KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

チェーホフ唯一の長篇『狩場の悲劇』(原卓也訳・中公文庫2022) を読む。クリスティ『アクロイド殺し』の先例であることより「信頼できない語り手」の「純粋な悪」ぶりが印象的

 10月はここまでずっと仕事に忙殺された。少なくとも来年1月前半までは仕事に追われそうだ。しかもその3冊のうち1冊は、9月中に大部分を読んでいて月の最初の日である10月1日の日曜日に読み終えた本だった。それがアントン・チェーホフ(1860-1904)が20代半ばの頃に書いた唯一の長編『狩場の悲劇』(1884-85;中公文庫版2022=原卓也訳)だ。

 

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 チェーホフのこの作品の存在を知ったのは、この中公文庫版が刊行される前年の一昨年だった。弊ブログの下記記事にて言及したことがある。

 

kj-books-and-music.hatenablog.com

 

 記事のタイトルからおわかりいただける通り、アガサ・クリスティの代表作『アクロイド殺し』(1926)に用いられたトリックを、その40年あまりも前にクリスティに先駆けて使っていた作品として、ロシア文学愛好家たちよりもミステリファンの間で知られていた。中公文庫版にも江戸川乱歩が1956年に『宝石』に書いた評論の文章が添付されている。

 私がこの文庫本を図書館で見かけたのは今年の夏頃だった。えっ、『狩場の悲劇』が置いてあるの? と思ったが、その頃は宮部みゆきガストン・ルルーをそれぞれ2タイトルずつ読んでいたのでチェーホフは後回しにした。ようやく借りたのが9月半ばで、9月最後の週に読み始めたが、前述の通り読み終えたのは10月1日だった。

 この中公文庫版の訳者は原卓也(1930-2004)。この夏には、弊ブログでまだ連載の音楽編を完結させていないトルストイの『クロイツェル・ソナタ』も新潮文庫版で読んだが、その訳者も原卓也だった。また古くは1989年に読んだドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』も原卓也訳の新潮文庫版で読んだ。『カラマーゾフ』は、のち2006年に光文社古典新訳文庫から出て評判をとった亀山郁夫(1949-)訳も読んだが、私には原卓也訳の方がずっと読みやすかった。亀山氏は村上春樹の新作を読むために、村上の『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』を宮部みゆきの『模倣犯』と同じようにaudibleで「読んだ」らしいが、この人にはややミーハーなところがあるのではないかとの偏見を勝手に持っている(笑)。もっとも原卓也は1960年代末の学園紛争の頃に東京外語大に辞表を提出した全共闘シンパの「造反教官」と呼ばれたことがあるらしいから、自民党支持者にとっても日本共産党の支持者にとっても恰好の攻撃の的だったかもしれない。

 『狩場の悲劇』は、誰が読んでも読み違えることはなかろうと思うくらいの「信頼できないことがミエミエの語り手」である予審判事セリョージャの文章が、純粋な一人称ではなく作中作として出てくる構成だから、これを『アクロイド殺し』の先駆と言い切れるかどうかも怪しい作品だ。この作品の興趣は「フーダニット」ではなく、むしろ「ホワイダニット」だろう。なぜあの信頼できない語り手が美しい少女を殺したのか。それがわかるのは、作中作が終わったあとの場面においてである。

 それは実に信じがたい動機であり、この「信頼できない語り手」セリョージャは「純粋な悪」そのものではないかと思わずにはいられなかった。

 私が直ちに思い出したのは宮部みゆきの『模倣犯』の真犯人・網川浩一(ピース)だった。網川は意識して「純粋な悪」を追求していたが、セリョージャは意識せずとも「純粋な悪」そのものだった。この男とつるんでいた「伯爵」もまた実にひどい人間であり、この伯爵が隠していた悪事が作中作の終わりの方で明らかにされるが、それから思い出されたのはアガサ・クリスティの『三幕の殺人』だった。伯爵はクリスティ作品とは違って殺人までは犯していないが、『三幕の殺人』の犯人が最初に犯した殺人の動機もまた、セリョージャに負けず劣らずひどいものだった。

 そういえば『狩場の悲劇』の予審判事・セリョージャと伯爵とは極悪人コンビだが、その構図も『模倣犯』の網川浩一と栗橋浩美と同じだ。両作とも2人の関係は対等ではなく、『模倣犯』では出生の経緯はともかく上の階級にいる網川が栗橋を支配しているが、『狩場の悲劇』の方は階級が下のセリョージャが内心では伯爵を馬鹿にしている。網川とセリョージャに共通するのは「見場の良さ」であって、それに女性たちはコロッといかれてしまう。もちろん同じ性質は男にもある。浦沢直樹の漫画『MONSTER』でも怪物・ヨハンは美男に描かれていた。

