KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

"Roman holiday"(ローマの休日?)の本当の意味を教えてくれたアガサ・クリスティ『死との約束』は読者を選ぶかもしれないが「隠れた名作」だ

 はじめに、今回はミステリ作品の犯人当てに関するネタバレを極力避ける努力をしてみた。だから今回は作品を未読の人は読まないでいただきたいとは書かない。但し、記事から張るリンクの中にはネタバレが含まれるかもしれない。また、ネタバレは極力避けたとは言ってもヒントは書いたので、それも知りたくない方はやはり読まない方が賢明だろう。

 アガサ・クリスティのポワロもの長篇33作のうち第16作の『死との約束』(1938)を読んだ。この作品は早川書房の日本語版版権独占作品とのことで、昔から今に至るまで高橋豊(1924-1995)の訳でしか読めないようだ。私は本作に先立つ15作は、ポワロものの中で飛び抜けて不出来として悪評の高い第4作『ビッグ4』以外すべて読んだが、第17作『ポアロのクリスマス』以降は一作も読んでいない。基本的に出版順に読んでいるが、実際には1943年に書かれた最終第33作の『カーテン』をどのタイミングで読むかは思案中だ。しかしその一方で、そろそろクリスティを読むのをしばらく中断しようかとも思っている。このところあまりにもクリスティ作品を含むミステリにばかり読書が偏っており、これはよろしくない傾向だからだ。

 しかし、今回全く期待せずに読んだ『死との約束』は思わぬ掘り出し物だった。なぜなら、クリスティは犯人を当てやすいミステリ作家だと思っていた私が、今回ばかりは作者に完全にやられてしまったからだ。野球でいえば投手が6点をとられて打線は相手投手に完全試合をやられたような、そう、1994年にカープが某球団相手に経験したような完敗だった。

 

www.hayakawa-online.co.jp

 

 上記ハヤカワ・オンラインのリンクに表示される「いいかい、彼女を殺してしまわなきゃいけないんだよ」という言葉で物語が始まる。タイトルも書き出しも物騒な本作に、最初のうちは全然気乗りがしなかったが、作者が思わせぶりに出してくるヒントが全く読み取れない。犯人候補も何人か考えてみたが、いずれも決め手を欠く。そして最後の最後にあっと言わされた。

 何度も書くが『アクロイド殺し』は中学生時代に読んでいる最中、級友にネタバレを食った。とはいえ、その時点で私は真犯人を疑っていた。その『アクロイド』を今年47年ぶりに完読して、クリスティが時には無防備なくらいヒントを出していたことを確認した。中学生時代は「あのパターン」自体知らなかったが、クリスティは基本的にヒントを多く出す作家なので、注意深く読みさえすれば、アリバイ作りの手口までは読み取れなくとも真犯人の目星くらいはつくことが多い。現に、感想文のサイトを見ていたら、当時と私と同じくらいの年齢の読者が友人に本を貸した時、「ねえあれってあの人が犯人じゃない?」と正解を言い当ててきたという投稿があった。その投稿者の友人は、きっと中学生時代の私と同じような読み方をしていたのだろう。

 まず第1の疑問だが、なぜホテルから動かないはずのボイントン一家が一転してペトラに行ったのか。第2の疑問は、ボイントン夫人はなぜ息子や娘たちに一人を除いて自由行動をとらせたのか。この「一人を除いて」というのが巧妙なミスディレクションになっている。

 さらに第3の疑問だが、ボイントン夫人殺害後にポワロが証人たちを尋問した時、なぜある人物が「信頼できない証人」であることを強調したのか。

 誰を犯人と見立ててもこの3つの疑問は解けない。第1と第2は、ある登場人物を疑わせる理由になるが、それでも第3の疑問は解けない。

 結局全くノーマークの人物が犯人だった。手も足も出なかった。

 私は本作をかなり高く評価する。それなりの欠点もある作品なので、最高傑作『アクロイド殺し』やそれに次ぐ『そして誰もいなくなった』と並び称するわけにはいかないが、今まで読んだクリスティ作品中でのベスト5には入る。

 ただ、本作には『オリエント急行の殺人』への言及があるので、『オリエント』を読む前に読まれることは絶対におすすめできない。また、ポワロもの初期の諸作を読んで、クリスティのパターンに慣れてから本作を読んだ方が良い。特に、本作は第13作『ひらいたトランプ』と関連があり、第14作『もの言えぬ証人』とはさらに強い関連があるので、この2作に続いて読むのがベストだ。本作には前記の2作とは異なる大きな特徴がある。それは「被害者の心理を読み取ることがポイント」であることだ。

