KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

クロフツの倒叙推理の名作『クロイドン発12時30分』とアガサ・クリスティの某作を立て続けに読んだら、トリックがそっくりだった(驚)

 19〜20世紀に推理小説の本場だったアメリカとイギリスで、20世紀半ば頃の日本の「本格推理小説」が「静かなブーム」とのことだ。

 

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 日本の「本格推理小説」の開祖は江戸川乱歩で、1923年に発表された「二銭銅貨」がその記念すべき第一作らしい。私はこの作品を小学生時代に子ども向けにリライトされたポプラ社版で読み、結末の「ゴジャウダン」に強い印象を受けた。少し前の時代まで使われていた旧仮名遣いに時代の断層を感じた。

 結局私は「本格」のファンにはなり損ねた。乱歩や横溝正史に行き着く前に、英米のミステリを制覇しようとしていたが、しばしば文庫本の解説文でネタバレを食らったり、あげくの果てには読んでいた最中の『アクロイド殺人事件*1を中学校の級友にネタバレされた。このあたりから徐々に脱落し、その後も時々はエラリー・クイーンヴァン・ダインを読んだりしたものの、大学に入って以降は海外作品も日本の「本格」も読まなくなった。

 それが2013年から松本清張を読むようになり、2014年には河出文庫版でホームズ全集を全部読み、今年に入ってアガサ・クリスティをこれまでに27冊読んだ。歳をとったので、人生の忘れ物だか落とし物だかの回収を始めたといったところか。しかし横溝正史に対しては相変わらず「食わず嫌い」を続けているし、江戸川乱歩は短篇集を1冊読んだものの、他の乱歩作品も読みたいとはあまり思わなかった。東野圭吾の『容疑者Xの献身』にはもののみごとに騙されるとともに、作品の反倫理性に腹を立て、東野作品を批判的に20冊ほど読んだが、2010年代に入っての東野作品にみられる創作力の著しい低下と、『容疑者X』の頃からいっこうに改善されない反倫理性を見届けて、これ以上東野の愚作群を相手にすることもないかと思って離れた。

 しかしクリスティの作品は相変わらず読んでいる。そして、図書館の棚にはクリスティの近くにクロフツの『樽』が時々置いてあった(しばしば借り出されていて見かけないことも多かった)。この作品が本格推理小説の代表格であるらしいことは古い記憶にあったが、なにぶん創元推理文庫はハヤカワの「クリスティー文庫」と違って字が小さい分ハードルが高かった。しかし仕事が一段落した時点で図書館の棚にあったので、このタイミングでなら読めるかと思い、借りて読んだ。2013年に霜島義明訳で刊行された新訳版だ。

 

www.tsogen.co.jp

 

 読んでみると結構面白かった。

 この作品はクリスティの処女作『スタイルズ荘の怪事件』と同じ1920年に書かれたが、これがクロフツの最高傑作とされている。シャーロック・ホームズの流れを汲む天才的な名探偵エルキュール・ポワロ(ポアロ)が活躍するクリスティ作品とは対照的に、クロフツ作品は「足で稼ぐ」地道な捜査で事件の解決に至るのが特徴だそうで、第5作以降ではフレンチ警部が謎解きを行うが、『樽』にはまだ出てこない。『樽』では最初にイギリス、のちにはフランスの警視庁の刑事たちが捜査を重ねて容疑者を逮捕するが、序破急の「急」にあたる第3章に私立探偵が登場し、英仏の警察官たちが犯した誤りを改めて真犯人を突き止めるストーリーだ。

 本作には疑わしい人物が2人しか出てこず、話の流れからいって片方の容疑は冤罪であってもう1人が真犯人であることは明白だ。しかもこの人物は、クリスティ作品でさんざんおなじみの「人妻が殺された時には夫を疑え」という鉄則に当てはまる。結局興味の焦点はアリバイ崩しだけであり、これには結構時間がかかるが結局は突き止められる。このあたりの物語の進め方は松本清張の『点と線』を思い出させる。『点と線』は、私を含む今の読者なら、いくら1950年代だといったって犯人は飛行機を使ったに違いないじゃないかと思うのに、刑事たちはそんなことさえなかなか気づかずに時間を浪費するが*2、同様のまだるっこさがクロフツの『樽』にもある。おそらく清張はクロフツから強い影響を受けたのだろう。

 結局クロフツは病気療養中に書いた処女作『樽』を上回る作品は、職業小説家となってからは書けなかったといわれている。しかし日本ではクロフツ作品、ことに『樽』の人気が戦前から異様に高かったようだ。下記は雑誌『新青年』1937年新春号に発表された「海外探偵小説十傑」へのリンク。

http://www.green.dti.ne.jp/ed-fuji/column-sinseinenbest10.html

 