 もう一つ、このカテゴリに属する人間に多く見られる特徴は「演技を好む」ことだ。これはセリョージャには当てはまらないから『狩場の悲劇』の作品論としては不適な話題だが、ついでだから書いておく。演技者という特性は網川浩一には見事に当てはまるし、前記クリスティも犯人の職業として医者とともに非常に多いのが俳優(男女を問わない)だ。また俳優ではなくとも演技を好む人間が犯人という作品も複数ある。それらは特に初期のクリスティには多い。私はクリスティの全ミステリ作品を全部ほぼ成立順に読み進めて残すところ9冊まできているが、印象に残っているのは比較的初期の作品が多い*1。俳優は演技はお手のものだ。

 それから『狩場の悲劇』を読むと、帝政ロシア時代の貴族(伯爵)やアッパーミドル階級(予審判事)にはこの手の輩が結構いたのではなかろうかと疑ってしまう。上の階級の人間は下の階級の人間に対して何をやっても構わないと考えていた人間が多かったんだろうなと想像する。そしてそこから、だから帝政ロシアの再興を夢見る現代ロシアの独裁者・プーチンは人の命を何とも思わず平然と人を殺し続けるのかとも思う。プーチンもまた「絶対悪」に限りなく近い人間であろう。そんな人間が権力を握っている。

 見てくれの良い人間が悪人であるとは限らないのは当たり前だ。だが中にはどうしようもない悪人がいるのも確かだろう。そして、心にもないことをいかにも心の底から発した言葉であるかのように思わせる悪しき演技力の持ち主。これはたくさんいる。だから世の中では犯罪が後を絶たない。

 『狩場の悲劇』でもっとも印象に残ったのは、そんな美男子にして「純粋の悪」である「信頼できない語り手」セリョージャに殺された美少女オリガ(オーレニカ、オーリャ)の最期だ。セリョージャはなんと予審判事として瀕死のオリガに尋問する。それに対してオリガは「あなたが……あなたが……殺したの」と言うが、セリョージャは「ヤマシギを、でしょ」と話をそらし、犯人の名前を言えとオリガに聞く。しかしオリガは犯人、つまりセリョージャの名前を言おうとせず、にっこりと微笑んで絶命した(中公文庫版272〜273頁)。悪魔に魅入られたように死んでしまうオリガから私が思い出したのは、宮部みゆきの『模倣犯』で事実上の兄の仇である網川浩一に騙されて、網川への失恋とともに兄が大量殺人犯であると思い込んだまま「純粋な悪」網川に自殺に追い込まれた高井由美子の最期だった。『模倣犯』の映画版では由美子の自殺は削られているそうだが、由美子の自殺こそ『模倣犯』の「負のクライマックス」であり、その後網川がもろくも自滅するにもかかわらず多くの読者に「救いのない結末」だと思わせた理由になっているのだから、由美子の自殺を省いた時点で映画は失敗だったのではないだろうか。実際映画版『模倣犯』の評判は必ずしも良くなかったようだ。

 そしてセリョージャや網川、それに漫画『MONSTER』のヨハンのような人間が今の日本でも大手を振っていると私は思う。それも超大物が。私が思い浮かべるのは某自治体のあの首長だ。奴は実に演技が上手く、コロナ禍最初の年にTwitterで「#××寝ろ」なるタグが流行ったが、「寝ろ」は「ネロ」の誤記ではないかと私は思った。実際、その自治体は日本国内でももっとも新型コロナウイルス感染症の死亡率が高かった。自治体内で医療崩壊を起こしたからである。その結果を招いたのは、首長が邪悪そのものの人間だったからではないかとの仮説を私は立てている。あの「働き者」のイメージは、彼が属する政党の勢力を伸長させるための虚像に過ぎなかったのではないか。実際には自治体の公的部門縮小という、住民に不幸をもたらす政策を推進しただけだったのではないか。何よりも悪質だと思うのは、彼が自分の「見場の良さ」を自覚していて、人々を騙すためにそれを最大限に利用しているように見えることだ。その人物や彼が属する政党には、日本全体を見た時には少なからぬ批判者がいるが、それでも人気が全然衰えないのは彼の「見場の良さ」に多くの人たちが幻惑されている、というより惹きつけられているせいではないかと私は思う。だから、あの政党を撃つためには、まずその神輿であるあの人間に攻撃を集中するべきではないか。私は最近ずっとそう考えている。

*1:のちの作品は心理描写に凝るようになって犯人当ても難しくなっていくが、読み終えてしばらくしたら中身を忘れてしまう作品が増えている。