小澤征爾が亡くなった。
私は小澤の音楽との相性が必ずしも良くなくて、ブログに名前を出したこともほとんどないし、CDも数えるほどしか持っていない。Macのミュージックに入れたのもチャイコフスキーの『白鳥の湖』全曲盤とチェロのムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(1927-2007)と組んだショスタコーヴィチやプロコフィエフ、グラズノフらを入れた2種類のCDくらいのものだ。後者は1枚がショスタコのチェロ協奏曲第1番とプロコフィエフの交響的協奏曲をカップリングしたCDで、もう1枚がショスタコの協奏曲第2番とグラズノフの「吟遊詩人の歌」、それにチャイコフスキーの「アンダンテ・カンタービレ」、これはもとは弦楽四重奏曲の第2楽章だったのをチェロと管弦楽のための編曲したバージョンが収められたCDだ。前者のエラート盤の方が録音が新しく、といっても1987年の録音だが、1988年末に買って1989年の初め頃にかけてよく聴いていた。前の前の元号が終わる直前、つまりあの元号で区切られた時期の最後に聴いたのがこのCDの後半に収められたショスタコーヴィチだった*1。志位和夫*2さんおめでとう(笑)。それから第2番の方は1977年の録音だが、ドイツ・グラモフォンの輸入盤(廉価盤のシリーズに収められていた)を買った。ネットで検索したらグラズノフの曲を途中までアップロードしたTouTubeがあったので以下にリンクする。小澤よりもロストロポーヴィチを聴く演奏ではあるが。
小澤征爾は彼が指揮する音楽よりも武満徹(1930-2006)、大江健三郎(1935-2023)、村上春樹(1949-)と対談した本がとても面白かった。ただ、大江も村上も私が長年苦手としていた小説家だ。村上春樹は2012年頃から少しずつ読むようになって今では彼の長編を半分以上読んだが、大江は昨年亡くなったあとにやっとこさ『万延元年のフットボール』(1967)を読んで感心し、これからもっと読まなきゃと思っている。武満徹は結構好きでCDも何枚か(たしか10枚近く)持っているが、どういうわけか泉健太支持者のnaoko氏が「ヘビロテ」していたという小澤指揮サイトウキネンオーケストラによる「ノヴェンバー・ステップス」その他を収録したCDは持っているものの苦手で、Macのミュージックにも入れていない。もしかしたら今聴き直したら新しい発見があるのかもしれないが。
小澤さん亡くなった。
— naoko (@konahiyo) 2024年2月9日
"November Steps" をヘビロテした時期もあった。
遠いむかし。懐かしい。https://t.co/bVQxchzwaO
ああ、あと2002年のニューイヤーコンサートからとったソニーのCDも持っている。ニューイヤーコンサートは今年は能登の地震のためにNHKの番組が流れたが、例年惰性で視聴している。でもあれは基本的にウィーン市民のためのコンサートであって、他国の人間が気晴らしで視聴するくらいは構わないけれどもあんなものを権威として崇め奉る必要なんか全くあるまい。少なくとも私の趣味には全く反する。だから小澤の指揮に限らず、ヨハン・シュトラウスのワルツやポルカを聴きたいなんてそうそう思わないからミュージックにも取り込んでいない。一時期あの会場にもずいぶん日本人とおぼしき人たちが目立ったが、そのせいでチケットが取りにくくなるウィーンの人たちが気の毒だといつも思っていた。
しかし小澤の言葉や感性は面白い。思考や感性が違うために、意外性があって非常に面白いのである。また小澤と話が通じた武満徹、大江健三郎、村上春樹の3人にも感心した。以下に私が持っている3冊の小澤の対談本の出版社のサイトをリンクする。
これは単行本初出が1981年で新潮文庫入りしたのが1984年。私は2001年*3発行の第9刷を持っている。若い頃の小澤や武満の写真がたくさん載っているし、文庫本の巻末には細野晴臣の解説文が載っている。そうそう、この対談が行われた頃に小澤が指揮するベートーヴェンの第9を日比谷公会堂に聴きに行ったことがある。それから1978年に小澤が中国に行ってブラームスの2番を中国のオーケストラ団員に教えた話が出てくるのも懐かしい。確かTBSで番組をやっていた。中国で毛沢東の虎の意を借りて手下の「四人組」とともに恐怖政治を敷いていた江青は、西洋音楽を禁じたばかりか中国の音楽も政治的宣伝に資するもの以外はすべて禁じたとのことで、毛沢東が死ぬ直前の1976年4月5日に江青らが引き起こした弾圧事件を当時は「天安門事件」と呼んでいたが*4、小澤はそれに言及している。このあたり、ヒトラーやスターリンに並び称されるべき極限の権威主義の弊害がいかに悲惨だったかを改めて思わせる。
こちらは2000年に行われた対談、単行本初出が2001年、中公文庫入りが2004年で、私は2012年発行の文庫本第3刷を持っている。私が過去に更新していた、現在では放置状態にあるブログの記事でこの本に言及したことがある(下記リンク)。2013年11月25日の公開。
最後は小澤と村上春樹との対談本。
この本については『kojitakenの日記』で取り上げたことがある(下記リンク)。2014年8月3日の公開。
最後に、小澤を長く取材してきたという朝日新聞の吉田純子編集委員が書いた朝日新聞デジタルの有料記事のプレゼントを以下にリンクする。
URLの有効期限は2月11日の9時46分とのこと。それ以降は有料部分は読めないので、以下に無料部分を引用する。
少女の死に涙した小澤征爾さん 幸福と孤独を抱えたパイオニアの素顔
