KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

『アクロイド殺し』の○○トリックは「史上初」ではなく40年前にチェーホフが使っていたが「イギリスで初めて麻雀シーンを登場させた小説」だったらしい

 前回取り上げたアガサ・クリスティの『アクロイド殺し』で一番驚かされたのは、まさか半世紀前にクラスメートの心ないネタバレによって最後まで読み切れなかったあの本が、最近になって犯人を知らないままに読んだ同じクリスティの何冊かの本よりもはるかに面白かったことだ。

 前回も書いた通り、中学生の頃に予備知識なしで読み進めていた『アクロイド殺人事件』(中村能三が訳した新潮文庫版のタイトル)で、私は真犯人を疑っていた。今ではありふれたトリックらしいが、当時の私はシャーロック・ホームズの初期作品(短篇集2冊と長篇2冊)のほか、ヴァン・ダイン(『グリーン家殺人事件』)やエラリー・クイーン(『Xの悲劇』『Yの悲劇』)など、ごく少数の海外の古典的名作しか知らなかった。今回読了後、予備知識がほとんどないのに真犯人を疑って読んだ読者がどれくらいいるかと思って『読書メーター』の書評を全部見てみたら、結構いた。もちろんその大多数は最近の日本のミステリで同様の○○トリックを知っていた人の感想だったが、そうではなくミステリなどほとんど読まないという人でも、あの人自身が真犯人ではないかと疑った人たちは結構いたようだ。つまりクリスティはそのような書き方をしていた。

 このことをよく表現していたのが、古い新潮文庫版についた下記「アマゾンカスタマーレビュー」だ。

 

yutaitoo

★★★★☆ 丁寧に読みすぎると犯人がわかってしまう

Reviewed in Japan on November 25, 2011

 

クリスティの作品は、トリックそのものに無理があるもの(『そして誰もいなくなった』の再現性のないトリックなど)や、犯行形態の必然性に無理があるもの(『ABC』のハイリスクすぎる連続殺人など)が多く、基本的にあまり好きではないのだが、この『アクロイド』はそういう意味では無理がなく、すんなりと納得できた。

 

賛否を巻き起こした話題のトリックであるが、直木賞作家の道尾某などの読むに堪えない低レベルな作品に比べて、洗練度は桁違いである。

 

ただし、わりと無防備に犯人をほのめかす記述が意外に多いため、伏線を見逃すまいと丹念に丁寧に文章を読み進めるタイプの読者の方には、早い段階で犯人が分かってしまう可能性が高いと思う。

 

早いテンポでまず一度読了し、再読して納得する、という読み方がお勧めかもしれない。

 

出典:https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R36M3NXF7I7KI9

 

 やはりそうか。私が最初に(途中まで)読んだのは中学1年生の頃だったと記憶するが、文庫本はやたらと時間をかけて(何日も、あるいは1週間以上)読んでいた。最初から真犯人を疑っていたわけではないが(例の「空白の10分」など全く気づかなかった*1)、読み進めていくにつれ、あの○○が怪しいという心証が強まっていった。今にして思えば、それは作者が多く繰り出したほのめかしのために違いない。しかしクリスティはほのめかしは多用するものの、物証のヒントはなかなか出さない。

 だから、同じ新潮文庫版についた、下記の酷評のレビューにも一理あると思った。

 

長い道

★☆☆☆☆ 犯人の設定はフェア。手がかりの出し方がアンフェア。

Reviewed in Japan on August 14, 2018

 

一応、犯人は途中で分かりました。わかったんだから手がかりは出ているんです。ただその出し方がアンフェア。

アンフェアな出し方をしたので、記述が不自然な場所が散見します。

 

クリスティの手がかりの出し方は、基本的にずるいです。きちんと出す気が最初からないと思いますね。中でもこの作品は一番ひどいです。

 

ミステリが好きで、古典と呼ばれる作品(クイーン、クリスティ、ヴァンダイン、カー、ドイル)はほとんど読みましたが、犯人がわかったのに、こんなに後味の悪い作品は皆無です。個人的にはワースト1位です。

 

しかも、この作品を批評すると「犯人がわからなった腹いせだ」みたいな反論をする人の多いこと。

「だから、犯人はわかったんだって。わかったけど、納得できない書き方なんだって」

と言い返したいです。

 

