KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

「伝ハイドン」→「伝レオポルト・モーツァルト」→「アンゲラー作」の「おもちゃのシンフォニー」をBGMにしたNHK「おかあさんといっしょ」のアニメと半世紀以上ぶりに再会した/「アルビノーニのアダージョ」は20世紀の研究家による偽作

 これまで記事にしようと思いながらなかなか書けなかったクラシック音楽関係の暇ネタを放出することにする。

 私が小学生だった1971年頃に、よくNHKの「おかあさんといっしょ」で昔ハイドン作と思われていた時代が長かったらしい「おもちゃのシンフォニー」をBGMにしたアニメーションが流れていたことがあった。私には年少の妹があり、テレビでこの番組がよくついていた。

 その後中学生になって1975年の夏休みにNHK-FMで故千蔵八郎武蔵野音楽大学名誉教授(1923-2010)が解説したクラシック音楽入門の特集が平日の5日間だったか10日間(2週間)のどちらだったかは忘れたが聴いた。この時の印象が強烈で、その後すぐに聴き始めた吉田秀和(1913-2012)の「名曲のたのしみ モーツァルトの音楽とその生涯」とともに私の趣味と嗜好を決定づけた*1。その千蔵氏の番組でだったかどうか、「おもちゃのシンフォニー」が紹介された。実は原作はハイドンではなくレオポルト・モーツァルトの作品だとも解説されたような気もするがさだかではない。現在ではエドムント・アンゲラー(1740-1794)という人の作品だということになっているが、本当にこの人のオリジナルの作品であるかどうかについては異論があるようだ*2。ほぼ間違いないのは番組に「おもちゃのシンフォニー」がかかったことで、私はそれを聴いて、あっ、「おかあさんといっしょ」で流れていたあの曲だと思ったのだった。現在ではクラシックのオーケストラがこの曲を録音してCDなりにして発売する機会はほとんどないと思われるが、ネット検索をかけたらカラヤンが1957年にフィルハーモニア管弦楽団を指揮した録音がYouTubeにあった。下記にリンクする。

 

www.youtube.com

 

 それから半世紀近くが経つ。

 この間ネット検索をかけたら、「おかあさんといっしょ」で流れていたアニメーションに関するQ&Aがいくつか引っかかった。下記は2022年のYahoo! 知恵袋へのリンク。

 

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

 

 以下引用する。

 

ID非公開さん

2022/6/5 22:51

 

45年くらい前の子供向けテレビ番組の中で、ハイドンのおもちゃの交響曲にのせて、折り紙の風車を並べた物ような模様か、幾何学模様のような物が、

あちこちランダムにパクパク開いたり閉じたりするような映像ってありませんでしたっけ?

おぼろげに消えかけている記憶で、そんな映像をうっすらと覚えています。

ナレーションや登場人物はありません。

番組はカリキュラマシーンかなという気がしていますが。

何の番組かお分かりでしたら教えてください。

できればその映像がまた見たいのですが、どこかで見れるでしょうか。

 

ベストアンサー

レンタルおっさんさん

2022/6/8 22:58

 

それ、NH教育だったような記憶があります。

 

質問者からのお礼コメント

 

NHKと教えてくださりありがとうございます。教えてくださったおかげでNHK おもちゃの交響曲と検索して分かった事がいくつかありました。71年頃?の、おかあさんといっしょの、幼児のためのアニメーションというコーナーで作られた物で、もう映像は残っていないようです。

夢のような記憶なので、夢ではない事が分かってとても嬉しいです。ありがとうございました!

 

お礼日時:2022/6/10 14:09

 

 Yahoo! 知恵袋には上記の12年前の2010年にも同様のQ&Aがあった。

 

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

 

 以下引用する。

 

joh********さん

2010/8/14 18:57

 

35~40年くらい前NHKの教育テレビで、”おもちゃの交響曲”に合わせて四角や三角が人の形になったりするアニメーションがありましたよね?

35~40年くらい前NHKの教育テレビで”おもちゃの交響曲”に合わせて四角や三角が人の形になったりするアニメーションがありましたよね?非常に短いアナログのアニメーションで、おもちゃの交響曲の第一楽章と第三楽章があったような気がします。第三楽章は鳥が、人の体をくわえて逃げていくような内容で、インパクトがあったのでいまだに記憶に残っています。先日家族でその話が出て、なんとかその映像が見たくなり、you tubeで探したのですが、見つかりませんでした。

みなさん記憶にありませんか?どこか見れるサイトはありませんか?

ベストアンサー

 

エルガーさん

2010/8/16 16:42

 

私もそのようなアニメ、すごく印象に残っています。鳥とか、三角形や四角形とか万華鏡のように出てきて、おもちゃの交響曲がそのアニメにすごくはまっていたんですよね。私も今でもこの交響曲を聴くと、じつはそのアニメを思い出すのですよ。(笑い)

 

時期としては昭和46年(1971年)くらいかな、たしか「みんなの歌」ではないのですが、「みんなの歌」とか子供向けの番組の合間にやっていたような…それも夕方頃だったかなあ…。

 

ユーチューブでもないかもしれませんし、もうNHKの“資料館”くらいの世界かもしれませんね。当時はおそらく番組として載っていたはずですから、昔の新聞の縮刷版などの番組表に、そのアニメの番組が載っているかもしれません。それでそれが番組クラスのものであれば、NHKに聞いてみれば、何か収穫があるかもしれませんね。

 

自分も当時子供でして、そのアニメとか、夕方6時からの「こどもニュース」とその時のBGMとか、6時以降の「ねこじゃら市の11人」とか、「アバラ」とかいう犬が出てくるドラマなんて、記憶にあります。

 

話しがずれて恐縮ですが、一番強烈だったのは、これもNHKですが、ニュースか天気予報の合間か何かに、こんなこわいCM(というかキャンペーン・フィラー)がありました。

あらすじは、不気味なBGMとともに子供が池で一人で遊んでいて、そのうち、池にその子が遊んでいた遊具が浮かんでいて、「けんちゃん、どこいったのかしら」という母の声という設定で、子供の水遊びは注意しましょう、なんていうテロップがすうっとでてくるのです。いまのACなんで問題にならないくらいこわかったです。

 

 ベストアンサーの最後に書かれている「こわいCM」は全く知らない。

 しかし、1971年頃にNHKの「おかあさんといっしょ」で流れていた「おもちゃのシンフォニー」つきのアニメーションはネット検索にヒットした。YouTubeではなくTikTokにあった。下記にリンクに示す。

 

www.tiktok.com

 

 質問者の方は「おもちゃの交響曲の第一楽章と第三楽章があったような気がします」と書かれているが、BGMに使われているのは第2楽章と第3楽章だ。同じ音楽が加速しながら演奏される第3楽章は印象的だ*3

 でも、不思議なことに1975年にNHK-FMでこの曲を聴いた時には、第1楽章にも聴き覚えがあった。それで思ったのは、もしかしたらこのアニメーションに別のバージョンがあったのではないかということだ。つまりもう1つは第1楽章をバックにしていたのではないか。こう考えてみると、そういえば昔からアニメーションには2種類あったって思ってなかったっけ、とも思う。

 いずれにせよ1971年頃のアニメーションとのことだから、半世紀以上経ってから再会したしたことになる。長い間生きていたらこんなこともあるのだなあ。

 以下は長い余談。おもちゃのシンフォニーの本当の最初の作者はパパ・ハイドンでもヴォルファール(ヴォルフガングの愛称。間違っても「アマデウス」ではない)のステージ・パパだったレオポルトでもなさそうだが、この時代には偽作(贋作)や疑作が多かった。モーツァルト(ヴォルファールの方)の作品がどうか疑わしいとされる曲の中には、当時のイタリアの人気作曲家だったルイジ・ボッケリーニ(1743-1805)の某作に似ていることが疑われた理由だったが、そのボッケリーニの曲自体が別人の作品(「類似ボッケリーニ」だった?)だったことが判明した例などもあるそうだ。もちろん、似ていたのが偽作だったからといって「伝モーツァルト」の作品が真作とされるようになったわけではない。

 私は1976年からバッハをはじめとするバロック音楽も聴くようになったが、その頃から別人の作品ではないかと疑っていたのが「アルビノーニアダージョ」だった。というのは、有名なこの作品を知る前に、トマゾ・アルビノーニ(1671-1751)の「オーボエ協奏曲ニ短調作品9-2」を聴き、その第2楽章アダージョに感心したことがあったのだが、そのイメージと「アルビノーニアダージョ」との印象が全く違っていたからだ。

 まずオーボエ協奏曲の方は下記。

 

www.youtube.com

 

 第2楽章アダージョは4分12秒くらいから始まる。アルビノーニはイタリアの人気オペラ作曲家だったらしいがオペラの楽譜は大部分が逸失し、現在では作品番号つきで印刷された器楽曲が主に聴かれる。しかし私の知る限り、この作品9-2のアダージョが飛び抜けて印象に残り、アルビノーニの他の作品でこれに匹敵する曲に出会ったことはない。上記リンクは現代音楽の作曲でも知られるハインツ・ホリガーオーボエとイ・ムジチ合奏団の演奏で、昔からこれが定番だった。

 一方「アルビノーニアダージョ」は下記。カラヤン指揮ベルリン・フィルの演奏だが、この元ナチ党員は本当に雑食性の人だったんだなあと改めて思う。こちらのYouTubeは24万回も再生されていて今も大評判のようだが、私には「何だ、このムードミュージックは」としか思われない。

 

www.youtube.com

 

 そういえばこの「アダージョカラヤン」というのはずいぶんな人気盤だったが私は持っていない。嘆かわしいことにこのCDで「アルビノーニアダージョ」の直前に収められているのがモーツァルトのK287のディヴェルティメント変ロ長調の第4楽章で、これはカラヤンの指揮にしては珍しく、決して悪くはないのだが、私が持っているのはジェフリー・テイト指揮イギリス室内管弦楽団の演奏で、テイト盤ではソナタ形式のこの楽章の提示部ばかりか展開部から再現部までもリピートしているのでこの楽章に10分以上をかけているので、このシューベルトばりの「天国的な長さ」の演奏の方が良いと思う。「アダージョカラヤン」で「アルビノーニアダージョ」のあとに入っているのはベートーヴェンの第7交響曲の第2楽章だが、この楽章はアレグレットであって決してアダージョではないはずだ。

 カラヤンの悪口ばかりになってしまったが、アルビノーニアダージョが偽作であることが正式に判明したのは1990年のことだったそうだ。以下Wikipediaより。

 

アダージョ ト短調』は、レモ・ジャゾットが作曲した弦楽合奏オルガンのための楽曲。弦楽合奏のみでも演奏される。1958年に初めて出版された。

この作品は、トマゾ・アルビノーニの『ソナタ ト短調』の断片に基づく編曲と推測され、その断片は第二次世界大戦中の連合軍によるドレスデン空襲の後で、旧ザクセン国立図書館の廃墟から発見されたと伝えられてきた。作品は常に「アルビノーニアダージョ」や「アルビノーニ作曲のト短調アダージョ、ジャゾット編曲」などと呼ばれてきた。しかしこの作品はジャゾット独自の作品であり、原作となるアルビノーニの素材はまったく含まれていなかった[1]

大衆文化における「アダージョ」の利用[編集]

雄渾多感な旋律と陰翳に富んだ和声法ゆえの親しみやすい印象から広まり、クラシック音楽の入門としてだけでなく、ポピュラー音楽に転用されたり、BGMや映像作品の伴奏音楽として利用されたりした。

また、日本や欧米では葬儀のとき最も使われている曲の一つでもある。ドアーズのアルバム『アメリカン・プレイヤー』収録の「友人同士の宴」では、『アルビノーニアダージョ』の編曲と思しき楽曲に乗せてジム・モリスンが詩の朗読を行なっており、イングヴェイ・マルムスティーンの『イカロス組曲』作品4は、もっぱら『アルビノーニアダージョ』を下敷きにしている。DJティエストTiësto)はアルバム『Parade of the Athletes』(2004年アテネオリンピック開会式に使用され、日本選手団の入場の際に流れていた)において、『バーバーのアダージョ』とともに『アルビノーニアダージョ』を用いた。ルネッサンスは、『アルビノーニアダージョ』に歌詞をつけて「Cold is Being」という曲にしている(アルバム『運命のカード』に収録)[2]

オーソン・ウェルズ1962年の映画『審判』(The Trial)やルドルフ・トーメRudolf Thome)監督の1970年の『Rote Sonne』、『ローラーボール』(1975年制作版)やメル・ギブソン主演の1981年『誓い』(Gallipoli)、2015年成島出の映画『ソロモンの偽証 前篇・事件[3]といった映画の伴奏音楽ないしはテーマ曲として利用されている。

1992年5月、ボスニア内戦で包囲されたサラエボ市内の市場裏で食料品を買おうとしていて砲弾の直撃で亡くなった22人の民間人死者を追悼し、その翌日から地元のチェリスト、ヴェドラン・スマイロヴィッチが「アダージョ」を22日間その場で演奏した。このエピソードを元にした小説、スティーヴン・ギャロウェイ『サラエボチェリスト』が書かれた。[4]

 

URL: アルビノーニのアダージョ - Wikipedia

 

 幸か不幸か、私は「アルビノーニアダージョ」が好きだったことは一度もなかった。偽作であることが確定していたとは今回のネット検索で知ったばかりだが、さもありなんとしか思わなかった。

*1:このうち吉田秀和の番組はモーツァルトの生涯に沿って作品を順次紹介していくもので、第1期は1974年1月に始まって1980年1月に終わった。その後モーツァルトのレコードが増えて、第1期には紹介できなかった作品も紹介できるようになったとの名目で、同じ趣向の放送が1980年4月から1987年1月までもう一度行われた。以前にも何度か書いたことだが、私が驚いたことに、この第2期の放送をほぼ毎回エアチェックした上、そのカセットテープを保存されている方がいて、2017年から現在に至るまで、録音し損ねた何度かの回を除いて第1回から1983年4月放送分までをYouTubeにアップロードされているので、今でも吉田氏の声を聴き直すことができる(それ以降の放送分も徐々にアップロードされると思われる)。NHKにはおそらく第1期の初めの頃の録音は残っていないだろうが、一般家庭にもラジカセが普及していた第2期の放送あたりは全部NHKに残っているのではないかと思われるが、そのあたりは明らかにされていない。吉田氏の没後に時々かつての放送の一部が再放送されたことがあるようなので、ある時期以降は録音が残っていることは確実だろう。しかし私が聴き始めた1975年の8月だか9月だかはわからないけれども、その時期となると残っていない可能性の方が高そうだ。第2期は非常に幸運なことに今でも初回から聴けるけれども、第1期は最終回に至るまでYouTube等で聴き直したことは一度もない。

*2:この件の論考に関しては下記URLを参照されたい。http://jymid.music.coocan.jp/kaisetu/kindersym.htm

*3:なおNHK版(?)ではメロディーの途中で加速しているが、原曲では同じ音楽がテンポを変えて、あとほど速く3度繰り返される。

「弾薬のように短気」だったモーツァルトとその苦難の人生

 モーツァルトベートーヴェンに関して、片割月さんと仰る方から2件のコメントをいただいた。反応が遅れて誠に申し訳ないけれども、以下にご紹介する。コメントを引用しようとして初めて気づいたのだが、下記のブログを運営されている。

 

nw7hvnc37uel.blog.fc2.com

 

 2021年までは下記ブログを運営されていたようだ。

 

poppy445.blog.fc2.com

 

 いずれも私の古巣である懐かしのFC2ブログだ。私は2006年4月にFC2ブログを開設し、同年7月に当初は副次的なブログとしての位置付けで「はてなダイアリー」を開設したが、2011年にFC2ブログのサーバー "fc63" がひどいトラブルを起こした。その頃から徐々にはてなダイアリーを中心に運営するようになり、現在に至っている。

 『徒然草子』の最初の下記記事を拝読した。

 

ブログの名前は「枕草子」と「徒然草」をミックスしたものですが、同じ名前のブログがいくつもあるんですね(汗)

ま、いいか。

日本の古典文学では源氏物語枕草子が大好きです。

清女、紫女はひたすら仰ぎ見る存在ですが、私は月女として、心ひとつに、おのづから思ふことを、たはぶれに書きつけんと思います。

 

URL: http://poppy445.blog.fc2.com/blog-entry-1.html

 

 私は学校では古文が一番苦手で、次いで英語と歴史が苦手でした。基本的に理系の人間でしたが、文系で唯一得意だったのは政治経済で、だからブログはその方面ばかり書いています。

 もともと理系人間だった私が現在では文系方面のことばかり書くのは、30代後半から40代前半にかけて組織内で苦難の時代を経験し、それを契機に人間に対する関心が強まったからでした。

