KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

三十数年ぶりにバッハの「ゴルトベルク変奏曲」にはまった(前編)/第15変奏はキリストと十字架を象徴し、第16変奏はキリストの復活を告げる序曲(ピアニスト・高橋望氏)

 AppleによるとMacの寿命は4年らしいが、2009年Lateに製造された21.5インチのiMacを2010年6月頃に買って12年半も使ってしまった。ここ数年ははめちゃくちゃな動作の遅さになっていたし、ハードディスクの寿命(今でも耐用年数は5年くらいとされているらしい)がとっくに超えているのにバックアップもとらない無謀な使い方をしていたのだが、今年(2023年)に入ってようやく買い替えた。今度のは2021年製造の24インチで、記憶媒体はハードディスクの代わりにSSD。容量は新旧ともに512GBだが、SSDはハードディスクに比べてまだまだ高い。旧Macからのデータの移動にはタイムマシンを使ったが、この時に旧Macのバックアップを最初にとったことになる。この媒体にも1TBの外付SSDを使った。現在はこちらでタイムマシンによる新Macのバックアップをとっている。

 ところで新しいMacにはDVDドライブがついていないので外付けのドライブをつけたが、試しに手元にあった、鈴木雅明ハープシコードチェンバロ)を弾いたバッハのゴルトベルク変奏曲のCDをiTunesならぬ「ミュージック」に読み込ませたのをきっかけに、三十数年ぶりにこの音楽に対する熱狂が蘇り、手元にある何種類かのCDを聴き直すばかりか、新たに何人かの演奏家によるCDを買っては聴く羽目になってしまった。鈴木雅明の演奏も悪くないが、今回特に鮮烈な印象を受けたのはピアニストのアンドラーシュ・シフ(シフ・アンドラーシュ*1, 1953-)が29歳の1982年12月に録音したDECCA盤で、これは新たに買ったCDだ。一方、今まで持っていながら良さがわからなかったヴァイオリニストのドミトリー・シトコヴェツキーが編曲した弦楽三重奏版(1984年)も初めて良いと思えた。これに味をしめて今度はジャズピアニストのキース・ジャレットが日本の八ヶ岳高原音楽堂で1989年にハープシコードを弾いたCDを買ったが、こちらはまだ聴いていない。

 私が初めてこの曲を聴いたのは1980年代初めで、確かトレヴァー・ピノック (1946-) のハープシコードによる演奏をNHK-FMで聴いて良い音楽だなと思った。しかし本当に強い印象を受けたのはピアニストのグレン・グールド (1932-1982) が50歳で亡くなる前年の1981年の演奏を、彼の没後間もない頃にやはりNHK-FMで金曜夜だったかにやっていたクラシック・リクエストという2時間番組で聴いた時であり、おそらく1982年の遅くか1983年(たぶん後者)だ。それからもう40年になる。番組の解説者は10年前に亡くなった現代音楽作曲家の諸井誠 (1930-2013) で、東京出身ながら一時大阪芸術大学で教鞭をとっていた彼は自らを「マコトニオ・モンロイ」と称していた。

 諸井氏はあの時、全曲通してではなくアリアから第15変奏までの前半までレコード(当時発売されたばかりのCDだったかもしれないが)をかけ、短い解説を挟んで第16変奏からアリアの再現までの後半をかけた。これが良かった。

 というのは、第15変奏の最後でグールドが極端にテンポを落とした箇所が特に印象に残ったからだ。

 ゴルトベルク変奏曲では最後の第30変奏も興味津々なので、この曲については上記の第15変奏と第30変奏の2つの変奏に焦点を当てて、前後編の記事としたい。

 その前に全曲を概観する。今回ネット検索で知って特に感心したのは、ピアノによるゴルトベルク変奏曲の演奏をライフワークにしているというピアニスト・高橋望氏が「人間学工房」というサイトに書いた「ゴルトベルク変奏曲の旅」と題した下記連載記事だ。

 

 連載初回の第1回「由来」には、不眠に悩む前ロシア大使・カイザーリンク伯爵のためにバッハが変奏曲を書き、それを伯爵お抱えのクラヴィーア(鍵盤楽器)奏者のゴルトベルクに演奏させたという有名な逸話が紹介され、この話はゴルトベルクが当時14歳で、全曲の演奏にリピート込みで1時間以上もかかるこの曲を演奏できたとは考えにくい、作り話だろうとされていたが、現代の名ピアニストであるピーター・ゼルキン(故ルドルフ・ゼルキンの息子)が2017年に来日した時に自分は14歳の時にこの曲を弾いていたと言っていたから、本当かもしれないと思うようになったと書かれている。

