KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

「ホラー小説の先駆け」らしいガストン・ルルーの『オペラ座の怪人』(1910)も後半は冒険活劇だった

 前回取り上げた『黄色い部屋の秘密』を書いたガストン・ルルーのもう一つの代表作『オペラ座の怪人』(1910)は昨日(9/2)、2022年に出たばかりの新潮文庫村松潔訳で一気読みした。

 

www.shinchosha.co.jp

 

 役者の村松潔は東京都江東区出身で1946年12月1日生まれというから76歳のベテランで、1993年に訳したロバート・ジェームズ・ウォラーの『マディソン郡の橋』(原作1992, 文藝春秋1993, 文春文庫1997)がベストセラーになったという。これはアメリカの作家の本だから、訳者の本業であるフランス文学(1994年にパリ大学で現代フランス文学の修士号取得)ではなくアメリカの小説だ。

 ルルーといえばかつては江戸川乱歩選のオールタイムミステリ十傑に入った『黄色い部屋の秘密』が元祖密室トリックで名高かったが、1988年に本作がアメリカで、同じ年に日本でも劇団四季がミュージカル化した。ブロードウェーでは2023年4月16日、つまり今から4か月前に終演を迎えるまで35年ものロングランを記録したという。

 

jp.reuters.com

 

 どうやら『オペラ座の怪人』は小説そのものよりも、演劇の成功によって原作が注目された作品らしい。そのせいか、邦訳は『黄色い部屋の秘密』とは対照的に、1980年代以降の翻訳が多い。

 文庫本で古い順に挙げると、創元推理文庫の三輪英彦(1930-2018)訳が1987年、ハヤカワ・ミステリ文庫の日影丈吉(1908-1991)訳が1989年、角川文庫の長島良三(1936-2013)訳が2000年、光文社古典新訳文庫の平岡敦(1955-)がある。これに2022年になって新潮文庫が参入した理由はよくわからないが「ホラー小説の先駆けと名高い世紀の名作」と銘打たれている。

 しかし、確かに前半はホラー小説っぽいのだが、後半は超人的な怪人とそれを追うガニマール警部だか銭形警部だかを連想させる元ペルシャ警察庁長官を軸とした追跡劇となる。実は後半の「第二部」に「切穴の謎」という副題がついているのを見て、そうなるのではないかと予想したらやっぱりそうなった。というのは、『黄色い部屋の秘密』もシャーロック・ホームズ譚張りの本格ミステリ風で始まりながら後半に入るとアルセーヌ・ルパン張りの冒険活劇になったからだ。どうやらこのあたりにルルー作品の特徴があるのではないか。怪人の印象も、物語の始まりと終わりとでは一変してしまう。このあたりに面食らった読者も少なくないのではないかと思うが、私の好みとは結構合っているので面白く読んだ。だから新潮文庫版で600ページ近くもある翻訳小説なのに1日で読めたわけだ。ただ、その代償として昨日はブログの更新ができなかった。

 5種類の文庫版のレビューをネットで概観したが、ハヤカワ文庫の日影丈吉訳のアマゾンカスタマーレビューに印象的なものがいくつかあったので以下に紹介する。

 

Hanako

★★★★☆ 異世界に入っていけます。

2006年11月2日に日本でレビュー済み

 

映画を見て、これってこういう話なんだろうか、と疑問に思い本を読んだ。

 

昔の映画や本では異形の人って良く出くる。(エレファントマンとか、お化け屋敷とか、サーカスの小人とか、見世物小屋とか。)また、個人の技術をベースにした奇想天外なカラクリは、今よりずっと複雑だったり精巧だったりする。(今はメカニックよりIT技術者がヒーローですよね。)異形も工夫もカラクリも現在は排除の方向でなかなか現実に経験できないが、本書にはそれらが普通に存在する時代の怪しい雰囲気があります。この雰囲気が好きなら読み応えがあります。そうでないと読みづらいかもしれません。

 

例えば、エリックのトリックや生い立ちは、アルセーヌ・ルパンや江戸川乱歩等、昔の推理小説怪奇小説などにも同様の雰囲気があった。精霊もフランス製の昔の作品でよく出てくるように思う。理詰めではなく怪しさを楽しめる。今より発表当時の社会の方が日常的な怪しさを許容しているので、作品のバックボーンが厚いのだと思う。読後はずっしりした感じが残る。今書かれる幻想小説とは本質的に比べられない。

