1930〜40年代には戦争にのめり込んで崩壊していった日本社会だが、今では年々没落の一途をたどる国勢に、政府や役所といった統治機構の腐敗を最高権力者とその妻が主導するというわけのわからない崩壊の過程をたどっているように見える。
アメリカ映画の挿入歌からとられた1930年代半ばの流行歌「上海リル」は、前の「崩壊の時代」の始まりを予感させる頽廃的な歌だ。3人の女性歌手が3通りの訳詞で、1934年、35年、36年と一年おきにレコードを出していた。下記のツイートが指摘する情報が正しそうだ。
1930年代の「上海リル」に対するアンサーソングとして書かれ、戦後6年経った1951年に流行したのが前回取り上げた「上海帰りのリル」だが、この2つの歌については、それを追跡したブログ記事がある。
上記リンク先に飛んでいただければ、もととなったアメリカ映画をはじめ、1935年に日系三世の歌手・川畑文子が三根徳一の作詞を歌った「上海リル」のバージョン、1936年に江戸川蘭子が名古屋宏の作詞を歌った同じ歌のバージョン、さらには1951年に津村謙が歌った「上海帰りのリル」の動画をご覧いただくことができる。ここでは、上記ブログ記事にはリンクされていない、1934年に唄川幸子が服部龍太郎(1900-1977)の作詞を歌った「上海リル」のYouTubeファイルにリンクを張っておく。
ところで、リンクしたブログ記事に興味深い文章があるので以下に引用する。
さて、国破れて山河あり。昭和26年(1951年)に津村謙の歌で発売されて大ヒットしたのが「上海帰りのリル」。作詞は東条寿三郎、作曲は渡久地政信(後の「お富さん」でお馴染み)ですね。
どうやらこの歌、『フットライト・パレード』で歌われヒットした「上海リル」のアンサー・ソングらしいのです。
もちろんメロディも歌詞も違いますが、唯一ボクが着目(耳?)したのがイントロ。「上海帰りのリル」のイントロ部分が、「上海リル」のメロディをなぞっているように思えてなりません。
ブログ主は「思えてなりません。」と控えめに書いておられるが、「上海帰りのリル」のイントロは、あからさまに「上海リル」のメロディーをなぞっている。たとえば唄川幸子の歌を2,3回繰り返して聞いたあと、下記の「上海帰りのリル」のイントロを聴けば、一聴して明らかだ。
www.youtube.com 「上海リル」のメロディーの冒頭を「移動ド」記法で記すと「ラシドシラシドミ」で、これが二度繰り返されるが、「上海帰りのリル」のイントロではこれが「ラシドシラ♯ソラシドミ」(「♯ソ」はソの半音上げ)に変えられ、一度しか出てこない。そのあと「ミ♯レミソーファミーファミ♯レー」と続くのだが、これは「上海リル」の唄川幸子(服部龍太郎)バージョンで言えば、「あちらもまたこちらも」の部分のメロディー「ミミミソーファミミミ♯レー」の変形だ。「上海帰りのリル」のイントロでは、最初の「ミミミ」が「ミ♯レミ」に、二度目の「ミミミ」が「ミーファミ」に変えられている。しかし「上海リル」のメロディーでもっとも特徴的な「♯レー」、つまり短音階の第4音の半音上げを伸ばして強調する部分はそのままだ*1。以上から明らかなように、「上海帰りのリル」のイントロは、「上海リル」のメロディーが直接借用されている。編曲者が、この歌は「上海リル」のアンサーソングですよ、とはっきり示しているわけだ。
ところで作詞の服部龍太郎はクラシック畑の人だったらしい。服部とは別に、三根徳一と名古屋宏による作詞があると前述したが、趣が全然違う。たとえば江戸川蘭子が歌った名古屋宏の作詞は、「陽は海に落ちて 街に夜が来れば 赤い唇 仇な姿 唄うは上海リル」と始まるが、「輝ける 芥子の花の 粋なリル」という部分からは、魔都・上海に蔓延していたアヘンを連想させずにはおかない。江戸川蘭子バージョンが発売された1936年は、日本が傀儡の偽国家「満洲国」が建国されてから既に4年が経過しており、翌年には蘆溝橋事件が起きた。そんな時代に流行した頽廃的な歌だった。