 第2回「全景」に30曲からなる変奏曲の構成が示されている。バロック音楽でよく使われたシャコンヌあるいはパッサカリアと呼ばれるバスの主題に基づく変奏が30回行われるが、3の倍数である第3変奏、第6変奏、(中略)、第27変奏までの9つの変奏はカカノンにより、最後の第30変奏のみクォドリベットという耳慣れない名前の音楽になる。この第30変奏の話は次回に回すことにして、ここではカノンについてのみ述べる。

 カノンとは小学校の音楽の授業で「かえるの合唱」とか「静かな湖畔の森の影から」で習う「輪唱」みたいなものだ。あるいは、私が子どもの頃には「かねがなる」という歌詞で歌われた、今では「グーチョキパーでなにつくろう」という歌詞がついているらしい歌も輪唱に使われた。それが短調に変えられた旋律がマーラー交響曲第1番の第3楽章に使われている。余談だがこの交響曲は変な日本語の副題で呼ばれることがあるが、あれはTで始まるタイタンであってGで始まるゴキブリもとい××ではないし、確かマーラー自身がその副題を削除したはずだ。だからマーラーの第1交響曲にあの漢字2文字の副題をつけることは二重の意味で間違っている。

 それはともかく、ゴルトベルク変奏曲で使われるのは上記の歌の数々で行われているような同じ音程で追いかけるばかりではない。第3変奏では主題(もとの旋律)と応答(追いかける旋律)は同じ音程、つまり追いかける旋律は形も音の高さももとの旋律と同じだが、第6変奏ではドの音を1つ上のレで追いかける。具体的にはドーーーシラソファで始まる旋律を旋律をレーーードシラソと追いかける。これを「2度のカノン」という。さらに第9変奏ではミレミファソレソファで始まる旋律を2音低いドシドレミシミレと追いかける。これを「3度のカノン」という。そして第12変奏では「4度のカノン」になるのだが、この変奏ではドシドーレミファミレドの応答は主題より3音低いソで始まるが、旋律の形を上下反転させてソラソーファミレミファソと追いかける。これを「反行カノン」という。だから第12変奏は「4度の反行カノン」だ。5番目の第15変奏も「5度の反行カノン」である。その後は通常のカノン(「順行カノン」または「平行カノン」)に戻り、第18変奏から第27変奏までの3の倍数の変奏はそれぞれ6度から9度のカノンになっている。ところが最後の第30変奏だけ10度のカノンではなく別の形式の音楽になっている。

 20代後半に初めてパソコン (PC-9801) を買った頃の私は、その2年前にミニコンポを買ってCDを買い漁るようになっていて、中でもゴルトベルク変奏曲にはまっていたので無謀にも楽譜ソフトとMIDI機器でこの曲を打ち込もうとしたが当然のごとく挫折した。その時にピアニストが使うようなゴルトベルク変奏曲の楽譜を買い、グールドの1981年盤を楽譜を見ながら聴いていた。その楽譜は今も手元にある。青い表紙のベーレンライター原典版25番で、1988年12月15日第5版発行と書かれている。これはおそらく第5刷の意味で、初版発行は1978年8月20日となっている。つまり私は三十数年前に大はまりしたゴルトベルク変奏曲に再びはまってしまったわけだ。まるで次回で取り上げる第30変奏みたいな話だが、この音楽にはそういう魔力がある。

 しかし高橋望氏はゴルトベルク変奏曲のピアノによる演奏をライフワークにしておられるだけのことはあり、私がこれまで知らなかったことが書かれている。例えば下記のくだり。

 

 まず第16変奏、全体の折り返し地点が序曲になっています。後半戦スタートと言ってもよいですが、その前の第15変奏がキリストと十字架を象徴するような曲と考えると、キリストの復活を告げる序曲という解釈もあり得ます。

 

出典:https://www.ningengakukobo.com/single-post/goldberg02

 

 そういえば連載第1回「由来」には下記の指摘もあった。

 

 バッハは10年がかりで4冊出版しましたが、この配列はゴルトベルク変奏曲に求心的集約があると思います。そう思う根拠を書きます。

 

 

 クラヴィーア練習曲集第1部は6つのパルティータ。これは舞曲集で、当時流行していた種々の舞曲(アルマンドクーラントサラバンドメヌエットジーグなど)からなる曲集で、各パルティータは、まず舞曲ではない楽章で始まります。

 

 

パルティータ第1番

前奏曲アルマンド、コレンテ、サラバンドメヌエット1・2、ジーガ〕

 

パルティータ第2番

シンフォニアアルマンドクーラントサラバンド、ロンドー、カプリッチョ

 

