KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

モーツァルトの『ジュピター』のフィナーレがフーガかフガートか、「三重フーガ」か「五重対位法」かなどの議論はどうでも良い/クラシック音楽の愛好家も平気で「荒らし」をやる(呆)

 『ハルくんの音楽日記』という、クラシック音楽のCDなどを扱うブログがある。私もこのブログに音楽関係の記事を書く時にかけるネット検索でよく引っかかる。2008年8月のサイト開設から16年、先日ブログのページビュー数が1000万PVに達したとのことだ*1。西洋の古典音楽のようなマイナーな分野でこれだけのPV数に達するのはたいへんなことだ。弊ブログもクラシック音楽に特化した記事はアクセス数が伸びない。更新数が平均で月平均で3件あるかどうかのブログであるためもあって、数年前に開設したこのブログの総アクセス数は17万ちょっとしかない。メインブログの方は、今のはてなブログになってからはかつてほど多くないが、はてなダイアリー時代から通算すると少なくとも1700万ほどあるから(他にFC2ブログの約930万件がある)、そのおよそ100分の1で、しかもクラシック音楽関係の記事の寄与はそのさらに20分の1もあるかないかだ。

 だが、その不人気なクラシックの記事、中でも西洋史や政治等に絡めない記事(本記事もそうだ)は、興味のある人だけお読みいただれば良いと考えているので、マニアックに徹することにしている。

 私は音楽には素人だが、前記ブログの運営者の「ハルくん」さんもまた素人の方のようだ。

 そして、前回弊ブログで取り上げたモーツァルトの『ジュピター』交響曲だが、この曲を取り上げた記事が「ハルくん」さんのブログにも記事がある。ところがそのコメント欄が「炎上」していたのだった。2012年2月12日公開の下記記事だ。

 

harucla.cocolog-nifty.com

 

 「ハルくん」さんはこの曲について下記のように書いた。

 

「ジュピター」という副題はモーツァルト自身が付けたわけではありませんし、誰が付けたのかも分かっていません。けれども、ローマ神話に出てくる最高の創造神(ギリシア神話ではゼウスのこと)の名前というイメージが、この曲の持つ崇高で壮大な内容にピタリと合うからでしょう。実際、三大交響曲の最後を締めくくるにこれほどふさわしい曲はありません。そしてそれはモーツァルトの全交響曲の最後でもあります。これ以降、彼が天に召されるまでの三年間に交響曲を書くことは二度とありませんでした。

 

この曲は基調がハ長調ということもあり、最も明快さと壮麗さを持つ作品です。その点、前作の40番とはまるで対照的な内容です。その余りに完全で立派過ぎる曲想が、どこか近寄り難さを感じてしまい、個人的にはむしろ39番や40番、あるいは38番を聴く機会のほうが多いです。とは言え、3楽章のスケール壮大なメヌエット(これが!)や、フーガの技法を駆使した終楽章での、この世のいかなるものも追いつけないかのような疾走感、さらに終結部での三重フーガの壮大さには、ただただ言葉を失います。あのリヒャルト・シュトラウスも、「ジュピター・シンフォニーは、私が聴いた音楽の中で最も偉大なものである。終曲のフーガを聞いたときに、私は天にいるかの思いがした」との賛辞を残しています。

 

URL: http://harucla.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/k550-a686.html

 

 良い文章だと思う。私もまた、『ジュピター』は長らく40番(私がモーツァルトにはまったのはこの曲だ。遺憾ながら故宇野功芳もそうだったらしい)などに比べてやや敬遠気味だった。それがアーノンクール晩年の演奏を聴いて、おそらく生涯で初めて「開眼」し、モーツァルトの対位法がわかったらベートーヴェンの対位法もわかるという、得難い経験をしたと書いた。

 前の段落で宇野功芳の名前を出したが、宇野といえばsumita-mさんのブログの音楽評論に関する下記記事に言及しないわけにはいかない。短い記事なので、全文を以下に引用する。

 

sumita-m.hatenadiary.com

 

吉田秀和と「印象批評」ということで、以下のようなテクストに出会った;

 