 音楽については、子ども時代から若い頃にかけては音楽そのものにしか興味がなかったので、音楽と社会や文化との関係はほとんど考えませんでした。歳をとった今になって、やっと両者を結びつけて考えるようになり、その観点から昔大好きだったモーツァルトをみると、実に興味深い人生だったこと、それも一般に思われているイメージとは異なって、ベートーヴェンにまさるとも劣らないくらいにたいへん苦難に満ちた人生を送ったことを認識して、数十年ぶりにモーツァルト熱が再燃したというのが昨年10月末以来現在までのことです。いや、その少し前の時期にも、大のモーツァルティアンだった大岡昇平の音楽論を集めた本(珍品!)を読みながらモーツァルトを聴いたりはしていましたけど。

 片割月さんのブログの古い2011年の記事から以下に少し引用します。フィギュアスケート浅田真央さんに関する記事です。

 

昨季の「バラード」や今季の「ジュピター」もそうだが、真央選手の演技は古典派のギャラント様式、又はロココ様式の美しさを思わせる。

見る度に癒される。

 

ゴテゴテした装飾を取り除き、流麗にして風雅、簡素にして明朗。音楽で言えばモーツァルトがパリ滞在時に作曲した一群のピアノ・ソナタやセレナードのような楽想が、まるで通奏低音として真央選手の足下から聞こえてくるようだ。

 

URL: http://poppy445.blog.fc2.com/blog-entry-16.html

 

 ところがどっこい。実は私も最近認識したばかりなのですが、パリはモーツァルトにとってあらゆるヨーロッパの都市の中で相性が最悪だった都市で*1マンハイムで熱愛したアロイジア・ヴェーバーと彼女の一家にしばしの別れを惜しまれながら(とモーツァルトは勝手に思っていた)やってきたこの都市でさんざんに冷遇されたり、母親を亡くして、それをモーツァルトのせいだと思い込んだ父や姉との後年の不和の遠因になったり、果ては故郷・ザルツブルクへの帰途で立ち寄ったミュンヘンで(ヴェーバー一家はマンハイムから移転していました)アロイジアに相手にされず失恋したり(アロイジアはパリで就職できなかった無職のモーツァルトになど用はなかったと言われています)とさんざんな日々を送りました。以前はモーツァルトはパリで5曲のピアノソナタを作曲したとされていましたが、近年第10番K330から第13番K333まではもっとあとの時代の作品であることが判明し、第7番K309と第9番K311はパリに行く前に立ち寄ったマンハイムで書いていたので、パリではピアノソナタは第8番イ短調K310ただ一曲を書いただけでした。K310がどんな曲かご説明の必要はありますまい。またモーツァルトが得意とした機会音楽であるセレナードはパリでは一曲も作られませんでした。モーツァルトは手紙で、イタリア語の歌詞の歌をフランス語で歌われてはたまらない、とフランス語およびフランス人をこき下ろしています。

 ようやく本論に入る。片割月さんからいただいた2件のコメントを以下に引用する。

 

kj-books-and-music.hatenablog.com

 

片割月 

 

初めましてm(__)m

以前からkojitaken様のブログ、面白く拝見しておりました。

私はモーツァルトについては宗教音楽とオペラは素晴らしく、深い感銘を受けて来ましたが、彼の器楽曲の方はイマイチ(クラリネット協奏曲は例外的に感銘を受けましたが)でした。

が、この数年、色々と聴き込んで来まして、ピアノ協奏曲の良さも少しづつですが分かって来ました。その中では24番と25番は素晴らしいと思います。特に24番は出だしがまるでホラー映画かサスペンスドラマの効果音の如き、異様な戦慄、いや、旋律に衝撃を受けました。オペラの「ドン・ジョバンニ」の世界をも連想させます。なかなか急進的な音楽。まるで、貴族を中心とした聴衆のことなど忘れたかのような。

私はこの24番とクラリネット協奏曲が今の所、一番好きです。御存知と思いますが、クラリネット協奏曲も実はなかなか急進的というか、第一楽章の展開部や第三楽章の終結部(コーダ)における…モーツァルトとしては…異例とも言えるほどの長大さに、次のベートーヴェンを先取りした感もします。そして、クラリネットの哀愁漂う音色が曲にピッタリです。涙が流れそうな程に。

25番の「ダ・ダ・ダ・ダーン」が「運命」の動機ですか。なるほど、言われてみればそうですね。が、何とも言えないのかな。当時の作曲家達が先達の旋律や動機を「借用」したり、無意識のうちに取り入れてしまうことは良くあったそうですし。偶然も少なくなかったのではないでしょうか。

御存知と思いますが、これなどまさに、「盗作か」と思えるくらいに似ていますよね。

モーツァルト「オフェットリウム」K222
動画の1分10秒から「歓喜の歌」が流れる
https://www.youtube.com/watch?v=x82r-149QGY&t=2s

初めてなのに図々しくも長文になってしまい済みません。

また、お邪魔させて下さいませm(__)m

 

 件の「タタタターン」の4音動機ですが、「運命はかく扉を叩く」というのはベートーヴェンの自称弟子・シンドラーの捏造で、ベートーヴェンは実際にはそんなことは言っていないらしいので、以後「運命の動機」という言葉は使わないことにします。そもそも、ベートーヴェンの第5交響曲については、高校生時代に学校の図書館に置いてあった『吉田秀和全集』(白水社)中の「名曲300選」*2

私は、ベートーヴェンの作品、ことに『第五』などは、今や、標題楽的な考え方を、まったく排除してきいて、しかも傑作であることを、直接経験すべきだと思う。

吉田秀和『LP300選』(新潮文庫,1981)157頁)

と書かれているのを読んで以来、「運命」という副題を基本的に使わないことにしています。でもブログの記事では、いちいち断るのは面倒ですし。「運命の動機」は便利な言葉なので妥協して「運命」の2文字を使っていたのでした。でもシンドラーの悪行を描いたかげはら史帆さんの『ベートーヴェン捏造』も読んだことですし、今後はシンドラーなんぞに靡いてたまるかとの思いも込めて「タタタターン」または「『タタタターン』の4音動機」と表記することにします。

 で、その「タタタターン」が他の作曲家、特にハイドンモーツァルトが多用していた事実は確かにありますし、そのことはこのブログにも何度も書いたのですが、モーツァルトのピアノ協奏曲第25番の第1楽章には楽章全体がこのリズムパターンで統一されている点に特徴があり、ベートーヴェンの第5交響曲はそのコンセプトを一つの楽章だけではなく曲全体を統一するところに新しさがあったと思ったのでした。つまり、ベートーヴェンが得意とした構造美についてもモーツァルトは先駆者だったことを、ブログ記事中に引用した他の方が書いた文章を通じて認識した次第です。もっとも、そういう点ではハイドンの音楽により先駆的な作品が多く見出されるとも思いますが(ハイドンには実に実験的な作品が多く、感心させられます)。

 それから「第九」の「歓喜の歌」と同じ節が出てくるモーツァルトのK222、ニ短調のオッフェルトリウムは、調性が同じレクィエムK626の先駆的作品として知られていますが、ネットで調べてみるとこの曲をベートーヴェンが実際に知っていた可能性がかなりあるようです。

 

note.com

 

 以下引用します。

 

ベートーヴェン交響曲第9番の主題となる歓喜のメロディーの最初の形は、1794~95年作の歌曲「愛されない男のため息-応えてくれる愛」(相愛)に現れます。この歌曲を第1歩として、1803年には歌曲「人生の幸せ」(「友情の幸せ」)、1808年のピアノ、合唱と管弦楽のための幻想曲ハ短調「合唱幻想曲」に、1810年の歌曲「彩られたリボンで」に、1819年の歌曲「さあ、友よ結婚の神を賛美せよ」(結婚歌)に1822年の歌曲「盟友歌」にと、1本の赤い糸のようにベートーヴェンの作曲活動の間をぬってきています。(1)

 

 モーツァルトのオッフェルトリウム「ミセリコルディアス・ドミニ」K.222にベートーヴェン歓喜の歌のメロディーが現れることが知られていますが、音楽史年表からベートーヴェンモーツァルトのこのモテットの主題を使用したのではないかとの仮説が得られます。

 

 1775年、モーツァルトはこのモテットをバイエルン選帝侯の依頼によって作曲しましたが、その初演の1月半の後、ウィーン宮廷のマクシミリアン・フランツ大公がザルツブルクを訪れ、モーツァルトは歓迎のために牧歌劇「羊飼いの王」K.208を作曲し、上演しています。マクシミリアン大公は1768年に12歳のときにウィーンでモーツァルトの孤児院ミサ曲K.139を聴き大きな感動を得て、それ以来皇帝ヨーゼフ2世とともにモーツァルトを擁護していました。モーツァルトは孤児院ミサ曲以来7年間の教会音楽における自身の作曲者として成長を示すために、このオッフェルトリウムの楽譜をマクシミリアン大公に奉呈したのではないかとみられます。

 

 後に、マクシミリアン大公はケルン大司教・選帝侯としてボンに赴任しますが、ボンを新たな音楽の都にするために、モーツァルトの歌劇を含めた多くの楽譜がボンに持ち込まれました。ボンに新たに創設された宮廷楽団には、ビオラ奏者として若きベートーヴェンが加わりますが、ベートーヴェンは宮廷音楽家として多くのモーツァルトの作品を演奏します。この折にベートーヴェンモーツァルトのモテットのメロディーを書き留めたとしても不思議ではありません。なお、この時代、作曲者が他の作曲者の主題を利用し作曲することはよく行われていたことですし、変奏曲の主題に他の作曲家の主題を用いることも多く行われていました。

 

音楽史年表より】

1775年3月初旬初演、モーツァルト(19)、オッフェルトリウム「ミセリコルディアス・ドミニ(主のお憐れみを)」ニ短調K.222

ミュンヘンの選帝侯礼拝堂で初演される。バイエルン選帝侯マクシミリアン3世の所望に応じて、自らの対位法的力量を示すべく作曲される。(2)

この曲の中でバイオリンが度々、ベートーヴェン交響曲第9番の終楽章の歓喜の歌の旋律をかなでる。(3)

 

URL: https://note.com/ahayakawa500/n/na31c83ba7def

 

 K222では「歓喜の歌」の旋律は、最初はヴァイオリンでニ短調の平行長調であるヘ長調で奏されますが、最後はニ短調で繰り返し出てくるので、音楽は当然ながら「第九」よりは「レクィエム」の世界にずっと近いです。メロディーについては、中田章が作曲した「早春譜」やそれに似ているとよく言われる「知床旅情」がモーツァルトの「春への憧れ」K596やその原型であるピアノ協奏曲第27番K595の終楽章のロンド主題と同じように、あるいはモーツァルトの「バスティアンとバスティエンヌ」K50の序曲とベートーヴェンエロイカと同じように、分散和音か二度音程の繰り返しかの違いこそあるもののありふれたメロディーなので、偶然似てしまった可能性が強く、ベートーヴェンの第5交響曲のスケッチにモーツァルト第40番のフィナーレのメロディーが書かれていたらしい例(こちらはほぼ確実にモーツァルトからの「引用」であろうと推測されます)とは違います。ただ、調性も異なり楽譜も流布していなかったであろう「バスティアンとバスティエンヌ」序曲(ト長調)とエロイカ変ホ長調)の場合はほぼ間違いなく偶然だろうと思いますが、K222と「歓喜の歌」とは本当に判断がつきません。なおエロイカの場合はむしろモーツァルトの第39番K.543の第1楽章の方が類似性が高いのではないかとも思います。同じ変ホ長調ですし。K222はヘ長調ニ短調で「歓喜の歌」はニ長調であるところが意味深です。ニ短調は第9の第1,2楽章の調性ですし。でもベートーヴェンが「歓喜の歌」の節を使おうとした先例として有名な合唱幻想曲作品80ではハ長調で出てきますから、それを考えるとやっぱり偶然かなとも思います。もっとも合唱幻想曲の節は同じベートーヴェンの曲の割にはモーツァルトのK222と比較しても「歓喜の歌」に似ていないようにも思いますが。

 片割月さんからはもう1件コメントをいただいている。

 

kj-books-and-music.hatenablog.com

 

片割月 

 

kojitaken様、こんばんは。

>私がモーツァルトにはまったのは中学生時代の1975年で
>このうち第5番は亡父が大好きだった曲の一つで、しょっちゅうこの曲のレコードをかけていた。

この辺り、私自身の経験からも、その時の様子が分かるような気がします。

私の場合は母がベートーヴェンの「田園」「運命」「バイオリンと管弦楽のためのロマンス・ヘ長調」「ドボルザークの「新世界」「8番」等を聴いていましたので、その影響を受けました。小学4年から中学にかけて、これらの音楽家の曲を起点としてクラシックに魅了されて行きました。

kojitaken様の場合はモーツァルトに限らず、幅広く聴かれていたのでしょうね。

専門家のどなたかが言っていたと記憶していますが、私のように子供の頃に最初にベートーヴェン交響曲に魅了され「ベートーヴェン耳」になる例もあれば、最初にモーツァルトの「ジュピター」「40番」等に魅了され「モーツァルト耳」になる例があり、両者はその後のクラシック音楽への好みが分かれるとか。

私の場合はその後、ワーグナーブラームスチャイコフスキー等の音楽へと向かい、なかなかモーツァルトハイドンには向かいませんでした。「ベートーヴェン耳」には彼等の交響曲の素晴らしさがなかなか。。。今もまだダメです(^-^;

トルストイと「クロイツェル・ソナタ」ですが、ドストエフスキーは「熱情ソナタ」が好きだったそうです。手紙か何かで語っていたので事実でしょう。

ロシアの両文豪が揃ってベートーヴェンを聴いていたというのは面白いですね。

もう少し書きたいのですが、キリが無いのでこの辺りでやめます。

ありがとうございました。

 

 実は私が小学校4年生の時に1枚だけ父に与えられたレコードはドヴォルザークの『新世界より』だったのでした。

 その後中学校1年生の頃に十何枚かのレコードを貸してもらって、最初に気に入ったのはメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲でした。ベートーヴェン交響曲第3,5,9番のレコードがありました。

 ですが、ベートーヴェンの場合は、ことに第5交響曲に対して、前記の吉田秀和が言う「標題楽的な考え方を、まったく排除してきいて、しかも傑作であることを、直接経験す」ることは、子ども時代の私にはどうしてもできませんでした。例の「苦悩を貫いて歓喜へ」というモットーだかプログラムだかを押し付けられるかのような抵抗がありました。そんなこと言ったって人生の最後は「死」じゃないかと思ったのでした。しかもベートーヴェンにはトルストイに「不道徳」と非難されたクロイツェル・ソナタやそれと同質の情念を私に感じさせる、ドストエフスキーが好んだとおっしゃる熱情ソナタのような作品もあるし、何よりベートーヴェン自身の晩年のピアノソナタ弦楽四重奏曲は決して「苦悩を貫いて歓喜へ」の音楽とはいえないわけです。

 その一方で、ベートーヴェンは「元祖モーツァルティアン」のような人でした。私はその観点からベートーヴェンへの関心を強めていきました。モーツァルトは1791年に悲惨な死に方をしましたが、1827年に死んだベートーヴェンの晩年にはサリエリ(1825年死去)がモーツァルトを毒殺したことを悔いて精神に異常をきたしたなどの噂がウィーンを駆け巡ったことからもうかがわれる通り、モーツァルトは既に大作曲家として認められていました。それには、ピアノ協奏曲第20番ニ短調K466のカデンツァを作ったベートーヴェンの貢献も大きかったのではないかと思います。

 ベートーヴェンは耳疾という音楽家として最大級の苦悩を経験したけれども、モーツァルトにも就職に苦しんだための生活苦をはじめとする別種の苦悩があったのでした。

 その性格においても、モーツァルトベートーヴェンと同じくらい短気で怒りっぽい人でした。たとえば、英語で書かれた下記記事(2006年7月24日)の冒頭の文章は、最近私が持つようになったモーツァルトのイメージに近いです。

 

www.newyorker.com

 

Wolfgang Amadè Mozart, as he usually spelled his name, was a small man with a plain, pockmarked face, whose most striking feature was a pair of intense blue-gray eyes. When he was in a convivial mood, his gaze was said to be warm, even seductive. But he often gave the impression of being not entirely present, as if his mind were caught up in an invisible event. Portraits suggest a man aware of his separation from the world. In one, he wears a hard, distant look; in another, his face glows with sadness. In several pictures, his left eye droops a little, perhaps from fatigue. “As touchy as gunpowder,” one friend called him. Nonetheless, he was generally well liked.

 

URL: https://www.newyorker.com/magazine/2006/07/24/the-storm-of-style

 

 小男で顔に天然痘にかかった痕のあばたがあるモーツァルトは「弾薬のように怒りっぽい」人だったというのです。

 記事に添えられた、左利き*3モーツァルトを描いた漫画には

Scholars now see Mozart not as a naïve prodigy or a suffering outcast but as a hardworking, ambitious musician.

