KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

モーツァルトのピアノ協奏曲第25番第1楽章は全曲が「運命の動機」に支配された、まさにベートーヴェンを呼び込まんばかりの音楽

 すっかり暇なし状態が続いてしまった今年の12月だが、家に仕事を持ち込んだ時にも、その仕事をやりながら音楽だけは聴けるので、10月末に買い込んだマレイ・ペライアモーツァルトピアノ協奏曲全集を2か月かけて聴き終えた。私は渋谷のタワーレコードの店頭で、10年以上前に「初回限定生産盤」としてソニーミュージックから出たこの"Made in E.U."の12枚組を3千何百円で買った。これは紙の箱に紙ジャケット入りの12枚のCDが収められているだけで、英語仕様、解説が記載された冊子もついていない簡素なものだが、慣れ親しんだモーツァルトのピアノ協奏曲に日本語や英語の解説など全く要らないのでこれで良いのである。現在はさらに値引きされてネットで買えるようなので、以下にタワーレコードのサイトをリンクする。これは思わぬ掘り出し物だった。

 

tower.jp

 

 下記は2012年についたはてなブックマーク。円安の今でも3千数百円だが、2012年には2190円だったらしい。それがまだ在庫として残っているようだ。先日2か月ぶり谷のタワレコに行ったら同じ品がまた置いてあった。

 

マレイ・ペライア/Mozart: The Piano Concertos<初回生産限定盤>

全集としては最高と評判のペライア演奏のモーツァルト・ピアノ協奏曲全集CD12枚セットが現在2190円。迷わず買うべし。自分も買った。本当に好かった。ステマに非ず。

2012/02/25 23:25

b.hatena.ne.jp

 

 現在ならペライアの弾くモーツァルトの協奏曲はSpotifyその他に月額の料金を払っている人なら余分な出費なしで聴けることは知っているし、私もSpotifyYMOのアルバムのうち最初の何枚だかだとかジャズ、それに太田裕美のアルバムなどを聴いた。後者では太田のさるアルバムに収められた曲がジョン・ゾーンを刺激して "Forbidden Friut" =下記リンク=を作らせたのではないかと思ってしまった。

 

www.youtube.com

 

 しかし、モーツァルトのピアノ協奏曲のように同じ曲種で20曲以上もの名作が残されている作品群では、全集盤のCDを手元に置いて、といっても私は1枚聴くごとにアップルのミュージック(旧iTunes)に入れて、2度目からはそちらで聴いているので手元にCDを置く必要は必ずしもないわけだが、通して聴いてモーツァルトの音楽の変遷を知ることができたのは大変に良かった。

 そういえばアガサ・クリスティのミステリ群もほぼ成立順に読んでいて7作を残すまでになったが、若い頃には作中のヒロインに無邪気にイギリスの悪名高い帝国主義者(植民地政治家)セシル・ローズ(1853-1902)の現ジンバブエ(一時期、ローズの名前をとったローデシアと言っていた時代もあった)にある墓参りをさせて読者の私をむかつかせていたクリスティにとって、晩年(1965年)のイギリスのあり方は苦々しいものだったに違いない。

 前者の「若い頃」の作品は『茶色の服の男』(1924)を指す。

 

ameblo.jp

 

 上記リンクには「中村能三(なかむら・よしみ, 1903-1981)訳」とあるが、現在では深町眞理子による新訳版に置き換えられている。

 

www.hayakawa-online.co.jp

 

 上記埋め込みリンクの画像をご覧の通り、私のような年寄りの男が本屋のレジで買ったり図書館の窓口に持って行って借りたりするのにはいささか恥ずかしい表紙だが、折良く職場近くの図書館が、土日などに時々行く南砂町の江東図書館などではかなり前から導入されていた自動貸出機を導入したばかりだったので、恥ずかしい思いをすることなく借りることができた。2009年からつけている読書リストを参照すると、読んだのは2021年6月下旬だった。

 それが41年後に書かれた1965年の『バートラム・ホテルにて』になると様相が一変する。

 

www.hayakawa-online.co.jp

 

 このハヤカワ・クリスティー文庫ではミステリ評論家・佳多山大地(1972-)の解説が秀逸だ。巧みにネタバレも避けられているので、以下に引用する。

 

 熱心なクリスティーファンにとって、本書は衝撃的な内容を含んでいます。作品の肝となるところだけに迂遠な物言いをしますが、ミス・マープルが娘時代に来たときとほとんど変わらぬ印象を覚えるバートラム・ホテルとは、まさしく時代の変化とは無縁のヴィレッジ・ミステリ的空間――グランド・ホテル形式のセント・メアリ・ミード村――と言えましょうが、長き年月にわたり、かの世界の中心に居続けた名探偵役自身、その舞台装置がそこはかとなく醸し出す“ウソ臭さ”をはっきりと認知するに至るのです(老嬢は事件の真相を悟るのに、「変れば変るほど同じことになる」というフランスの警句をチェスタトンばりに逆立ちさせて――「同じであればあるほど、物は変る」もまた真なりと喝破します。要するに、クリスティーが本書の下敷きにしたのは、偉大な先達チェスタトンの『詩人と狂人たち』だったかもしれません)。

 

アガサ・クリスティー『バートラム・ホテルにて』(ハヤカワ・クリスティー文庫2004)414頁)

 

 本作はミステリ作品として優れているとは全くいえない。物語の後半、それも全体の7割ほどの達してやっと起きた事件の犯人は、クリスティ作品のパターンを熟知している人間にとっては意外でもなんでもない。複数のポワロ探偵ものに用いられたパターンからしておおよそ見当はついたが、これもクリスティの初期作品によく見られた多重どんでん返しで読ませる。でも最後はやはりあの人が犯人だったか、というところだった。やっぱりあの人以外にあり得ないよなあと思った。後期クリスティにはこうした見当がつきにくい作品が多かったのだが、こうして初期のパターンに回帰しながら、読後感が初期作品とはかなり異なるのは、クリスティがミス・マープルに言わせた「同じであればあるほど、物は変る」の例なのかもしれない。

 こうして書きながら思い出したのは、日本の少なくない読者が誤読したカズオ・イシグロの『日の名残り』(1989)だ。ノーベル文学賞を受賞したことで読者が増えた(私もその一人だ)イシグロのこの作品を読んで「『三丁目の夕日』が好きな読者が好みそうな小説だ」と書いた人がいたが、それこそ私の言う誤読の典型例だ。イシグロは「信頼できない語り手」の技法を用いてまさにそれを逆立ちさせ、「同じであればあるほど、物は変る」ことを見事に示した。

 またこれらのイギリスの例は、その西岸良平の『三丁目の夕日』から直ちに連想される安倍晋三(1954-2022)がつい先年まで権勢を誇っていた「安倍派」の違法行為が暴かれ始めて自民党政権を存亡の危機に至らせようとしている現在の日本とも通底する。ことに日本は昔からイギリスをお手本にし、マーガレット・サッチャー(1925-2013)が1979年に新自由主義の悪政を始めるや、アメリカのロナルド・レーガン(1911-2004)に続いて中曽根康弘(1918-2019)がサッチャーを模倣し、後年には小泉純一郎(1942-)が竹中平蔵(1951-)と組んで、アメリカには及ばないかもしれないが本家のイギリス以上にネオリベが跋扈する国にしてしまったし、選挙制度に関しても小沢一郎(1942-)が旗を振った「政治改革」の名の下に衆院選選挙制度をイギリスに倣って小選挙区制中心に作り変えてしまった。結果的に、それが1993-94年と2009-12年の二度の政権交代はあったものの、自民党政治を今日まで延命させた大きな元凶になっている。

 そんな日本にあっても、ゴリゴリの保守人士だったアガサ・クリスティが晩年の1965年に、間違いなく苦い思いを込めて「同じであればあるほど、物は変る」と書いたことはまことに興味深い。

 本論にするつもりだったモーツァルトから大きく逸れてしまったが、クリスティの人生に20世紀イギリスの社会の変遷が大きく反映されているように、モーツァルトの人生にも18世紀ヨーロッパの社会の変遷が大きく反映されている。

 私はモーツァルトのピアノ協奏曲を年代順に聴きながら、並行して1980〜87年にNHK-FMで放送された吉田秀和(1913-2012)の『名曲のたのしみ モーツァルト その生涯と音楽」の音声ファイルがYouTubeにアップロードされていることを知ってそれを時々聴き(第1回から第16回までと、ケッヘル300番前後の作品について語られている何回かを聴き終えた)、さらに近年のモーツァルト研究が反映されている Mozart con grazia というサイトを参照しながら、おそらく1980年代で時間が止まっていた私のモーツァルトの音楽に関する認識をアップデートしながら、かつてはその音楽には強い関心を持ちながらその生き方にはあまり関心があったとはいえないモーツァルトの人生に初めて関心を持つようになった。これがここ2か月ほどのことだ。

 今回特に取り上げたいのはピアノ協奏曲第25番ハ長調K.503、特にその第1楽章だ。下記にSpotifyのサイトにあるペライアの演奏のリンクを示す。但しプレビュー版だと途中までしか聴けないことをおことわりしておく。

 

open.spotify.com

 

 私がモーツァルトのピアノ協奏曲で一番好きなのは第24番ハ短調K.491だった。学生時代にはその1つ前の第23番イ長調K.488が一番好きで、第24番はむしろピンとこない曲の筆頭だったが、20代後半だった1980年代後半、おそらく1987年か88年にグレン・グールド演奏のCDを聴いて、印象が一変した。モーツァルトは好きではないと公言していたグールドがただ1曲だけ残したモーツァルトの協奏曲がこの第24番だった。それはいかにもバッハの演奏で名を馳せたグールドらしい演奏であって、万人におすすめできるものでは決してないが、第24番の協奏曲自体が聴き手を選ぶ曲だと指摘した人がいる。創価大の山岡政紀教授だ。31年前、当時30歳の山岡氏は下記のように書いた。

 

モーツァルトを旅する(22)  ピアノ協奏曲第24番ハ短調K491 ー人間の魂の実像ー

 

 これが本当にモーツァルトの音楽だろうか──

 いつだったかは忘れたが、初めてこの曲を聴いた時の驚きは決して忘れることができない。

 ──不思議なる音楽、モーツァルトのピアノ協奏曲第24番。それはすべてのピアノ協奏曲の最高峰であった。

 24番を旅したならば、その旅行記もまた最高の言葉に満ちていなくてはならない。2年に及ぶ連載の中でも、これほど緊張する瞬間があったろうか。その時が今、訪れているのだ。

 しかも、この曲は間違いなく聴く者を選ぶ。誰でも感動できる代物ではない。だからこそ余計に、その局所的な己れの感動を普遍的な言葉に翻訳することにためらいを覚える。

 だがそのことはこれ以上、言うまい。この旅行記は読む人におもねることはないかもしれない。それでもいい。自己満足と言われてもいいのだ。24番がモー ツァルトの真実の独白であるならば、この旅行記はその上を旅した私の真実の独白であっていいのだ。

 

(中略)

 

 果して24番が我々に訴えかけたものは何だったのだろう。23番(K488)が宇宙や自然との調和に霊感を受けたものとすれば、24番は対照的 に、人間の魂という大宇宙からの霊感を受け、苦悩、怒り、孤独をありのままに描きつつ、それから逃げることなく、凝視し続けたことの結実ではないだろう か。その中にあって第2楽章がもたらす安堵感は計り知れないほど澄み渡っている。苦しみも喜びもあってこそ真の人間の姿であることを全面的に受け入れよう としているように私には思えてならない。

 この曲をモーツァルトの全作品中、唯一の真実の叫びと敢えて私は断定したい。涙を催させることのできる希有の音楽である24番への畏敬の念と、その感動 を伝えてくれた内田光子への感謝の念を表明しつつ、筆を置きたい。

 

(『Oracion Vol.3 No.12 <1992.12> モス・クラブ刊より)

 

URL: https://home.soka.ac.jp/~myamaoka/mozart22.htm

 

 私は昔から内田光子が苦手で、ジェフリー・テイト(1943-2017)との共演も1986年録音の第22,23番をカップリングしたCDがピンとこなかったのでそれ以来内田のCDを1枚も買うことなく今に至っている。それはともかく、第24番が「苦悩、怒り、孤独をありのままに描きつつ、それから逃げることなく、凝視し続けたことの結実」だとの表現には、特に「孤独」の一語について強く共感する。グールドの演奏、ことに変奏曲形式で書かれた第3楽章の第8変奏がその極北だった。この楽章は、モーツァルトが書いたあらゆる変奏曲の頂点に位置するものだと私は考えている。第5変奏などにちょっとバッハ的な響きもあり、だからグールドがこの曲にだけは少し惹かれたのかとも思ったが、驚くほど遅いテンポで弾かれた第8変奏には驚かされた。そしてこの変奏から感じられたのが「孤独を直視する人間の姿」だったのだ。

 このようにして、私は第24番を一推しするようになった。しかし、山岡氏が第24番と並べて下記のように称賛した第25番の良さは、長年わからなかった。

 

モーツァルトを旅する(21)  ピアノ協奏曲第25番ハ長調K503 ー栄光への憧憬ー


 永遠に不滅の二人の大作曲家、ベートーベンとモーツァルト。この二人の人間性をめぐって後世の我々は様々な思いを巡らす。モーツァルトは・・・あふれ出る楽想のままに、変化に富んだ27曲のピアノ協奏曲を生み出し、音楽の可能性を開き、ベートーベンへの道を創った。ベートーベンは・・・その偉大な10曲の交響曲で、二管編成の近代オーケストラの形態を完成させ、交響曲というジャンルを古典音楽の中心に据える役割を果たした。

 二人の音楽を対比して、ベートーベンは男性的である一方、モーツァルトは女性的だという評論をしばしば耳にする。力強さと優しさ、壮大さと優美さ、いろ んな言葉で二人は対比された。なるほどそうかもしれない。しかし、そのことが意味しているものは何なのか。その本質は決して単純なものではない。なぜかならば、モーツァルトはれっきとした男性なのだ。彼を支えた創作への強い意志は、むしろ男性的な強靭さを感じさせるほどである。彼は一体、本当に女性的なの か、もしそうであるならば、何がそうさせたのか。

 端的に言うならば、ベートーベンは度重なる苦難を不屈の精神で乗り越え、勝利していった人であったのに対し、モーツァルトは苦難に対し、余りにも従順で あり、不遇の人生を甘んじて受け、そして早逝した人だった。その素直さのままに、彼の音楽もまた流れるように自然で、純粋で、何か無抵抗な点において女性的なものを感じさせた。このように見ていけば先に述べた両者の対比はそれなりに首肯できる。

 だが、それだけでは、二人の音楽に一つの流れがあったことを、受け継がれたものがあったことを見落としてしまうのではないだろうか。モーツァルトが内に 秘めたまま世を去った、勝利の賛歌、栄光の凱歌。ベートーベンはそれを継承し、モーツァルトとは違った生き様の中で、それを形に表したのだ。

 これだけは確かに言える。もし、この世にモーツァルトが存在しなかったならば、ベートーベンもまた、存在しなかったであろう、と。

 モーツァルトがベートーベンへの道を作った曲を一曲挙げよと言われれば、私はまず、「一曲だけ挙げることはできない」と断わって、ピアノ協奏曲第24番ハ短調(K491)と第25番のペアを推すであろう。そして許されるならば、交響曲第40番ト短調(K550)と第41番ハ短調(K551)、弦楽 五重奏曲第3番ハ長調(K515)と第4番ト短調(K516)、そしてピアノ協奏曲第20番ニ短調(K466)と第21ハ長調(K467)と、合計4組8 曲を挙げるだろう。これらのペアは、いずれもそれぞれがほぼ同時期に作曲され、しかも全く対照的なハ長調短調のペアなのである(このことは連載第5回で も述べた)。

 私自身にとっても、モーツァルトの音楽の中で、私が最も愛するのがピアノ協奏曲第17番(K453)であるならば、最も尊敬するのは1786年に生まれた第24番と第25番のペアである。

 神の存在を信じさせるほどの、人間を超えた神秘性を持つ最高の作品、24番。そこには苦悩、孤独、憂愁、悲嘆、様々な激しい感情がうずまいている。背筋 が寒くなるようだ。

 それに対し、25番第1楽章の冒頭の壮大さ、快活さはどうだろう。勝利を収めて凱旋する王者の行進のように堂々としている。24番において問題提起されたものが、すべて解決したような安堵感がここにはある。モーツァルトにしては珍しく、男性的な強さを感じさせる。

 しかし、この第一印象は、直後にハ短調のモチーフが現れることによって早くも変更を余儀なくされる。そして、短調長調の間を行ったり来たりする心の振 幅こそ、ああ、これがモーツァルトだったんだ、と思い出させられるのである。

 再び、壮麗なトゥッティの後にあまりにも対照的なこじんまりとしたピアノ独奏が登場する。何人もの大男が大事に抱き上げたカゴの中から、少女が顔をのぞ かせて、大男にか弱い声で語りかける、そんな感じがするほどかわいらしい。

 不思議なことに、そのかわいらしい旋律にかぶさるように再び冒頭の壮大なテーマがオーケストラとピアノの共同作業で始まるのだ。そして、ふと気が付くと、ピアノは23番のような流麗なパッセージを奏でている。第2主題もまた少女がピクニックをしながら歌う鼻歌のように優しい。