 

さて、読後に気付いたのですが、なんと密室トリックの古典「黄色い部屋」の作者とのこと。それで懐かしかったのかと中学時代に戻りました。

 

URL: https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R2UL8BS8L8ZEEW

 

 この方はミュージカルではなく映画から小説に入られたようだ。ルパンや乱歩への言及があるのが良い。ただし確かにからくりものが好きでないと本作は読みづらいかもしれない。ただ、本作にあった鏡を使ってすり抜ける手口はからくりでは説明できないのではないだろうか。その疑問は残った。

 

数学ましーん

★★★★★ オペラ座の怪人とは?

2013年3月1日に日本でレビュー済み

 

歌姫クリスチーヌの急成長の裏に潜む怪人の影。

シャンデリアの落下、そこから始まるオペラ座の怪人エリックの狂乱。

連れ去られたクリスチーヌ。

追いかけるラウル・ド・シャニー子爵。

オペラ座の地下に住む怪人の正体と、物語の結末。

 

私が高校一年生の時にはまった作品で、小説を読み始めた頃の思い出深い名作です。

この頃ドストエフスキーの「罪と罰」などを読み、異世界への冒険や、その思想などを堪能し、

読書の深みに入っていくきっかけとなった一冊です。

他の訳でも読みましたが、この翻訳が一番いいです。

 

URL: https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R1DIBH48AJE2IK

 

 ハヤカワ版を訳した日影丈吉は推理作家で、私は残念ながら1冊も読んだことはないけれども、この人もまた東京の深川木場の生まれだ。怪人に囚われるヒロインの名前が「クリスチーヌ」と表記されている*1のを見て、昔の創元推理文庫では「アガサ・クリスチィ」と表記されていたことを思い出した。第一部の終わりの舞台である地上17階のオペラ座の屋上から一転して、地中にある湖への冒険なんて実に良い。また、後半で怪人が自らを青ひげ公になぞらえてクリスティーヌに警告した場面には「やはり」と思った。というのも、そのあたりを読みながら20世紀ハンガリーの作曲家にしてあの福田康夫が愛好するバルトーク・ベーラ(1881-1945)のオペラ『青ひげ公の城』(1911)を連想していたところだったからだ。あのオペラは実演もDVD等での映像も見たことがなく、CDで音楽を聴いたことがあるだけだが、音楽だけで戦慄が味わえる稀有の作品だ。バルトークのオペラでは、ユディットが青ひげ公の城の第1の扉を開けるとそこは拷問部屋であり、第6の扉を開けるとそこは「涙の湖」だったのだ。但しこのオペラが作曲されたのは『オペラ座の怪人』が書かれた翌年だから、ルルーがバルトークの影響を受けたことはあり得ない。

 Wikipediaには下記の記述がある。

 

19世紀のパリ国立オペラで起こった史実を引用し、またカール・マリア・フォン・ウェーバーの『魔弾の射手』の1841年の公演のあらすじを基にしていると考えられている[1]。これを原作として多数の映画、テレビ映画、ミュージカルなどが作られている。最も有名なものは1925年のロン・チェイニー主演映画『オペラの怪人』と1986年のアンドルー・ロイド・ウェバーによるミュージカル『オペラ座の怪人』である。

 

出典:オペラ座の怪人 - Wikipedia

 

 このうち「19世紀のパリ国立オペラで起こった史実」とはシャンデリラがオペラ座の天井から落下した事件のことだ。

 以下、劇場街 オペラ座の怪人(舞台の謎)から引用する。

 

  オペラ座の怪人は実話?

 

 創作された話とされています。
しかし、シャンデリアが落ちたのは実話です。
当時の調査では、鎖の磨耗による落下事故ということになりました。
オペラ座の地下に地底湖があるのも事実です。
オペラ座で幽霊の噂話は当時からあり、歌手が姿を消すことも、ままあったそうです。
クリスティーヌのモデルとされているのは、スウェーデン出身クリスティーヌ・ニルソン。
兄のヴァイオリンを伴奏に各地を歌って歩いたといわれています。

 