世界的指揮者の小澤征爾さんが88歳で死去しました。長く取材してきた吉田純子編集委員が、その素顔を振り返ります。
小澤さんはとても涙もろいマエストロだった。小澤さんの涙をいったい何度見たことだろう。うれしいときも、悲しいときも、悔しいときも、感情をあらわす言葉をまだ持たぬ子どもさながらに、すぐに大きな目いっぱいに涙をためた。
その感情の振れ幅の大きさと深さこそが、小澤さんの音楽の本質とシンプルに連なっていることは言うまでもない。
とりわけ、生涯の盟友だった山本直純について語りはじめると、たちまちのうちに目が充血した。2002年に山本が亡くなったあとも、必死の形相で涙をこらえながら記者にまくしたてたことがあった。
「きみたちは、ナオズミがどれほど天才だったのか本当にわかってるの? あの『大きいことはいいことだ』って、気球の上から100人くらいの合唱を指揮してるコマーシャル(森永エールチョコレート)、あの大振り、あれはただのラジオ体操じゃないんだ。あの大きな振り幅で、しっかり打点をおさえ、大勢の人を束ねるのって、実はすごいことなんだよ。少なくとも僕にはあんなことできないよ」
あの時の涙は、単なる悲しみではなく、真実の才能が商業主義の世界に消費されてゆく時代への悔しさ、憤りの涙だったように、今となっては感じられてならない。
楽屋を訪ねてきた若い夫婦
2000年の夏、長野県松本市で開かれていたサイトウ・キネン・フェスティバル松本(現セイジ・オザワ松本フェスティバル)で楽屋でインタビューをしていた時にも、思いがけなく小澤さんの涙を見た。
トン、トンと扉がノックされ…(以下有料)
(朝日新聞デジタルより)
URL: https://www.asahi.com/articles/ASS296D21S29ULZU005.html
山本直純が司会を務めていたTBSの『オーケストラがやって来た』(1972〜1983)はよく見ていた。関西だったので最初は6チャンネルの朝日放送だったのが1977年4月から4チャンネルの毎日放送に代わったはずだが、4チャンネルになった頃にはもう見なくなっていた。日本船舶振興会のコマーシャルで山本が笹川良一のお先棒を文字通り「担いだ」のを見て以来、山本を嫌うようになっていたからだ。山本は、笹川の先棒担ぎが災いしたか、その後「交通違反スキャンダル」などを犯して世間のイメージも悪くなり、没落していった。以下Wikipediaより。
口ひげと黒縁メガネがトレードマークとして知られ、その自由奔放なキャラクターから、タレントとしての一面も備えていた。森永製菓「エールチョコレート」のCMソング『大きいことはいいことだ』、日本船舶振興会(当時)の『火の用心の歌』を手がけた際には、自らCMに出演したほか、NHKや民放の音楽番組やバラエティ番組にもゲストとして度々出演した。
音楽関係者の間では「日本の音楽普及に最も貢献したひとり」として高く評価されている。だが一方で、生前は周囲とのトラブルや、1978年8月6日に起こした交通違反スキャンダル[注 2]などでのマイナスイメージもあり、生前はその多大な功績に比して世間から必ずしも高い評価を得られない一面もあった。晩年はアマチュアオーケストラのジュニア・フィルハーモニック・オーケストラの指導にも特に力を注いだ。岩城宏之とは無二の親友であった。1999年には、妻の心臓発作を機にキリスト教(カトリック)に入信している。洗礼名はフランシスコといった。こどもさんびか改訂版に「せかいのこどもは」(作曲)を残している。
1998年に鹿児島県南種子町で開催された「トンミーフェスティバル」において作曲を手がけたことが縁となり、楽譜をはじめとした資料、楽器、生活家具などが同町へ寄贈され、南種子町郷土館内に「山本直純音楽記念室」が開設された[1]。
2002年6月18日、急性心不全のため死去。享年69歳。墓所は品川区高福院。
私は「大きいことはいいことだ」というコマーシャルも嫌いだった。そして山本が著書で大々的に推していたブラームスの第1交響曲が、私にとっては好きな曲が多いこの作曲家の作品の中では例外的に「全く合わない」作品だった(それは今も同じで、昔ほどではないが相変わらずこの曲が相当に苦手だ)。このように、音楽には合う合わないの要素が強い。何のせいでそうなっているのかは全くわからないが、こればかりはどうしようもない。
朝日の吉田記者が書いた記事の有料部分に少し触れておくと、前記ロストロポーヴィチに加えて、ピアニストのマルタ・アルゲリッチにも小澤は信頼されていたと書かれている。確かにアルゲリッチと小澤との共演は良かった印象がある。CDにはなっていないと思うが、ショパンの協奏曲第2番は良かった。もっともあの曲はオーケストレーションがかなり貧弱だと言われることが多い。
それから吉田記者も書く通り、小澤でもっとも定評のあるのはフランス音楽だった。実は私はベルリオーズがかなり苦手で、気に入ったのは『幻想交響曲』と『ファウストの劫罰』くらいのものだったが、近年、というか20年ほど前から日本のクラシック音楽受容における「ドイツ音楽帝国主義」に抵抗を感じるようになっていた(だからこそ、かつてあれほど聴いたモーツァルトからもつい昨年秋までは疎遠になるに至っていたのだった)。それにもかかわらず、いわゆる印象派のドビュッシーやラヴェルには昔から親しんでいたが、それ以前のフランス音楽には、フォーレの音楽やフランクのヴァイオリンソナタなどの例外はあるものの、あまり親しんでこなかった。
昨年、大江健三郎の死を契機に大江の小説を読もうと思ったのと同じように、小澤征爾の死をきっかけに小澤が指揮したフランス音楽を聴いてみようかと思った。