 楽章全体を通じて何度も登場するフランス国歌風の主題も特徴的だ。このまま国歌を歌いあげるように高まっていくのかと思うとすぐはぐらかされる。

 圧巻は展開部である。国歌風の主題が一音ずつ上げて繰り返される。その間、妙な緊張感が高まっていく。歌い上げたい歌があるのに、力が足りず歌いきれない。くやしくてもう一度歌おうと試みるのだが、やはり力尽きる。それを繰り返すうちに、突然フガートとなり、この国歌風のモチーフがピアノ、オーボエファゴット、弦楽器、ピアノ、オーボエ、フルート、弦楽器と入り乱れ、魔法をかけられているような緊張感を維持したまま続き、ようやく落ち着きを取り戻し たかと思うと、再び再現部となり、壮大なテーマに突入する。この展開部にはモーツァルトの作曲技術の粋が集められていると言ってよい。

 壮大のように見せかけて実は繊細なこの楽章から私が感じるものは、強さ、栄光への憧れである。モーツァルトが胸に秘めていたもの。まだ直に手にしてはい ないものの、しかし、それがどんな形をしているかを彼は知っていたのだ。

 彼は決してただ苦難に甘んじたのではなかったのだ。

 ベートーベンは、この楽章に見えかくれする男性的な力強さから、恐らく多くの啓発を受けたろう。そして、彼は人生の格闘を続けた末に、モーツァルトが手にしなかったものを直に手にしたのだ。

 この楽章から我々は、確かにベートーベンへと続く道が見えてくるのである。

 

(中略)

 

 この音楽の素晴らしさを教えてくれたのは内田光子だった。イギリス室内管弦楽団との息もピッタリである。凝縮された精神性を表現できる女流ピアニ ストとしては、内田こそ日本で随一であると言ってよい。

 そのCDは24番とのカップリングであった。この一枚は希有のCDである。モーツァルトの真実のすべてが凝縮され、時間を止めてしまったあの24番のあとに、それを打ち消すかのように未来に向かおうとする25番。やはり、この二曲は一つの組をなしているのだ。

 24番について語る日もいよいよ近いようだ。

 

(『Oracion』 Vol.3 No.11 <1992.11> モス・クラブ刊より)

 

URL: https://home.soka.ac.jp/~myamaoka/mozart21.htm

 

 それが今回初めてわかった。それは、おそらくペライアの演奏を聴いたからわかったのではなく、モーツァルトの全ピアノ協奏曲を、先達のソナタを編曲して音楽を学習する段階だった第1〜4番から順を追って聴いていったから初めてわかったのだと思う。

 曲の冒頭、オーケストラがトゥッティの強奏でハ長調の分散和音をゆっくり下降していく第1主題から私がいつも連想するのは、壮大な日の入りの光景だ。しかしそのあといきなりハ短調に転じてベートーヴェンの「運命の動機」に当たる「タタタタン」が出てくる。すぐにハ長調に戻ってヴァイオリンが上行音階を奏でるが、その間も低弦は「運命の動機」を鳴らし続ける。そのあと、西欧の学者や聴き手が「ラ・マルセイエーズ」を思わせるという経過句が、フランス国歌の長調ではなくハ短調で奏される。やがてフランス国歌風の経過句はハ長調に転じる。このように、目まぐるしくハ長調ハ短調を行ったり来たりしながら「運命の動機」が奏される。

 この楽章に「運命の動機」が出てくることには、初めて聴いた中学生の頃から気づいていたが、それが「ベートーヴェンに直結する音楽だ」と感じたのは今回が初めてだった。今まではずっと漫然と音楽を聴いていただけだった。

 実はフランス国歌風の経過句も「運命の動機」からできている。「タタタタッタッタッタッター」という節だが、最初の「タタタタッ」のあと音価を倍にした(テンポを半分にした)「タッタッタッター」も「運命の動機」なのだ。それどころか山岡氏が「少女がピクニックをしながら歌う鼻歌のように優しい」と評した第2主題の後半でも「運命の動機」が二度鳴らされる。しかもこのト長調の第2主題もしばしばト短調に傾く。提示部が「運命の動機」とともに終わるとト長調のの並行調のホ短調に転じて再び「運命の動機」からなる経過句が奏される展開部が始まるが、この展開部はもう「運命の動機」だらけだ。

 実は「運命の動機」はベートーヴェンだけではなく、ハイドンモーツァルトの音楽にしばしば出てくることを弊ブログの以前の記事にも書いたことがある。ハイドンの第49番とされる変ホ長調ソナタ、それに作品50-4、嬰ヘ短調弦楽四重奏曲のそれぞれの第1楽章がその例だし、モーツァルトでは管楽器のためのハ短調のセレナードK.388の第1楽章がもっとも目立つ例だ。調もベートーヴェンと同じハ短調だし、展開部が「運命の動機」だらけだというのも同じ。しかしそれらの音楽は、楽章全部がほぼ「運命の動機」で統一されているわけではない。それに対してモーツァルトのピアノ協奏曲第25番の第1楽章は楽章全体が「運命の動機」で統一されていると言っても過言ではない。だから「ベートーヴェンを呼び出さんばかりだ」と思ったのだ。

 実は、ベートーヴェン自身が書いたピアノ協奏曲第4番(ト長調作品58)の第1楽章がまさにそういう音楽だ。冒頭にピアノがいきなり奏する第1主題は第2音から第13音までに「運命の動機」が3度繰り返され、楽章全体が「運命の動機」からできている。第2主題だけは別だが。この曲では「運命の動機」は同音反復の4音からできているが、この点ではモーツァルトのK.503(第25番)と同じだ。ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番がモーツァルトのK.491(第24番)から強い影響を受けていることは自明だが、第4番もまたモーツァルトの第25番なくしては生まれなかった音楽かもしれない。仮にベートーヴェンが第25番を知っていた(聴いたことがあった)なら、との仮定の上に立った話ではあるが。

 なお、モーツァルトがピアノ協奏曲の一つの楽章を特定のリズムパターンで埋め尽くしたのは、何も第25番が初めてではなかった。第19番という先例があった。このことを教えてくれたのも前記の山岡政紀教授だった。以下引用する。

 

モーツァルトを旅する(9)  ピアノ協奏曲第19番ヘ長調K459 -素材から構築美への飛躍ー


 1784年に書かれた6曲のピアノ協奏曲(第14番~第19番)は、そのいずれもが名曲であることは既に本連載でも再三述べた。特に14番と17番のそれぞれの第2楽章の美しさはたとえようもない。しかしながら、注目すべき点はこれら二つの楽章に限らない。第1楽章に目を移してみると、16番以降の4曲では、軽快なタンタッタタンタンという統一されたリズムを主題に用いて実に多様な音楽作りをしている。今回は、このよく知られた特徴に注目してみたい。

 素材であるタンタッタタンタンは、全く多様な味付けで料理されている。16番(K451)では、モーツァルトの初期に数多く見られる序曲形式の交響曲を思わせる、シンフォニックなメロディーに。17番(K453)では、優雅にかつ、躍動的に舞う舞曲風のメロディーに。18番(K456)では物静かで優しそうな女性的なメロディーに。そして、最後の19番では、行進曲風の華やかなメロディーに。同じモチーフを続けて用いながら、これほど表情の異なる多様な音楽を作り上げることのできるモーツァルトはやはり天才である。

 このモチーフは、これら4曲のピアノ協奏曲に限ったものではない。今、私が思い付くだけでも、バイオリン協奏曲第4番「軍隊」(K216)、セレナーデ第6番「セレナータ・ノットゥルナ」(K239)、フルート協奏曲第1番(K313)では、それぞれ第1楽章の冒頭の主題に、タンタッタタンタンが用いられている。また、第1主題ではないものの、交響曲第35番「ハフナー」(K385)やピアノ協奏曲第27番(K595)では、経過句として、このモチーフが用いられている。

 さて、楽章全体とこのモチーフとの関わりの深さには濃淡がある。17番では第1主題の初めの1小節にこのモチーフが用いられているに過ぎない。それに対し、19番では、驚いたことに、第1楽章の最初から最後まで、展開部でさえも、ずっとこのタンタッタタンタンのリズムによって作り上げられている。スコアで勘定したところ、全405小節のうち、102小節にこのリズムがあった。展開部はニ短調でピアノが低音から高音に駆け上がり、頂点で不安定な動きをする。そのとき、木管がタンタッタタンタンを重ねている。これまで第1楽章の第1主題のモチーフとして明解で快活なイメージのあったこのモチーフが実に暗い影を落しているのである。ここに20番の第2楽章の中間部の嵐との類似を見いだすのはさほど困難なことではない。展開部から再現部への以降は、ちょうど雨が止み、雲間から日光が射してくるような安堵感があるが、ここでも終始、タンタッタタンタンが用いられている。同じ素材が1曲の中でも実に表情豊かに、様々な顔を見せている。本当に不思議とすら言える曲である。

 16番が作曲された1784年3月からこの19番が作曲された同年12月までわずか10ケ月の間に、同じモチーフをもとに4曲のピアノ協奏曲を作曲しているが、素人的な発想では、作曲時期が近いだけに、全く異なる音楽を作ろうと考えるのが自然である。しかし、モーツァルトはしつこいほど同じモチーフにこだわり、しかも結果としては確かに異なる音楽に仕上がっているというのがおもしろい。これはモーツァルトの自信の表れではないだろうか。彼の音楽的才能は、単に美しいメロディーを作り上げることにあるのではなく、まるで建築士か料理人のように、どのような素材であってもその組合せ、組立て、という全体的構築において、発揮されたと言ってよい。だから、同じモチーフだろうが何だろうが、それをどんなふうにでも料理できるという自負がなければ、このような試みはできないと思う。そして、18番で既に3曲までこのモチーフで作曲しているにも関わらず、発想をかえるどころか、極め付けの、タンタッタタンタンだらけの曲を作ったのである。このあと、年が明けて、初めての短調のピアノ協奏曲である20番で大きく曲想を変えていることからすると、この19番は、1984年の6曲のピアノ協奏曲の総仕上げであり、4曲の姉妹作品の中でも総仕上げであり、さらに偶然だとは思うが、10番代の総仕上げとも思える。

 この曲は、6年後の1790年10月、皇帝レオポルト二世の戴冠式の際に、「戴冠式」のあだ名を持つ26番と共に演奏されたので、「第二戴冠式」とも呼ばれる。しかし、順番から言っても、曲の仕上がりから言っても、こちらが「第1」で、26番こそ「第2」と言ったほうがよいのではないかと思う。13番とそっくりの26番は、14番での飛躍的向上の以前に逆戻りしたような曲である。もちろんそれはそれなりに上品で楽しい曲であることは本連載の第1回でも述べた通りだが、19番のこの徹底した構築美にはとても叶わないと言えよう。(後略)

 

(『OracionVol.21 <1991.9> モス・クラブ刊より)

 

URL: https://home.soka.ac.jp/~myamaoka/mozart09.htm

 

 実は、この第19番も第25番と同様、これまで私にはよくわからない曲だった。正直言って、今回モーツァルトの全ピアノ協奏曲を2か月かけて順番に聴き通しても、第25番を聴き直した時に感じた「天啓」のようなものは第19番からは得られなかったが、その後山岡氏の作品論に接して、こういう観点があるのかと目から鱗が落ちる思いだった。いつか第19番の真価が私にもわかる日がくるかもしれない。

 前述の通り、第25番から新たに得られた感覚はまさに「天啓」であって、ベートーヴェンはこの曲を知っており、それから影響を受けたに違いないと私は確信したのだった。そこでネット検索をかけたら、私が感じたまさにその通りのことが書かれた文章に行き当たった。それを最後に紹介する。ソナー・メンバーズ・クラブという団体のサイトに収められた東賢太郎氏の記事だ。東氏は過去に日本の大企業の役員を務めたが、その役員を辞めて起業家となった経歴をお持ちのようだ。

 

sonarmc.com

 

モーツァルト ピアノ協奏曲第25番ハ長調 K.503

2014 JAN 3 2:02:22 am by 東 賢太郎

 

<どうして25番なのか?>

 

モーツァルトのピアノ協奏曲の最初の稿を25番から始めるのは意味がある。

 

この曲は作曲の動機もわからず専門家の間でも評価が二分する。だが僕は大好きだ。堂々としたハ長調はジュピター交響曲の調であり、第1楽章の展開部では6声のポリフォニーがその終楽章を予感させる。弾むようなリズムが高揚したハレの気分のうちにどこか典礼風な格調を添え、雰囲気は「戴冠式ミサ曲」K.317の「クレド」に似ている(というより、そっくりだ)。明るいだけではなく、副主題はたいそう頻繁に短調に転じて微妙な綾と翳りを織りなしていく。

 

第2楽章は謎めいたロマンティックな表情をはらみ、これを書いたころのモーツァルトの心中にある秘匿された何ものかを暗示する。第3楽章はオペラ「イドメネオ」のガヴォットの主題だがやはりどこか典礼の気分があり展開部の転調の見事さはドン・ジョバンニの世界を垣間見る。この終楽章が見事に演奏されたときの晴れやかな気分は替え難い喜びだ。ピアノ協奏曲の中で最もシンフォニックなのが25番である。

 

しかしそれだけならそこまで魅かれたりはしない。非常に不思議な曲なのだ。24番は明らかに不思議の衣装をまとっている。誰が聴いても不可解なほどに悲痛であり、モーツァルトの心を覆っていた何ものかは誤解しようがないほど如実にその姿を見せている。ところがこの25番はハレの衣装を着ている。だからその裾や胸元からちらりとのぞく「影」が漆黒の不気味さで聴き手に迫ってくるのだ。その影がなんだったのか、僕はとても知りたい。

 

モーツァルトのピアノ協奏曲を初めて聴きはじめるなら普通まずは人気で横綱級の20番、23番、27番あたりから入るだろう。次いで9番、14番、17番、19番、21番、22番、 26番というところが大関、小結グループ。24番と25番は一般にはそのグループに位置するだろうが、僕はこの2曲を横綱に入れ、いやむしろその上に置いてもいいと考えている。

 

24番(ハ短調K.491)に「フィガロの結婚」(K.492)が続き、25番(ハ長調K.503)に交響曲第38番「プラハ」(K.504)が続くのも興味深い。この4つが作られたあたりがモーツァルトのウィーンでの人気がピークアウトしたころであり、フリーメーソンに深入りした時期であり、プラハで人気が上昇していくころである。ベートーベンがウィーンでモーツァルトに会ったのはこの2曲が書かれた翌年だ。つまり24番、25番は最新のピアノ協奏曲だった。24番がベートーベンの3番のモデルだったことは再三書いたが、25番はどうだろう?

 

<運命動機は25番から来た?>

 

僕は24番だけでなく25番も後輩に影響を刻印した、つまり、第5交響曲の運命動機はここから来たと信じている。下の楽譜は25番の第1楽章だ。赤枠にそれが明確に出てくる。ここだけではない、各所に タタタターンが現れる。この音型がパッセージの一部やカデンツァとして現れる例はいろいろな作品で枚挙にいとまがないだろう。しかしここでのように、あたかも何か宗教儀式の合図でもあるかのように、それだけが裸で意味深長に鳴る例は知らない。この赤枠部分が僕に想起させるのは魔笛にでてくるザラストロの神殿の秘教的な雰囲気だ。それがフリーメーソンと関係あるかどうかはわからないが、そうであっても不思議ではない。

 

運命動機は第1楽章でも第2楽章でも支配的である。前者の展開部などそれの嵐といってもいい。最初の「タ」を2つに割ったタタタンタンタンというリズムは第1楽章トランペットの合いの手のパンパカパンパンパンや第3楽章に現れ、それは同じハ長調のジュピター交響曲に特徴的なリズムである(第4楽章のエンディングを想起されたい。25番のそれも同じだ)。ジュピターにもやはりある祝典的な雰囲気は25番と無縁でない。ジュピターも運命も25番も、冒頭に短いが強力な「リズム動機」を弦楽器群が叩きつけて開始するのは同じである。そして、それは魔笛の序曲においてもまた同じなのである。

 

(楽譜の引用を省略=引用者注)

 

そして青枠の部分を見ていただきたい。西洋人の学者にはこれがラ・マルセイエーズに似ていると説く人がいるが、そんな後世にできた曲のことは関係ない。僕は違う。このハ短調の調べが想起させるのはパパゲーノである。どの歌に似ているというよりも雰囲気、長調短調の頻繁な交代などがピッタリなのだ。このメロディが彼の歌としてそのまま魔笛に出てきて何の違和感もない。そしてご覧のように運命動機からできている。ベートーベンが魔笛を好んでいたことは以前に書いた通りである。

 

<ベートーベンは25番を聴いた?>

 

この協奏曲はウィーンでモーツァルトの独奏によって演奏されたが、それは1787年4月7日のことである。16歳のベートーベンがボンからウィーンに着いた日付はわかっていないが音楽学者バリー・クーパーによると「4月初め」とされる。彼はボンのパトロンモーツァルトの後継者になるべく送り出されたのである。その演奏会に間に合うように着いた可能性も大いにあるし、その後に会った時にその憧れの大先輩の最新作の協奏曲が若者の視野に入らなかったというのは考えにくいだろう。

 

