KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

宮部みゆき『模倣犯』(一)〜(五)(新潮文庫)を読む。露文学者・亀山郁夫氏が書いた本書のレビューに注目した

 初めにお断りしておきますが、この記事は表記作品のネタバレが満載ですので、当該の小説を未読の方にはおすすめしません。

 8月最後の日曜日に区立図書館に行った時、今まで全巻揃っているのを一度も見かけたことがなかった宮部みゆきの『模倣犯』全5冊(新潮文庫版2005, 単行本初出は小学館2001)が揃っているのを見て、ついつい第1巻を借りてしまった。読みたいと思った強い動機として、少し前に読んだばかりの同じ作者の『小暮写眞館』を読み終えた時、この作品は『模倣犯』で書いたような陰惨な大量殺人の話はもう書きたくないと思うようになって書いた非ミステリの小説だということを知ったので、作者自身をそんな気持ちにさせた作品にして作者の代表作としても名高い『模倣犯』を読んでみようかと思ったのだ。同じタイミングで借りた本が、少し前に弊ブログの記事に取り上げたガストン・ルルーの『オペラ座の怪人』だった。

 

www.shinchosha.co.jp

 

 結局翌週には第2巻と第3巻、翌々週には第4巻と第5巻を借りて読む羽目になった。受けた印象は『火車』よりも強烈で、作者の代表作とされるだけのことはあると思ったが、同時にこういう作品を書く気が起きなくなったのもわかるような気がした。

 たまたまだが、最初に借りた第1巻が第1部、第2巻と第3巻が第2部、第4巻と第5巻が第3部だった。この作品は一種の倒叙ミステリだが犯人は2人組だ。第1部の最後で犯人と思われた2人組が死ぬが、片方は犯人にして連続殺人の主な実行犯だったがもう1人は巻き添えを食った友人だった。第2部ではその主な実行犯である栗橋浩美と栗橋の巻き添えを食って死んだ友人の高井和明が主人公で、第3部では生き残った主犯の網川浩一が主人公になる。この網川こそラスボスであり、良心のかけらも持ち合わせていないかのような人間として造形されている。私が直ちに思い出したのは、1999年から2002年頃まで熱中して読んだ浦沢直樹の漫画『MONSTER』に出てくるヨハン・リーベルトだった。作中でヨハンは双子の妹ニナ(アンナ)に「絶対悪」と評されたが、網川浩一もまた「絶対悪」と呼びたくなるキャラクターだ。

 

www.shogakukan.co.jp

 

 読み終えてから知ったのだが、『模倣犯』と『MONSTER』とは同じ頃に同じ出版社の雑誌に連載されていた。『模倣犯』は小学館発行の『週刊ポスト』1995年11月10日号から1999年10月15日号まで連載され、『MONSTER』は『ビッグコミックオリジナル』1994年第24号から2002年第1号まで連載された。

 2010年に書かれたアマゾンカスタマーレビューに『MONSTER』に言及したレビューがあったので以下に引用する。レビュワーは漫画よりもドストエフスキーに力点を置いて言及している。

 

★★★★☆ スタヴローギンになれなかった男

2010921日に日本でレビュー済み

 

時世を10年単位でセグメントしていくとするなら、

'00年代は宮部さんの「模倣犯」に始まり、村上さんの「1Q84」で締め括られる。

1Q84」を読みながら、そんな想いにかられた。

ホコリをかぶった本書を棚の奥から引っ張り出し、再読する。

 

'90年代という世代を考えると、

奇しくも'89年という同じ年に起きた女子高生コンクリート詰め事件と宮崎勉事件から、

'94年のオーム、'96年の酒鬼薔薇'99年のライフスペースと、

ワイドショーに求める刺激は強くなっていく一方だった。

 

それを逆手に「お前らを楽しませてやろう」と出現したのが網川浩一だった。

ドストエフスキーの「悪霊」で、ピョートルがスタヴローギンに心酔したように、

栗橋浩美はピースに心酔し、高井和明はシャートフと同じ運命を辿る。

 

浦沢直樹さんの「MONSTER」ヨハンもそうだけど、知的な犯罪者はスマートに見える。

容姿もスマートなら、語りもスマートだし、生き方もスマートだ。

それは悪魔でありながら天使であり「神の子」のようですらある。

ハンニバル・レクターのように。

 

でも、現実の事件はどうだろう?

