KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

E・C・ベントリー『トレント最後の事件』(1913)は名作。『アクロイド殺し』が好きな人はきっと気に入る

 このところ、戦前から戦後初期にかけての日本における英米、特にイギリスのミステリの受容史への関心が高まっている。その一環として、2017年に創元推理文庫から45年ぶりに改版されたE・C・ベントリーの『トレント最後の事件』(1913)を読んだ。これは新訳版ではなく、1972年に同文庫から出ていた大久保康雄(1875-1956)訳を改版したもので、旧版では中村河太郎(1917-1999)が解説文を書いていたらしいが、杉江松恋(1968-)の解説に差し替えられている。

 結論から書くと、非常に面白かった。1920年代以降に全盛期を迎える近代本格推理小説の嚆矢と目されているとのことだが、その評価は正当だろう。

 本作は現代の日本ではなぜか不人気のようで、アマゾンカスタマーレビューや読書メーターでのレビュー数も少ない。図書館で借りた文庫本奥付を見ると、「2001年4月13日 21版」の下に「 新版 2017年2月24日 初版」とある。おそらく、2001年に旧版の第21刷を発行したあと16年間増刷されず、その間本作は入手困難になっていたのではないかと想像される。レビューが少ないのはここらへんの事情にもよるのだろう。

 ここ数年、東京創元社は内外のミステリの古典的名作を新版で多く出している。国内の作品では大岡昇平の『事件』の「最終稿に基づく決定版」*1を出しており、その価値は高い。

 英米の古典でも、クロフツの『樽』、フィルポッツの『赤毛のレドメイン家』などの新訳版を出している。しかし『トレント最後の事件』は新訳版ではなく旧訳の新版だ。それだけ同文庫の編集部でも「格下」にみられているのかもしれない。残念な話であって、私見では本作は『赤毛のレドメイン家』などよりずっと良く、『樽』と肩を並べるか、あるいは上回るのではないかと思う。さすがに、アガサ・クリスティの『アクロイド殺し』のような超名作と同格とまではいえないが。

 本作は英米での評価も高く、イギリス推理作家協会が選んだベスト100の34位に入っている。このランキングにはクリスティの『アクロイド殺し』が5位、『そして誰もいなくなった』が19位にそれぞれ入っているが、日本のミステリ読者の間に「信者」が多いエラリー・クイーンは一作も入っていない。

 

www.aokiuva.com

 

 また、アメリカ推理クラブが選んだベスト100でも本作は33位に入っている。クリスティ作品は『そして誰もいなくなった』10位、『アクロイド殺し』12位、『検察側の証人』(中篇小説と戯曲の両バージョンがある)19位、『オリエント急行の殺人』41位と4作が入っているのに対し、エラリー・クイーンは本国のアメリカでも一作も選ばれていない。

 

www.aokiuva.com

 

 長らく日本のミステリ愛好家たちの間では「クイーン、カー、クリスティ」が御三家とされ、その中でも大衆的なクリスティが一番下に見られていたが、現在ではイギリスでもアメリカでも「クリスティ、カー、クイーン」の序列になっている。日本のミステリ受容史においてはまずヴァン・ダインが評価され、彼の路線をさらに突き詰めたクイーン(フレデリック・ダネイとマンフレッド・ベニントン・リーの合作)がダインをはるかに凌駕する「女王」ならぬ「王者」として崇め奉られていた。日本では長年の間クイーンの『Yの悲劇』こそミステリの最高峰と目されていたが、そのくせこの作品がテレビドラマ化されたのは1978年を最後にない。どうやら日本でもクイーンの人気は長期低落の傾向にあるようだ。私は中学生から高校生時代に『Xの悲劇』と『Yの悲劇』、それに国名シリーズのうちタイトルは忘れたが1冊読んだものの、どれもさほど良いとは思えなかった。『Yの悲劇』よりはヴァン・ダインの『グリーン家殺人事件』の方がまだマシではないかと思ったが、そのダインも『僧正殺人事件』は面白くなかった。このダインからクイーンへの流れに馴染めなかったことと、『アクロイド殺し』を読んでいて、これはあいつ自身が怪しいんじゃないかと思っていたところに級友のネタバレを食ったために「本格」の愛好家になり損ねたのだが、英米でのクイーンの凋落とクリスティ人気の健在を知って、若い日の感性は決して間違ってなかったんだなと勝手に思っている。