そんなに簡単に他人の作品が影響してしまうものなのだろうか?格好の例がある。ベートーベンがまさにその第5交響曲を作曲していた頃のスケッチ帳にはモーツァルトの40番の交響曲からのパッセージが書かれている。5番の第3楽章の主題は40番の最終楽章の主題にそっくりなのにお気づきだろうか。偶然似てしまったのでは断じてなく、彼は素材としてそれのスケッチを創作ノートに書き出し、あれこれトランスフォームを試みた結果としてあの第3楽章を書いたはずだ。その同じ5番の冒頭動機が、思い出の25番のもっと単純であからさまな動機から来ていないと証明するのは、きっと何人にも困難ではないだろうか。

 

フリーメーソン短調作品とフィガロ

 

モーツァルトはそのウィーンで1784年2月28歳にして初めて自作の「作品目録」を書きだした。記載の第1号はピアノ協奏曲第14番であり、その年に彼はそのジャンルで 14-19番の6曲を作曲して、もちろん自分で弾いた。226日から411日までの45日間には25回も弾いた。今なら超売れっ子のシンガーソングライターだ。そして返す刀で翌年にかけ、前々年より手がけてきた渾身の力作である弦楽四重奏曲14-19番(いわゆる「ハイドンセット」)を完成させる。

 

(絵画の画像の引用を省略=引用者注)

 

彼がフリーメイソンのメンバーになったのはこの年の12月だ。右の絵はその集会風景で、右端の人物がモーツァルトとされている。フリーメーソンは貴族・学者・医師・富裕市民がこぞって入会していた結社で、そのウィーン支部啓蒙主義的君主であった皇帝ヨーゼフ2世が庇護していた。やがてフランス革命の精神となる「自由、平等、博愛」をかかげ身分ではなく自己の修練による向上をめざす。できあがってしまっていた宗教ヒエラルキーの下層階級に生まれたモーツァルトは、天賦の才をもってしてもそれを打破はできないフラストレーションに苛まれていた。だから彼にとってその新しい教義は大変都合がよく、魅せられたものと思われる。

 

1785年(29歳)にはピアノ協奏曲20-22番が生まれる。異例のニ短調である20番(K.466)に先立つ作品が、ハイドンセットの締めくくりの一作であり異様な不協和音の序奏部を持つ弦楽四重奏曲第19番(K.465)なのはきわめて暗示的だ。前年よりこの年にかけてピアノソナタ第14番、幻想曲、フリーメーソンのための葬送音楽という3つのハ短調作品、そしてピアノ四重奏曲 1 ト短調短調作品が続出し、それが翌年のピアノ協奏曲第24番ハ短調(K.491)という傑作に結実するのである。

 

その1786年(30歳)には23-25番のピアノ協奏曲が書かれているわけだが、24番と25番の間に完成されたのがオペラ「フィガロの結婚であった。そしてこのオペラこそモーツァルトの人気に致命傷を加えることになる。彼がこれを書く契機はフリーメーソンを通じてふきこまれた革命前のパリの熱い空気だったことは疑いない。これを大ヒットさせて、革命はともかくも既存のヒエラルキーをひっくり返してやろうぐらいのことは充分考えるエネルギーと人気を彼は持っていたと僕は思う。

 

僕は長らくフィガロの底抜けの明るさと24番の底なしの暗さが隣の作品番号で並んでいる異様さを説明することができないでいた。それを説明した書物に出会ったこともない。フリーメーソンという通奏低音が底流にあったのではないか。24番はメーソンの儀式の気分を反映しており、フィガロは思想を反映していると考えれば矛盾は解ける。そして25番は、24番の兄弟分として、やはりメーソンの儀式の気分を色濃く漂わせている。ザラストロの神殿の情景はそうして生まれているのではないかと考えると、僕なりにとても腑に落ちるのである。

 

フリーメーソンがそこまで影響したと結論するためにはもう少し説明が要るだろう。モーツァルトウィーンでどんな動機によって行動していたかという点が理解されなければならない。その動機については確たる証拠文献はない。だから手紙という入手できる中では最も信頼できるファーストハンドの文献から推察するしかない。以下は、それの僕なりの解釈である。

 

フィガロやっちまった経緯>

 

1781年(25歳)5月9日にモーツァルトザルツブルグ大司教と大口論となり、今流にいえばワンマン社長と大喧嘩して辞表を叩きつけた。当然ながら即刻クビになり、大司教の侍従に足蹴を食らわされて追い出された。サラリーマンには向いていない男だったのだ。逆にサラリーマン人生をまっとうし、息子にもそれを期待していた父レオポルドは激怒し、悲しみ、やがて勘当同然の扱いをするにいたる。この「脱藩騒動」はモーツァルトの人生の汚点、消し難いトラウマになった。この野郎、今に見てろよという復讐心がめらめらと燃え立った。

 

そこから3年間、彼は怒涛の勢いで仕事をする。そして彼の人生の分岐点となる1784年がやってくる。もちろん勢いの原動力は脱藩のトラウマだ。望外の評判と報酬を得ることに成功した28歳が書き始めた「作品目録」は都会で築いた3年間の実績への自信のあかしである。2LDKぐらいで新婚生活をスタートした若夫婦が都心の豪邸に引っ越して貴族なみの消費生活をするまでになった。フィガロの結婚がそこで書かれたのでフィガロハウスと呼ばれるようになるその住居でハイドンセットが書かれ、そこにそれを献呈した大家ハイドン様と親父殿を呼びつけてそれを演奏する。破竹の勢いの彼は皇帝ヨーゼフ2世の目に留まり、ウィーン宮廷に雇われる。

 

ヨーゼフ2世(右)はマリア・テレジアの長男だ。王でありながら「民衆王」「皇帝革命家」と呼ばれた啓蒙主義でもあり、だからフリーメーソンを庇護した。特権階級であり、いわばハプスブルグ株式会社の重役連中であったウィーンの貴族、富裕層が、へたすると従業員組合みたいになりかねないメーソンにこぞって参加したというのが僕にはどうも腑に落ちなかった。組合員が結集してオーナー社長を解任してしまったフランスはメーソンの標語でもある「自由、平等、博愛」が国旗にまでなったが、ハプスブルグ株式会社ではオーナー家は第1次世界大戦まで健在だったことは言うまでもない。

 

元来は保守的であるはずの貴族、富裕層がフリーメーソンに急速になびいたのは新社長ヨーゼフ2世の顔色うかがいにすぎなかったというのが僕の仮説である。そうとは知らない得意絶頂のモーツァルトが親父もハイドンまでもメーソンに引き入れたのが分岐点の翌年1785年だ。あの社長についていけば大丈夫と。その年1月に彼はメーソンの第2位階に昇進、4月には第3位階「親方(マイスター)」に飛び級のような昇進をしている。そこで彼はメーソンのための厳粛な気分の音楽を書く。その気分が短調作品の続出」の背景として投影されており、自由・平等・博愛の統治下では貴族の顔色を気にせず書きたいものを書いたという結果だと思う。

 

しかし社長の権限にも限度はあるものだ。オーナー会長の母マリア・テレジアはまだ代表権を持っておりかつて強引に謁見してきたザルツブルグ子会社の従業員にすぎない親父レオポルドを嫌っていた。だから会長子飼いの宮廷役人は、田舎出で生え抜き社員でない息子アマデウスにハナから「いじめモード」だった。前任者の半分以下の給料とダンス音楽作曲などの些末な仕事しか与えなかったことでそれがわかる。そこでモーツァルトの反骨精神は大爆発を迎える。「この野郎、今に見てろよ」が再度めらめらと燃え上がった。悪いことに、いつやるの?今でしょ!という台本が出てきてしまった。フランスの劇作家ボーマルシェ「狂おしき1日、あるいはフィガロの結婚なる戯曲である。

 

この芝居は①「セビリアの理髪師」②「フィガロの結婚」③「罪の母」という3部作でフランス革命前夜のパリで大ヒットしており、後にロッシーニがオペラ化して有名になる①をイタリア人のジョヴァンニ・パイジエッロがオペラ化するとまたたく間にヨーロッパ中で人気をさらった。いわば60年代のビートルズみたいなものだった。その1782年のウィーン上演は武道館ライブだ。モーツァルトは手紙に記していないが見た可能性は高いのではないか。現にそのCDを聴いてみて驚いたが、序曲からしモーツァルトの「フィガロの結婚」はパイジエッロの「セビリアの理髪師」に大変に似た雰囲気を持っている。これだ、これならいける!と勇気づけられたのではないか。

 

しかしウィーンはパリよりずっと保守的だった。ウィーン革命などハナから起きる余地もなかった。ウィーンでも②の戯曲の上演をという要請があったが皇帝は「体制批判、革命促進につながる」として禁じた。その状況を充分に踏まえていたにもかかわらず、モーツァルトは脚本家ダ・ポンテと一緒に②のオペラ化を進めてしまったのである。やっちまったわけだ。何のため?このオペラに散りばめられた珠玉のナンバーの数々を聴けば「音楽のため」と答えざるを得ない。しかし、それでも僕は「この野郎!」が動機であったと結論したい

 

確たる理由はない。僕自身がやっちまっている。完全な自己都合、要は勝手に部長だった会社を辞めている。移った先も日本の大企業だからお金のためではない。そしてそこも役員で辞めさせていただいている。サラリーマンには向いていない男だった。そんな経験のある人はあまりいないから僕はそれをわかりあう友達がいない。そうしたらそこにモーツァルトがいたのだ。自分の失敗経験からの直感としか申し上げようがないが、僕はこのフィガロ前後の話になるとつい他人事でなくなって「そうだ、やったれやったれ!」と応援団の気持ちになるのである。モーツァルトに半端でない共感と愛情が湧き出てきてしまう。

 

「この野郎」の「野郎」には、彼を足蹴にした大司教や貴族ども、性根の曲がった宮廷の小役人ども、そして小役人にとりいってドイツ人排斥を画策するイタリア人楽師どもが入っていたに違いない。彼のミラノでの就職を邪魔していじめたマリア・テレジアも入っていたかもしれない。しかし「今に見てろ」でギャフンと言わせるのは美しい音楽によるしかないのだ。だから彼は皇帝じきじきに依頼されて仕方なくフィガロ作曲を一時中断して書いたオペラ「劇場支配人」には力をセーブまでして、フィガロに渾身の剛速球を投じたのである。

 

音楽は愛された。しかしウィーンの「なんちゃって啓蒙派」である保守貴族たちにとってオペラの筋書きはあまりに不快だった。なにせ、部下の女房に手を出そうとする社長に、あろうことか社長夫人の手によりセクハラ宣告の鉄槌が下される間抜けな話である。笑いものになる社長こそ「この野郎」どもなのだ。ざまーみろ。文句あっか?この音楽の人気、見てみんかい。モーツァルトはドヤ顔だったろう。そしてこの瞬間に、彼のコンサートのお客のほとんどでもあった貴族と富裕層は彼を見限って、彼を切り捨てていくのである。

 

<147年も演奏されなかった25番>

 

25番はやっちまった後に書かれた最初のピアノ協奏曲である。この協奏曲がウィーンで最後にモーツァルトの独奏によって演奏されたのは1787年4月7日のことである。そして、アルトゥーロ・シュナーベルが1934年に弾いたのがその次だった。なんということだろうか。ウィーンでは147年も演奏されなかったということだ。ピアノ協奏曲はシンガーソングライターの「持ち歌」だ。シンガーの人気がなければヒットはしないのだ。いかに彼の人気が凋落したか、象徴的な数字ではないか。

 

それは仕方ないが、そのあおりを食って忘れられてしまうには25番はあまりに良い曲であり重要な曲だ。それを黙って見ているわけにはいかない、そう思ったことが本稿になっている。ひとりでも25番の良さを発見して愛聴してくれる人が出れば幸甚に思う。楽典や歴史の細かいことはどうでもいい。モーツァルトの音楽は誰の耳にも、どんな初心者の耳にも楽しいものだと信じる。難しいことはまったくない。難しいことをいう必要もない。一生の楽しみを約束してくれる宝の山だとお約束する。(後略)

 

出典: モーツァルト ピアノ協奏曲第25番ハ長調 K.503 | Sonar Members Club No.1

 

 東賢太郎氏も前述の山岡政紀氏と同様、第25番を第24番と並べてモーツァルトのピアノ協奏曲の最上位に位置付けている。私の場合、第25番の再発見が昨日今日の話だからまだそこまではいかないが、第24番に次ぐまでには一気に順位を引き上げた。

 東氏が書いた上記引用文に書かれた仮説にどこまで信憑性があるかは私には全くわからないが、間違いなくいえることは、モーツァルトが亡くなった1791年にはかなりの程度まで進んでいたフランス革命と、それに全くついていけなかった保守反動の社会だったに違いないウィーンとの落差が、晩年のモーツァルトにとって大きな逆風になったに違いないことだ。

 フランス革命ベートーヴェンとの間に切っても切れない関係があることは周知だ。このように、音楽と政治とは決して切り離して考えることはできない。

 なおモーツァルトの25番でのハ長調ハ短調との交錯は、23番(イ長調)や25番と同じハ長調の21番などの「明」と、24番(やニ短調の20番)の「暗」とを総合した音楽、という一種弁証法的な言い方もできるかもしれないが、子ども時代のモーツァルトの音楽に、既にハ短調ハ長調とを交錯させた音楽があることを最近初めて認識した。それは「孤児院ミサ」と呼ばれるK.139のミサ曲で、モーツァルトが12歳の時に書いた最初のミサ曲らしい。この記事でクリスティのミステリの話を終えて本論に入ってから初めの方で触れた吉田秀和解説のNHK-FMの番組で1980年7月20日に放送された音声ファイルがアップロードされたYouTube(下記リンク)を聴いて知った。43年前にこの番組を聴いた記憶はないので、おそらくこの回は聴かなかったのだろう。

 

www.youtube.com

 

 この曲に限った話ではないが、どうやらモーツァルトは子ども時代から、クラヴィーア(ピアノ)の白鍵だけからなるハ長調と同じ主音を持つハ短調という調性におどろおどろしいというか悲劇的な印象を持っていたらしい。そう感じた。

 ベートーヴェンは、交響曲第5番ではその悲劇のハ短調と闘って最後にハ長調で勝利を収める音楽を書いたが、晩年のピアノソナタ第32番(作品111)では悲劇のハ短調を、途中にスケルツォ風の部分を挟みながらもその前後は静謐な変奏曲であるハ長調で閉じた。モーツァルトはそのどちらでもなく、ハ長調ハ短調とを共存させたピアノ協奏曲第25番の第1楽章を書いた。

 このあたりの2人の作曲家の対比は実に興味深い。

 今年は残り4日の平日にノルマを4件も抱えるなど最後まで解決しない多忙さで暮れようとしている。来年も年明け早々の15日までは息つく間もないという、若い頃や壮年期にも経験のない、いやネット検索をかけたら最近は64歳までを壮年期というらしいから現在はその終わり近いに時期にいるが、そんなとんでもない時期にいるからこそ、フランス革命やそれとは対照的な保守反動のウィーンに生きたモーツァルトの音楽が心に染み入るのかもしれない。そんな感慨を持つ。

 メインブログには年内にあといくつか記事を公開すると思うが、こちらのブログはこの記事が年内最後の更新になる。引用文を入れて2万字を超えたこの記事を最後までお読みいただく方がどのくらいおられるかはわからないが、年末の挨拶で締めくくりたい。

 それでは皆様、良いお年を。

吉田秀和曰く、モーツァルトが「ヴァイオリン助奏付きのピアノソナタ」をヴァイオリンとピアノの対等な二重奏曲に変えた(1982年放送NHK-FM「名曲のたのしみ」より)【前編】天才の変革には先駆者がいた

 モーツァルトについてもう少し書いておきたい。

 初めに、前々回に取り上げたK13のいわゆる「フルートソナタ」をオリジナル版で弾いた動画をリンクしたが*1、動画でピアノを弾いていた加藤友来(ゆら)さんという少女が成長してチェンバロ奏者になっていることを知った。モーツァルトの名を冠したコンクールでモーツァルトが幼かった8歳の頃のヴァイオリンまたはチェロのオブリガート付きのソナタを、楽器こそ現代のピアノながら原典版で弾いて、ジュニア部門で最高の成績を挙げて入賞するとは、と驚かされたが(なぜならどう考えてもコンクールには不利な選曲だから)、彼女が長じてチェンバロ奏者になったことについては「さもありなん」との感想を持った。今日(11/19)、兵庫県芦屋市のカトリック教会で行われるコンサートでチェンバロ通奏低音を弾かれるようだ。教会は阪神芦屋駅の少し北あたりにあるようだが、阪神芦屋駅近くといえば村上春樹が少年時代を過ごしたあたりだ。ネットで調べたら村上は駅の南東に住んでいたようなので駅からの方角は少し違う。だが教会は村上がよく行っていたという阪神芦屋駅前の本屋(宝盛館書店)と同じ町内にあるようだ。

 

www.kobe-bunka.jp

 

 古楽の道に進まれるとは、おそらく指導者も良かったに違いなかろうが、私の想像では、加藤さんご本人がまず中期以降のモーツァルトの音楽に惹かれ、次に彼の音楽はどこから来たのだろうかとの興味を持って、まずは幼児期のモーツァルトの音楽、さらに遡ってカール・フィリップエマヌエル・バッハ(1714-1788)に代表されるバロック音楽から古典派へ移行期の音楽に関心を持つようになったのではないだろうか。素晴らしいことだと思う。

