KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

岡田暁生『音楽の危機 - 《第九》が歌えなくなった日』を読む 〜 ベートーヴェン「第9」が孕む「排除」と「疎外」を克服できる日は来るか

 3月はあと3日を残しているが、今日まで本を10冊読んだ(但し、数はミステリー小説の飛ばし読みによって水増しされている)。その中でもっとも強い印象を受けたのは、下記『kojitakenの日記』の記事で言及した吉田徹の『アフター・リベラル』(講談社現代新書)だった。

 

kojitaken.hatenablog.com

 

 2番目に印象に残り、ブログ記事に公開しておきたいと思ったのは岡田暁生の『音楽の危機 - 《第九》が歌えなくなった日』(中公新書,2020)だ。

 

 上記中公のサイトから、本書の概要を以下に引用する。

 

二〇二〇年、世界的なコロナ禍でライブやコンサートが次々と中止になり、「音楽が消える」事態に陥った。集うことすらできない――。交響曲からオペラ、ジャズ、ロックに至るまで、近代市民社会と共に発展してきた文化がかつてない窮地を迎えている。一方で、利便性を極めたストリーミングや録音メディアが「音楽の不在」を覆い隠し、私たちの危機感は麻痺している。文化の終焉か、それとも変化の契機か。音楽のゆくえを探る。

 

 とはいえ、上記の概要は本書の核心部を十分に表現しているとはいえない。本書のアブストラクトを的確に書くためには相当の力量が必要であり、素人ブロガーの手に負えるものではない。そこで、いつものようにネット検索をかけたところ、『週刊ポスト』2021年1月1・8日合併号に掲載された井上章一氏の書評を発見した。以下に引用する。少し脱線しておくと、井上氏は私にとっては『阪神タイガースの正体』(太田出版2001, のち朝日文庫2017)及び『京都ぎらい』(朝日新書2015)の両書を大いに楽しませてくれた人で、建築史家、風俗史研究家にして国際日本文化研究センター所長・教授である。今年のプロ野球の開幕3連戦でヤクルトが阪神に3連敗して気分が悪いので、意趣返しに井上氏が2016年に書いた下記記事にリンクを張っておく。

 

www.sankei.com

 

 しかしながら、「反読売」元祖は長嶋茂雄のデビュー戦で4打席4三振に切って取った金田正一が属していた国鉄スワローズではなく、南海ホークスだという。スワローズは2015年の日本シリーズでその南海の後身であるソフトバンクに1勝4敗でボロ負けした(2年間で1勝もできずに8連敗した読売よりはマシだが)。そして金田正一はのちに読売入りして、現役引退後も読売びいきの野球解説者としてにっくき人物だった。何より井上章一氏は京都と阪神タイガースを熱烈に愛する人なのであった。

 脱線はここまでにして、井上氏による『音楽の危機』の書評を以下に示す。

 

pdmagazine.jp

 

芸術もパチンコもひとしなみになる衝撃

 

