KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

直木賞受賞当時「本格推理」や「純愛」をめぐる激論を巻き起こした東野圭吾『容疑者Xの献身』を改めて批判する

 東野圭吾の『容疑者Xの献身』に対する批判はこれまでにも何度も書いたが、一度まとめておいた方が良いだろうと思ってネット検索をかけたところ、同書のハードカバー版が刊行されて直木賞を受賞し、評判をとった頃に書かれた、強く共感できる批判を2件みつけたので紹介する。

 1つめは、2006年2月5日に公開されたブログ記事。当時はライブドア事件が話題になっていて、前年の「郵政総選挙」で圧勝した小泉純一郎政権の強烈な新自由主義政治に対する批判がようやく強まっていた頃だった。当時ライブドア投資事業組合に深く関与していたのではないかと疑われた政治家が西村康稔だった。また安倍晋三の非公式後援会だという「安晋会*1の名前が耐震偽装問題の証人喚問で飛び出し、『週刊ポスト』が書き立てるなどして(私を含む)一部から注目されていたのを思い出す。そんな思い出深い頃に書かれた下記ブログ記事に、私は文章の最初から最後まで、全面的に共感した。以下全文を引用する。なお著者は先日78歳の誕生日を迎えられたそうで、現在もブログ『梟通信〜ホンの戯言』の更新を続けておられる。

 

pinhukuro.exblog.jp

 

「容疑者Xの献身」再論 納得できない人権無視

2006年 02月 05日

 

以下に書くことはこの小説のネタそのものに触れるので、これからこの小説を読むつもりの方は、そのことをご承知ください。

 

先の直木賞を受賞して今ベストセラー街道を突っ走るこの小説。作品・ミステリとしての出来はともかくその内容に問題があると思う。

 

「純愛」とか「無私の愛を描いた」ということが売りのように言われるその「無私・命懸けの献身」とは、一目ぼれの女性とその娘が犯した殺人を隠蔽する為に自分がもうひとつ別の殺人を犯し、その死体を隠ぺい工作につかう、ということなのだ。トリック設定のよしあしもここではおくことにする。

 

彼が用意した死体とは誰からもあまり注意されていないホームレス。まだホームレスになり立てで、髪も短く保たれ、髭も剃られている。工業系の雑誌を読んでいる。まだ再就職の道を諦めていない。青いビニールシートの生活とは一線を画したいとおもっている(文中の主人公の観察)。主人公は彼を「技師」と心中密かに名づける。

突然行方をくらましても、誰にも探してもらえず誰からも心配してもらえない人間、として生け贄になるのだ。もちろん主人公にも誰にも何か悪いことをしてはいない(少なくとも小説の中では)。

 

純愛・無私の貢献の主人公が「技師」を殺そうと決めるのは一瞬だ、逡巡や懊悩なぞ皆無だ。富樫(女が殺した男)の死体を目にした時、すでにひとつのプログラムが出来上がっていて・・いつ見つかるかと怯えながら暮らすような苦しみを味あわせることは耐えられない・・そこで「技師」を使おうと、決める。絞め殺したあと顔を潰し指を焼いて偽装工作をする。そのことについて主人公は「思い出すたびに気持ちが暗くなる」としか描写されていない。もともとクライ男なのだ。名探偵が登場しなければオミヤ入りだったかも知れない。何が無私だ!ムシがよすぎる!

 

罪と罰」もある。極悪非道な主人公が残虐な殺人を連続して犯す小説も山ほどある。しかしそのような小説はそのこと自体がテーマになっていたり唾棄すべき事柄として書かれている。または犯した罪に対する良心の呵責や悩みを描く小説もおおい。

 

この小説のように”感動、泣ける””純愛・無私”の主人公の行為として肯定的に描かれることはあまりないのではなかろうか。ヒューマニズムというか健気な母子に同情して自らを犠牲にするというテーマの中でホームレスの扱いは”違和感”そのものだ。

 

人格などないように小道具のように殺される。”死体提供の役以上の何物も持たない”存在として圧殺される。ほとんど”背景”扱い。二つの矛盾に満ちた行為をなさねばならなかった弱き人間としての苦悩と悲哀を描いているとも思えない。要するに作家はホームレスを道具としてしか見ていないのだ。ギリギリのやむを得ざる選択としてのホームレス殺しではない。都合よくそこにいたホームレス殺しで間に合わせたのだ。

 

自家撞着している主人公をシニカルに描いたわけでもなく糾弾するわけでもない。戯画化しているのでもない。そこが問題だ。

 