出典:https://www.amazon.co.jp/-/en/gp/customer-reviews/R3N2594407EY4D

 

 本作では、仮に真犯人の見当がついた場合でも、そのアリバイ崩しはなかなか困難だ。たとえばハヤカワ文庫版144頁で秘書のレイモンドが「アクロイドさんは録音機(ディクタフォン)を買うことを検討されていたんです」と語る。録音機はもちろんアリバイ作りの常套手段となる機器だが、レイモンドはすぐに「アクロイドさんは購入を決断できなかったんです」と言って、購入を否定してしまっている。しかしアクロイドはディクタフォンを購入していた。それを読者が知らされるのは大詰めの第23章(ハヤカワ文庫版408頁)になってからだ*2。さらに、フローラ・アクロイドの「9時45分にアクロイドに会った」証言も障害になる。フローラは、ポアロが指摘した「5人全員が隠し事をしている」と言ったうちの4番目に隠し事が暴かれた登場人物であって、その時点で「9時45分」の証言が覆された。こういうアリバイ崩しはどう考えても読者が合理的思考から導けるものとはいえないのではないか。

 ともあれこの時点でフローラがこそ泥ではあったものの殺人犯ではないことが明らかになり、隠し事が明らかにされていないのは真犯人1人に絞られる。そして、真犯人の隠し事(真犯人はある人物を隠していた)が終盤の第24章で初めて暴かれたあと、続く第25章の最後で真犯人がポアロに名指される。このあたりの畳みかけるような展開はさすがにスリリングだ。

 実は、真犯人は5人のうち真っ先に些細な隠し事をポアロに責められているが、これは別にアンフェアではなく作者の巧妙なミスディレクションだろう。5人とも隠し事が示された以上、もっとも些細な隠し事をしていた人物のそれをリセットしてノーカウントにするのは当然だから、このミスディレクションをアンフェアだということはできない。しかし、ディクタフォンの購入に踏み切れなかったはずのアクロイドが実は買っていて、それを知っていたのは犯行に用いた真犯人を別にすれば、ひそかに捜査していたポアロだけだったことがあとで示されるのは、いささかアンフェアだというほかない。

 とはいえ、この手のご都合主義はミステリにはつきものだ。些細なアンフェアさはあるとはいえ、私は下記のレビューに軍配を上げたい。

 

森 郊外

★★★★★ クリスティーの本格物の最高傑作!

Reviewed in Japan on February 13, 2009

 

クリスティーなら本書と「そして誰もいなくなった」、この2作を読めば充分だろう。他の作品はこの2作から格段に落ちる。といって、クリスティーが悪いのではなく、この2作品が群を抜いて優れているからだが。

 

後に執筆された作品群の多くが、エラリー・クイーンディクスン・カーの作品に較べるとどうしても本格推理ものとしては落ちる感じがするのは、読者に与える手がかりが少なく、その一方で(犯人が探偵に対して仕掛けるトリックではなく)作者が読者に対して仕掛けるミス・ディレクションによって誤魔化される感が強いからだが、本書は読者に充分すぎるほどの手がかりを与えながら(アンフェアだという人は、いったいどこを見てアンフェアだと言ってるのだろう?)、最後の最後であっと驚かせる趣向がすごいのだ。

 

この驚愕のラストに匹敵する作品は、私が知る限りでは、エラリー・クイーンの「Yの悲劇」と「レーン最後の事件」、それにモーリス・ルブランの「813」だけだ。

 

出典:https://www.amazon.co.jp/-/en/gp/customer-reviews/RA3JIIRVVBA0H

 

 作者が提示した手がかりに気づいていてもいなくても、あるいは今回の私のように読む前から真犯人を知っていても、第25章の末尾に至るクライマックスは確かに素晴らしい。とはいえ、中学1年生の時に旧友のネタバレにさえ遭わなければ大金星を挙げられたかもしれないのになあ、とそれだけは残念だ。しかしそうなっていたら本作を再読(途中からは初読だが)することもなく、従って本作の真価はわからなかっただろうから、これで良かったのかもしれない。

 なお上記レビューに挙げられている『レーン最後の事件』は、やはりネタバレの被害を受けてしまったために今に至るまで読まずにいる作品だ。意外な犯人の他の代表例(「××が犯人」)だが、意趣返しにネタバレをやっておくと、以下の本論(ここまでは長い長い前振りなのだ)と密接な関連がある。だからそれを知りたくない方は続きを読まない方が賢明だ。