 いつのころからか、年末には「合唱」をたのしむ集いが、もたれるようになった。音楽愛好家があつまり、ベートーベンの交響曲第九番で、声をあわせる。そんな催しが、日本各地でおこなわれるようになっている。
 しかし、新型コロナとよばれる感染症のはびこる今年は、それがかなわない。作曲家の生誕二百五十周年をいわってよい年だが、実現は困難である。コーラスにさいしては、おおぜいの人びとが大きく息をはき、またすいこむ。そんなことが、今できるはずもない。
 三密をさけろ。たがいに、むらがるな。そうあおられ、しばしば夜の街が槍玉にあげられた。ホストクラブをはじめとする風俗店が、白い眼で見られる対象になっている。あるいは、パチンコも。
 クラシックのコンサートも、今はおおっぴらにひらけない。「合唱」付の「第九」などは論外である。もちろん、それらが、おもてだって指弾されることはない。しかし、活動の自粛を要請される点は、つうじあう。社会は高雅な芸術も風俗営業も、ひとしなみにあつかった。公衆衛生という立場から見れば、どちらも同じようにめいわくな存在なのである。
 このことに、音楽研究者の著者は衝撃をうける。あるいは、うけてみせる。そのうえで、ベートーベンの「第九」、あるいは「第九」的な価値観を問いなおした。
 友よ、いだきあおうだって? 今は無理だ。それに、この歌詞は仲間はずれになるかもしれない人びとを、おきざりにしている。友とみなせない者は、排除してしまうつもりなのか。「第九」だけではない。近代市民社会のポップミュージックは、大なり小なり連帯と絆を強調する。みな、同じ弊におちいっているのである。
 いわゆるコロナ禍に、社会は対面をさけてきた。リモートとよばれる画像でのやりとりを、普及させている。いっぽう、音楽は録音というリモート鑑賞の仕組を、はやくからみのらせてきた。その文明論的な意味合いも考えさせてくれる好著である。

週刊ポスト 20211.18号より)

 

出典:https://pdmagazine.jp/today-book/book-review-769/

 

 そう、本書の論点は二段構えあるいは二層構造なのだ。

 最初の「表向きの論点」は上記青字ボールドで引用した部分だ。しかし、二層目の論点を導くための序奏でしかない。本書の真の論点は赤字ボールドの引用部分に示された二層目にある。「音楽研究者の著者は衝撃をうける。あるいは、うけてみせる」と書いた井上章一氏の表現はじつにみごとである。とてもでないが真似できない。

 「友とみなせない者は、排除してしまうつもりなのか」。これは、実ははるか以前から、テオドール・アドルノ(1903-1969)が提起した課題だ*1。以下本書から引用する。

 

(前略)アドルノが問題にしたがっているのはおそらく、ごくふつうの極めて立派な市民たちがナチスを容認し支えていたということだ。伝説の女性映画監督レニ・リーフェンシュタールによるナチス党大会の記録映画『意志の勝利』(一九三五年)は、悪魔的なまでの見事さでもって、立派なドイツ市民たちの融和を演出している。しかしアドルノアフォリズムは、彼らの友愛が排除によってこそ維持されていると示唆する。何かのバランスが崩れると幾百万の「きちんとした市民」が簡単に互いを包囲し憎み合う。

 

《第九》についてアドルノはもう一つ、やや長めのメモを残していて、こちらを読むと彼の意図がさらによくわかる。ベートーヴェンが《第九》フィナーレで作曲したシラーの頌歌には思わずぎょっとするような一節があって、そこをアドルノは見逃さない。

「市民的ユートピアは、完全な喜びというイメージを考える場合、かならずやそこから排除されるもののイメージのことも、考えざるをえなくなる。[中略]《第九》のテキストとなっているシラーの頌歌『歓びによせて』においては、「地球の上におけるたった一つの心でも、自分のものとよべるものは」、つまり幸福に愛し合うものは誰でも、輪のなかへと引き入れられるとしている。「しかしそうした心をを持たないものは、涙しながらわれらの集まりから、こっそりと立ち去るがいい。」[中略] シラーによって罰せられている孤独は、彼が言う歓びの人々たちからなる共同体自体から、生み出されたものにほかならない。こうした共同体においては、年老いた独身女性やさらには死者たちの心は、一体全体どうなるのであろうか」(前掲書*2五〇ページ)

(中略)市民社会歓喜は「仲間外れ」を作ることで維持されてきた。ヒトラーといわずすでに《第九》の中に、はっきりこの市民社会の原記憶は刻まれていたと、アドルノはいっている。衛生的に保たれたコンサートホールという文化の殿堂に不特定多数の「巷の人」は入ってきてはいけない――これが近代市民社会の隠れた本音だったと、彼は示唆しているのである。

 

岡田暁生『音楽の危機』(中公新書2020)18-19頁)

 

