KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

フィルポッツ『赤毛のレドメイン家』、クリスティ『予告殺人』『シタフォードの秘密』、横溝正史『蝶々殺人事件』、坂口安吾「推理小説論」を読む(ネタバレ若干あり)

 本記事には、表題作その他のミステリのネタバレが若干含まれているので、これらの作品を未読かつ読みたいと思われる方は、本記事を読まれない方が賢明かと思う。

 最近多く読んでいるアガサ・クリスティ(29冊)から少し離れて、同時代の人であるクロフツ1920年代と30年代に書いた『樽』と『クロイドン発12時30分』を読んだことは前回書いたが、クリスティやクロフツに関連して戦前の日本で評判の高かったミステリのうち、イーデン・フィルポッツの『赤毛のレドメイン家』(1922)の新訳版が2019年に創元推理文庫から出ていて、それが図書館に置いてあったので借りて読んだ。発行は一昨年で、図書館にはあまり借りる人もいないらしく、新品同様だった。

 

www.tsogen.co.jp

 

 このフィルポッツという人は特にミステリ作家というわけではなく普通小説、特に「ダートムアもの」と呼ばれる田園小説を多く書いた作家で、少女時代のアガサ・クリスティの隣家に住んでいて、創作を始めたばかりのアガサの小説にアドバイスを与えたとのことだが(クリスティの自伝にそう書いてあるらしい)、50歳の1912年からミステリ的な要素のある小説も書くようになたらしい。クリスティ(やクロフツ)がミステリ作家としてデビューした1920年の2年後に発表された『赤毛のレドメイン家』を江戸川乱歩が偏愛したために、本国のイギリスやアメリカ以上に日本で人気を博したそうだ。しかし、『赤毛のレドメイン家』を一読してみたが、ミステリとしても普通小説としてもさほど良いとは思えなかった。

 本作の2年前に刊行されたクロフツの『樽』と同様、途中で探偵役が入れ替わり、最初から出ていた「スコットランド・ヤードの出世頭の敏腕刑事」のはずの御仁が、物語の後半役では脇役になってしまう。創元推理文庫の旧版の解説では「ワトソン(ワトスン)役」と評されていたらしいが、私が読む限り、ワトソンどころかクリスティのポワロ(ポアロ)ものに出てくるヘイスティングズ並みの間抜けさだ。しかも、あとから出てくるまともな探偵役の方も、このヘイスティングズ的な相棒に留守の間を任せてしまい、みすみす親友を殺されてしまうという大失策を犯す。もちろん最後には犯人を逮捕するのだが、依頼人を殺してしまう探偵など最悪だろう。クリスティ作品に喩えてみれば、ポワロがヘイスティングズ依頼人の身柄確保を頼んだ結果、ヘイスティングズが美貌の悪女に騙された結果、みすみす依頼人が殺されてしまったようなものだ。しかも、共犯者であるこの美貌の悪女も魅力に乏しい。辛うじて実行犯の男には存在感があるが、彼とて飛び抜けて印象的とまではいえない。本作も作者のフィルポッツも英米ではすっかり忘れ去られているそうだが、それも仕方ないだろう。本作は完全な「外れ」だった。

 これに対し、クリスティ作品で新たに読んだ『予告殺人』(1950)と『シタフォードの穂密』(1931)は面白かった。前者はミス・マープルものの第4作で、前述の『赤毛のレドメイン家』同様江戸川乱歩が高く評価したほか、クリスティ自身も自作の10選に入れている。

 

www.hayakawa-online.co.jp

 

 昨年(2020年)がクリスティ没後100年に当たっていたため、ハヤカワクリスティー文庫から新訳版が出たが、読んだのは羽田詩津子(1957-)が訳したこの新訳版だ。それ以前には長く詩人の田村隆一(1923-1998)の翻訳で知られていたが、この田村隆一の訳は誤訳が多いことで悪名高かったらしい。

 

okwave.jp

 

 以下、「質問者が選んだベストアンサー」を引用する。

 

質問者が選んだベストアンサー

 

2009/06/25 01:54

回答No.2

 

noname#204885

 

クリスティ、大好きです。クイーン派の人からは非論理的と言われることもありますが、トリックと言うよりアイデアの秀逸さが素晴らしいです。「そして誰もいなくなった」もそうですが、推理小説を面白く読ませるアイデアのネタは殆どがクリスティの発案だと思います。

 

#1さんが挙げられているものは古典となっている代表作ですね。

亜流を多く生んだと言う点では、「ABC殺人事件」を追加しておきたいです。「オリエント急行」「アクロイド殺し」「ABC殺人事件」の3冊はあまりに有名過ぎてトリックのネタばらし本では必ず引用されてしまうので、もしwat_1987さんがまだこれらのトリックの情報を持っていないのであれば、一刻も早く読まれることをお奨めします。この3冊を予備知識無しに読めると言うのは幸運きわまりないことです。(うらやましい!!)