テレビの画面に映し出された誰がスマートだっただろうか?

 

作品の中で描かれるのは加害者はどこかの被害者で、被害者はどこかの加害者。

宮部さん独特の人間への慈愛が作品の節々にあふれている。

それでも読後感は哀しい。

 

確かに現実の事件でも加害者はどこかの被害者だったかもしれない。

だけど、それを知ったところで、被害者が納得するわけがない。

それを知っていたからスタヴローギンは自ら首を吊るした。

ピースは最期まで己が神だと誇示し続けた。

読後感の哀しさは、この人間の愚かさへの哀しさなのかもしれない。

 

URL: https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RYBV3MIP0LWNH

 

 レビュー中に「ピース」と書かれているのがラスボス・網川の渾名だ。ヨハンもそうだったが美男子として描かれている。最後にはテレビに登場する「人気者」になるが、私が強く連想したのは、支持者たちには申し訳ないけれども某自治体の知事だった。網川の禍々しさやいかがわしさ、それに冷酷非情さなどがそっくりだと思った。

 上記レビューに「最期」と書かれているが、物語中で網川は死なない。しかし逮捕はされ、大量殺人の証拠も豊富なので間違いなく死刑にはなるだろう。私自身は死刑廃止論者だが、それは別の話だ。読み終えて、私ならこんな極悪犯人はぶっ殺して話を終わらせるのになあと歯ぎしりしたのが正直なところ。

 ところでネット検索をかけて驚いたのは、なんと今年に入ってロシア文学者の亀山郁夫氏が今年春にaudibleで75時間かけて『模倣犯』を読み(聴き)、氏が館長を務める世田谷文学館のサイトにある「エッセイ」に4月28日から30日まで3日間に分けて感想文を書いておられたことだ。以下にリンクを示す。

 

 亀山氏は宮部氏の『ソロモンの偽証』(2012)を読んだことがあるらしい(私は未読)。

 

 Wikipediaによると、この作品は

学校内で発生した同級生の転落死の謎を、生徒のみによる校内裁判で追求しようとする中学生たちを描く。舞台となる中学校は東京都城東区」(江東区がモデル)と設定されている[1]

とのことなので、流れ流れて地元民になった私としては読んでみたいが、残念ながらこのあと年内は7月からここまでの時期のように本を読みまくる暇はなくなる*1。来年に回すしかない。

 亀山氏はその『ソロモンの偽証』を「21世紀版『カラマーゾフの兄弟』ではないか」とまで激賞する。そして『模倣犯』は宮部みゆきの『悪霊』ということらしい。先に引用したアマゾンカスタマーレビューでも『悪霊』になぞらえられていた。私も『悪霊』は1989年に読んだが、同じ年に読んだ『カラマーゾフの兄弟』からは強い印象を受けたのだが『悪霊』はあまりうまく読めなかったので、いつか再読しようと思って果たせずに今に至っている。

 『模倣犯』には、第1部の最後で非業の死を遂げたことが明かされたあと、第2部で連続殺人事件の実行犯たる栗橋浩美を更生させようとして果たせなかったばかりか、自らの説得に動揺した栗橋の運転ミスによって巻き添えになって死んだ上に殺人犯の濡れ衣まで着せされた高井和明という人物が出てくる。第3部では和明の妹・由美子が死んだ兄の冤罪を晴らそうとするのだが、なんと「絶対悪」たるラスボス・網川の毒牙にかかって自殺に追い込まれるというショッキングな展開となる。この部分が多くの読者にとっては全篇でもっとも印象に残る場面だろう。少なくとも私にとってはそうだった。読者の中には善人役の兄妹が揃って悲惨な死を遂げる展開に納得できず、「宮部みゆきさんが好きですとは言えなくなってしまった」とレビューに書いた人までいる。