 さて初期モーツァルトの「作品3」(K10〜15) については、1980年に放送された、吉田秀和(1913-2012)が解説するのNHK-FMの番組のYouTube動画でK14とK15も聴いたが、最後に置かれた第6番変ロ長調K15が実験的な作品だと感心した。実は昔、一度だけK15を聴いた記憶があり、その時にも当時としては斬新だったに違いない和声に驚かされた記憶があるが、今回はそれに加えて新たな発見があった。というのは、K13やK14ではルイ・モイーズの編曲(あるいは改変版)によってフルートに声部が与えられたものの、もともとはクラヴィーアに独占的に割り当てられていた主旋律が、K15冒頭ではモーツァルトのオリジナルの楽譜でも、第1楽章冒頭の上声部がオブリガートのはずのヴァイオリンまたはフルートに割り当てられているのだ。その動画を下記にリンクする。

 

www.youtube.com

 

 ただ、「音楽辞典」で「オブリガート」の項を調べると、ピアノの和音に乗せてヴァイオリン(あるいはフルート)が奏でる音型は、あるいはオブリガートのパートに許される即興演奏の一例を8歳のモーツァルトが示したものではないかとも思われる。

 

オブリガートオブリガート】 obbligato 〔伊〕

(1)省くことができない、不可欠な声部のこと。
(2)メロディ・パートをより引き立たせるために、(伴奏にのせて)同時に演奏される別のメロディのこと。助奏、カウンター・メロディともいわれる。

 

出典:オブリガート | 音楽辞書なら意美音−imion−

 

 つまり、K15の第1楽章に本当に必須なのは、クラヴィーアが奏でる、重厚な和音からなる付点つきの音型であって、その和音に合わせた旋律をオブリガートのヴァイオリンなりフルートなりが即興で弾いて楽譜が指定した音と置き換えるか、そこまではせずとも、たとえばリピートした2回目には楽譜に書かれた音に装飾をつけ加えるなどして弾く(吹く)ことは大いに許されるのではないだろうかと想像した次第。

 バロック音楽では即興演奏はおなじみだが、ロンドンでモーツァルト大バッハことヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685-1750)の末っ子であるヨハン・クリスティアン・バッハ(1735-1782)に音楽を教わっているから、その成果がK15に反映されていると見ることができるのではないか。そう思ったのだ。

 こうやって記事を書きながら思うが、大バッハモーツァルトは年が71歳違い、2人の生涯は重ならないが、エマヌエル・バッハモーツァルトが32歳の時まで生き、46歳で死んだクリスティアン・バッハはモーツァルトとは21歳しか違わなかった。クリスティアン・バッハは大バッハが50歳の時に生まれており、モーツァルトが26歳だった1782年の元日に亡くなっている。

 モーツァルトについては森下未知世さんという方が編集された Mozart con grazia というウェブサイトがたいへん参考になる。このサイトではモーツァルトの全作品が解説されているが、K15へのリンクを下記に示す。

 以下引用する。

 

モーツァルトはバッキンガム宮殿に1764年の4月と5月の二度訪問し、1760年に即位した国王ジョージ三世(1728-1820)に拝謁している。 そこではクリスティアン・バッハ(当時29歳)が王妃シャーロットの音楽教師をつとめていた。 モーツァルトは神童ぶりを発揮して一堂を驚愕させつつ、クリスティアン・バッハの作品を貪欲に吸収していった。

 

連作の最後にきて、ヴァイオリンは伴奏役を離れ、ピアノと対等に主役を争うまでになった。 しかしこれは6曲の連作の中のさまざまな創意工夫の一例として試みただけであり、次のソナタからヴァイオリンはまた伴奏の役割に戻ってしまう。

 

 上記の記述の通り、初期モーツァルトの「ヴァイオリンソナタ」または「フルートソナタ」は実際には「ヴァイオリン(またはフルート)のオブリガートつきクラヴィーアソナタ」だった。だから前々回でリンクした前述の加藤友来さんたちのような演奏が本来の姿だった。前記 Mozart con grazia の K.13 の項には、オリジナルの楽譜を表示させながらオリジナル編成によるK13の全曲を聴くことができる下記動画へのリンクがある。

 

www.youtube.com

 

 上記動画を楽譜を見ながら聴くと、オブリガートのヴァイオリンが主導して弾く旋律は一箇所もないことがわかる。ただ、ヴァイオリンがクラヴィーアの旋律の一部をカノン風に追いかけたりはする。

 聴いてめざましい印象を受けるのはやはりK13だと改めて思ったが、K15のような実験的な作品を8歳の頃から書いたモーツァルトの才能はやはり規格外だ。K15の第1楽章では第2主題群に当たる部分で「増6和音を属和音で解決する」緊張感のある和声進行が聴かれるが、これは後年に書かれた「母の死」と関連づけられることが多いK304のホ短調ヴァイオリンソナタ第1楽章で第1主題が再現する箇所にも用いられている。この主題は冒頭ではヴァイオリンとピアノのユニゾンで演奏され、それも緊張感に満ちているが、それとは異なるものの同じくらい強い緊張感があり、しかも冒頭と同じユニゾンの再現を予想していたところに不意打ちを食わされる。吉田秀和の番組でこの曲を最初に聴いた時には両方の箇所ともに非常に強い印象を受けた。

 その箇所にも用いられた「増6和音から属和音への解決」はモーツァルトに限らず古典派やロマン派の音楽には頻繁に出てくるものではある。またモーツァルト以前にも大バッハが使ったことがあるはずだし、バッハの息子たちの音楽を私はほとんど知らないけれども、特にエマヌエル・バッハなどは使っていそうに思われる。しかしこれがモーツァルトの音楽に初めて出てくるのはこのK15ではないだろうか。

 吉田秀和の番組で聴いたが、モーツァルトが8歳の時に書いた小曲のうち、バロック音楽の影響を受けて書かれたと思われるプレリュードと題された作品にはずいぶん大胆な転調もあった。これも大バッハではチェンバロのための半音階的幻想曲とフーガ(ニ短調BWV903)やオルガンのための幻想曲とフーガ(ト短調BWV542)などで大胆な転調の試みはすでになされていたし、モーツァルトに音楽を教えたクリスティアン・バッハはその息子なのだから教え得たという理屈にはなるが、それにしても当時まだ8歳のモーツァルトの吸収が早すぎるのである。ヴァイオリンのオブリガート付きのクラヴィーアソナタにしても、最初の作品でるハ長調K6は本当に稚拙な音楽なのに、K13ではのちに書く音楽の萌芽が豊富に聴かれたり、K15は実験精神に満ちていたりするなど、いくら大バッハの末の息子に直接教わったとは言っても8歳の子どもに成し得たとは本当に信じられない。

 ところで大バッハの時代にはヴァイオリンソナタといえばチェンバロとチェロの通奏低音を伴ってヴァイオリンが旋律を奏でるものだった。それが初期モーツァルトの時代には逆にヴァイオリンのオブリガートを伴うクラヴィーアソナタになろうとはいったいいつの間に、とは少年時代からしばしば考えたことだ。

 バロック音楽にはトリオ・ソナタという形式があり、これは2つのヴァイオリンと通奏低音だとか、ヴァイオリンとフルートと通奏低音だとか、フルートとオーボエ通奏低音などの組み合わせで複数楽章からなる音楽だが、バッハはたとえば2つのヴァイオリンのうち片方をチェンバロの右手に置き換えて、ヴァイオリンとチェンバロの右手が旋律を掛け合い、それをチェンバロの左手の通奏低音が支える形のヴァイオリンとチェンバロの二重奏ソナタを6曲、ヴィオラ・ダ・ガンバチェンバロのための二重早々ナタを3曲書いた。それらのうちヴァイオリンソナタ第6番ト長調の第3楽章ではヴァイオリンは何も弾かず、この楽章はチェンバロの独奏曲になっている。このあたりからいったん本格的な二重奏になっていたものが、逆にチェンバロ(クラヴィーア)が優勢になっていったものだろうかと勝手に想像していた。その想像が正しかったかどうかは未だにわからない。

 今回のネット検索では、バッハの息子たちのうちエマヌエル・バッハクリスティアン・バッハはヴァイオリンがあまり得意ではなくクラヴィーアの方が得意だったらしいことを知ったが、あるいはエマニエル・バッハが「大バッハ」と呼ばれていたらしい彼の生前の時代には、すっかりクラヴィーアが主導するのが普通になっていたのかもしれない。もちろんその間にチェンバロフォルテピアノに取って代わられた鍵盤楽器の技術革新が大いに二重奏曲での主役交代に影響したのではないかと思われる。

 そんな時代に、すっかり脇役に追いやられていたヴァイオリンの位置を引き上げたのは、よくクラシック音楽の解説ではベートーヴェン、特に弊ブログで連載を中断してしまっている『クロイツェル・ソナタ』の手柄にされてしまうことが今でも多いと思うが、早い時期からそんな言説に異を唱えて、ヴァイオリンの地位を単なるオブリガートから事実上ピアノと対等の二重奏の地位に引き上げたのはモーツァルトの功績だと力説したのが吉田秀和だった。前回取り上げてYouTubeの動画にリンクを張った1983年放送の『名曲のたのしみ』のうちK296とK304のヴァイオリンソナタが放送された回で久々に吉田の主張を聴けて懐かしかった。

 私が初めて吉田秀和の「名曲のたのしみ」で聴いたモーツァルトの音楽は、確かK301のト長調ヴァイオリンソナタだった。そう私は思い込んでいたが、なにしろ半世紀近くも前の記憶だから、正確かどうかはわからない。放送の記録や昔のFM雑誌の番組表を見ればねじ曲がっているであろう記憶を修復できるかもしれない。1980年に始まった2度目のシリーズも、基本的には1970年代の放送と同様の順番で放送されたものであろうから、YouTubeにアップロードされた動画群がヒントになるかもしれない。

 とにかくK301の印象は強かった。このソナタはK304、K376、K388の3曲とともに、アルテュールグリュミオークララ・ハスキルの歴史的名盤で昔から有名だ。K301はとりわけ流麗な旋律が印象的であり、この曲に対しても私の思い入れも深い。

 1971年に始まったこの番組の最初のモーツァルトのシリーズでK301を皮切りとしたヴァイオリンソナタ群が紹介されたのは、何度も書くけれども1975年だった。1970年代の第1回のシリーズでは、吉田秀和の語りが長くなりすぎて曲が放送時間に収まらないことがしばしばあった。その場合は途中で切れた音楽が次の回で最後まで放送されたりはしなかった。多少ルーズな番組作りだったといえるかもしれない。1980年からの2回目のシリーズでは、この問題点が改められ、曲を最後まで放送できなかった時には、翌週にもう一度最後までレコードをかけるようになった。吉田は語りの時間超過を第2シリーズの初回の放送でいきなりやらかし、第2回でK8のソナタが改めて曲の最後までかけられた。その第2回の最後に放送されたのがK13がオーレル・ニコレ(フルート)と小林道夫(ピアノ)のルイ・モイーズ版による演奏だ。番組の最後には同じ2人によるK14の冒頭が曲の紹介なしにエンディング用の音楽として流されたが、第3回の最初に放送されたK14の演奏はヴァイオリンのオブリガートを伴うチェンバロによる演奏で、モイーズ版ではフルートが吹いていた冒頭のパッセージは、想像した通りチェンバロが演奏した。しかしK15はニコレと小林によるモイーズ版が流されたので、ネット検索をかけてオリジナルの編成による演奏を探した。それで見つけたのがこの記事の初めの方でリンクを張った小倉貴久子のチェンバロ、若松夏美のヴァイオリン、鈴木秀美のチェロによる演奏で、上記埋め込みリンクでは第1楽章のみを示したが第2楽章の動画*2もある。いずれも前述の加藤友来さんが2013年のコンクールで入賞した時の記念演奏会の動画を発信したと同じピティナ(一般社団法人全日本ピアノ指導者協会)作成の動画だが、小倉貴久子さんらの演奏はプロによる模範的なもので、特にチェロの鈴木秀美さん(男性)は私も全盛期から名前を知っている大家のチェリストだ。私は鈴木さんがシギスヴァルト・クイケンが主宰するラ・プティット・バンドと共演したハイドンのチェロ協奏曲を録音したCD(1998年録音)を持っている。鈴木さんは1957年生まれの66歳。神戸出身で、2021年に神戸市室内管弦楽団音楽監督に就任されたとのこと。またまた関西出身の方だ。

 1980年代の吉田秀和の番組の思い出を少し書くと、前にも書いた通り、ある時期からモーツァルトの第2回目のシリーズは聴かないことが増えた。しかし就職してミニコンポを買ったすぐの一時機、再び聴いた頃があった。その時にはモーツァルトの未完のハ短調ミサK427の美しさに驚かされた印象が強烈だ。第1回のシリーズの「名曲のたのしみ」でもこの曲を聴いたが、おそらくは高校生だったその当時の私にはK427の良さが理解できなかった。その曲が20代半ばの1986年に私を感激させた。モーツァルトの生涯と音楽のシリーズで聴いたのか、そうではなく名盤紹介の回でかかったものかは覚えていないが、確か私があまり好まないカラヤン指揮による演奏だった。しかしそのカラヤンでもK427は素晴らしかった。そのしばらくあとに私が買ったCDはピリオド楽器を使ったガーディナー指揮の演奏だったが、それはカラヤンよりももっと良かった。

 しかし、ミニコンポで吉田秀和の番組を聴く習慣は長くは続かなかった。吉田秀和はのちにはモーツァルト以外の音楽家の生涯をたどる番組を始めたが、それらはほとんど聴いていない。この番組を最後に聴いたのは2005年7月で、土曜日の夜に高松から東京行きの寝台特急サンライズ瀬戸」に乗り、寝台車の個室のラジオをつけたら吉田秀和の「名曲のたのしみ」が始まったのでびっくり仰天したのだった。その日の番組ではハイドンの生涯をやっていた。最初にモーツァルトのK301を聴いてから30年も経っていた。しかし今はその時からさらに18年の月日が流れた。ブログを書くようになってからも17年が経っている。吉田秀和が亡くなってからももう11年だ。サンライズ瀬戸吉田秀和の語りとともにハイドンがかかった時には、1990年代から2000年代にかけてハイドンにかなりはまっていたこともあって大いに喜んだが、番組を聴いたのはその1回だけだった。ハイドンの作品数は交響曲だけで100曲以上あるなど膨大だが、CD化されている彼の音楽を全部番組でかけたかどうかは知らない。

 今回は吉田秀和モーツァルトのヴァイオリンソナタを絶賛した件が記事のメインだ。それを確認するために、YouTubeにアップされたK301の回の動画(ラジオ番組に基づいているため音声がメインだが、画面に丁寧な文字起こしが表示されていてたいへん助かる。作成者の方による素晴らしい労作だ)を視聴した。

 

www.youtube.com

 

 この回ではNHK側に放送のトラブルがあったようで、上記動画に含まれるフルート協奏曲第1番の音源が第1楽章だけ別の演奏家のものに差し替えられている。しかし2種類とも現代楽器による演奏だ。私が1980年代後半の1987年か88年ごろに買って愛聴しているのはイギリスのクリストファー・ホグウッドが主宰する「エンシェント室内管弦楽団」という変てこ名な和訳が今も気になる楽団とリザ・ベズノシウク(リサ・ベズノシューク)というフルーティストがピリオド楽器を用いた演奏で、こういう演奏を聴くと現代楽器による演奏などもう聴く気が起きなくなる。

 この回の後半でK301が取り上げられた。吉田秀和の解説は動画の32分40秒くらいから始まるが、画面に表示された文字起こしを元に、以下に改めて書き出してみる。なお引用にあたっては吉田が言い淀んだ部分などの一部を割愛するなどした。

 

モーツァルトマンハイムで=引用者注)ヴァイオリンとピアノのためのソナタを何曲か書いています。

 

 こっちの方は、ことにこれから聴く最初の曲(K301のこと=引用者注)は、もう彼がいかに力を入れて作曲したかということがよくわかるような音楽になっています。

 

 モーツァルトのヴァイオリンとピアノのためのソナタっていうものは、彼は一生のうちに相当な数、書いてるんですけど、子どものときのものは別として、まずこのマンハイムに行ってから5曲、それからパリに着いてから2曲、それからこの旅行が終わってザルツブルクに戻ってから1曲、全部で8曲書いています。

 

 その後ひと休みいたしまして、ウィーンに定住するようにあってから今度は4曲書いているので、全部で12曲ということになります。

 

 そのうちの6曲を彼はパリで出版して、それが作品1、モーツァルトが生きていた頃の作品の出版された作品の最初の番号をもつ、作品1として発表されました。

 

 ここでモーツァルトは子どもの頃に父のレオポルトが勝手に出版した時につけた作品番号(たとえば前述のK13は作品3の第4だった)をリセットした。つまりそれらは習作に過ぎず、これが本当に僕が世に問う作品なんですよ、と言っているわけだ。K301は作品1の第1、ホ短調のK304は作品1の第4に当たる。

 吉田の言葉の引用を続けるが、以下が核心部だ。

 

 実はモーツァルトが書いたこのピアノとヴァイオリンとピアノのためのソナタっていうのは、モーツァルトにとってだけじゃなく、このいわゆるヴァイオリンソナタと言われている種目にとっても、画期的な意味を持つものになりました。