 

追加のお奨めとしては・・・

 

「鏡は横にひび割れて」

ミスマープルのシリーズで一番好きです。映画化もされました。いわゆる「Why dunit?:何故その人が殺されなければならなかったのか?」と言うテーマ。最後に動機が解明された瞬間に全ての構図が明らかになり、地平が一気に開けるような陶酔感が得られます。

 

「三幕の悲劇」

こちらはポワロが出てくる有名なWhy dunit?物。読後の納得感では「鏡は横にひび割れて」の方に軍配が上がりますが、亜流が多く生まれたと言う点ではこちらですね。

 

「予告殺人」は、昔のハヤカワミステリ文庫では致命的な誤訳があったことで有名。(私も読み終えて怒りました。)修正されていればマープル物のお奨めに入るんですが・・・。

 

「シタフォードの謎」はポワロもマープルも出ない初期のシリーズですが、冒頭のオカルト的な殺人予告の謎がきっちり論理的に解決される佳作です。

 

出典:https://okwave.jp/qa/q5072405.html

 

 私はクリスティ作品を29作読んだが、上記「ベストアンサー」のうち未読の作品は『鏡は横にひび割れて』だけだ。今回の記事で取り上げる『予告殺人』と『シタフォードの謎(シタフォードの秘密)』は両方とも挙げられている。印象に残っているのは『三幕の悲劇(三幕の殺人)』の "Why dunit?" であって、その犯人像はその少し前に書かれた『エッジウェア卿の死』や、少し後に書かれた『ABC殺人事件』と並んで「極悪人そのもの」としか思えなかった。ことに、『三幕の殺人』の "Why dunit?" を見破った読者などいるのだろうか。ポワロに種明かしされて呆気にとられるとともに、犯人と親しく付き合っていたエッグという女性の登場人物が気の毒でならなかった。『三幕の殺人』は私にとっては、その二番煎じとしか思えない『ABC殺人事件』などよりもよほど強いインパクトがあった。

 で、問題の『予告殺人』を訳した田村隆一の「誤訳」とは、ある登場人物が他の登場人物の名前をミス・マープルの前で呼び間違えた箇所で、呼び間違えなかったかのように名前が訳してしまったことらしい。これだと、マープルが犯人の正体を推理した重大なヒントが消されてしまう。そりゃ読み終えてから知ったら怒るはずだ。但し、田村隆一訳の旧版でも、ある時期からあとにはこの誤訳は訂正されたらしい。

 この「呼び間違い」は実に大胆不敵であって、私が気づいた限り3箇所出てきて、そのうち1箇所が前記マープルの前での発言だ。他の2箇所のうち1箇所では、呼び間違いに気づいてすぐに訂正し、話者が呼び間違えた人物に対してしきりに謝っているので、本当に重大なヒントになっている。さすがにこの場面では田村隆一も誤訳したりはしなかったようだ。

 このほか、本作には別のある人物の遺産相続人候補として「ピップとエマ」という双子のきょうだいが出てくる。"pip and emma" とは、調べてみると「午後(p.m.)」を表す古いイギリス空軍の俗語だそうだ。「きかんしゃトーマス」というイギリスの幼児向けテレビ番組にも、「ピップとエマ」電気機関車の愛称として出てくる。絵本にもなっているらしく、ピップの本名は最終第42巻で明かされるという。

 

onara.hatenablog.com

 

 以下引用する。

 

フィリッパとエマ(Philippa and Emma)

 

フィリッパは普段ピップ(Pip)の愛称で親しまれており、以下はピップと表記していく。フィリッパの名が判明するのは最終42巻。

元々ピップ、エマっていうのは午後(P.M.)を表す兵隊間で使われた暗号のことだそうで。今では了解の意味で普及してるラジャーなんかも暗号から来てるようで。「レシーヴのRはロジャーのR!」みたいな。閑話休題して本題に戻りましょう、始まってもないんだけどさ!