土居豊「吉田秀和宇野功芳の2人が日本人の音楽受容に与えた影響の大きさ」https://ameblo.jp/takashihara/entry-12453422328.html

 

抜書きすると、


30年以上前から、吉田秀和を読んでクラシックを聴いてきた。改めて思うのは、吉田秀和宇野功芳、この2人が日本人の音楽受容に与えた影響の大きさだ。良くも悪くも音楽をロマン主義的にしか聴けない傾向を、日本人に植え付けた。

 

吉田秀和には、現代音楽をどうしても愛せない自分について論考した著作がある。正直で良いのだが、その吉田の姿勢は、日本人の多くの音楽ファンに、現代音楽忌避のお墨付きを与えたように思う。

宇野功芳の場合は、もっと影響力は少ないが、音楽マニアの中に少数だが極端なロマン派偏重の、コアな層を生んだ。

吉田秀和宇野功芳があまりに人気がありすぎたため、日本人の音楽批評は後期ロマン派的な印象批評が本流?になり、アナリーゼをきちんとやる音楽批評がマスメディアに根付かなかった。

そのせいで、日本の批評には音楽批評がジャンルとして確立されないままだ。主要新聞でも文化欄で音楽批評は寂れている。

音楽批評をマスメディアに書いたり解説したりする需要が乏しいため、音楽を専門に学んだ若い人たちが、ライターになる機会がほとんどない。他の批評分野では若手が育っていく道があるが、クラシック音楽批評やライターは、物書き業としてもマスメディアの解説者としても、成り立たない。書いているのは、いつも定番の人ばかりだ。

ネット時代になっても、クラシック批評だけは、検索しても素人ブログが上位にくる。音楽批評のプロが少ないし、読者からの需要も少ない。

だが、このことは、日本のクラシック音楽のジリ貧状態をまねいた原因の一つだ。批評、論争なきジャンルには発展がないからだ。今や、クラシックの演奏会やCDがメディアに論争を巻き起こすことは、絶えてない。


吉田秀和宇野功芳の書いた音楽批評記事は、それこそ印象批評だが、けちょんけちょんに批判する記事も多々あった。一方で、大絶賛する批評もあった。批判と絶賛の両方があるから、読者は彼らを信頼して、演奏会やレコードを買って聴いたのだ。

 

よいしょ記事では、聴き手は信頼できない。

たとえそれが印象批評だとしても、音楽批評家が大絶賛する演奏とこき下ろす演奏には、それなりの基準がある。好みの合う批評家が大絶賛するなら、聴きに行こうと思うことも多いのだ。そもそも音楽批評とは本来そういうものではなかったか。

吉田秀和宇野功芳*2が同列で論じられるのを見てむっとする人もいるのではないだろうか。多分むっとするであろう古寺多見氏による追討

 

宇野功芳死去」https://kojitaken.hatenablog.com/entry/20160612/1465694850

 

URL: https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2024/06/24/005727

 

 もちろん「むっと」します。

 そもそも、リンクされている土井豊さんという作家の方の事実認定に異論があります。

 

ameblo.jp

 

 たとえば土居さんは

吉田秀和には、現代音楽をどうしても愛せない自分について論考した著作がある。正直で良いのだが、その吉田の姿勢は、日本人の多くの音楽ファンに、現代音楽忌避のお墨付きを与えたように思う。

と書いていますが、それはある時期以降の吉田秀和の特徴であって、それ以前の吉田には「現代音楽の旗振り」役だった時期があります。たとえば、2018年に61年ぶりに(!)第2刷が出た下記岩波新書は、その頃の吉田の著書です。

 

www.iwanami.co.jp

 

 吉田秀和は時期によって言うことの振幅がかなり激しい人でした。

 しかし吉田や宇野を含む日本のクラシック音楽評論については別途記事を書く構想があるので、今回はこれ以上書かないでおく。今回は少し長めの予告編。

 本記事のメインテーマは、『ジュピター』の終楽章を特徴付けるモーツァルトの対位法と、それに対するクラシック音楽愛好家たちの意見だ。論者間における意見の食い違いが「ハルくん」さんのブログ記事のコメント欄を「炎上」させた。