 

 というのは、それまではこの種の曲ではピアノが中心になっていまして、そこにヴァイオリンのオブリガート、助奏なんて日本語で訳がついてますけど、要するに、本当はヴァイオリンがもう番号楽器としてそこにくっついているというようなものでした。

 

 だから、万止むを得なきゃピアノだけで弾いてもいいと。

 

 しかしモーツァルトは、初めてヴァイオリンとピアノという二つの楽器が対等に扱われる、そして対等に大事な楽想を演奏しながら、やっていく音楽というものにしたんですね。

 

 今日これから聴く最初の曲は、そういう意味で、彼にとっても非常に重要な作品になりました。

 

 どうしてマンハイムで突然モーツァルトがこういうことをやり出したのか。

 

 音楽学者たちは「彼がこの土地(マンハイム)に来てからシュースターという人のヴァイオリンソナタを聴いて、とっても面白いっていうことを父親宛の手紙に書いているので、そこからいろんなヒントを得たのではなかろうか」というふうに言っています。

 

 そのシュースターのヴァイオリンソナタそのものは今日僕たちが聴いてみると、そんなに面白い曲ではありません。だから、もう今日ではほとんどヴァイオリニストたちが弾かないということになってますけど。

 

 しかし、モーツァルトのような天才にあるヒントを与えたことにはなったんですね。そのヒントは何かといえば、今僕が申し上げたこのヴァイオリンとピアノをなんとか対等に扱っていこうということをシュースターが考えたということにあるんでしょう。

 

 このくだりは面白すぎる。シュースター(1748-1812)の名前は初めて知ったが、モーツァルトとはたった8歳しか違わず、ベートーヴェンが40歳を少し過ぎた頃まで生きていた。WikipediaのK301の項にもちゃんと名前が出てくるし、シュースターの項まで設けられている。以下に引用する。

 

ヴァイオリンソナタ第18番[1] ト長調 K. 301 (293a) は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが作曲したヴァイオリンソナタ。全6曲からなる「パリ・ソナタ」の1曲目にあたる。新モーツァルト全集では第11番とされる。

概要[編集]

モーツァルト1778年にヴァイオリンソナタの作曲を再開した。約12年の空白を経ていたが、再開したきっかけは、1777年の9月にマンハイムへの旅行の途中に立ち寄ったミュンヘンで、ヨーゼフ・シュースターのヴァイオリンソナタを知ったことである。モーツァルトはシュースターの作品から大きな刺激を受け、すぐさまヴァイオリンソナタの作曲に取りかかった。

第25番は1778年の2月頃にマンハイムで作曲された。第25番から第30番までの6曲は同年11月にパリで作品1として出版されたため、「パリ・ソナタ」と総称される。また、プファルツ選帝侯妃マリア・エリーザベトに献呈されたことから「マンハイムソナタ」とも総称される。

シュースターの影響で生まれた新しい様式のヴァイオリンソナタの第1作にあたり、ピアノとヴァイオリンの有機的で協奏的な融合が光る作品であり、明らかに二重奏ソナタの内容を呈している。アルフレート・アインシュタインは「いくらかハイドン風」だと評している。

 

出典:ヴァイオリンソナタ第18番 (モーツァルト) - Wikipedia

 

ヨーゼフ・シュースターJoseph Schuster, *1748年8月11日 ドレスデン – †1812年7月24日 ドレスデン)は、ドイツ作曲家

略歴[編集]

ドレスデンの宮廷楽士であった父ヨハン・ゲオルク・シューラーより最初の音楽教育を受ける。ザクセン選帝侯より学資金を下賜され、1765年から1768年までイタリア対位法を学んだ。1776年に、メタスタジオの台本による処女作のオペラ・セリア《見棄てられたディドー(Didone abbandonata )》がナポリサン・カルロ劇場において上演されて成功を収める。同年もう一つのオペラ・セリア《デモフォーンテ(Demofoonte )》がフォルリーにて初演を迎える。翌1777年ナポリヴェネツィアでのオペラの成功によって地歩を固め、ドイツで作曲家として名を馳せた。

作品のほとんどはオペラ・ブッファに分類されるが、教会音楽管弦楽曲室内楽曲も作曲している。シュースターの弦楽四重奏曲には、長らくモーツァルトの作品として広く流布したものがあり、当初はKV.210以降のケッヘル番号さえ与えられていた。シュースターはこれらを1780年ごろに作曲したのだが、モーツァルトの原本からの断片と看做されたのであった。真実の出所を明るみに出したのは、音楽学者のルートヴィヒ・フィンシャーであった(1966年、『音楽研究(Die Musikforschung )』誌上にて)。

 

出典:ヨーゼフ・シュースター (作曲家) - Wikipedia

 

 ネット検索をかけてみると、シュースターのヴァイオリンソナタの音源にはヒットしなかったが、モーツァルト作と誤認されたことがあるらしい弦楽四重奏曲の音源はあった。その中から第1番の第3楽章を下記にリンクする。

 

open.spotify.com

 

 ここまで書いてもう1万字を超えた。

 実はシュースター以前にも大バッハがヴァイオリンとチェンバロとの二重奏のソナタの6曲セットを書いていることは前述したが、それはバロック時代のトリオ・ソナタに起源をもつもので、シュースターやそれに影響を受けてモーツァルトが始めたヴァイオリンのオブリガートを持つソナタを二重奏ソナタに発展させたものとは成り立ちが違うということなのだろう。

 今回のネット検索で思い出したのは、20世紀以降の音楽でシェーンベルクが発明したとされる12音技法にも先例があったと事実だった。それどころかケージの4分33秒にも先例があった*3。これらは弊ブログが以前公開した記事で取り上げたことがある。

 またジャンルは全く違うが、アガサ・クリスティのミステリ『アクロイド殺し』にも先例があり、その先駆者はなんとロシアの文豪、アントン・チェーホフだったことも思い出される。

 本記事は核心部にするつもりだった吉田秀和によるモーツァルトのヴァイオリンソナタの解説の紹介が途中までになってしまったが、続きは次回にする。

*1:https://www.youtube.com/watch?v=LrLfiJTRvKw&t=1s

*2:https://www.youtube.com/watch?v=B4yBSZ0kui8。K15は2楽章のソナタである。

*3:ケージの後継者は阪神タイガースだったかもしれない。

モーツァルトが母の死の悲しみを込めた(に違いない)ヴァイオリンソナタK304とピアノソナタK310/モーツァルトは母が死んだ当日、父と姉に母の重病を知らせる手紙を書き送った/大江健三郎『万延元年のフットボール』を読んだ

 この週末は大江健三郎吉田秀和を再発見というか、大江に関しては新発見した。このことによって、一昨日と昨日の土日は、いつまで続く(続けられる)かは全くわからない今後の人生において大きな転換点になるかもしれないと思った。

 まず大江健三郎については、彼が亡くなった今年、2023年中に1冊は読もうと思っていたが、7月下旬に小川町の三省堂書店仮店舗で買った『万延元年のフットボール

講談社文芸文庫1988, 単行本初出講談社1967)をようやく読了した。

 

bookclub.kodansha.co.jp

 

 最初は第1章をほとんど読み進めることができず、そののちにようやくエンジンがかかってきたかと思いきや、全体の4割くらいに至るまでは読むのにやはり難渋して、また仕事のために時間がとれなかったためもあってなかなか読書が進まなかったが、仕事がプチ一段落した*1金曜日の夜から土曜日の夜にかけてラスト10頁を除いて読み終え、日曜日に残り10頁と加藤典洋が書いた解説文や「作者案内」などの巻末の資料を読んだのだった。

 私にはこの小説を論評する能力はないので、読んで感心した下記の書評にリンクを張る。本作が村上春樹と絡めて論じられている。

 

satotarokarinona.blog.fc2.com

 

satotarokarinona.blog.fc2.com

 

 私は村上春樹に対してもそうだったが、大江健三郎に対しても、1988年頃に初期作品を集めた下記新潮文庫を読んでピンとこなかったことを理由(口実)にして、これまでずっと「食わず嫌い」をしていたのだった。

 

www.shinchosha.co.jp

 

 しかし、『万延元年のフットボール』を読み終えた今、その態度は誤りだったと遅まきながら認めざるを得ない。著者にとって「乗越え点」だったというこの作品は、村上春樹でいえば私が 2012年に初めて読んで数年前にも読み返した『ねじまき鳥クロニクル』(1995)に対応する作品かもしれない。なお私が村上を敬遠する理由になった(口実にした)のは、初期の『風の歌を聴け』(1979)と『1973年のピンボール』(1980)だった。後者のタイトルが大江の『万延元年のフットボール』のもじりだったことを、村上は2021年にラジオ番組で認めたという(Wikipediaによる)。

 『読書メーター』を開いてみると、新しい順に2番目のレビュアーが

読後の衝撃たるや。それは深部に残り続けるだろうと思います。

と書いているが*2、私も同じ感想を持った。

 それと同時に、「また『衝撃』で人さまと感想が一致したか!」と思った。

 というのは、昨日モーツァルトの初期作品に関する長い長い下記リンクの記事をようやく脱稿して公開したあと、昨夜9時台から11時台にかけて視聴した下記2つのYouTubeの動画を見て、上記と同じ思いをしたばかりだったからだ。

 

kj-books-and-music.hatenablog.com

 

 私は前記リンクのブログ記事に以下の文章を書いた。

 

 この番組は1979年度までは日曜日の夜11時から1時間番組で放送されていた。私hが初めて聴いたのは、前述の千藏八郎氏のクラシック音楽入門番組を聴いた直後だっただろうか、確か1975年の8月か9月だったはずで、その頃にも「モーツァルトの音楽と生涯」をやっていたはずだが、75年の晩夏の時期にはケッヘル300番台初めのヴァイオリンソナタをやっていた。特にホ短調のK304に大きな衝撃を受けた。このK304と対をなす音楽がK310のイ短調ピアノソナタだが、この2曲はこの半世紀近く変わらぬ愛情を持って接してきた、私にとっては特別な音楽だ。K310はなかなかNHK-FMにかからなかったが、晩秋の勤労感謝の日だったかの早朝に放送された。確かリリー・クラウスの演奏だった。これを当時はなかなかできなかった早起きをしてエアチェックした思い出がある。吉田秀和の番組ではそのあとに確かエミール・ギレリスの演奏で聴いた記憶がある。両者の演奏はずいぶん違っていて、演奏者によって曲の印象が大きく変わることを初めて実感した。番組は1979年にレクイエムを放送して終わったが、そのあと放送時間帯が日曜朝に変わったのは1980年度からだっただろうか。またケッヘル1番から始まったことには驚いた。だが放送時間帯が変わったためもあって、中学から高校生時代のように毎週聴く習慣は失われた。

 

URL: https://kj-books-and-music.hatenablog.com/entry/2023/11/12/153452

 

 私が毎週聴いていたのは引用文の通り1979年末*3にいったん終わった「モーツァルトの音楽と生涯」のシリーズだったが、現在では放送内容を文字起こしした本も出版されているらしい1980年開始の二度目のシリーズも、前回のシリーズで聴けていなかったK300以前まではできるだけ聴くようにしていた。またブログ記事で触れたK304とK310の2曲には特別な思い入れがあるので、この2曲が放送された回は必ずや聴いたはずだ。それがYouTubeチャンネルの最新の2回にアップロードされていた。それが下記2件のリンクだ。

 

www.youtube.com

 

www.youtube.com

 

 この2曲に関する吉田秀和の解説は今聴いても感心するばかりだ。

 ただ、放送で選ばれたレコード(当時)は1970年代とは違う。1983年はK310ではアンドラーシュ・シフのピアノ、K304はシェリングのヴァイオリンとヘブラーのピアノにによる演奏がそれぞれ選ばれていた。1975年の放送時には確かK310がギレリスで、K304はもしかしたら歴史的名盤とされたアルテュールグリュミオークララ・ハスキルによる演奏だった可能性があるが他の演奏だったかもしれない。

 私が「おおっ」と思ったのは上記2件目の動画に作成者が書いていた文章だ。

 

97 回視聴  2023/10/06

 

私(作成者)が最も印象に残っている(衝撃のようなものを受けた)回です。パリでのモーツァルトの母の死といったものを知らなかったですし、その手紙のことも知らなかったからです。(それはたぶん次回にもつながっていくのでしょうが・・・)。 ぜひ、手紙のところを聴いていただけたらと思います。37:11

 

また、一曲目のヴァイオリン・ソナタについて、吉田先生は

「僕はヴァイオリン、モーツァルトのヴァイオリン・ソナタのなかでも、特別好きな作品の一つ、としてかねがねこの曲をよく聴いてます。」

と言われているのも今回改めて聴いて知ることができました。

 

1983年2月20日NHK-FMで放送されたものです。

著作権については、著作権者にありますので、このチャンネルで発生する収益については、youtubeを通じて著作権者に渡ることに同意しています。

違法ではありませんので、安心してチャンネル登録していただけると思います。

 

また、エンドテーマは、ロシアの著作権の関係で、ピアノ:内田光子、指揮ジェフリー・テイト、演奏:イングリッシュ・チャンバー・オーケストラの演奏に差し替えています。

 

収録曲

K. 296                       ピアノとヴァイオリンのためのソナタ (第24番) ハ長調

K. 304   ( 300c )      ピアノとヴァイオリンのためのソナタ (第28番) ホ短調

K. 265   ( 300e )   きらきら星変奏曲   ハ長調

       「ああ、お母さん、あなたに申しましょう」による12の変奏曲

 

 私は1975年に吉田秀和の解説で、K304やK310と母の死との関係を教えてもらったのだった。75年の放送でモーツァルトが父に宛てて書いた手紙(パリで母が死んだその日に、死んだ、とではなく病気が重い、と書いて故郷・ザルツブルクに住む父や姉に心の準備をさせた内容)が読まれたかどうかは覚えていない。ただひたすらモーツァルトの音楽に衝撃を受けた。なおK304とK310とを比較すると、より生々しい感情が込められているのはK304の方だと思う。

 上記動画には下記のコメントが寄せられている。

 

@user-nz1yo4lh9o

 

名曲の楽しみ モーツァルトは2回放送されています。私は1回目の時は楽しみに聴いていましたが、2回目は聴けませんでした。

K296は1回目の時にも好きな曲だと言っていました。

K304は若い頃聴いてわーっと感じたと言っていたと思います。それだけ印象に残っているのでしょう。

きらきら星変奏曲は最近だとウィーンに行ってから1781年頃作曲されたものとされているようです。

パリで作曲されたものという刷り込みが強くてなんかついていけない感じがします。

作曲された時期ではなく曲が良ければいいのですが、割り切れない感じがします。

 

 1975年の放送で吉田秀和がK296のヴァイオリンソナタが好きだと言っていたことは私も覚えている。ただその当時の私はK296がそれほど優れているとは思わなかった。後年その評価を改めたけれども。K296は少しあとに書かれたK376〜380との6曲セットで出版されている。2つのヘ長調ソナタ(K376とK377)の間の2番目に入れられたらしい。この6曲では緩徐楽章が弦楽四重奏曲ニ短調K421の第4楽章と似た曲想の変奏曲であるヘ長調K377と冒頭の主題があまりにも印象的な変ロ長調K378の2曲を私は特に好んでいる。

 また「きらきら星変奏曲」に関しては幸か不幸か私には思い入れは全くないのだった。それどころか、モーツァルトにしてはつまらない曲だとの低評価を昔から下している。昨夜も番組で曲がきらきら星変奏曲になった途端に睡魔に襲われて寝てしまった。モーツァルトには良い、あるいは素晴らしい変奏曲も多いが、それでも変奏曲のジャンルではベートーヴェンに敵わない(つまり打率というか傑作の割合がベートーヴェンより低い)とも思っている。だから、1781年にウィーンで作曲された、つまり母の死とは何の関係もないと知っても全くなんとも思わない。

 しかしK304とK310は「きらきら星変奏曲」とは全く違う。ネット検索をかけて下記noteの記事を見つけた。

 

note.com

 

モーツァルトが感情を入れ込んだ作品

 

このようにモーツァルトの作品には個人的感情を作品に組み込んでいないと思うのです。短調の作品(交響曲第25番ト短調K.183や交響曲第40番ト短調K.550、ピアノ協奏曲第20番ニ短調K.466やピアノ協奏曲第24番ハ短調K.491など)には短調ならではの暗さはありますが、悲しみを訴えるような個人の思いがあまり伝わらないのです。音楽の中に個人的感情を組み込まなかったのか。モーツァルト自身がどのような思いで作曲していたかはわかりません。

 

そんなモーツァルトの作品の中では、彼自身がこれほどまでに自分の感情を作品に乗せているものが2つあります。それはヴァイオリン・ソナタ ホ短調K.304とピアノ・ソナタ イ短調K.310です。この二つは他のモーツァルト短調の作品の中でも群を抜いて、個人の感情を強く楽曲に乗せているものだと思っています。

 

この作品たちが生み出された背景として、母であるアンナ・マリア(1720~1778)の死が関わってきます。

 