 

出典:https://onara.hatenablog.com/entry/2017/07/01/190432

 

 そう、ピップとは愛称で、正式名称は上記のフィリッパまたはフィリップなのだ。前者は後者の女性形である。

 そして、本作にはフィリッパ*1という女性の登場人物がおり、この人物こそ遺産相続人候補の1人であう「ピップ」だった。

 しかし、これを読者に気づかせないように、作者は「ピップとエマ」とは双子の兄妹なのだと思わせるミスリードをしており、先にさらなる別の登場人物が、「私がエマだ」と名乗りを上げる。そしてこの人物には双子の兄のはずの人物がいるのだが、その2人は実は双子ではなかったのだった。

 前述の「名前の言い間違い」も愛称にかかわるものだ。しかし、これほど「どうぞ気づいて下さい」といわんばかりの言い間違いになかなか気づけない。

 特に私は、直前に読んだ(前回の記事で取り上げた)『もの言えぬ証人』では愛称の件に気づいたにもかかわらず、本作では気づけなかった。なぜかというと、言い間違えられた人物の名前は "Letitia Blacklock"、愛称「レティ」というので、「ロティ」と呼び間違えられても、ファミリーネームの「ブラックロック」の「ロ」が紛れ込んでしまったものではないかと軽く考えてしまったのだ。

 このあたりは、ネイティブのイギリス人や同じ英語を使うアメリカ人なら、もっと気づくチャンスは多いのではないかと思うのだが、実際はどんなところなのだろうか。

 ピップとエマの件についていえば、ピップとは別に「フィル(Phil)」もフィリップまたはフィリッパの愛称として使われており、現にフィリッパが「フィル」と呼ばれる場面がある。また、女性形のフィリッパの場合は "Pippa" という愛称が用いられることも多いようだ。だから、ピップという名前から主要登場人物たちが皆ピップは男性だったと思い、読者にもそのことを疑わせなかった。ただ、引っ掛かるのは、ピップの実の姉妹であるエマ(パトリックの双子のきょうだいの名前であるジュリアとい偽って名乗っていた)は、ピップが女性であることを知っていたにもかかわらず、フィリッパがピップであることに気づかなかったことだ。これはいささか不自然ではないか。

 それにしても私はかつて筒井康隆の『ロートレック荘事件』(1990)では人の姓名にかかわる叙述トリックを見破った。それなのに、外国語という言葉の障壁があるとはいえ、本作での人命のトリックは「レティ、ロティ」の謎も「ピップ」の正体も見抜けなかった。直前に、やなり愛称のトリックを使った『もの言えぬ証人』を読んでいたというのに。「やられた」と思った。

 本作の真犯人自体は、クリスティ初期のポワロものの『エンド・ハウスの怪事件』(これはもともとガラス張りのように構造がミエミエの作品だった)と同じパターンだし、2件目、3件目の殺人になると「この人しかいない」というほどあからさまヒントを作者が出しているので、"Who dunit?" 自体は簡単に見抜けたが、本作はあくまで「レティ、ロティ」の謎を見破れなければ「犯人がわかった」ことにはならない。これを見破る手がかりを作者は大量に与えていた。たとえば、レティシアがシャーロットに宛てた手紙がなぜかレティシアのトランクからでてきたこともその一つだ。「これでもまだ気づかないの?」と作者が余裕綽々で書いていたことがあとから伝わってきて、地団駄を踏んだが後の祭り。なお、マープルが真相を明かした時に私が連想したのは松本清張の『砂の器』(1961)だったが、この清張作品の成立は本作より11年遅い。

 本作には、日本語には訳しようがないと思われる手がかりがあって、それは「問い合わせ」を意味する2つの綴り "enquiries" と "inquiries" だ。ネット検索で確認する限り、両者の意味は全く同じであって、前者がイギリス英語、後者がアメリカ英語で多く用いられるものの、前者を用いるのはイギリス人に限らず、後者を用いるのはアメリカ人に限らないとのことだ*2。新訳版の訳者・羽田詩津子氏は、おそらくここは訳し分けようがないと考えて、ともに「問い合わせ」の訳語を使ったため、種明かしの場面で初めて綴りの違いが説明される。しかし、旧訳版の「読書メーター」に、このことを論った批判をしている人がいて、たとえば「問い合わせ」と「問合せ」という訳し分けができるはずで、それをやっていない新訳版には不満だ、などと書いている*3。しかしこれは、私にはいちゃもんとしか思えなかった。確かに「問い合わせ」と「問合せ」等の訳し分けは可能で、あるいは田村隆一訳の旧訳ではそのように訳していたのかもしれないが(未確認)、新訳は田村訳(の古い版)のような「致命的な誤訳」はやらかしていないのではないか。私は今春、同じ訳者(羽田詩津子氏)による『アクロイド殺し』を読んで、たいへん読みやすい訳文だと好感を持っていたので、このレビューにはいささか腹を立てた。