 江戸川乱歩横溝正史、それにコナン・ドイルの作品の翻訳で知られる延原謙らの大家たちを含む26人が選んだ「十傑」の総合5位に『樽』が位置づけられている。モーリス・ルブランの『813』の6位、ドイルの『バスカービルの犬』の7位を抑える人気ぶりだ。なお1位はルルウ(ガストン・ルルー)の『黄色の部屋』、以下ベントリー『トレント最後の事件』、フィルポッツ『赤毛のレドメイン家』、ヴァン・ダイン『グリーン家殺人事件』と続く。ヴァン・ダインは8位にも『僧正殺人事件』がランクインし、9位にクリスティの『アクロイド殺し』が挙がっている。10位にはシムノン『男の頭』、コリンズ『月長石』の2作が並んでいる。どちらを落とすのも惜しいということだろうか。

 面白いのは、エラリー・クイーンの『Yの悲劇』を挙げた人が1人だけ(井上良夫)いたが、作者名が「ロス」となっていることだ。当時この作品を含むドルリー・レーンを探偵役とする四部作は「バーナビー・ロス」という覆面作家が書いたことになっていたが、この特集が組まれた1936年の段階ではまだその正体が明かされていなかったらしい。しかし、総合十傑には入らなかったものの、クイーン作品を挙げた人たちは多かった。それ以上に目立つのがヴァン・ダインであって、このダインとクイーン、それにクロフツらが偏重されたところに日本における推理小説受容の特徴があったように思われる。

 これらの作家に共通するのは、つまり異常なまでにパズル解きにこだわった「本格」指向だ。一方で、探偵小説あるいは推理小説のカテゴリに入るのかどうかと思われるルブランのアルセーヌ・ルパンものの人気も高いが、これは「本格」の論議からは離れてしまうのでこれ以上突っ込まない。

 周知の通り、ヴァン・ダインは『アクロイド殺し』をアンフェアだとして弾劾した。前記「十傑」の選者の中にもクリスティ忌避を明言した人がいる。井上英三がその人だが、彼は1,2位にヴァン・ダイン、5位にエラリー・クイーンを選んで、4位にクロフツの『樽』を挙げている。当時の日本での「本格」偏愛の代表格といえるかもしれない。

 1937年当時にはエラリー・クイーンの人気はまだそれほどでもなく、それはおそらく「この一作」という代表作を選びづらい作家だったからだと思われるが、レーン四部作の作者ロスの正体がクイーンであることが明かされてからは、『Yの悲劇』こそクイーンの最高傑作であるばかりか、古今の推理小説中の最高峰と目されるようになった。但し日本では。本家のはずの英米では決してそんなことはなかった。かなり以前からダイン、クイーン、それにクロフツらの人気は衰えていたと思われる。それが証拠に、イギリスでの推理小説のベスト100には、この3人の名前はない。ダインとクイーンはアメリカの作家だからないのかもしれないが、イギリスの作家(但しアイルランド系)であるクロフツの名前もない。

 そんなクロフツが、少なくともある時期までは日本でかなりの人気を博していた。図書館には『樽』のほかに『クロイドン発12時30分』(1934)も置いてあって、これは2019年に創元推理文庫から出た新訳版だった。訳者は前述の『樽』と同じ霜島義明。

 本作はフランシス・アイルズ*3の『殺意』(1931)、リチャード・ハルの『伯母殺人事件』(1934)と並んで「倒叙三大小説」の一つに数え入れられるらしいが、これはエラリー・クイーンが言い出したものらしく、いずれも1930年代の作品で、「倒叙形式」との呼称から通常想像されるかつてのテレビドラマ『刑事コロンボ』のように、冒頭に犯罪の場面が描かれたあとに、捜査側が犯行を暴くプロセスが興味の中心となるストーリー進行ではなく、犯人の視点で物語が延々と進み、最後に犯行が露顕した理由が明らかになる。少なくとも本作はそうだし、ネット検索で知る限り他の2作も同様と思われる。つまり1930年代にはそういう作品が「倒叙形式」のミステリとされていたようだ。松本清張の短篇「捜査圏外の条件」(1957)も同様の形式だ。つまり『刑事コロンボ』を境に倒叙形式の主流が変化したのではないかとの仮説を私は立てた。

