KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

【ネタバレあり】松本清張『ガラスの城』、宮部みゆき『ペテロの葬列』『理由』を読む

 初めにお断りしておくが、本記事は表題作品(特に松本清張作品)に関するネタバレが満載だ。未読の方はお読みにならない方が良い。

 

 昨日(8/3)から本日未明にかけて、松本清張の長篇ミステリ『ガラスの城』(講談社文庫新装版, 2023年)を読んだ。

 

bookclub.kodansha.co.jp

 

 松本清張作品は2013年に突然はまって以来100タイトル以上読んできたが、本作品は未読だった。それは、字の大きな文庫本で出てなかったからだ。私は清張ファンだが、字の小さな昔の文庫本や文春の『松本清張全集』で読むほどのマニアでもない。だから、そうした作品は字を大きくした新装版が出るのを待つことにしている。

 本書の新装版は昨年(2023年)秋に出た。それは、今年の正月に本作がテレビドラマ化されたかららしい。1月4日にテレビ朝日系列で放送された(主演・波瑠)。11111

 

post.tv-asahi.co.jp

 

 調べてみると、この原作に基づいて、1977年にも同じテレビ朝日が『土曜ワイド劇場』で放送し、2001年にはBSジャパン岸本加代子主演でドラマを放送している。私はどれも見ていない。

 原作は1962年から63年にかけて、講談社が1955年から1982年まで出していた月刊誌『若い女性』に連載された。しかし単行本化されたのは1976年であり、清張としてもあまり自信のある作品とはいえなかったようだ。

 

 以下がネタバレを満載した文章なので、少し行間を開ける。

 

 

 

 

 

 本作は本来映像化が困難なはずの作品だ。

 なぜ映像化が困難かというと、原作には叙述トリックが使われているからだ。弊ブログで昨年6月30日に公開した下記記事で取り上げた小泉喜美子の『弁護側の証人』と似たケースだ。これは1963年に書かれた原作を1980年にNHKが『銀河テレビ小説』の枠で『冬の祝婚歌』のタイトルで全20回の連続ドラマにした(高橋洋子主演)。

 

kj-books-and-music.hatenablog.com

 

 本作『ガラスの城』には「信頼できない語り手」の手法が用いられており、アガサ・クリスティの『アクロイド殺し』の直系といえる*1

 やはり『アクロイド』がミステリ界に与えた影響はそこまで大きい。

 私は昨年末から今年2月にかけて、『アクロイド』と同じ「語り手が犯人」のパターンのミステリを2作続けて見破れなかった。前者は日本の「新本格派」といわれる人の作品だが、後者は海外のあっと驚くまさかの作家の作品だった。

 今回の清張作品には、目次で前半部のタイトルに「手記」と文字が堂々と含まれているので、「信頼できない語り手」の手法が使われているのではないかと最初から疑っていた。だから騙されなかったが、後半のタイトルには別の人物による「ノート」となっていた。

 しかしこの後半にも「信頼できない語り手」の手法が用いられている。それは、語り手が意図的に騙そうとしたものではなく、間違った思い込みをしていたことから「信頼できない叙述」になったというトリックだ。とはいえこの後半部の語り手は前半部の「手記」の主が「書かなかった」ことを指摘している。つまりそのことによって前半部の語り手が「信頼できない」ということを本当の語り手である清張が自ら明かしているのだが、実はその「書かなかったこと」に関する認定に誤りがあったことが最後に示され、それがクリスティが得意として清張も愛用した「多重どんでん返し」につながる。でも、このままだとエンディングに矛盾が生じるんだけどどうするんだろうと思っていたら「最後のどんでん返し」を鮮やかに決めて終わる。

 結局前半の語り手は「語り手が従犯」だった。この語り手が命を落とすことは目次から明らかであって、だから最初から主犯ではあり得なかったわけだ。

 ただ惜しむらくは、『アクロイド殺し』では語り手は嘘はついておらず、ただ書いていないだけだが、本作の前半の語り手は嘘の推測を書いていることだ。このあたりはアンフェアだといえる。非ミステリでも私が高く買う名作であるカズオ・イシグロの『日の名残り』で嘘は書いていない。ただ自分に都合の悪いことは書いていないだけだ。