 上記引用文中でアドルノが指摘した「第9」の歴史的限界が、今回のコロナ禍で浮き彫りになった。著者が言いたいのはそういうことだろうし、私も基本的にはそれに同意する。というのは、のちほど述べる通り、私もまたベートーヴェンの第5交響曲や第9交響曲終結部に全面的に浸れる人間ではないからだ。

 「第9」が作曲されたのは1824年で、3年後に作曲後200年を迎える。何より昨年はベートーヴェン没後250年のメモリアルイヤーだった。本書は昨年9月の刊行であり、「第9」の公演のほとんどは中止に追い込まれるだろうと予想されているが、実際にはいくつかの公演が行われたことを、本書の「アマゾンカスタマーレビュー」で知った。レビュー主は

本書はいわば「音楽の聞き方」の令和版続篇で、左派的で受け入れ難い箇所も少なくない

と仰る保守派の方であり、弊ブログがNGワードにしている現元号*3を用いて著者(及び私)との立場の違いを明確にしておられる。以下、昨年末の「第9」の公演に言及した部分を引用する。但し、申し訳ないけれども文章が長いし私とは立場が違うので、レビューの前半部分を割愛した上で引用文の文字を小さくさせていただく。

 

日本は雇用喪失が自殺に繋がりやすい。

仕方ないが半年前に本書が書かれた時、これ程の惨状を想定し得ない。

新たな音楽の革命的誕生は私も楽しみだ。

著者の様な進歩史観ではないが、戦争の断絶の後、全く新しい藝術の誕生はしばしば見られた。戦後の現代曲の全てを受け入れる事は無理だが、それでも何かが残るだろう。

だが、まだそれを言う時期ではない。本書出版後の半年は、それを確認させられた苦しい時間だった。

 

束の間の喜びはあった。

1227日、タケミツ・メモリアル・ホール、バッハ・コレギウム・ジャパンの第九は、本書に一貫する懐疑的第九論を吹き飛ばすパワーに満ちていた

しかもこの公演は12回公演で、演奏者のリスクも高い筈だが、驚くべきはオーケストラも合唱もソーシャルディスタンスを取らない通常配置だった。

指揮者とソリストの目の前の席が数列空けられただけ、第4楽章がはじまる直前までマスク着用以外、満員の聴衆も含め通常通りで押し通した。

総監督の鈴木雅明は全責任を負う覚悟なのだ。まだ誰も14日間経ておらず凄い賭けだ。これらは皆電話チケット予約時点で全部教えてくれた。私は鈴木雅明の侠気をチケットと共に買った。

これから来る第4波の前の、暫しの別れになるかも知れない。そう感じる多くの人々がホールを満員に埋めた。当日券は出ていたが、見渡しても数える程だった。

中には同日のN響のサントリーホール第九と梯子した強者もいた事をTwitterで知った。彼等も想いは同じなのだこんな絆は音楽とは本質的に異なる謂わば戦友の感覚だが、それで了とする。自己責任で片付けて貰って構わない。批判を甘んじて受ける覚悟は出来ている。

10年前のメータN響の第九を思い出す。

あの時、中川右介はメータの侠気に感じてコンサートに駆けつけたと幻冬舎新書「第九」に書いた。

ダニエル・ハーティングはオケより少ない聴衆を相手にに大震災当夜、マーラー5番の演奏を完遂しただけでなく、メータと同じく原発事故から程ない時期に再来日し、満員の聴衆にマーラー5番を演奏した。

やはり、本当に苦しかった時に見捨てず逃げなかった人の事は一生忘れない。

10年前の大震災は日本だけの事だが、今回は殆んど全世界が日本より酷い凄絶な状況下に苦しんでいる。我々も本当に苦しいが、去年の後半は少しはLIVEを聴けた。これでも遥かに台湾以外他国よりマシと認識すべきなのだ。

今年後半か再び年を越しても、国際線旅客機の往来が叶う時、今度は日本人が10年前の恩義に報いるのだ。

 

著者、アドルノ、就中トーマス・マン「ドクトル・ファウストゥス」主人公アドリアン・レーヴェルキューンの第九否定は私も読んだが、初台のBCJ第九で、私はそれらはどうも違うと初めて感じた。

シュトックハウゼン擬きの初音ミク版第九も平時の発想だとは思うがあながち無いとも言えない。やり様に依っては面白いと思う。

が、、BCJの第九のバリトン独唱が始まる時のあのなんとも言えない、名状し難い高揚感はなんなのだろう?

