松本清張という人は、作品の完成度を高めるよりも、書きたいものを書きたいだけ書く営為を続けた人だったように思う。だからその作品は文字通り玉石混淆なのだが、たとえ「石」に該当する作品であっても強い訴求力を持つのが清張作品の魅力の一つだ。
そして、「玉」に該当する清張作品を読む喜びは何物にも代え難い。光文社文庫版の松本清張短編全集*1を全11巻のうち第10巻まで読んだが、第9巻に収録された「真贋の森」は、読み終えた瞬間「これはいい」と感嘆させられた「玉」の作品だ。
この短編は、前記光文社文庫版短編全集のほかにも、清張生誕100年の2009年にこの短編を表題作とした中公文庫版が改版されて出ているし、新潮文庫の傑作短編集第2巻にも収録されている。いちばん入手しやすいのは新潮文庫版傑作短編集かもしれない。
「真贋の森」は清張自身が得意とした美術を題材とした作品であり、アカデミズムの虚飾を告発する作品でもあり、清張が自らの小説世界で十八番とした復讐譚でもある。
前記3つの系列に属する作品を清張は多く書いているが、「真贋の森」はそのいずれの系列においても最高傑作に位置づけられる作品なのではないか。私はそう思った。
ネット検索をかけると、同様の感想を持った方がおられたようだ。以下その方が書かれたブログ記事から引用するが、ネタバレ全開なので、未読でかつ作品に興味がおありの方は、以下の引用文やそれに続く私自身のコメントを含め、この記事をこれ以上読まれないことをおすすめする。
- 弁護士Kの極私的文学館:真贋の森(2011年12月4日)より
(前略)僕が清張の仕事の中で一番評価するのは、実は、普通の小説である。報われない情熱、歪んだ情熱を描かせれば彼の右に出るものはいない。芥川賞受賞作の「或る小倉日記伝」がまさしくそういった小説だった。
その系列の作品群の中で、最も優れたものが、「真贋の森」であり、同じ文庫に収録されている「装飾評伝」であると僕は思う。
多くの作品が資産家に私蔵され、学術的な研究が進まない日本画の世界で、真贋を良心的に鑑定する学者を師と仰いだ主人公は、所蔵家にとりいって権勢を伸ばした斯界のボスから睨まれ、陽の当たるポストから排除され続ける。彼が、才能を見込んだ田舎の美術教師を浦上玉堂の贋作者に育て上げるという計画に取りかかった時、なじみの古美術商がそれに協力するのはもちろん金目当てだ。
しかし、彼は最後の最後で、贋作であることを暴露することをもくろんでいる。彼の目的は、鑑定眼を全く持たないにもかかわらずボスに対する阿諛追従と利益供与のみでその後継者となったかつての同窓生を表舞台に引っ張り出し、贋作を見抜けないその無能を暴いて権威を失墜させるところにあった。つまり、贋作者の田舎教師や骨董屋もろともに、自分自身も詐欺未遂で告発される自爆テロなのだった。
一般に名作と信じられている作品が贋作であることを見抜く才能を持ちながら、誰の利益にもならない計画を周到に進めていくその情熱の歪み方が清張文学の真骨頂。
一方、「装飾評伝」は洋画の世界を描く。天才画家ともてはやされながら晩年は身を持ち崩し、冬の日本海岸で自殺同様に断崖から転落死した名和薛治。その名和に興味を持った語り手は、「名和薛治伝」の筆者である芦野信弘の遺族を訪ねる。けんもほろろに取材を断った芦名の娘が、名和薛治の肖像とよく似ていることをヒントに、語り手は名和と芦野との関係を読み解いていく。それは、名和の才能に圧倒され、妻を奪われた芦野が、名和の面影の明らかな娘を抱いて足繁く名和のもとを訪れ、精神的に追い詰めていくという無言の復讐劇だった。
こういったネガティブな情熱の描き方は、家が貧しいために尋常高等小学校卒業という学歴しか得ることができなかった清張自身の不遇感に根ざすものなのだろう。歴史を扱った作品にも、アカデミズムに対する反発が色濃く滲んでいる。自分は独学ながら歴史や美術を語らせても一流だ、そこらの学者風情に負けるものかという肩肘張ったところが行間に仄見える。
その自負は、膨大な著作群として結実し、作家としての成功にも結びついた。しかし、その膨大な著作群のうち、この「真贋の森」や「装飾評伝」に匹敵する作品がどれほどあるだろうか。ほんとうは、そこまで手を拡げずに自分の世界を掘り下げ、「真贋の森」レベルの作品をもう少し残して欲しかったというのが、僕の叶わぬ思いである。(『弁護士Kの極私的文学館』2011年12月4日付記事「真贋の森」より)