と書かれています。勤勉で野心的な音楽家。現在の日本人でいえば野球のことしか考えていないように見える大谷翔平選手みたいなあり方といえるでしょうか。

 またモーツァルト自身も

私の芸術の実践が簡単になったと思うのは間違いだ。 親愛なる友よ、私ほど作曲の研究に力を注いだ者はいないと断言しよう。私が頻繁に、そして熱心に研究しなかった音楽界の有名な巨匠はほとんどいないのだ。

と言ったらしいです*4

 モーツァルトは "Wolfgang Amadè Mozart" と署名していました。昨日、白水社の『モーツァルト書簡全集』の一部を図書館で少し読みましたが、「ヴォルフガング・アマデー・モーツァルト」と訳されていました。モーツァルトの先例名は "Johannes Chrysostomus Wolfgangus Theophilus Mozart" といいますが、これはラテン語の名前で、このうち「神に愛された」という意味の Thephilus に相当するイタリア名が Amadeo で、イタリア旅行した時にモーツァルトは「アマデーオ」と呼ばれました。モーツァルトはそれを気に入りましたが、そのままだといかにもイタリア風なので o をとってフランス風に Amadè と名乗ったものらしいです。ちなみにドイツ名だと Gottlieb(ゴットリープ)になります。下記Xが書く通りです。

 

 

 だから石井宏が『モーツァルトは「アマデウス」ではない』(集英社新書,2020)などと書くわけですが、考えてみたらイタリア人ながらウィーンで「モーツァルト殺し」と噂されながら精神に異常をきたして死んだサリエリも不運な人です。私が連想せずにはいられないのは、中国ではトップのグループに入れないために世界各地に散り散りになっている卓球選手たちのことで、たとえば今年のパリ五輪代表に選ばれた張本兄妹も中国系の選手です。最初にこれを認識したのは2004年のアテネ五輪団体戦福原愛とフルゲームの激戦を演じて惜敗したオーストラリア代表のミャオミャオ(苗苗)選手(私は福原選手よりもこの選手の方を応援していました)や、その次のアメリカ選で対戦して福原選手が4-0でストレート勝ちしたガオジュン(高軍)選手を知った時でした。彼ら彼女らは「鶏口となるも牛後となるなかれ」を地で行っているわけですが、そのオペラ作曲家版がサリエリたちではなかったかと。なお図書館にはサリエーリの伝記(以前弊ブログで紹介した「サリエリモーツァルト」を書いた水谷彰良氏が2004年に音楽之友社から出した『サリエーリ モーツァルトに消された宮廷楽長』というタイトルの本)も置いてあったので、暇な時というか今月最後の月曜日に休みをとる予定なので、その3連休のタイミングあたりにでも借りて読もうかと思っています。モーツァルトの現存する最後の書簡にサリエリとその愛人を『魔笛』のボックス席に招待し、サリエリがブラヴォーを連発したことが書いてあるのは事実で、昨日はそれを『モーツァルト書簡全集』の最終巻(第6巻)で確認してきました。どう考えてもサリエリモーツァルトを殺す動機はないわけですし*5、それどころかモーツァルトを殺してしまったら自らがブラヴォーを発し、かつ自らの地位を脅かす恐れがなくなった(なぜなら宮廷楽長は終身職だから)モーツァルトの新曲はもう聴けなくなるわけですから、サリエリ犯人説はまずあり得ないと思われます。仮にモーツァルトの死因が本当に毒殺であったとしたら、貴族に反逆的だったモーツァルトを狙った極右の犯行ではなかったかと想像する次第です。

 「モーツァルト耳とベートーヴェン耳」の話は面白いですが、それよりも1970年頃に見られた劇的な社会構造の変化が人心をも変えたのではないかと私は思っています。大阪万博のあった1970年にはまだこの年が生誕200年のアニヴァーサリーイヤーだったベートーヴェンの天下でしたが、翌1971年から吉田秀和NHK-FMの番組『名曲のたのしみ』でモーツァルトを取り上げ始め、それとほぼ時を同じくして朝日新聞に「音楽展望」のコラムを書き始めた頃から様相が変わり始めたのではないかと思います。私がクラシックを聴き始めた1974〜75年頃あたりがベートーヴェンからモーツァルトへの人気ナンバーワンの交代期だったように思いますが、1970年頃からの世相はというと「モーレツからビューティフルへ」という富士ゼロックスのCMが放送されたのが1970年で、1971年のドルショック、1973年の石油ショックと続いてこの年に高度成長経済が終わり、1974年から翌75年にかけてはスタグフレーション(不況下の物価高)が起きました。

 私にベートーヴェンの5枚(交響曲第3,5,9番とヴァイオリン協奏曲、それにピアノ協奏曲第5番「皇帝」。そうそう「ロマンス第2番」もありました)のレコードを貸してくれた父も、1970年代半ば頃にはどう思い出してもベートーヴェンよりモーツァルトを多く聴いていました。記事に書いたヴァイオリン協奏曲第5番の他に覚えているのは、弦楽三重奏のためのディヴェルディメント変ホ長調K563と、K313,314のフルート協奏曲/オーボエ協奏曲*6などでした。父は他の作曲家ではブルックナーシベリウスが好きで、ブルックナーでは第4番「ロマンティック」、シベリウスでは「フィンランディア」ばかりかけていましたね。私はブルックナーでは第7,8番をごくたまに聴く程度で、シベリウスは「フィンランディア」はあまりにもベタなので敬遠していますが、それと同様のコンセプトで書かれたと思われる第2交響曲には結構燃えます。このあたりは私にもそれなりにナショナリスティックな部分も多少はあるんだろうなとうすうす自覚する一方、あれを「シベリウスの田園交響曲」などと評した音楽評論家たちはバッカじゃなかろかルンバ♪、と少年時代の昔から思っていました。

 モーツァルトに関しては、ベートーヴェン以降との断絶よりもモーツァルトベートーヴェンの連続性の方に興味があります。今日は本当はオペラ『ドン・ジョヴァンニ』を題材にして「闘うモーツァルト」をテーマに記事を書こうと思っていましたが、その前段階を書き終えたところでもう1万字を超えたので、それは次回以降に回します。

 そうそう、書き忘れてましたが、モーツァルトベートーヴェンの時代にはフランス革命がありました。1970年から180年前の1790年頃にヨーロッパでは大きな社会構造の変化であり、ベートーヴェンが自立した音楽家として成功できたのはそのおかげもあったと思います。ギリギリでその恩恵に浴することができたのが晩年のハイドンで、彼は長年のハンガリー勤めから解放されたあと、渡英して自立した作曲家として成功してウィーンに戻りました。晩年の弦楽四重奏曲からは故モーツァルトや若いベートーヴェン何するものぞ、という気迫が感じられますが、70歳を少し過ぎた頃に健康に問題が生じたものか、晩年の輝きは長続きしなかったようです。モーツァルトは残念ながら早く生まれ過ぎました。晩年の1789年から1790年にかけてはスランプの時期で、ようやく1791年に力を取り戻したかと思われた時に死の病(あるいは毒物?)に倒れてしまいました。

 1810年代以降の反動の時代には作曲家(や指揮者?)の権力ばかりが増すようになって、クラシック音楽の世界に権威主義が広がっていったのではないかとの仮説を立てています。1790年までの王侯や貴族の支配に代わる別の権威主義が幅を利かせたのが19世紀のドイツを中心とする芸術音楽の世界だったのではないでしょうか。その中でも特に問題含みだったのが自らも反ユダヤ思想を持っていたワーグナーではなかったかと思いますが、幸か不幸か私がワグネリアンになることはありませんでした。

*1:モーツァルトと相性がもっとも良かった都市はプラハ、また作曲でもっとも大きな影響を受けた国はイタリアだった。

*2:新潮文庫版の『LP300選』(1981)が手元にあるが、書かれたのは1961年。

*3:ベートーヴェンも左利きだったらしい。ともに短気な小男だったことを含めて、よくよくこの2人には共通点が多い。

*4:https://avareurgente.com/ja/ren-sheng-yi-chan-soshite100notian-cai-vuoruhugangumotsuarutoming-yan-ji

*5:モーツァルトにはサリエリを殺す動機はあったわけで、ミステリなら『魔笛』のボックス席でモーツァルトサリエリのグラスに毒薬を入れるのを見たサリエリモーツァルトが目を逸らした隙にグラスを差し替えた、などと想像することもできようが、さすがにリアリティが全くない。

*6:K313がフルート協奏曲第1番、K314が同第2番だが、後者はその原曲であるオーボエ協奏曲の楽譜が発見されたために両方の形態で演奏される。

小澤征爾死去 〜 小澤と武満徹、小澤と大江健三郎、小澤と村上春樹の3冊の対談本が面白かった

 小澤征爾が亡くなった。

 私は小澤の音楽との相性が必ずしも良くなくて、ブログに名前を出したこともほとんどないし、CDも数えるほどしか持っていない。Macのミュージックに入れたのもチャイコフスキーの『白鳥の湖』全曲盤とチェロのムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(1927-2007)と組んだショスタコーヴィチプロコフィエフグラズノフらを入れた2種類のCDくらいのものだ。後者は1枚がショスタコのチェロ協奏曲第1番とプロコフィエフの交響的協奏曲をカップリングしたCDで、もう1枚がショスタコの協奏曲第2番とグラズノフの「吟遊詩人の歌」、それにチャイコフスキーの「アンダンテ・カンタービレ」、これはもとは弦楽四重奏曲の第2楽章だったのをチェロと管弦楽のための編曲したバージョンが収められたCDだ。前者のエラート盤の方が録音が新しく、といっても1987年の録音だが、1988年末に買って1989年の初め頃にかけてよく聴いていた。前の前の元号が終わる直前、つまりあの元号で区切られた時期の最後に聴いたのがこのCDの後半に収められたショスタコーヴィチだった*1志位和夫*2さんおめでとう(笑)。それから第2番の方は1977年の録音だが、ドイツ・グラモフォンの輸入盤(廉価盤のシリーズに収められていた)を買った。ネットで検索したらグラズノフの曲を途中までアップロードしたTouTubeがあったので以下にリンクする。小澤よりもロストロポーヴィチを聴く演奏ではあるが。

 

www.youtube.com

 

 小澤征爾は彼が指揮する音楽よりも武満徹(1930-2006)、大江健三郎(1935-2023)、村上春樹(1949-)と対談した本がとても面白かった。ただ、大江も村上も私が長年苦手としていた小説家だ。村上春樹は2012年頃から少しずつ読むようになって今では彼の長編を半分以上読んだが、大江は昨年亡くなったあとにやっとこさ『万延元年のフットボール』(1967)を読んで感心し、これからもっと読まなきゃと思っている。武満徹は結構好きでCDも何枚か(たしか10枚近く)持っているが、どういうわけか泉健太支持者のnaoko氏が「ヘビロテ」していたという小澤指揮サイトウキネンオーケストラによる「ノヴェンバー・ステップス」その他を収録したCDは持っているものの苦手で、Macのミュージックにも入れていない。もしかしたら今聴き直したら新しい発見があるのかもしれないが。

 

 

 ああ、あと2002年のニューイヤーコンサートからとったソニーのCDも持っている。ニューイヤーコンサートは今年は能登地震のためにNHKの番組が流れたが、例年惰性で視聴している。でもあれは基本的にウィーン市民のためのコンサートであって、他国の人間が気晴らしで視聴するくらいは構わないけれどもあんなものを権威として崇め奉る必要なんか全くあるまい。少なくとも私の趣味には全く反する。だから小澤の指揮に限らず、ヨハン・シュトラウスのワルツやポルカを聴きたいなんてそうそう思わないからミュージックにも取り込んでいない。一時期あの会場にもずいぶん日本人とおぼしき人たちが目立ったが、そのせいでチケットが取りにくくなるウィーンの人たちが気の毒だといつも思っていた。

 しかし小澤の言葉や感性は面白い。思考や感性が違うために、意外性があって非常に面白いのである。また小澤と話が通じた武満徹大江健三郎村上春樹の3人にも感心した。以下に私が持っている3冊の小澤の対談本の出版社のサイトをリンクする。

 

www.shinchosha.co.jp

 

 これは単行本初出が1981年で新潮文庫入りしたのが1984年。私は2001年*3発行の第9刷を持っている。若い頃の小澤や武満の写真がたくさん載っているし、文庫本の巻末には細野晴臣の解説文が載っている。そうそう、この対談が行われた頃に小澤が指揮するベートーヴェンの第9を日比谷公会堂に聴きに行ったことがある。それから1978年に小澤が中国に行ってブラームスの2番を中国のオーケストラ団員に教えた話が出てくるのも懐かしい。確かTBSで番組をやっていた。中国で毛沢東の虎の意を借りて手下の「四人組」とともに恐怖政治を敷いていた江青は、西洋音楽を禁じたばかりか中国の音楽も政治的宣伝に資するもの以外はすべて禁じたとのことで、毛沢東が死ぬ直前の1976年4月5日に江青らが引き起こした弾圧事件を当時は「天安門事件」と呼んでいたが*4、小澤はそれに言及している。このあたり、ヒトラースターリンに並び称されるべき極限の権威主義の弊害がいかに悲惨だったかを改めて思わせる。

 

www.chuko.co.jp

 

 こちらは2000年に行われた対談、単行本初出が2001年、中公文庫入りが2004年で、私は2012年発行の文庫本第3刷を持っている。私が過去に更新していた、現在では放置状態にあるブログの記事でこの本に言及したことがある(下記リンク)。2013年11月25日の公開。

 

caprice.blog63.fc2.com

 

 最後は小澤と村上春樹との対談本。

 

www.shinchosha.co.jp

 

 この本については『kojitakenの日記』で取り上げたことがある(下記リンク)。2014年8月3日の公開。

 

kojitaken.hatenablog.com

 

 最後に、小澤を長く取材してきたという朝日新聞吉田純子編集委員が書いた朝日新聞デジタルの有料記事のプレゼントを以下にリンクする。

 

digital.asahi.com

 

 URLの有効期限は2月11日の9時46分とのこと。それ以降は有料部分は読めないので、以下に無料部分を引用する。

 

少女の死に涙した小澤征爾さん 幸福と孤独を抱えたパイオニアの素顔

編集委員吉田純子 2024年2月9日 21時00分

 

 世界的指揮者小澤征爾さんが88歳で死去しました。長く取材してきた吉田純子編集委員が、その素顔を振り返ります。

 

 小澤さんはとても涙もろいマエストロだった。小澤さんの涙をいったい何度見たことだろう。うれしいときも、悲しいときも、悔しいときも、感情をあらわす言葉をまだ持たぬ子どもさながらに、すぐに大きな目いっぱいに涙をためた。

 

 その感情の振れ幅の大きさと深さこそが、小澤さんの音楽の本質とシンプルに連なっていることは言うまでもない。

 

 とりわけ、生涯の盟友だった山本直純について語りはじめると、たちまちのうちに目が充血した。2002年に山本が亡くなったあとも、必死の形相で涙をこらえながら記者にまくしたてたことがあった。

 

 「きみたちは、ナオズミがどれほど天才だったのか本当にわかってるの? あの『大きいことはいいことだ』って、気球の上から100人くらいの合唱を指揮してるコマーシャル(森永エールチョコレート)、あの大振り、あれはただのラジオ体操じゃないんだ。あの大きな振り幅で、しっかり打点をおさえ、大勢の人を束ねるのって、実はすごいことなんだよ。少なくとも僕にはあんなことできないよ」

 

 あの時の涙は、単なる悲しみではなく、真実の才能が商業主義の世界に消費されてゆく時代への悔しさ、憤りの涙だったように、今となっては感じられてならない。

 

楽屋を訪ねてきた若い夫婦

 

 2000年の夏、長野県松本市で開かれていたサイトウ・キネン・フェスティバル松本(現セイジ・オザワ松本フェスティバル)で楽屋でインタビューをしていた時にも、思いがけなく小澤さんの涙を見た。

 トン、トンと扉がノックされ…(以下有料)

 

朝日新聞デジタルより)

 

URL: https://www.asahi.com/articles/ASS296D21S29ULZU005.html

 

 山本直純が司会を務めていたTBSの『オーケストラがやって来た』(1972〜1983)はよく見ていた。関西だったので最初は6チャンネルの朝日放送だったのが1977年4月から4チャンネルの毎日放送に代わったはずだが、4チャンネルになった頃にはもう見なくなっていた。日本船舶振興会のコマーシャルで山本が笹川良一のお先棒を文字通り「担いだ」のを見て以来、山本を嫌うようになっていたからだ。山本は、笹川の先棒担ぎが災いしたか、その後「交通違反スキャンダル」などを犯して世間のイメージも悪くなり、没落していった。以下Wikipediaより。

 

口ひげと黒縁メガネがトレードマークとして知られ、その自由奔放なキャラクターから、タレントとしての一面も備えていた。森永製菓「エールチョコレート」のCMソング『大きいことはいいことだ』、日本船舶振興会(当時)の『火の用心の歌』を手がけた際には、自らCMに出演したほか、NHKや民放の音楽番組やバラエティ番組にもゲストとして度々出演した。