今までなら師走の風物詩や一万人の第九には戸惑い、嫌悪感すらあったが、これ程絶望的状況だったから、私は初めて第九のメッセージを痛感したのだ。そして初めてバリトン独唱で哭いた。

 

著者も本書中で中間報告と延べている。

いつかは判らないが、終わりの終わりが来た時、ウィルスには勝てないかも知れないが、去るときは来る。その時、新たな著者の想いを一度読んでみたい。

 

出典:https://www.amazon.co.jp/-/en/gp/customer-reviews/R65WRU0XFPCWS

 

 レビュー主とは違って、私は不勉強なことにまだトーマス・マンの長篇小説『ファウストゥス博士』(1947)を読んだことはない。これまで読んだ現代(というか20世紀以降の)音楽に関する本に何度も登場するにもかかわらず。言及されているレーヴァーキューンは12音音楽を創設したことになっているシェーンベルク*4がモデルだという。本書からレーヴァーキューンの言葉に言及した部分を以下に引用する。

 

「善なるもの。高貴なるもの、つまり善かつ高貴であるにもかかわらず人間的などと言われているもの、そんなものはあってはならない。それを求めて人間たちが闘い、城壁を作り、理想の現実に満たされた者たちが熱狂的に告げ知らせたもの、そんなものはあってはならないんだ。そんなものは撤回するんだ」。友人ツァイトブロームの「何を撤回しろというんだね?」という問いに、レーヴァーキューンはにべもなく「第九交響曲さ」と応じる。(本書135頁)

 

 引用文中赤字ボールドにした「城壁を作り」を含む部分について、著者は下記のように解題する。

 

(前略)人間のため、正義のためと称して、人間は戦争をし。城壁を作って他者を排除してきた。そして善の理想が現実にどんな過酷な結末を生み出すか実際に見聞きしているにもかかわらず、欺瞞に満ちた理想をなおたたえる輩が必ずいる。あろうことか彼らは善について熱狂的に支持する。であるならば、そんな「よき市民」のアイコンである第九交響曲など撤回すべきだというのが、レーヴァーキューンの意見である。

 極論とはいえ傾聴すべき事柄は含まれている。「撤回」はいいすぎであるとしても、《第九》的な世界観と時間モデルを一度カッコに入れて、ほかの可能性を考える必要性は喫緊だ。「音楽的な見事さがそれ以外の思想的な可能性を見えなくしてしまう」ということがあってはならないからである。(本書135-136頁)

 

 「音楽的な見事さ」というのは、「第9」に対する批判的な立場をもって構えて聴いた、フルトヴェングラーが指揮する同曲の演奏に著者が説得され、「音楽的な見事さ」を改めて痛感したというくだりを受けている。

 「第9」ではないが、「フルトヴェングラーなんて本当にすごいのか」と構えて聴いたら本当に「すごく」て説得された経験が私にもあるので(例のナポレオンにまつわるエピソードで有名な第3「エロイカ交響曲)、共感できるものがあった。

 このあとの章で、ベートーヴェンの第5交響曲(俗称「運命」)や「第9」にみられる「苦悩から歓喜へ」という音楽の「右肩上がり」の終わり方が音楽史において例外であることを著者は論証している。

