KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

トルストイ「クロイツェル・ソナタ」を読む (第3回) トルストイの小説中のベートーヴェンのソナタの描写が実際の曲の流れと合っていない。この矛盾を解消した小説の改変版が広く流布している

 先週公開したガストン・ルルーの『オペラ座の怪人』の記事に、トルストイが『アンナ・カレーニナ』の中で、後年『オペラ座の怪人』ヒロインのモデルとされたスウェーデン出身の女声オペラ歌手に言及していたことに触れたので、3回連載を予告しながら未だに締めの「音楽編」を書いていなかったトルストイの中篇「クロイツェル・ソナタ」の記事の続きを書こうと重い腰を上げることにした。

 中学生時代から「トルストイが書いたベートーヴェン批判」ともされたこの小説に興味津々ではあったものの、トルストイ主義の説教を読まされることが心理的バリアとなって歳をとるまで読まずにきたことは連載の第1回に書いた。

 音楽編ではトルストイベートーヴェンの「クロイツェル・ソナタ」(ヴァイオリンソナタ第9番)をどう聴き、どう書いたかに焦点を当てる。

 そのための良いとっかかりを提供してくれているのは、共同通信の松本泰樹記者が書いて各地の地方紙に掲載された下記コラムだ。前述の連載第1回と第2回でも当該コラムをリンクしたが、三たびリンクする。

 

www.47news.jp

 

 以下引用する。

 

 トルストイは『クロイツェル・ソナタ』の演奏が始まる前の情景を念入りに描写する。妻がさりげない態度でピアノの前にすわってA音を出すと、トルハチェフスキーが指で弦をはじいて調子を合わせる。楽譜が広げられる。二人はチラと目配せをし、客の方を振り返り、何やら言葉を交わしたあと、いよいよ曲に取りかかる。

 

「妻が最初の和音をだしました。あの男はきまじめな、厳粛な、感じの良い顔になり、自分の音色に耳を傾けながら、慎重な指で弦を押さえ、ピアノに応じました。こうして演奏がはじまったのです……

 

 おや? ベートーヴェンの『クロイツェル・ソナタ』を知っている読者なら、この文が曲の進み方に合っていないのにすぐ気付くはずだ。なぜなら実際には、ヴァイオリンが最初の4小節を伴奏なしで弾くのであって、ピアノは5小節目になるまで出てこないからである。不思議に思って角川文庫の中村白葉訳を参照すると、こちらは原訳とは真逆の、つまり、ベートーヴェンが書いた通りの流れになっていた。

 

「彼がまず最初の和音をとりました。と、彼の顔はまじめな、きびしい、気持のいい顔つきになり、そして彼は、自分の音に聞き入りながら、慎重な指づかいで絃の上をすりました。ピアノがそれに答えました。こうして、演奏ははじまったのです」

 

 もし私がロシア語を読めたら、原文に当たってトルストイがどう書いていたのか確かめたいところだが、悲しいかなそれができないので、さらに他の訳を調べてみた。すると、光文社古典新訳文庫の望月哲男訳、筑摩世界文學体系の木村彰一訳は共に、原卓也訳と同じくピアノが先に出ることになっている。他方、岩波文庫米川正夫訳は中村白葉訳と等しく、ヴァイオリンの和音で曲が始まる。ネット上で見た仏訳版もヴァイオリンが先だった。英訳版ではなぜか肝心な部分がカットされていた。いったいどういうことだろう。

 

 トルストイの書き方が曲の流れと逆だったとしよう。訳者は悩むはずだ。原文を尊重するべきか、原曲に合わせるべきか、それとも訳さずにおこうか。そんな風に考えてもみたが、あくまで想像の域を出ない。ここは是非、ロシア語のできる方に教えていただければと願う。

 

URL: https://www.47news.jp/9413087.html

 

 これは松本泰樹記者が指摘する通りで、私も一読して「あれっ、ベートーヴェンの実際の曲と違うじゃないか」と思った。蛇足かもしれないが気になったのは、新潮文庫版の訳者である原卓也が松本記者の記事に書かれた「A音」ではなく「ラ音」と表記されていたことだ。曲の当該部分では既に冒頭のイ長調からイ短調に転調しているので、固定ドでも移動ドでも「ラ音」で間違いではないとはいえ、普通は「A音」、日本語の音名で書くなら「イ音」と表記すべきところだ。「ラ音」と表記されているのを見た時点で、ああ、原卓也さんはあんまり音楽に詳しい人じゃなかったんだな、だから原曲との相違についても訳注も何もついていないんだろうなと思った。