 クリスティの『アクロイド殺し』は中学生時代にネタバレを食ったために最後まで読む気が起きなくなって挫折したが、今年4月に初めて最後まで読み通した。その後クリスティ作品は累計で29冊読んだが、犯人を知っている状態で読んだ『アクロイド殺し』がそれにもかかわらず一番面白く、『そして誰もいなくなった』も『オリエント急行の殺人』も『ABC殺人事件』も全部読んだけれども、そのいずれも『アクロイド』より面白いとは思えなかった。どうやら私には叙述トリックに対する特別な好みがあるようだ。

 その私には、『トレント最後の事件』はとりわけ面白かった。本作は、『アクロイド殺し』が好きな方には必ずや気に入っていただけると確信している。

 その理由を説明するには、どうしても本作のネタバレをしないわけにはいかない。従って、それを知りたくない方は以下の文章を読まないでいただきたい。

 

 『トレント最後の事件』は、探偵小説に恋愛の要素を組み合わせたとの意義が強調されることが多い。またスーパーマン的ではない探偵が失敗するのが新機軸だとの評価もある。作者のベントリーにこうした創作意図があったことは確かだろう。

 しかし、それよりもミステリ史上における本作の意義は、多重どんでん返しや叙述ミステリといった、後年のクリスティが初期作品の『ゴルフ場殺人事件』(1923)や『アクロイド殺し』(1926)でやった手法をクリスティより10年以上先駆けてやったことではないだろうか。

 叙述トリックについては、2017年の創元推理文庫新版につけられた杉江松恋氏の解説文に興味深い指摘がある。氏の解説文はネットで読めるので、下記にリンクを示す。

 

www.webmysteries.jp

 

以下引用する。

 

詳述は避けるが、真相を知ってから第四章までを読み返すと、新鮮な驚きがあるということだけは銘記しておきたい。いわゆるダブル・ミーニングの技法が効果的に用いられていることが判るはずだ。

 

 解説者のおすすめに従って最初の4章を読み返したが、確かにその通りだった!

 以下、核心部に触れる、つまり大きなネタバレになるので知りたくない人は絶対に読まないでいただきたいが、どうしても目に入りそうな部分は白文字にしておく。

 実は私は、第3章の記述から真犯人を最初から疑っていた。杉江氏書くところの「ダブル・ミーニング」の「裏」の意味が、薄々とではあるが読み取れたのだ。結果的にはそれが当たっていたのだが、この人物は途中から終盤のある時期までほとんど出てこないので、いつしか忘れそうになっていた。しかし、第13章で事件の「最重要容疑者」(文庫本の裏表紙による)でもあるヒロインが真相を知っていることをトレントにほのめかすあたりから、再びこの人物に対する疑惑が頭をもたげ始め、トレントが新聞記事の原稿をその人物にも見せたというセリフを読んで「いいのか、そんな奴に見せて」と危ぶんだ。そして最後の第16章「完敗」での二度目かつ最後のどんでん返しの直前には「ああ、やっぱりそうだったのか」と思った。だから真犯人が真相を明かした時には全く驚かなかった。以上から「フーダニット」に関しては、作者は読者に対して十分なヒントを与えるフェアプレイをやっていたと断言できる*2

 だが、後半を読んでいる時には、ある時点までその登場人物を忘れていたので「犯人がわかった」とまで言うつもりはない。当該の人物に対する一定の疑惑を、少なくともストーリーの最初の方と最後の方では持っていたというだけだ。

 ただ、たとえば「読書メーター*3に投稿された感想文に、

最後は唐突な感じがした。もう少し伏線があれば良かったのかもしれない、ちょっとしたオマケになってしまった気が、、、

とか、

結末、あれってアリなの?