 実は私が少年時代から違和感を抱いていたのはこの構造だった。私はベートーヴェンは初期も後期も良いのに、中期の一部の作品と「第9」の終楽章にはずっと違和感を持っていたのだった。その「中期の一部の作品」には第5交響曲、特にその終楽章が含まれていた。

 私の違和感はごく単純なもので、「そんなこと言ったって、人生は死で終わってしまうじゃないか」というものだった。

 実際、あのような終わり方をする音楽は、ベートーヴェン自身の作品にだって第5と第9の両交響曲以外にはないのではないか。著者はエロイカもその例に加えているが、私は違うと思う。ベートーヴェンピアノソナタ短調の曲のほとんどは短調で終わる。作品2-1(ヘ短調)、作品10-1(ハ短調)、作品13(ハ短調「悲愴」)、作品27-2(嬰ハ短調「月光」)、作品31-2(ニ短調テンペスト」)、作品57(ヘ短調「熱情」)は全部そうだ。違うのはソナチネアルバムに入っている作品49-1(ト短調)と中期と後期の境目にある作品90(ホ短調)、それに最後のピアノソナタである作品111(ハ短調)の3曲だが、いずれも2楽章構成の曲で、最初の2曲はロンド、本書でも言及されている作品111はテンポの遅い変奏曲で、静かに曲が閉じられる。

 弦楽四重奏曲でも、作品18-4(ハ短調)、作品59-2(ホ短調)、作品95(ヘ短調「セリオーソ」)、作品131(嬰ハ短調)、作品132(イ短調)の5曲のフィナーレはいずれも短調であり、作品131のように終結和音が長三和音であったり、作品95や132のように長調のコーダがついている曲もあるが「苦悩から勝利」というコンセプトの曲は、やはり1つもない。余談だが、作品131は、私見ではバッハの平均律曲集第1巻第4曲の嬰ハ短調のフーガとベートーヴェン自身の同じく嬰ハ短調の月光ソナタの2曲を祖型とする音楽だと考えている。冒頭のフーガの4音動機と、下属調嬰ヘ短調)の属和音としての嬰ハ長調の3和音で曲を閉じる*5点がバッハと共通する一方、緩徐楽章で始まってスケルツォを経て激しい終楽章に至る点が月光ソナタと同じだからだ。またイ短調弦楽四重奏曲作品132の終楽章の主題は、当初第9交響曲の終楽章用として着想されたことが知られている。つまりベートーヴェン自身も最初は「第9」の終楽章を器楽のみによる短調の楽章にするつもりだったということだ。もちろんその場合でも、作品132がそうであるように、終結部(コーダ)は長調にしたに違いないが。

 終楽章のコーダだけ長調にするやり方は、モーツァルトの有名なニ短調ピアノ協奏曲(K.466)という先例があるが、あれを「苦悩から勝利へ」とは言わないだろう*6。もっと古くはハイドンの告別交響曲嬰ヘ短調)の終わりで楽団員が1人、また1人と去って行く時の音楽が長調だが、こちらは勝利どころか別れの音楽である。ベートーヴェンの第5交響曲や「第9」の終わり方は確かに前例のないものだった。

 そして「第9」ほど多くのシンフォニー作曲家を呪縛した曲はなかった。ブラームスの第1はその典型例だが、これはブラームスの数多い音楽の中でも、私がもっとも苦手とする曲だ。そのブラームスは第4交響曲短調で始めて短調で閉じた。

 チャイコフスキーベートーヴェンよりもモーツァルトを愛好した作曲家だったが、第4と第5は冒頭に「運命の動機」で始まって、最後に勝利の凱歌で終わる「苦悩から勝利」型の交響曲を2曲も書いた。しかし、ベートーヴェンの「悲愴ソナタ」と同じ音型で始まる第6番の「悲愴交響曲」は、第3楽章で勝利の凱歌を挙げた直後の終楽章に暗くテンポの遅い短調の楽章を持ってきて、最後に弔鐘を鳴らして全曲を閉じるという、まるで直後の自身の死を暗示するかのような終わり方だ。