 本作はクリスティが60歳を迎えた1950年に書いた作者50番目の長篇だ。しかし作者のクリスティ自身や江戸川乱歩らに高く評価された作品の割には、読書サイト等での評判は高くない。真犯人が簡単にわかったことを低評価の理由に挙げる人が多い。しかし、前述のように、「レティとロティ」その他、作者がふんだんに与えた手がかりから真犯人の『砂の器』的正体を見破ることができなければ犯人がわかったことにはならないというのが私の意見だ。そこには言語の違いで英語の愛称なんか知らないというハードルは確かにあるが、仮に『エンド・ハウスの怪事件』(または『邪悪の家』)や『もの言えぬ証人』を読んだ読者であれば、当然気づくチャンスはあったはずだ。しかし私にはそれができず、「やられた」と思った。『エンド・ハウスの怪事件』では、「そもそもマグダラなんて名前のイギリス人女性なんかほとんどいないだろ」とブーたれることができたが、レティとロティではその言い逃れは通用しない。作者はシャーロットという妹の名前をなかなか出さなかったが、一度名前が出てきたあとは何度も出てくるし、マープルのメモに「ロティ」と書いてあったりもする。このマープルのメモは、誰かが指摘していた通り、エラリー・クイーンの「読者への挑戦」に相当するものだろう。それでもこの「入れ替わり」または「成りすまし」に気づかなければ、いくら「レティ」が犯人だと早々に気づいたとしても、作品に仕掛けられたトリックがわかったことにはならないのである。

 その意味で、本作はまずミステリとして高く評価できるし、犯人を初めとするキャラクターの造形でも、作者が若い頃の作品と比較して格段に深みを増していると思う。まず犯人が、本作が下敷きにしたと思われるポワロものの『エンド・ハウスの怪事件』の他、『エッジウェア卿の死』、『三幕の殺人』『ABC殺人事件』などの1930年代のポワロものの諸作品に共通する極悪人ではなく、もともとは善良であり、殺人を犯したあとでも、たとえばミッチという外国人(おそらくハンガリーあたりの中欧の出身)のメイドに対するまなざしも、他の登場人物と比較して優しい。それは、犯人自身も若い頃に病気に苦しめられた経験を持っているからかもしれない。他の登場人物の多くが、イギリス人的島国根性からミッチに対して偏見を持って「嘘つき」と非難するが、犯人は、戦争中に親族の誰かが殺された経験から、被害を実際より過大に思い込むようになり、それが結果的に嘘になったのであって、悪意があるわけではない、その気になればおいしい料理を作ることもできる、などと取り調べで答えてミッチを庇っている。ネット検索で、ミッチの描き方が外国人に対する作者の差別意識を反映していると批判した感想文をみつけたが、それは誤読だ。差別意識を持っているのは作中の「イギリス的島国根性を持つ」登場人物たちであって、クリスティの目線は彼らとは違い、作中の「本当は心優しい」真犯人と同じだ。ハンガリーの政権は第2次大戦中にはナチスに協力したが、その過程で犠牲になった同国人は多数いたに違いないし、戦後はスターリンソ連に圧迫された。本作が成立した6年後の1956年にはハンガリー動乱が起きている。ミッチはナチスドイツかスターリンソ連のどちらかに親族を殺された人であることくらいは、1950年にイギリスで書かれた小説を読む人なら想像できなければならないのではなかろうか。クリスティは確かに保守の人だったが、少なくとも1950年当時60歳のクリスティは、戦争の傷跡を持つ外国人に対して理不尽な差別意識を垂れ流すような人ではなかった。今の日本のネトウヨとは全然違うのである。

 ミッチに優しい視線を向けたことから明らかなような、本来は心優しい女性を殺人犯に変えてしまったのは「成りすまし」による遺産の詐取だった。そして犯人は、自らの過去を知る人間を殺した。このあたりが『砂の器』を強く連想させる。こういう犯人の人生を思った時、「真犯人が簡単にわかったから大したことないミステリだ」というのではあまりにも読みが浅く、せっかくミステリの名作を読んだのに、そんな読み方ではもったいないのではないか。これは、私が松本清張の愛読者だからそう思うのかもしれない。『砂の器』は、トリックだけを取り出せば三流の作品だろうが、それでもミステリ史に残る名作として今も読み継がれている。それには未だ一度も見たことがない同作の映画の貢献が大きいのだろうけれど。そういえば、中国・四国在住時代に島根県亀嵩に行っておけば良かったと今でも時々思う。今では中国山地の麓は遠いし、コロナ禍が続いているからチャンスはないけれど。

 

 最後に、同じクリスティの『シタフォードの秘密』。本作は、前述の『予告殺人』の旧訳で「致命的な誤訳」をやらかしたらしい田村隆一の翻訳で読んだ。

 

www.hayakawa-online.co.jp

 

 実は氏が翻訳したクリスティ作品を読んだのは、29作目にして本作が初めてだった。あまりにも氏の誤訳の多くが知れ渡って批判されたためかどうか、早川書房は有名作から順番に氏の翻訳を現在の翻訳家が訳した新訳版に差し替え続けているようなのだ。