とか、

最終章を除けば立派なミステリにもかかわらず、ラストの数頁を以ってアンチ・ミステリと化し、読了後には本を叩きつけて「もう探偵小説などやめてやる」と言ってやりたくなる。

などと書いている読者に対しては、「そりゃあんたに注意力が欠けていることを自白しているだけだよ」と言いたい。

 私がことに感心したのは、第3章に書かれた真犯人の下記の言葉だ。以下引用する。

 

「じゃ、それっきりマンダースンとは会わなかったんですね」

「そう――いや、会ったというべきかな――一度だけね。その日の夜遅く、ゴルフ場で彼を見かけたが、わしは言葉をかけなかった。そして、そのつぎの朝には、彼はもう死体になっていたのだ」

創元推理文庫の2017年新版45頁)

 

 実際には、「わしは言葉をかけなかった」時点と「そして」の間に、彼は被害者を射殺していたのだ。

 これと似た記述のあるミステリの超名作をわれわれは知っている。そう、クリスティの『アクロイド殺しで殺人が行われた前後の記述だ。叙述トリックにおいてベントリーはクリスティに先駆けていると思った。ただ、ベントリー作品では三人称で書かれた「信頼できない発話者」*4だったのが、『アクロイド殺し』では一人称の「信頼できない語り手」になっている。以前にも書いた通り、後者のアイデアチェーホフの『狩場の悲劇』(未読)という先例があるそうだけれども、あのように完成度の高いミステリに初めて仕立て上げたのはクリスティだった。

 これが、『アクロイド』が好きな人は本作もきっと気に入るはずだと私が考える最大の理由だ。実際、「ミステリの祭典*5」というサイト*6に「江戸川乱歩氏が選んだ『ベスト10』のラスト1冊として拝読」と書いた「No.7」の評者である「蟷螂の斧」氏は、乱歩選の10作のサイト内平均点と自らの採点を併記しているが、『アクロイド殺し』を満点の10点、『トレント最後の事件』を9点としている。私も同じ点数をつけるか、本作には恋愛小説部分にダルなところがあるのを差し引いて8点とするかを迷うところだろう。なお『樽』には7点か8点*7、また最近読んだ『赤毛のレドメイン家』には4点をそれぞれつける*8。また、アマゾンカスタマーレビューに「アクロイド殺しよりも意外でした」と書いた評者もいた*9。評者は本作に星2つしかつけていないが、「探偵小説としてはとても面白いですし、よくできている」、「古典の探偵小説としては☆五つ」などとしながら「普通の恋愛小説としては☆一つになってしまいます」との理由で総合点としては星2つにしたものらしい。それは「推理小説と恋愛的要素を結びつけたところが新しい」などという世評に惑わされた採点に過ぎまい。私も評者と同様にミステリとしては星5つ(10点満点なら9点)で恋愛小説としては星1つだと思うけれども、私が読みたいのは恋愛小説でなくミステリだから総合点は星4つにする。なお、『赤毛のレドメイン家』はミステリとしては星2つか3つ、恋愛小説としては星1つで、こちらの方が総合点は星2つになる。

 アクロイドとの絡みに話を戻すと、最後の第16章「完敗」に面白い固有名詞が出てくる。トレントカプルズ氏に「シェパードの店へでも行きましょうか」と誘う。カプルズ氏は「シェパードというのは、どんな人間かね?」とカプルズ氏は言い、それに対してトレントは「シェパードというのは何者かとおっしゃるんですか?」とカプルズ氏の質問を繰り返す(本書新版292-293頁)。本作は1913年に書かれ、『アクロイド殺し』はその13年後の1926年後に書かれているから偶然の一致でしかないのだが、前記の叙述トリックが共通していることもあって、もしかしたらクリスティはあの作中人物の名前を本作のこの部分からとったのではないかと思ってしまった。もちろんその可能性は低いというよりほとんどなく、単なる偶然に過ぎないだろうけれども。

 あともう一つだけ、本作には『アクロイド』に限らないクリスティ作品との大きな共通点があるが、これについては下記リンクの書評を援用して論じたい。下記リンクの本作に対する批評はまことに素晴らしい。

 

 以下引用する。

 