 前記「倒叙三大小説」の人気は現在ではかなり廃れており、『クロイドン発12時30分』も創元推理文庫版の解説(神命明)によると「ここ十年ほど入手困難な状態が続いてい」たとのことだが、本作は非常に面白かった。本作を読む前は、クロフツは『樽』の評判ばかりが高いので、同じ年に処女作を出したアガサ・クリスティと違って処女作ではクリスティを上回りながらその後は大したことのない作家だったのではないかと疑っていたが、その偏見を見事に払拭してくれた。本作はハヤカワのクリスティー文庫とは違って字が小さいのでとっつきが悪そうだが、読み始めると(もちろんクリスティほどではないが)結構快調に読める。しかも、後述のようにクリスティの某作が本作のトリックを借用したのではないかと疑われるのだ。私はたまたま両作を立て続けに読んだので、当該クリスティ作品の謎解きの場面に唖然とした。これってまんま『クロイドン』じゃないかと。あらかじめおことわりしておくが、当該の借用が疑われる作品のほか、多くのクリスティ作品のネタバレを本記事の後半に書くので、それを知りたくない方はここで読むのを止めておかれたい。

 クロフツ作品の話に戻ると、『樽』もそれなりに面白かったが、前述のように犯人候補は2人しかおらず、しかもどちらが犯人かは見誤る人などいるまいと思われるくらい明々白々であり、その場合犯行の動機も同様に明白なので、三部構成の第二部で次々と明らかになる「新たな目撃情報」も犯人がもう一人の犯人候補に罪をなすりつけるための工作であることは物語の中盤にはすっかり想像がついてしまう。解説などには、女性の死体が入れられた樽が見つかるまでの第一部の冗長さが指摘されていたが、私は逆に捜査、ことに英仏の警察が協働してもう一人の犯人候補誤認逮捕してしまう過程が冗長だと思った。

 一方、『クロイドン発12時30分』は最初から犯人が明かされ、犯行過程も丁寧に描かれているので「そんなわかり切ったことがなぜわからないのか」とイライラさせられることもない。心理劇としてすぐれており、1929年に始まった大恐慌における企業や農場経営などの苦境を描いた経済小説としても面白く、何よりリアリズムを重視したミステリとはこういう作品のことをいうのかと感心させられた。犯人が逮捕されてからの法廷の場面が結構長いことは、大岡昇平の『事件』(1977)を思い出させた。大岡は松本清張と論争を展開したこともあるミステリ愛好家だったが、1978年に創元推理文庫からの「私の勧める7冊」と題したエッセイを書いていて、その筆頭にクロフツの『樽』を挙げている。

 

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 リアリズムを重視するクロフツの作風が大岡昇平の『事件』に大きな影響を与えたことは間違いないだろう。ここらへんは今の日本の作家、たとえば東野圭吾に『禁断の魔術』というクソ小説などとは全く違うところだ。この作品には悪の権化のような政権与党の政治家が出てきて、そいつが命を狙われながら生き延びてしまうのだが、某読書サイトを見ていたら、そいつが死なずに済んで「憎まれっ子世にはばかる」結末にしたことは東野がリアリズムを重視する作家だからだ、などと書かれたクソ感想文を見て激怒した。この小説は、強烈な破壊力を持つばかりか高電流を流すために取り扱いも危険極まりない「レールガン」という実用化されていない兵器技術を、シリーズの探偵役である大学の物理学教授が高校生に教え、後年に姉の死をきっかけに入ったばかりの大学を退学したその元高校生が姉を見殺しにした悪徳政治家に「レールガン」で復讐しようとする話だ。弊ブログで以前にこき下ろした通り、設定そのものが荒唐無稽であってリアリズムなど欠片もない。ただ悪徳政治家が死なずに済むところだけがリアリスティックであっても何の意味もないのである。こんなクソ小説をもてはやして東野を「大御所」に担ぎ上げてしまっているのが現代日本のミステリ読者たちだ。寒心に堪えない。

 一方、クロフツの『クロイドン発12時30分』では犯人が毒殺に用いたシアン化カリウム(青酸カリ)の入手に苦労したり(当時のイギリスでも薬局は簡単に売ってくれなかった)、毒物を混入した錠剤を作ったりする経過が丹念に描かれる。購入したシアン化カリウムは粉体なので、バインダー(結着剤)を混ぜて固めなければならない。そうした経緯を丹念に描くことこそリアリズムだと私は思う。一発弾丸を発射してしまったら兵器を構成するレールの金属の一部がプラズマ化してしまうためにメンテを必要とし、そのために大国が兵器としての実用化を未だにできずにいる「レールガン」を大学教授が高校生に学園祭の出し物として教えるなどという、リアルからかけ離れたクソ小説を書くクソ作家のどこにリアリズムがあるというのか。