 同じパターンがマーラーの第9交響曲だが、このマーラーは、それより少し早い時期に音楽を書いていたブルックナーともども、生涯にわたって「第9」に呪縛され続けた作曲家だった。第1交響曲*7の冒頭からしベートーヴェンの「第9」を思わせるし、全曲の構造がそうだとはいえないが、第4楽章は「苦悩から勝利へ」の構造になっている。故頼近(鹿内)美津子(1955-2009)が好んでいたことがいつも思い出される第2交響曲「復活」は終楽章に合唱が出てくるもろに「第9」型の音楽だし、嬰ハ短調で始まりニ長調で終わる第5交響曲も「第9」型だ。しかし第6番以降になると徐々に変わってくる。第6番は第2楽章と第3楽章の順番について作曲者はずいぶん悩んだらしいが、第2楽章にスケルツォを置く、現在普通に演奏される順番だと第1楽章から第3楽章までは「第9」型だ。特に第2楽章が第1楽章をなぞる構造になっていることが「第9」に酷似している。しかし終楽章では勝利の凱歌をあげるどころか逆に運命に打倒されてしまう。第7番は短調で始まり長調で終わるが、終楽章は能天気な音楽であり、あれから「勝利」を感じる聴き手はほとんどいないだろう。第8番は合唱が最初から炸裂する巨大な編成で演奏され、「第9」の終楽章的なものに特化した音楽といえるかもしれない。そして第9番に至るが、この曲はゆっくりしたニ長調の楽章で始まり、レントラーの第2楽章を経て、第5番の第2楽章や第6番の両端楽章と同じイ短調によって悲劇的なクライマックスに至る第3楽章を経て、その第3楽章のニ長調の中間部から派生した主題を使用しながら、なぜか半音低い変ニ長調による長くてゆっくりした終楽章が、消え入るように終わる。これを「ニ長調からの別れ」と呼んだ、作曲家だったか指揮者だったかがいたはずだが、ネット検索でも引っかからなかった*8マーラーはこのあと、嬰ヘ長調による第10番の交響曲を構想し、これは緩徐楽章で始まって緩徐楽章で終わる点では第9番と似た曲だが、作曲者自身は曲を完成させることができないまま死んでしまった。なお先輩のブルックナーは「第9」と同じニ短調による第9番の交響曲自体を完成させることができず、長大なホ長調の緩徐楽章である第3楽章を書き終えた時点で亡くなっている。ホ長調の緩徐楽章で残された未完成の交響曲というのは、シューベルトの「未完成交響曲」と同じだが、シューベルトの「未完成」は何も作曲家の死によって未完成に終わったわけではなく、シューベルトはそのあとに長大なハ長調交響曲「グレイト」を書いている。

 著者はこのシューベルトに着目し、「未完成」にように緩徐楽章で終わるのを「諦念型」、狂躁が延々と続くうちにとってつけたようなファンファーレで突然狂躁が打ち切られる「グレイト」の終わり方を「サドンデス型」と名づけている。この終わり方を偏愛した作曲家として著者が挙げるのはラヴェルだが、「ボレロ」や「ラ・ヴァルス」の終わり方など確かにその通りだ。そして、ラヴェルの作曲活動の終わり方も、まさにこの「サドンデス」型だった。Wikipediaを参照すると、ラヴェルは52歳だった1927年から軽度の記憶障害や言語障害に悩まされていたが、1932年にパリで交通事故に遭って以来それが一気に悪化して作曲ができなくなってしまったという。

 それらに対し、ベートーヴェン以前の作曲家たちは、そんな終わり方はしなかった。著者はバッハの平均律曲集第1巻第1曲のプレリュードを例に挙げて、弱音で曲を閉じるけれどもシューベルトの未完成やマーラーの第9番のように未練がましくいつまでも音を引き延ばすのではなくきっぱりと終わらせる。これを著者は「帰依型」と命名している。これに対して、ハイドンモーツァルトは喜ばしく賑やかに曲を締めるけれども、定型的にシャンシャンと曲を終わらせる。これを著者は「定型型」と呼ぶ。ジャズの多くもこの終わり方だという。