音楽関係者の間では「日本の音楽普及に最も貢献したひとり」として高く評価されている。だが一方で、生前は周囲とのトラブルや、1978年8月6日に起こした交通違反スキャンダル[注 2]などでのマイナスイメージもあり、生前はその多大な功績に比して世間から必ずしも高い評価を得られない一面もあった。晩年はアマチュアオーケストラのジュニア・フィルハーモニック・オーケストラの指導にも特に力を注いだ。岩城宏之とは無二の親友であった。1999年には、妻の心臓発作を機にキリスト教カトリック)に入信している。洗礼名はフランシスコといった。こどもさんびか改訂版に「せかいのこどもは」(作曲)を残している。

1998年に鹿児島県南種子町で開催された「トンミーフェスティバル」において作曲を手がけたことが縁となり、楽譜をはじめとした資料、楽器、生活家具などが同町へ寄贈され、南種子町郷土館内に「山本直純音楽記念室」が開設された[1]

2002年6月18日急性心不全のため死去。享年69歳。墓所は品川区高福院

 

出典:山本直純 - Wikipedia

 

 私は「大きいことはいいことだ」というコマーシャルも嫌いだった。そして山本が著書で大々的に推していたブラームスの第1交響曲が、私にとっては好きな曲が多いこの作曲家の作品の中では例外的に「全く合わない」作品だった(それは今も同じで、昔ほどではないが相変わらずこの曲が相当に苦手だ)。このように、音楽には合う合わないの要素が強い。何のせいでそうなっているのかは全くわからないが、こればかりはどうしようもない。

 朝日の吉田記者が書いた記事の有料部分に少し触れておくと、前記ロストロポーヴィチに加えて、ピアニストのマルタ・アルゲリッチにも小澤は信頼されていたと書かれている。確かにアルゲリッチと小澤との共演は良かった印象がある。CDにはなっていないと思うが、ショパンの協奏曲第2番は良かった。もっともあの曲はオーケストレーションがかなり貧弱だと言われることが多い。

 それから吉田記者も書く通り、小澤でもっとも定評のあるのはフランス音楽だった。実は私はベルリオーズがかなり苦手で、気に入ったのは『幻想交響曲』と『ファウストの劫罰』くらいのものだったが、近年、というか20年ほど前から日本のクラシック音楽受容における「ドイツ音楽帝国主義」に抵抗を感じるようになっていた(だからこそ、かつてあれほど聴いたモーツァルトからもつい昨年秋までは疎遠になるに至っていたのだった)。それにもかかわらず、いわゆる印象派ドビュッシーラヴェルには昔から親しんでいたが、それ以前のフランス音楽には、フォーレの音楽やフランクのヴァイオリンソナタなどの例外はあるものの、あまり親しんでこなかった。

 昨年、大江健三郎の死を契機に大江の小説を読もうと思ったのと同じように、小澤征爾の死をきっかけに小澤が指揮したフランス音楽を聴いてみようかと思った。

*1:あのように人の死、それも権力を象徴する人物の死で時代を区切ること自体が論外だと私は思うが、それはひとまず措いておく

*2:委員長を退いた現在も依然として日本共産党における実質的な最高指導者として権力を行使している人物が深く敬愛しているのがショスタコーヴィチだ。

*3:新潮社は基本的に保守反動の会社なのでこれらの年数はすべて元号で表記されているが、ここではそれらを西暦に書き改めた。以下同様。

*4:現在では1989年6月4日に鄧小平が引き起こした天安門事件と区別するために「四五天安門事件」または「第一次天安門事件」と呼ばれているようだ。

「いつも何かを欲しがっているということは、あなたを不幸にする」と言ったモーツァルト弾きのピアニスト、マリア・ジョアン・ピレシュと、「業界を飼いならし、権力を手中に収めるという方法」をとった日本を代表するピアニスト中村紘子

 マリア・ジョアン・ピレシュ(1944-)というポルトガル出身の女性ピアニストがいる。もう引退したが、29歳だった1974年に日本のDENONレーベルにモーツァルトピアノソナタ全集をPCM録音したため、1970年代にNHK-FMで彼女の弾くモーツァルトがよくかかったのを覚えている。その頃は「マリア・ジョアオ・ピリス」と表記されていた。私は先年、ピレシュが1970〜80年代にフランスのエラートレーベルに録音した17枚組のCDを安売りで買った。内訳はバッハの協奏曲1枚、モーツァルトの協奏曲6枚とソナタ1枚、ベートーヴェンソナタ2枚、シューベルトソナタ2枚と連弾曲1枚、ショパンの協奏曲1枚と前奏曲及び珍しい作品14のクラコーヴィアク、それにワルツ集が各1枚(計2枚)、最後にシューマンの子どもの情景(トロイメライを含む)、森の情景(村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』に出てくる「予言の鳥」を含む)、その他を含めた1枚。残念ながら弊ブログに取り上げたモーツァルトの協奏曲第24番(ハ短調K491)と第25番(ハ長調K503)はいずれも録音されていない。やはりこの2曲はモーツァルトのピアノ協奏曲の中でもちょっと特殊な位置にあると思う。

 そのピレシュが引退直前の頃のインタビューに、先年亡くなった日本のピアニスト、中村紘子(1944-2016)との対比が書かれていて興味深かったので、それを紹介したい。といっても私はアンチ中村紘子の人間だったので故人へのdisりが多分に含まれることをあらかじめお断りしておきたい。

 

 以下引用する。まずピレシュ(ピリス)にインタビューした時の書き手の感想から。

 

ピリスさんがコンサートピアニストとしての活動からの引退を決めたその主な理由は、74歳という年齢を迎える今、常にストレスに押しつぶされかけながら生きなくてはならないコンサートピアニストとしての生活から離れたいからということ、そしてその時間を、社会や人のためになるクリエイティブな活動のために使いたいから、ということのようです。
根本にあるのは、記事のタイトルにもしましたが、「手に入れた何かを自分だけのものにとどめておけば、それはすぐ役に立たないものになってしまう」という考えでしょう。それは経験なのかもしれないし、持って生まれた才能のことかもしれない。もちろん生き方や価値観は人それぞれですが、自分はなんで生きてるのかなーと思った時の一つの答えはここにあるかもしれないですね。

 

そんなピリスさんが真剣な表情で語っていたことのひとつは、やはり今の音楽業界についての懸念でした。音楽やピアノを通して自分は世界を知った、それだけが音楽をする目的だというピリスさんにとっては、戦後、芸術と商業主義が結びついて勢いを増していったアーティストを取り巻く環境が、どうにも居心地が悪かったということのようです。(資本主義社会では、もうだいぶ大昔からそうだったのではないかという気もしますけど、度合いが増しているのは確かかもしれません)

 

(中略)

 

あとはピアノや音楽の話題に加えて、やっぱり人生についての質問をしたくなってしまって。文字数の都合で記事に入れられなかったくだりの一つをご紹介したいと思います。
人間とは欲深い生き物で、安定や成功を手に入れることに気をとられていると、いざそれを手に入れても、結局もっともっとと次の何かを求めることになってしまう。永遠に満足しないことは、向上心があるということでもあるけど、あんまり幸せじゃないことのような気もするんですが。
そんなことを言ったら、ピリスさんはこう言いました。

 

いつも何かを欲しがっているということは、あなたを不幸にすると思います。いつも何かに落胆するし、もっと欲しいと思い続けているうちに他人と協力し合わなくなる。そのままの人生を受け入れるという心構えさえ自分の中に持つことができれば、一定の幸せというものの存在を感じて生きることができると思います」

 

ピリスさんはきっと、権力欲のようなものがないのに、才能ゆえに注目が集まって、そのはざまで悩み続けた人なのでしょうね。
でも、それにまつわる問いを尋ねると、少し困った顔をしながら今の正直な気持ちを話してくれるわけで、本当に純粋な(そしてちょっと難しい)方なんだと思います。

 

URL: http://www.piano-planet.com/?p=2641

 

 このピレシュの姿勢には共感が持てる。しかもなんという偶然か、赤字ボールドにした部分は読み終えたばかりのさる小説の重要なモチーフの一つなのだ。

 しかし記事の著者は、誕生日がピレシュと2日違いの中村紘子(中村の方が遅い)のあり方はピレシュとはあまりにも対照的だというのである。以下引用する。

 

そこで思い浮かんだのは、中村紘子さんのことですよ。

 

なにせ評伝を書いたばかりですから、その両極端な生き方についてまたいろいろ考えるわけです。紘子さんの場合は、業界を飼いならし、権力を手中に収めるという方法で(もちろんその背後に相当な努力や辛い思いがあったわけですが)、業界のために、自分のためにやりたいことをやっていった人でした。

 

評伝の中でも、紘子さんが20歳のときに社交の女王になろうと決意したと思われる瞬間のエピソードはじめ、「初対面の人には最初にガツンとやる人だと思う」という某関係者の証言も紹介しています。
「自分の持てるものを社会に還元したい」「若い人を育てたい」という同じ目的があっても、こんなにもやり方が違うんだと改めて思いますね。それも、この二人は、どちらもブレることなく、一生通してそのやり方を貫いていった女性たちなわけで。

 

それで、ふと気づいたら、二人は同年生まれ、誕生日2日違いでした。
第二次世界大戦終結前年、遠く離れた二つの国に生まれて、同じ人気者のピアニストとして活躍しながら、全く異なる生き方をした二人。それは、かつて世界各地に植民地を持ち、戦後のナショナリズムの動きの中でそれらを手放していったポルトガルと、アメリカの占領下でどんどん価値観を変化させられていった日本という、育った環境の違いなのか。いや、多分関係ないと思いますけど。個人差ですよねきっと。

 

URL: http://www.piano-planet.com/?p=2641

 

 そうか、中村紘子って権力志向が強かったのか。だから私は彼女がずっと嫌いだったのかもしれないと思った。私のアンチ中村紘子歴は長く、1970年代の中学生時代には既に彼女の演奏を嫌っていた。メインブログに公開した彼女の訃報記事でも下記の憎まれ口を叩いたほどだった。

 

kojitaken.hatenablog.com

 

 以下引用する。

 

 あいにく私はその「得意とした」という中村氏の弾くショパンに感心したことは一度もなかった。「文才も発揮」の件については、「中村紘子のヒモ」との陰口も叩かれた夫君がゴーストライターではないかとの風評があるが、中村氏の「著書」そのものを読んだことがない私としては、ありうる話だよなあとは思うものの、風評の真偽は判断できない。

 あとこの人の印象を悪くしたこととして、1982年にプロ野球××阪神の「伝統の一戦」が1000試合目を迎えたことを記念して放送されたNHKスペシャルに、中村氏が「××ファン代表」として出演していた動画を、数年前にネットで見てしまったからだ。燕党である私にとって、(燕党のみんながみんなそうでもあるまいが)「伝統の一戦」ほど気分の悪いものはない。昨夜まで甲子園でスワローズに3タテを食わせた阪神(おかげでスワローズはまた最下位に落ちた)もたいがいだが、××は論外なのだ*2。その番組で××をほめたたえて阪神をこき下ろす中村氏がまた憎たらしかった*3

 でもまあ、そういったことどもはもう水に流そう。心より故人のご冥福をお祈りします。

 

URL: https://kojitaken.hatenablog.com/entry/20160729/1469750015

 

 中村紘子の訃報を報じるテレビ各局の報道番組が流したのが、判で押したようにショパンの作品18、変ホ長調の「華麗なる大円舞曲」だったことに辟易した記憶も鮮烈だ。偏見かもしれないが、あれは名作揃いのショパンの音楽の中ではつまらない曲の筆頭格ではないかとの偏見を私は持っているため、中村紘子にはふさわしいなと皮肉に思ってしまった。

 さらにネット検索をかけると、このブログでも2021年10月23日*1に公開した下記記事の中でその件について中村紘子を少しdisっていたことがわかった。引用は省略する。

 

kj-books-and-music.hatenablog.com

 

 あとは昨年前半の坂本龍一死去の前後にバッハの音楽にはまっていた頃、中村が著書の中で旧ソ連の名女性ピアニスト、タチアナ・ニコラーエワの容姿をdisっていたらしいことを知り、中村が持つ差別性(ルッキズム)に呆れたこともあった。これについて書くのは今回が初めてだと思う。

 

ameblo.jp

 

 以下引用する。

 

タチアナ・ニコラーエワ(19241993旧ソ連のピアニスト。

 

私は中学生の頃、

中村紘子氏の名著「チャイコフスキー・コンクール」で

ニコラーエワという名前を知りました。

 

この本は面白いんですよ。

 

チャイコフスキー・コンクールという

4年に一度開催される、世界的なピアノコンクールの舞台裏を

審査員である中村氏の目を通して、実にリアルに、ユーモアも交じえて

描いたノンフシクション作品です。

 

中村氏からみた、他の審査員たちについての描写も

本の中にはちょこちょこと出てくるんですが、

ニコラーエワに関しての描写が、妙に子供心に印象に残りました。

 

タチアナ・ニコライエヴァは、バッハの研究家として日本でも知られたピアニストである。

小柄ながらいかにもロシア女性らしく堂々とした体型で、上唇のうえにうっすらとひげがある。

 

ひげがあるんかい、と。

 

URL: https://ameblo.jp/abechan-piano/entry-12380336474.html

 

 私は昨年夏にショスタコーヴィチの「24の前奏曲とフーガ」作品87を、定評のあるニコラーエワ盤ではなく、ジャズピアニストのキース・ジャレットが演奏するCDを買って聴いたのだったが、おそらくその前後にネット検索でニコラーエワについて調べていた時に上記ブログ記事に行き当たり、またしても中村紘子に反感を持ってしまったのだった。

 なお上記ブログ記事にはニコラーエワが弾いたバッハの平均律曲集の話が出てくる。彼女は1971年と1984年にバッハの平均律を二度録音しているらしいのだが、そのうち一度目の録音からの抜粋が1976年か77年にNHK-FMのクラシック・リクエスト、これは確かチェコ音楽びいきの藁科雅美氏(1915-1993)が解説を務めていたと記憶するが、その番組でニコラーエワの演奏がかかった。

 

 その1971年盤の感想を上記ブログは下記のように書いている。

 

とにかく立派です。ビクともしません。ブレません。

ロシアの大地に根差した巨木を連想させます。

太い。

 

そして、基本やはりレガートなんですね。

ノンレガートも必要に応じて使いますが、

ペダルを充分に使った、粘り気ある深い明確なタッチです。

 

やはり、そういった特質が活きる曲でこそ真価を発揮します。

1巻第4嬰ハ短調のフーガなんか、音の層が何層あるのかという具合に

圧倒されます。ピアノが底鳴りしてます。

これぞロシアンピアニズムの底力。

 

 

あれ、しかしなんかが違う。

 

おばあちゃんが孫を可愛がるように慈しんで弾いてた1984年のと、違う。

 

それこそ、なんか、ひげがありそうな感じがする・・・・

 

URL: https://ameblo.jp/abechan-piano/entry-12380336474.html

 

 ひげ云々はともかく、ニコラーエワの演奏がたいそう「立派」だったことは確かだ。第1巻の第4番嬰ハ短調平均律曲集の中でも屈指の大名曲なので、藁科氏の番組でもきっとかかったに違いない。この曲は、前奏曲がどっかの民放局が昼ドラのテーマ曲に編曲されて使われていたような繊細な音楽なのに、フーガは「十字架の形をしている」と指摘される4音動機を主題とする5声のいかめしい音楽で、その対比がすごいのだが、後年、20代半ばにグレン・グールドにはまることになる私は、正直言ってニコラーエワの演奏には「立派すぎて」親しめなかったのだった。

 グールドで思い出したが、昨日(2/3)公開された社会学者のsumita-mさんの下記記事が興味深かった。

 

sumita-m.hatenadiary.com

 

(前略)「脱構築」は「する」のではなく「起こる(happens)」。それは、或るテクストが読まれる(解釈される)ことを通して、今まで読まれていた(解釈されていた)のとは別様の何ものかを開示することだといえる。ここで読むことは(重要ではあるけれど)一契機でしかなく、誰々(蓮實重彦上野千鶴子ユーミン斎藤美奈子)が脱構築するのではなく、テクストが自らを脱構築する、或いはテクストと読み手の間で脱構築が発生するとしか言えない*7。また、脱構築の解く/解かれるという側面に注目するなら、脱構築において解かれるのは、読み手の側の従来的な読み方でもある。また、なんちゃら理論を当て嵌めて、論破してやったぜ! というのは脱構築とは全く関係ないことも明らかであろう。レイプとセックスが区別されなければいけないように。

 