 本作は、ハヤカワのクリスティー文庫には珍しく、東野さやか(1959-)氏の解説文を読んでもネタバレには合わない。東野氏は、私の大嫌いな東野圭吾(1958-)と同性のうえ、年齢も出身地も近いが(幸いなことに)関係ない。英米文学翻訳家で、ハヤカワからいくつか翻訳本を出しているが、クリスティの作品の訳本はなさそうだ。さやか氏(以下、東野圭吾と区別するために「さやか氏」と表記する)は、被害者が殺されるまでを描いた第一部のとある場面を示唆しながら、下記のヒントを読者に与えている。以下引用する。

 

(前略)実はこの過程でさりげなく伏線が張られているのだが、なにしろ冒頭のあの言葉があまりに強烈で、そこに木を取られて見逃しがちだ。そういうふうに、読者の気をそらすやり方も本当にうまいなあと、今回あらためて読んで感心した。この解説から読んでいる方はぜひ、はやる気持ちをおさえ、第一部をじっくり読んでみてほしい。まあ、それで犯人を言い当てられるとは保証しないけれど。(本書388頁)

 

 私は前述の通り、今回読み始めた時にあまり気が乗らなかったので、本編を読み始めて間もない時点でさやか氏の解説を読んだが、このヒントを頭に入れて読んだものの伏線は読み取れなかった。さらに被害者が殺されたあとの第二部第四章に、当該の場面を登場人物から聞いたポアロ*1が「ボイントン夫人の心理が、この事件では重要な意味を持っているのですよ」(本書208頁)と言っている。この言葉を読んで、本書第一部第九章中の当該の場面(同108-110頁)を読み返したが、それでもわからなかった。

 いつものように、読了後アマゾンカスタマーレビューや読書メーターを見たら、後者の中に「犯人がわかった」と書いた人が2,3人いたが、わかった根拠は書いてなかったので、おそらく単なるまぐれ当たりというか、山勘が当たっただけであろう。私見では本作の犯人をきちんと根拠を示した上で言い当てることはきわめて難しい。おそらく『三幕の殺人』中の第1の殺人の動機を当てるのと同じくらい難しいのではないか。あるいは、書きたくはないが東野圭吾の邪悪な作品である『容疑者Xの献身』の仕掛けを当てるのと同じくらい難しいかもしれない。

 ただ、クリスティと東野圭吾で違うのは、さるブログ記事に「ここでやっと読者への出題がされている、っぽい」ものの、結局「読者への正々堂々とした出題はされない」と評された、いささかアンフェアな感のある東野の『容疑者Xの献身』とは大いに違って、クリスティは前述の通り「ボイントン夫人の心理が、この事件では重要な意味を持っている」とポアロに語らせることによって、読者への出題をフェアに行っていることだ。

 

 最初に書いた通り、本作を原作とした三谷幸喜脚本、野村萬斎主演のテレビドラマが今年(2021年)3月6日にフジテレビで放送された。ドラマは舞台をはじめとする設定を本作とかなり変えているものの、犯人は原作に対応する人物だったらしい。なおイギリスBBCでテレビドラマ化されたときには犯人も変えられていたとか。さらにその昔には1988年に『死海殺人事件』というタイトルで映画化されたが、これは当たらなかったらしい。本作は派手な『ナイルに死す』とは違って心理劇なので、よほどうまく作らなければ映像化は難しいだろう。今春のテレビドラマも、配役で犯人がわかってしまったという、かつて東野圭吾が2時間ドラマを皮肉った事例が当てはまっているとの指摘も目にした。

 脚本の三谷幸喜は原作の『死との約束』を下記のように評している。

 

 三谷さんは「『死との約束』は、アガサ・クリスティーの隠れた傑作です。ポワロ物で、僕がいちばん好きな作品です。事件が起こるまでのワクワク感。真相が明らかになっていくドキドキ感。そしてラストのあまりに意外な犯人。今回も原作のテイストを損なわないように脚色しました。キャスティングも完璧です。極上のミステリーを堪能あれ!」とコメントしている。

 

出典:https://mantan-web.jp/article/20201215dog00m200040000c.html

 

 おそらく三谷幸喜も犯人を当てることができなかった口だろう。ここからは想像だが、三谷は脚本家だから人間心理を読むことが商売の仕事をしている。だから、クリスティ作品のうちかなりの割合について、犯人を言い当てることができていたのではなかろうか。しかし「あまりに意外な犯人」と言うからには、三谷自身にも想像もつかない犯人だったに違いない。