 前述の『予告殺人』は最近まで田村隆一訳が残っていた、有名作にしては珍しい麗だったが、ついに昨年新訳版に差し替えられたわけだ。しかし、読書サイトなどでは、既にその一例を取り上げたけれども、田村隆一の旧訳版を持ち上げて新訳版を批判するレビュアーが少なからずいる。特に、田村訳ではポワロ(ポアロ)の口調が慇懃(無礼)であるらしく、「タメ口で喋るポアロはイメージに合わない」などと書く人が多い。しかし、田村隆一以外の訳者では、(過度に)慇懃な口調でしゃべるポワロの方が珍しいくらいであり、むしろ田村氏以外の翻訳にばかり接してきた私としては、その手のレビューを読むたびに、そんな誤訳の名人ばかり有難がるなよ、と内心毒づいていたのだった。といっても、別に故田村隆一氏に反感を持っていたわけではない。『シタフォードの秘密』が田村氏訳と知って、ついに氏の翻訳に接する機会がめぐってきたかと思った。

 本作を読もうと思ったきっかけは、坂口安吾の「推理小説論」(1950)で絶賛されていたことを知った時だ。下記に青空文庫へのリンクを示すが、多くのミステリのネタバレ満載なので読む時には注意が必要だ。私は、未読の作品が出てくる度に、直ちにその部分を飛ばしながら読んだ。そして、坂口が論評した作品を読み終える度に彼の論評を読むことを繰り返している。

 

 坂口が取り上げたミステリのタイトルは、下記ブログ記事で知ることができる。このブログ記事ならネタバレに遭う心配はわずかしかない。

 

trivial.hatenadiary.jp

 

 ただ一点だけ、クリスティの『三幕の殺人』について、

この作品のメインはホワイダニットなので、この程度のネタばらしはどうでもいいような気もするが、まあ予断なしに読むに越したことはないでしょう。

と書かれていることには同意できない。坂口安吾の文章が頭に入った状態で『三幕の殺人』を読むと、途中で犯人がわかってしまうからだ。確かに、誰も気づくとは思えない「ホワイダニット」がメインのミステリだし、犯人そのものは比較的見当がつきやすい作品ではあるが、それでもネタバレによって犯人がわかってしまうのは痛い。ラスト近くのさる場面は、真犯人を知りながら読んだのでは大いに興が殺がれてしまう。

 ところで坂口安吾が「推理小説論」で絶賛したのがクリスティの『吹雪の山荘』という作品だが、そんな名前の作品など見たこともない。ネットで調べて、現在では『シタフォードの秘密』というタイトルになっている作品だとわかった。それで、坂口の「推理小説論」を読むのはそこでいったん中断して*4図書館で『シタフォードの秘密』を借りて読んだ。読んだ限り、特に読みにくかったり意味が通じにくかったりする箇所にはぶつからなかった。

 なお、下記ブログ記事に『ABC殺人事件』における田村隆一の誤訳が、中村能三訳及び堀内静子訳と対比されて示されている。この例など相当にひどい誤訳であって、原文と正反対の意味に訳されてしまっている。 

 

 『シタフォードの秘密』の特徴は、なんといってもその単純なトリックにある。坂口安吾が絶賛したのも、まさにこの点だ。以下坂口の「推理小説論」から引用するが、下記の引用部分には、本作のトリックはまだ暴露されていない。トリックの特徴が論じられているだけだ。坂口はエラリー・クイーン及び他のミステリ作家を引き合いに出して、「クリスチー女史」を絶賛している。

 

 だいたい推理小説というものは、トリックの新発明が主要な課題となり、これによって読者と智恵くらべをするものだ。読者は、又、作者と智恵くらべをたのしむに当って、従来のトリックを多く知るはど興味が深まるものであり、こうして従来のトリックをマスターしたアゲクには、自分もひとつ推理小説を書いて未知の友に挑戦したいと考える。これが推理作家の生れる自然の順序で、本来アマチュア、愛好家という素人によっで新分野のひらかれるべき世界だ。

 推理小説というものは、常に新しい工夫、新トリックの発見によって挑戦するところに妙味があるのだから、そうヒョイ/\と卵を生むようなワケには行かず、厳密な意味では職業作家としては成り立たないのが自然なのである。濫作して、マンネリズムにおちいっては、ゲームの妙味が失せてしまう。