【これよりさき『トレント最後の事件』の結末にまで構わずふれてしまうので、未読のかたはほんとにご注意を(警報レベル:高)】

 

■本書の醍醐味はやはり、見事などんでん返しの施された終盤の2章にある。とりわけ、一度真相をひっくり返したうえで一件落着の雰囲気に読者を油断させておいてから、不意に次なる真相が語られる、最終章のぬけぬけとした展開は本当にすばらしい。
■ここで明かされる事件の真相は、次の3つの要素を同時に達成しているのではないかと思う。

  1. 事件の合理的な説明。
  2. 探偵小説への痛烈な皮肉。
  3. 完璧なハッピーエンド。


■以下この線に沿って述べていくと、まず「合理的な説明」から。最終章の手前で英国人秘書マーロウの語る話はかなり意外だし信用もできそうなのだけれど、読んでいていくつか疑問も湧いてくる。ひとつは、被害者の実業家マンダースンが「自分で自分を撃った」のでないことは一応科学捜査で証明されたのでは、ということ。あと、そもそも〈他人を陥れるために自殺する〉なんて計略はいくらなんでもありそうにない。けれども最終章に入って〈撃ったのはカプルズ老人〉とわかり、しかも〈死ぬつもりまではなかったのじゃないか〉と説明され、さきの疑問はあっさりと氷解する。欠けていたピースがぴたりとはまる、とてもあざやかな展開だ。
■この結末はそれだけでなく、むろん「探偵小説への皮肉」の意図も含んでいる。マンダースンの常軌を逸した奸計に、そこをカプルズ氏と出くわしてしまう偶然、そして秘書マーロウのやたら手の込んだ偽装工作。三人の別々の意図がたまたま交錯した結果「探偵小説らしい謎のある事件」の外観ができあがってしまった。世の中はなべてそういう複雑な意図が絡みあってできているもので、だからひとりの「探偵」がすべてを見通してしまうことなんてありえないのではないか、ということ。「探偵が推理して解決する」物語形式への風刺に満ちた結末で、ゆえに青年トレントは最終的に「完全に参りました」と降参して探偵を辞める宣言をするに至ってしまう。
■ただしそんな皮肉な幕切れにもかかわらず、本書の読後感はなぜだかとてもさわやかだ。これはきっと「完璧なハッピーエンド」を達成しているせいではないだろうか。物語の主要な登場人物は、誰もが事件のおこる前より実は幸せになっている。秘書のマーロウは幸せに結婚したし、メイベル・マンダースンは不幸な結婚から解放されてかわりにいい相手を見つけた。推理に敗れたトレントにしてもしょせん本業ではないし、恋の成就のほうがむしろ大事。こうしたずうずうしいくらい円満な図式はもちろん、死んだ米国人富豪マンダースンを徹底して吊るし上げることで可能になっている死人に口なし、にもほどがあるような扱いだけれど、やはり結末がきれいすぎるせいかほとんど反感をおぼえない。
■そもそも探偵小説は犯罪を扱うのだから、悲劇になりやすい物語形式なのは間違いないだろう。悲劇の起こったわけを説明するためにまた昔の悲劇をこしらえたりと、悲劇の芋蔓式増殖さえもひんぱんに起こる。そんなことを考えあわせると本書のきわめて幸福な結末には、これまた批評めいた視座を感じないでもない。
■というわけで、最終章はいわば「理知」「諧謔」「感情」をいちどに満足させる、きわめてあざやかな展開になっている。皮肉としかいいようのない物語にもかかわらずとても読後感がさわやかなのは、このよく練られた美しい構造によるものだろう。この作品にかぎらず、ひねくれた諧謔を連発しながらも最後は幸福な結末できっちりと締める、というのは英国の娯楽小説に脈々と受け継がれてきた系譜のような気がする。たとえば、めくるめく皮肉の果てになんとなく安堵の結末へと着地するアントニイ・バークリーの傑作『試行錯誤』(創元推理文庫)はその典型だし、近くは「フロスト警部」物語なんかにも、その流れに通じるような精神を感じる。
■超絶の傑作というよりは上出来の佳作といったおもむきの『トレント最後の事件』が、これまでいろんなところで高く評価されてきたのも、結局はそのあたりの健全な英国的精神ゆえなのではないだろうか。