 しかしテレビドラマとなると様相は一変する。配役から犯人が見当がつくという要因以外に、そもそも視覚化するという行為そのものが犯人を当てやすくしてしまう。本作はそんな性格を持つミステリだと思う。だから、本作を原作とした映像作品を見る機会を得られた方は、是非ともそれを視聴する前に原作を読んだ方が良い。こんなことを、ドラマの放送が終わって7ヵ月も経ってから書いても無意味かもしれないが。

 ポワロものでは第13作『ひらいたトランプ』以降顕著になった心理劇系統の作品の中でも、本作は『ひらいたトランプ』や第14作『もの言えぬ証人』と比較してもすぐれているといえるだろう。特に『もの言えぬ証人』が好きな人は、本作をもっと気に入るのではないかと思う。

 私は読んでいないが、霜月蒼氏の『クリスティー完全攻略』(講談社2014)では『もの言えぬ証人』が『アクロイド殺し』と同じ4.5点(5点満点)で、本作『死との約束』は『アクロイド』をも上回る5点満点をつけている。もっとも『ひらいたトランプ』には2点しかつけておらず、私が常々「裏表紙と目次を見たら犯人とストーリーの流れがわかり、読んでみたらその通りだった」と馬鹿にしている『邪悪の家』(『エンドハウスの怪事件』)に3.5点もつけているなど(私だったら1.5点かせいぜい2点しかつけない)、霜月氏とはかなり評価が異なる作品も少なくない。マープルものでも、江戸川乱歩が激賞して私も大いに気に入った『予告殺人』に霜月氏は2点をつけている。

 しかしまあ、読者によっては本作を気に入らないであろうことも想像はできるので、そこを争うつもりはない。本作は、『アクロイド殺し』とともに、大いに読者を選ぶ作品であるに違いない。好きな人はめちゃくちゃ好きだろうが、嫌いな人は下記ブログ記事の例のように、5点満点で2点をつけて酷評している。

 

www.kakimemo.com

 

 上記ブログ記事を選んだのには理由がある。以下、記事の冒頭部分を引用する。

 

ナイルに死す』に続く、名探偵エルキュール・ポアロシリーズの十六作目です。ローマン・ホリデーのように感じる話です。

 

ローマン・ホリデーのような

 

作中にローマン・ホリデーという言葉が出てきます。意味は「他人を苦しめて得られる娯楽」です。

そう言った人物に対してポアロは、「エルキュール・ポアロがくだらない探偵ごっこをして遊ぶために、ある家族の個人生活をめちゃめちゃにひっかき回そうとしていると?」と、言うのですがそう読み取れても仕方ないような印象を受けました。

理由はいくつかあります。被害者のおばあさんはサディストで独裁者です。その権力で家族を従わせおり、端から見ても異様に感じられる様子が描かれています。そのため、亡くなった理由はどうであれ、残った家族は誰も困りません。むしろ幸せになることが容易に分かります。つまり、余計なことをポアロがしているように感じます。

 

出典:https://www.kakimemo.com/book-report-agatha-christie-appointment-with-death/

 

 引用箇所はハヤカワのクリスティー文庫版では198頁に掲載されている。

 そういう印象は私も持ったし、別の登場人物が「オリエント急行の殺人事件」を引き合いに出してポアロも責める場面もある(同251頁)。

 しかし本作をひいきにする私は、その印象は本作の結末でみごとに覆されるんじゃないのかなあと思った。結局本作の結末をどう思うかが評価の大きな分かれ目になるのだろう。

 それはともかく、上記ブログ記事に引用された「ローマン・ホリデー」の意味を、本作を読むまで私は知らなかった。重複するが、以下に本作から直接引用する。

 

ポアロさん、あなたはこれがローマン・ホリデー(他人を苦しめて得られる娯楽)にならない自信があるのですか。(本書198頁)

 

 そうか、"Roman holiday" とはそういう意味だったのか。恥ずかしながら初めて知った次第。さらに調べてみると、「ローマの休日*2」という文字通り意味であれば、"a holiday in Rome" と表記されるはずだという。確かにその通りだ。

 そうすると、あの有名な1953年のアメリカ映画の邦題は誤訳であり、『ローマ人の休日』とすべきだったのかもしれない。

 淀川長治(1909-1998)はテレビの映画番組の解説でこのことに触れていたという。

 

cinema.pia.co.jp

 

 以下引用する。

 

淀長さんの言った原題の意味

2008/10/30 20:19 by  青島等

 