 小説を書くテクニックから言ってうまいと思わされるのは、ある警官が連続殺人事件の捜査のために由美子との見合いが流れ、その警官が一度は彼女の自殺未遂の場面の発見者となるなどして、これは警官と由美子とが最後に結ばれるのではないかとの期待を読者に抱かせておいて網川の毒牙にかからせるという残酷な流れにしていることだ。このため読者の同情は由美子に集まりやすい。

 この由美子の自殺の場面についての亀山氏の文章を以下に引用する。

 

また、悪の天才ピースこと網川浩一のマインドコントロールによって自殺へ導かれる由美子の最後の描写も秀逸だと思った。自殺の場面には、これまでいくつもの小説で接してきたが、それらのほとんどが嘘くさく思えてきたほどのリアルさである。不思議なことに、過剰ともいえるほど言葉が尽くされているのだが、少しも過剰さを感じさせることがないのだ。むしろその過剰さが、死者への鎮魂の願いを深め、読者のいたたまれぬ思いにやさしく働きかける。思えば、ドストエフスキーの小説に登場するどの自殺者の描写にも、これほどの切迫感はなかったように私は思う。順に思い起こしてみよう。『罪と罰』のスヴィドリガイロフ、『悪霊』のキリーロフ、そしてスタヴローギン、『未成年』のクラフト、『カラマーゾフの兄弟』のスメルジャコフ。高井由美子の死の描写に辛うじて対置できるのは、『未成年』第一部の終わりで縊死を遂げるオーリャぐらいだろうか。思うに、エロスの作家ドストエフスキーは、自殺や死の主題には確かに深く魅力されてはいたものの、生と死の境界線に立たされた人間の心理の極限を描く術に卓越していたとはいいがたい。形而上化の誘惑とロマン主義的なこだわりが、彼の文学から死のリアリティをはぎ取ったという言い方もできる。それが、『模倣犯』では、その境界線の描写が、驚くほどに生々しい現実感を獲得し、いっさいの不自然さを免れているのだ。

 

URL: https://www.setabun.or.jp/minerva/1568/?ym=2023.04

 

 しかし、物語の冒頭から最後まで登場し、一貫して重要な役割を演じる少年・塚田真一の目には、おそらくこの物語中での最大の嫌われ役であろう樋口めぐみという真一のストーカー役の少女と由美子とが重ね合わされる。確かに二人の立場はそっくりなのだ。めぐみは真一の両親と妹を殺した殺人犯の娘で、由美子は連続殺人犯の片割れとされる人物の妹だからである。両人の行動も、由美子の方は網川にそそのかされてではあるもののよく似ている。この真一とめぐみについても亀山氏は言及している。

 

