KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

息子ヴォルフガングの天才に寄生して宮廷お抱えの楽師一家として余生を送ろうと企んだレオポルト・モーツァルトの野望を見破った女帝マリア・テレジア

 先月読んだかげはら史帆さんの『ベートーヴェンの捏造』(河出文庫,2023)の印象はとても強烈で忘れ難い。

 

www.kawade.co.jp

 

 この本については、モーツァルトの没後268回目の命日に公開した下記記事の最後に少しだけ触れた。

 

kj-books-and-music.hatenablog.com

 

 この本の単行本が出た2018年に、私と同世代のミステリ作家・宮部みゆきが「徹夜本」と絶賛した。

 

 

 歴史は勝者により語られる。まさにその通りであって、ベートーヴェンは彼に小判鮫のように貼りつき、「楽聖」その人からは蛇蝎の如く嫌われたシンドラーによって歴史が捏造された。彼の第5交響曲を「運命」と呼んだり、作品31-2のニ短調ピアノソナタを「テンペスト」と呼ぶのは、シンドラーの捏造に与することでしかない。

 モーツァルトの場合は、史実では彼の就職を妨害したのは神聖ローマ帝国の女帝マリア・テレジアだったことが確定した事実であるにもかかわらず、それを「イタ公」のせいだと信じ込んでいた陰謀論者の父親・レオポルトによる歴史捏造が今もまかり通っている。サリエリがその犠牲者の一人であることはいうまでもないが、15歳のモーツァルトが「にっくき」マリア・テレジアの依頼で書いた「劇場的セレナータ」(祝宴のための歌劇)である『アルバのアスカニオ』がミラノで好評を博したことは事実だが、同じ宴のために上演された女帝お気に入りのドイツ人オペラ作曲家のヨハン・アドルフ・ハッセ(1699-1783)のオペラがモーツァルトのセレナータに食われて不評に終わったとするのはレオポルトの宣伝に過ぎず、事実であったかどうかはきわめて疑わしい。

 私が深く信頼するサイト「mozart con grazia」には下記のように書かれている。以下の引用文は長いが、このところ私がこだわっている事柄が過不足なく、実にみごとにまとめられている。

 

この劇場セレナータの目的からして、モーツァルトは「純粋な装飾的作品」を仕上げるだけでよかった。 そのために「合唱曲と舞踏曲と2種類のレチタティーヴォを、できるだけすぐれた音楽の衣装に包んで並べることだけを考えればよかった」(アインシュタイン)のである。 登場人物のなかで、ヴィーナス(Venera)はもちろんマリア・テレジア女帝であり、主人公であるアスカニオは皇子フェルディナンド大公である。

 

大公新夫妻は、いわば自分たち自身の最初の出会いが舞台の上で、英雄的・牧歌的な仮装の姿で演ぜられるのを見るわけである。 フェルディナントはつまり女神ヴィーナスの孫アスカーニオであり、マリア・ベアトリーチェアルケーウスの種族から出た羊飼の娘シルヴィアである。 事件の唯一の紛糾は、ヴィーナスがその孫に、自分が選ばれた者であることをはじめから誇示するのを禁ずることから生じ、シルヴィアの失神で頂点に達する。

アインシュタイン] p.541

 

作曲者だけでなく、上演する関係者は皆この機会にかける意気込みは相当なものだった。 上演までの練習などの状況はレオポルトの手紙で詳しく知ることができるが、ここでは省略する。 初演は10月15日の婚礼の翌々日の17日に行われ、老ハッセのオペラ『ルッジェロ Ruggiero』を完全に食ってしまったという。 そしてハッセは「この子は今に我々みんなを忘れさせてしまうだろう」と予言したとも伝えられている。 レオポルトの手紙によると、15日は大聖堂で婚礼と祝宴、16日にオペラ、そして17日にセレナータが上演され、18〜20日は何もなく、21日月曜日にまたセレナータが演奏されるはずだったが、あまりの人気に19日にも上演されたほどだった。

 

1771年10月19日、レオポルトからザルツブルクの妻へ


今、劇場に行くところです。 というのは、16日はオペラ、そして17日にはセレナータでしたが、このセレナータはびっくりするほど人気があったので、今日もまたくりかえし上演されなければならないのです。 大公はまた筆写譜を二部お命じになられました。 要するにだ! お気の毒だが、ヴォルフガングのセレナータがハッセのオペラをすっかり打ち負かしてしまったので、私はそれをどう説明してよいのかわからないほどです。

[書簡全集 II] pp.302-303

 

少年モーツァルトが最長老ハッセを打ち負かしたかどうかはわからないが、好評だったことは確かのようである。

 