 

www.shinchosha.co.jp

 

 当該箇所がロシア語から直接訳された訳本のほか、仏語訳や英語に至るまでいろんな違いがあるらしいことは興味深い。

 私が想像するに、トルストイ自身は間違いなく原卓也(1930-2004)、望月哲男(1951-)、木村彰一(1915-1986)各氏の訳文にある通り、先にピアノがA音を弾き、それを受けてヴァイオリンが弾き出したと書いたに違いない。きっと、それではベートーヴェンの音楽と矛盾すると思って音楽と整合するようにトルストイの原文を書き改めた(=改変あるいは改竄した)人がいたのだろうと推測する。そしてその改変された文章がそのまま出回り、古い中村白葉(1890-1974)訳や米川正夫(1891-1965)訳やフランス語訳はその改変版(改竄版)に基づいた翻訳だったのではないかと思われる。英語版はそのあたりが面倒なので省略してしまったものでもあろうか。

 トルストイ自身の手になる改訂とは思われない。もしトルストイ自身の手になる改訂だったならば、大作家が晩年に書いたこの有名な小説の改訂をロシア文学の専門家たちが見逃すはずがないと思われるからだ。

 こういう「お節介」かもしれない原文の改変で思い出したのは、前述のガストン・ルルーの『黄色い部屋の秘密』のハヤカワ文庫版新訳(2015)で、訳者が原文通りだとトリックに矛盾が生じる箇所があるのを、矛盾しないように改変したと自ら明言していたことだ。この件は先月公開した下記記事に書いた。

 

kj-books-and-music.hatenablog.com

 

 当該の改変について、sumita-mさんはブログ記事(下記リンク)に、

原文の論理的に不整合な部分も修正されているというけれど、これは翻訳のあり方としては賛否両論のあるところなのではないだろうか。

と書いている。

 

sumita-m.hatenadiary.com

 

 実は私も「勝手にそんなことして良いのかなあ」と、どちらかというと改変をネガティブにとらえる側の意見だ。原文通りに訳してあとがきで矛盾点を指摘した方が良かったのではないかと思ったが、面倒なのでブログ記事には書かなかった。

 「お節介な改変」といえば音楽の世界にもあって、曰く誰それはオーケストレーションが下手だからと言って後世の作曲家が勝手に改変したり、ひどいのになるとボッケリーニ(1743-1805)のチェロ協奏曲のグリュツマッハー(1832-1903)による改訂版のように、原曲に手を入れまくった上に第2楽章を同じ作曲家の他のチェロ協奏曲と差し替え、もちろん差し替えた第2楽章にも手を入れまくったというとんでもない悪行まである。私が1975年に千蔵八郎(1923-2010)氏の解説に導かれてNHK-FMのラジオ番組で初めて接したのは確かパブロ・カザルス(1876-1973)がチェロを弾いた1960年の録音だったと思われるが、これはオリジナル・スコアによる世界初の録音だったらしい。その端正な音楽の印象があったから、その後にグリュツマッハーの改変版を聴いて「なんじゃこりゃ」と思ったものだ。しかしさすがはカザルス、ボッケリーニの原典版の世界初録音とは、実に良い仕事をしたものだ。

 また最近気になって仕方ない、というより許せないと思っているのはバッハの平均律クラヴィーア曲集第1巻第1曲、ハ長調の曲に1小節加えられた版が存在する問題で、ピアノのソナチネアルバムにはこの版が未だに用いられているらしいし、古くはバッハの当該曲を伴奏にして作られたシャルル・グノー(1818-1893)の「アヴェ・マリア」(1859)がこの改竄版に基づいている。この件は昔から知っていたが、今年に入ってバッハの『ゴルトベルク変奏曲』にはまっていたところにバッハを敬愛していた坂本龍一(1952-2023)が亡くなったこともあってバッハを一時期聴き込んでいるうちに、ジャック・ルーシェ(1834-2019)やスウィングル・シンガーズなどのジャズの演奏家たちが20世紀に入ってもこの版を使っていたことに気づいてショックを受けたのだった。なお同じジャズの演奏家でも1984年に平均律曲集第1巻のジャズアレンジ版を全曲CDにしたジョン・ルイス(1920-2001)はバッハの原典版に基づいている。なおクラシックの演奏家についても古いエドウィン・フィッシャー(1886-1960)が1930年代に弾いた音源を聴いてみたが原典版を弾いていた。それは良いのだが、日本の全音楽譜出版社が出しているソナチネアルバム第1巻には未だに改竄版の楽譜が載っているらしい。これは許し難い。どうやらクラシック音楽の世界にも「密教」と「顕教」とがあるようだ。