 上記引用文に「クリスティーヌ・ニルソン」とあるが、クリスティーナと表記するのが一般的なようだ*2。クリスティーナ・ニルソン(1843-1921)は実在したスウェーデン出身のオペラ歌手。没年から明らかな通り、『オペラ座の怪人』が刊行された時には引退していたとはいえ存命だった。ネット検索をかけると彼女について書かれたブログ等の記事がいくつもみつかる。下記はその一例。

 

ameblo.jp

 

 上記記事にクリスティーナがレフ・トルストイ(1828-1910)の『アンナ・カレーニナ』(1877)にも影響を与えたなどと書かれているので驚いたが、事実は『アンナ・カレーニナ』の中にクリスティーナへの言及があるだけで、別に彼女がアンナのモデルだとかそういう話ではないようだ。英語版Wikipediaには

She is mentioned in Anna Karenina by Leo Tolstoy.[28]

と書かれているのみだ。

 『オペラ座の怪人』のクリスティーヌと実在したオペラ歌手のクリスティーナ・ニルソンとの対応についても、架空の人物 Christine Daaé(クリスティーヌ・ダアエ*3/ダーエ)に関する英語版Wikipediaがもっとも正確ではないかと思われるので、以下に引用する。

 

Basis[edit]

Towards the end of his life, Leroux claimed the character was based on a real opera singer "whose real name I hid under that of Christine Daaé".[2] It is likely he was referring to the Swedish singer Christina Nilsson (1843-1921) (sometimes known as "Christine Nilsson"),[3] whose real life heavily reflects details in the fictitious Christine Daaé's history.[4][5] Nilsson, like the fictional Daaé, was born in rural Sweden, and both were discovered by a well-to-do patron performing in a Swedish marketplace: Nilsson singing along to her brother's violin playing in Ljungby, Daaé singing along to her father's violin playing in (fictitious) Ljimby. Both were taken under the protection of a family named "Valerius" in Gothenburg, and both were brought to Paris by their respective patrons for operatic training.[6][7][8] Even the rivalry between the youthful and inexperienced Christine Daaé and the seasoned veteran diva Mme Carlotta, and specifically the replacement of Carlotta with Daaé in the role of Marguerite in Gounod's Faust, loosely reflects the public competition between Christina Nilsson and the older Caroline Miolan-Carvalho over the role at the Paris Opera in 1868-1869,[9][10] even to the point of using ideas and language from contemporary reviews of Nilsson's performances.[11][12]

 

出典:Christine Daaé - Wikipedia

 

 クリスティーナ・ニルソンは45歳の時というから1888年に引退して、それ以降はフラン及び2番目の夫である貴族の出身地スペインに定住したというから、彼女の引退時に20歳だったルルーが実演を聴いたかどうかは疑わしい。彼女はサンクト・ペテルブルクで公演に出たことがあるそうだから、トルストイはほぼ間違いなく彼女の歌声を聴いたに違いないと思われるが。

 なお、スウェーデンにはクリスティーナ・ニルソンという前記19世紀の歌姫と同姓同名の現役ソプラノ歌手*4がいて、年末には来日して東京都交響楽団が演奏するベートーヴェンの第九を歌うらしい*5

 ドイツの大作曲家カール・マリア・フォン・ウェーバー(1786-1826)の最高傑作とされるオペラ『魔弾の射手』(1821)の1841年公演と『オペラ座の怪人」との関係はよくわからなかった。

 

 以下は、ネットで見たいろんな人のレビューにはあまり見かけなかったことを書く。

 それは作者のユーモアだ。読んでいて何度も吹き出してしまった。

 その最たるものは、クリスティーヌ・ダアエのライバル・カルロッタが一時失脚した理由だが、これについてはネタバレを避けて書かないことにする。だがカルロッタに限らず作者のルルーは登場人物たち全員に皮肉な視線を向けまくっているのだ。クリスティーヌを愛するラウル(ラウール)子爵など絶好のターゲットにされている。

 文庫本の裏表紙には、怪人(ファントム)が「歌姫に想いを寄せる幼馴染の子爵との仲に嫉妬しクリスティーヌを誘拐」などと書かれているが、ラウルの嫉妬深さも怪人といい勝負だ。たとえばラウルはクリスティーヌがテノール歌手とでも付き合っているのではないかと下記のように妄想する。

 

