今年後半は仕事に割かざるを得ない時間が多すぎて閉口した。9月には弊ブログの更新回数が一桁だったし、更新回数を増やした10月と11月は読んだ本がそれぞれアガサ・クリスティのミステリ1冊ずつという惨状。年末年始も来年早々の仕事のために一定の時間を割かざるを得ないが、それでもここ数か月の中では一番息がつける時期ではあった。今月読んだ本は、クリスティのミステリ1冊を含む4冊で(年間トータルでは2012年以降最少の53冊だった)、その中の1冊が今年前半に買ったまま積ん読になっていた下記の本だった。
何しろウクライナのことは全然知らず、ウクライナ戦争が勃発した時には、なんでロシアが骨肉相食むような戦争を仕掛けたのかと訝るくらいの無知だったので、少しはウクライナについて知っておかなければならないと思ったのだ。
ウクライナというとチャイコフスキーの交響曲第2番「小ロシア」というこの大作曲家の交響曲の中では一番冴えない曲と、ムソルグスキーの「展覧会の絵」の終曲「キエフの大門」と、それに何より1986年に起きたチェルノブイリ原発事故のイメージしかなかった。その印象を一変させてくれた本だった。
本書は20年前の2002年に、当時58歳の元外交官によって書かれた。ウクライナの独立は1991年末だったのでそれから10年強しか経っていない時点での出版だ。本文はウクライナの独立までしか書かれていない。独立までのウクライナの歴史を概観した内容だ。しかしそれがなかなか興味深かった。
アマゾンカスタマーレビューに筆頭で表示されたのは、プーチンのロシアによるウクライナ戦争の開戦を絡めたレビューだった。長いが以下に引用する。
https://www.amazon.co.jp/-/en/gp/customer-reviews/R1IT3LL4P05AR6
★★★★★ 「ボルシェビキの政策によって生じたのがソビエトのウクライナであり、現在も『ウラジーミル・イリイチ・レーニンのウクライナ』と呼ばれるにふさわしい。」
Reviewed in Japan on November 21, 2022
今年2月24日ロシアはウクライナに侵攻しましたが、その前にロシアのプーチン大統領は何度かテレビ演説を行っていました。そして、私が見た限り、メディアで頻繁に報道された演説は2月24日の侵攻直前に行われたテレビ演説でした。しかし、侵攻の三日前に当たる2月21日にもテレビ演説は行われていました。その内容はNHKのサイトで全文を和訳で読むことができます。タイトルに引用したのはその演説からの抜粋です。
プーチン大統領は以下の様に続けます。
「彼はその作者であり設計者である。このことは、ウクライナに文字どおり押し込められたドンバスに対するレーニンの厳しい指令などの古文書によって、完全に裏付けられている。それなのに今、『恩を感じている子孫たち』はウクライナにあるレーニン像を取り壊した。」
プーチン大統領の演説は私の理解の範囲を超えるものでした。そして、プーチン大統領の演説内容を理解するためには、ウクライナ史についての一定以上の理解が必要と感じました。そのため、入手しやすい本書を手に取ってみたのでした。本書を読み始めてみたところ、私の様な世界情勢に疎い人間から見てもとても分かりやすい内容で、一気に読むことができました。
そして、本書を読んでみて、私にはプーチン大統領がこの演説でどうも二つの重要なことに言及していない様に思われました。
一つ目は「中央ラーダ」です。本書には「中央ラーダ」に関連して以下記載がありました。
「一九一七年一二月ペトログラードのソヴィエト政府は、レーニン、トロツキー署名の最後通牒をウクライナ政府(=中央ラーダ:引用者)に送り、ウクライナでボリシェヴィキ軍の自由行動を認めることなどを要求し、その代わりにウクライナ国民共和国を承認すると通告してきた。ウクライナ政府はこれを拒否した。かくてボリシェヴィキは武力でウクライナを奪い取ることを決めた。(中略)こうして、以後中断を含みつつも一九二一年末まで四年間続くウクライナ民族主義者とボリシェヴィキの壮絶な戦いが始まるのである。」(186頁)
