KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

東野圭吾『白夜』(1999)は作者最高傑作の「暗黒小説」かも/新田次郎『山が見ていた』/アガサ・クリスティ『死が最後にやってくる』

 今年の3月はあまり暇がなかった上にちょっとしたトラブルもあった散々な月だったが、2月24日に始まったウクライナ戦争で思い出していたのは先月読み終えた大岡昇平の『レイテ戦記』だった。熱帯のフィリピン・レイテ島と冬季の北の国とで気候は真逆だけれども、兵站のことなどろくに考えずにロシアが侵攻したという報道が本当であれば、ロシア軍の兵士たちの中には1944年から翌年にかけてフィリピンで経験した日本軍兵士たちのような目に遭っている人たちもいるかもしれない。

 今月は本はミステリ3冊しか読了していないし、ロシアや北欧の音楽について書きたいと思っているがそれは別記事に回し、読んだミステリ3冊について書く。

 まず新田次郎 (1912-1980)の短篇集『山が見ていた』(文春文庫)が新装版になっているのを本屋で見て買ったが、山岳小説集かと思って読んでみたら新田自選のミステリ集だった。

 

books.bunshun.jp

 

 1980年に亡くなった新田自選の「初期短篇集」だから古色蒼然で、戦争の傷痕を感じさせる短篇もある。難点はミステリとしてはあまり面白くない作品が多いことで、やはり新田次郎は山岳小説が良い。山岳と関係するのは冒頭の「山靴」と最後に置かれた表題作「山が見ていた」だけだ。山岳作品以外では悪人を描いた「沼」が面白かった。

「山が見ている」の舞台はなんと奥多摩の低山・大岳山(1266m)。私もかつて横浜市在住時代の1998年10月末に、御岳山(929m)から大岳山を経て奥多摩駅に降りる縦走をしたことがある。まだ当時の地元に近い丹沢山塊に対しても恐れをなしていた頃だ。初めて丹沢の表尾根を縦走したのは翌1999年5月であり、丹沢になじんで以降は奥多摩には行かなくなった。

 しかし大岳山のような低山であっても遭難する時には遭難するし、生命の危機に晒される。現に本作の主人公は自死するために大岳山に行った。作中に出ている馬頭刈(まずかり)尾根は知らなかったので「山と高原地図」の「奥多摩*1で確認した。ただミステリとして見るなら、途中で結末が予想できるし、その通りの展開となったのは物足りない。なお、奥多摩駅は1971年までは氷川駅という名前だった。その頃の作品。

 

 昨年1月から毎月読んできたアガサ・クリスティは今月も『死が最後にやってくる』(1945)をハヤカワ文庫版で読んだ。クリスティ作品としては無名の部類だと思うが、イギリスの推理小説協会が1990年に選んだ推理小説ベスト100の83位に入っている*2

 

www.hayakawa-online.co.jp

 

 上記リンクからも想像がつく通り、古代エジプトを舞台とした異色作だが、中身はイギリスのアッパーミドルクラスの階級で展開されるいつものクリスティ作品の構図と全く変わらない。ただ舞台を古代エジプトにしたのは、クリスティ執筆時における現実のイギリス社会が戦争によって大きなダメージを受けたために、舞台と時代を変えたくなったものかもしれない。とはいえ事件は上層階級で起きるし、トリックよりも登場人物の心理が興味の中心である点は、中期クリスティならではの安定した面白さを備えているといえる。難点はクリスティ作品を読み慣れた読者にとっては犯人の推定があまりにも容易であることだ。以下のネタバレ部分は白文字にする。

 被害を受けたと見せかけて実は犯人だが、なぜか登場人物たちが誰が犯人かと推理する過程ではその名前が出てこないというパターンは、初期のたわいない凡作と私がみなしている『エンド・ハウスの怪事件』(ハヤカワ文庫版では『邪悪の家』)に典型的にみられる通りだし、「怪しいのになぜか容疑者候補として名前が挙がらない」人物が犯人というパターンだけに限ればクリスティ作品には非常に多い。それらを知っていれば、犯人はヤーモス以外にあり得ないことは、毒を盛られたはずの彼が死ななかった時点で簡単に推測できてしまうのである。

 従って、イギリスの推理作家たちには申し訳ないが、本作をクリスティ作品中の上位に挙げることは、私にはできない。

 

 3冊目は、忙しい時に限ってなぜか読んでしまう東野圭吾の大作『白夜行』(1999)で、集英社文庫版で読んだが本文だけで850ページほどもある。しかもまだ同文庫が文字を大きくする前の小さい字の本だ。

 

www.shueisha.co.jp

 

 しかし東野作品はエンタメだし読みやすさは冒頭部分を除いて抜群なので、冒頭部分だけはやや乗らなかったが、第3章から最後の第13章までは2日で読んだ。

 以下の文章はネタバレを含むし、クリスティ作品の場合と違って白文字にはしないので、知りたくない方はここで読むのを止めていただきたい。

 昨年12月に公開した下記記事で、東野の『むかし僕が死んだ家』(1994)について下記のように論評した。

 