 初めに、先日ようやくこの曲に「開眼」した私が最も共感したのは、「NY」さんの下記のコメントだった。

 

ジュピターは作曲史上の奇跡ですね。この曲の完璧さはある程度歳を重ねないとわからないのではないかと思ってます。

 

 これは本当にそうで、32歳のモーツァルトが書いた「この曲の完璧さ」を私が初めて理解したのは、モーツァルトの倍近くも年齢を重ねてやっとこさのつい最近だった。

 そこに至らないと、下記のようなコメントになる。この手のコメントは結構多い。

 

ジュピターは私もとても好きな曲ですが、皆さんが「どこかよそよそしい」とおっしゃるように、完璧すぎて感情移入ができない曲です。天才が書いたというより未来から来た全知全能の人が書いた曲のよう。

 

 これは仕方ない。つい先日までの私も同じだったのだから。どうやら『ジュピター』も、同じ「モーツァルトハ長調」であるピアノ協奏曲第25番などとともに、「聴き手を選ぶ音楽」なのではないかと今では思っている。たとえば宇野功芳が第25番を特に持ち上げた文章を私は知らない。宇野は第22番や第23番の協奏曲は好きだったらしいが、第24番ハ短調はレクィエムなどとともに「押しつけがましい」などと書いて嫌っていた。そこらへんから類推して、第25番にもあまり思い入れはなかったのではないかと思う(というか勝手に想像している)。しかしその宇野も『ジュピター』は絶賛していた。

 中には下記のコメントを書くようなへそ曲がりもいた。

 

41番は、この作曲家としては駄作の部類だと思う。38番を頂点として、音楽的想像力は下降曲線に入っていく。もし、この曲に感動をおぼえるとしたら、音楽そのものというよりは、それ以外のものを持ち込むことでしか達成できない。フィナーレのフーガも全盛期のモーツアルトであればもっと良く書けたはずだ。

 

 しかし問題は上記のコメントではない。上記は過激な意見ではあるが決して「荒らし」ではない。問題は対位法、特にフーガに関してコメント欄が荒れたことだった。そのきっかけは下記のコメントだったと思われる。

 

このジュピター交響曲、正直傑作とは思えません。旋律美に乏しく、野暮ったさを感じる場面もあります。絶賛者もいる終楽章も、展開部(中間部)はダレており平板で、提示部とのコントラストや劇的迫力に欠けると思います。また教会音楽を含むモーツァルト作品全般に感じることですが、この作曲家は多声的書法があまり得意ではなく、ぎこちなさがあり満足感が得られません。K243やK387でもそう思います。ジュピター交響曲の場合はイタリア風のギャラントな旋律美や優雅さという点でも、後のベートーヴェン流の劇的表現という点でも、徹し切れずに中途半端なものにとどまっていて、何がしたかったのかよく分かりません。「神話」による先入観抜きでこの曲を聴くと、急いで継ぎはぎで作ったようにも思われます。作曲者が別人だったらこの曲が傑作として賞賛されたでしょうか。
モーツァルトのほぼ全作品の音盤を所有しており決して嫌いではないですが、この作曲家は余りにも実力以上の評価をされ過ぎていると思います。

 

 赤字ボールドにした部分は、実をいうと先日『ジュピター』の対位法に開眼する以前の私の意見とそう離れていないのだが、このコメンテーターが具体的に「多声的書法」と書いたことによって下記のコメントを呼び込んだと思われる。

 

初めてですが気になったので一言。
この曲の終楽章は三重フーガですか?
ソナタ形式と見ることはできますが
楽章全体がフーガってことはないですよね。
フガート楽章とは言えるでしょうけど。

 

 「通りがかり」と名乗った人物によるこのコメントが「荒らし」の第一号だった。ブログ主の「ハルくん」さんは、そんなことは百も承知だったから下記の返答をした。

 

