KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

森本恭正『日本のクラシック音楽は歪んでいる』(光文社新書,2024) の「調性音楽は階級を体現している」という主張には無理がある。また、専門家とは思えない教会旋法の説明のいい加減さに呆れた。

 最初に読み終えたミステリについて少しだけ書いておく。

 アガサ・クリスティのポワロものの31番目の長篇『ハロウィーン・パーティ』を、昨年新訳版が出たハヤカワ・クリスティー文庫で読んだ。旧版は中村能三(1903-1981)訳だったが、山本やよい氏(1947-)の訳に差し替えられた。

 

www.hayakawa-online.co.jp

 

 埋め込みリンクの画像でご覧いただける通り、ケネス・ブラナー監督・主演の映画が日本で公開されたタイミングに合わせて新訳版が出たもののようだ。図書館に置かれるまでは数か月かかるかなと思っていたが、先日区内の図書館に置いてあったので借りて読んだ。

 これはクリスティ79歳の1969年の作。ポワロ(クリスティ文庫での表記は「ポアロ」)ものの最終作『カーテン』は発表こそクリスティの死の前年の1975年だが書かれたのは1943年なので(ミス・マープルもの最終作の『スリーピング・マーダー』も同様)、クリスティのミステリをほぼ成立順に読むことにしている私は既に2021年の暮れに、クリスティのミステリとしては42番目に読んだ。その後は読むペースが落ちてきたがミステリに関しては終わりが見えた。ただ、順序としてはミステリ及び冒険ものの事実上の最終作『運命の裏木戸』(1973)を読む前にクリスティがメアリ・ウェストマコット名義で書いた恋愛小説6冊を先に読もうかと思っている。とりあえず、ミステリ及び冒険ものは『運命の裏木戸』を含めて、かつ戯曲を除いてあと5冊になった。

 今回読んだ『ハロウィーン・パーティ』はヒントがわかり易いというよりもかなり露骨なので、「…ということはこの人が犯人なのかな」とピンとくるが、クリスティは例によってその後でミスリーディングの技を繰り出してくる。でもあまり深く考えずに読んだらやっぱり、という読後感。でも終盤に緊張感を高める技術は相変わらず巧みで、その点だけをとってみれば、やたらと多重どんでん返しに凝りまくっていた初期の作品よりむしろ良いかもしれない。しかしやはり衰えは隠せないとも思わせた。

 次に取り上げるのは先月読んだクラシック音楽批判本だが、立ち読みしてあまりにも感心できない箇所があったのであえて買って読んだ。森本恭正(1953-)というクラシック音楽の本場オーストリアで活躍する作曲家・指揮者の人が書いた『日本のクラシック音楽は歪んでいる』という本だ。初版は2024年1月30日発行となっているが、これは通例により実際の発売日よりかなり遅い日付であり、読書記録を見ると1月16日から17日にかけて読んでいた。

 

www.kobunsha.com

 

 埋め込みリンクに光文社の紹介文が表示されないので、以下に引用する。

 

本書における批判の眼目は、日本における西洋音楽の導入において、いかに我々は間違ってそれらを受け入れ、その上その間違いに誰も気がつかず、あるいは気がついた者がいたとしても訂正せず、しかも現在まで間違い続けてきたか、という点である。
(「批評1 日本のクラシック音楽受容の躓き」より)
明治期に導入された西洋音楽。だが、その釦は最初から掛け違っていた。そして日本のクラシック音楽は、掛け違った釦のまま「権威」という衣を纏い、今日へと至る。作曲家・指揮者として活躍する著者が、二十年を超える思考の上に辿り着いて示す、西洋音楽の本質。

 

目次

批判1 日本のクラシック音楽受容の躓き
批判2 西洋音楽と日本音楽の隔たり
批判3 邦楽のルーツ
批判4 なぜ行進は左足から始まるのか
批判5 西洋音楽と暴力
批判6 バロック音楽が変えたもの
批判7 誰もが吉田秀和を讃えている
批判8 楽譜から見落とされる音
批判9 歌の翼
批判10 音楽を運ぶ
批判11 現代日本の音楽状況
批判12 創(キズ)を造る行為

 

URL: https://www.kobunsha.com/shelf/book/isbn/9784334101961

 