 それに対してベートーヴェンの第5交響曲は、いつ果てるともない長三和音の強奏が、これでもかこれでもかと延々と続く。この箇所には、私は少年時代から今に至るまでずっと辟易してきた。「第9」の方が終結部でも曲に変化がつけられているのでいくぶん抵抗は少ないが、こちらの方はあの「歓喜の歌」に全面的に没入できない。音楽の専門家たちの間にも、著者をはじめとして同様のことを言う人たちは少なくない。一方、私はやはり少年時代から今に至るまで嫌って止まない故宇野功芳(1930-2016)などは「第9」に没入できるタイプの人で、彼は1960年代半ば頃に「第9」の「歓喜の歌」に没入できないとこぼす学友の感想に対して「こんな素晴らしい音楽はないじゃないか」と思ったという意味のことを書いていたはずだ。その宇野功芳が極右人士だったことは、氏が亡くなる数年前に知った。

 本書で非常に印象に残った箇所の一つは、本書142頁以降に論じられた「勝利宣言型の終わりは沈黙恐怖症か」という節だ。以下引用する。

 

(前略)執拗に凱歌をあげ続けるベートーヴェン作品の終わりは、何かの不安の裏返しであるようにわたしには聞こえる。

 いうまでもなく「音楽の終わり」とは、音がしなくなることだ。それまで音を立てていたものが動かなくなる。静まり返る。右*9に示唆したように、これは死の象徴である。だが十八世紀までの作曲家たちは、沈黙に場を明け渡すことに恐れを抱いてはいなかった。バッハの『マタイ受難曲(一七二七年)はキリストの磔(はりつけ)の物語を三時間以上にわたって描く死と弔いの音楽である。全篇が嘆きにあふれている。闇に閉ざされている。しかしよりによって最後の場面、亡くなったキリストを悼む場面で、ふと音楽の調子が明るくなる。これは不思議な感覚だ。夜明けが近づいてくる。「あなたの墓に呼びかける。静かに休みたまえ、と」の歌詞が穏やかな調子で繰り返される。淡々としている。曲を閉じることをバッハは恐れない。心安らかに大いなるものへと場を譲る。もちろんモーツァルト交響曲などはもっと世俗的な喜びにあふれているものの、彼もまた時が来れば恬淡と幕引きする。しかるに交響曲第五番「運命」のベートーヴェンは、場をなかなか沈黙に譲ろうとしない。(本書143-144頁)

 

 モーツァルト交響曲というと、以前にも弊ブログで取り上げたかもしれないが、ト短調K.550の交響曲の終楽章には結構強迫神経症的なところがあると私は考えている。5度上への転調に対して、普通なら主調に戻る力が働くのに、この曲のフィナーレの展開部ではその制御を失ってしまって延々と上へ上へと引っ張られる力が働き続けて*10、ついに音楽理論からいえば主調のト短調から見てもっとも遠い調に当たる嬰ハ短調でデモーニッシュなクライマックスを築いてしまう。それを導くのは展開部の初めに現れる1オクターブの12の音のうち主音であるG(ト音)を除く11の音が含まれる音型であり、私はこのあたりにモーツァルトの音楽の革命性を感じる。しかし、その展開部が終わるとソナタ形式の再現部になり、曲の閉じ方はごく普通だ。ベートーヴェンの第5交響曲のように、延々と主調の3和音を鳴らし続けるようなモーツァルトなどあり得ない。