「しかしこの独立は無意味だったのではない。確かに短期間に終わったが、ウクライナは紛れもなく独立していた。そしてその記憶はソ連時代にも連綿として生き続け、第二次世界大戦のときにも幾多の独立運動に結びつき、ついにはソ連の崩壊時に本格的な独立となって実を結んだ。その意味でかつて独立国家であったという思いは、現代のウクライナ人にとって大きな誇りと支えになっている。現在の独立ウクライナの国旗、国歌、国章はいずれも一九一八年中央ラーダが定めた青と黄の二色旗、ヴェルビツキー作曲の『ウクライナはいまだ死なず』(一八六五年)、ヴォロディーミル聖公の『三叉の鉾』であることからも、現代のウクライナ国家は自らを中央ラーダの正統な後継者であると認識しているのである。」(203頁)
二つ目は「大飢饉」です。本書には「大飢饉」に関連して以下記載がありました。
「飢饉は一九三三年春にそのピークを迎えた。飢饉はソ連の中ではウクライナと北カフカスで起きた。都市住民ではなく食糧を生産する農民が飢え、穀物生産の少ないロシア中心部ではなく穀倉のウクライナに飢饉が起きたということはまことに異常な事態である。農民はパンがなく、ねずみ、木の皮、葉まで食べた。人肉食いの話も多く伝わっている。村全体が死に絶えたところもあった。(中略)独立後のウクライナの公式見解を盛り込み、クチマ大統領(一九三八~)の巻頭言も載っている『ウクライナについての全て』(一九八八年)では、この飢饉によりウクライナ共和国では三五〇万人が餓死し、出生率の低下を含めた人口の減少は五〇〇万人におよび、その他北カフカス在住のウクライナ人約一〇〇万人が死んだとしている。(中略)この時期にもソ連は平然と穀物を輸出し続けていたのである。」(218-219頁)
プーチン大統領が演説で触れなかった「中央ラーダ」と「大飢饉」のことを考慮したら、「ウクライナの人々がレーニンに恩を感じてもおかしくはない」ということにはならないと、私には感じられました。
もしかしたら、ウクライナ侵攻肯定派の人々からは、「中央ラーダ? 中央ラーダがウクライナをうまく統一できなかったから、ボリシェヴィキが統一してやったんだろ」とか、「大飢饉? そもそもウクライナ人が国営農場や集団農場でしっかり働いて食料生産量が減らなかったら、そんなものは発生しなかっただろ」などと反論されるのかもしれません。しかしながら、本書を読んでみて、レーニンやボリシェヴィキやソ連共産党がウクライナで行ったことはウクライナの人々にとっては過酷なことであった様に、私には思われたのでした。
私はプーチン大統領の演説を自分なりに理解したいと思って本書を手に取りました。そのため、戦間期のウクライナについて主に知りたいと思っていました。そして、本書によってその知識を得ることが出来ました。一方で、ウクライナの現代史を知りたいと思っている方々には、他のレヴュワーの方々が指摘されている様に、本書は記載が1991年のウクライナ独立とソ連消滅で終わっているため、物足りないと映ってしまうかもしれません。ただ、ソ連消滅後のウクライナ史については、様々な文献によって情報を得ることができるため、それらによってソ連消滅後の知識を補うことができれば、本書はとても役に立つものと感じました。
引用文中、赤字ボールドにした部分の「大飢饉」は天災ではなく人災だった。その責任者はスターリンであり、大飢饉によって死亡した人々は事実上スターリンに殺されたも同然だった。苦難続きだったウクライナの歴史においても、スターリン時代の陰惨さは一段と度外れており、読み進めるのが息苦しくなるほどだった。
著者はスターリンについて下記のように書いている。なお、以下の引用文中では、読みやすさのために年数などの漢数字表記を算用数字に変換している。