 著者は政治思想的には左寄りの人のようだが、主張は権威主義批判のトーンが強く、旧ソ連などには非常に批判的だ。上記引用文中に

日本のクラシック音楽は、掛け違った釦のまま「権威」という衣を纏い、今日へと至る。

と書かれていることに示されている通りだ。

 だが、それにもかかわらず批判しないわけにはいかない理由の一つとして、54頁で言及され、75〜80頁に長大な注釈がつけられている「教会旋法」の説明が実にいい加減であることを挙げたい。

 註の冒頭には「この注2では、段落を追うごとに解説が詳細かつ専門的になるので、随時中断して本文に戻っていただいて結構です」などと書かれているが、その専門的なはずの内容がいい加減なのである。読者が素人だと思って高を括って適当なことを書き飛ばしたものに違いない。

 カバーの裏表紙を見ると、著者は「ヴィトルト・ルトスワフスキ国際作曲コンクール審査官」を務める一方、「指揮者としてはオペラを含むバロックから現代までの作品を指揮。」と書かれているから、現代音楽の作曲家としてはそれなりに名が通っていると同時に、バロック音楽以降の西洋クラシック音楽の専門家であることは疑いないと思われる。だからこそこの光文社新書のいい加減極まりない執筆態度に腹が立つのだ。

 著者は「調性音楽は階級を体現している」と書く。一例を以下に引用する。ここで著者は旧ソ連を批判している。

 

 平等を謳ったはずの国家がなぜ、音を平等に扱おうとした(=12音技法を使おうとした=引用者註)作曲家を支援しないどころか、粛清までしたのか、それは言うまでもなく、ソヴィエト連邦が、スターリンを筆頭とする独裁国家でしかなかった、という証である。皮肉にも、階級闘争の果てに生まれた似非社会主義国家では、階級性を体現する調性音楽こそが、為政者にとって、その地位を保守するために必要な音楽だったというわけだ。(本書137頁)

 

 こんなことを書く以上、著者が作る現代音楽は調性を用いない音楽なのだろう。もちろん現代においては調性を用いない音楽などごく当たり前である。

 だが、それならなぜ著者は「オペラを含むバロックから現代までの作品」、それらは現代のごく一部の音楽を除いて調性音楽が大部分だと思うが、それらを指揮するのだろうか。

 もちろん調性音楽はクラシックに限らない。現在は世界中の音楽が調性音楽に席巻されているので、著者が書く通り、「今日でも世界の音楽界を支配しているのは、まるで、現代の階級社会そのままを体現しているかのような、調性音楽なのだ」(本書138頁)。著者は「もしかしたら、資本主義を押し広め、市場を開拓するには、戦争をするより、モーツァルトからロックに至るまでの〈階級性〉に満ちた調性音楽が、最も有用な手段だったのではないだろうか。これなら人を殺さなくて済む」(同146頁) とも書くが、ここで引用した著者の考え自体は、私も仮説として考えた時期が長かったので、こんな文章を書きたくなる気持ちはよくわかる。

 第7章には吉田秀和批判が書かれているが、吉田が戦争中に何をやっていたかについてを黒歴史にしてしまっているという著者の批判については、私も吉田が亡くなった2012年に同様のことをブログに書いた記憶がある。そして著者と同様に、吉田が書いたの楽曲分析にしばしば「これはこじつけではないか」と思ったことは、正直に書くと私にも何度もある。吉田を「印象批評が許された最後の人」ともしばしば評した。

 しかし、それにもかかわらず最近の私は、やはり吉田秀和は認めるほかないと思うようになった。以前にモーツァルトの音楽に陶酔する犬がいた(もう故人ならぬ故犬だが)という話を弊ブログに書いた。あるいは、ベートーヴェンのクロイツェルソナタを介して彼の心境が直接トルストイに伝わったとトルストイは感じたという話も書いた。音楽には言語化できない要素が多く、そこから言葉を引き出してくる点において、どうしても敵わないと思う人が私には何人かいる。その一人が吉田秀和で、他には村上春樹やこの間亡くなった小澤征爾、それに1996年に相次いで亡くなった武満徹柴田南雄らがその範疇に入る。村上、小澤、武満の3人については、武満と小澤、小澤と村上の対談本を読んでそう思った。柴田については、昔彼が書いた単行本に書かれていたシェーンベルクショスタコーヴィチに関する文章を読んで思った。なお柴田の一族には理系の学者が多い。音楽には理系の要素もかなり強い。