 東野圭吾とその読者たちへの悪口はこれくらいにして、後半のクリスティ作品の話に移る。

 大岡昇平クロフツが好きだったが、坂口安吾はオーソドックスにエラリー・クイーンアガサ・クリスティを愛好していた。クリスティの作品は、ポワロものを成立順に読んでいると、超有名な『アクロイド殺し』などを例外として似たような話が多いと最初は思っていたが、似たような話を続けざまに発表しながら、長い目で見ると傾向が徐々に変化して行っていることに少し前から気づいている。たとえばポワロものの第6作『エンド・ハウスの怪事件』(『邪悪の家』)と第7作『エッジウェア卿の死』とは双子のようにそっくりな構成の作品で、ともにお節介なハヤカワのクリスティ文庫の裏表紙に書かれた短い作品紹介文を読んだだけで犯人がわかってしまうが、第7作『エッジウェア卿の死』は第9作『三幕の殺人』とも密接な関係がある。『三幕の殺人』は『エンド・ハウスの怪事件』とも面白い共通点があるが、両作の距離は『三幕の殺人』と『エッジウェア卿の死』との距離より少し遠い。そして有名な第11作の『ABC殺人事件』は、読後すぐに、ああ、この作品は『三幕の殺人』のアイデアを発展させたものだと気づかされる*4。『ABC殺人事件』は第13作『ひらいたトランプ』と相互言及の関係にあり、物証に乏しく容疑者たちの心理面から犯人当てをさせる趣向にも共通点がある。そして『ひらいたトランプ』とより密接な関係があるのが第14作『もの言えぬ証人』(1937)だ。『ひらいたトランプ』のアイデアはまた、『アクロイド殺し』と並び称されるクリスティの二大傑作『そして誰もいなくなった』にも発展した。こうして、あのたわいもない『エンド・ハウスの怪事件』が変容を重ねたあげくに『そして誰もいなくなった』に行き着く。両作の内容がかけ離れていることはいうまでもない。クリスティ作品を成立順に続けて読むことには、山脈の縦走にも似た面白さがある。

 だがさすがにミステリはクリスティしか読まないというのではあまりにも芸がない。私がクロフツの『クロイドン発12時30分』の次に読んだのが、前述のクリスティの『もの言えぬ証人』だった。コントラクトブリッジの点数表から犯人を当てるという趣向の『ひらいたトランプ』に続いて、本作も物証がなく登場人物たちの心理から犯人を当てさせる作品だ。被害者の死に方や、登場人物に医者が多いことから、明示はされていないものの犯行手段が毒殺であることを疑う人は誰もいないだろう。

 この作品は長いし、夏の疲れがかなり溜まっていたので、普段はネタバレを恐れて滅多にやらないのだが、解説文(直井明氏執筆)を先に読んでしまった。そこには「この作品で使われた毒がめずらしい」などと書かれている。ああ、またデビュー作の『スタイルズ荘の怪事件』に続いて、誰も知らないような毒物を用いた作品なのか、クリスティの悪い癖だよなあと思ったが、実はこの解説文こそ最大のミスリードだった。迷惑千万な話である。エルキュール・ポワロに種明かしをされてみれば、その毒物と毒性は、私が中学生時代から知っているものだった。ただ、その物質は確か反応性が非常に強いはずだから、そんな犯行が現実的に可能なのだろうかと思った。その点が、青酸カリを錠剤にしたクロフツとは大いに違うところだ。どうせネタバレをやっているのだから書いてしまうと、その毒物はリンだ。リンには黄リン(白リン)や赤リンなどがあって、猛毒なのは黄リンだが反応性がきわめて高く、酸素と反応してすぐに発火してしまう。また赤リンは化学的に安定しているが無毒だ。有機リン化合物の中には毒物があるが、作品に描かれたリン中毒の症状はまさしく無機のリンによる中毒であって、有機リン化合物による中毒ではない。

 謎解きの場面でポワロは、「外国製のマッチでも、殺鼠剤でもよい。燐を手に入れるのはいたって容易なことです」(ハヤカワ文庫版492頁)と言っている。しかしこれは現在には当てはまらない話だ。私はこのくだりを読んで、えっ、マッチに使われているリンは無毒の赤リンなんじゃなかったっけ、と思ったが、Wikipediaを参照すると、かつてはマッチに黄リンが使われて中毒がよく起きており、1888年にはロンドンの工場で「マッチガールズ・ストライキ」が起きたらしい。その後1906年の国際会議で黄燐使用禁止の条約が成立して欧米各国が批准したが、マッチが主な輸出品の一つだった日本は批准しなかった。但しそんな後進国・日本でも1921年にはようやく「黄燐燐寸製造禁止法」が公布・施行された。このような経緯だから、『もの言えぬ証人』が書かれた1937年にはイギリスで「黄燐マッチ」が使われることはなかったようだが、「外国」では黄リンの入手は比較的容易だった。また、下記「コトバンク」によると、日本では第二次世界大戦前は殺鼠剤として8%の黄リン製剤である「猫いらず」が主に用いられたという。つまり戦前の日本でも黄リンの入手は比較的容易だった。