(「『トレント最後の事件』現代的解説」より)

 

出典:http://mezzanine.s60.xrea.com/archives/trent.html

 

 「クリスティ的」というのは、被害者の米国人富豪、というより米国人資本家を除くすべての登場人物がハッピーエンドを迎える結末のことだ。クリスティ作品でも犯人はポワロの教唆によって自殺したり、ポワロ及び作者のクリスティが絶対に許せないと思った極悪犯人を絞首刑にしたり、稀に作者が愛着を感じた悪人を放免したり*10するが、それ以外の男女の登場人物が結ばれるなどする。但し、作者に気に入られていない人物はそのまま放置されるが(笑)。

 しかし、第13章でヒロインが「相手が殺されてもいいようなことをして、しかも殺さなければ自分が殺されるというような場合」(創元推理文庫2017年新版225頁)に犯した殺人は、当然ながら正当防衛であって罰せられない。本作『トレント最後の事件』の真犯人もその一人だった。これを知って読者は胸をなで下ろす。もちろん被害者の米国人資本家は「死者に鞭打たれ」放題だが、アメリカで多くの労働者の命を奪い続けたに違いない悪辣な資本家の末路だから「ざまあみろ」としか思えないのである。現在の日本に当てはめるなら竹中平蔵みたいな奴といったところだろうか。

 

 ところで、引用文中の赤字ボールドは引用者による。

 そもそもベントリーは職業作家ではなくジャーナリストであり、ミステリ長篇としては他に本作の23年後に他人との共作で書かれた『トレント自身の事件』(1936)があるだけで、それは駄作とされている。他に短篇集『トレント乗り出す』(1938)があり、こちらはそこそこ評価されているようだが、ミステリはこの3冊だけであって、詩人でもあったけれども小説は他に書いていないようだ。つまり彼はアマチュア作家だった。

 しかしベントリーはミステリ作家のG・K・チェスタトンと親交があり、本作は彼に献げられている。Wikipediaを参照すると、チェスタトンボーア戦争に反対した自由主義者であり、「資本主義・社会主義双方を排撃し、配分主義を主張した」とある。反面、「当時の知識層の例に漏れず、キリスト教徒としての視点や植民地主義に立脚した,黒人やインディアン、インディオ、東洋人など他民族への偏見・蔑視が色濃いことも特徴である」とのことだ。

 このチェスタトン評は、そのままベントリーにもそっくり当てはまるのではないか。

 作者のこのスタンスは、『トレント最後の自身』の冒頭部分から明らかだった。ああ、この人はコナン・ドイルアガサ・クリスティのような保守派とは対照的な「リベラル」の人だったんだろうなと思った。しかしその反面で、アメリカ先住民(作中での表記は「インディアン」)や彼らと白人との混血、それに東洋人に対する差別意識には強い反感を抱かずにはいられなかった。ここらへんが20世紀初頭のイギリスにおける「リベラル」の限界だろう。

 そこは大いに気に入らないけれども、アメリカの極悪資本家を血祭りに上げたうえ、徹底的に「死者を鞭打つ」あたりの伝統は、マーガレット・サッチャーが死んだ時に「今や地獄が私営化されている*11」と皮肉った反サッチャー派に引き継がれているのではないか。菅義偉が退陣を表明しただけで「お疲れさま」と言ってしまう日本の腰抜け「リベラル」とは大違いだ。

 なお、こういう結末は、上記サイトが指摘する通り「俗物のヤンキーが田舎成金の分際で洗練された英国人の仲間入りをしようとしてうまくいかず勝手に自滅する、とあからさまに反米・愛国主義的な物語」でもあり、こういう気質は保守派のクリスティにも大いにあるのだが、同じく上記サイトが指摘する通り「そんな作品が諸々の事情から最初に米国での出版が決まるという経緯をたどった」ばかりか、今も英米作家たちが選ぶミステリのランキングにおいて、イギリスでの34位に対してアメリカで33位にランクインしているあたりがアメリカ社会の懐の深さかもしれない。