 この点はやはりミステリの評価としてはかなりの減点の対象になるだろう。その意味でも『アクロイド殺し』はやはり卓越した名作なのだ。

 また、なにぶんにも書かれたのが1962〜63年という大昔で、男女雇用均等法の施行(1986年)からさらに四半世紀近く昔なので、当時の女性の労働環境の劣悪さや、作品中に出てくる「醜女」(女性の語り手たちが自らこの表記を用いている)その他の差別用語も頻出する。また自身の容姿に強いコンプレックスを持っていたことで知られる清張の女性に対する例によってもひどい。

 上記のようなミステリとしての欠点に加えての歴史的限界が多い作品であるとはいえ、1年ぶりに読んだ清張作品(ミステリに限れば1年半ぶり)はやはり良かった。少なくとも愛する女性への「献身」と称してホームレスを虐殺する極悪人を美化した東野圭吾のミステリに「感動」を強要されるくらいなら清張を読んだ方がよっぽど良い。

 そういえば先月(7月)、清張に傾倒したミステリ作家で清張作品のセレクションなども行った宮部みゆきの長篇ミステリを2タイトル読んだのだった。『ペテロの葬列』(文春文庫2016, 単行本初出集英社2013)と『理由』(新潮文庫2004, 単行本初出朝日新聞社1998)である。

 

books.bunshun.jp

 

www.shinchosha.co.jp

 

 両作とも「社会派ミステリ」の系列に属する作品で、清張の影響などもあったかもしれない。

 特に『ペテロの葬列』は大企業を舞台としていて、そこに男女雇用均等法以前に就職した女性の登場人物・園田瑛子(主人公にしてシリーズもののキャラクターである杉村三郎の上司に当たる)の処遇なども現在の大企業ではありえないひどさだ。

 作中、この登場人物が社内教育の一環として1982年に受けた「センシティビティ・トレーニング」(感受性訓練、略称ST)の話が出てくる。私は名前も聞いたことがなかったが、Wikipediaには出ている。以下引用する。

 

感受性訓練(かんじゅせいくんれん、英語Sensitivity training、ST)とは、人が自らの先入観をより強く認識し、自己及び他者に対してより理解のある人間になること、人間関係への洞察力を深めることを目標とする一つの訓練の形である。

参加者同士で語り合い、集団の相互作用を学習者自身が体験し、それを通じて人間関係を学び、対人的共感性を高めていく集中的グループ体験、グループ・セラピー、ラボラトリー・メソッドによる体験学習(体験学習によるトレーニング)、態度・行動変容の技法として位置づけられている能力訓練法、個人変容の技法である[1][2][3][4]

集団での体験学習における自分自身の体験を通して学ぶラボラトリー・トレーニングには、課題が設定されていない「非構成的な体験」を伴うトレーニングと、課題が設定されている「構成的な体験」を伴うトレーニングがあるが[5]、感受性訓練は非構成的なトレーニングである。(本記事では感受性訓練・Tグループを中心に、非構成的ラボラトリー・トレーニングに触れる。)1946年にアメリカで行われたワークショップにおける偶然の出来事に端を発して研究されるようになり、ラボラトリー・トレーニングは、スタイルが確立した1948年以降、アメリカ国内をはじめ世界中に広まった[1]。今日では、学習的指向の強いものから治療的指向の強いものまで、幅広く行われている[6]

組織開発の技法として位置づけられることもあり、管理職研修・人材開発などに活用されてきた[4]。日本のビジネスの世界では、パーソナリティの変容をもたらす即効的な教育訓練と安易に捉えられ、1960-70年代に企業向けの社員教育として広まったが、人間を道具として捉え、効率的な社員に改造するテクニックという理解も見られるなど、歪んだ形で流行した。社員に「猛烈さ」を身につけさせ、企業戦士を生み出すために操作的なアプローチが取られ、「しごき」に似たトレーニングが行われたり自殺者が出るなど、多くの問題を引き起こした[1][7][8][4]

(略)