終楽章はれっきとしたソナタ形式です。楽章全体がフーガ形式ということではありません。正確には「フーガ技法を持つフィナーレ」ですね。従って、仰られる通り「フガート」と呼ぶべきです。
ただ、昔からこの曲は、便宜上(解りやすく?)、「フィナーレにフーガを持つ交響曲」という表現が使われたきたようです。ですので、正直それでもいいんじゃないかなぁとは思っています。

 

 これぞ模範的な回答だ。ところが、それでもコメント欄は荒れる方向へと進んでしまった。

 

当然の前提のように「三重フーガ」
という言葉が出てきて
実は多くの人が強く疑問に思ってる
ところだと思うんですが
この曲の終楽章の三重フーガの技法って
具体的にはどの箇所を指してる
んですかねぇ?

 

(中略)

 

この曲の終楽章第357小節以下のコーダで、
385小節からは見ようによっては
四重フーガと呼べないこともない
(人により三重フーガとも五重フーガ
ともいう)ですが、
どっちにしてもここは一瞬のことで
演奏時間にして1分にも満たないですから
ここだけをとって「絶妙な三重フーガ!」
と言うのはとっても???に感じる
ところです。

 

 このあたりになると、実にいやらしい「荒らし」のコメントだ。しかもモーツァルトの楽譜に関する事実の認定自体は間違っていないだけに余計に性質が悪い。コメント主は『ジュピター』の楽譜も持っていて、そのくせにこういう嫌がらせ(としか私には思えない)コメントをしてきた。

 私も最近この曲のポケットスコアを買ったので、それを参照しつつ、『ジュピター』フィナーレのコーダにおける対位法については下記ブログ記事が信頼できると思った。

 

tokyocollegium.blog110.fc2.com

 

 以下引用する。

 

 一方、ウィキペディアによるとモーツァルトを崇敬していたリヒャルト・シュトラウスは、1878126日にルートヴィヒ・トゥイレに宛てた手紙で、ジュピター交響曲 K. 551 を「私が聴いた音楽の中で最も偉大なものである。終曲のフーガを聞いたとき、私は天国にいるかの思いがした」と書いているそうです。「終曲のフーガ」というのは、第372小節のヴィオラCから5種類の動機(ABCDE)が始まる「五重対位法」のことで、フガートと言えても厳密にはフーガとは言えません。フーガと言うからにはDuxComesで構成する楽曲でなければなりません(拙著『Mozartファミリーのクラヴィーァ考』p.67)。

 

URL: http://tokyocollegium.blog110.fc2.com/blog-entry-660.html

 

 私は「DuxとComes」と言われてもわからなかったので調べてみると、Dux(主唱)とは最初に出てくるフーガ主題で、それを受けて他の声部が同じ主題を属調で出して最初から歌っている声部に絡むのをComes(答唱)というらしい。このComesが属調、つまり『ジュピター』の場合はハ長調が主調なので、属調はシャープが1個ついたト長調になるが、この属調(稀な例外として下属調も認められる)で絡んでいかなければフーガとはみなされないとのことだ。

 たとえばベートーヴェンピアノソナタ第28番終楽章の展開部について、Wikipediaにはこんなことが書かれている。

 

静寂を打ち破るフォルテッシモに続き、譜例6の主題がイ短調の4声でポリフォニックに展開される。この展開部をフーガとしているものもあるが、主題に対して4度下や5度上での応答ではなく、展開も一般的なフーガに則っていないため、間違いである。ピアノソナタ第29番ディアベリ変奏曲の中でフーガ(フーゲッタ)と銘打たれている楽章や変奏から、ベートーヴェンはフーガを自由に扱いながらも、少なくとも主題の属調で応答することなどの基本に忠実であることがうかがえる。したがってこの展開部を彼自身がフーガとして作曲したとは考えられない。

 

 最近はWikipediaも馬鹿にならなくなったが、第28番ソナタ終楽章の展開部で、ベートーヴェンは第1主題から派生したイ短調の動機を属調(「4度下や5度上」)のホ短調ではなく平行調ハ長調で応答させているからフーガではないというのである。そりゃ厳密にはそうかもしれないが、それを便宜的にフーガと言ったって良いじゃないか、ましてや専門の大作曲家であるリヒャルト・シュトラウスだって『ジュピター』のフィナーレのコーダを「フーガ」と呼んだのだから、と私も思う。

