボールドにした「夜の女王のモデルがマリア・テレジアであったかもしれない」との指摘は、引用は省略するが(というよりリンクを記録しておかなかったのでたどれなくなっているのだが)他の方も唱えていた仮説だ。マリア・テレジアは1780年に死んだから、この女帝の死後かなり経ってからようやくモーツァルトは宮廷楽師になることができた。マリア・テレジアは最初の謁見では神童モーツァルトを絶賛したものの、のちには「乞食」扱いしてモーツァルトを雇い入れようとしたミラノの宮廷に反対した。そのせいでモーツァルトはなかなか就職できなかったのだった。その経緯を思えば、最初は慈愛に満ちた人のように見えた女帝が、実は自らの就職を妨害し続けた「人生の障害物」だったことをモーツァルトが知っていたとは全く思えないけれども、音楽、というより彼の書いた歌劇がそれを暗示しているようにも解釈できるところがなかなか興味深い。なかなか言語化できない音楽という手段でモーツァルトは真実を把握していたといえるかもしれない。
ヨーゼフ2世のモーツァルト観も当初「彼はクラヴィーア奏者で、オペラは1曲しか書いていないではないか」程度のものだったらしいが、演劇としては上演を禁じていた『フィガロの結婚』の楽譜を見て、毒を薄めたから大丈夫とのダ・ポンテのアピールもあったとはいえ『フィガロ』の上演を認めたというのだから音楽に関するセンスは相当のものだった。
しかし、ザルツブルクの大司教・コロレドも同様だったに違いないが、宮廷や教会といった権力が音楽を含む芸術に浪費できる時代は去りつつあった。だからザルツブルク大司教のコロレドはミサ曲も簡略化させたしモーツァルトが本当にやりたかったオペラの作曲もさせなかった。またレオポルト2世は(毒を薄めたとはいえ)不穏なオペラの台本を書いたダ・ポンテの首を切り*5、モーツァルトも、サリエリさえも干した。このあたりは、2010年代に大阪市で文楽を迫害した橋下徹や大阪維新の会を思い出させる(私は橋下も維新も大嫌いである)。この陰険な人物が在位わずか2年で死んだことはサリエリにとっては不幸中の幸いだったに違いないが、とはいえサリエリの晩年が安らかだったとは全くいえなかったことは周知の通り。
モーツァルトはおそらく1791年に何らかの病気にかかって死んだのだろうが、その死はあまりにも早すぎた。彼がもう少し生きていたならフランス革命をどう思ったかはわからないが、おそらくは2019年に亡くなったアンドレ・プレヴィンが想像したであろう通りの態度を示したのではないか。ただ、それが音楽に影響したかというとそうはならなかったのではないかと私は想像している。
今回の記事も思いっきり長くなったが、モーツァルトのシリーズはこれでひとまず終わりにします。
*3:むしろ同国人のサリエリの方がロッシーニを嫌っていた。サリエリはモーツァルトの死の翌年に生まれたロッシーニに面と向かって「あなたがモーツァルトを毒殺したという話は本当ですか」と聞かれたことがあるらしいから、サリエリがロッシーニを激しく嫌った気持ちはよくわかるけれども。
*4:こちらが氏の撤回にもかかわらず「因襲」との言葉を用いて反撃したことが氏には心外だったようだが、せめてブロガーには一般に歓迎されない「とおりすがり」というHNではなく、identificationが容易なHNを用いて、どのような点を「逆陰謀論」と思ったのかを明記すべきだろう(想像はつくけれども)。コメント主がそれを怠っていたから、こちらは意識的に過剰反応したのである(笑)。最初と2回目のあのコメントでは、ブログ主と対話する気など最初からなかったというほかない。
*5:但し、ダ・ポンテの馘首をサリエリの讒言のせいにしてダ・ポンテにサリエリを恨ませた卑劣さにはどうにも感心しないし、それを信じたらしいダ・ポンテも愚かとしか言いようがないと思うが。