ドストエフスキーとの比較でもう一人、注意すべき人物として浮上してくるのが、塚田真一である。一家惨殺の悲劇に遭遇し、唯一生きのこった真一だが、作者は、その彼の心理の深層から、罪の共同性という認識を掴み出してくる。被害者であるはずの真一自身がその悲劇の実現に手を貸した、いや、使嗾したと感じる心のうごきは、深くドストエフスキー的である。真一を執拗に追い回す樋口めぐみが、たんなるストーカーではなく、真一のalter ego としての存在理由を明らかにするのもまさにこの文脈である。ピースこと網川浩一と栗橋浩美の分身関係もドストエフスキーとの連関性を思い起こさせるものだ。宮部みゆきは、さまざまな趣向をこらして、ピースと浩美の関係を、美的なヒエラルキーつ、「悪霊」の異なる二つのタイプを描き出してみせた。より正確な言い方をすれば、大文字の「悪霊(Demon)」と小文字の「悪鬼(demons)」の二つのタイプである。悪鬼の長ともいうべき栗橋浩美は、地上的な俗悪に快楽を覚えるが、巨大な悪の体現者である大文字の悪魔は、どこまでも潔癖であり、善と悪のそれぞれに等距離を保つ霊的な存在として描かれる。ゲーテファウスト』の有名な一節が思い出される(「悪を欲しながら、いつも善をなしてしまう、あのおなじみさんの一人です」)。他方、霊的な存在であるがゆえにピースは、みずからが手を汚すことを嫌悪し、使嗾という行為においてのみおのれの願望を美的に現実化する。この、霊的な悪魔にとことん翻弄される由美子こそは、真に悲劇的な、ファウスト悲劇に連なるヒロインといってもよい。

 

URL: https://www.setabun.or.jp/minerva/1569/?ym=2023.04

 

 「真一を執拗に追い回す樋口めぐみが、たんなるストーカーではなく、真一のalter ego としての存在理由を明らかにする」という指摘には意表を突かれた。alter egoすなわち別人格。そういえば物語最後の真一とめぐみとの対話で、真一は「俺は、おまえのこと、やっぱり許せない」とは言いながら、その直後に「でも、おまえも犠牲者だってことは、わかってきた」と言った(新潮文庫版第5巻488頁)。仇敵同士のはずだった二人の別れの場面も印象的だったので以下に引用する。

 

「ちゃんと家に帰れよ」

 それだけ言って、真一は踵を返した。駐車場を出て、駅に向かった。振り返らなかった。それでも、めぐみの顔が見えた。薄暗がりのなかで見ためぐみの顔が、目の裏に鮮やかに焼きついていた。これまで、彼女の顔は何度も見てきた。怯えながら、怒りながら、逃げながら。彼女の詰(なじ)る顔を、媚びる顔を、責める顔を。それがあまりにも悪夢のようだったから、一人の人間としての樋口めぐみの目鼻立ちや、声や、姿をちゃんと覚えることができなかった。いつ見ても、初めて見るように脅威を感じた。だからこそ彼女に遭遇するたびに、驚きで新しい傷口が開いたのだった。

 でも、今度は違った。背中を向けて遠ざかっても、電車に乗っても、氷雨に濡れながら夜道を歩いても、長いこと、真一は目の裏に彼女の顔を見ていた。

 そして、ようやくそれに別れを告げた。

 

宮部みゆき模倣犯』(五)(新潮文庫, 2006)491-492頁)

 

 かくして宮部みゆきは樋口めぐみには救済を与えた。これが納得できない読者が少なくないであろうことは理解するが、私はこれで良かったと思う。私は高井由美子の自殺にはショックを受けて気の毒には思いながらも、樋口めぐみにもそれなりに同情しながら読んでいたのだった。

 読書メーターを見ると、私よりももっと樋口めぐみ寄りの立場から書いたレビューがあった。

 

きよみオレンジ

真一にとって良かったのは、水野久美*2や有馬義男との出会い。樋口めぐみと高井由美子の違いは?内容はどうあれめぐみは自分で考えていたが由美子は騒ぐだけで人任せ。ピースは?やりすぎた。抹殺したければ、書いた本は売れない、インタビューにもこない。ピースって誰?が一番いい。

 

URL: https://bookmeter.com/reviews/106421465

 

 「めぐみは自分で考えていたが由美子は騒ぐだけで人任せ」とはさすがに言い過ぎだろう。このレビューに激怒する人も結構いるかもしれない

 ただ、網川浩一の毒牙にかかったあとの由美子の心理描写はほとんど出てこない。それまであれほど詳細に書いていたのに、自殺の直前になるまで心理描写が全然書かれていないのだが、これは間違いなく作者が意識的にそうやっている。網川に引っかかったあとの由美子の心理はオウム真理教事件麻原彰晃にマインドコントロールされた信者みたいなものだったに違いないと読者は想像するしかない。