淀川長治さんは“まあ!なんていやらしい題名”と嫌味を言いましたがその意味を追求すると

ローマの休日」(ローマでの休日orローマにおける休日)を英語にすると
A Holiday of Rome
又はA Holiday in Romeになる。ところが
Roman Holidayを直訳すると『ローマ人の休日』ローマ帝国時代の貴族の楽しみを意味する。
スパルタカス」で描かれた奴隷(ユダヤ人)同士を死闘させたり奴隷とライオンを闘わせたりをショウとして楽しむ…転じて『野蛮な見世物』という裏の意味がある。
脚本が同じダルトン・トランボならではの深い皮肉が込められていると思います。
プロローグのアン王女のワルツの相手は棺桶に片足を突っ込んだような動くロウ人形というか生ける屍みたいなジジイばかりで彼女は口臭や同じ自慢話を繰り返す雑音に耐えながら踊っている。
まるでライオンと死闘をやらされている奴隷剣闘士と同じ状態である。
≪隠し砦の雪姫≫は“六郎太、その忠義ヅラ見るのも嫌じゃ!”と怒鳴ったりお気に入りの馬に乗ってストレス解消しているが、アン王女は一挙一動全てを側近から命じられたままの奴隷である。
それに比べてローマ人たちの末裔たちは花屋、アイスクリーム屋、美容師と休日でなくとも楽しそうに生き生きしている。
トランボのテーマはやはり奴隷解放=自由への憧れですね。

 

出典:https://cinema.pia.co.jp/com/2791/431672/

 

 本件に関しては、引用はしないが下記記事にもリンクを張っておく。

 

 そして、本件から直ちに連想されるのは、昨日公開した『kojitakenの日記』の下記記事で論じた一件だ。

 

kojitaken.hatenablog.com

 

 上記記事で批判した安積明子や日本のネトウヨ、それに天皇制の支持者たちが現在やっていることこそ "Roman holiday" そのものなのではなかろうか。

 

 クリスティの『死との約束』に話を戻すと、被害者のボイントン夫人がやっていたことこそ「他人を苦しめて喜ぶ娯楽」だった。家族だろうが他人には違いない。そして、現在の日本に目を移すと、安積明子やネトウヨ天皇制支持者たちは小室氏や眞子氏を苦しめることによって「他人を苦しめて喜ぶ」娯楽を享受している。また今回の自民党総裁選を通じて、安倍晋三という人間もまた "Roman holiday" を思いっ切り享受したように、私には見える。

 『死との約束』は1938年の作品で、有名なアメリカ映画の15年前に出版された。その映画 "Roman Holiday" は製作されたアメリカでは興行成績がさっぱりだったものの、イギリスやヨーロッパで大歓迎されたとのことだ。

 『死との約束』に出てくる名探偵ポアロ(ポワロ)が "Roman holiday" を楽しんだわけではないと私は確信する。その根拠は先に触れた本書208頁に書かれたポアロの言葉だ。

 そしてそれにもかかわらず、もしかしたら本書のタイトルは、現行の『死との約束 (Appointment with Death)』よりも『ローマ人の休日 (Roman Holiday)』の方がふさわしいのではないかと思う*3

 何より、本書は(少なくとも私にとっては)読後感が抜群に良かった。ベントリーの『トレント最後の事件』にも相通じる本作のようなエンディングはクリスティ作品でも稀だろう。少なくとも私がこれまでに読んだ32冊中では、本作に近い例が辛うじて1つあるだけだ*4。エンディングは本作のタイトルや書き出しからは想像もつかないものだ。いや、だからこそタイトルはクリスティ作品よりあとに作られた名作映画を思わせる "Roman Holiday" よりも現在の『死との約束』のままの方が良いのかもしれないが。

 あるいは、そんな読後感を持つ私のような読者こそ、もしかしたら誰よりも "Roman holiday" を享受しているのかもしれない。その理由は、本作の結末をご存知の方ならおわかりになるのではなかろうか。

*1:私は「ポワロ」表記の方を好むが、ハヤカワのクリスティ文庫は「ポアロ」表記なので、同文庫から引用した箇所では「ポアロ」表記とする。

*2:カナ漢字変換で「ローマの窮日」がで変換候補として出てきたが、かつて故中川昭一(1953-2009)がローマで失態を演じた時にこの表記で揶揄されたことをブログ記事(http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-850.html)で取り上げたことがあるためだろう。

*3:そう断定する根拠は本書116頁に書かれている

*4:この2作とは対極にある極めつきの悪例として、前記東野圭吾の某作(『容疑者Xの献身』ではない)をも思い起こさせた。これ以上は書かないが。