1771年11月9日、レオポルトからザルツブルクの妻へ


昨日は私たちはハッセ氏とごいっしょして、フィルミアーン伯爵閣下のお邸で食事をしました。 ハッセ氏もヴォルフガングも作品のためにすばらしい贈物を頂戴しました。 お金を頂戴したのに加えて、ハッセ氏は嗅ぎ煙草入れを、またヴォルフガングはダイヤモンドをちりばめた時計をもらいました。

同書 p.315

 

この大成功を足がかりに、レオポルトは息子をミラノで何らかの安心できる地位が得られるように、若いフェルディナント大公に働きかけていた。 大公はその願いにこたえるつもりがあったようで、彼は母マリア・テレジア女帝に相談したが、その返事がくる前に、モーツァルト父子は希望がかなわないまま12月5日にミラノを離れ、15日ザルツブルクに帰郷。 それから間もなく、マリア・テレジア女帝からミラノの大公に次のような手紙が送られたのだった。

 

1771年12月12日


あなたはザルツブルク出身の若い人を使いたいと私に頼んで来られました。 私はあなたが作曲家のような役立たずを何故必要となさるのか分かりませんし、信じられません。 勿論それでもあなたがそれで満足なのでしたら否やは申しません。 しかし私が言っているのはあなたが役立たずのことで苦情を言わなければということであって、そういう人達があなたに仕えているかのような肩書きのことまでは含めていません。 そういう人達がまるで乞食のように世界中をほっつき回るとしたらそれは職務を侮辱するものです。 それに乞食には大家族がつきものです。

[ドイッチュ&アイブル] pp.107-108

 

ただし、レオポルトがミラノの自分の息子の就職を目論んで動き回っている噂は、ミラノの大公から直接相談を受けるまでもなく、もっと早くからウィーンに届いていただろう。

 

母親に従順な大公は、もちろんそれ以上モーツァルトの採用も考えなかったし、彼になんの称号も与えなかった。 もしレーオポルトが、かつては自分の子供たちに大公家の御用済みの衣服を贈った慈悲深い国母陛下が、実際には自分とヴォルフガングについてどう考えていたかを知ったとしたら、どうだろう! 無用の者ども、芸術のジプシー、わずらわしいやから、とは! レーオポルトの忠誠心は傷つけられたことであろう。

アインシュタイン] p.53

 

オポルトザルツブルク大司教から認められたミラノ滞在期間を、いろいろ理由をつけて引き伸ばしていたため、10月と11月分の俸給支払い差し止めを受けていた。 無駄に時間をつぶし、モーツァルト父子がザルツブルクに帰郷した翌日、1771年12月16日、シュラッテンバッハ大司教が死去、73歳。 帰郷早々レオポルトは2ヶ月分の俸給支払いを請願しなければならなかった。 大司教の葬儀は翌1772年1月2日、ミハエル・ハイドンのレクイエムで執り行われた。

 

URL: https://www.marimo.or.jp/~chezy/mozart/works/ascanio.html

 

 上記引用文を読めば、「ヴォルフガングのセレナータがハッセのオペラを完全に食ってしまった」というのが陰謀論者レオポルトの一方的な宣伝に過ぎないことや、ヴォルフガングの宮廷への就職を妨害したのが他ならぬマリア・テレジアその人だったことが理解できるだろう。だから私はレオポルトに対してもマリア・テレジアに対しても「敵」と認定しているのである(笑)。

 もっとも、レオポルトこそヴォルフガングの才能を引き出した人であることは論を俟たないし、マリア・テレジアについても石井宏は著書『反音楽史』(新潮文庫, 2010)において下記の注目すべき指摘をしている。

 

 これまでの伝記ではモーツァルトの何度にも及ぶ就職運動は、彼が単独で採用されることを希望する行為ととらえられてきたが、メイナード・ソロモンは大著『モーツァルト(石井訳)の中で、父レオポルトの意図は常に “家族と一緒に働ける” か “家族を養うに足る” 職場という限定がついたものであることを喝破してモーツァルトの伝記に新しい側面を開いて見せた。それによっていくつかのほかの謎も解けるのであるが、ソロモンより二百年も前にマリア・テレジアモーツァルト青年の係累を問題にしている。つまりレオポルトの下心を見破っていたのであり、女帝の頭脳が並のものではないことに驚かされる。

 

(石井宏『反音楽史 - さらば、ベートーヴェン』(新潮文庫,2010) 40頁)

 

 要するに石井は、レオポルトには息子のヴォルフガングに寄生して余生を送ろうという野心があり、マリア・テレジアはそんなレオポルトの邪(よこしま)な狙いを見破ったというのである。この仮説が正しいなら、ヴォルフガングの就職活動は、あるは父だの姉だのといった係累が付録としてついてくるものでなければうまくいった可能性があることになる。