パルティータ第3番

〔ファンタジア、アルマンド、コレンテ、サラバンド、ブルレスカ、スケルツォジーグ〕

 

パルティータ第4番

序曲アルマンドクーラント、アリア、サラバンドメヌエットジーグ〕

 

パルティータ第5番

前奏曲アルマンド、コレンテ、サラバンド、テンポ・ディ・ミヌエッタ、パスピエジーグ〕

 

パルティータ第6番

トッカータアルマンドクーラント、エール、サラバンド、テンポ・ディ・ガヴォット、ジーグ〕

 

 具体的には、第1番は前奏曲、第2番はシンフォニア、第3番はファンタジア、そして第5番は前奏曲、第6番はトッカータが最初の楽章です。ですが、後半部の最初にあたる第4番は「序曲」(ウーヴェルトゥーレ)で始まります。これに対応するように、30の変奏からなるゴルトベルク変奏曲でも、後半の最初にあたる第16変奏に序曲の表示があります。

 

出典:https://www.ningengakukobo.com/single-post/goldberg01

 

 言われてみればその通りだ。最晩年の1991年(モーツァルトの没後200年に当たる)にモーツァルトを題材にした短篇があるとはいえクラシック音楽の聴き手ともあまり思われない松本清張が自作のミステリの中でブルックナーをニュメロマニア(計数マニア)と評し、譜例まで示して見せた長篇ミステリ『数の風景』を弊ブログに取り上げたことがあるが(下記リンク)、バッハこそ正真正銘のニュメロマニアだったことはよく知られている。

 

kj-books-and-music.hatenablog.com

 

 余談だが大作曲家にはニュメロマニアが少なくない。福田康夫が愛好するバルトークが自作の音楽に黄金分割を取り入れたという説があるし、今話題の志位和夫が愛好するショスタコーヴィチ最後の弦楽四重奏曲である第15番は「6尽くし」だ。6つの楽章全てがフラット6個の変ホ短調で書かれており、作中には12音技法も盛り込まれているが、12は6の2倍だ。さらには作品番号の144は6で2回割り切れるし、第15番の1と5を足すと6になる。蛇足だが、ショスタコが自作の弦楽四重奏曲に最初に12音技法を取り入れたのは第12番だった。ショスタコがこれらを意識してやっていたことは疑う余地がない。そもそもショスタコが取り入れた12音技法(シェーンベルク創始者とされるが異説もある)自体がニュメロマニアたちの発案になるもの以外の何物でもない。音楽というのはそれくらい数字(数学とは言わない)との関係が深いものなのだ。

 しかしバッハをはじめとする作曲家たちはそうした数遊びと深い精神性を両立させた。そのことに関してグレン・グールドが解説しているレーザーディスクがあり、平均律曲集第2巻の第9番ホ長調のフーガを分析したりしながら、最後にフーガの技法の未完成の四重フーガを演奏しているのだが、それがまことに感動的で、このレーザーディスクを持っているばかりに、大きくて重いプレーヤーを処分できずにいる。

 そしてゴルトベルク変奏曲の第15変奏も、フーガの技法の四重フーガやコントラプンクトゥス第8番や同第11番*2などと並ぶ偉大な音楽だったのだ。

 この第15変奏について、高橋氏は下記のように書いている。

 

 前半の最後の変奏。アリアから第14変奏まではト長調で書かれていましたが、ここではじめてト短調に調性が変わります。モノトーンの世界。

 

5回目のカノン(5度のカノン(反行形))です。

 

「アンダンテ」(イタリア語で歩く速さでの意味)と表示があります。

 

ここで印象的なのは、ため息の音型と呼ばれるもので、十字架を背負い、苦悩に満ちた表情のイエスが歩いて行く様子を想わせます。

 

出典:https://www.ningengakukobo.com/single-post/goldberg06

 

 私には下降音形の主題が落ち込む弟子たちの心情で、主題の5度上の音で応答が始まる反行形の上昇音形がゴルゴタの丘をゆっくり登っていくイエスを表しているように思われる。

 楽譜を見ると、第17小節から始まる後半部の最初でこの変奏の最初の「ため息の音型」がバスに移っていることがわかる。これも天才的な着想だ。変奏の後半は、一旦ト短調から変ホ長調に転調して慰めが得られるかに思われるが、第25小節でハ短調に転じて運命的な半音階下降の主題と半音階上昇の応答があり、ト短調に戻った第27小節から主題が主題が途中に二度の登り返しを含みながら1オクターブ半降りていくと、その応答は逆に途中に二度の下り返しを含みながら1オクターブ上がって行き、ついに高いD(ニ)音で終わる。この部分をグールドの新盤では極端にテンポを落とし、それを諸井誠解説のFM番組で最初に聴いた時に強い印象を受けたのだが、グールドがなぜそのように弾いたか、40年経って初めてわかったような気がする。この箇所はイエスの死を象徴するかのようだ。