その江戸川蘭子も戦時中にはご多分に漏れず戦時歌謡を歌い、戦争に協力していたようだ。この人は本名を大宮まつという。芸名は、想像だが作家の江戸川乱歩からとられたものではないか。もしその通りだとすると乱歩の筆名はエドガー・アラン・ポーをもじったものだから、もじりのもじりということになる。江戸川蘭子は1990年に亡くなっているが、1999年3月3日にTBSテレビで放送されたという「ミステリー作家 江戸川蘭子の事件簿」はおそらく歌手の江戸川蘭子とは何の関係もなく、江戸川乱歩をもじったネーミングが偶然かつて存在した歌手と同じ名前になっただけと思われる。
この記事の後半はいつものように清張作品の話題。前回の記事を書いたあと、光文社文庫版の松本清張短編全集第7巻と新潮文庫版の松本清張『霧の旗』を読んだ。
光文社文庫版第7巻の巻末に「私と清張」を書いているのは、先日亡くなった推理作家の内田康夫だ。表題作の「鬼畜」は怖い話だが、その怖さはこの短編が現実に起きた事件に基づいていることによるところが大きい。清張自身、あとがきで下記のように書いている。但し、これは「鬼畜」ではなく、同じ巻の収録作「点」について書かれた文章だ。
現実のことをモチーフにして作品を書く場合、いつも思うのは、われわれの想像力には限界があるということだ。そのため、材料の面白さに惹かれて虚構の部分がうすくなりがちである。これは事実が想像以上に強いということであり、虚構の弱さでは支えられないということだろう。(光文社文庫版280頁)
また、長編の『霧の旗』は過去に2度の映画化と9度のドラマ化をされた人気作らしいが、私はそれらの映像を見たことが一切ない。これは「上海帰りのリル」をモチーフにした短編「捜査圏外の条件」の発想をさらにふくらませた復讐譚だ。個々では詳述しないが、ちょっと分析しただけで「捜査圏外の条件」と『霧の旗』の類似は明らかだ。清張はフランス映画「眼には眼を」(1957, アンドレ・カイヤット監督)にヒントを得て『霧の旗』を書いたとも言われるが、本当の発想の芽は清張の短編に既にあった。前回も書いた通り、復讐譚は清張の十八番の一つだ。恵まれない出自や環境の者が、恵まれた人間を追い落とす構成が基本であって、その際しばしば復讐には理が伴わない。しかし、それにもかかわらず読者は復讐を遂げる者に感情移入してしまう。何より清張自身が復讐者に感情移入しまくっていることをひしひしと感じる。その一つの表れは、清張作品においては多くの場合復讐が成就することだ。清張自身が「復讐を成就させてやりたい」との強い情念を持っているからそういう結末になる。私自身も、『霧の旗』の復讐者・桐子にはさすがに感情移入できなかったものの、「捜査圏外の条件」の復讐者には、それが明らかに過剰でありかつ許されない殺人であるにもかかわらず感情移入しまくっていたことを告白しなければならない。つまり私自身の「心の闇」を清張作品が抉り出したともいえる。もちろんそれは清張自身が「心の闇」を抱えていたからにほかならない。
このことを思えば、通常清張に張られている「社会派」とのレッテルは実は誤りで、正しく「反社会派」と呼ばれるべきではないかとさえ思う。
もっとも皮肉だと思ったのは、『霧の旗』の解説をあの尾崎秀樹(ほつき)が書いていることだ。今も尾崎が解説を書いた新潮文庫版が増刷されているのだが、尾崎こそ「筋の通らない復讐者」だった。
尾崎秀樹はゾルゲ事件で処刑された尾崎秀実(ほつみ)の異母弟であり、尾崎こそ兄の復讐を遂げるべく、共産党を除名された伊藤律を「生きているユダ」と決めつけて「伊藤律スパイ説」を流布した張本人だ。しかし「伊藤律スパイ説」は特高のでっち上げであって、それに尾崎秀樹も松本清張も日本共産党もみんなまんまと引っかかってしまったことが今では明らかになっている。
その尾崎は、『霧の旗』の解説文の末尾で、下記のようにゾルゲ事件に触れている。以下の文章はネタバレを含む上、小説のストーリーをご存知ない方には意味不明だろうとは思うが、面倒なのでそのまま引用する。