 ここからが本論だが、新潮文庫版についたカスタマーレビューと比べて、ハヤカワ文庫版の読書メーターの方は、もう2000件近くも感想文があるにもかかわらず、似たような感想文ばかりであって、このサイトの利用者の間には強烈な同調圧力がかかっているんだなあ、まるでTwitterで特定の政治家や政党の「信者」たちが日々垂れ流している「呟き」とそっくりだなあ、と呆れてしまった。

 それで、本作と広義では同じ手法に括られることがあるカズオ・イシグロの『日の名残り』の読書メーターを改めて眺めてみると、相変わらずの「誤読の殿堂」ぶりだった*3。「信頼できない語り手」の語りをそのまま信頼してしまって、老境に達した執事の静かな物語だ、などと思い込んでしまった読者たちばかりであることには呆れ返る。海外の純文学の翻訳書を読もうとする程度には文学好きの人たちでもこのレベルなのだ。いかに日本社会が強烈な同調圧力に締めつけられているかがよくわかって絶望的な気分になる。

 『アクロイド殺し』についた「読書メーター」の感想文でも、ただ一言「フェアかアンフェアかといわれたらフェアだ」と書いただけのものや、ハヤカワ文庫版につけられた笠井潔のわかったようなわからないような解説文(ここで笠井は、手記を一人称小説だと読者に思い込ませたのが本作最大のトリックだと主張している)を手放しで礼賛したり(中には笠井の解説文の主旨をそのまま自らの感想文にしている例まであった)と、驚き呆れるばかりの「金太郎飴」状態だった。笠井潔東野圭吾の『容疑者Xの献身』を痛烈にこき下ろしているのだが、それに対しては「読者メーター」に感想文を書いている人たちはどう思うのだろうか。

 だが「読書メーター」には2000件も感想文があるから、その中には目を惹くものもある。今回もっとも注目したのは下記の指摘だった。

 

bookmeter.com

 

 「読書メーター」の感想文には「このトリックを初めて使ったクリスティはすごい!」というものが滅茶苦茶に多いのだが、初めてと思われた試みが実はそうではなかった例は少なくない。音楽の例でいえば、十二音技法の創始者シェーンベルクではないし、無音の音楽を最初に作曲したのはジョン・ケージではない。彼らと同様に、「○○○が犯人」の創始者アガサ・クリスティではなかったということだ。

 この件に関して、ネット検索をかけて、下記サイトを見つけた。

 

 以下に問題の箇所を引用する。

 

 探偵小説として見た場合、『狩場の悲劇』には注目すべき点がいくつかある。この作品を紹介したもののほとんどが明らかにしているため、ここでもばらしてしまうが、これはクリスティーアクロイド殺し(1926)と同じ趣向を使っているのである。もうひとつは、探偵役(裁判官)が犯人という趣向である。おそらく、これらの趣向の最も早い使用例と思われる。

 

出典:http://mysterydata.web.fc2.com/HST/HST_07_03.html

 

 なんと、チェーホフは「○○○が犯人」と「××が犯人」のトリックを同時に使っていた。「××である○○○」が犯人だったらしいからだ。それをチェーホフはクリスティに先駆けること41年、1884年にやっていた。時にチェーホフ24歳。

 しかしもったいないことに、チェーホフには読者を騙そうとする気は全くなかったらしい。以下再び引用する。

 

 しかし、チェーホフはこの作品で読者を驚かそうとは思っていないように見える。というのは、前述の「作者による注記」があまりにくどく、すぐに真犯人がわかってしまうからだ。注記がなければ、かなり意外性のある構成になりえただろう。そのためか、東都書房版《世界推理小説大系》に収録されたときは、この注記は削除されている。つまりチェーホフにとっては、意外な結末よりも、こうした趣向そのものに意味があったということになる。

