KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

ベートーヴェンの「皇帝協奏曲」と「告別ソナタ」にはそっくりの箇所がある。その謎を解いてみた

 ベートーヴェンの皇帝協奏曲(ピアノ協奏曲第5番変ホ長調作品73)は亡父がよくレコードをかけていたので、昔からよく耳になじんでいた。

 その後自分でもベートーヴェンを含むクラシック音楽を聴くようになったが、私の一番のひいきは最初はモーツァルトで、のちにはバッハになった。しかし決してベートーヴェンを嫌っていたわけではない。ただ、運命だの第九だのは時に敬遠したくなることがあるだけだ。

 ベートーヴェンピアノソナタはたいてい好きだった。熱情ソナタだけは少し苦手だが、第2楽章の変奏曲は大好きである。一番好きなソナタは第30番ホ長調作品109だ。

 ベートーヴェンピアノソナタは32曲あるが、作曲者自身がタイトルをつけたソナタは2曲しかない。そのうちの1曲である告別ソナタ(第26番作品81a)を初めて聴いたのは中学生の頃だったが、その時に終楽章(第3楽章)の一節が皇帝協奏曲の同じ終楽章(こちらも第3楽章)と似ていることに気づいた。

 先日、あるきっかけで久々に告別ソナタの第3楽章が思い浮かんだ。それはしばらく会っていなかった人と出くわしたことによるもので、まさしくソナタの第3楽章のタイトル「再会」に対応していた。人間の頭とはいったいどういう構造になっているんだろうかとわれながら感心したのだった。

 このことをきっかけに、このソナタのこの楽章に関して昔から気づいていた皇帝協奏曲との類似のことを思い出し、ネット検索をかけてみたら、やはり当該の類似に気づいている人がいて、それぞれブログ記事で指摘していた。それも2件みつかった。

 1件目は2010年に公開された下記ブログ記事。

 

hornpipe.exblog.jp

 

 引用は省略する。両曲の類似点が2箇所指摘されているが、私が言っているのはその最初の方だ。ブログ主は

前にこのブログで書いた、同じ作曲者が皇帝とほぼ同時期に書いたピアノソナタ「告別」との類似です。と言っても、これは多くの人が到底肯定できるものじゃないかも知れません。

と書いておられるが、少なくとも私には皇帝、もとい肯定できる。

 私はピアノは弾けないが楽譜は少し読めるので、まさに私が似ていると思っていた箇所が指摘されていることがわかった。両曲とも8分の6拍子で3連符を使って、右手が1小節に18の音を弾く箇所だ。そうか、その部分だけ3連符を使っているから気づきやすいのかと初めて理解した。

 皇帝協奏曲では、ロンドの中間部で主題が調を変えて3度変奏されるうち、ハ長調で書かれた最初の変奏に出てくる。一方、告別ソナタでは第2主題のあとに出てくるパッセージ(経過句)に出てくる。こちらは調を変えて2度出てくるが、最初に変ロ長調で出てくる箇所が引用されている。音の高さが2度違うだけなので楽譜の対比は容易だ。対比すると、告別ソナタの方は3連符がその前の小節から始まっている点が少し違うくらいで、似ているというよりはあとから作られた告別ソナタで皇帝協奏曲の一節を引用したといった方が良いのではないかと思った。

 もう1件のブログ記事は2014年に公開されている。書いたのはピアノを弾かれる方だ。

 

ameblo.jp

 

 以下該当箇所を引用する。

 

ところで聴いてて、「皇帝」の中の音型でピアノソナタの「告別」の終楽章の中のある音型とすごーくすごーく似てるところがあることに気がつきました。

 

同じ変ホ長調だし、これはなにかある!と調べたら

 

作られた年代、一緒なんです!

 

ベートーベンさんは同じ人を思い浮かべてこの曲を作ったはず~!!

 

もう、絶対~!!と、根拠のない自信に満ちている私です( ̄∇ ̄*)ゞ

 

 ブログ記事には楽譜の画像が2箇所貼り付けられているが、2箇所目の下に

↑↑↑

 

この部分が「皇帝」にも出てくるところです~(T_T)

 

たまりません~(T_T)

とある。そう、その箇所だ。

 

 ところで最近はWikipediaもずいぶん充実してきたもので、告別ソナタの項でこの類似が指摘されている。

 

ja.wikipedia.org

 

きらびやかな経過部を終えると変ロ長調の第2主題が提示される(譜例7)。第2主題が繰り返される際に現れるフレーズには、同時期に作曲された『皇帝協奏曲』の第3楽章のものと極めて類似したパッセージが用いられている[7]

 

 上記引用箇所からリンクされているのはハンガリー出身のピアニスト、シフ・アンドラーシュの演奏。なおWikipediaに表示される楽譜は第2主題の最初の4小節だけで、該当の類似箇所はそのあとに出てくる。このあたりがちょっと残念ではあるが、こんなことまでWikipediaに書かれるようになったかとちょっと感心した。

 以下は謎解き。なぜベートーヴェンは告別ソナタで皇帝協奏曲からの引用を行ったかという点だが、この謎解きはあまりにも簡単だった。前記引用した2件目のブログ記事に書かれている、

ベートーベンさんは同じ人を思い浮かべてこの曲を作ったはず~!!