蓮實さんや上野さんのことは脇に置いて、ユーミンに絞りたい。先ず、音楽と「脱構築」という主題を考えなければならない。音楽において「脱構築」という事態はどのようにして生起するのか? 「脱構築」が読み(解釈)において生起するのであれば、音楽においては、他人の曲を演奏することを通じて、生起すると言えるかも知れない。例えば、クラシックの演奏家は、常に(例えば)ベートーヴェンの、モーツァルトの、或いは(狭義のクラシック以前ではあるけど)バッハの楽譜を読み、具体的な音へと変換するという課題に直面している。それを通じて、楽曲の新たな側面が開示されるということもあり得る(グレン・グールドのバッハとか)。しかし、ユーミンに関して、そのような仕方で「脱構築」が生起するというのはかなり考えにくいのだ。何しろ、荒井由実としてであれ松任谷由実としてであれ、ユーミンが他人の曲をカヴァーしているのを聴いたことはない。「七〇年代的な四畳半貧乏フォーク」をカヴァーして、その新たな側面を露呈させたということなんか(多分)ない。まあ、「四畳半貧乏フォーク」というクリシェから具体的に想像できるのって、かぐや姫、或いはせいぜいさだまさしぐらいしかないのだけど、ユーミンと「 四畳半貧乏フォーク」との関係は、脱構築でも換骨奪胎でも(ヘーゲルマルクス的な)止揚でもなく、お互いのファンは被ってないよね、という感じのものであったわけだ。(後略)

 

URL: https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2024/02/03/142105

 

 グールドのバッハ演奏によって「楽曲の新たな側面が開示された」典型例が1955年と81年のゴルトベルク変奏曲の演奏だ。グールドは平均律曲集もとても面白かったが、今世紀に入ってからは私が一番多く聴くバッハの平均律はグールドではなくフリードリヒ・グルダになった。でもレーザーディスクで視聴したグールドによるバッハのフーガ の解説は感動的だった。初めて見たのは1994年の年末だったが、今でも忘れられない。ただ今ではLDのプレーヤーは押し入れに入れてしまって視聴できないけれど。あのLDでは第2巻第9曲のホ長調のフーガを解説していた。最初の4音がモーツァルトの「ジュピター」主題と同じド−レ−ファ−ミで始まる曲だ。あの曲も典雅なプレリュードと古風なフーガとの落差が大きく、グールドの解説を視聴するまではプレリュードは好きだけれどフーガはやや苦手だったが、グールドはその課題を解決してくれた。そういえばモーツァルトのピアノ協奏曲第24番に対してもグールドの演奏に接して開眼したのだった。

 あと、近年のモーツァルトの演奏史においてはではなんといってもピリオド楽器古楽器)による演奏の普及が革命的だったと思う。少なくとも今の私の感覚では、特にメヌエットの楽章でのワルターベームカラヤンのやたらと遅いテンポにはもうついていけない。ピリオド楽器によるメヌエット楽章の演奏を聴くと、モーツァルトメヌエットベートーヴェンスケルツォとの距離はぐっと縮まる。アーノンクールによる第40番のスケルツォはその極端な例だろう。なお第40番のフィナーレの第1主題をベートーヴェンは第5交響曲スケルツォに引用している(と言って良いだろう。リズムは異なるが旋律の音程は同じだ。調性は5度違うけど)。

 現在でもYouTubeに音声が公開されている1980年代前半の吉田秀和(1913-2012)解説の番組の頃は、まだベームカラヤンの演奏ばかりが番組に取り上げられているが、吉田は1980年代後半以降の「私の視聴室」ではピリオド楽器によるモーツァルトの演奏をずいぶん紹介するようになった。そして吉田は1990年代初頭には下記の文章を書いている。

 

(前略)モーツァルトというと、最近はもう古楽器による演奏が興味の中心になってしまった。それも、たしかに理由のあることである。コープマン、ブリュッヘン、ホグウッド、それから、この分野で先鞭をつけたともいってもいいアーノンクールたちによる演奏によって、つい昨日まではワルターベームカラヤン等々のモーツァルトをきいていた私たちは、正に音体験の革命を迫られているといってもいい。

 

吉田秀和『この一枚 Part2』(新潮文庫, 1995)409頁)

 

 ところが上記の文章はピリオド楽器によるモーツァルトについて書かれた文章ではない。なんと、この記事の冒頭に取り上げたマリア・ジョアン・ピレシュ(ピリス)がヴァイオリニストのオーギュスタン・デュメイと協演したモーツァルトの4曲のピアノとヴァイオリンのためのソナタト長調K301、ホ短調K304、変ロ長調K378、ト長調K379)のCD評に含まれる文章だ。上記引用文の前後の文章を以下に引用する。

 

 とにかく、このCDは、私には驚きであった。(中略=この部分に上記引用文が続き、その直後に下記の文章が続く=引用者註)でも、モーツァルトには、このピリスとデュメイがとり出してみせてくれたような「新しさ」も、埋蔵されていたのである。

 

吉田秀和『この一枚 Part2』(新潮文庫, 1995)409-410頁)

 

 実は1991年に発売されたこのCDを私は持っているが、そんなに聴いていない。モーツァルトのヴァイオリンソナタというとヒロ・クロサキとリンダ・ニコルソンによるピリオド楽器を用いた演奏の4枚組(初期作品を除いた16曲を収録)がすっかり気に入って、モーツァルトのヴァイオリンソナタを聴く時はこればかりかけていたのだった。たとえば私がこの分野でのモーツァルトの最高傑作だと思うイ長調K526など、現代楽器による演奏だとピアノが重すぎていけない。この「ピアノが重すぎる」というのは、実は1961年の吉田秀和ベートーヴェンのクロイツェルソナタを指して評した言葉だが、私見ではそれは事実上のモーツァルト最後のヴァイオリンソナタであるK526にも当てはまると思う。そしてそのクロイツェルソナタについても、私の一推しの演奏は2010年にヴィクトリア・ムローヴァのヴァイオリンとクリスティアンベザイデンホウトフォルテピアノで演奏されたピリオド楽器による演奏だ。

 でもいま聴き直したら、もしかしたら吉田秀和が書いたようにピレシュとデュメイの協演からも新しい発見があるかもしれない。是非聴き直してみようと思った(この文章を書いている時点ではまだ聴き直していない)。

 どさくさに紛れて、中断しているトルストイの「クロイツェル・ソナタ」のシリーズ最終回で取り上げるつもりだった演奏を挙げてしまった。これを書いたからもうあのシリーズは未完のまま続きを書くのをやめようかとも思う。第6ヴァイオリンソナタイ長調作品30-1の終楽章としてベートーヴェンが予定していた音楽を「クロイツェル」に転用したところから出発したあの曲は、第1楽章が作品23のイ短調の第4ソナタ、第2楽章が作品24の有名なヘ長調の「春」のソナタと同じ調性をとることから、4番からもとの6番までの3曲を深化させてまるまる1曲に収めたのが「クロイツェルソナタ」ではないか、とかそんな仮説を書こうと思っていたのだが、そんなマニアックな話は誰にも関心を持たれないに違いないと思って記事を書き続ける気が起きなくなったのだった。その第4と第5のソナタに、第7のハ短調作品30-2を組み合わせたCDをムローヴァは2020年にシリーズ第2弾として出していて、これも良い。ただピアニストが第1弾とは違い、アラスデン・ビートソンという人だ。このあたりは3人の子の父親が全て異なるというムローヴァらしい。あと第1,2,6,8,10番の5曲が残っているが、ムローヴァはシリーズ第3弾をまた別のピアニストと組んで出したりするのだろうか。

 次回はモーツァルトが子どもの頃に作曲したオペラの話をしようと思っている。その前にそのオペラを視聴しなければならないけど。

*1:スワローズが6年ぶりのリーグ優勝を決める3日前だった。

アガサ・クリスティ77歳の作品『終りなき夜に生れつく』は、クリスティ作品ベスト5に入れたい大傑作

 久しぶりにアガサ・クリスティのミステリを取り上げる。

 現在の私は作曲家・モーツァルトの生涯とその音楽を追うことに熱中しているが、3年前から熱中していたのがアガサ・クリスティの全ミステリ(アドバンチャーものを含む)を読むことで、昨年末の時点で晩年の7冊を残すのみとなった。その残り7冊の中からクリスティ77歳の1967年に書かれた『終りなき夜に生れつく』(矢沢聖子訳、ハヤカワ・クリスティー文庫, 2011)を読んだ。

 昨日(2/3)に一気読みした。徹夜はしなかったが夜更かししてしまい、夕食をとるのがずいぶん遅くなってしまった。

 

www.hayakawa-online.co.jp

 

 私はクリスティ60歳の1950年に書かれたミス・マープルもの第4作『予告殺人』を非常に気に入り*1、衰えぬ作者の力量に感心したが、作者が70代に入った1960年代の作品にはあまり見るべき作品がなく*2、残念に思っていた。さすがに70代にもなるとクリスティの筆も衰えたかに思われた。

 しかしこの作品は非常に良かった。いわゆる「あと味」はめちゃくちゃに悪いが、作品としては文句なしの第一級品だ。

 ところが『読書メーター』を見るとこの作品の評判が悪い。なぜかというと、どうやら本作をこき下ろしている読者たちは、全く事前の予備知識なしで読んだのではないかららしいと推測した。本作はほんの少しでも予備知識があると興趣が殺がれる。そのような種類の作品だ。

 この作品は江戸川乱歩の死去より遅く成立しているので、乱歩による評価はない。しかしクリスティ攻略本を書いた霜月蒼氏の評価はきわめて高く、クリスティの全ミステリ中の3位に推している。もっとも氏のベストテンには『アクロイド』も『そして誰もいなくなった』も『オリエント急行の殺人』も入っていない。私なら少なくとも前二者は絶対に落とせない*3

 何より、クリスティ自身がベスト作として挙げた自信作だ。

 この作品に関しては、とにかく予備知識ゼロの状態で読むに限る。だから前記読書メーターにも、はてなブログで読むことができる本作に関する霜月氏の論評にもリンクを張らなかった。

 私は幸運にも予備知識全くなしの状態で本作を読むことができたので、深い感銘を受けた。本書は今週図書館に返さなければならないが、文庫本を買って暇な時に再読したいと思った。そう、この本は私のように幸運な読書体験ができた読者にとっては二度読みしたい気持ちを強く起こさせる作品だ。いや既に余計なことをずいぶん書いてしまったかもしれない。

 これで未読のクリスティのミステリは残り6冊になった。今年中に読み終えることができると思うが、『終りなき夜に生れつく』はその中のベスト5に間違いなく入る。おそらくそのあとに未読メアリ・ウェストマコット名義の恋愛小説6冊を読むことになるだろう。

 短いが今回はここまで。この作品についてはあまり余計なことは書かないに限る。

*1:松本清張の某作品を連想したが、成立はクリスティ作品の方が早い。

*2:世評の高い『鏡は横にひび割れて』(1962)を私はあまり買わない。

*3:オリエント急行の殺人』は微妙だ。

モーツァルトの268回目の誕生日

 今日1月27日はモーツァルトの誕生日。ヴォルフガング・アマデウスモーツァルトは今から268年前の1756年1月27日に生まれ、1791年12月5日、35歳10か月でこの世を去った。

 私がモーツァルトにはまったのは中学生時代の1975年で、それから来年で半世紀になる。最初にはまった彼の曲は交響曲第40番ト短調K550だった。カール・ベーム指揮ベルリン・フィルの演奏で、裏面は同第41番ハ長調「ジュピター」。最初は父から借りたレコードで聴いていた。ピアノ協奏曲では第26番「戴冠式」を聴いたが、これはベートーヴェンの「皇帝」協奏曲(第5番)の裏面で、残念ながら「皇帝」ほどには面白くなかった*1。あとグリュミオーが弾いたヴァイオリン協奏曲の第3番と第5番。このうち第5番は亡父が大好きだった曲の一つで、しょっちゅうこの曲のレコードをかけていた。

 ところである人から飼っていた2匹の犬のうち1匹がモーツァルトの音楽に反応すると聞いた。一般には、飼い犬が笑っているように見えたり音楽に反応しているように見えるのは、実際に嬉しかったり音楽に反応したりしているのではなく、飼い主の表情の変化に反応しているのだといわれている。しかしモーツァルトに反応したのは2匹のうち1匹だけであり、モーツァルトに陶酔する(?)犬は他の音楽には反応しないのだという。そうなると、モーツァルトの音楽が犬の心に直接反応している可能性も捨てがたい。

 そう考えて思い出されるのは、弊ブログで完結編を未だに書けずにいるトルストイの中篇小説「クロイツェル・ソナタ」に書かれている音楽論だ。以下原卓也の訳文(新潮文庫版)から引用する。

 

 この音楽ってやつは、それを作った人間のひたっていた心境に、じかにすぐわたしを運んでくれるんですよ。その人間と魂が融け合い、その人間といっしょに一つの心境から別の心境へ移ってゆくのですが、なぜそうしているのかは、自分でもわからないのです。

トルストイ原卓也訳)「クロイツェル・ソナタ」(新潮文庫2015年改版134頁=2020年発行第42刷より)

 

 ベートーヴェンの「クロイツェル・ソナタ」(ヴァイオリンソナタ第9番作品47)は、この作曲家には珍しく、演奏会に間に合わせるために超特急で書いた作品とのことで(これはモーツァルトにはよくあるパターンだ)、そのせいかどうか、第1楽章の主部プレストは激情をもろにぶつけたような音楽だ。それを小説の主人公である妻殺しの殺人者は、前記の引用文に続けて以下のように語る。

 

 たとえばこのクロイツェル・ソナタにしても、それを作ったベートーベンは、なぜ自分がそういう心境にあったかを知っていたわけですし、その心境が彼を一定の行為にかりたてたのですから、彼にとってはその心境が意味をもっていたわけですが、こっちにとっては何の意味もないんですよ。ですから音楽は人を苛立たせるだけで、決着はつけてくれないんです。(同142頁)

 

 これらの文章は音楽の本質を突いていると思わずにはいられない。なおトルストイベートーヴェンの「クロイツェル・ソナタ」のうち、第1楽章の序奏を除いたプレストの主部にのみ反応したようだ。第2楽章と第3楽章は素っ気なく切り捨てている。しかし本記事はベートーヴェン(やトルストイ)ではなく、モーツァルトの誕生日にちなんだ記事なので、これ以上深入りはしない。

 ここで私が言いたいのは、音楽には時空を超えて作曲家の心が聴き手の心に対してある種の作用を及ぼす性質があるということだ。そしてその作用は人間に対してのみならず、ヒト以外の生物に対しても起きるのかもしれない。ある犬がモーツァルトの音楽にのみ反応するのはその表れではなかろうか。そのような仮説を立てている。そういえばモーツァルト一家は犬を飼っていて、犬は家族の一員として可愛がられていたとのことだ。

 それに、モーツァルトのある種の音楽には特別な特徴がある。それは、彼には天啓を受けた瞬間がある、そう直感させる曲がいくつかあることだ。

 その典型的な例が、映画『アマデウス』でサリエリにショックを与えた場面で用いられた、いわゆる13管楽器のためのセレナードK361(セレナード第10番)の第3楽章だ。以下にピーター・シェーファー(1926-2016)が書いた戯曲の江守徹(1944-)による翻訳の当該部分を引用した下記リンクから孫引きする。

 

www.classic-suganne.com

 

戯曲では、サリエリは回想として次のようなセリフを吐きます。

 

それから演奏がすぐに始まりました。厳粛な変ホ長調アダージョでした。導入部は単純でした。ファゴットとバセット・ホルンの低い調子はまるでオンボロのアコーディオンを思わせました。突然、オーボエの高い旋律が加わってきました。それは私の耳にしっかりとついて離れず。胸を刺し貫き、息が詰まるほどだった。アコーディオンはうめき声をあげ、それにかぶせて高音楽器がむせぶような調べを奏で、音が矢のように私に降り注いできた。そしてその音は苦痛となって私に襲いかかったのです。主よ、お教えください!あの音の中にあったもの、あれは何なのです?満足できるようなものでないにもかかわらず、聞く人を満足させずにはおかないあの音、あれは主よ、あなたの思し召しなのですか?あなたのものなのですか?

突然私は、恐ろしさにぞっとしました。私はたった今、〝神の声〟を聞いたのではないか。そしてそれを産み出したのは〝けだもの〟ではないか。その声を私は既に聞いている、猥褻な言葉を平気でわめく子供のようなあの声!