いまや、彼にはわかっていた! 目に浮かべることさえできた! それがどこかの嫌らしいテノール、口をハート形にまるめてうたう美青年なのは疑う余地もなかった。自分はお誂え向きの物笑いの種であり、じつに情けない男だった! ああ、シャニイ子爵なんてじつにくだらない、間の抜けた若者でしかなかった! そして、彼女は、なんと大胆不敵な、悪魔的にずる賢い女だったことか!新潮文庫版188頁)

 

 「怪人」エリックに対するラウルの嫉妬も強烈だ。

 

 クリスティーヌは(略)何を考えているのだろう?…… ラウルのことか?…… いや、そうではなかった。というのも、「あわれなエリック!」とつぶやく声が聞こえてきたからだ。

 初め、彼は聞き違えたのかと思った。そもそも、憐れむべき人間がいるとすれば、それは彼、ラウルだと思っていたからである。ふたりで起こったことのあと、彼女がため息まじりに「あわれなラウル!」と言うより自然なことがほかにあるだろうか? しかし、彼女はかぶりを振りながら、「あわれなエリック!」と繰り返した。クリスティーヌのため息のなかにどうしてエリックなどという輩が入りこんでくるのか? ラウルがこんなに不幸のただなかにいるときに、北国のかわいい妖精はなぜエリックを憐れんだりするのだろう?(同210-211頁)

 

 これでは怪人もラウルもどっちもどっちではないかと思って、ラウルに感情移入する気など起きなかったことはいうまでもない。優柔不断なクリスティーヌに感情移入できないと書くレビュワーも少なくなかったが、それは彼女を争う2人がどっちもどっちだから仕方ないと思った。

 またオペラ座の2人の支配人と「かわいいメグ」の母親である怪人用ボックス席の案内人の3人が繰り広げるドタバタ劇も笑えた。この母親の宿願かなってメグ・ジリーが皇后にこそなれなかったものの、物語の冒頭*6に明かされている通り男爵夫人となった。しかし、これまた冒頭に予告されていた通り、母親は作者によって亡き者にされてしまった。

 本作を原作とするミュージカルが観客にどのような印象を与えるかは知らないが、小説版に限っていえば、少なくとも後半はスラップスティックな要素もある冒険活劇であって、それを楽しめる読者でなければ受け入れられない可能性が高い。これは『黄色い部屋の秘密』の感想と同じだ。同作に続いて本作も私には結構楽しむことができた。

 アガサ・クリスティも『黄色い部屋の秘密』だけではなく本作も読んだに違いない。というのはクリスティもクリスティーヌ(ナ)同様にオペラ歌手を目指した経歴を持からだ。クリスティは『謎のクィン氏』や他の短篇集に音楽が絡む作品を結構書いている上、ルルーよりあとの人ということもあるのかもしれないが、ルルーとは違って同時代の作曲家たちの音楽もよく知っており、彼女の政治的立場とは裏腹に音楽に対する態度は結構先進的だった。クリスティ自身をモデルとしたとされるオリヴァ夫人が書いた作中作に、『オペラ座の怪人』に出てくる拷問部屋で行われたものとよく似た手法がでてくるが、あれはルルーへのオマージュだったのかもしれない。

 なお村松潔氏の翻訳は概して読みやすくて良かったが、終わり近くの575頁に「策略を労する」と書かれているのは、おそらく「策略を弄する」のかな漢字変換の誤変換ではないかと推測される。これは手書きでは起きにくい誤記なので、訳者はおそらくコンピュータの誤変換に気づかず、新潮文庫の編集部も見落としてしまったのではないだろうか。読みやすい訳文だっただけに残念だ。

 『黄色い部屋の秘密』の続編である『黒衣夫人の香り』は区内の図書館には1冊も置いてないので、ルルー作品を読むのはこれで当面打ち止めにせざるを得ないが、次はモーリス・ルブランが書いたアルセーヌ・ルパンのシリーズでも読もうかと思った。その前に、今月もクリスティ作品を読むべく図書館から借りたミステリが1冊あるけれども。

*1:他の翻訳ではすべて「クリスティーヌ」と表記されている。

*2:但しフランス風のクリスティーヌ表記もあるようだ。

*3:私が読んだ村松潔訳の新潮文庫版のみ「ダアエ」と表記している。

*4:現在33歳くらいと思われる。

*5:https://www.tmso.or.jp/j/concert/detail/detail.php?id=3678&my=2023&mm=12

*6:新潮文庫版13頁