 ましてや、バッハから見るとベートーヴェンはずいぶん遠いところに到達したと確かにいえるだろう。

 だが、ベートーヴェンの第5交響曲終結部や「第9」の「歓喜の歌」などは、同時にその世界に入れない者に対する「排除」あるいは「疎外」が確かに含まれている。

 音楽に限らず、このところ「排除」あるいは「疎外」について考えることが多い。

 たとえば、弊ブログでこのところ執拗に批判している東野圭吾のミステリー『容疑者Xの献身』は2005年下半期の直木賞を獲ったが、作中の「容疑者X」は、殺人を犯してしまった愛する女性のアリバイを偽造する目的で、何の罪もないホームレスを虐殺した極悪人だ。しかし出版元の文藝春秋はそんなストーリーの小説を「純愛」の物語として売り込み、ネットを見ても「感動した」との感想文を書く読者の方が、作品を批判する読者に比べて圧倒的に多い。また著者・東野圭吾自身もマジョリティ目線の人に違いないと私はみている。

 とはいえ政治に関心を持つ人たちの間ではマイノリティの権利等に対する意識が強まっており、それが反動的な安倍晋三政権が終わったあと、課題として表面化しつつある。そのことは多くの「リベラル」論に反映されている。現在の問題は、前記『アフター・リベラル』の著者・吉田徹が「寛容リベラリズム」と呼ぶその潮流が、格差を拡大して新たな「排除」や「疎外」を生み出す経済的自由主義に対抗して再分配や経済的平等性を重視する「社会リベラリズム」(『アフター・リベラル』の著者・吉田徹による用語)とうまく結びついていないことだ。「社会リベラリズム」を指向する人たちの間には「『右』も『左』もない」と称して公然と「排除」や「疎外」を行う右派と手を組もうとする傾向が強いし、その一方で「寛容リベラリズム」を指向する人たちは、新自由主義者を含む「経済リベラリズム」の勢力と手を組みたがる傾向を克服できていない。もはや「『右』も『左』もない」などという物言いは時代遅れだ。「社会リベラリズム」と「寛容リベラリズム」の両立は必須だと私は考える。

 「社会リベラリズム」と「寛容リベラリズム」が結びついた時、「第9」に含まれる疎外を克服できていない音楽の世界でも、200年ぶりに新たな時代へと歩を進めることができるのかもしれない。

 もちろん、歴史的限界によってベートーヴェンの価値が損なわれるものではない。相対性理論量子力学によってニュートンの価値が損なわれるわけではないのと同じことである。

*1:本書17-19頁

*2:テオドール・W.アドルノ(大久保健治訳『ベートーヴェン 音楽の哲学』(作品社2010)=引用者註

*3:この理由により、私は山本太郎が代表を務める某政党を絶対に支持できない人間だ。なお本例のように、引用部分においてはNGワードであってもそのまま掲載することにしている。ついでに書くと、現在の弊ブログのNGワードは、他に安倍前政権の経済政策を表す片仮名6文字と、プロ野球球団・読売ジャイアンツの日本語の愛称である漢字2文字(但しこちらは一般名詞としてなら許容する)の合計3つである。

*4:実はシェーンベルクよりも早い12音技法の発明者がいたことを今年1月に読んだ沼野雄司『現代音楽史』(中公新書2021)に教えてもらったが。

*5:但しベートーヴェンは彼らしく長三和音の強奏で曲を閉じている。

*6:ベートーヴェン自身の第3ピアノ協奏曲ハ短調(作品37)も同様。

*7:マーラーの第1交響曲は、何やら変なニックネームで呼ばれることがあるが、あれはのちにマーラー自身が撤回しているし、その撤回されたニックネームにしてもあくまで「タイタン」であって「ジャイアント」ではないことに留意されたい。間違っても「闘魂込めて」の親戚などではない。

*8:もしかしたらバーンスタインだったかもしれないがはっきりしない。

*9:縦書きの新書本なので「右」になる。弊ブログを含む横書きでは「上」に当たる=引用者註。

*10:同様の転調はト長調のピアノ協奏曲K.453の第2楽章でも聴くことができる。