社会性などと関係のない純粋謎解きミステリならともかく、小説の冒頭に隅田川を歩く主人公を登場させそこでホームレスたちを紹介する鮮やかな手並みの中で事件の環境に現実性を付与している。そのような小説だから多くのフアンたちがわが身に引き寄せて興奮し感動したのだろう。そのような作品を表彰する審査員が問題だ。わずかな発言・失言でも見逃さず”問題視”するさまざまな人権団体や人権屋さんが問題にしないのだろうか。

 

そういう世の中になってしまったのか!子供たちがホームレスに集団暴行してももう記事にもならないかも。

 

(『ブログ『梟通信〜ホンの戯言』2006年2月5日付記事)

 

出典:https://pinhukuro.exblog.jp/2673403/

 

 本当にその通りだ。私も同じことを感じた。以前の記事にも書いたが、私も『罪と罰』を思い出した。私に言わせれば、この真犯人は「自ら犯した罪に対する苦悩や懊悩を一切しない」ラスコーリニコフであって、もちろんラスコーリニコフとさえ比較にならないくらい悪質だ。

 著者の東野圭吾は作家になる前の若い頃(高校生だか大学生だかの頃)に松本清張をずいぶん読み込んだらしい。だから一件「社会派」風に「小説の冒頭に隅田川を歩く主人公を登場させそこでホームレスたちを紹介する鮮やかな手並みの中で事件の環境に現実性を付与し」たのだろう。私もそういう期待を持って本作を読み進めていった。ところが、「刑事コロンボ」のような倒叙推理小説だと思い込んで読んでいた本作の核心部が、実は「ホームレスを犠牲にした替え玉殺人」だったと知って、びっくり仰天するとともに激怒したのだった。

 逆に本格推理小説を熟知した人たちにとっては、この「替え玉殺人」を見破るのは容易で、「難易度が低い」のだという。確かに手がかりは作中に示されているし、本格推理を読む人にとっては「顔のない死体は替え玉を疑え」という鉄則があるのだそうだ。また、そもそも本作が本格推理としてフェアかどうかについての激しい論争もあったようだ。しかし本格推理小説など高校1年生の時を最後にを何十年も読んだことがなかった私には、そんな議論には全く関心がない。

 上記のような批判を含む本作に関する議論が下記サイトにまとめられている。

 

 この中に、早川書房の『ミステリマガジン』2006年6月号の特集「現代本格の行方」に掲載された我孫子武丸氏の論考「容疑者Xは『献身的』だったか?」が引用されているが、これが本作の反倫理性に対する批判になっており、私はこれに共感した。以下引用する。

 

 彼らの両方が、石神の行為を「自己犠牲」「献身」と捉えていることがはっきりと分かる場面である。ここには、何の関係もなく殺された人間に対する一片の同情も、そんなことをやった石神という人物に対する嫌悪、恐怖のどちらもまったく感じられない。靖子はやや恐れを感じているようにも見えるが、それは自分にはもったいないほどの大きな愛情に対する畏怖でしかない。ネタは見えつつも、楽しく読み進めてきたぼくはこのあたりですっかり「ひいて」しまった。フィクションにおいて、一方的に思いを寄せる女性のために何の関係もない人間を殺す人物(明らかに異常者だ)を、感情移入させるような形で描くことについては、ぼくは何の疑問も不満も感じない。たとえ一人称一視点であったとしても、主人公の考えイコール作者の考えと限らないことは当然だ。しかし、そういう人物の行動を、他の、モラルの側に立つはずの人物たちまでもが「大きな犠牲」などと捉えるとなると、ぼくには到底受け入れがたい。一歩譲って、登場人物全員がインモラルな人物として描かれているのだとしてもいい。しかし、別れた妻をつけまわす陰湿な男・富樫とその富樫殺しの隠蔽のために殺されたまったく無関係な人物、「技師」。読者は一体どちらの罪を重いと考えるだろう。「技師」殺しを石神の「自己犠牲」と捉える湯川は一体どんな正義の元に真相を暴こうというのか。真相を墓場まで持っていこうとした石神の気持ちを知りながら、それを靖子に告げることで自白を引き出そうとした湯川の行為は誰かを救っただろうか。正当防衛に近い偶発的な殺人をしてしまっただけの親娘に、石神の分の罪も背負わせただけではなかったか。

 