 読んでいる最中に思ったのは、東野は1994年にこんな小説を書いていたのかということだ。この本は東野には珍しく内発性を感じさせた。東野にはあざといまでの職人芸を感じさせる本が多く、技巧は大したものだと感心しながらもどうしても好きにはなれなかった。だが本書は違った。ただ、内発的にこんな話が出てくる東野圭吾という人が持つ「虚無性」にはちょっとぎょっとさせられた。そしてこの人なら、私が批判し続けて止まない『容疑者Xの献身』(2005)のタイトルにある「献身」という言葉をダブルミーニングとして用いていることもあり得るのではないかと初めて思った。つまり、東野自身は自らが描いた「容疑者X」の行為が本当に「献身」であるなどとは全く考えていない可能性だ。俺の読者たちはあれを読んで本当に「感動」してるんだぜ、あんなのは「献身」でもなんでもないのに、と東野自身が思っている可能性がある。これまではさすがにそれはあり得ないだろうと思っていたが、本書を読んで、そうではないかもしれないと初めて思った。

 

出典:https://kj-books-and-music.hatenablog.com/entry/2021/12/31/141023

 

 『白夜行』は前記『むかし僕が死んだ家』と同じモチーフを用いた「悪人小説」だ。松本清張にも登場人物が全員悪人である小説があるが、清張作品は東野作品なんかよりほど皮肉たっぷりな人生観に貫かれているのに対し、東野作品から感じられるのは「虚無性」だ。本作は『むかし僕が死んだ家』以上に東野の内発性が感じられる作品であって、その東野が『容疑者Xの献身』が本当に「献身」であるとは全く考えていないという私の「推測」は『白夜行』を読んで「確信」に変わった。

 『むかし僕が死んだ家』では、ヒロインの沙也加は幼時の記憶を失っていたが、『白夜行』の悪のヒロイン雪穂は記憶をずっと保持している。『白夜行』はその雪穂と、影の方に彼女に寄り添う亮司を主人公とした悪人コンビの物語だ。雪穂は幼時の記憶を保持し続けたために、浦沢直樹の漫画『MONSTER』(雑誌連載1994-2001)のヨハンのようなモンスターになってしまった。もっとも、本作の印象は『MONSTER』よりもアゴタ・クリストフの『悪童日記』(1986)に近い。

 作品の舞台は最初が大阪、のち東京であって、これは東野圭吾自身の経歴と同じだ。ヒロインの雪穂は1981年*3に高校を卒業しているから1962年または63年の生まれであって、作品の舞台は1973年から1992年まで、つまり雪穂(と亮司)が10歳から29歳までの間にまたがっている。私もほぼ同世代なので時代背景はよくわかる。なお東野圭吾は1958年2月4日生まれで、雪穂たちより5歳上である。

 本作を読む前に、私は一つだけネタバレによって知っていた情報がある。それは物語の最後に悪人が生き延びるというものであって、それがなかなか本作を読む気を起こさせなかった理由の一つだった。しかし、読み進めるに連れて本作で生き残るのは雪穂だけであって、亮司は最後には死ぬのではないかと思い始め、それは終盤に進むにつれて強い確信に変わった。果たしてその通りの結末だった。雪穂は自殺した亮司など「全然知らない人です」と言い放って去って行った。悪の根を失った悪の華はそのあとどうなっただろうかは読者の想像に任されている。そして東野には『幻夜』(2004)という事実上の本作の続篇があるらしい。この作品は本作ほどの高評価は得ていないが、本作に迫る長さとのこと。ネット検索をかけると、東野には両作に続く3作目の構想があるがまだ執筆されていないとの情報があった。

 現在では東野作品が文庫化される時には解説文がつかないが(村上春樹作品と同じだ)、東野が直木賞を獲て大物になる前の2002年に文庫化された本作には、ノワール*4を得意とする馳星周(1965-)が解説を寄せており、その馳が「嫉妬した」ほどの「暗黒小説」のレベルを誇る。馳はまた飲み仲間である7歳年上*5の東野には「陰惨」なところがあると書いているが、7歳年上の人に対してずいぶんズケズケと書くものだなと感心すると同時に、おそらく馳は自身の中にある「陰惨」なものを自作に反映させているのであろう。そうでなければこんな文章は書けない。私は何も馳や東野を非難しようと思ってこんなことを書いているのではない。人間誰にも(もちろんこの文章を書いている私自身にも)陰惨なところがあるのであって、それを抉り出して小説にしたところに彼らの真骨頂があるということだ。文学に限らず、人間誰しも持つ破壊衝動や死の衝動を作品に転化させるのは、芸術(エンタメ作品も含む)では当たり前の行為だ。