 それと同様に、由美子と見合いをする機会を逸しながら一度は由美子の自殺未遂の第一発見者となった篠崎という警官はさぞ無念だったに違いないと想像されるが、彼の心理も描写されていない。あるいは警察の捜査もそれなりに進んでいたことが最後に示唆され、一部の読者があげつらう以前テレビ局に電話をかけた時の犯人とテレビ出演時の網川の声紋分析にしても、網川の関与を指摘する証言者が現れた直後に行われたに違いないし、もう少し早く捜査が完了していれば、網川がテレビに出演して自らの犯行を(前畑滋子*3の罠にかかって)自白する前に網川は逮捕され、由美子は自殺せずに済んでいたかもしれない、等々いろいろな想像が可能だが、それらを含めた事柄は読者の想像に任されている。このあたりがたとえば私が激しく忌み嫌う東野圭吾の糞ミステリ群と違う、宮部みゆきの作品の奥行きがあると思った。なお東野の悪口はこの記事の最後にもう一度書く。

 亀山郁夫の作品評に戻る。下記の指摘にも大いにうなずかされた。

 

もう一つ、ドストエフスキーの関連で述べておきたいのが、この小説全体に底流する母の不在である。物語も大詰めにきて、ピースによる母親殺しの事実を明らかにされるとき、読者は、この物語全体を貫くメインテーマがどこにあったのかを納得する。拒否された母性性とは、果たして何を意味するのか。母たちの終わりが、これほどにも惨たらしく描かれた小説を、寡聞にして私は知らない。絶対的支配という欲望に取りつかれたピースそして浩美の二人にとって、第一に乗り越えるべき相手こそ、母性性だった。宮部みゆきにおける母性性の主題は、四半世紀遅れて彼女を知った私のなかで改めて議論すべき対象となりそうな予感がする。

 

URL: https://www.setabun.or.jp/minerva/1569/?ym=2023.04

 

 確かにそうだ。網川の両親、特に母親がなかなか出てこないなあとは私も読みながら不審に思っていた。第2部の初めの方で栗橋が網川の家に遊びに行った時に、優しそうな網川の母が出てくるが、第3部にその網川の母が全然出てこないことには気づいていた。そして物語の最後で、網川が逮捕されたあと網川の山荘から母親の遺骨が発見され、網川が最初に犯した殺人が母殺しだったことが明かされる。また栗橋は何かというと生後1か月後に亡くなった同じ「ヒロミ」と読む名の姉・弘美を引き合いに出す母に何かと邪険にされていたが、実は栗橋の母は育児ノイローゼになって弘美を殺しており、その後悔の念が亡き弘美に対する強い執着になり、それが栗橋浩美が母親に疎外されることにつながってしまったのだった。前述の第2部の冒頭に網川の母が出てくる場面では網川が母に強く依存している様子が描かれており、栗橋が小学校4年生の時に網川と一緒に亡き姉の弘美の「亡霊」を「殺した」エピソードについて、網川がそれは単なる「おまじない」だ、あんなので人が実際に死ぬはずがないと言っている場面がある。その時点での網川の印象はそれほど悪いものではなく、網川自身にはまだ人を殺したい衝動はなかったと思われる。しかし同時に網川は、亡き姉の亡霊だけではなく自らの両親を殺したいと訴える同級生・栗橋浩美の心を既に支配していた。そして物語の末尾で明かされるように網川自身にも恵まれない出自があったため、栗橋の殺人の衝動がどこかで網川自身にも伝染し、それがあんなに優しそうな感じの良い母親として描かれ、自らの毒親との対比で栗橋も強く憧れたであろう網川の実母を手にかけることにつながったはずだが、その経緯は小説には一切書かれていない。