 もちろんそうなったなら、モーツァルトはワンオブただのイタリア・オペラ作曲家に終わり、ベートーヴェン以降の音楽もあのようにはならなかったことは明らかだが、ひとたびヴォルフガング・アマデー・モーツァルトに感情移入したからには、レオポルトに対する敵意をますます強めないわけにはいかない(笑)。

 そもそもレオポルトは、パリでヴォルフガングと同居していた妻が客死した時には「瀉血が遅かったのではないか」と息子宛の手紙に書いていた。お前が不注意だったから妻が死んだのだと言わんばかりだが、瀉血とはいったいいかなる療法だったのか。以下Wikipediaより。

 

瀉血(しゃけつ)とは、人体の血液を外部に排出させることで症状の改善を求める治療法の一つである。古くは中世ヨーロッパ、さらに近代のヨーロッパやアメリカ合衆国の医師たちに熱心に信じられ、さかんに行われた[1] が、現代では医学的根拠は無かったと考えられている。

現在の瀉血は限定的な症状の治療に用いられるのみである。

 

ヨーロッパでの瀉血の歴史[編集]

(前略)さらに時代を下ると伝染病敗血症循環器系障害等にまで積極的に使用されたという。この時代においては衛生の維持が不十分であったため、切開部が感染症を引き起こすことも多く、また体力が落ちている患者にまで瀉血療法を行った結果、いたずらに体力を消耗させ、死に至るケースも珍しくなかった。このようなケースで亡くなったと見られる著名人には、エイダ・ラブレスモーツァルトジョージ・ワシントンなどがいる。(後略)

 

出典:瀉血 - Wikipedia

 

 なんと、1791年のヴォルフガング自身の直接の死因は問題の瀉血療法だったと考えられているのだ。そしてモーツァルトの母(レオポルトの妻)アンナ・マリアも1778年6月11日に行われた瀉血の直後に容態が悪化して寝たきりになり、ほぼ3週間後の7月3日に亡くなったのだった。もしモーツァルト母子のパリ旅行にレオポルトが同行していたとしたら、アンナ・マリアの死期はさらに早まったであろうことはほぼ確実だろう。レオポルトとはなんと罪深い人間だったのだろうか。

 とはいえ、もともとパリまで息子に同行する計画ではなかったアンナ・マリアがパリまで息子についてきたのは、途中で立ち寄ったマンハイムで当時15歳だったアロイジア・ヴェーバーにのぼせ上がってしまった息子を監視するためだったというのだから、あえて冷たい書き方をすると、半分は自滅に近いともいえる。

 さらに余談になるが、この経緯は1827年ベートーヴェンが死んだ時のことを連想させる。ベートーヴェンは甥のカールを自分の思い通りにしようとして甥を自殺未遂に追い込んだ挙句に、甥と一緒に田舎暮らしを始めたが、突然それが嫌になって冬に馬車で無理にウィーンに戻ろうとしたために体調を崩して死に至ったのだった。このあたりの経緯はたとえば前述のかげはら史帆『ベートーヴェン捏造』に書かれている。ベートーヴェンを神聖視していたロマン・ロラン(1866-1944)はカールをならず者のように書いたというが、かげはらは前述書において下記のように書いている。

 

 ベートーヴェンは、なぜ甥に対して病的な執着心をもってしまったのか。彼自身が幼少期に父ヨハンから受けたスパルタ教育のトラウマが虐待の連鎖を生み、甥への過度の束縛につながったという見方が現在では一般的だ。カールが成長するにつれ、叔父と甥はたびたび衝突するようになった。

 

(かげはら史帆『ベートーヴェン捏造 - 名プロデューサーは嘘をつく』(河出文庫,2023) 121頁)

 

 かげはらさんといえば、彼女がポストした下記Xが非常に印象に残った。私はXのアカウントを持っていないためなかなかXにはアクセスしづらいので、忘れないうちにリンクを張っておく。

 

 

 「ヨゼP」には本当に笑ってしまった。昔、というか1998年にプロ野球セ・リーグ日本シリーズで38年ぶりの優勝を遂げた(後者の間隔は昨年の阪神タイガースと全く同じ)横浜ベイスターズ戸叶尚(とかの・ひさし)投手が女性ファンたちから「トカ P」と呼ばれていて、それをホエールズ時代からのファンに揶揄されていたことを思い出したが、かげはらさんは「ヨゼP」呼ばわりからは想像もつかない本格派だ。そのことは『ベートーヴェン捏造』巻末の註(参照文献)を見るだけで明らかだろう。前記石井宏の本にはレファレンスなどつけられていないのである。