 とはいえ、まがりなりにも「探偵小説」的構成をとったため、不満も残ることになる。前半、詳細に書かれる主人公の内面は、犯行以降、描くことが出来なくなった。「この長篇の芸術的価値が、物語の後半、女主人公の殺害の瞬間から急に低下している」(ちくま書房解説)と見なされるのも、やむを得ない。こういう論調は、探偵小説ファンにとっては「わかっちゃいねえなあ」的反感をもつ最たるものだが、ことこの作品については的を射ているといわざるを得ないし、おそらく作者自身もそう感じていたフシがある。犯罪者の内面を描きたいのなら、こういう構成にしたのは失敗だった。そのためかどうか、チェーホフはこの唯一の長篇小説を生涯無視していたらしい。

 

出典:http://mysterydata.web.fc2.com/HST/HST_07_03.html

 

 作者自ら認める失敗作では、よほどの好事家でもなければ読まない小説にとどまっても仕方ない*4。『アクロイド殺し』には、他にもいくつかの先例があることが知られているが、いずれも後世に残る作品にはなっていない。何も初めてやった者がえらいというわけではないということだ。

 ところで『アクロイド殺し』のラストで、ポアロが真犯人に自殺を教唆する場面がある。「読書メーター」ではこのことを批判する人たちが多かった。青山剛章の漫画『名探偵コナン』で、探偵が犯人を死なせてしまうことをタブーとしている影響が大きいようだ。

 私が中学生時代にネタバレに遭って『アクロイド』を読了するのを放棄した時にも最後の部分だけは読んだので、ポアロが真犯人に自殺を強要したことはよく覚えていた。というより、覚えていたのは真犯人が誰かというほかにはそのことだけだった。そして、非常に嫌な気持ちになった。

 しかし、それをいうなら先ほど言及した某作と某々作の両方で、探偵は本当に自ら手を下している。シリーズ4作のうち2作で殺人を犯した上に、最後には自殺しているのである*5推理小説にはそういう例もある。

 また、20世紀前半のイギリスには死刑制度があり、殺人犯はすぐに絞首刑にされることが多かったらしい。そうすると、真相を知らない「善良な○」を悲しませないために真犯人に自殺を勧める行為は「あり」かもしれなかったと今では思う。犯行が明るみに出たらどうせ絞首刑にされるに決まっているのだから、それなら○の犯行を知らないまま○の死を悲しませるだけの方がまだマシだという理屈だ。

 探偵にそんな行動をとらせないために必要なのは死刑の廃止であって、実際に今のイギリスでは死刑は廃止されている。ポアロの言動を批判する人たちは、死刑制度についてはいかなる考えをお持ちなのだろうかと思わずにはいられない。

 イギリスにおける死刑制度については、下記リンク先が興味深い。

 

blogos.com

 

 以下引用する。

 

(前略)1920年代、死刑廃止運動が新たな盛り上がりを見せた。エディス・トンプソンという女性とその愛人がトンプソンの夫を殺した罪で絞首刑となったが、トンプソン自身が実際に殺害に手を貸したかどうかには疑わしさが残り、執行に疑問符が付いた。

 道徳上及び人道的理由から刑法改革を目指す「ハワード同盟」や「死刑廃止全国協議会」が中心となって死刑廃止運動を進める中、1927年、労働党は時の党首でのちに首相となるラムジーマクドナルドの指揮の下、廃止を求める「死刑についてのマニフェスト」と題された文書を発表する。篤志家の女性バイオレット・バンデル・エルストは、死刑は「野蛮」で「社会の害悪」として廃止運動を活発に行った。

 議会も死刑廃止を取り上げるようになり、1929年には死刑制度について考える委員会を設置。翌年には死刑執行の5年間の停止を提言した。しかし、重要性が低いと考えられ、死刑問題は政治の場からいったんは姿を消した。

 

出典:https://blogos.com/article/317099/

 

 『アクロイド殺し』は上記の時代に書かれた(新聞連載が1925年、単行本化が1926年)。なおクリスティ自身は強硬な保守派の人で、死刑存置論者だった。死刑存置論をミス・マープルに語らせているし、そのマープルものの『牧師館の殺人』では、死刑廃止論者が真犯人の強硬を知って厳罰論に豹変したなどという描写もしている。正直言って、これには大いに鼻白んだ。

 引用を続ける。

 

冤罪で行われた絞首刑が相次いで発覚

 

 死刑廃止が大きな政治問題として取り上げられるようになるのは、第2次世界大戦が終了する1945年。廃止を支持する議員が多い労働党が、この年から政権を担った。シドニー・シルバーマン労働党議員が、刑事司法(1948年)に死刑廃止を組み込もうと尽力したが、これは実現しなかった。