(前略)原則には頑固だが戦術には柔軟だったレーニンが1924年に53歳で死亡し、1927年にトロツキー(1879-1940)、ジノヴィエフ(1883-1836)らのライヴァルを追放してスターリン(1879-1953)が権力を掌握したのが転換点であった。ちなみにロシア革命にレーニンに次ぐ大きな足跡を残したトロツキーとジノヴィエフはいずれもウクライナ生まれのユダヤ人だった。スターリンは自身グルジア人ながら、ロシア中心の中央集権主義者で、かねてから民族の自治拡大に反対であった。また彼は農民を信じておらず、農民は革命の担い手というより克服すべき対象と考えていた。彼は、農民の国で民族主義の強いウクライナにとりわけ猜疑心を抱いていたようである。さらにスターリンは、外国の脅威からソ連を守ることを至上命令とする「一国社会主義」の立場から、いかなる犠牲を払っても近代化、工業化した社会主義国を早急に作り上げなければならないと考えていた。その手段が数次にわたる5ヵ年計画であり、農業集団化だった。
ウクライナの飢饉は、豊作だった1930年に穀物生産2100万トンのうちソ連政府の調達量が760万トン(1920年代の2倍)だったのが、不作で穀物生産が1400万トンに減った1931年と同じ生産量だった1932年にも調達量が据え置かれたことから起きた(本書211-212頁)。一言で言うと、スターリンの搾取によって多くの農民が餓死に追い込まれたのだ。少しあとの1940年代にはレイテ島などで日本軍が人肉食いを行ったことがよく知られているが、ウクライナでもこの大飢饉の期間に「人肉食いの話も多く伝わっている」(同212頁)という。本記事で最初に引用したアマゾンカスタマーレビューに書かれている通りである。日本軍やヒトラーとともに、スターリンも20世紀史上屈指の巨悪だった。
プーチンはこのスターリンを初めとするソ連の悪行に頬被りした。プーチンこそヒトラーとスターリンのハイブリッドのような史上まれに見る大虐殺犯だと私は確信しているが、スターリンらの悪行に頬被りしたプーチンのあり方は、私の悪い印象をさらに強めるものだ。
陰惨な話ばかりではなんなので、音楽の話も少し書いておく。ロシアの作曲家であるチャイコフスキーらだけではなくベートーヴェンのパトロンだった貴族の話も本書には出てくる。
ロシアのピョートル大帝(在位1682-1725)は膨脹政策をとり、ウクライナを痛めつけたが、アンナ女帝(在位1730-40)の時代を挟んでエリザベータ女帝(在位1741-62)の時代になると、「事態は意外なことから好転した」(本書121頁)という。以下再び本書から引用する。
左岸*1コサックの出身でサンクト・ペテルブルグの帝室合唱団で歌っていたオレクシー・ロズモフスキーはその美貌と美声からエリザベータに見初められ、後には秘密裏に女帝と結婚した。オレクシー自身は国政に関与しなかったが、ウクライナに対する愛国心をもち続け、女帝がウクライナに同情するようしむけた。(前掲書121-122頁)
読みながら笑ってしまったが、ロズモフスキーという名前から私が連想したのはベートーヴェンの「ラズモフスキー四重奏曲」(作品59の3曲の弦楽四重奏曲)だった。
ところが、このオレクシー・ロズモフスキーはベートーヴェンから前記弦楽四重奏曲の他、運命・田園の両交響曲(第5・第6交響曲)の献呈を受けたそのアンドレイ・ラズモフスキー(ロズモフスキーのロシア名)の伯父だったのだ。
チャイコフスキーは本書のまえがきにもある通り、祖父がウクライナのコサックの出で、自身も毎年ウクライナのカーミアンカ(カーメンカ)にある妹の別荘に滞在していた。弦楽四重奏曲第1番第2楽章の「アンダンテ・カンタービレ」はその別荘で働いていたペチカ職人が鼻歌で歌っていたウクライナ民謡をもとにしたものだ(本書139頁)。そういえば、昔チャイコフスキーの音楽について書かれた解説文に、よく「ウクライナ民謡」という文字列を目にした記憶がある。以下、2022年3月2日付東亜日報(韓国)の日本版に掲載されたコラムを引用する。
2022年北京冬季五輪の閉会式で、チャイコフスキーのピアノ協奏曲1番の導入部が流れた。正常な状況なら、マススタート50キロ種目の優勝者がロシア選手だったため、ロシア国歌が流れるべきだった。閉会式は、マラソンに該当するその種目の授賞式を兼ねた席だった。ところが、ロシアが国家主導の禁止薬物服用で制裁を受けているため、ロシア作曲家の協奏曲が流れたのだ。