 やはり時代は変わるものだなあと痛感する。私が1970年代に西洋のクラシック音楽に親しむようになった頃には、クラシックについて書かれた日本の文章は権威主義に満ちあふれていた。ある者はベートーヴェンフルトヴェングラークナッパーツブッシュらを神聖視し(宇野功芳もその一人だった)、別のある者は「社会主義リアリズム」を信奉していた。前述の宇野のように、一見自由奔放に書いていたかのように見えた者も、その内実は権威主義者そのものだった。私など、同じ音楽雑誌で宇野をこき下ろしていた諸井誠(1930-2013)の評論に快哉を叫んだものだ(1980〜90年代だった)。

 その当時と比較して、かげはら史帆さんに代表される、私より若い世代による西洋音楽の受容の自由自在さに今頃になって気づいて目を見開かされる。やはり時代は進歩していくものだ。つまらない保守思想なんかにかまけるのはやはり間違っていると改めて思った。

 またかげはらさんのベートーヴェンもの(というよりシンドラーもの)を単行本初出時に絶賛していた、私と同世代にして現在私が住む東京都江東区出身の宮部みゆきにも感心した。こんな感受性はたとえば東野圭吾(私と同郷の大阪府出身)などには持ち合わせはあるまい。余談だが先日、宮部氏が1993年に書いたエスパーものの時代小説『震える岩』を読んだのだった。

 

bookclub.kodansha.co.jp

 

 モーツァルトに話を戻す。前記「mozart con grazia」や石井宏の本は例外として、少年モーツァルトの「劇場用セレナータ」が老ハッセのオペラを食ってしまったという、18世紀にレオポルト・モーツァルトが捏造した歴史をいまだに鵜呑みにしている例ばかり見てうんざりした私は、この経緯について吉田秀和(1913-2012)はNHK-FMでどう紹介したのだろうかと興味津々で、1981年に放送されたこの放送の第38回*1のYouYubeの動画を視聴した。下記にリンクを示す。

 

www.youtube.com

 

 私は吉田秀和もどうせレオポルトが発した嘘宣伝を受け売りして垂れ流してたんだろうなと想像していた。

 しかし違った。以下、YouTubeの「文字起こし」を参照しながら引用する。動画の11分51秒あたりからだ。

 

 結果は大成功。

 同じ機会に、当時国際的にも名声の非常に高かったヨーハン・アードルフ・ハッセという作曲家が、オペラ・セリア『ルッジェーロ』というのを新しく書いて上演したんですけども、レオポルトの手紙によりますと、そのハッセのオペラよりも、モーツァルトの書いたセレナータ・テアトラーレ (serenata teatrale =劇場用セレナータ) の方がはるかに好評を得て、その後でも何回も繰り返し上演されて、ハッセには気の毒みたいだ、というようなことが書いてあります。

 まあ、本当か嘘か。根も葉もないことでもないんでしょうけど、レオポルトっていう人は、どちらかというとあの、やっぱり評判が良かった、とても成功した、何回もやられた、だから競争相手はうまくいかなかったということを書きたがる傾向がありますね。それはやっぱり当時いろんなことで、情報が遠いところまですぐ伝わるというわけにはいきかねた時代に、子どものモーツァルトが作曲したらその曲の評判がどうだった 皆知りたがる時に、早く自分の手でその評判を送っておきたいというそういう気持ちがなかったとはいえないような気が僕はいたします。

 

吉田秀和「名曲のたのしみ モーツァルト 音楽とその生涯」第38回 (1981年3月1日、NHK-FMにて放送)

 

URL: https://www.youtube.com/watch?v=1Sh8FqXCun0

 

 さすがはモーツァルトの手紙の選集を出したことのある評論家だけのことはあって、吉田秀和レオポルト・モーツァルトの性格(の難点)をきっちり押さえた解説をしていたのだった。

 だからこそ今でも番組がYouTubeにアップロードされて聴かれるのだろう。

 私が初めてYouTubeのこのシリーズにアクセスしたのは、昨年10月末か11月初めだったと記憶するが、その後別の方による吉田秀和の番組のアップロードなどがあったためか、チャンネルの登録者数がこのところ徐々に増えているようだ。実は私はまだ登録していないのだが、近いうちに登録しようと思っている。今のところ、初回から今回紹介した「アルバのアスカニオ」の第1回までと、私が少年時代に聴いていたこの番組の第1期(1974〜80年)の放送と内容が被り始める第100回前後からあとの放送を聴いたが、当時この放送をほぼ欠かさずエアチェックして現在それらをYouTubeにアップロードされているのは、いささか大袈裟な表現かもしれないけれども、たいへんな偉業であると深く感服する次第だ。

*1:YouTube動画の画面には「第37回」とあるが、ファイルをアップロードできなかった放送がそれまでに1回あるので、NHK-FMの番組としては第38回にあたる。