 しかし、1950年代に入って、複数の殺害事件が国民の大きな注目の的となる。

 ロンドンに住むトラックの運転手ティモシー・エバンズが妻と幼児を殺害した罪で有罪とされ、1950年に絞首刑となった。しかし、その3年後、隣人のジョン・クリスティが真犯人であったことが判明した。エバンズは無実の罪で命を落としたことが分かったのである。クリスティはほかの複数の市民を殺害した罪で1953年に絞首刑となった。

 1953年1月、警察官を銃殺した罪でデレク・ベントリーが絞首刑にされた。しかし、実際に銃を撃ったのはベントリーとともに強盗を行ったクリストファー・クレイツだった。ベントリーが死後の赦免を受けたのは1998年のことである。

 1955年には、ボーイフレンドのデービッド・ブレイクリーをロンドンのパブの前で射殺した女性ルース・エリスが世間の格別の注目を浴びた。裁判が始まると、ブレイクリーがいかにエリスを虐待していたかが分かってきた。射殺は許される行為ではないにしても、多くの国民にとって「理解できる」行為だった。エリスは殺人罪で有罪となり、絞首刑に処された。このころまでには女性が殺害を犯しても死刑になることはほとんどなく、実際にエリスが絞首刑になってしまったことは社会に大きな衝撃を与えた。

 1965年、殺人(死刑廃止)法案が議会で可決された。これは殺人罪で有罪となった人に5年間の死刑執行を停止させる法律だった。1969年、停止は恒常化した。最後に殺人罪で絞首刑が執行されたのは、1964年である。(後略)

 

出典:https://blogos.com/article/317099/?p=2

 

 極悪人のジョン・クリスティならぬアガサ・クリスティが亡くなった1976年には、イギリスではもはや殺人罪による絞首刑が行われなくなって10年以上経っていた。人の一生の間には社会は大きく変わるものだ。たとえばクリスティ晩年の1970年代にポアロが真犯人に自殺を勧めたのであれば非難されるべき言動に違いないが(だからこそ70年代に本作を読んだ私も嫌な気がした)、『アクロイド殺し』が書かれたのはイギリスではまだ殺人犯をバンバン絞首台に送り込んでいた1925年だった。

 なお、上記リンク先は引用文以降の部分も必読であって、1964年を最後に殺人罪で絞首刑が行われていないイギリスであっても死刑の完全廃止は1998年だった。また、世論は1960年代初頭で80%以上、1990年代初頭でも70%以上が死刑制度賛成だったが、その後減少に転じ、2014年に初めて5割を切った(48%)という。人心の変化には書くも長い時間を要するのだ。イギリスで5割を切った2014年に、日本では死刑存置論が80%以上だったというから、日本はイギリスよりも半世紀遅れていることになる。

 さて、本作で「○○○が犯人」の一番乗りの小説ではないことを明らかにした『ロジャー・アクロイド殺し*6だが、思わぬ「一番乗り」があった。それは「イギリス文学で最初に麻雀シーンが登場する作品」の栄誉だ。

 

 以下引用する。

 

 ミステリーの女王として有名なアガサ・クリスティの長編第6作(AD1926(昭和元年)発表)。イギリス文学で最初に麻雀シーンが登場する作品である。

 

 R.グレイブ&A.ホッジスの「TheWeekend」には、イギリスに麻雀が伝来したのは1923年のこととある。たしかに1923年にはEileen BeckによるMahjong do's and don'ts、Jeen Bray によるHow to play Mahjongという本格的な麻雀書がLondonで出版されている。

 

 しかしそして英米上海租界で密接な関係にあり、上海とイギリスの往来も活発であった。そしてHow to play MahjongはNewYorkとの同時発売である。また上海租界のMahjong company of Chainaで出版されたJoseph P.BubcockのBubcock's rules for mahjongg the red book of rules1920年の出版である。

 

 そのような観点から考えると、客観的に確認できるという意味では1923年であっても、実際に麻雀がイギリスに上陸したのは、それより1年くらいは前ではないかとも推測される。そして麻雀書の刊行とともにイギリスでも麻雀ブームが巻き起こり、1925、6年にはピークに達した。