 しかし、階級云々の文系的な話について少し書いておくと、この間、吉田秀和が1950年に書いた『音楽家の世界 - クラシックへの招待』(河出文庫版, 2023)に下記の文章を見つけて笑ってしまった。以下引用する。

 

www.kawade.co.jp

 

バッハのところでもいったように、トニカ(主音)とかドミナント(属音)とかいうのは、その音の階級(価値の体系)を指す言葉で、とくにこの二つの関係が音楽を作る骨子なのである(河出文庫版187頁)。

 

 何のことはない、調性音楽の階級性については森本が嫌う吉田秀和も指摘していたのだった。しかも1950年に。しかし、手元にある柴田南雄音楽史と音楽論』(岩波現代文庫, 2014;初出は放送大学教育振興会1988)には以下のように書かれている*1

 

www.iwanami.co.jp

 

 また、1430年代が和声法の上でT(トニック、中心音)、D(ドミナント、中心音の完全5度上。完全5度は振動比2対3)、S(サブドミナント、中心音の5度下=4度上。完全4度は3対4)の3種の機能が確立した年代であることは、デュファイのミサ曲の和音構成、TDSの頻度を一時代前のアルス・ノヴァのギヨーム・ド・マショーのそれと比較すれば明瞭である。(岩波現代文庫版128頁)

 

 それなら、機能和声が発明される前の「階級がない」(?) 音楽が階級などなかった平和な時代を反映していたかというと、そんなことは絶対にない。古代から奴隷制があった。

 そう考えると、調性音楽のトニカ、ドミナントの構造と人間社会の階級構造とをリンクさせる論法にはさすがに無理があるのではないかと思わずにはいられない。前者には自然科学のファクターも大きいと思われる。

 もちろん、機能和声の束縛から自らを解放したいという欲求は私にもあり、昨年亡くなった坂本龍一も同じようなことを言っていたが、それと階級社会とはまた別の話だろう。

 

 ところで、森本恭正が書いた教会旋法の説明について、具体的にどこがどういい加減なのかについてはここまで一言も書いてこなかった。これはきっちり論証しようと思ったら結構骨が折れる作業なのだ。だが、ブログに記事を書くためにかけたネット検索で、下記サイトを知った。

 

 上記リンクのサイトに、教会旋法の説明や6世紀に書かれたボエティウスの『音楽教程』の解説が載っている。後者は、昨年秋に講談社現代文庫から「本邦初訳」が発売されたので、酔狂にも買ってしまった。

 

bookclub.kodansha.co.jp

 

 しかし、結構読みづらそうなので、買う前から予想はしていたものの「積ん読」状態になっている。そこに前記「まうかめ堂」のサイト中の下記の文章が目を引いた。

 

ここからのページでは中世音楽を語る上で避けては通れない書物,ボエティウス Boethius (480-524年)の『音楽教程 De institutione musica』(510年前後)を取り上げたいと思います. この書物は中世を通じて音楽を学ぶ全ての者にとって最も権威ある教科書として,いわば音楽家 musicus になるための必読書として読まれた書物で,音楽に関わるすべての者が持つべき音楽上の基礎知識を与え,中世の音楽的思考の基盤となる書物と言ってよいものです. ただこの書は難解な書物としても知られ,原文は6世紀のローマ人の手によるラテン語ということで,なかなか門外漢には手の出しにくいものでした.

 

ところが,大変ありがたいことに最近この書物の伊藤友計さんによる邦訳が出版され,日本人にとってのこの書物へのアクセスのハードルは一気に下がりました.

 

とはいうものの,日本語で読めるようになったからと言って,この本の内容的なある種の「難解さ」が減るわけではありません. 何しろ1500年前の書物ですから,物事の捉え方や表現の仕方が現代とは大きくかけ離れています.

 

そこでここからのページでは,この本の解説というよりは(それは私の手にあまります),内容をきちんと理解するための覚書といったものを提示したいと考えています. 特に第二,三巻でなされる数比に関するやや踏み込んだ数学的な議論について, それらは内容的には高校レベルまで(たかだか数学I程度)ではあるのですが,記述・論述の仕方が現代とは大きく異なるため理解が困難になりそうなところが多く見られます. そういった部分を現代人により理解しやすい形に,「その箇所には要するに何が書いてあるのか」がわかるようなものを目指したいと思います. 一応これだけを読んでも原著の大まかな内容はフォローできるようにしたいと思いますが,原著を読みつつ適宜こちらを参照してもらった方が意味があるんじゃないかと思います.