 これに対して日本のネトウヨは、エスタブリッシュメント層に身も心も献げてしまって「肉屋を支持する豚」の惨状を呈している。

 いや、ネトウヨだけならまだしも、日本の人気ミステリ作家である東野圭吾が書いたガリレオシリーズ*12第8作『禁断の魔術』には、極悪政治家が無傷のまま生き延びるという最悪の結末が用意されているが、これを東野の「リアリズム」だといって作者を賛美する読者がいる。この作品では、大学の物理学教授が高校生に実用化もされていない兵器技術を教え込みながら、それを極悪政治家に向けて発射しようとする高校卒・大学中退の若者を当の物理学教授が最後に止めるのだが、止められて逮捕されるであろうこの若者その後の人生に希望など全くといってないことは、少し想像してみれば誰にでもわかるだろう。しかし東野作品の読者はその程度の想像力さえ働かせようとはせず、読書サイトは東野作品に対する翼賛の場と化し、「政治家を撃たずにすんだ。良かった良かった」など言っている。はっきり言って吐き気がする。

 当該東野作品の悪口はこれまでにももう何度も書いたから「またか」と思われる読者もいるかもしれないが、あまりの惨状なので書かずにはいられない。香港の学生反体制活動家・周庭は、東野作品なんかを断じて読むべきではない。

 さすがにこんな陰気な話で記事を締めくくりたくないので、どういう締めにしようかと思案しているうちに、ベントリーとクリスティとの共通点がもう一つあったことを思い出した。それは両人が音楽、ことにオペラが大好きであるらしいことだ。本作にトレントが(ワーグナーの)『トリスタン(とイゾルデ)』を聴きに出掛け、そこでヒロインに遭遇する場面がある。クリスティのポワロものやマープルものにオペラが出てきた例を私はまだ知らないが、短篇集『謎のクィン氏』やノン・シリーズの『シタフォードの秘密』には出てきて、クリスティがワグネリアンであったことがわかる。彼女はもともとオペラ歌手を志望していたが声がオペラ歌手には不向きで、止むなく大学で薬学を専攻した。『トレント最後の事件』では、(ベートーヴェンの)第9交響曲が結末を暗示してもいる。トリスタンとイゾルデのようにではなく、第9のフィナーレのように終わることを予告しているわけだ。そういえばベートーヴェンは市民革命に強く共感するとともに、音楽史上において古典派の総まとめとロマン派の創始者の二役を担った人だった。

 本作にはさまざまな限界はあるものの、100年ちょっと前のイギリスのリベラリストが書いた、忘れがたいミステリだ。

*1:http://www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784488481117

*2:その他の部分で若干アンフェアな部分があるが、そんな議論がなされる前の1913年の作品だから致し方ない。

*3:https://bookmeter.com/books/60813

*4:クリスティはマープルものの短篇集でこの趣向の作品も書いている。

*5:「祭典」とは「採点」に引っかけたネーミングだろう。

*6:http://mystery-reviews.com/content/book_select?id=1173

*7:クロフツでは『クロイドン発12時30分』に8点か9点をつけたい。

*8:他の作品については、『Yの悲劇』は昔読んだきりだから再読したらどうなるかわからないがおそらく5点か6点、『僧正殺人事件』も同様だがおそらく4点か5点をつける。『黄色い部屋の秘密』は少年向きリライト版しか読んだことがなく、『帽子収集狂事件』、『赤い館の秘密』、『ナイン・テイラーズ』の3作はいずれも未読。

*9:https://www.amazon.co.jp/-/en/gp/customer-reviews/R2ERHX8EU1OV7S/

*10:その一例が『アクロイド殺し』に先駆けて某作に登場する「信頼できない語り手」である。

*11:イギリス英語の綴りで "Hell is now being privatised"(米語では "privatized")。"privatise" を「民営化」と訳すのは誤りで、あくまで「私営化」と訳されるべきだ。

*12:ネット検索で知ったが、今月(2021年9月)に東野はガリレオシリーズ第10作を刊行したらしい。今度はどんな破廉恥な作品になっているのだろうか。