1777年にモーツァルトは就活のためにフランス、パリに母と一緒に旅立ちました。しかし、思うように就活はうまくいかず、そして1778年に母は病死。そんな悲しみの時代のさなか誕生した作品がこの2つのソナタです。聞いてみると他のモーツァルトの作品に比べても、悲痛な叫びともとれるような響き、メロディーをもっています。先程のシューベルトの作品と比べても同じくらい自身の感情を表しているかのように聞こえます。私が「母の死」という事実を知っているからそう聞こえるだけかもしれませんが、この事実を知らなくても悲劇的な作品に聞こえると思います。

 

母を失った悲しみ、就活がうまくいかない焦り、葛藤。そんな悲痛な日々を過ごしたモーツァルトの叫びともいえる思いがこの作品たちには組み込まれているような、そんな気がしています。

今回はヴァイオリン・ソナタ ホ短調K.304をピックアップします。

 

ヴァイオリン・ソナタ ホ短調K.304


この作品は全2楽章構成です。ホ短調というのはモーツアルトの作品の中でもほとんど使われていない調であり、他には「老婆」K.517という歌曲ぐらいしかホ短調は使われていません。ちなみにモーツアルト短調の作品は、ほとんどはニ短調ト短調ハ短調が大多数であり、他にはへ短調(自動オルガンのための幻想曲K.608など)、ロ短調アダージョK.540など)嬰へ短調(ピアノ協奏曲第23番K.488第2楽章)、イ短調(ピアノ・ソナタK.310など)が多少使われたぐらいです。

 

URL: https://note.com/ryosasaki0620/n/n21c3eb0edca3

 

 「ニ短調ト短調ハ短調が大多数」と書かれているように、普段短調の曲を書くときにはフラット系の調ばかり選んでいたモーツァルトが、なぜ母の死に際して調号のないイ短調やシャープ1個のホ短調を選んだのか。平均律の理論からいって調性に性格などあり得ないはずなのに、と私などは思ってしまうが、理由の1つに楽譜の見た目の印象があるのではないかとの仮説を持っている。つまりシャープ(嬰記号)は十字架に通じるというわけだ。実際ハイドンにはそのイメージがあったらしい。ハイドン弦楽四重奏曲ニ長調作品76-5の第2楽章ラルゴにシャープ6個の嬰ヘ長調を選んで「メスト」(悲しげに)という発想記号をつけている。またハイドン交響曲第102番変ロ長調の第2楽章をピアノ三重奏曲嬰ヘ短調の第2楽章に転用しているが、交響曲ではヘ長調だったのを半音高い嬰ヘ長調に移調している。そしてこの楽章は、同じ楽想のはずなのに交響曲とは全然違う悲しげな音楽に聴こえてしまうのである。おそらくその前後の楽章の曲想が交響曲の方は明るいのにピアノ三重奏曲の方は暗いためだと思われる。またバッハのマタイ受難曲の第1曲がホ短調であることやロ短調ミサ曲のキリエなど、ホ短調ロ短調を愛用したバッハのイメージも、モーツァルトや彼と同様に「ニ短調ト短調ハ短調が大多数」の短調の曲ばかり書いたベートーヴェン*4にはあったかもしれない。特にこの2人は徹底的にロ短調を避けた。モーツァルトには上記記事にあるK540の他にはフルート四重奏曲第1番K285の第2楽章くらいしか思い浮かばないし、ベートーヴェンに至ってはバガテル作品126-4という小曲くらいしかないのでは、と思ってネット検索をかけたら「ピアノ小品 WoO.61」という生前未発表の1821年の作品があるようだ。

 

note.com

 

 後世の作曲家でも、ブラームス交響曲第4番とクラリネット五重奏曲という晩年の暗い曲でホ短調ロ短調をそれぞれ選択しているが、彼らドイツ・オーストリアの古典派からロマン派にかけての作曲家になぜ「シャープ系の短調を忌避する傾向」がこれほど顕著に見られるのかは本当に不思議だ。繰り返すが平均律の理論に拠って立つ以上「調性に色はない」はずなのに。やはり楽譜の見た目かバッハくらいしか理由は思いつかない。

 話がそれたが、モーツァルトホ短調ヴァイオリンソナタK304とイ短調ピアノソナタK310が、彼の他の音楽には見られない、生々しい悲しみが込められていることは疑う余地がないと思われる。

 そして吉田秀和の2回目のシリーズで1983年にK304が放送された回を聴いたYouTubeの作成者さんが「衝撃みたいなもの」を受けのたと同種に、1975年に1回目のシリーズを聴いた私は衝撃を受けたのだった。

 今回の記事のタイトルを『万延元年のフットボール』や『1973年のピンボール』にちなんで『1975年のベースボール』にしようかと一瞬思ったが、思い直して止めた。1975年は読売の球団が最下位に落ちた、今までのところたった1回の記念すべき年ではあるのだが、この記事のタイトルに読売を紛れ込ませる気にはどうしてもなれなかったからだ。

*1:といっても今後1か月ほどはまたしてもきわめてハードな状態が続く。

*2:https://bookmeter.com/reviews/116866318

*3:あるいは1980年3月だったかもしれない。記憶は確かではない。

*4:但しベートーヴェンの場合はその比率はモーツァルトほど極端ではない。

モーツァルトの「フルートソナタ ヘ長調 K13」は、超天才作曲家が8歳にして書いた奇跡的な音楽ではあるが、後世の音楽家によって派手に改変されていた

 2023年はまだ50日ほど残しているが、CDショップに行く頻度がここ数年ではもっとも多く、といっても2か月に一度くらいのペースだが(近年は年に1度しか行かないか、さもなくば全く行かないかのペースだった)、主にクラシック、一部にジャズのCDを買って聴いた年だった。

 年の最初は買い替えたiMacにつけた外付けDVDプレーヤーの動作確認のためにゴルトベルク変奏曲を聴き直したことからバッハにハマり、そのバッハを敬愛した坂本龍一が3月に亡くなったことでバッハ熱がさらに増した。初夏以降には、亡父が生前に買った最後のCDと思われるフルトヴェングラーベートーヴェン交響曲全集を聴き込み、トルストイの小説を読んだことから「クロイツェル・ソナタ』をはじめとするベートーヴェンのヴァイオリンソナタの一部の曲*1、さらにはアンドラーシュ・シフ*2が2000年代半ばに録音したベートーヴェンのビアのソナタ全集を、こちらは全曲盤ではなく少しずつ買い溜めて聴くなど、ベートーヴェンを中心的に聴くようになった。ところが10月にアメリカのユダヤ人ピアニスト、マレイ・ペライアが1970年代から80年台にかけて録音したモーツァルトのピアノ協奏曲全集12枚組の輸入盤が3千円台半ばで売られていたので、円安の今でもこんな値段で買えるんだなあと思って買って聴いたところ、思いのほか良かったので現在はこれを中心に聴いている。

 モーツァルトのファンならご存知だろうと思うが、モーツァルトで本当に他の作曲家(これは特にベートーヴェンを指しての話だろう)を圧倒して良いと思われる曲種は、オペラとピアノ協奏曲だと言われている。たとえば吉田秀和(1913-2012)は、ヴァイオリンソナタでもベートーヴェンよりモーツァルトをより高く買っていた。私はヴァイオリンソナタでは両作曲家はほぼ互角だと思う。交響曲弦楽四重奏曲ピアノソナタの3つの曲種ではベートーヴェンモーツァルトを圧倒しているというのが私の評価だ。しかし確かにピアノ協奏曲ではモーツァルトベートーヴェンを上回る。それはたとえば同じハ短調モーツァルトの第24番K491とベートーヴェンの第3番作品37とを比較すれば明らかだろうと思う。

 そんなこともあって、モーツァルトのピアノ協奏曲集はこれまれもルドルフ・ゼルキンクラウディオ・アバドと組んだドイツ・グラモフォン盤やマリア・ジョアン・ピリスが若い頃のフランス・エラート盤などの選集を輸入盤で買い込んで聴いていたが、それらは全曲盤ではないのでモーツァルトが若い頃の曲を中心に何曲か欠けていた。そのうち第1〜4番はモーツァルトが幼い頃に他の作曲家の作品を寄せ集めて編曲した習作なのでなくても良いのだが、ペライア盤にはその第1〜4番や3第ピアノのための第7番、2台ピアノのための第10番*3を含む全27曲が収録されているので、値段も安かったことでもあり、迷わず購入したのだった。演奏を聴いて、1947年生まれのペライアの演奏が本当に良かったのはこの全集を録音した1970〜80年代だったのではないかと思った。

 しかし今回はそれらモーツァルトの中期から後期のピアノ協奏曲ではなく、前述の他の作曲家の作品を編曲した第1〜4番を聴いて思い出した、それらの作品をモーツァルトが書いた(編曲した)頃よりもっと幼かった8歳の頃に書いたソナタの話をする。

 というのは、モーツァルトのピアノ協奏曲第1〜4番は予想通りそんなに面白い作品ではなかった。唯一私の耳をある程度引きつけたのは、ト短調で書かれた第4番の第2楽章であり、これはヘルマン・フリードリヒ・ラウバッハという人のヴァイオリンソナタ作品1-1からとられているとのことだ。

 だが、短調の緩徐楽章ならモーツァルトは8歳の時にK13のいわゆる「フルートソナタ」で既に書いているではないかと思い出したのだ。

 そのK13のフルートソナタを初めて聴いたのはおそらく1975年夏で、夏休みに子どもなどのクラシック音楽初心者を対象に想定したと思われるNHK-FMの番組で、千藏八郎氏(1923-2010)の解説とともに聴いて、モーツァルトは今の日本なら小学校2年生の年齢でもうこんな音楽を書いたのかと驚愕した。その印象はあまりにも鮮烈だった。その頃はこちらもまだ中学生だったのだが。

 しかもこの曲の第1楽章は、家から離れているためにたまにしか行かなかった阪神間のさる本屋に行くと、よくBGMで流れていたのだった。この書店で流れていたBGMで他に思い出深い曲としては、バッハのヴァイオリン協奏曲第2番ホ長調の終楽章のロンドがある。本屋で耳にした頃にはバッハの曲だとは知らなかったが、翌年に服部幸三氏(1924-2009)か皆川達夫氏(1927-2020)、おそらくは服部氏が解説するバロック音楽のFM番組で、バッハの曲であることを知った。これに対してモーツァルトの方はNHK-FMで知った方が早かった。

 

open.spotify.com

 

 これは3拍子の舞曲によるロンドで、オーケストラが演奏する舞曲の間にソロが活躍する部分が何度か挟まれる構成の音楽。ネットで調べたところ、舞曲はイギリスにルーツを持つジーグらしい。このヴァイオリン協奏曲第2番はバッハの音楽の中でも早くから人口に膾炙(かいしゃ)した曲だったとのことで、この爽快なロンド主題は実に印象的だ。

 モーツァルトのK13もそうで、これはロンドンで書かれた6曲のソナタ中の第4曲だが、それまでの3曲がなんということもない音楽だったのに、モーツァルトはここで突然大きな飛躍を遂げた。これは天才にはしばしば見られる現象で、ベートーヴェンの若い頃の作品でいえば悲愴ソナタピアノソナタ第8番作品13)がその例だろう。だが同じ13番という番号を持つソナタであっても、8歳のモーツァルトと28歳のベートーヴェンとでは年齢がかけ離れている。なお、モーツァルトの方はいうまでもなく後世の音楽学者・ケッヘル(1800-1877)が勝手につけた、モーツァルトの与り知らない番号だ。「ケッヘル」はおそらく今の人だったらよりドイツ語に近い「ケッヒェル」の表記が用いられたに違いない。

 この「ケッヘル13番」に関する興味深いブログ記事を発見したので以下に引用する。

 

ameblo.jp

 

このケッヘル13番のフルートソナタ、度々、いかに8歳のモーツァルトが、類を見ない大天才であったかを証明するため引き合いに出される作品の一つです。特に上昇、下降の音階を塩梅良く散りばめた第三楽章など、A~B~Aの三部形式が採用され、そのメロディーラインも素晴らしく、揺るぎない構成をも示しています。

 

その証拠に、フルトヴェングラー指揮のベルリンハーモニーの時代の首席フルーティストだった オーレルニコレさんが、この曲にマジに取り組み、1970年ドイツ グラマフォンにそれを録音したのが、きっかけとなって、全世界数十億人の人々にこの愛らしいソナタが、広まって行ったと考えられています。

 

ただ、子供のモーツァルト、自分一人で100%この偉業を達成したと考えるには、やはり無理があります J.Sバッハの息子、クリスティアン バッハの手厚い指導があったとみなすのが自然でしょう。

 

さて、このKV13は、フルートを学ぶ子供たちの必須科目で2年位経って、実力が、中級のレヴェルになった子供たちは、先生から「今度の発表会は、ケッヘル13にしましょうね」と言われることが多いと聞きます。

 

もし、キムタクの娘さんで、プロフルートプレーヤーを目指し桐朋学園音楽大学に通っていらっしゃる木村心美さんが、この作品をレパートリーに入れてくださればブロガー冥利に尽きるというものです。

 

更に、モダンジャズ界きってのNo.1フルーティスト、ヒューバートローズさんもこのソナタをこよなく愛していて録音しています。

 

最後にこれまで世界中で30億人が、観たといわれる大ヒット映画、ライアン オニール、アリ マッグロウ主演のある愛の詩、ここにも秘かにこの、ケッヘル13が使われているのです。日本でこの事実を知っているのは、私を含め500人に満たないでしょう。

 

URL: https://ameblo.jp/galwayera/entry-12684903259.html

 

 ブログ主さんは「galwayera」と名乗られているので、おそらくイギリスのフルーティストであるジェームズ・ゴールウェイ(1939-)と同世代の方ではないかと思われる。このゴールウェイは私の中学生時代には既に新進気鋭のフルーティストとして知られていた。元ヤクルトスワローズのマクガフ投手と同じくアイルランド系の人らしく、ジェームズと同じフルーティストである妻はアメリカ出身とのこと。ゴールウェイはギャルウェイとも読むようだが、姓の読みがアイルランド、イギリス、アメリカのいずれによればゴールウェイだったりギャルウェイだったりするのかは全く知らない。

 

このKV13は、フルートを学ぶ子供たちの必須科目で2年位経って、実力が、中級のレヴェルになった子供たちは、先生から「今度の発表会は、ケッヘル13にしましょうね」と言われることが多い

とのことだが、私がそうでもあろうかと長年想像していたまさにその通りのことが書かれた文章だったので、読んでうれしくなってしまった。

 モーツァルトを教えたクリスティアン・バッハの手が相当入っているはずだとの推測もおそらくその通りだろう。だがそのクリスティアン・バッハの詩を悼んでモーツァルトが冒頭の主題をそっくり引用したというピアノ協奏曲第12番の第2楽章などを聴くと、楽章全体としては美しい音楽だけれどもクリスティアン・バッハが書いたという主題はやはりやや平凡だなと思わずにはいられない。

 上記ブログ記事には、若いセルビア人女性がフルートを吹いたモーツァルトのK.13の動画が埋め込みリンクされている。それを下記に示す。

 

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 ところが、この動画には下記のコメントがついている。

 

@toma1610

The parts are inverted. The original is not like that.