 ところで私は『模倣犯』を読む前に同じ作者の『小暮写眞館』を読んでいたので、後者の主人公である花菱英一(「花ちゃん」)が本書の塚田真一から直接派生した登場人物であることが理解できる。真一は自らの失言が犯人である(あろう)樋口秀幸による両親と妹の殺害を引き起こしたとして自分を責めるが、英一も物語の最後で自らの不作為によって妹を死なせてしまったことを思い出す。後者ではそれが全篇のクライマックスである親族との対決につながる。

 それでは、『小暮写眞館』のヒロイン・垣本順子に当たる『模倣犯』の登場人物は誰かと考えると、高井由美子でもなければ樋口めぐみでもないことがすぐにわかる。順子もまた母親に邪険にされたことを語る。彼女はおそらく母親の愛人に性犯罪行為を受けた被害者だろうと英一は推測した。そう考えると、順子のルーツは、性別は異なるとはいえ網川浩一と栗橋浩美の2人に他ならないことがわかる。そして極悪な連続殺人を犯し続けた網川と栗橋とは異なり、作者は垣本順子には救済を与えた。それが『小暮写眞館』のキモではないかと私には思われる。

 最後にお約束の東野圭吾批判をやる。

 実は『模倣犯』でも網川浩一と栗橋浩美は隅田川沿いに寝起きするホームレスを虐殺している。この場面で私が東野圭吾の作品の中でも最低最悪なあの小説を思い出したことはいうまでもない。しかも本作の第3部でテレビに出演しまくった網川は、連続殺人事件には栗橋浩美でも高井和明でもない「真犯人X」がいると発言して時の人となる。実は網川自身こそ「真犯人X」なのだが、犯人が探偵役を演じるわけだ。まるでフレデリック・ラルサンである。もっとも本書は前述のように倒叙ミステリなので犯人当ての楽しみはない。なお『模倣犯』の方が『容疑者Xの献身』より先に書かれていることはいうまでもない。隅田川沿いのホームレスの虐殺と「X」という符牒に関して、東野圭吾宮部みゆきを「模倣」したものかもしれない、などとも思う。

 そして私は『模倣犯』の「真犯人X」(網川浩一)と「献身」とやらをやったらしい東野作品の「容疑者X」(石神哲哉)とではどちらがより悪質だろうかと思う。普通に考えれば、良心も何もなくひたすら大量殺人をやらかした「真犯人X」の方がより悪質に決まっている。しかし「真犯人X」は罪もないホームレスを虐殺した自らの犯行を「献身」に仕立て上げはしなかった。

 『模倣犯』は、作者が書かなかったことをいろいろと想像できる作品だとこの記事に書いた。一方、東野圭吾の『容疑者Xの献身』にも、読者が想像しなければならないことがある。それは、「容疑者X」が死体の身元がバレないようにホームレスの死体の顔を潰した行為だ。読者は石神がホームレスの顔を潰している残虐な場面を絶対に想像しなければならない。

 それを想像してもなお、あなたは「容疑者X」の行為を「献身」だと言えますか。それを東野のファンたちに聞いてみたい今日この頃なのである。

*1:7月から現在まで本を25タイトル読んだ。『模倣犯』は1タイトルとして数えている。月平均にして10タイトルで、これは2014年の年間平均と同じペースだ。しかし今後は仕事の日程が厳しくなるのでペースを落とさざるを得ない。

*2:なお「水野久美」には同姓同名の有名俳優がいる。宮部氏や私よりは年上の人だが宮部氏はよく知っているに違いないだろうによくこんな名前をつけたなとちょっと驚いた。しかし作中の「水野久美」は私にはさほど印象に残らないキャラクターだった。

*3:この登場人物は、私にはアガサ・クリスティ作品に登場する女性作家のアリアドニ・オリヴァを連想させる。おそらく作者の分身ではなかろうか。