 『白夜行』について、これまでネットで読んだ各種感想文であまり触れられていないことを書くと、悪の2人組である雪穂と亮司は属する階級も異なり、互いの関係も対等ではなく、亮司は悪事が発覚して剃髪されそうになったら自らの命を絶って雪穂を守らなければならなかったという極端な非対称性があることだ。2人の属する階級は最初は同じだったが、雪穂だけが「成り上がった」。

 上の階級に属する雪穂は悪事を行う時も直接手は下さない。成り上がる前に起きた母親の死には「母親の自殺を見殺しにした」以上の積極的関与があった疑いがあるが、それですら疑惑止まりで、あとは悪事に直接関与せず、すべて亮司に犯行を命じたと推測される。「推測される」というのは、雪穂と亮司との会話はおろか、二人が同時に現れる場面さえ全く作中に描かれないからだ。その亮司は最初の父親殺しを初めとして、亮司の犯行がついに露呈して*6亮司が自殺に追いやられる原因になった最後の「かつての使用人殺し」、それに雪穂の秘密をつかんだ探偵の今枝と、他にもいたかもしれないが手を下して何件もの殺人を犯している。しかし最後の今枝殺しは、同じく亮司が実行犯となった3件の女性襲撃事件とともに、雪穂が命令したという以外の解釈は不可能である。従って雪穂と亮司とは同格なのではなく、ラスボスの独裁者はあくまでも雪穂であって、亮司もまた雪穂の犠牲者であったといえる。東野圭吾がその雪穂を最後に生き延びさせたことは、続篇を書く意図が最初からあったためであって、さらに3部作の意向が東野にあるとしたら、もしかしたら東野は前述の『悪童日記』を書いたアゴタ・クリストフ(1935-2011)の『ふたりの証拠』(1988)と『第三の嘘』(1991)を意識しているのかもしれない。しかし仄聞というか、ネットでチラ見したところによると、『小説すばる』に連載された『白夜行』では、前述の通り雪穂と亮司との会話はおろか二人が同時に描かれることさえないのに対し、『週刊プレイボーイ』に連載された「幻夜」では悪のヒロインと相棒の男との会話があり、命令する側とされる側という関係がはっきり示されているとのことだ。つまり一作ごとに物語が重層化して謎を深めていったクリストフ作品とは逆に、東野作品では二作目は一作目より構造が単純化されてしまった可能性があり、それが第三作に着手できない原因になっているのではないかなどと、第二作を読んでもいないにも関わらずアンチ東野ならではの勝手な想像をしている。

 本作を東野圭吾の最高傑作とする意見が結構多いらしいが、それは妥当な評価だと思う。それとともに、本作のような「暗黒小説」であれば東野の才能を認めても良いとは私も思う。ただ、『容疑者Xの献身』のような本当の極悪小説を「献身」だの「純愛」だのが描いた作品として「傑作」と評価されていることに対しては大いに異を唱えるし、それに対して何も言わない東野自身に対しても、今まで以上に強い批判的態度をとらなければならないと確信するに至った次第。

 東野圭吾は、政治にかつて関わったり今も政治家をやっている人になぞらえるなら、橋下徹山本太郎と相通じる人ではないだろうか。間違っても香港の反体制活動家・周庭が読んで楽しむべき作家ではないことだけは絶対に間違いない。

 周庭が愛読しているのは、村上春樹東野圭吾だそうだが、二人はともに文庫本に解説文をつけさせない共通点はあるが、二人の作品世界は全く異なる。

 そうそう、亮司に命じて自らの秘密を探る探偵を殺させた『白夜行』のヒロイン・雪穂から連想される人間がもう一人いた。それは、政敵を次々と毒殺させたロシアの独裁者。ウラジーミル・プーチンだ。橋下徹山本太郎プーチン寄りの意見を再三表明してきた*7。そして東野圭吾も自作のヒロイン・雪穂とその相棒・亮司に寄り添った作品を書いたが、自らも成り上がった東野が本当に寄り添っていたのは雪穂であって、東野は最後に亮司を切り捨てることに躊躇はなかったのだった。

*1:1990年代の古い版ではなく、2014年に雲取山に登る前に買い直したもの。

*2:https://www.aokiuva.com/bbest100crimeallcwa.html。クリスティ作品では5位に『アクロイド殺し』、19位に『そして誰もいなくなった』が選ばれているが、この2作に次ぐクリスティ作品の第3位とされている。

*3:作中では「五十六年」と、元号(昭和)を省略して書かれている。

*4:暗黒小説。「ノワール」とはフランス語で「黒」の意味。

*5:馳は1965年2月18日生まれ、東野と同じく早生まれなので、学年でも馳は東野の7年下になる。

*6:この証拠が露呈するくだりは、東野がのちに書いた『聖女の救済』(2008)を連想させる。なおこの作品の結末でヒロインは逮捕されるが、東野は彼女を殺していない。

*7:機を見るに敏な橋下は掌返しを始めたようだが。