 

サリエリは、神は不公平だ、敬虔に神を信じる私には才能を与えず、よりにもよってあの下品な男に、あなたの声を現世に伝える役目を与えるなんて…!と神を呪い、悪魔の手先となって神の寵児モーツァルトを滅ぼしてやる、と誓うのです。

 

URL: https://www.classic-suganne.com/entry/2018/07/15/172544

 

 映画館で映画を見る習慣がほとんどない私が東京・渋谷の映画館であの映画を見たのは1985年だったが、私がこの曲を初めて聴いたのはおそらく1976年頃だ。しかしその時にこの楽章が特に印象に残ったわけではない。それから数年経った1980年にFM放送で聴いた時、しかもその演奏は名盤ともてはやされるようなレコードがかかったわけではなく、日本国内の演奏家たちによる演奏会の録音だったと記憶するのだが、上記引用文にもある第3楽章の短い導入部のあとオーボエに始まってクラリネットに受け渡される管楽器のリレーで奏でられる音楽を聴いた時、あの天才モーツァルトにもそうそういつもあったわけではない特別な天啓を受けた瞬間があったことを確信した。その音楽をサリエリが嫉妬した場面に使うとは、モーツァルティアンなら誰しも同じことを感じるのだなあと感心した。

 ところでモーツァルトの父レオポルトがどうしようもない陰謀論者だったことは前回の記事に書いたが、モーツァルト自身も父の悪影響を受けてか自らが父に宛てた手紙にサリエリの悪口をよく書いていたらしい。そのモーツァルトが死の2か月前にサリエリとその愛人を『魔笛』に招待したところ、サリエリがこのジングシュピール(ドイツ語の歌芝居)を気に入ってブラヴォーを連発して大喜びしたという話がある。

 ネット検索をかけると、モーツァルトサリエリの関係についてサリエリ側に立って書かれた文章が見つかったので、以下にリンクする。

 

itaken1.jimdo.com

 

 以下に一部を引用する。

 

(前略)サリエリモーツァルトの関係ですが、モーツァルト自身は書簡の中で何度もサリエリの悪口を言っています。自分のオペラの上演の邪魔をしている、ということを書くわけですね。現実には、モーツァルトが書簡に書いている陰謀、あるいは邪魔立てに関して証明できる材料は全くありません。ですから現代のモーツァルト研究者はみな、サリエリモーツァルトの妨害をしていたということすら否定しています。それだけではなく、逆に、モーツァルトには父親譲りの猜疑心でありますとか、イタリア人に対する敵愾心、敵対心があり、そうしたものが書簡に反映されている、という解釈になっています。ですから、私がサリエリを好きだから擁護するわけではなく、現在ではモーツァルト研究者もそのように考えていて、原因がモーツァルトの側にあったと言われているのです。

 

後にモーツァルトの毒殺疑惑が出ますけれども、現代の研究者の一人は「モーツァルトサリエリを毒殺するなら話はわかる」と言っています。なぜならサリエリは宮廷楽長の地位にあり、ヨーロッパ中で──イタリアでも、フランスでも──評価され、オペラ作曲家としても頂点にあった人物です。これに対しモーツァルトは、イタリアでオペラを作曲しても初演だけで忘れられ、ウィーンに来て書きたくても全然仕事がないのですね。冷や飯を食べ、しかもモーツァルトは「ザルツブルグ出の田舎者」という見られ方を皇室の人間にされていたのです。そもそも当時は、モーツァルトのようなドイツ・オーストリア系の人間には宮廷楽長になるチャンスがなかったのです。モーツァルトの父親はずっと副楽長のままでした。なぜなら楽長は常にイタリア人だったからです。そうした環境にあって、父親の不遇な姿を見ていたモーツァルトは、自分も出世の目がないのですから、宮廷楽長のサリエリが自分の足を引っ張っていると解釈するしかなかったといってよいと思います。

 

 けれどもモーツァルトの亡くなる年に、2人は和解します。ただし、2人が和解をしたというのは私が本に書いたことであって、和解をしたと証明する材料そのものは直接的にはありません。では、私は何を根拠に2人が和解したと書いたのか。その一部をここに挙げておきました。

 

要するに、サリエリモーツァルトの理解者だった皇帝ヨーゼフ2世が死んでしまうのですね。死んだ後、新しい皇帝が即位します。この新しい皇帝レーオポルト2世は、サリエリのことが嫌いだった。モーツァルトのことも評価した様子がない。2人とも、新しい皇帝が即位したとたんにオペラ劇場での仕事を失っていくわけです。そして新しい皇帝の即位式プラハで行われます。そのときサリエリはどうしたか。サリエリは宮廷楽長になっていましたから、新しい皇帝のために戴冠式を祝う曲を書いて演奏しなければいけないはずなのに、それをせず、モーツァルトの音楽を持って行きます。モーツァルトの曲を幾つも戴冠式へ持って行き、モーツァルトの曲で新しい皇帝の戴冠を祝ってしまうのです。なぜサリエリがそうしたのか、ということは判りません。ですが、その頃にはサリエリモーツァルトの音楽をきちんと評価していた、という解釈も可能です。あるいは、新しい皇帝が自分のことを嫌いということをサリエリも判っているわけですから、「だったらいいよ、自分は新しい曲を書かないからね」、そういう意趣返しのようにも思えます。

 

いずれにしろ、そのあたりでモーツァルトサリエリが急接近したのは確かです。なぜなら、モーツァルトの宗教曲を演奏しようと思っても楽譜が出版されていないわけですから、「貸して」とか言わないとなかなか難しいわけで、2人の間になんらかの交流がこの段階でできていたのは間違いないと思います。

 

そして、モーツァルト最後のオペラ《魔笛》の上演に、モーツァルトサリエリを招待します。サリエリとその愛人といわれたカタリーナ・カヴァリエーリを招待するのです。その有名な手紙を、4頁の真ん中に引用しておきました。そこにモーツァルトは、「サリエリが僕のオペラを観てくれて、すばらしいと褒めてくれた、こんなすばらしいもの見たことがない、と言ってくれた」ということをうれしそうに書いているのですね。そのときモーツァルトの妻は、モーツァルトの弟子ジュスマイアーと一緒に温泉か何かに行って遊んでいたのですが、その妻に宛ててそう書いているのです。そしてこの、サリエリと一緒に《魔笛》を観て、サリエリがこんなに褒めてくれたと書いた手紙が、モーツァルトの現存する最後の手紙なのです。

 

ですから私はこの手紙を根拠にしたというよりも、手紙に表れているモーツァルトのすこやかな様子が決して作り事ではなく、明らかにそこで2人の心の交流というべきものができていた、というふうに解釈しているわけです。

 

(中略)

 

しかしながら、その後サリエリは最晩年に思わぬ事態を迎えることになります。それがモーツァルト毒殺疑惑です。サリエリ75年の生涯のうち、最後の3年間は完全にウィーンの中で孤立し、モーツァルトを毒殺した人だということがマスコミ──当時の新聞など──に書かれています。そのことが彼の最後の3年間をどれほど悲惨なことにしたのかということは、私のこの本を読んでいただければご理解いただけると思います。最後の章は大変読み応えがあると自分で言うのもなんですが、批評で褒められた部分でありまして、なぜサリエリモーツァルト毒殺の犯人にされてしまったのかが判ります。

 

それは一種の冤罪でありまして、その冤罪を晴らすために今度はカルパーニという彼の友人──しかもウィーン刑事局の人物──が、一種の裁判の弁論のような形でサリエリ擁護の論文を新聞に発表します。さらに、それをめぐってさまざまな事態が起きるのですが、とりわけ最後の2年間はサリエリが病気でウィーンの総合病院に入院するのですね。そして入院した後、亡くなるまでの1年半のことは何も判っていないのです。にもかかわらず、その間のベートーヴェンの書簡集、そこに何が書かれているのかというのを6頁に挙げておきました。サリエリは無理やり病院に連れて行かれ、そしてサリエリは病院で発狂し、自分がモーツァルトを殺したのだと告白し、自分で喉をナイフで裂いた、ということが言われています。

 

でも、それらはすべてその時代のウィーンの噂に過ぎません。疑惑のある人物が隔離されて人の前からいなくなる。そして、その人物に対してあることないこと言われるというのは、現代のさまざまな事件でも起こることで、珍しいことではないのですね。ただしサリエリは妻に先立たれ、独り病院で──ボケてはいなかったと思いますが──老衰に近くなっていくわけですから、反論できないのです。世間では、そのサリエリについてまことしやかなことが言われ、毒殺犯に仕立て上げられた、というのが事の真相であるわけです。

 

そのモーツァルト毒殺疑惑を題材にしたドラマが、サリエリの亡くなった数年後に書かれました。有名なロシアの文豪プーシキンの書いた『モーツァルトサリエリ』という劇詩です。そして、その劇詩を基にして1人の作曲家が19世紀末にオペラを書きました。それがリムスキー・コルサコフの作曲した《モーツァルトサリエリ》という作品です。これは残念ながら、きちんと市販されている上演映像がないのですが、ご覧いただきたいと思って今日は持って来ました。時間の関係で、途中で止めさせていただきますが、英語による上演です。このオペラは2人芝居で、モーツァルトサリエリが出てきます。最後にサリエリモーツァルトを家に招待し、一緒に食事をするときにモーツァルトの飲むグラスに毒を入れるのですね。そして、モーツァルトがそれを飲もうとするのを見たサリエリは、「あっ、飲んではいけない!」と言うのですが、もう手遅れでモーツァルトは飲んでしまう。そしてモーツァルトは、「なんだか調子が悪くなった、眠くなった。失礼するよ」と言って出て行く。そして、その後のサリエリのモノローグで終わります。そこでサリエリが何を言うかというと、「天才というものは、かつてすばらしい芸術のために殺人を犯さなかっただろうか。ミケランジェロは、すばらしい絵を描くために人を殺さなかっただろうか?」ということを言います。

 

このオペラのフィナーレ部分で流れるのがモーツァルトの《レクイエム》なのですね。モーツァルトサリエリに《レクイエム》の楽譜を見せます──自分はこういう曲を書いている、と。サリエリはその《レクイエム》の楽譜を見る。すると音楽がわっと鳴ってくるのですが、楽譜を見ながらサリエリがショックを受けて泣くシーンがあります。そしてその後に、モーツァルトがその場を立ち去っていきます。(後略)

 

出典:サリエリとモーツァルト - イタリア研究会

 

 以上はサリエリ側に立った言い分だが、これがモーツァルト側から見ると言い分がまた少し異なる。前回の記事でも取り上げた石井宏(1930-)は西洋音楽のドイツ中心史観に異を唱えている人だが、基本的にはモーツァルト側の人だ。その石井の『モーツァルトは「アマデウス」ではない』集英社新書,2020)から以下に引用する。

 

 モーツァルトが死ぬと、まもなく、ウィーンの街には「モーツァルトは毒殺された」のだという噂が立ちのぼり、駆けめぐることになる。そしてその毒殺の下手人と目されたのは宮廷楽長アントーニォ・サリエーリであった。

(中略)しかし、若いときならいざ知らず、サリエーリはすでに宮廷楽長に昇進しており、この地位は終身職であったから、彼の身は安泰であり、今さらモーツァルトにやきもちを焼いたり、つけ狙ったりする必要はなかった。むしろ、モーツァルトのほうがサリエーリを暗殺でもしない限り、出世の道は閉ざされていた。

 だが、モーツァルトが何者かによって毒殺されたという噂は、あながち根も葉もないことではない。(略)本人自ら「おれは毒を盛られた」と口にしていたからである。

(中略)ウィーンという都は当時から19世紀にかけて、陰謀の飛び交う街として有名であった。だれそれが何を画策しているという話は日常茶飯事の話題であり、何もサリエーリ一人が悪人だったとは言えないのだが、それにしてもサリエーリが、自分の気に食わない人物を排除しようとする傾向のあったことを証明する話は一つならず存在していて、《フィガロ》の台本作家のダ・ポンテが宮廷詩人の職を追われたのもかつての恩人サリエーリに後ろから斬られたものだと言う。ダ・ポンテはサリエーリに就職を世話してもらった間柄であり、たとえサリエーリの音楽や性行に批判的であったとしても、恩義を感じていたことは確かで、サリエーリに対する害意は持っていなかった。

 

(石井宏『モーツァルトは「アマデウス」ではない』(集英社新書2020)183-185頁)

 

 だいぶ雲行きが怪しくなってきた。石井は上記引用文の直後に、シーラ・ホッジスという人が書いたロレンツォ・ダ・ポンテの伝記から、サリエリを「頭の働きの素早い天性の策謀家」とこき下ろした文章を引用している。ダ・ポンテは『フィガロの結婚』を書く前のモーツァルトの手紙に「サリエリ一味」の人間だと書かれていた人だ。

 石井宏は書く。

 このあと19世紀に入り、メッテルニヒが実権を握るようになると、ウィーンでの陰謀・策謀はさらにひどくなる。体制転覆の謀議なども行われるようになると、それに対抗するかのように、それに対抗するかのように有名なメッテルニヒ警察国家が実現し、街には私服の密偵がうろうろするようになっていくのである。(前掲書192頁)

 

 「会議は踊る」で悪名高いウィーン会議が行われた1814年からドイツ三月革命が起きた1848年までの34年間は、ヨーロッパの長い「反動の時代」だった。日本でも安倍晋三が総理大臣に返り咲いた2012年から菅義偉が首相を辞任した2021年までの9年間はそれと似たような反動の時代であり、その矛盾が現在一気に噴出しているのではないかと私は考えているが、そんな時代には誰が誰を追い落とそうとするとかそんな話ばかりが目立つ。

 サリエリが死んだ1825年はベートーヴェンが死ぬ2年前であり、ベートーヴェンの会話帳にもサリエリの晩年にサリエリモーツァルト殺しを自白して自ら喉を切って自殺を図ったらしいという話が出てくることは、前記「サリエリモーツァルト」に書かれている通りだし、石井宏の本にもその件は出てくる。しかし、そのベートーヴェンの会話帳の半分以上を廃棄したり、改竄やら捏造やらをやらかした極悪人がいた。

 その名をアントン・フェリックス・シンドラー(1795-1864)という(「シントラー」とも表記される)。この極悪人はベートーヴェンの秘書を務めたが、自らは大の「ベートーヴェン信者」でありながら当のベートーヴェンから激しく嫌われ、いったんは秘書をクビになったりした。それでもめげなかったこの人間はベートーヴェンの最晩年に和解した。そしていかにも「信者」らしく、自らが著したベートーヴェンの伝記において、ベートーヴェンのイメージを損ねたり、何よりシンドラー自身に不都合になる事実を隠蔽して改竄と捏造に明け暮れたのだった*2。その結果ベートーヴェンは過度に神格化されてしまった。そのシンドラーについて、事実に基づきながらシンドラーの心の動きは推測してミステリ仕立ての読み物に仕立てた快著がかげはら史帆の『ベートーヴェン捏造 - 名プロデューサーは嘘をつく』(河出文庫2023, 単行本初出柏書房2018)だ。

 

www.kawade.co.jp

 

 この本は河出文庫版を買って読んだ。帯にミステリ作家の宮部みゆきが書いた「この驚きをぜひ分かち合いたい。徹夜本です。」という惹句が掲げられている。私は徹夜こそしなかったが2日で読んだ。

 でもこれもモーツァルトではなくベートーヴェンの話題になるのでここではこれ以上立ち入らない。気が向いたら来週以降に弊ブログで改めてとりあげるかもしれないが、取り上げないかもしれない。読書ブログの記事はどうしても長くなるし、本記事もそうだけれどすぐに脱線してしまってなかなかまとまらないのだ。ただ、シンドラーが道を踏み外したきっかけは東欧出身の彼がウィーン大学に進んだ1813年の翌年にウィーン会議が行われて、ヨーロッパ、ことにウィーンが暗鬱な反動の時代に入ったことが挙げられることは指摘しておきたい。どうやら反動の時代には陰謀(論)やら「信者」やらが続出するものらしい。

*1:他にショパンとリストのそれぞれ第1番を収録した「ピアノ協奏曲名曲選」みたいなレコードだった。演奏家もバラバラ。ショパンやリストも「皇帝」には全く及ばないと思った。今思えば「戴冠式」はモーツァルトのピアノ協奏曲の中では最上の作品ではないし、ショパンやリストは協奏曲よりもピアノ独奏の曲の方がよほど良いので、この4作ではベートーヴェンが突出していても仕方がなかった。

*2:モーツァルトの伝記にも同様の弊害がある。最初にモーツァルトの伝記を書いたニッセンはモーツァルトの妻・コンスタンツェの再婚相手なので、モーツァルト自身のイメージを損ねたり、何よりコンスタンツェに都合の悪い事実は隠蔽されてしまった。その後アメリカの学者などがモーツァルトベートーヴェンに都合の悪い事実も明記した伝記を書いたが、それが気に食わないドイツ人などから「ドイツの文化を理解していない」などの批判を浴びたらしい。

どうしようもない陰謀論者だったレオポルト・モーツァルトは息子ヴォルフガングを「神童ショー」に引き回し、息子の擁護者たちを疑い、彼らを不当に貶めて(=恩を仇で返して)息子の天才を実際以上に粉飾していた(呆)

 もう1月も下旬に入り、1年で最も寒い季節になってしまったが、やっと2024年初の更新になる。

 昨年10月末にかつてのモーツァルティアンの血が騒ぐきっかけがあって、何十年ぶりかでモーツァルトを聴きながら家に持ち帰った仕事を処理するという、学生時代を思い出さずにはいられない生活をしていたので、今年最初の記事としてそのモーツァルトを取り上げようとしていたのだが、記事がうまくまとまらずに収拾がつかなくなっていた。この土日はそれなりに時間があったので再チャレンジすることにした。