 この件は、たとえば下記リンクのブログ記事で確認できる。

 

music-1000.blog.ss-blog.jp

 

 また下記は上記ブログ記事からリンクされたブログ記事。

 

brahmsop123.air-nifty.com

 

 グノーは前述の『オペラ座の怪人』でヒロインが歌った設定になっているオペラ『ファウスト』(1859)や『ロメオとジュリエット』(1867)の作曲者だが、「アヴェ・マリア」の伴奏にバッハのプレリュードを使うためにグノーが勝手に原曲に1小節追加したなどという俗説が未だに信じられているらしいことをこの記事を書くためのネット検索で知って愕然とした。それは明らかな誤り、というより濡れ衣だ。そのことをこの件について書かれた上記2件目のブログ記事に書かれているので以下に引用する。

 

グノーのアヴェマリアは、バッハの平均律クラヴィーア曲集の第1巻第1番の前奏曲をそっくりそのまま伴奏に借用して、旋律を追加したという作品だ。大抵はそう説明されている。

 

しかし「そっくりそのまま」という言葉には注意が必要だ。グノーの側には、バッハオリジナルには存在しない小節が1つだけ加えられている。原曲の22小節目と23小節目の間に1小節加えられているのだ。だから厳密にはそっくりそのままではないのだ。

 

原曲となった前奏曲ハ長調を含む「平均律クラヴィーア曲集」は古来、ピアノ演奏の「旧約聖書」にもたとえられるほどの名曲だから、おびただしい数の筆写譜が存在した。18世紀から台頭した楽譜出版社は、出版にあたって特定の筆写譜を底本に採用した。問題の1小節は、数多い筆写譜のうち、1783年にシュヴェンケという人の残した筆写譜にしか現れない。困ったことに18世紀から19世紀にかけて、当時もっとも普及していたチェルニー版をはじめ多くの版が、このシュヴェンケの筆写譜を底本にしていたのだ。

 

1883年、この点に注意を喚起したビショフ版が出現するまで、1小節多いバージョンが一般に流通していたことになる。グノーのアヴェマリア1859年の発表だ。アヴェマリア作曲の際、グノーの手元にあったのは、シュヴェンケに準拠した楽譜であったことは間違いない。アヴェマリアの余分な1小節はこれで説明が付く。グノーはバッハ作品に勝手に1小節挿入する程傲慢ではなかったのだ。

 

URL: http://brahmsop123.air-nifty.com/sonata/2008/06/post_6857.html

 

 世の中には、某日本のミステリ作家が書いたホームレスを無慈悲に虐殺する小説が「献身」だの「純愛」だのと誤って(というより反社会的に)宣伝されたり、イギリスの旧弊とそれにとらわれた人間の悲劇を描いた英国人ノーベル賞作家の小説を「古き良き大英帝国を讃美した」作品だとする右翼的な誤読*1が主流になったりするなど理不尽なことが多いが、グノーに被せられた冤罪もその一つかもしれない(笑)

 大きく脱線してしまったが、なぜトルストイはあのように書いたのかについて私は推理して仮説を立ててみた。つまり核心部はここからなのだが、例によってというかいつものように脱線部分が長くなってしまった。そこで、音楽編は2回に分けて、続きは明日にでも書いて、今度こそ連載を完結させることにしたい。脱線したためにここまでで時間を相当食ってしまった。こんなことになるんじゃないかと思ってはいたが、やっぱりそうなってしまった。

*1:この間は『日の名残り』がチェンバレンの再評価と呼応しているなどと書いたトンデモ極右人氏によると思われるレビューを目にして激怒してしまった。