 

 「パートが反転されている。(モーツァルトの)オリジナルはあのようではなかった」と書かれている。

 調べてみるとその通りで、しかもその犯人はクリスティアン・バッハなどではなかった。フランスの稀代の大フルーティストだったマルセル・モイーズ(1889-1984)の子でもあったルイ・モイーズ(1912-2007)が犯人だった。親子とも95歳まで生きた長命の人だが、こちらもフランス語の発音だと「モワーズ」の方が原語に近いようだ。但し、息子のルイの方はオランダ・スヘフェニンゲンの出身だそうで、あるいはスヘフェニンゲンではモイーズとの発音の方が近いのだろうか。例によって私には全然わからない。なおスヘフェニンゲンはScheveningenと綴り、英語式の発音では「スケベニンゲン」とも聞こえるらしく、日本ではこのカタカナ表記で「変な地名」としてたまに話題になる。Wikipediaには「スヘーヴェニンゲン」との読みが併記されている。このあたりはやはりオランダ系であるらしいベートーヴェンが正しいのかベートホーフェンと表記すべきなのかという話を思い出させる。

 そのスケベ人間だったかどうかは神のみぞ知るルイ・モイーズは、どうやらオリジナルではクラヴィーアが弾くように指定されていた冒頭の旋律をはじめとして、多くの声部をフルートに吹かせるように原曲を改変したようだ。根拠は下記リンクのサイトの記述。

 

★解題★

 

 モーツァルトの初期フルートソナタ(KV10~15)は、彼が8歳のとき(1764年ごろ)に作曲され、イングランド女王に献呈されました。そしてルイ・モイーズによって独奏フルートにオリジナルにおけるよりも重要な役割を与えるよう編曲され、幾多のすぐれたフルート奏者がモイーズ版を用いてきました。この版では、モイーズ版を底本としつつ、原典に対する忠実度を高めるため新モーツァルト全集も参照して編曲を行ないました。

 

 これらのソナタは天才の若書き(幼書き?)と言うにはあまりにも完成度が高く、しかも、成年以後にはむしろ見出しがたくなった伸びやかな勢いを持つ、不滅の名曲です。

 

 

★解説★

 

ヘ長調 K.V.13

 6曲中、もっともよく演奏される作品かも知れません。モーツァルトが晩年までずっと偏愛した下降音型の主題を持つ第1楽章、淡々とした不思議な味わいの第2楽章、半音階的主題を持つ速いメヌエットの第3楽章から成り、変化に富んだ傑作です。

 

 第1楽章はアレグロ、4分の2拍子。冒頭の主題はモーツァルトが生涯通じて何度使ったかわからないほど愛したモチーフですが、もしかするとこの曲が「初出」ではないでしょうか。この曲ではトリルを折り込んで切れ味鋭いメロディーになっています。展開部では短調の厳しい表情も垣間見せます。

 

 第2楽章はアンダンテ、4分の4拍子の長大な楽章です。ジグザグ音階を基調とする低音に乗って、短調の、ちょっぴりもの悲しいメロディーが繰り返し歌われます。何となく聞き流していたりするとモノトーンな音楽に聞こえかねませんが、実は和声の変化や転調によって音楽の色合いが微妙に移り変わっていく、なかなか味のある音楽です。RJP版の伴奏と演奏例では後半のリピートを省略しました。

 

 第3楽章はメヌエットで、比較的速いテンポが合うと思います。半音階を駆使したテーマの第1メヌエットと、ニ短調で分散和音を駆使したメロディーの第2メヌエットの対照も鮮やかな、可憐な音楽です。

 

URL: https://www.recorder.jp/flute/fm304.htm

 

 ルイ・モイーズによる原曲の改変は、上記セルビア人女性の演奏と、近年校訂版が出版された楽譜に基づいたと思われるクラヴィーア(ピアノ)、ヴァイオリン、チェロの三重奏での「ピティナ ピアノチャンネル」による同曲の動画(下記リンク)とを比較すると一目ならぬ一聴瞭然だ。なお下記リンクの動画には第2楽章は含まれていない。

 

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 中学生の頃の夏休みに私がもっとも驚かされたのは第2楽章だった。ヘ長調ソナタの第2楽章にこのようなヘ短調を用いた音楽としては、後年のモーツァルト自身が書いたピアノソナタ第2番K280(1775)の他にハイドンの作品13-3(Hob XVI-23, 1773)、ベートーヴェンの作品10-2(1798)があって古典派の3大作曲家がピアノソナタを1曲ずつ書いているが、曲の成立時期からいってモーツァルトの2番がハイドンの23番に影響された可能性が少なからずある。しかし、もしかしたらハイドンモーツァルトが8歳の頃に書いたヴァイオリンまたはフルートの伴奏付きのクラヴィーアソナタを知っていたのではないか。そう想像したくなる。またモーツァルト自身のヴァイオリンソナタ変ホ長調K380の第2楽章(ト短調)がこの楽章の楽想が再び用いられた例だと指摘されることもある。

 第3楽章の半音階的メヌエットは、今回セルビア人女性の演奏を聴いて一番衝撃的だった箇所で、えっ、モーツァルトは8歳でこんな大胆な半音階の使い方をしていたのかという新鮮な発見があった。

 おそらく第1楽章は全曲でもっともキャッチーな音楽であり、冒頭の主題を聴いただけで「ああ、モーツァルトだな」と思わせるが、「モーツァルトが生涯通じて何度使ったかわからないほど愛したモチーフ」と書かれているので、どんな曲があったっけと思って真っ先に思い出したのはピアノのためのニ長調のロンドK485だった。

 

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 ソーファミレドの前にドミソがついても良いとかそういう条件緩和をすればまだまだ出てくるが、ソーファミレドで直ちに思い出せたのはこの曲だけだった。

 またK13の第1楽章第2主題の「ラーラシレドシラ」の音程はフルート四重奏曲第4番イ長調K298の第1楽章の変奏曲主題と(K298の前打音を除けば)音程およびリズムが同じだが、K13ではハ長調の第6音であるのに対してK298ではイ長調の主音から始まる「ドードレファミレド」と同じだが、固定ドで読むとともに「ラーラシレドシラ」になる(但しK298のドにはシャープがつく)。私がK298を初めて聴いたのはK13と同じ1975年だったから、これには初めて聴いた時に直ちに気づいた。

 

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 またK13の第2主題は「ラーラシレドシララーソ」と続き、これにはレからソまで一音ずつ5度下降する音型が含まれるが、これは第1主題の冒頭と同じなので統一がとれている。それにもかかわらず元気の良い第1主題と流麗な第2主題という対比は鮮やかであり、たとえクリスティアン・バッハの手助けがあったとしても、これほどの音楽を8歳の子どもが書けたとはおよそ想像に絶している。

 さて今回の記事を書くためのネット検索で一番のうれしい驚きだったのは、NHK-FMの「名曲のたのしみ」で1980年から毎週1回朝の1時間番組でやっていた「モーツァルト:その音楽と生涯」の何度か目のシリーズ第3回でK13が取り上げられた回をエアチェックしていた方がYouTubeに音声のファイルをアップロードされていたことだ。

 

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 この番組は1979年度までは日曜日の夜11時から1時間番組で放送されていた。私hが初めて聴いたのは、前述の千藏八郎氏のクラシック音楽入門番組を聴いた直後だっただろうか、確か1975年の8月か9月だったはずで、その頃にも「モーツァルトの音楽と生涯」をやっていたはずだが、75年の晩夏の時期にはケッヘル300番台初めのヴァイオリンソナタをやっていた。特にホ短調のK304に大きな衝撃を受けた。このK304と対をなす音楽がK310のイ短調ピアノソナタだが、この2曲はこの半世紀近く変わらぬ愛情を持って接してきた、私にとっては特別な音楽だ。K310はなかなかNHK-FMにかからなかったが、晩秋の勤労感謝の日だったかの早朝に放送された。確かリリー・クラウスの演奏だった。これを当時はなかなかできなかった早起きをしてエアチェックした思い出がある。吉田秀和の番組ではそのあとに確かエミール・ギレリスの演奏で聴いた記憶がある。両者の演奏はずいぶん違っていて、演奏者によって曲の印象が大きく変わることを初めて実感した。番組は1979年にレクイエムを放送して終わったが、そのあと放送時間帯が日曜朝に変わったのは1980年度からだっただろうか。またケッヘル1番から始まったことには驚いた。だが放送時間帯が変わったためもあって、中学から高校生時代のように毎週聴く習慣は失われた。

 上記YouYubeは1980年4月27日放送分とのこと。シリーズ第3回の放送で、ロンドンで書かれた6曲のセットであるK10からK15のうち、最初の4曲が紹介された。K13は44分あたりから吉田氏の解説が始まり、内容的にいうと6曲の中でもっとも注目すべき作品だと吉田氏も言っている。

 そして、K10からK12までがヴァイオリンとピアノによる演奏が流されたのに対し、K13ではオーレル・ニコレのフルートと小林道夫のピアノによる演奏が流された。前記ブログ記事にこの曲にスポットを当てたのがニコレだと書かれていたし、小林道夫といえば以前ゴルトベルク変奏曲について書いた記事でも取り上げた大ベテランの奏者なので、おおっ、と思った次第。

 ただ、その演奏でニコレと小林はどうやらルイ・モイーズによる改変版で演奏していたようだ。これに対して1963年にジャン・ピエール・ランパルがロベール・ヴェイロン=ラクロワと組んで演奏した下記リンクの録音では、通奏低音のチェロこそ加わっていないものの第1楽章第1主題はチェンバロが弾いている。

 

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 しかしランパルらが原典版に近い楽譜に依拠しているかといえばそうではなく、そのあとのパッセージや第2主題は、前述のピティナの動画を参照すると原典版ではピアノが弾くはずなのにランパル盤ではランパルがフルートを吹いている。どうやらニコレと小林が用いたのとはまた別の改変版で演奏しているようだ。

 それに何より、ニコレもランパルも現代楽器で吹いているので、伴奏の小林道夫がピアノを弾いているニコレ盤はまだしも、ヴェイロン=ラクロワがチェンバロを弾くランパル盤では両者のバランスが悪くなっている。

 私は音楽評論家の宇野功芳(1930-2016)が大嫌いだが、彼が「バロック音楽のフルートを含む曲を現代のフルートで演奏するのは許せない」と言ったことにだけは強く共感する。バロック音楽や初期モーツァルトのフルートの曲はフラウト・トラヴェルソ(横笛)と呼ばれた頃の古楽器かそれを模した楽器で吹くに限る。特にモーツァルトの初期のソナタのように、フルート(やヴァイオリン)がオブリガートである作品でランパル盤K13のように冒頭の主題をチェンバロが弾いたりすると楽器間のバランスが著しく悪くなってしまう。どうしても現代楽器でやりたいなら、チェンバロではなくニコレ盤のようにピアノと共演すべきだ。現に小林道夫も主にチェンバロを弾く奏者だ。

 なおモーツァルトのK10から15までのロンドン・セットでは、K13に次いでは第5番K14のハ長調ソナタが比較的知られているかもしれない。吉田氏の番組の最後に流れていたのはこのK14の冒頭だろう。聴き覚えがあった。しかしこの曲の冒頭も原典版ではフルートではなくクラヴィーアが演奏したに違いない。こちらにはK13に対応するピティナの動画がなかったので、フルートが派手に活躍する動画を以下にリンクする。

 

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 しかし後世の人たちによる改変のともかく、このK14もK13で劇的飛躍を遂げたモーツァルトがその余勢を駆って書き上げた痛快な音楽だとはいえる。あるいは両曲の成立順はこの逆だったということはあり得るかもしれないが。

 栴檀は双葉より芳し、という諺の見本だろう。

*1:クロイツェルの他には第4〜6番。この3曲は調性の並びがイ短調ヘ長調イ長調となっているが、これは『クロイツェル・ソナタ』の3つの楽章と同じだ。そして『クロイツェル』のフィナーレはもともと第6番のフィナーレのために作られた音楽を転用したものであることはよく知られている。

*2:ハンガリー出身なのでシフ・アンドラーシュと表記しても良いが、彼は1987年にオーストリア、2001年にイギリスの市民権を取得し、かつ2011年の現在のハンガリーのオルバン・ヴィクトルが独裁する極右民族主義政権を批判した時に母国の右翼ナショナリストたちから猛批判を浴びたため、ハンガリーでは演奏会を開かないと公言している。従って、イギリス式に姓−名の順に表記する方が良いと思われる。

*3:第7番と第10番ではラドゥ・ルプー(1945-2022)が第1ピアノを弾いている。また第7番はモーツァルト自身が編曲した2台ピアノによる版により演奏している。

ブログ『海神日和』(運営者:だいだらぼっち氏) の連載ブログ記事「ピケティの新社会主義論」へのリンク集

 トマ・ピケティの『資本とイデオロギー』(原書2019, 邦訳みすず書房2023=山形浩生・森本正史訳)は、邦訳が出たばかりの8月下旬に買ったけれどもまだ1ページも読んでいない。まとまった時間がとれないからだが、この本を読みながら連載記事を断続的に公開しているブログ『海神日和』(運営者:だいだらぼっち氏)があるので、その紹介と私自身の勉強のために当該記事をリンクしただけの記事を当ブログに公開することにした。固定エントリにはしないが、ブログ記事の更新が続いている間に限り、定期的に最新記事として筆頭に表示されるようにしようかと考えている。

 その前にみすず書房のサイトにリンクを張っておく。

 

www.msz.co.jp

 

 以下にブログ『海神日和』の『資本とイデオロギー』を取り上げたエントリへのリンクを示す。

 

kimugoq.blog.ss-blog.jp

 

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(随時更新します)

チェーホフ唯一の長篇『狩場の悲劇』(原卓也訳・中公文庫2022) を読む。クリスティ『アクロイド殺し』の先例であることより「信頼できない語り手」の「純粋な悪」ぶりが印象的

 10月はここまでずっと仕事に忙殺された。少なくとも来年1月前半までは仕事に追われそうだ。しかもその3冊のうち1冊は、9月中に大部分を読んでいて月の最初の日である10月1日の日曜日に読み終えた本だった。それがアントン・チェーホフ(1860-1904)が20代半ばの頃に書いた唯一の長編『狩場の悲劇』(1884-85;中公文庫版2022=原卓也訳)だ。

 

www.chuko.co.jp

 

 チェーホフのこの作品の存在を知ったのは、この中公文庫版が刊行される前年の一昨年だった。弊ブログの下記記事にて言及したことがある。

 

kj-books-and-music.hatenablog.com

 

 記事のタイトルからおわかりいただける通り、アガサ・クリスティの代表作『アクロイド殺し』(1926)に用いられたトリックを、その40年あまりも前にクリスティに先駆けて使っていた作品として、ロシア文学愛好家たちよりもミステリファンの間で知られていた。中公文庫版にも江戸川乱歩が1956年に『宝石』に書いた評論の文章が添付されている。

 私がこの文庫本を図書館で見かけたのは今年の夏頃だった。えっ、『狩場の悲劇』が置いてあるの? と思ったが、その頃は宮部みゆきガストン・ルルーをそれぞれ2タイトルずつ読んでいたのでチェーホフは後回しにした。ようやく借りたのが9月半ばで、9月最後の週に読み始めたが、前述の通り読み終えたのは10月1日だった。

 この中公文庫版の訳者は原卓也(1930-2004)。この夏には、弊ブログでまだ連載の音楽編を完結させていないトルストイの『クロイツェル・ソナタ』も新潮文庫版で読んだが、その訳者も原卓也だった。また古くは1989年に読んだドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』も原卓也訳の新潮文庫版で読んだ。『カラマーゾフ』は、のち2006年に光文社古典新訳文庫から出て評判をとった亀山郁夫(1949-)訳も読んだが、私には原卓也訳の方がずっと読みやすかった。亀山氏は村上春樹の新作を読むために、村上の『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』を宮部みゆきの『模倣犯』と同じようにaudibleで「読んだ」らしいが、この人にはややミーハーなところがあるのではないかとの偏見を勝手に持っている(笑)。もっとも原卓也は1960年代末の学園紛争の頃に東京外語大に辞表を提出した全共闘シンパの「造反教官」と呼ばれたことがあるらしいから、自民党支持者にとっても日本共産党の支持者にとっても恰好の攻撃の的だったかもしれない。

 『狩場の悲劇』は、誰が読んでも読み違えることはなかろうと思うくらいの「信頼できないことがミエミエの語り手」である予審判事セリョージャの文章が、純粋な一人称ではなく作中作として出てくる構成だから、これを『アクロイド殺し』の先駆と言い切れるかどうかも怪しい作品だ。この作品の興趣は「フーダニット」ではなく、むしろ「ホワイダニット」だろう。なぜあの信頼できない語り手が美しい少女を殺したのか。それがわかるのは、作中作が終わったあとの場面においてである。

 それは実に信じがたい動機であり、この「信頼できない語り手」セリョージャは「純粋な悪」そのものではないかと思わずにはいられなかった。

 私が直ちに思い出したのは宮部みゆきの『模倣犯』の真犯人・網川浩一(ピース)だった。網川は意識して「純粋な悪」を追求していたが、セリョージャは意識せずとも「純粋な悪」そのものだった。この男とつるんでいた「伯爵」もまた実にひどい人間であり、この伯爵が隠していた悪事が作中作の終わりの方で明らかにされるが、それから思い出されたのはアガサ・クリスティの『三幕の殺人』だった。伯爵はクリスティ作品とは違って殺人までは犯していないが、『三幕の殺人』の犯人が最初に犯した殺人の動機もまた、セリョージャに負けず劣らずひどいものだった。

 そういえば『狩場の悲劇』の予審判事・セリョージャと伯爵とは極悪人コンビだが、その構図も『模倣犯』の網川浩一と栗橋浩美と同じだ。両作とも2人の関係は対等ではなく、『模倣犯』では出生の経緯はともかく上の階級にいる網川が栗橋を支配しているが、『狩場の悲劇』の方は階級が下のセリョージャが内心では伯爵を馬鹿にしている。網川とセリョージャに共通するのは「見場の良さ」であって、それに女性たちはコロッといかれてしまう。もちろん同じ性質は男にもある。浦沢直樹の漫画『MONSTER』でも怪物・ヨハンは美男に描かれていた。

 もう一つ、このカテゴリに属する人間に多く見られる特徴は「演技を好む」ことだ。これはセリョージャには当てはまらないから『狩場の悲劇』の作品論としては不適な話題だが、ついでだから書いておく。演技者という特性は網川浩一には見事に当てはまるし、前記クリスティも犯人の職業として医者とともに非常に多いのが俳優(男女を問わない)だ。また俳優ではなくとも演技を好む人間が犯人という作品も複数ある。それらは特に初期のクリスティには多い。私はクリスティの全ミステリ作品を全部ほぼ成立順に読み進めて残すところ9冊まできているが、印象に残っているのは比較的初期の作品が多い*1。俳優は演技はお手のものだ。

 それから『狩場の悲劇』を読むと、帝政ロシア時代の貴族(伯爵)やアッパーミドル階級(予審判事)にはこの手の輩が結構いたのではなかろうかと疑ってしまう。上の階級の人間は下の階級の人間に対して何をやっても構わないと考えていた人間が多かったんだろうなと想像する。そしてそこから、だから帝政ロシアの再興を夢見る現代ロシアの独裁者・プーチンは人の命を何とも思わず平然と人を殺し続けるのかとも思う。プーチンもまた「絶対悪」に限りなく近い人間であろう。そんな人間が権力を握っている。