 

kotobank.jp

 

 つまり、『もの言えぬ証人』が書かれた1937年には、当時から先進国だったイギリスはともかく、「外国」では黄リンの入手は比較的容易だった。だから、犯人は何も医者のような高度の専門知識をもつ人間である必要はなく、素人にも十分可能だった。だからポワロは「ある程度の知識を必要としますが、大して深い知識はいりません。燐中毒のことなんか、すぐわかることですし、燐自体も簡単に手に入るものです。特に外国だったら……」(ハヤカワ文庫版494頁)と言ったのだ。ところがそんなありふれた毒物であるリンを、解説の直井明氏(1931-)は「めずらしい毒物」と書いた。だから解説がミスリードになっていると私は言うのである。

 そして犯人は「めずらしい薬物」という言葉から連想される医者ではなく、外国在住の素人のイギリス人女性だった。彼女はリンを被害者の薬のカプセルに入れて、それを薬壜に入れ、いつかはそれを飲んで死ぬだろうと当て込んだのだった。

 この手口は、錠剤とカプセルの違いこそあれ、クロフツの『クロイドン発12時30分』と同じだ。クロフツ作品は1934年、クリスティ作品は1937年の成立だから、クリスティはクロフツのトリックを借用した可能性が高いと思われる。

 『もの言えぬ証人』に、キャロライン・ピーボディという名前の老嬢が登場するが、キャロライン*5という名の老嬢として直ちに思い出されるのは、かの『アクロイド殺し』だ。また、このピーボディという姓の人間は『クロイドン発12時30分』にも出てくるが、こちらは犯人に青酸カリを売った薬局の人間(男性)だった。ただ、キャロライン・ピーボディの命名にクリスティがそうした意味を込めたかどうかは明らかではない。

 しかし、『もの言えぬ証人』にはポワロものの過去作品の犯人の名前をポワロが4人も口にする場面があり、その一人が『アクロイド殺し』の犯人だ。この4人に共通する特徴は、『もの言えぬ証人』の犯人像とは全く異なるもので、クリスティが読者をミスリードしようとして出してきたものだが。そして、ポワロは最後に犯人に自殺を強く勧め、その通り犯人は自殺する。このあたりも『アクロイド殺し』と同じだ。そもそも、登場人物に3人も医者が出てくる。クリスティ作品の犯人には美女と医者が多い。

 一方で、犯人が鏡像を目撃されたブローチから、犯人のイニシャルが「A・T」ではないかと読者に強く疑わせてもいる。このほのめかしは結構強烈だ。鏡に映ったイニシャルが「T・A」であり、登場人物の中にテリーザ・アランデルという女性がいるのだが、犯人はこの人ではなく、鏡に「T・A」と映ったということはブローチのイニシャルは「A・T」のはずで、登場人物一覧を見ると「A・T」はいないけれども姓が「T」で始まる人物は2人おり、そのうち女性は1人しかいない。その人物のイニシャルは「B・T」だが、BはAで始まる本名の愛称ではないかとは多くの人が思ったことだろう。私は疲れていたので、普段なら「ベラ」は何という名前の愛称なのだろうかと「ベラ 愛称」でネット検索をかけ、アラベルやアラベラの愛称であることを突き止めたはずだ。

 

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 今回はそれはやらなかったが、ああ、「ベラ」の正式名称はAで始まり、この「ベラ・タニオス」が犯人なんだろうなとは思った。この手の愛称のトリックをクリスティは『エンド・ハウスの怪事件』でも用いている。それに、この人物はそこまで読んできて私が犯人の第一候補に挙げていた人物だった。なぜなら、それまであまり言及されなかったうえ、仮に被害者が何も遺言状を残していなかった場合には遺産の半分を受け取れるはずだったのに、最初の遺言状によって3分の1にされ、(犯人が犯行時には知らなかった)二度目の遺言状によってゼロにされてしまった立場の人間だ。そして、二度目の遺言状で遺産の大部分をもらえるはずだった家政婦に、主要な登場人物の中でただ一人すり寄ったのがこの「ベラ」だった。とはいえ、私は100%ベラが犯人だろうとまでは思っていなくて、『スタイルズ荘の怪事件』をはじめとして、クリスティがよくやる「いちばん怪しい人物が犯人」というパターンなら、チャールズ・アランデルも怪しいな、などと二股かけていたのだった。しかし、ベラの夫であるギリシャ人医者のジェイコブ・タニオスは全く疑わなかった。その最大の理由は、詳しくは後述するが、作中でクリスティがギリシャ人などの外国人に偏見を持つ「イギリス人の島国根性」を散々こき下ろしていたからだ(同様の記述は前作の『ひらいたトランプ』にもあった)。「中韓ヘイト」が横行する現在の日本で、作者がそういう風潮に苦言を呈しておきながら、真犯人は韓国人医師だったなどという結末にするはずがないだろう*6