 最近になってモーツァルトがなかなか宮廷楽師として就職できなかった二大元凶が父のレオポルト・モーツァルトと、事実上神聖ローマ帝国の女帝だったマリア・テレジアであることを認識した。若い頃の私はモーツァルトの音楽の大ファンではあっても人間に対する関心が薄かったので、モーツァルトの人生については何も頭に入っていなかった。

 だから、マリア・テレジアモーツァルトの宮廷への雇用を妨害した事実は、2020年に光文社新書から出た石井宏の『モーツァルトは「アマデウス」ではない」(下記に光文社のサイトをリンク)のアマゾンカスタマーレビューで初めてまともに認識した次第。

 

shinsho.shueisha.co.jp

 

 下記は上記光文社新書のカスタマーレビューへのリンクと引用。

 

La dolce vita

★★★★★ ウィーンでの陰湿で執拗なモーツァルト潰しの実態

2020年4月26日に日本でレビュー済み

 

モ-ツァルトが洗礼の時に父親によって命名されたラテン語フルネームは、ヨアネス・クリソストムス・ヴォルフガングス・テ-オフィルスだが、最後のテ-オフィルスをドイツ語に置き換えるとゴットリ-プになり、イタリア語ではアマデ-オと訳される。モ-ツァルトは3回のイタリア旅行でヴァティカン、ヴェローナボローニャのそれぞれの都市から法外で名誉な肩書を授与された。そのイタリア人達からの呼び名がアマデ-オだったようで、彼はこの地での大成功を生涯忘れることなく、公式のサインには好んでこれを記したと説明されている。

 

ミラノの宮廷作曲家としてのオファーを打診したフェルディナント大公は、まだ少年だったために母のマリア・テレ-ジアに助言を求めた。ウィ-ンからの返書がここでも紹介されているが、女帝は面と向かっては褒めちぎっていたモ-ツァルト親子に関して、大公には河原乞食同然の旅芸人であり、息子の名誉を傷つける無用の人々とこき下ろしたために、フェルディナントはオファーを取り下げた。マリア・テレ-ジアは後々のハプスブルク継承権を目論んで、子女子息を問わず自身の子供達をヨ-ロッパのめぼしい王家に次々と政略結婚させた。そうした権謀術数には長けていたが、こと芸術に関しては社交辞令、あるいは刺身のつま程度にしか考えていなかったことが想像される。それは後世に祀り上げられた芸術の庇護者の名折れでしかないだろう。

 

いずれにしても当時のウィ-ンには、かなり陰湿かつ執拗なモ-ツァルト潰しの動向があり、彼のコンサートやオペラ上演には必ず妨害が入ったようだ。しかし度重なる就職活動に失敗したことが、モ-ツァルトをウィ-ンで独立させ、短い期間であったにも拘らず自由な音楽活動をさせることになったのは運命の皮肉だろうか。お仕着せの作曲家として宮廷内に留まって能力を発揮するには、彼の才能はあまりにも破格だったからだ。本書のテ-マは、現代ではモ-ツァルトの名前として罷り通っているアマデウスが、実は本人自身が一度もこの名でのサインをしなかったという事実を明らかにすることで、内容は学術的だが石井氏の平易な筆致で分かり易く、また伝記作品としても興味深く読める一冊だ。

 

URL: https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R3AUZGRWUV8OKX

 

 私も上記引用文を読んだ時にはマリア・テレジアに対して腹を立てたが、よく調べてみるとマリア・テレジアモーツァルト父子を激しくdisった手紙はどんなモーツァルトの伝記や研究本にも書いてある周知の事実だった。当然私も中学か高校の頃に読んだことがあるはずだが、人間に対する関心が薄い少年だったから読み飛ばしたに過ぎないのだろう。

 また、マリア・テレジアにこのような悪い心証を与えても仕方ないことをモーツァルトの父・レオポルトはしていたともいえる。

 

julius-caesar1958.amebaownd.com

 

 以下上記リンク先から引用する。

 

 1776年、ミラノにあった宮廷劇場テアトロ・ドゥカーレが火事で焼失。新たに建設されたのが「スカラ座」である。名前の由来は、建設された場所に以前サンタ・マリア・アッラ・スカラ教会があったから。庶民も入場できる新しいオペラ座の建設を命じたのはマリア・テレジア。ミラノは、18世紀初頭のスペイン継承戦争後、1714年のラシュタット条約によってオーストリアハプスブルク家に帰属していた。

 

 このようにマリア・テレジアは芸術に理解がなかったわけではない(統治の手段という側面が強いが)。しかし、四男フェルディナント大公が「モーツァルト(15歳)を宮廷劇場(ミラノ)で召しかかえたい」と求めてきた時、こう言って拒絶した。

 

「あなたは若いザルツブルク人を自分のために雇うのを求めていますね。私にはどうしてかわからないし、あなたが作曲家とか無用な人間を必要としているとは信じられません。・・・あなたに無用な人間を養わないように、そして決してあなたのもとで働くようなこうした人たちに肩書など与えてはなりません。乞食のように世の中を渡り歩いているような人たちは、奉公人たちに悪影響を及ぼすことになります。・・・」(1771年12月12日付マリア・テレジアのフェルディナント大公宛の手紙)

 

 「乞食のように世の中を渡り歩いている」とは強烈な表現だ。なぜこんな表現をしたのか。最初の御前演奏(1762年10月13日)からこの手紙までの9年の間にモーツァルト親子はのべ6年間旅を続けた。特に、御前演奏の翌年から行われたヨーロッパ縦断旅行は、なんと3年5カ月に及んだ。父レオポルトザルツブルク宮廷楽団副楽長という立場にあったにもかかわらずである。そんなことが可能だったのは、当時のザルツブルク大司教が「寛大な司教」と言われたシュラッテンバッハ伯だったから。伯爵がレオポルトの長期の休暇願を容認したからモーツァルト親子は長期の演奏旅行を続けることが可能だったのだ。

 

 しかしマリア・テレジアが「女帝」として推し進めていたのは中央集権化。各地方の貴族や領主たちが、皇帝の意志を顧みず、勝手放題に支配していたのを、国家が全権限を掌握し、君主の決定がそのまま国家全域に伝達されるような体制に変革することだった。だから、1771年12月16日(先のマリア・テレジアの手紙のわずか2カ月後)に亡くなったシュラッテンバッハ伯の後任となったコロレド大司教モーツァルトの天敵のように対立するのもこの点から考える必要がある。彼は前任者のように寛大ではなく、以後モーツァルトにとっては忌まわしい人物となり、ついには大喧嘩の末、1781年、モーツァルトがウィーンに定住する原因をつくった。モーツァルトが希に見る大天才であることを見抜けなかったことは事実であるが、宮廷に仕える音楽家に対する普通の処遇をしようとしただけなのだ。マリア・テレジアの構想に忠実な地方官僚だったのだ。

 

 ところで、シュラッテンバッハ伯が大司教だったのは1753年~1771年。モーツアルトが生まれる3年前から15歳まで。その間に、レオポルトはヨーロッパ縦断旅行(7歳~10歳 3年5カ月)、第1回ウィーン旅行(11歳~12歳 1年4カ月)、イタリア旅行(13歳~15歳 1年2カ月)を行い、モーツァルトの才能を開花させ、偉大な音楽家に成長させた。その意味ではシュラッテンバッハ伯の功績の大きさはいくら強調しても強調しすぎることはないだろうが。

 

URL: https://julius-caesar1958.amebaownd.com/posts/4986425/

 

 『モーツァルトは「アマデウス」ではない」を書いた音楽評論家・石井宏は2004年に出し、2010年に新潮文庫入りした『反音楽史 - さらば、ベートーヴェン』は昔読んだことがあり、私が運営するメインブログに取り上げたこともある(下記リンク)。

 

kojitaken.hatenablog.com

 

 以下引用する。

 

 いくら息子を宮廷で雇ってもらおうとしても、その度に「イタリア人の壁」に跳ね返された父レオポルトは、ある時、大作曲家ハイドンの弟、ミヒャエル・ハイドンにこう愚痴ったそうだ。

私がいやだったのは、ハイドン君、そんなことじゃない。みんな策謀、陰謀なんだ。陰謀にやられたということなんだ。だが、もっとひどいのは、そのイタリア人の陰謀にドイツ人が加担しているということだ。あのウィーンのおえら方、グルックとかハッセ(ともにイタリア・オペラを書くドイツ人音楽家)とかいった連中までがヴォルフガングを潰そうとする。音楽はアフリージョのような奴らに握られている。こんな国に何を望める? アフリージョは泥棒だ。あいつは息子の作曲に対して一グルデンも払わなかった。その男が私にこう言うんだ。「お前は息子を売って商売にしている」とな。


(石井宏『反音楽史―さらば、ベートーヴェン』(新潮文庫、2010年)34頁)


 これに対して、ミヒャエル・ハイドンが冷静に「アフリージョの言うとおりだ」と答えたために、2人は口喧嘩になったという。

 これは、9時間にも及ぶというフェリシアン・マルソーとマルセル・ブリュヴァルの映画「モーツァルト」(1982年)に出てくるシーンらしいから、実話かどうかはわからないが、レオポルト・モーツァルトが「イタリア人陰謀論」に取り憑かれていたことは事実らしい。

 この本によると、商業都市アウクスブルクの製本職人の家の長男に生まれたレオポルトは大変なインテリで、奨学生として中学(ギムナジウム)に進学し、ラテン語の読み書きまでできた上、何万人、いや何十万人に一人というようなエリートとしてザルツブルクの大学に留学したのだという。それが、在学中に「ひとりだけの反乱」を起こしたとして退学になり、放浪生活をしたあげく、身分の低い職業だった楽士になったのだそうだ*1

 なるほど、そういう栄光と挫折を経験した人間だからこそ、「イタリア人陰謀論」に深くはまり込んでしまったのだなと妙に納得した次第である。頭の良い人間ほど、ひとたび挫折を経験すると、深く深く陰謀論にとらわれてしまうものなのだろうか。イタリアとドイツの宮廷と宮廷お抱えのドイツ人音楽家が「悪徳トライアングル」を形成しているのだ、とレオポルト・モーツァルトは思っていたのかもしれない。ザルツブルクの大学を退学になった反乱も、レオポルトの脳内では「冤罪」ということになっているのかもな、とふと思った。

 

URL: https://kojitaken.hatenablog.com/entry/20101225/1293257565

 

 実際にはイタリア人ではなく独墺系の人間だったマリア・テレジアのせいでヴォルフガングはイタリアの宮廷に雇用されなかったのだが、その事実を知らなかったレオポルトはイタリア人、それにグルックやハッセといった「イタリア人とグルになった」と彼が勝手に決めつけた人たちのせいにしていたのだった。

 しかし、一番悪いのはレオポルトだったのだ。

 なおレオポルトは実際にグルックやハッセを疑って陰謀論的な悪口を言っていたらしい。実際に、ドイツ系の音楽家連中の間にもモーツァルトの才能に嫉妬して反モーツァルトの策謀に関与した人たちは少なからずいたようだが、今でも音楽史上に名を残しており、タワーレコードなどでその作品のCDを現物で買うことができるグルックやハッセなどはモーツァルトを擁護していた人たちなのだった。

 たとえばグルックについては、モーツァルトグルックの主題による変奏曲K455を作曲もしている。以下、森下未知世氏のサイト「mozart con grazia」より。

 

(前略)ウィーンで次第に人気が出てきたモーツァルトに対して、嫉妬から反対派が増え始めたが、長老グルックだけは常に好意的で、モーツァルトの演奏会に度々姿を見せていたという。 そこで1783年3月23日の演奏会ではそのグルックに敬意を表して、1764年に初演され、1780年にドイツ語翻訳のジングシュピールとして上演されたグルックのオペラ「思いがけない巡り会い La rancontre imprévue」(原題「メッカの巡礼者 Les Pèlerins de Mecque」)の中のアリエッタ「愚民の思いは Unser dummer Pöbel meint」を主題に即興的に変奏したのであった。 グルックは、18才も年下の妻が持っていた宮廷との縁故と、自身の控えめな性格のお陰でウィーン宮廷楽団でオペラ監督という定職を得て、1758年から64年まで9本のオペラ・コミックを書いていた。 そのうちの「思いがけない巡り会い」がドイツ語のジングシュピールに改作されて彼の生涯のヒット作になったという。

 

この曲は以上のような状況で成立し、また動機もそこに見ることができる。 この時期に作られたピアノのための幻想曲や変奏曲は同じような理由によるものであり、アインシュタイン

この時期は、彼の偉大なアカデミー(予約演奏会)の時代、彼のピアノ・コンチェルト、管楽器を加えた五重奏曲、偉大なヴァイオリン・ソナタの時代であった。 アンコールが必要になったときは、例えばグルックの『わが愚かなる賤民は言う』による変奏曲などのような変奏曲を即興演奏した。 右の場合は、原曲の作曲者が1783年3月11日のモーツァルトのアカデミーに来場の栄を得たおりのことである。 ときにはまたもっと自由な形式で幻想曲を即興演奏したのである。

アインシュタイン] p.338

と説明している。

 

(中略)モーツァルトは1781年7月に「後宮からの誘拐」の作曲に着手するが、そこで東洋風の異国趣味を帯びた作品の一つとして、グルックの「メッカの巡礼たち」を十分に研究していたようである。 そして自分の作品が完成しても、グルックの他のオペラの完成が優先されることもよくわかっていた。 さまざまな事情(その中には妨害もあったが)から「後宮」の完成には1年近くかかり、1782年7月16日にブルク劇場で初演されたが、圧倒的な好評を得て上演を繰り返すことになった。 それにはグルックの支持もあったという。 その一方でモーツァルトは、老齢のグルックが死去したあと、自分が宮廷作曲家のポストを手に入れるための努力をすることを忘れていなかった。 モーツァルトは決して世間知らずの音楽オタクではなかった。

 

オペラ界は、陰謀、かけひき、策略、罠といった、相手をおとしめ、引きずり落とす術策を弄してやまぬ、おどろおどろしい世界であることは、今も昔も変わりない。 モーツァルトもそうした世界の只中で生きていくことになるのである。

 

確かに父レオポルトが心配して目が離せないという時期もあったが、モーツァルトにはそのような世界で生き抜いていける才能を十分に持っていたようである。 むしろ逆に謹厳実直なレオポルトの方が順応できずにいた。 グルックに対しての評価は悪く、かなり否定的に見ていたことが残された手紙からわかる。 したがって、息子がグルックに(だけでなく、当時のほかの革新的な作曲家にも)近づかないことを望んでいた。 しかしモーツァルトは時代を越えた天才であり、父が望む古くさい型枠に収めきれるものではなかったことは歴史が示す通りである。 イタリア人に牛耳られている宮廷音楽界にあって、それを悔しく思う気持ちを共有していたかもしれず、グルックモーツァルトの演奏会にはよく出かけ、作品を誉め、食事に招待してくれていたのである。 1783年3月23日の演奏会の直前には次のようなできごとがあったことをモーツァルトは父に伝えている。

義姉のランゲ夫人が劇場で演奏会を開き、ぼくも協奏曲を一曲弾きました。 劇場は大入り満員でした。 <中略> ぼくが舞台から去ったあとも、聴衆の拍手が鳴りやまないので、ぼくはもう一度ロンドーを弾かなくてはなりませんでした。 すると、まさに嵐のような拍手です。 これは3月23日の日曜日に予定しているぼくの演奏会のよい宣伝になります。 ほかに、コンセール・スピリチュエルのために書いたぼくのシンフォニーも演奏しました。 義姉は、例のアリア『私は知らぬ、このやさしい愛情がどこからやってくるのか』を歌いました。 ぼくの妻がいたランゲ夫妻の桟敷席の隣に、グルックが来ていました。 彼はぼくのシンフォニーとアリアをしきりに誉めて、次の日曜日にぼくら4人全員を昼食に招待してくれました。

[書簡全集 V] p.346

そのような親密な関係があったからこそ、皇帝ヨーゼフ2世臨席のもとに行われた3月23日の演奏会で、彼の曲を主題にした変奏曲を即興演奏して敬意を表した話につながるのである。

 

URL: https://www.marimo.or.jp/~chezy/mozart/op4/k455.html

 

 また、ハッセもモーツァルト擁護派だった。そればかりではなく、ハッセは息子・ヴォルフガングをスポイルしかねないレオポルトへの懸念を持っていたようだ。

 以下、『モーツァルトは「アマデウス」ではない』から引用する。

 

 ところで、モーツァルトのオペラ妨害に明け暮れた感のあるウィーンで――ほとんどの作曲家、演奏家、歌手などがモーツァルト叩きに回っていた中で――長老のハッセとその親友であるメタスタージォは、共に当時のオペラの世界で最も尊敬を払われた人物であったが、その騒ぎには加わらなかった。というより、暴走する連中に対して、妙な運動はやめて、モーツァルト少年の天才を認めるよう、説得に回った形跡があり、レーオポルトも人伝てに知っていた。いわばメタスタージォとハッセの両大家は “モーツァルト派” だったが、そのハッセがモーツァルト親子について書いた簡にして要を得たみごとな文章がある。