 なお、当該『ジュピター』のフィナーレのコーダでは、まずヴィオラがこの楽章の第2主題を、チェロとホルンとファゴットが同第1主題(「ドーレーファーミー」のいわゆる「ジュピター音型」を同時に奏して始まり、第2ヴァイオリンが第2主題を、ヴィオラとフルートとオーボエが第1主題をそれぞれ属調で絡むとともに、チェロが上向音型による第3の動機(第1主題から第2主題への移行時に初めて現れた動機)で絡む。さらに「ラレファソ」(最後のソは1オクターブ低い。第1主題から第2主題への移行時に初めて現れた別の動機)が絡み、最後に「ドードドーーシラソラソファミファミレド」という第1主題の少し後に出てきた動機が絡んで、以上5つの動機による「五重対位法」になっている。これらは、スコアを持っていて楽譜が読めれば簡単に理解できる。その間、主調のハ長調属調ト長調を行ったり来たりするだけだし、途中から景気づけの伴奏音型を奏するホルンとトランペット、それにティンパニを除けばほぼ上記5つの動機だけからできたシンプルな構成だ。それであのような壮麗な音楽にしてしまうのだから、リヒャルト・シュトラウスが絶賛したのも当然だと思う。それだけで十分ではなかろうか。何重かの数え方が人によって違うのも、この「五重対位法」のうち経過句の二つを一緒にすると「四重対位法」になるし、二つともテーマに数え入れなければいわゆる「三重フーガ」になる。でもどう呼ぼうがモーツァルトの音楽は同じなのだからどう呼ぼうと構わないではないか。

 でも、いったん荒れ始めたコメント欄はその後さらに荒れ続ける。下記がその悪例だ。この投稿者は「ななし」や「通りがかり」とすら名乗らず、無記名である。

 

横からですが。
このブロクが音楽学の場でないのは事実ですけれど、「三重フーガ」の正しい意味も該当箇所もわからないまま、人の請け売りで「この曲の三重フーガの素晴らしさ」云々を語っても、知ったかぶりの中学生の妄想会話のようで、説得力がなくてちょっと失笑を誘ってしまうところもあるかなと。どうでしょうかね。

 

 「高尚なクラシック音楽の愛好家」もこういう下劣な煽りコメントをするのである。虫唾が走る。

 ブログ主の「ハルくん」さんは、こんな下劣なコメントにも真面目に返答されている。私には真似できない。私は「荒らし」と認定したコメンテーターを平気で「悪者」扱いするブログ運営者だ(笑)。

 

名無しさま

prunusさんが、ちゃんと「357小節以下のコーダ」とお書きになられています。特に壮大で凄いのは373小節からの部分ですが、そんなことは楽譜を見ていれば誰でも分かりますので。
一般的に三重フーガと言われているので、それに従ったまでです。自分は素人ですので、色々な専門的な記述を参考、引用せずに記事を書くなどということは到底不可能です。それは、趣味でブログを書いている方であれば、ごく当たり前のことだと思っています。それを失笑されるのはご自由ですが、モーツァルトの音楽に感動して、それを多くの人に伝えたいという自分の気持ちは、心ある方ならば分かってもらえると信じています。
ただ、今後は書き方には気を付けたいと思いました。おかげで良い勉強になりました。

相当に音楽にお詳しい方だとお見受けしましたので、ホームページなどをお持ちであれば是非ご紹介ください。勉強させて頂きます。

 

 とはいえ返答には皮肉が込められてはいる。「そんなことは楽譜を見ていれば誰でも分かります」というのは本当にその通りだ。30年以上の昔、バッハの『ゴルトベルク変奏曲』の打ち込みをやろうとして挫折した時に痛感したことだが、対位法の音楽は楽譜を見ると面白さがよくわかる。そして『ジュピター』の壮麗だがシンプルな対位法には、まさにウィーン古典派を代表する作曲家らしいと目を開かされた。