 

もう、絶対~!!と、根拠のない自信に満ちている私です( ̄∇ ̄*)ゞ

という指摘が「ぴったしカンカン」だった。

 

 前記Wikipediaから再び引用する。

 

本作にはベートーヴェン自身が標題を与えているが、そのようなピアノソナタはこの『告別』と『悲愴』としかない。その背景には彼のパトロン、弟子であり友人でもあったルドルフ大公ウィーン脱出が関係している[1]

オーストリア1809年4月9日ナポレオン率いるフランス軍と戦闘状態に陥った。ナポレオンの軍勢は5月12日までにウィーンへと侵攻しており、神聖ローマ帝国皇帝フランツ2世の弟にあたり皇族の身分であったルドルフ大公は5月4日に同市を離れることになる。ベートーヴェンピアノソナタの第1楽章の草稿に「Das Lebewohl(告別)」と記すとともに「1809年5月4日、ウィーンにて、敬愛するルドルフ大公殿下の出発に際して。」と書き入れた[1]オーストリアの降伏により同年10月14日終戦フランス軍が撤退した後の1810年1月30日にルドルフ大公はウィーンへと戻った。第2楽章の「Die Abwesenheit(不在)」はこの期間のことを示しており、さらに第3楽章には「Das Wiedersehen(再会)」、「敬愛するルドルフ大公殿下帰還、1810年1月30日」と書き込まれている[2]

 

 つまりベートーヴェンが告別ソナタを作曲した動機はルドルフ大公との別れと再会だった。

 ということは、もしかしたら皇帝協奏曲はそのルドルフ大公と関係がある作品だったのではないかと思って調べてみると、案の定だった。

 今度は、Wikipediaの皇帝協奏曲の項から引用する。

 

ja.wikipedia.org

 

折しも、当楽曲のスケッチおよび作曲に取り組んでいる最中にあった1809年、ナポレオン率いるフランス軍ベートーヴェンが居を構えていたウィーンを完全包囲し、その挙げ句にシェーンブルン宮殿を占拠した。これに対しカール大公率いるオーストリア軍は奮戦するもフランス軍の勢いを止める事は出来ず、遂にウィーン中心部を砲撃され、フランス軍によるウィーン入城を許してしまった。その後フランス・オーストリア両軍の間で休戦協定が結ばれるも、当時のオーストリア皇帝フランツを初め、ベートーヴェンを支援してきたルドルフ大公を初めとする貴族たちもこぞって疎開、ウィーンに於ける音楽活動は途絶えてしまう[5][7][8]

ちなみにこの頃のベートーヴェンはというと、彼の住居近くにも砲弾が落ちたことから弟カール宅の地下室に避難、不自由な生活の下でも作曲を続けていたものの、たまりかねてウィーンの街中を我が物顔で歩くフランス軍将校とすれ違った際に将校に向かって拳を上げながら「もし対位法と同じぐらい戦術に精通していたら、目に物を見せてくれように」と叫ぶこともあったといわれている[5][9]

当楽曲は、前記総譜スケッチを終えてから1年余りを経て、1810年11月に先ずロンドンクレメンティ社から、更に翌1811年3月から4月にかけてはドイツのブライトコプフ・ウント・ヘルテル社から、それぞれ出版されている[6]

初演とその後[編集]

初演については、先ずドイツに於ける初出版の2~3ヶ月前にあたる1811年1月13日に行われたロプコヴィツ侯爵宮殿に於ける定期演奏会の中で、ベートーヴェンの弟子の一人で彼のパトロンの一人でもあるルドルフ大公の独奏により非公開ながら初演を実施。その後、同年11月28日にライプツィヒに於けるゲヴァントハウス演奏会に於いてフリードリヒ・シュナイダーの独奏による初めての公開初演が行われ、更に翌1812年2月12日にはウィーンのケルントナートーア劇場に於いて同じくベートーヴェンの弟子の一人であるカール・チェルニーの独奏によるウィーン初演が行われている[6]

1802年に自らの聴覚障害(難聴)に憂いて「ハイリゲンシュタットの遺書」をしたためて以来、ベートーヴェンが抱える難聴は悪化の一途を辿ってきているが、それでもピアノ協奏曲のカテゴリに於ける前作『ピアノ協奏曲第4番ト長調』までは初演に際してベートーヴェン自らが独奏ピアノを務めてきた[10]。しかし、当楽曲の作曲途上に於いてもたらされたフランス軍による爆撃音は、ただでさえ進行中だった難聴をより重症化させてしまい、ついには当楽曲の初演にピアノ独奏者として関わることを諦め、他のピアニストに委ねるに至っている[11]

とはいえ、当楽曲の初演は不評に終わり、その影響からかベートーヴェンの存命中に二度と演奏されることは無く、更に新たにピアノ協奏曲を自身の存命中に書き上げることは無かった[9][12][注 3]。後年、フランツ・リストが好んで演奏したところから、当楽曲は名曲の一つに数えられるに至っている[11]

なお当楽曲は、完成後最初に行われたロプコヴィツ侯爵宮殿に於ける非公開初演の場でピアノ独奏を務めたルドルフ大公に献呈されている[8]

 

 時系列的に言うと、皇帝協奏曲の作曲(1809年夏)→ 告別ソナタの作曲(1810年1月)→ 両曲のルドルフ大公への献呈(1811年)の順番になる。つまり、ベートーヴェンが思い浮かべていたのはルドルフ大公であり、大公との再会の喜びを、少し前に大公に献呈するつもりで書いた皇帝協奏曲からの引用部分に込めたのだ。それ以外の解釈はできない。

 相手が女性でなかったのは残念だが、その手の話は私がもっとも好きだと書いたピアノソナタ第30番その他に絡んでいくらでもあるので、本記事では省略する。本記事では、単にベートーヴェンの音楽の謎を一つ解いたぞと威張りたいだけである。もちろん同様の指摘は過去に多数なされているだろうとは思うが。