 

 モーツァルト少年はその年齢からみたら確かにすばらしいもので、私は限りなくこの子が好きです。彼の父親は、私の見る限りにおいては、どこへ行っても不平を並べるような人だ。彼は少しばかり少年を崇めすぎており、そのため、この少年をスポイルするようなことを、いろいろやっている。私はあの少年の天分を高く評価するものだから、彼が父親の甘やかしによってスポイルされないで、立派な人間に成長することを願うものです。

(1771年3月23日付 オルテス宛ての書簡)

 

(石井宏『モーツァルトは「アマデウス」ではない』(光文社新書2020)100-101頁)

 

 上記引用文中のハッセの手紙は1771年3月に書かれた。1698年生まれのハッセは70歳を過ぎている。そのハッセは同じ年の10月にミラノの宮廷劇場で行われたフェルディナント大公の結婚式のために、彼の人生最後のオペラ『ルッジェーロまたは、偉大なる感謝の心』を書いた。ところが、そのハッセのオペラが同じ結婚式のために当時15歳のモーツァルトが書いた添え物のはずの劇場セレナータ(踊りをあちこちに取り入れた単純な劇=著者の説明による)と呼ばれる簡単なオペラ『アルバのアスカーニョ』に食われた(人気をすっかりさらわれた)。モーツァルトの伝記の多くにはそのように書かれているらしい。だが石井宏が『反音楽史』に書いたところによると、それがレオポルトの宣伝によるところが大きいらしい。以下、『反音楽史』から引用する。

 

 両者の評判についてモーツァルトの父レオポルトは故郷の妻に向かってこう報告する。

 

 16日には(正式の)オペラが上演され、17日にヴォルフガングのセレナータが上演された。異例なほどの大成功で、きょう再演されることになっている。大公は写譜を2セット注文された。街では廷臣たちやもろもろの人から声をかけられ、若い作曲家は祝福されている。心配していたが、ヴォルフガングのセレナータはハッセを殺してしまった……。

 

 レオポルト・はハッセのオペラには全く人気がなく、息子のセレナータだけが続演されていると手紙に書いたので、多くのモーツァルトの伝記にはハッセがつまらないオペラを書いて少年モーツァルトに敗北したと書いてあるが、記録を見るとハッセのオペラも順調に繰り返して上演されている。

 11月8日、ハッセとモーツァルト父子は少年の才能を高く評価し「こんな才能に出てこられたのでは、われわれは影が薄くなってしまう」と言ったとされている。

 しかし円満な常識を備えたハッセは十分に大人であった。彼が友人に宛てた手紙では、モーツァルトの父は次のように極めて的確に観察されている。

 

(石井宏『反音楽史 - さらば、ベートーヴェン』(新潮文庫,2010)169-170頁) 

 

 このあとに、前に引用したハッセのレオポルト評が書かれた手紙が引用されている(但し訳文は少し異なる)。つまりこの手紙は著者の石井宏がしばしば持ち出す十八番だと推測される。

 イタリア旅行中のモーツァルトでは、他にも怪しい案件がある。それは、14歳の時にボローニャでマルティーニ神父から対位法を学び、難問の試験を短時間で仕上げてボローニャのアカデミアの会員資格を受けた一件だ。

 この試験での答案であるモーツァルトの楽譜が残っているらしく、1980年に吉田秀和の解説でお馴染みだったNHK-FMの『名曲のたのしみ:モーツァルトの音楽と生涯』で紹介された。数年前にその放送の音声がYouTubeにアップロードされた。

 

www.youtube.com

 

 上記リンクの動画の33分25秒くらいから吉田氏が解説を始め、そのあと音楽を聴くことができる「アンティフォン」K44及びK86がそれらの曲であって、K44はレッスンを受ける過程でのモーツァルトの作曲、K86は試験の答案としてモーツァルトが書いたものだと説明されている。しかし同時に、両曲の出来栄えが違い、答案として書かれたK86はレッスン中の作曲とされるK44より聴き劣りすると吉田氏が指摘し、実際にK44にはマルティーニ師の手が入っているのではないかと推測する研究者もいると言っている。

 私はこれらの音楽を全く知らなかったどころか、「アンティフォン」という用語自体初耳だった。Wikipediaによると、

アンティフォン英語/ロシア語) は、キリスト教聖歌の隊形の1つで、合唱を2つに分けて交互に歌う。東西の聖・公・使徒伝承教会(カトリック教会正教会)で、現在も一般的に行なわれている。

とのこと。なお番組で放送された演奏は、佐藤公孝指揮イリス合唱団とのことで、これは東京の国立(くにたち)音楽学校の学生たちを同大学の佐藤公孝教授(当時。現国立大名誉教授)が指揮したものらしい。

 これらの音楽についても前記「Mozart con grazia」を参照してみた。

 まずK44。

 

アカデミア・フィラルモニカの試験は1770年10月9日に行われ、アンティフォン『まず神の国を求めよ ニ短調 K.86 (73v)』を書き上げたことからアカデミア会員の資格が授けられたのだったが、この曲はその練習のために作曲したものといわれ、ケッヘル番号は直前の K.73u に位置づけられていた。 しかし現在は、モーツァルトの真作ではないとし、マルティーニ師の手本を少年モーツァルトが筆写したものと推定され、新全集には載っていない。 その理由はアンティフォン『まず神の国を求めよ』や同時期の『ミゼレーレ イ短調 K.85 (73s)』などと比べて、書法がはるかに成熟し、譜面にも書き損じや訂正がないことであるという。

 

URL: https://www.marimo.or.jp/~chezy/mozart/op0/k44.html

 

 なんと、K44の方はマルティーニ師の手が入っているどころか、マルティーニ師の作品そのものらしい。現在ではそう推測されているようだ。

 次いでK86。

 

ボローニャで、特に対位法の指導を受けていたマルティーニ師の推挙を得て、この向うところ敵なしの天才少年はアカデミア・フィラルモニカの厳格な対位法の試験を受けることになった。 そのためにイタリア旅行の日程が遅れたとする「1770年10月20日」の手紙(レオポルトからザルツブルクの妻へ)が残っていて、それには父親の誇らしい気持ちが書かれている。 詳しい文面を省略して、その内容を簡潔に表わすと

ヴォルフガングは、10月9日、一室にとじこめられ、四声のアンティフォナ《クエリーテ・プリムム・レーニュム・デイ (Quaerite primum regnum Dei)》を書かされたが、ふつうの人では3時間でも出来ないのに、モーツァルトは、1時間もかからずこれを完成し、いならぶひとたちをびっくりさせた。 このため、満場一致で、モーツァルトは、ボローニャのアカデーミア・フィラルモニカの会員になることができたのである。 元来、会員資格は満20歳以上のもので、しかもこのアカデーミアで勉強したものに限られていたが、モーツァルトの場合にはそうした慣例をやぶって特別に与えられたわけである。
同書 p.55

というものである。 そして、ここで作られたのが、この曲(K.86)なのである。 モーツァルトが試験に合格した証拠として、当時の理事長ペトロニオ・ランツィによる文書

我がアカデミア・フィラルモニカの声望と偉大さをより増すことと我が会員の知識とその進歩を公然のものとするために、ザルツブルク出身のヴォルフガング・アマデーウス・モーツァルト氏に1770年10月9日付けで当アカデミアのマイスターコンポニストの称号を授与することに致しました。 多くの会員がその才能と業績を永遠に記憶すべくここに本通知に署名し、当会の印を付します。
[ドイッチュ&アイブル] p.99

が残っている。 さらに、マルティーニ師が「様々な様式を持つ音楽作品を完全にマスターしている」と証明する文書も残されているが、ただし、必ずしも試験の結果が最上の出来だったとは言いがたいようである。 アインシュタインによれば

候補者はグレゴリオ聖歌の一曲を受け取るが、モーツァルトの場合には交誦(アンティフォナ)のメロディーであって、彼は一室に閉じこめられて、それに三つの上声部を《厳格な様式で》作曲しなければならなかった。 ところでモーツァルトは完全に失敗した。 レーオポルトがヴォルフガングの課題の立派な解決能力について言いふらした自慢は「ほら」だということが立証されている。 ボローニャのアカデミア・フィラルモニカと音楽高等学校の文庫には、この事件の三通の文書がすべて保存されている。 すなわち閉じこめられた室内でモーツァルトが仕上げたもとの作品、マルティーニ神父の修正、やがて審査員に提出されたこの修正のモーツァルトの写しである。 親切なマルティーニ神父の助力にもかかわらず、評定は良くなかった。 「1時間足らずののちに、モーツァルト氏はその試作を提出したが、それは特別な事情を考慮に入れれば十分なものと判定された。」 これは人情のある寛大な判断であって、のちにモーツァルトの実力によって正当化されることになった本能的な正しさを含んでいる。 アカデミア・フィラルモニカはその名簿のなかに、ヴォルフガング・アマデーウス・モーツァルトの名以上に偉大な会員、高貴な名を誇ることはできないのである。
アインシュタイン] pp.209-210

ということであり、オカールも「ギリギリの入会許可であり、評点は『可』であった」と述べている。 モーツァルトの神童ぶりを強調するあまり、父レオポルトが多少誇張して書き残した「手紙」をもとに、のちに作られた伝記が「熟練した成人でも難しい試験に、14歳の少年がやすやすと合格した」と言われている有名な曲であるが、実際はそうでもないというのである。

提出された曲は(公式の記録にあるように)、彼が「1時間もたたないうちに」書いたものではなく、マルティーニ神父が手を入れた曲なのである。 アカデミアの実力者である神父は、ヴォルフガングの書いた曲が審査員たちにとって、あまりに個性的だと判断したのではないか。 そして結局、審査員たちはマルティーニ神父の訂正したものを見て、ザルツブルクの若き音楽家モーツァルトが、アカデミア会員となる資格が充分にあると考えたのであろう。
[ド・ニ] p.61

 

さらに、マルティーニ神父がモーツァルトの書いたものを修正したのではなく、師自身が作曲したものを「モーツァルトの曲」として提出したのではないかと推測する説すらもあるという。 もしそれが事実だとすれば、マルティーニ師がそこまでする理由(動機)は何であろうか。 敢えて考えれば、レオポルトから何らかの働きかけがあったのではないかと想像できないこともない。 すなわち、想像をたくましくすれば、音楽の本場イタリアでの目覚ましい成果を必要とするあまりレオポルトが裏工作をしたのではないかと考えられなくもないというのである。 ただし確証もなくあれこれ推測するのは差し控えなければならない。

 

アンティフォンまたはアンティフォナとは、合唱を2つに分けて交互に歌うもので、「交唱」または「交誦」と訳されている。 モーツァルトに課せられた試験では、「交誦聖歌集」から第一旋法のアンティフォナ「Quaerite primum regnum Dei.」が採られ、それをバス声部に置いて、厳格な対位法様式による4声部に仕上げるものであったが、14歳の少年が書いたものには「厳格対位法の観点からは、いくつかの規則違反を犯している」という。 もちろん模範解答として用意してあったマルティーニ神父のものには一つも誤りはない。 ド・ニは次のように指摘している。

これと同じ頃に作曲された交響曲ト長調 K.74)や、あの素晴らしいオペラ『ポントの王ミトリダーテ』(K.87)と比較してみると、モーツァルトが書いた曲もマルティーニ神父が訂正した曲も、大して立派なものではない。 この曲は彼が尊敬する神父と、息子をアカデミアの会員にしたくて仕方なかった父親の両方を、同時に満足させなければならないという緊張感のなかで書いた、様式の稽古用の作品といってよかろう。 したがって、どのモーツァルトの伝記でも素晴らしい手柄のように語られているこの曲は、もっと割引いて考えなければならない。
同書 p.61

様々な見方があるが、アカデミア・フィラルモニカの審査基準を満たしたことは確かであり、誇張された話を差し引いた上で、14才の少年モーツァルトに入会を認めても良いだけの実力があったと考えるべきであろう。 しかしこれだけではモーツァルトのイタリア旅行が大成功ではないことをレオポルトはよくわかっていた。 オペラが書けなければ大作曲家と言えないからである。(後略)

 

URL: https://www.marimo.or.jp/~chezy/mozart/op0/k86.html

 

 実際にK86を聴いてみて、そこにはモーツァルトらしさは何もない上、後年のモーツァルトの作曲につながるものも何一つない。そう私も思った。モーツァルトは後年、ヨハン・セバスティアン・バッハの影響を受けて自らの作品に対位法を取り入れるようになるが、大バッハの音楽は対位法と機能和声とを組み合わせたものであって、教会旋法に基づいて厳密なルールの下で作られ、機能和製の要素を持たないイタリアの古い対位法の音楽とは全然違う。

 ただ、K86がモーツァルトが全く寄与していないという推測はさすが違うのではないか、元の答案の出来があまり良くないからマルティーニ師が手を加えたところで「大して立派なものではない」音楽になったのではないかとは思う。これが最初からモーツァルトが何も関わっていないのであれば、レオポルトはただの嘘つきだと言わざるを得ない。

 以上見てきた通り、レオポルトのヴォルフガングへの仕打ちは確かにひどいし、その上ヴォルフガングを実物以上に大きく見せようとし過ぎである。

 しかしその反面、子ども時代のモーツァルトがいろんな国に出かけて各地の音楽を吸収していったメリットが大きかったことも否めない。特にイタリア旅行での収穫は大きかったと思われる。

 それは何もオペラに限ったことではない。私は昔から第25番ト短調K183より前のモーツァルト交響曲が退屈でたまらず、前述の吉田氏の番組のうち、子ども時代のオペラと交響曲の回はたいてい聴かなかった。同様に弦楽四重奏曲もケッヘル100番台はダメだろうと勝手に決めつけて第14〜19番のハイドン・セットとそのあとに書かれた4曲の計10曲しか知らずにいた。しかし、昨年末にイタリア四重奏団が弾いた弦楽四重奏曲全集のCDを買い、第2〜7番のミラノ四重奏曲6曲の瑞々しさに驚かされた。いずれも3楽章構成のこれらの曲は、イタリアで興り始めた弦楽四重奏曲*1の数々に影響されて書かれたと思われるが、それはモーツァルトが父から与えられた課題を黙々とこなしているという印象しか持てなかった子ども時代の交響曲の数々とは全く印象が異なる。しまった、もっと早くこれらの音楽に接しておけば良かったと思ったのだった。子ども時代のモーツァルトにもその後の時代にはない良さがあることに今頃気付いたのは大きな不覚だった。

 ここまでさんざんレオポルトの悪口を書いてきたが、あの時代にヴォルフガングの天才を引き出すにはあのようにやるしかなかったのかもしれない。我が子を猿回しの猿にして「神童ショー」を続けたり、その才能を実際以上に粉飾しようとしたり、あまつさえ陰謀論にかまけたりしたことは許し難いけれども。

 しかし権力(権威主義)や階級などの抑圧の強い社会は特にダメだ。現在の日本では世襲貴族は牛耳ってきた自民党政治の問題点がここにきて噴出している感がある。これなども今後この国に住む人間が徹底的に改めなければならない大きな課題だろう。

 なお今回取り上げた石井宏氏について少し書いておくと、ドイツ至上主義の音楽史観に挑む姿勢が今世紀に入ってからの氏の著作の大きな特徴だが、氏は音楽評論家であって、1980〜90年代にはモーツァルトのCDのライナーノーツを多數書いた人だ。特にピリオド楽器によるモーツァルトのCDに高い確率で解説文を書いている。私は1980年代後半からピリオド楽器によるモーツァルト演奏にずいぶんはまったから、石井氏がライナーノーツを書いたCDを多数持っている。だから石井氏はもともとモーツァルトの時代のドイツ音楽が専門の人だろうと思っている。氏は1930年生まれだが、おそらく60代以降にいわゆる「クラシック音楽」のドイツ至上主義批判に注力するようになったものであろう。確かに西洋の芸術音楽の歴史は、その大前提から疑って再構築しなければならないのではないかとは私も思う。

*1:弦楽四重奏曲の父」と呼ぶべきはハイドンではなくイタリアの作曲家たちであろう。但し私は一時期ハイドンにもずいぶんはまった。少年時代のモーツァルトを圧倒したらしいハイドンの作品20には私も圧倒された。私がiTunesに入れて聴いた弦楽四重奏曲のうち、モーツァルトニ短調K421とともにハイドンヘ短調作品20-5が特に再生の頻度が高かった。そういえば吉田秀和氏の番組の「私の視聴室」の回で、確か1982年か83年に東京クヮルテットによるハイドンの作品20-4と作品20-5が紹介されたと記憶する。それをエアチェックしてよく聴いた。その後はモザイク四重奏団によるハイドンピリオド楽器による演奏のCDをずいぶん集めもした。