 

 このアクロイド殺人事件は、キングスアボットというイギリスの田園都市に起こった殺人事件を、かの有名なエルキュール・ポアロが解決するというストーリー。内容もさる事ながら、それまでの推理小説の手法を一変させたエポックメーキングな小説として有名である。

 

 麻雀シーンは関係者が麻雀をしながら事件について話し合う形で登場する(後略)

 

出典:http://www9.plala.or.jp/majan/cla21.html

 

 引用文に少しいちゃもんをつけると、上記引用文中の「昭和元年」には違和感がある。あえて元号を表記するのを認めるにしても「大正15年」とすべきであろう。「昭和元年」は年末の7日間しかなかったからだ。また、前述の通り『アクロイド殺し』の単行本化は1926年だが、発表は1925年(大正14年)である。

 それはともかく、『アクロイド殺し』は『ロンドン・イブニング・ニューズ』紙*7に1925年7月16日から同年9月16日まで全54回で連載された。その夕刊紙連載の新聞小説で、クリスティは当時発売されて間もなかったスタイラス(触針)式のオフィス用録音機「ディクタフォン」やブームが最盛期だったと思われる麻雀を小説に取り入れたわけだ。新聞小説ならではの読者サービスだったのかもしれない。

 なお上記サイトには日本語訳の該当場面が引用されているが、おそらく中村能三訳の新潮文庫版だろう。下記の通り、ハヤカワ文庫版の羽田詩津子訳が「チャウ」と表記している鳴き声が「チョー」と表記されている。

 

 「近ごろでは」とミス・ガネットが一時話題を変えた。

 「チョーというのは間違いで、吃というのが正しいんだそうですよ」

 

 同じ箇所の羽田訳は下記の通り。

 

 「最近では」とミス・ガネットの話が少しの間それた。「“チャウ”ではなくて“チー”というのが正しいみたいよ」(ハヤカワ文庫版284頁)

 

 原文は下記の通り。

 

'I believe,' said Miss Gannett, temporarily diverted, 'that it's the right thing nowadays to say “Chee” not “Chow.”'

 

 やっぱり「チャウ」ちゃう?(チャウチャウちゃう。シェパードや)

 

 ごちそうさま。『アクロイド殺し』についてネットで延々と渉猟した結果はあらかた書き尽くした。これで本を図書館に返せる。

*1:本論とは全く関係ないが、「空白の一日」なる邪悪なトリックを考えついた人物が1978年にいた。あれこそ本当の極悪人だろう。

*2:このあたりのずるい手口を東野圭吾が真似ている。ガリレオシリーズの長篇第2作『聖女の救済』で物証となり得るさるアイテムに私は気づいていたが、途中で刑事がそれを処分したことにされていた。しかし実際には処分されておらず、それが事件の解決につながった。

*3:たとえば『日の名残り』を日本の漫画『三丁目の夕日』と一緒くたにした下記書評などは、著者のカズオ・イシグロに対する侮辱ですらあると思う。https://bookmeter.com/reviews/92638590

*4:ネタバレの片棒を担いだ弊ブログが書いてもあとの祭りではあるが、チェーホフの『狩場の悲劇』に関する「ミステリの祭典」のサイトでは、3人の評者のいずれもがクリスティの作品との関連に触れないという驚くべきフェアさを発揮している(http://mystery-reviews.com/content/book_select?id=6468)。しかしこの小説をネタバレなし、かつ著者による注釈が取り除かれた状態で読める幸運な読者が果たしてどれくらいいるのだろうか。

*5:この件に関してネタバレを気にされない方は、例えば下記ブログ記事などを参照されたい。https://m8a0y1u.hatenablog.com/entry/2020/05/03/223000

*6:読書メーター」では本作の書名を、かつて普通だった『アクロイド殺人事件』あるいは『アクロイド殺害事件』ではなく、『アクロイド殺し』としていることを褒めそやす意見が「同調圧力」的に多かったが、私はさらに一歩進んで、原作に忠実にフルネームで『ロジャー・アクロイド殺し』にすべきだと思う。たとえば『安倍殺し』では殺されたのが晋太郎か寛か晋三か、はたまた晴明なのかがさっぱりわからないだろう。

*7:1980年に『ロンドン・イブニング・スタンダード』紙に併合されたらしい。