いつ、どこで聴いても美しいチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番は、ウクライナと深い関わりがある。最初の楽章と最後の楽章は、ウクライナ民謡からテーマとメロディーの一部を借りてきた。チャイコフスキーは、視覚障害者の楽士が街で歌う美しい歌を心に留めていて、作曲に活用した。ウクライナの民俗音楽が持つ美しいメロディーと叙情性は、彼を魅了させた。音楽だけではなかった。ウクライナのすべてのものが、彼を引き付けた。ロシアのヴォトキンスクで生まれたが、祖父の故郷ウクライナを自分の故郷だと考えた。そのうえ、彼がとても愛した2歳下の妹がそこに住んでいた。彼はそこで1年の数か月を過ごした。「私は、モスクワとサンクトペテルブルクでは得られなかった心の平和を、ウクライナで見つけました」。そこは彼にとって、平和と癒しの空間だった。彼は創作に必要な心の平和をそこで求め、ピアノ協奏曲1番や交響曲2番を含む約30曲を作曲した。ウクライナは、彼を心理的行き詰まりから解放した。すると音楽が、美しくてきらびやかな音楽がすらすらと流れてきた。
彼にインスピレーションを与えたウクライナが、戦争に巻き込まれている。彼の祖父がかつて暮らしていたキエフを、ロシア軍に踏みにじられた。ロシアは、チャイコフスキーのピアノ協奏曲1番を選び、世界の人々の耳に聞かせることだけはわかっていたが、彼の音楽に染み込んでいるウクライナに対する愛情はわかりえなかった。彼らは、ちゃんと彼の音楽を聞くべきだった。「チャイコフスキーの音楽、その平穏の中に戻ることを…」
フランスの文豪・バルザックのウクライナとの関わりもスケールが並外れている、といってもスターリンのような悪い意味においてではない。
さすがにこれを転記するのは面倒だよなと思ってネット検索をかけたら、本書の記述に基づいたブログ記事があったので以下に引用する。
知る人ぞ知るかもしれないが、バルザックは死の直前ポーランド人貴族のハンスカ伯爵夫人と懇ろになり終に結婚した。黒川裕次*2がシュテファン・ツヴァイクの伝記『バルザック』を引いてこう記している。
<キエフより100キロ以上南西のヴェルヒヴニャという村に、2万ヘクタールの領地に3000人の農奴を持つポーランド人貴族ハンスキ伯爵の城館(シャトー)があった。その妻ハンスカ伯爵夫人は美貌で有名だった。城館にはあらゆる贅沢品がそろい、子供にも恵まれ、ハンスキ夫妻は平和で幸せな生活を送っていた。しかし教養あるハンスカ夫人にとっては田舎の生活は退屈で精神的刺激がなかった。…
週一度の大事件は郵便の到着で…バルザックの小説の愛読者になった…[やがて]バルザックと秘密の文通を始め…
1841年ハンスキ伯爵が死に、1847年バルザックははるばるウクライナの彼女の城館まで訪れ、滞在する。…そして二人はとうとう1850年3月、近くの町ベルディチェフの聖バルバラ教会で結婚式を挙げた。しかし結婚生活は短かった。結婚後ウクライナからパリに向う途次バルザックは病にかかり、パリに着いてまもなく同年8月死んだ。(止め)
バルザックの館とは足かけ3年住んだこの城館内のバルザックが居住していた部屋のことだ。殆ど一般には知られていないと黒川は云う。
本書は上記のようなエピソードが随所にちりばめられた読みやすい本なのでおすすめである。もちろん考えさせられる箇所も多い。
本書の末尾には、ウクライナと日本には共通点が意外に多いと書かれている。しかし本書は2002年に刊行されているため、まさかその9年後に日本で東電原発事故が起き、世界最悪の原発事故だったチェルノブイリ原発事故に次いで2番目に悪い原発事故が日本で起きたという大きな共通点が加わろうとは夢にも思わなかったに違いない。
これで本年の弊ブログの公開はおしまい。9月と10月にはブログを更新できず、連続のブログ更新は44か月で止まってしまったが、来年は再び最低月1回の更新をしたいと思っている。それでは、良いお年をお迎え下さい。