 なお、『ジュピター』のフィナーレでは、第1主題の提示のすぐあとに、ジュピター主題の変形によるフガートがある。私が「フガート」という言葉に初めて接したのは、亡父から借りたベーム指揮ベルリン・フィルのレコードのジャケット裏面に書いてあった解説文によってだった。だが、このフガートの部分の面白さが初めてわかったのも、今回楽譜を買ってその部分を見た時だった。第36〜52小節でモーツァルトは五声のフガートを書いているが、その主題は「ジュピター音型」の最後の「ミー」を「ソファミレ」の下降音型に置き換えたものだ。その下降音型にジュピター音型の最後の音である「ミ」が含まれている。

 面白いのは、第2ヴァイオリンの主唱に対する答唱に当たる第1ヴァイオリンの入り(属調ト長調)が、主唱が主題を歌い終わらない4小節目に入っていることだ。しかしそのように3小節単位で音楽が進むわけではなく、3度目に主題を奏するヴィオラハ長調)は答唱から4小節遅れて入る。次のチェロ(ト長調)はその3小節遅れで、最後のコントラバスハ長調)はまた4小節遅れ。結局、このフガートは3+4+3+4+3の計17小節からなる。こういう拍節構造の不規則さはモーツァルトには頻出する一方、ベートーヴェンで出くわす機会は少ない。そしてこれが終わると、ト長調に転じてコーダでも使われた経過句が出てくる。

 上記の部分がすっかり「12音技法」風の不気味な和声進行に置き換えられたのが再現部だ。あそこは、上行の半音階の音型と下降の半音階の音型が激しくぶつかるからああいう音楽になる。あの部分でのモーツァルトは「全くかわいげがない」から「どこかよそよそしい」という印象につながるのかもしれない。

 でも、本当によくできている音楽だ。

 

 前記ブログでは、ついに削除されたコメントがあったようだ。下記はブログ主のコメント。

 

猫丸さま

コメントを頂きましてありがとうございます。
ご指摘のコメントの削除理由は、その内容の正しい、誤りを語る以前の問題として、管理人である私、およびこのブログを楽しんでいる方々に対して非礼、不適切な表現が多く含まれると判断をしたからです。
ですので、貴殿のコメント、ご意見もそれを擁護されるということであれば、やはり不適切と判断をせざるを得ません。私の記事を含めて、記述内容の正確性を事細かく問うことが、必ずしも有意義であるとは思えません。ましてや攻撃的な姿勢で誹謗嘲笑が加えられていれば尚更です。ですので、これは言論統制でも何でもありません。
しょせん素人の趣味ブログです。お互いに寛容な気持ちで向き合わない限りは、楽しくはいられません。誤りを正す為の議論をするにしても、相手に対する敬意が絶対に必要です。それが私のポリシーですので、もしもご同意頂けなければ、誠に申し訳ありませんが、こちらへはご遠慮ください。

 

 その後も「音楽専攻者」と名乗る人物が現れるなど、コメント欄は延々と続いたが、私が連想したのは最近メインブログへの出入りをお断りしたさる「悪者」のことだった。

 そう、本記事には『ジュピター』にみるモーツァルトの対位法というテーマのほか、ブログのコメント欄における「荒らし」の問題があるのだった。

 今ではブログはかつての隆盛とは程遠い状態になった。今回取り上げた「ハルくん」さんのブログにおけるコメント欄の「炎上」があったのもブログ全盛期の2012年のことだった(その2012年が私のブログでアクセス数がもっとも多い年だった)。

 今はネットでの意見のぶつかり合いや蛸壺化などは別のメディアが主な舞台となっているようだが、人心のメカニズムやダイナミズムは以前と変わっていないと思われる。「荒らし」はいつまで経っても荒らし行為を止めないし、自らの所業を改めることもない。コメントを承認しないのでブログの画面には表示されないが、くだらないコメントを送ってきたり(現にこのブログにも先ほどコメントを送ってきやがった。もちろん承認などしない)、これは別の人間のことだが、「はてな」で用いられる「idコール」を止めようともしない。

 あっ、ついに1万字を超えてしまった。これくらいにしておく。