 ヴァン・ダインも、愛好家から、挑戦を思いたって自ら作品を書くようになったもので、アマチュアあがりらしく挑戦をたのしんでいる素人のよさや、ついでに衒学をひけらかして読者を煙にまいている稚気のほども面白くはあるが、素人の悲しさに文章がヘタで冗漫すぎること、したがって、衒学ぶりが軽快さを失って、作品を重くし、退屈にしていること、素人の良さ悪さが差引きマイナスになっている。このマイナスのところを主として模倣して、重さ退屈さに輪をかけてしまったのが小栗虫太郎であり、これが後日の日本の推理小説の新人に主たる悪影響を及ぼしているのである。

 しかし、根からの推理作家という天分にめぐまれた人もないことはない。どんなに濫作しても、謎ときのゲームに堪えうるだけの工夫と確実さを失わないという作家である。アガサ・クリスチー女史とエラリイ・クイーンが、そうである。

 クリスチー女史の華麗多彩な天分に至っては、驚嘆のほかはない。あれほどの濫作をして、一作毎に工夫があり、トリックにマンネリズムが殆どなく、常に軽快な転身は驚くばかりである。文章も軽快、簡潔であって、謎ときゲームの妙味に終始し、その解決に当って、不合理によって読者を失望させることが、先ず、すくない。ただクリスチー女史には、優雅な美人は絶対に犯人にならないという女らしい癖があって、この癖が分ると、謎ときがよほど楽になるのである。

 一般に「アクロイド殺し」をもって代表させているが、却々(なかなか)もって一作二作で片づけられるようなボンクラではなく、「スタイルズ荘」「三幕の悲劇」その他傑作は無数であるが、特に「吹雪の山荘」は意表をつくトリックによって、軽妙、抜群の発明品であり、推理小説のトリックに新天地をひらいたものとして、必読をおすすめしたい。

「吹雪の山荘」のトリックほど平凡なものはない。現実に最もありうることで、奇も変もないのであるが、恐らく全ての読者がトリックを見のがしてしまうのである。読者は解決に至って、あまりにも当然さにアッと驚き、あまりにも合理性の確実さに舌をまいて呆れはてるであろう。しかし、読みすすんで行くうちは、この悠々と露出しているトリックに、どうしても気附くことができないのである。このトリックの在り方は、推理作家が最大のお手本とすべきものであろう。

 クイーンも亦、クリスチー女史につぐ天才であり、筆も軽く、謎ときゲームの妙味に終始し、濫作しつつ、駄作のすくない才人であるが、トリックや推理の確実性、合理性という点で、クリスチー女史に一歩をゆずる。読者に決定的な証拠を与えていない場合が多く、組み立てに確実さが不足している。それが犯人であってもフシギではなかった、という程度にしか読者が納得させられない場合が多いのである。

 この二人をのぞくと、あとは天分が落ちるようだ。一二の傑作はあって、全作にわたっては駄作が多く、合理性が不足して、解決を読んで納得させられない場合が多い。概ね解決が意外であるが、合理的に意外であること、納得のゆく意外であることの重要な要素が欠けているのである。推理小説の解決は意外でなければならないが、不合理に意外ではゼロであり、不合理の意外さだったら、どんなボンクラでも不意打をくらわせることが出来るのは当然である。

 クロフツの作品は推理小説の型としては異色あるものだが、「樽」のような名作をのぞくと、駄作が多く、不合理に意外であったり、はからざる大集団の犯罪であったり、そのヒントが与えられておらず、謎ときゲームとしては、最後に至って失望させられることの方が多いようだ。

 カーも意外を狙いすぎて不合理が多すぎる。「魔棺殺人事件」は落第。

 個々の傑作としては、クリスチー女史、クィーン、ヴァン・ダインの諸作は別として、「矢の家」「観光船殺人事件」「ヨット殺人事件」「赤毛のレドメイン」ほかに思いだせないが、まだ私の読んだ限りでも十ぐらいは良いものがあったはず、しかし、百読んで、二ツか三ツ失望しないものがある程度だ。世界的に名の知れた人々の作品で、そうなのである。

坂口安吾推理小説論」より)

 

出典:https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/43189_22524.html

 

 前述のように、坂口安吾が傑作に数え入れた『赤毛のレドメイン(家)』でさえ、私には面白くなかった。クリスティの作品は、作者がかなりきわどいヒントを与えることが多いために犯人当ては比較的し易いが、トリックや動機まではなかなか当てにくく、そこが読者を飽きさせない特徴だと私は思う。