(前略)常識的に考えれば、柳田正夫を冤罪におとしいれたのは、検察側のミスであり、日本の裁判制度の矛盾ということになるかもしれない。しかし桐子はそう考えなかった。そう考えることで法のありかたの限界を批判し、一般論に解消していくやりかたに、最後まで抵抗している。松本清張はこの桐子のありかたをとおして、実は法の限界、裁判制度の矛盾等をえぐっているのであり、一般論に解消してはならない問題を、しつこく追いつづけることによって、桐子の眼とかさなる意識をそこにしめしている。ややかたくなに感じられるほど、桐子に大塚弁護士にたいする復讐をくわだてさせるのも、社会一般の事なかれ主義、なれあい主義にたいする容赦ない批判があったからではないか。
もちろんそれだけでは、K市の老婆殺しの真犯人も、杉浦健次を殺した下手人も、指弾されないままに残る。作者はそのための伏線として、左きき、サウスポーの元野球選手といった影の人物を暗示してみせるが、その真相究明にふみ入るのを自制しているのは、問題を一般の常識、事なかれ主義のほうにむけ、桐子の訴えを正しくうけとめる必要性を強調したかったからに違いない。『霧の旗』というのはきわめて象徴的なタイトルだが、私たち現代人は影の部分をもち、孤絶化した状況に生きている。人間関係のこのような断絶は、さらにふかまると思われるが、そのような問題を、ミステリアスな手法でえぐり出すとき、現代社会の無気味さがあらためて実感される。
私の戦後の体験に照らしてみても、こういった恐怖が実在することが、はっきりと証言できる。それは戦後におけるゾルゲ事件の展開のなかで、しみじみと実感されたものだが、その種の意識の潜在化にはやくから注目した松本清張の現代感覚に、私はふかく共感するものをおぼえるのだ。
尾崎秀樹がこの解説文を書いたのは1971年11月だが、その9年後に尾崎が冤罪をなすりつけら伊藤律が帰国し、さらに伊藤の没後4年経った1993年、渡部富哉が著書『偽りの烙印』を世に問い、「伊藤律スパイ説」の誤りを指摘した。
上記リンク先では「発売日:1998/11」とあるが、これは改定版の発売日で、初版の発行は1993年だ。その前年の1992年には渡部富哉と尾崎秀樹の公開討論会が開かれたが、尾崎は渡部に有効な反論ができなかったにもかかわらず、自説の誤りを1999年に死ぬまで認めなかった。
この事実を踏まえて上記に引用した尾崎の解説文を読めば、尾崎こそ桐子に感情移入しまくった復讐者そのものであり、「尾崎=桐子」であることがはっきりわかる。つまり、真犯人と思しき「元職業野球のサウスポー投手」そっちのけで弁護を引き受けてくれなかった弁護士への「復讐」にかまける桐子と、真犯人と思しき特高への追及そっちのけで伊藤律への「復讐」にかまけた尾崎の姿がもののみごとに重なるのだ。
要するに、尾崎は自らが抱える「心の闇」をこの解説文で臆面もなく開陳しているに等しい。尾崎が書いた解説文から半世紀近く経った現在、こういう審判を下さないわけにはいかない。
もちろん、伊藤律の帰国後12年生きていながら、『日本の黒い霧』のゾルゲ事件に関する記述をそのまま放置した松本清張も、批判を免れるものではない。清張の愛読者であるからこそきっちり指摘しておかなければならないと強く思う次第だ。
最近の読書に関しては、清張作品をきっかけに原武史の本を3冊読んだが、これらについては次回以降の記事で書くかもしれないし、何も書かないかもしれない。天皇家の闇に関する興味津々の読書だったので書きたい気は山々だが、あいにく今日はもう時間もないし、もうここまでで記事も異常に長くなったので、下記にリンクのみ張って記事を締めくくる。
松本清張の「遺言」 『昭和史発掘』『神々の乱心』を読み解く (文春文庫)
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