 しかし、クリスティが終盤に力業を発揮する。全力で、ジェイコブがベラに危害を加えようとし、ポワロがベラを逃がそうとしているかのような展開を繰り広げるのだ。だがそれはフェイクであって、実はポワロが守ろうとしていたのはギリシャ人医師のジェイコブだった。ポワロは第二の殺人を犯そうとしていたベラからジェイコブを守り、ベラに「私は真相を知っている」と思い知らせて自殺に追い込んだのだった。このあたりはさすがに手練れのクリスティらしく、ベラ(かチャールズ)を疑っていた私は何が何だかわからないままに引き回され、その勢いに負けて、ついにはポワロは本当にベラを守ろうとしているのかと思ってしまった。結局種明かしの場面で「やっぱり最初に思った通りだったか」という結末に終わったとはいえ、ベラが真犯人だろうという自分の推理に十分な自信が持てなかったために、作者のミスリードにつけ入られてしまった。だから、本作の犯人当てについては50点か60点程度の自己評価しかできない。もしかしたら、私がベラ犯人説に自信を持ちきれなかったのは、殺害に「めずらしい毒物」が使われているという直井明氏のミスリードが一因だったかもしれない。

 で、本作の興味の焦点はトリックでは全くないのだが、クロフツの『クロイドン発12時30分』と全く変わらないトリックが用いられていたことを知った時には目が点になってしまったのだった。

 そういえば、作者のクリスティが強調していないために気づいていない読者が多いようだが、ベラは主要な登場人物というか、遺言状の変更が明らかになる前に遺産を受けとれるはずだった4人の中ではただ一人、殺人が起きたと思われる時点で現場にいなかったというアリバイを持っていた。これは『クロイドン発12時30分』の犯人・チャールズと全く同じだ。ポワロは謎解きの場面でさりげなく「(仮に毒殺の疑いが)生じたにしても、彼女自身はマーケット・ベイシング(殺人が起きた小緑荘の所在地=引用者註)をはるか離れたところにいる、というわけです」と説明している。もっとも、クロフツ作品の探偵役であるフレンチ警部は「アリバイがある人間ほど怪しい」と言い、真犯人が毒殺現場(『クロイドン』では航空機の機内)にいなかったどころか、長い船旅に出ていたことを、彼を強く疑った理由に挙げている。だから、この事件を捜査したのがポワロではなくフレンチ警部であっても、必ずや真犯人を突き止めたに違いない。もちろんフレンチ警部の場合は犯人に自殺の強要などしなかっただろうが。

 しかしクリスティの『もの言えぬ証人』もクロフツの『クロイドン発12時30分』も、ともにトリックに重きを置いた作品ではない。ともに犯人らのクロフツ作品はそもそも倒叙ものだし、クリスティ作品は毒殺がリンによることのヒントは、被害者の息から霊媒がエクトプラズマと誤認した燐光を発したことで与えているが、被害者の薬壜に入っているカプセルの中身を入れ替えたことに関するヒントは一切与えていない。あるいは、同じトリックを用いることでクリスティが同年の作家デビューではあるが11歳年上のクロフツに敬意を表したものかもしれない。

 読書サイトでクリスティ作品の感想文を読んでいると、本作に限らず『アクロイド殺し』その他でも、ポワロが犯人を自殺に追い込むことを批判する者がよくいる。しかし、以前にも書いたと思うが、それは死刑制度と切り離せない関係にある。かつてのイギリスでは人を一人殺せば絞首刑だったから、絞首刑になるくらいなら遺族らに迷惑をかけないために自殺しろと探偵が勧めることにもそれなりの言い分が生じる。現在のイギリスのように、死刑制度が廃止された国であればポワロもそのような行動はしなかったのではなかろうか。このことを、死刑制度を8割以上の人が支持しているとされる日本にあってクリスティ作品を読む人はどう考えているのかと私は問いたい。自殺勧告が許されないことだとするなら、国家による殺人である死刑も許されないという立場でなければならない。これが私の主張だ。

 

 『もの言えぬ証人』は結構「穴の多い」作品だ。前記解説文の直井明氏は、シリア・フレムリンという人が書いた「誰でも知っていたクリスティー」という評論文を下記のように引用している。

 

「いったいどこの誰が、夜の夜中、開けっぱなしの戸口から数フィートと離れていないところで、金槌と釘とニスとを使ったりするだろうか? それに、女性は化粧着姿のとき大きなブローチをつけたりするものだろうか?」(金井美恵子氏訳)と言われた理路雑然とした事件であった。(ハヤカワ文庫版515-516頁)