 『シタフォードの秘密』以外に単純なトリックといえば、『メソポタミヤの殺人』が思い出される。ポワロの謎解きの場面で「なんだ、そんなトリックかよ」と思ったが、読んでいる最中には全く思いつかなかった。読書サイトを見ると、ヒントが与えられていないと言ってずいぶん怒っている読者がいたが、頁をめくり返してみると、重大なヒントは確かにさらっと書かれていた。要するに種明かしされて怒った読者が不注意だっただけの話だ。クリスティは作品から受けるイメージとは相当に違って、基本的にフェアなのである。ヒントは確かに出している。だから、あの『アクロイド殺し』だって、注意深く読んでいれば真犯人を言い当てることができるはずだ。私は中学生時代、もしかしたらこいつ自身が犯人なんじゃないかと思い始めていたある日、級友にネタバレを食らってしまったのだった。このことはもう何度も書いた。

 あるいは『エッジウェア卿の死』のトリックも、多くの読者の意表を突くものだったに違いない。幸か不幸か、ハヤカワのクリスティー文庫の裏表紙を見て読む前に犯人の見当がついた私は、この人が犯人だとしたらどんなトリックがあり得るだろうかと考えていたらトリックに思い当たり、その通りの種明かしだった。しかし犯人の予断を持っていなければ気づいたかどうかはわからない。

 『シタフォードの秘密』のトリックは、『エッジウェア卿の死』は言うに及ばず、『メソポタミヤの殺人』と比較してももっとシンプルだ。坂口安吾が絶賛する通りである。私は安吾が絶賛したくだりを読んだあとに『シタフォードの秘密』を読んだが、それでもトリックを見破ることはできなかった。クリスティ作品の常で、ミスリードは張りめぐらせまくっているのだが、それでも犯人の見当はつく。最初から一番怪しかった人物が、複雑なミスリードの人間関係を知らされたあと、最後にまた「やっぱりこの人が犯人だよなあ」と思わされる。結局その人が犯人だったから、「フーダニット」まではクリアできた。しかし、その人が犯人であれば当然思いついてしかるべきトリックには、とうとう最後まで気づけなかったのである。脱帽するしかなかった。

 ハヤカワクリスティー文庫版につけられた作家・飛鳥部勝則氏(1964-)の解説も、トリックを絶賛する点で坂口安吾の「推理小説論」と共通している。以下その冒頭部分を引用する。

 

 『シタフォードの秘密』はよくできたフーダニットのお手本のような作品である。この作品の――あまりにも当然でありながら誰にも気づかれない――トリックはクリスティーの発明の中でも最上のものの一つで、それを補強する叙述のテクニックを含めて、女史がいかに推理小説愛好家の心理を読むのに長けていたかがわかる。周囲のすべてのものをかしずかせるのが《女王》だとするなら、クリスティーこそ二十世紀ミステリーの女王だったのだ。

 冒頭からして素晴らしい。閉ざされた雪の山荘で降霊会が行われ、霊魂が死の宣告をする。そしてその同時刻に、予言された人物が、(別の場所で*5)実際に殺されていた……というのである。

 ところでこれは典型的なハウダニットパターンの展開である。そんなことが起こったら、登場人物たちは《何故、どうして》と迷い、ひいては《どうやって、どんな方法で》という具合にストーリーが展開していくのが普通なのだ。しかしクリスティーの場合には、ついにそうはならない。一般的な推理作家なら、ハウダニットになりそうな設定とトリック――本来《どうやって殺したのか》というネタを、クリスティーは《誰が殺したのか》というパターンに無理なく持っていき、活かしきる。ここに、『シタフォードの秘密』の著しい特色がある。

 

アガサ・クリスティー田村隆一訳)『シタフォードの秘密』(ハヤカワ文庫,2004)427-428頁、飛鳥部勝則氏の解説より)

 

 なるほど、これは目から鱗の指摘だ。確かにクリスティはあの単純きわまりないトリックを「フーダニット」にもっていき、数々のミスリード網を張り巡らせるという手法で読者を欺こうとする。でもクリスティの常で、その一方大胆なヒントを与えてもいるので、注意深く読みさえすれば、種明かしの前には犯人が誰であるかは見当がつくことが多い。私にとっては、この『シタフォードの秘密』も、記事の前半で取り上げた『予告殺人』もそのパターンだった。しかし種明かしの場面で、本作ではそのトリックが、『予告殺人』では○○○○○がそれぞれ明かされて、しまった、なんでこんな簡単なことに気づかなかったのかと臍を噛んだ。こういうのを「騙される快感」というのだろうが、これこそミステリを読む楽しみではないだろうか。

 しかし、意外にも読書サイトでは本作の評判はあまり良くない。「トリックがありふれている(or 安易だ)」といった類の感想文が多い。それにもかかわらず、「犯人もトリックも簡単にわかったよ」という感想文は、アマゾンカスタマーレビューと読書メーターで参照した100件以上の感想文のうち3例しかなかった*6。つまり、トリックの単純さに腹を立てた読者の大部分は、トリックを見破ることができなかったに違いない。