引用文の後半に言及されている「装飾評伝」も、「真贋の森」と同じく光文社文庫版松本清張短編全集第9巻に収録されている。この第9巻とそれに続く第10巻には、清張が『点と線』の成功をきっかけに長編を量産し始めた頃の短編が主に収められており、美術ものが増えて歴史小説が激減するなど、第8巻までとは趣がやや異なっている。
「装飾評伝」に出てくる名和薛治(なわ・せつじ)は架空の画家だが、清張はこの作品について、光文社文庫版短編全集第9巻のあとがきに、下記の文章を書いている。
(前略)発表当時、モデルは岸田劉生ではないかと言われたが、劉生がモデルではないにしても、それらしい性格は取り入れてある。もっとも、劉生らしきもののみならずいろいろな人を入れ混ぜてあるから、モデルうんぬんはいささか当惑する。
副次的なテーマとしては、強力な才能を持った芸術家の周囲に集まる弟子が、大成しないという点にある。たとえば、劉生の周りに多くの若手画家が集まったが、彼らは、ある程度までは行っても、決して劉生を乗り越えることはできなかった。劉生の幅の広い画業は、これらの知人または弟子たちによって細分化され、受けつがれたが、結局、劉生の亜流に終わっている。彼らは劉生の一部分をとって自己を完成させた。
そのほか、劉生のために圧倒されて才能を涸らした人も少なくはない。いま、ジャガイモやカブなど野菜をしきりに描いている文人がいるが、あれなども劉生が日本画でさんざん手がけたものの影響にすぎない。これはひとり画壇だけでなく、他についても似たようなことがいえる。いわゆる大物の下に集まった芸術家で、御大以上になれた人が果たして何人あったろうか。
(光文社文庫版『松本清張短編全集』第9巻(2009)307-308頁)
「ジャガイモやカブなど野菜をしきりに描いている文人」って誰のことなんだろう。そう思ったので少し長めに引用した。
「真贋の森」では、小説中の下記の一節が特に印象に残った。以下引用する。
(前略)西洋美術史の材料はほとんど開放されて出つくしているといってもよい。欧米の広い全地域にわたる博物館や美術館の陳列品を観れば、西洋美術史の材料の大部分が収集されていて、研究家や鑑賞者は誰でも見ることができる。古美術が民主化されている。だが、日本ではそうはいかないのだ。所蔵家は奥深く匿しこんで、他見を許すことにきわめて吝嗇であるから、何がどこにあるのか判然としない。それに美術品が投機の対象になっているので、戦後の変動期に旧貴族や旧財閥から流れた物でも、新興財閥の間をつねに泳いでいるから、たとえ文部省あたりが古美術品の目録*2を作成しようと思っても困難であろう。そのうえ、誰も知らない所に、誰も知らない品が、現存の三分の二ぐらいは死蔵されて眠っていると推定できる。その盲点がおれの企みの出発点だったのだ。(後略)
「真贋の森」は今から60年前の1958年の作品だが、ここに書かれているような事情は今ではどうなっているのだろうかとまず思った。
さらに連想したのは、同じような問題を現在も抱えている学問の分野は、何も日本美術史に限らず他にもあるということだ。天皇家をめぐる研究がそれだ。
清張とアカデミズムの関係といえば、清張の『昭和史発掘』を加藤陽子が文春文庫新装版最終巻(第9巻)巻末に解説文を書いていることからもわかる通り、専門の学者にも高い評価を与えてる人たちがいる。何もリベラルや左翼の学者ではなく、むしろ加藤陽子のような保守的な学者にそのような傾向が見られるように思われる。左翼の学者など、その教条主義によって清張作品の評価などとんでもない、という空気があるのではなかろうかと邪推したくもなる。
ここで言及するのは原武史だが、原は日本政治思想史、近現代の天皇・皇室・神道の研究を専門とする政治学者とのことだ。研究内容からいっても左翼ではあり得ない。その原が専門とする天皇や皇室は、天皇や皇后をはじめとする皇族の発言が原則として公開されない閉鎖的な世界だ。天皇制はこうした非公開の原則によって守られている。しかし、皇族といえど人間なのだから、皇室内にはドロドロした人間関係が渦巻いている。家庭(皇室)内での権力構造も、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と憲法で定められた戦前であっても、実際には権力を持たないはずの皇后が強い影響力を行使していたのではないかと原は言うのだが、その原の研究は、清張的な手法をアカデミズムの世界に導入しようとしたものではないかと私には思われる。
当然ながら、原武史は旧来のアカデミシャンたちから強い批判を浴びている。たとえば、原の著書『昭和天皇』についたアマゾンカスタマーレビューには、下記の批判的レビューが寄せられている。