 

 「理路雑然とした事件」とはえらい毒舌であって、自らも平然とありふれた毒物を「めずらしい毒物」と書いてしまうような人がよくそんなことを言えるようなあと思わなくもないが、確かにあまりも無防備ではある。それに加えて私は、鏡に「T・A」というイニシャルが映った時、いくら寝ぼけ眼だったからといって、その人のイニシャルが鏡像関係にある「A・T」ではなく「T・A」だと思うだろうかと、それにも疑問を持った。ところがポワロの無能な相棒であるアーサー・ヘイスティングズはポワロが作った「H・A」のブローチの模型(厚紙を切り取ったもの)をつけた自らの姿を鏡で見て、自分のイニシャルである「A・H」が映っていると言い、あとで実物を見て「あきれた! よっぽどばかだなあ、ぼくは! ブローチのイニシャルはH・Aじゃないか。A・Hだとばかり思ってた!」(ハヤカワ文庫版440頁)と宣うのだ。私は、ヘイスティングズってどうしようもない馬鹿だなと思うと同時に、本当にみんな家政婦のミス・ロウスンやヘイスティングズのような間抜けばかりなのだろうかと大いに疑問を持った。

 しかし、このように本当に「理路雑然」としているし、しきりに『アクロイド殺し』を連想させる場面が多いうえ、トリックをクロフツの作品から借用していると思われるという問題の多い作品であるにもかかわらず、本作は不思議と印象に残る。それは、犬好きだったクリスティが被害者の愛犬・ボブによるところも少なくないけれども、何より若い頃には「無邪気だが鼻持ちならないイギリス帝国主義者」との印象が強かったクリスティのものの考え方が、この作品当たりになるとはっきり変化してきていることがはっきりわかることにもよる。

 以前弊ブログに公開した記事で、ミス・マープルものの長篇第3作である『動く指』(1943)について同様のことを指摘した記憶があるが、同作に見られたクリスティの思想の変化は、1937年の『もの言えぬ証人』やその直前の『ひらいたトランプ』に既に表れていた。これらの作品でクリスティは、少なくないイギリス人に見られる「外国人に対する島国根性的な偏見」を批判している。かつてはどうだったかといえば、『エンド・ハウスの怪事件』(1932)ではクリスティ自身がオーストラリア人に対する偏見をむき出しにしていた。クリスティは中国をはじめとして日本をも含む極東に対する偏見もはなはだしかったが、『動く指』では語り手とのちに結婚する恋人*7の2人が中国の水墨画を気に入る場面がある。再婚した夫と何度か中近東を訪れたことで、クリスティの考え方に変化が生じたものだろうか。これは好ましい変化だといえる。何度も引き合いに出すが、反倫理的な『容疑者Xの献身』で大成功して以来、反倫理性には変化がないのに作品は退化する一方という、現代日本の凋落を象徴するかのような東野圭吾とはまさに対極的だ。

 『もの言えぬ証人』では、かつて『ゴルフ場殺人事件』で「極悪人の娘は極悪人」という偏見をむき出しにして私を失望させた、その悪しき偏見を改めてもいる。『動く指』にも同様の例があるが、本作はそれより早い例だ。容疑者候補にされたチャールズとテリーザの兄姉は、ともに元殺人容疑者にして裁判で無罪になった女性の子だが、「悪人の子は悪人」の悪役を免れた。テリーザは事件後に恋人の医者と結婚するし、兄貴は相変わらずの自堕落ではあるが、妹が真犯人ではないかと疑いながら、妹から嫌疑をそらさせようと嘘をつくなど、(良いことかどうかはともかく)思いやりのあるところを見せる。

 そして、クリスティ自身が読者に「犯人ではないか」と思わせたがってミスリードにミスリードを重ねたギリシャ人医師のドクター・タニオスが、ポワロによる謎解きが終わって、真犯人だったことが明かされた自らの妻であるイギリス人のベラが自殺して果てたことについて、「あれはわたしにはよすぎるほどの女でした――いつでもそうでした」と呟いた(ハヤカワ文庫版508頁)。この長篇を最後に、次には『カーテン』までご無沙汰になる(無能な)ヘイスティングズは、「それは自ら罪を認めたあの殺人者にはちょっと思いがけない墓碑銘であった」(同)と評した。エピローグの直前に置かれたこの2行は、穴が多すぎるよなあと思っていたこの作品の最後にあって、意外なほど強い印象を残すものだった。クリスティはこの2行に、排外主義に凝り固まったイギリス人読者たちに対して、言いたいことは言い尽くした、その最後を締めるとっておきの決めゼリフだったといえようか。読書サイトを見ると、本作にはクリスティ後期の作風への萌芽が見られると評した人がいた。本作以降のクリスティ作品は、本作の直後に書かれた有名な『ナイルに死す』(1937)は既に読んだけれども、それ以外は前述の『そして誰もいなくなった』、『動く指』に加えて『ポケットにライ麦を』(1953)を読んだだけだ。クロフツも、あるいは他の古典の名作とされるミステリももっと読んでみたいけれども、クリスティとは長い付き合いになりそうだ。