 これを「やられた」と言って楽しめない読者はいったいミステリに何を望んでいるのだろうか。東野圭吾の初期作品のように、複雑怪奇で思いつけるはずもない密室トリックをよしとするのか、それとも東野の中期作品のように、罪のないホームレスを虐殺する行為を愛する女性への「献身」にしてしまう極悪非道な悪人小説をよしとするのか、あるいは東野の後期作品のように、実用化困難かつ危険極まりない兵器技術を大学の物理学教授が高校の学園祭の出し物として高校生に教え込み、あげくの果てに極悪政治家が報いを受けずに逃げ切ってしまう荒唐無稽かつ「悪が栄える」トンデモ小説をよしとするのだろうか。

 ネットを見ていると、推理作家の若竹七海氏(1963-)が本作を駄作と評しているらしい。若竹氏も前記飛鳥部氏と同世代の人のようだが、私はお二方とも作品を読んだことがないばかりか、申し訳ないがお名前も存じ上げなかった。私とも世代が近い2人の本作に対する評は対照的だ。江戸川乱歩がどういう理由で本作を高く評価したかを私は知らないが、飛鳥部氏の評価は坂口安吾の評価と同系列であり、私もそちらに軍配を上げたい。東野圭吾なんぞを大御所に祭り上げる今の日本のミステリ読みたちには、私はついていけない。

 なお、坂口安吾の「推理小説論」で、横溝正史の『蝶々殺人事件』(角川文庫1973, 2020改版)が絶賛されていたので、「推理小説論」をまともに読む前に読んでおこうと思い、生涯で初めてこの横溝作品を読んだ。表題作は敗戦直後の1946〜47年に書かれた。併録の短篇2篇(「蜘蛛と百合」、「薔薇と鬱金*7」)はいずれも1933年の作品だが、まだ読んでいない。

 

www.kadokawa.co.jp

 

 本作は、横溝作品としては例外的に怪奇趣味があまりなく、本格推理小説を指向した作品とのことだ。読んでみると、クロフツの『樽』とクリスティの某作品*8のハイブリッドで、「読者への挑戦」めいた段落が挿入してあるところはエラリー・クイーン流だ。しかし私はクロフツの『樽』を読んだばかりだし、クリスティのあの作品には思うところがたくさんあるので、「初めはクロフツを思わせておきながら、実はクリスティだった*9」この作品は、坂口安吾の絶賛にもかかわらず、クロフツにもクリスティにも遠く及ばないと思った。小説世界に没入することは私にはできなかった。2013年に最初に『Dの複合』を読んでたちまちはまった松本清張のようなわけには全くいかなかった。

 やはり私は江戸川乱歩とも横溝正史とも相性がきわめて悪いようだ。

*1:本作ではフィリッパは "Phillipa"、つまりLを重ねるがあとのPは重ねないで綴られる。一方、「きかんしゃトーマス」では "Philippa" と、Lは重ねずにあとのPを重ねて綴られている。ややこしい限りだ。

*2:一部に、両単語には微妙な意味の違いがあるとの説もあるが、意味は全く変わらないとの説の方が有力のようだ。

*3:https://bookmeter.com/reviews/97619354

*4:もちろんネタバレを警戒したためだ。『シタフォードの秘密』を読み終えてから坂口の「推理小説論」を読むと、案の定ネタバレが書いてあった。

*5:引用者註。

*6:私見では、現在60歳を中心としてプラスマイナス10歳くらいの年齢層の読者には、他の年齢層と比較して本作のトリックを見破れる人が多いのではないかと思う。私は幸か不幸か、彼らと同じ範疇に属する人間ではなかったためにトリックに気づけなかったが。

*7:うこんこう。チューリップのこと=引用者註。

*8:有名な某作品よりも、その数年前に書かれたさる冒険小説に近い。私はハヤカワ文庫で、冒険小説だから大丈夫だろうと思って解説から読んだらネタバレが書いてあったので、またしてもやられてしまった(怒)。クリスティは冒険小説にもあのネタを仕込んでいたのだった。

*9:大坪直行氏(1935-)が書いた角川文庫版の解説は、横溝正史存命中に書かれたと思われる文面なので、1973年の角川文庫初出時に掲載されたままの文章だと思われるが、本作のほか、他の横溝作品のネタバレまで書いてあった。あの三文字のタイトルの横溝作品がそうだということはクリスティ作品を読んだあとのネット検索で知っていたし、そもそも当該の横溝作品を読みたいとは全く思わないから私にはどうでも良いのだが、多くの読者にとっては迷惑千万な話だろう。大坪氏の解説は本作のネタバレもやっている。昔の文庫本にはこういう解説文が多かった。今回この解説文を先に読まなかったのは正解だった。