 その他、高橋氏の下記の指摘も興味深かった。

 

 バッハは、アリアの低音主題をもとに30の変奏を作曲したわけですが、各変奏にも関係性を持たせています。

 

 私は、アリアを弾き終えると自然に第1変奏に入りたくなります。

 

 なぜ第1変奏に導かれるような気持ちになるのかを考えてみると、アリアの前半は8分音符が主体だったのが、アリアの後半に入ると16分音符の割合が多くなり、音楽に動きが出てきます。つまり、アリアの後半で16分音符主体となる第1変奏への準備がなされているからではないかと思うのです。

 

出典:https://www.ningengakukobo.com/single-post/goldberg05

 

 実は私もこのことには昔から気づいていた。なぜかというと30年あまり前にゴルトベルク変奏曲MIDI音源で鳴らすべく打ち込みをしていたからだ。へえ、アリアの最後に16分音符が増えると思ったら第1変奏は16分音符中心なんだなと思ったのだ。

 しかし高橋氏は他の変奏についても同様に、前の変奏が次の変奏を予告している箇所が多数あることを指摘している。これには全く気づかなかった。さすがは専門家だと脱帽するしかない。

 そこで一矢を報いるべく、突如現れたかに見えた第15変奏のト短調に予告があったかどうかを楽譜で調べてみた。

 すると、第13変奏と第14変奏の終わりにフラットが現れていることがわかった。それは変ロ音と変ホ音であり、それぞれト短調の構成要素だがト長調には出てこない音だ。それまでの変奏では第6変奏の前半に変ロ音が出てくるが、変奏の後半でフラットが出てくるのは(見落としがなければ)第13変奏が初めてだ。そして快速調で飛ばす第14変奏最後の第30小節と第31小節、特に後者の変ロ音はほんの一瞬ではあるが結構気になる陰りだ。だから第15変奏の短調にも予告があったといえるかもしれない。

 そんなゴルトベルク変奏曲における最大の断絶が第15変奏と第16変奏の間だ。だから40年前のFM放送で諸井誠が第15変奏と第16変奏との間にインターバルを置いたのは正しかった。

 第15変奏がキリストと十字架を象徴するような曲なら第16変奏の序曲は復活を表す序曲とも考えられるとの前記高橋氏の文章を最初に読んだ時には、正直言っていくらなんでもそれはこじつけではないかと思ったが、調べてみるとそれにも根拠があるようだ。

 下記は他の方のブログ記事。

 

iwaki-alios.jp

 

 以下引用する。

 

 作品の構成にも、「数字の達人」バッハの真骨頂が遺憾なく発揮されています。例えば全 30 曲の変奏に、最初と最後のアリアを加えた「32」という数字は、アリアをはじめとする各曲の小節数に一致。また、各曲は 16 小節ずつで前・後半に分かれていますが、構成上でも全曲のちょうど真ん中、16 曲目に当たる「第 15 変奏」が初めて現れる短調、続く 17 曲目の「第 16変奏」には「序曲」という小タイトルが付けられ、ここで明確に前・後半に分かれています。16はキリスト教で「天と地」を表す4を二乗(4×4)した数であり、最も完全な数である8(この世界を表す7に、神の数である1を加えた数)の2倍ですから、この作品の確固とした安定構造を示そうとしているのでしょう。

 

出典:https://iwaki-alios.jp/cd/app/?C=event&H=default&D=02675

 

 うーんそうなのかと唸ってしまった。だからバッハがゴルトベルク変奏曲の第16曲である第15変奏で受難を、第16変奏で復活をそれぞれ表現したとしても不思議ではないのかもしれない。

 やはりバッハこそブルックナーなんか目じゃないニュメロマニアの大作曲家だった。ゴルトベルク変奏曲とはこれまでに考えていた以上のとんでもない音楽であるらしい。

 しかし第15変奏とともに、あるいは第15変奏以上にとんでもないのは最後の第30変奏なのだった。これについては来週公開予定の後編で書きたい。

*1:シフはハンガリー人なので、ハンガリー語表記では「姓・名」の順になるが、2001年にイギリスの市民権を得ているので「名・姓」の順の表記を主にした。シフはハンガリーの右傾化を厳しく批判するリベラル派の人で、2011年に今後はハンガリーでは演奏しないと明言しているので、おそらく英国式の表記の方がシフの本意に沿うと思われる。

*2:第8番にはグールドのオルガンによる正規録音があり、第11番には正規録音はないがライブ録音があり、これがなかなか感動的だ。