*1:アガサ・クリスティ作『アクロイド殺し』の中村能三訳新潮文庫版(1958)のタイトル。

*2:ちなみにクリスティは1935年に『雲をつかむ死』(『大空の死』)で飛行機内での殺人事件を描いている。この作品には、客席から気圧の低い外気に通じる穴がある設定になっているという疑問があるが。

*3:本名アントニー・バークリー・コックス(クリスティの『ABC殺人事件』を思い出した)で、「アントニー・バークリー」の筆名で多くのミステリを出していたとのこと。『殺意』はフランシス・アイルズ名義での第一作。エラリー・クイーンがバーナビー・ロスの筆名を使って4部作を出したのと同じようなことをやったわけだ。

*4:ABC殺人事件』は図書館に古い新潮文庫版(1960年の中村能三訳。1989年改版)があったのでそちらを読んだが、ハヤカワのクリスティー文庫の解説に『ABC殺人事件』と『三幕の殺人』との関係が指摘されていたそうだ。『三幕の殺人』を読む前にクリスティー文庫版の『ABC殺人事件』を読まずに済んで、本当に良かった。なお2013年以前には推理小説を読む週習慣を数十年間失っていた私は、ファンの間では有名であるらしい「ミッシングリンク」だの「ABCパターン」だのは全く知らなかった。高校生の頃に『ABC殺人事件』の講談社文庫版を買ったものの、当時の私は中学生時代に『アクロイド殺人事件』(中村能三訳の新潮文庫版)を読んでいる最中に級友からネタバレを食らったトラウマから脱することができず、『ABC殺人事件』も『アクロイド』ほどの作品じゃないんだろ、と思うとどうしても読み始める気が起きず、読まないまま文庫本を手放してしまったのだった。だから、何も知らない状態で『ABC殺人事件』を読むことができた。読書サイトを見ると、有名な少年漫画『名探偵コナン』にこの小説のネタバレをやらかしている回があるとのことで、その被害に遭った読者が大勢いるとのことだ。深く同情する。しかし、「ABCパターン」は類似の作品を含めて知らなくても想像はついた。なぜなら前述の通り『三幕の殺人』にアイデアの萌芽があるし、3件目の殺人がその前の2件とは性格を異にしていること読みながらすぐに気づいた。しかしそこまで気づいていながら犯人を当て損ねたのは痛恨だった。敗因は、過去のクリスティ作品での犯人との類似性や、物語の最後にあるカップルをどう成立させるかなど、つまらないことを考えて犯人の候補を広げてしまったことだ。種明かし直前のポワロの謎かけで真犯人に気づいたと思い、実際その通りの犯人だったが、それも推論が全然違っていて、結果的に当たっただけだった。素直に、これもクリスティ作品で犯人を当てようとする時の鉄則の一つである「動機」を考察しさえすれば簡単に犯人を推定できたはずだ、しまった、と種明かしをされてから臍を噛んだ。ただ、負け惜しみを言わせてもらえば、『ABC殺人事件』は確かに面白いけれども、『三幕の殺人』や『ひらいたトランプ』と同程度の作品であって、そんなに傑出した大名作とまではいえないと思う。

*5:イギリスの発音では「カロライン」に近いのではないかと思うが。

*6:もっとも私が忌み嫌う東野圭吾ならやりかねないが。東野は、ときに松本清張風の社会派的な味付けをするくせに、愛する女性のために罪のないホームレスを虫けらのように殺した極悪人が犯した殺人事件を「純愛」から発した「献身」の物語であるかのように書くという極悪非道の行いをやらかした(『容疑者Xの献身』)。断じて許せない。

*7:ミーガンという名前だが、『ABC殺人事件』に2人目の被害者の姉として登場する同名の人物を発展させたキャラクターだろうと思う。なお、以前の記事で指摘した通り、『動く指』は物語の構造としてはポワロものの『メソポタミヤの殺人』に酷似している。両作の舞台は全く異なるが。クリスティが意識的にこのような手法をしばしば用いることを『ひらいたトランプ』に登場する作家のオリヴァー夫人(クリスティの分身とされる。初登場はパーカー・パインものの短篇)が認めていたのを読んで、ニヤリとしてしまった。