 

URL: https://maucamedus.net/boethius/index.html

 

 これはありがたい。もっと暇になったらチャレンジしてみたいと思った。

 ここまで、森本の教会旋法に関する注釈がいい加減であることの根拠は示してこなかった。実はこれを論証するのは結構骨が折れるのだ。しかし、前記「まうかめ堂」の教会旋法の項にある下記の批判に当てはまっていることを発見したので、今回はそれだけを指摘しておく。

 まず森本の本の注釈を引用する。

 

実際に、キーボードの白鍵をたどって音を確認された方はお気づきかもしれないが、長音階はヒポリディアと、短音階はヒポドリアと全く同じになる。だから、1600年の少し前あたりから、ヨーロッパの音楽が、このヒポリディア(長調)とヒポドリア(短調)に収斂されていったのだ。(77頁)

 

 これに対し、「まうかめ堂」は下記のように書いている。

 

「全ての旋法が長調短調の二つの種類の音階に解消してしまうまで」なんてことは何重にも正しくないので不用意に言わないほうが良いでしょうね…。

URL: https://maucamedus.net/solmization/modus01.html

 

 森本の本では、絶対音感相対音感について書いた文章も疑問だ。いや、以下の疑問を持つのはもしかした私だけで、森本が書いていることの方が正しいのかもしれないが。以下引用する。

 

 ある調査によると、日本の音楽大学ピアノ科の学生のほとんどが絶対音感の持ち主だという。それはよい。では同じピアノ科で相対音感の持ち主はというと、約一割しかいなかったという。(213頁)

 

 私は相対音感は小学校1年性の頃には既にあった。ヤマハ音楽教室で聴音をやったら、わかったのは私だけで、クラスの他の児童は誰もわからなかったという経験がある。しかし小学生の頃には当時は絶対音感はなかった。絶対音感が身についたのは、クラシック音楽を聴くようになったあとの中学生時代で、それも聴き始めてから1年経つか経たないかの頃だった。家にピアノがあって妹が習っていたので、そのピアノを我流で弾いて音にしていた(だから間違っても「ピアノが弾ける」域には達していない)ために絶対音感が身についたのかもしれない*2。訓練などは何もしてない。私の絶対音感は、最初、あれっ、この曲って何調なんじゃないかとふと気づいたところから始まった。最初の頃は半音の違いはわからず、たとえば当時よく聴いていたモーツァルト交響曲第40番の第4楽章展開部のクライマックスが主調のト短調から一番遠い嬰ハ短調だということまではわからず、ニ短調に聞こえた。あの展開部は、5度上へ5度上への転調があまりにも矢継ぎ早なので相対音感も追いつかなかったのだった。そのさらに1年後くらいには絶対音感の精度が上がって、やっと絶対音感が身についたと自覚することができた。それが中学校3年生の頃だ。だから、よく言われる何歳までに絶対音感を身につけなければ一生ダメだというのは俗説の嘘だと信じて疑わなかったのだが、もしかしたら相対音感がない人でも絶対音感を身につけることも可能で、それができるのが7歳くらいまでなのかもしれない。それは本書を読んで初めて思ったことだ。それまでは、つまり今年初め頃までは相対音感のない絶対音感などあり得ないと思っていた。

 それで思うのだが、相対音感なしの絶対音感の持ち主がピアノ科の大多数を占めるという話が本当なら、それは決して望ましいあり方ではないのではなかろうか。そうであれば『日本のクラシック音楽は歪んでいる』という森本の本のタイトルにも多少の理はあるのかもしれない。

*1:引用に際し、漢数字を算用数字に改めた。

*2:最近、吉田秀和の番組を40年以上ぶりに再び聴いて、ああ、吉田氏にも絶対音感があったんだろうなと思った。それはモーツァルト交響曲第32番をクリストファー・ホグウッド古楽アンサンブルを指揮したレコードをかけた時、ピッチが低いけれどもとても面白いですよと言っていたことで気づいた。吉田氏もピアノを弾けるレベルには達していないけれどもK333のソナタなどをよく音にしていたというから私と同じようなプロセスで絶対音感を持つに至ったのではないかと想像している。