 何人かの評者は本作を二重の読みが可能なたくらみに満ちた作品と読んだようだったが、こうして見る限りそれは深読みのしすぎではないかと言わざるを得ない。愛すべき平凡な女性として描かれてきたはずの靖子と、犯罪者を断ずる役割を担った探偵役の双方が同じ価値観を持っている以上、それが作者自身の価値観と重なると考えるのが普通の読みだろう。彼らが(つまりは作者が)「ネオリベ的」であるかどうかは、そもそもぼくには「ネオリベ」の意味がよく分からないので判じかねるが、この二人のせめてどちらか一人でも石神の行動を厳しく断罪する価値観を持ってくれていれば、ぼくの本作に対するエンタテインメントとしての評価はかなりアップしただろうし、笠井が感じた違和感も大幅に減じたのではないかと推察するのだが……どうだろうか。

 

我孫子武丸「容疑者Xは『献身的』だったか?」〜『ミステリマガジン』2006年6月号「現代本格の行方」より)

 

出典:http://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/710606.html(リンク切れ)

 

 上記批評から、東野圭吾に対する「ネオリベ的」との批判があったらしいことがわかる。面白い視点だし、一面で当を得ている。ただ私は、東野圭吾は「強者目線」を強く持ってはいるものの、基本的にノンポリの人だと思う。もちろん私がはまりにはまった松本清張とは全く違う。次回エントリで取り上げる予定の『聖女の救済』は、おそらく清張の短篇「捜査圏外の条件」を下敷きにした作品だと思われるが(両作には多くの共通点がある)、2006年から書き進められて2008年に発表された『聖女の救済』で被害者として殺された人物は、「女性は産む道具」との価値観を持っていたことを作者に断罪されている。この作品を読んだ人たちの多くは、2007年に当時の第1次安倍内閣厚労相柳澤伯夫が発した「女性は産む機械」という発言を思い出したに違いない。東野圭吾とは「時流に乗る」ことを得意とする作家なのではないかと思った。小泉純一郎郵政解散を仕掛けて総選挙に圧勝した2005年には「ネオリベ全盛」だったから『容疑者Xの献身』のような小説を書いただけなのではないか。また、出版元の文藝春秋がこの本に「純愛」をうたった帯をつけるなどして売り込んだとのことだ。そういえば数年前にも別の「ジュン愛」騒動があったことを思い出した。私はとことん「ジュンアイ」とは相性が悪いらしい。だがここで百田尚樹の話に脱線するのは止めておく。

 東野圭吾はあまり売れなかった時期が長いようだが、その若き日の作品には「作者の倫理観が崩壊している」としか思えない作品が多くある。当たり障りのない言い方をすると「玉石混淆」になるが、その「石」はあちこちがとんがっていたりして強烈に凶悪なのだ。私が読んだ中で最悪の例は『同級生』(1993)だ。この作品を徹底的にこき下ろしたあるサイトの感想文があまりにも痛快だったので、以下にリンクを示す。

 

blog.netabare-arasuji.net

 

 上記リンクの紹介文にも見える通り、「自分の子を身籠もって事故死してしまった彼女のために愛がなかったので罪滅ぼしのた」めに、主人公の高校生が真相を探ろうとする話だが、そもそも「本当に愛してもいなかった」彼女を「身籠もらせた」時点で論外の主人公であって、しかも「絞殺された」はずの女性教師は、明らかに作者の東野圭吾が嫌いなタイプの教師だと思われるが、実は自殺だった。滅茶苦茶かつ作者にとって都合の良いだけの筋立ての「超駄作」だ。こんな小説が売れなかったのは当たり前だとしか思えない。繰り返すが、東野圭吾とは本質的に「強者目線」の人なのだ*2。だからこそ「ネオリベ的」だと評されるのだろう。しかし長年のミステリマニアだった東野は、その後作風を「お涙頂戴」式に変え、それに長年培ったミステリの技巧と、松本清張から形だけ借りてきた「社会派風」の味付け(それは飾りに過ぎないが)を加えて「人気作家様」にのし上がった。しかし『容疑者Xの献身』では東野の「ネオリベ的地金」が出てしまったということではなかろうか。

 最近では東野を批判するために東野作品を読んでいるようなものだ。こういう読み方をさせる作家は珍しい、というかこれまでの毒書、もとい読書習慣にはなかった。

*1:安晋会」の実体はいまだによくわかっていない。

*2:『同級生』の感想文を「読書メーター」で見ていると、「同じ男性として主人公に共感した」などと平然と書いた人間がいるのを見つけてぞっとした。