日本では1950年代に導入され、1960-70年代に組織開発としてブームになり、企業戦士、モーレツ社員を生み出すために、操作的なアプローチを用いた感受性訓練(ST)がスパルタ社員研修として流行した[8]。企業向け日本流STは、社命によって研修で生きる価値を見つけさせるもので、「『いま、ここ』で企業とつながってる自分を再認識し、会社との一体感を至高体験として感じる」ものだった[8]。企業の人材開発講習に免許などなく、STを理解していなかったり倫理観に問題のある低レベルなトレーナー、ファシリテーターもおり、参加者を大勢の前でつるし上げたり、参加者に自己開示が足りないと言って暴力を振るうなど問題が多発し、昭和43年(1968年)にセミナー中に参加者が自殺している。しかし、犠牲者が現れてからも下火になることなく、企業は研修を求め続け、時代が変わりモーレツ社員が必要なくなるまで続いた[19][8][34]

STによる社員研修は、1970年代にはやや低迷し、2012年時点では衰退している[1][16]。個人の成長が見られることもあるが、生産性に結び付かず社員研修の目的に合わないこと、操作的なアプローチが招く心理損傷の問題の影響などが、衰退の要因として挙げられている[1]。STの企業のニーズが衰えると、個人向けの自己啓発セミナーが入れ替わるように流行した[8]。低品質なSTと組織開発は混同され、日本で組織開発は低迷した[19]

 

出典:感受性訓練 - Wikipedia

 

 園田瑛子はその研修で自殺未遂を起こし、現在もその心の傷が残っているという設定だ。「驚愕のラスト」をウリにしているこの作品を読みながら、私は杉村が勤める「今多コンツェルン」の会長がラスボスだったら面白いんだけど、宮部みゆきのことだからそこまではやらないだろうなあと思ったら案の定だった。

 その代わり、杉村をめぐって意外な出来事が起きて、三部作の三作目である本作の幕が降りる。『読書メーター』などを見ると、このラストにショックを受けたり怒ったりしている読者が多いようだが、私は宮部みゆき作品に望み得るもっとも良いラストだと思った。

 この杉村三郎の三部作は、一作目の『誰か Somebody』の読後感が猛烈に悪く、二作目の『名もなき毒』は最初から最後までストーリーに引き込まれることがほとんどなく、図書館への返却期限ギリギリになってやっと我慢して読み終えたようなものだったから、『ペテロの葬列』で前二作のネガティブな印象が一気に払拭されようとは、嬉しい驚きだった。これはこの三部作全体の枠組自体が読者である私にとっても、また主人公の杉村三郎にとっても障害物だったからだ。この点で私が思い出したのは、今年と同様の猛暑だった昨夏に読んだ同じ作者の非ミステリ作品である『小暮写真館』だった。思えばあの作品も四部構成の第四部が圧倒的に良かった。主人公たちの選択もよく似ている。

 『ペテロの葬列』の余勢を駆って読んだのが『理由』だった。こちらは前世紀末に書かれていて、『模倣犯』を呼び込もうとしているかの印象を持った。『模倣犯』の書評でも触れた記憶がある、同じ頃の浦沢直樹の漫画『MONSTER』に出てくるヨハンみたいな、過酷な環境に育った子どもが長じて怪物的な人間になってしまうという筋立ては、どうやらソ連や東欧が崩壊した1990年代にはずいぶん流行ったもののようだ(『理由』はソ連や東欧とは無関係だが)。

 でもまあこれも良い作品ではある。宮部みゆきの現代ミステリでの「三大リアリズム作品」として、『火車』、『理由』、『模倣犯』が挙げられることが多いようだが、私もこの三作が優れていることには異論はない。

 そして『ペテロの葬列』で解説文を書いた杉江松恋は『ペテロの系列』を前記三作に比肩する作品と評した。

 それにも異論はない。

 あっ、ネタバレ満載のエントリだったはずなのに『ペテロの葬列』のネタバレは書かずに終わってしまったかもしれない。まあいいか。

*1:旧版でどうだったかは知らないが、今回読んだ講談社文庫の新装版には巻末の解説が付されていなかった。これは叙述トリックでは御法度のネタバレで読者を興醒めさせてしまうことを防ごうとしたものかもしれないが、さだかではない。