 見てくれの良い人間が悪人であるとは限らないのは当たり前だ。だが中にはどうしようもない悪人がいるのも確かだろう。そして、心にもないことをいかにも心の底から発した言葉であるかのように思わせる悪しき演技力の持ち主。これはたくさんいる。だから世の中では犯罪が後を絶たない。

 『狩場の悲劇』でもっとも印象に残ったのは、そんな美男子にして「純粋の悪」である「信頼できない語り手」セリョージャに殺された美少女オリガ(オーレニカ、オーリャ)の最期だ。セリョージャはなんと予審判事として瀕死のオリガに尋問する。それに対してオリガは「あなたが……あなたが……殺したの」と言うが、セリョージャは「ヤマシギを、でしょ」と話をそらし、犯人の名前を言えとオリガに聞く。しかしオリガは犯人、つまりセリョージャの名前を言おうとせず、にっこりと微笑んで絶命した(中公文庫版272〜273頁)。悪魔に魅入られたように死んでしまうオリガから私が思い出したのは、宮部みゆきの『模倣犯』で事実上の兄の仇である網川浩一に騙されて、網川への失恋とともに兄が大量殺人犯であると思い込んだまま「純粋な悪」網川に自殺に追い込まれた高井由美子の最期だった。『模倣犯』の映画版では由美子の自殺は削られているそうだが、由美子の自殺こそ『模倣犯』の「負のクライマックス」であり、その後網川がもろくも自滅するにもかかわらず多くの読者に「救いのない結末」だと思わせた理由になっているのだから、由美子の自殺を省いた時点で映画は失敗だったのではないだろうか。実際映画版『模倣犯』の評判は必ずしも良くなかったようだ。

 そしてセリョージャや網川、それに漫画『MONSTER』のヨハンのような人間が今の日本でも大手を振っていると私は思う。それも超大物が。私が思い浮かべるのは某自治体のあの首長だ。奴は実に演技が上手く、コロナ禍最初の年にTwitterで「#××寝ろ」なるタグが流行ったが、「寝ろ」は「ネロ」の誤記ではないかと私は思った。実際、その自治体は日本国内でももっとも新型コロナウイルス感染症の死亡率が高かった。自治体内で医療崩壊を起こしたからである。その結果を招いたのは、首長が邪悪そのものの人間だったからではないかとの仮説を私は立てている。あの「働き者」のイメージは、彼が属する政党の勢力を伸長させるための虚像に過ぎなかったのではないか。実際には自治体の公的部門縮小という、住民に不幸をもたらす政策を推進しただけだったのではないか。何よりも悪質だと思うのは、彼が自分の「見場の良さ」を自覚していて、人々を騙すためにそれを最大限に利用しているように見えることだ。その人物や彼が属する政党には、日本全体を見た時には少なからぬ批判者がいるが、それでも人気が全然衰えないのは彼の「見場の良さ」に多くの人たちが幻惑されている、というより惹きつけられているせいではないかと私は思う。だから、あの政党を撃つためには、まずその神輿であるあの人間に攻撃を集中するべきではないか。私は最近ずっとそう考えている。

*1:のちの作品は心理描写に凝るようになって犯人当ても難しくなっていくが、読み終えてしばらくしたら中身を忘れてしまう作品が増えている。

宮部みゆき『模倣犯』(一)〜(五)(新潮文庫)を読む。露文学者・亀山郁夫氏が書いた本書のレビューに注目した

 初めにお断りしておきますが、この記事は表記作品のネタバレが満載ですので、当該の小説を未読の方にはおすすめしません。

 8月最後の日曜日に区立図書館に行った時、今まで全巻揃っているのを一度も見かけたことがなかった宮部みゆきの『模倣犯』全5冊(新潮文庫版2005, 単行本初出は小学館2001)が揃っているのを見て、ついつい第1巻を借りてしまった。読みたいと思った強い動機として、少し前に読んだばかりの同じ作者の『小暮写眞館』を読み終えた時、この作品は『模倣犯』で書いたような陰惨な大量殺人の話はもう書きたくないと思うようになって書いた非ミステリの小説だということを知ったので、作者自身をそんな気持ちにさせた作品にして作者の代表作としても名高い『模倣犯』を読んでみようかと思ったのだ。同じタイミングで借りた本が、少し前に弊ブログの記事に取り上げたガストン・ルルーの『オペラ座の怪人』だった。

 

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 結局翌週には第2巻と第3巻、翌々週には第4巻と第5巻を借りて読む羽目になった。受けた印象は『火車』よりも強烈で、作者の代表作とされるだけのことはあると思ったが、同時にこういう作品を書く気が起きなくなったのもわかるような気がした。

 たまたまだが、最初に借りた第1巻が第1部、第2巻と第3巻が第2部、第4巻と第5巻が第3部だった。この作品は一種の倒叙ミステリだが犯人は2人組だ。第1部の最後で犯人と思われた2人組が死ぬが、片方は犯人にして連続殺人の主な実行犯だったがもう1人は巻き添えを食った友人だった。第2部ではその主な実行犯である栗橋浩美と栗橋の巻き添えを食って死んだ友人の高井和明が主人公で、第3部では生き残った主犯の網川浩一が主人公になる。この網川こそラスボスであり、良心のかけらも持ち合わせていないかのような人間として造形されている。私が直ちに思い出したのは、1999年から2002年頃まで熱中して読んだ浦沢直樹の漫画『MONSTER』に出てくるヨハン・リーベルトだった。作中でヨハンは双子の妹ニナ(アンナ)に「絶対悪」と評されたが、網川浩一もまた「絶対悪」と呼びたくなるキャラクターだ。

 

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 読み終えてから知ったのだが、『模倣犯』と『MONSTER』とは同じ頃に同じ出版社の雑誌に連載されていた。『模倣犯』は小学館発行の『週刊ポスト』1995年11月10日号から1999年10月15日号まで連載され、『MONSTER』は『ビッグコミックオリジナル』1994年第24号から2002年第1号まで連載された。

 2010年に書かれたアマゾンカスタマーレビューに『MONSTER』に言及したレビューがあったので以下に引用する。レビュワーは漫画よりもドストエフスキーに力点を置いて言及している。

 

★★★★☆ スタヴローギンになれなかった男

2010921日に日本でレビュー済み

 

時世を10年単位でセグメントしていくとするなら、

'00年代は宮部さんの「模倣犯」に始まり、村上さんの「1Q84」で締め括られる。

1Q84」を読みながら、そんな想いにかられた。

ホコリをかぶった本書を棚の奥から引っ張り出し、再読する。

 

'90年代という世代を考えると、

奇しくも'89年という同じ年に起きた女子高生コンクリート詰め事件と宮崎勉事件から、

'94年のオーム、'96年の酒鬼薔薇'99年のライフスペースと、

ワイドショーに求める刺激は強くなっていく一方だった。

 

それを逆手に「お前らを楽しませてやろう」と出現したのが網川浩一だった。

ドストエフスキーの「悪霊」で、ピョートルがスタヴローギンに心酔したように、

栗橋浩美はピースに心酔し、高井和明はシャートフと同じ運命を辿る。

 

浦沢直樹さんの「MONSTER」ヨハンもそうだけど、知的な犯罪者はスマートに見える。

容姿もスマートなら、語りもスマートだし、生き方もスマートだ。

それは悪魔でありながら天使であり「神の子」のようですらある。

ハンニバル・レクターのように。

 

でも、現実の事件はどうだろう?

テレビの画面に映し出された誰がスマートだっただろうか?

 

作品の中で描かれるのは加害者はどこかの被害者で、被害者はどこかの加害者。

宮部さん独特の人間への慈愛が作品の節々にあふれている。

それでも読後感は哀しい。

 

確かに現実の事件でも加害者はどこかの被害者だったかもしれない。

だけど、それを知ったところで、被害者が納得するわけがない。

それを知っていたからスタヴローギンは自ら首を吊るした。

ピースは最期まで己が神だと誇示し続けた。

読後感の哀しさは、この人間の愚かさへの哀しさなのかもしれない。

 

URL: https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RYBV3MIP0LWNH

 

 レビュー中に「ピース」と書かれているのがラスボス・網川の渾名だ。ヨハンもそうだったが美男子として描かれている。最後にはテレビに登場する「人気者」になるが、私が強く連想したのは、支持者たちには申し訳ないけれども某自治体の知事だった。網川の禍々しさやいかがわしさ、それに冷酷非情さなどがそっくりだと思った。

 上記レビューに「最期」と書かれているが、物語中で網川は死なない。しかし逮捕はされ、大量殺人の証拠も豊富なので間違いなく死刑にはなるだろう。私自身は死刑廃止論者だが、それは別の話だ。読み終えて、私ならこんな極悪犯人はぶっ殺して話を終わらせるのになあと歯ぎしりしたのが正直なところ。

 ところでネット検索をかけて驚いたのは、なんと今年に入ってロシア文学者の亀山郁夫氏が今年春にaudibleで75時間かけて『模倣犯』を読み(聴き)、氏が館長を務める世田谷文学館のサイトにある「エッセイ」に4月28日から30日まで3日間に分けて感想文を書いておられたことだ。以下にリンクを示す。

 

 亀山氏は宮部氏の『ソロモンの偽証』(2012)を読んだことがあるらしい(私は未読)。

 

 Wikipediaによると、この作品は

学校内で発生した同級生の転落死の謎を、生徒のみによる校内裁判で追求しようとする中学生たちを描く。舞台となる中学校は東京都城東区」(江東区がモデル)と設定されている[1]

とのことなので、流れ流れて地元民になった私としては読んでみたいが、残念ながらこのあと年内は7月からここまでの時期のように本を読みまくる暇はなくなる*1。来年に回すしかない。

 亀山氏はその『ソロモンの偽証』を「21世紀版『カラマーゾフの兄弟』ではないか」とまで激賞する。そして『模倣犯』は宮部みゆきの『悪霊』ということらしい。先に引用したアマゾンカスタマーレビューでも『悪霊』になぞらえられていた。私も『悪霊』は1989年に読んだが、同じ年に読んだ『カラマーゾフの兄弟』からは強い印象を受けたのだが『悪霊』はあまりうまく読めなかったので、いつか再読しようと思って果たせずに今に至っている。

 『模倣犯』には、第1部の最後で非業の死を遂げたことが明かされたあと、第2部で連続殺人事件の実行犯たる栗橋浩美を更生させようとして果たせなかったばかりか、自らの説得に動揺した栗橋の運転ミスによって巻き添えになって死んだ上に殺人犯の濡れ衣まで着せされた高井和明という人物が出てくる。第3部では和明の妹・由美子が死んだ兄の冤罪を晴らそうとするのだが、なんと「絶対悪」たるラスボス・網川の毒牙にかかって自殺に追い込まれるというショッキングな展開となる。この部分が多くの読者にとっては全篇でもっとも印象に残る場面だろう。少なくとも私にとってはそうだった。読者の中には善人役の兄妹が揃って悲惨な死を遂げる展開に納得できず、「宮部みゆきさんが好きですとは言えなくなってしまった」とレビューに書いた人までいる。

 小説を書くテクニックから言ってうまいと思わされるのは、ある警官が連続殺人事件の捜査のために由美子との見合いが流れ、その警官が一度は彼女の自殺未遂の場面の発見者となるなどして、これは警官と由美子とが最後に結ばれるのではないかとの期待を読者に抱かせておいて網川の毒牙にかからせるという残酷な流れにしていることだ。このため読者の同情は由美子に集まりやすい。

 この由美子の自殺の場面についての亀山氏の文章を以下に引用する。

 

また、悪の天才ピースこと網川浩一のマインドコントロールによって自殺へ導かれる由美子の最後の描写も秀逸だと思った。自殺の場面には、これまでいくつもの小説で接してきたが、それらのほとんどが嘘くさく思えてきたほどのリアルさである。不思議なことに、過剰ともいえるほど言葉が尽くされているのだが、少しも過剰さを感じさせることがないのだ。むしろその過剰さが、死者への鎮魂の願いを深め、読者のいたたまれぬ思いにやさしく働きかける。思えば、ドストエフスキーの小説に登場するどの自殺者の描写にも、これほどの切迫感はなかったように私は思う。順に思い起こしてみよう。『罪と罰』のスヴィドリガイロフ、『悪霊』のキリーロフ、そしてスタヴローギン、『未成年』のクラフト、『カラマーゾフの兄弟』のスメルジャコフ。高井由美子の死の描写に辛うじて対置できるのは、『未成年』第一部の終わりで縊死を遂げるオーリャぐらいだろうか。思うに、エロスの作家ドストエフスキーは、自殺や死の主題には確かに深く魅力されてはいたものの、生と死の境界線に立たされた人間の心理の極限を描く術に卓越していたとはいいがたい。形而上化の誘惑とロマン主義的なこだわりが、彼の文学から死のリアリティをはぎ取ったという言い方もできる。それが、『模倣犯』では、その境界線の描写が、驚くほどに生々しい現実感を獲得し、いっさいの不自然さを免れているのだ。

 

URL: https://www.setabun.or.jp/minerva/1568/?ym=2023.04

 

 しかし、物語の冒頭から最後まで登場し、一貫して重要な役割を演じる少年・塚田真一の目には、おそらくこの物語中での最大の嫌われ役であろう樋口めぐみという真一のストーカー役の少女と由美子とが重ね合わされる。確かに二人の立場はそっくりなのだ。めぐみは真一の両親と妹を殺した殺人犯の娘で、由美子は連続殺人犯の片割れとされる人物の妹だからである。両人の行動も、由美子の方は網川にそそのかされてではあるもののよく似ている。この真一とめぐみについても亀山氏は言及している。

 

ドストエフスキーとの比較でもう一人、注意すべき人物として浮上してくるのが、塚田真一である。一家惨殺の悲劇に遭遇し、唯一生きのこった真一だが、作者は、その彼の心理の深層から、罪の共同性という認識を掴み出してくる。被害者であるはずの真一自身がその悲劇の実現に手を貸した、いや、使嗾したと感じる心のうごきは、深くドストエフスキー的である。真一を執拗に追い回す樋口めぐみが、たんなるストーカーではなく、真一のalter ego としての存在理由を明らかにするのもまさにこの文脈である。ピースこと網川浩一と栗橋浩美の分身関係もドストエフスキーとの連関性を思い起こさせるものだ。宮部みゆきは、さまざまな趣向をこらして、ピースと浩美の関係を、美的なヒエラルキーつ、「悪霊」の異なる二つのタイプを描き出してみせた。より正確な言い方をすれば、大文字の「悪霊(Demon)」と小文字の「悪鬼(demons)」の二つのタイプである。悪鬼の長ともいうべき栗橋浩美は、地上的な俗悪に快楽を覚えるが、巨大な悪の体現者である大文字の悪魔は、どこまでも潔癖であり、善と悪のそれぞれに等距離を保つ霊的な存在として描かれる。ゲーテファウスト』の有名な一節が思い出される(「悪を欲しながら、いつも善をなしてしまう、あのおなじみさんの一人です」)。他方、霊的な存在であるがゆえにピースは、みずからが手を汚すことを嫌悪し、使嗾という行為においてのみおのれの願望を美的に現実化する。この、霊的な悪魔にとことん翻弄される由美子こそは、真に悲劇的な、ファウスト悲劇に連なるヒロインといってもよい。

 

URL: https://www.setabun.or.jp/minerva/1569/?ym=2023.04

 

 「真一を執拗に追い回す樋口めぐみが、たんなるストーカーではなく、真一のalter ego としての存在理由を明らかにする」という指摘には意表を突かれた。alter egoすなわち別人格。そういえば物語最後の真一とめぐみとの対話で、真一は「俺は、おまえのこと、やっぱり許せない」とは言いながら、その直後に「でも、おまえも犠牲者だってことは、わかってきた」と言った(新潮文庫版第5巻488頁)。仇敵同士のはずだった二人の別れの場面も印象的だったので以下に引用する。

 

「ちゃんと家に帰れよ」

 それだけ言って、真一は踵を返した。駐車場を出て、駅に向かった。振り返らなかった。それでも、めぐみの顔が見えた。薄暗がりのなかで見ためぐみの顔が、目の裏に鮮やかに焼きついていた。これまで、彼女の顔は何度も見てきた。怯えながら、怒りながら、逃げながら。彼女の詰(なじ)る顔を、媚びる顔を、責める顔を。それがあまりにも悪夢のようだったから、一人の人間としての樋口めぐみの目鼻立ちや、声や、姿をちゃんと覚えることができなかった。いつ見ても、初めて見るように脅威を感じた。だからこそ彼女に遭遇するたびに、驚きで新しい傷口が開いたのだった。

 でも、今度は違った。背中を向けて遠ざかっても、電車に乗っても、氷雨に濡れながら夜道を歩いても、長いこと、真一は目の裏に彼女の顔を見ていた。

 そして、ようやくそれに別れを告げた。

 

宮部みゆき模倣犯』(五)(新潮文庫, 2006)491-492頁)

 

 かくして宮部みゆきは樋口めぐみには救済を与えた。これが納得できない読者が少なくないであろうことは理解するが、私はこれで良かったと思う。私は高井由美子の自殺にはショックを受けて気の毒には思いながらも、樋口めぐみにもそれなりに同情しながら読んでいたのだった。

 読書メーターを見ると、私よりももっと樋口めぐみ寄りの立場から書いたレビューがあった。

 

きよみオレンジ

真一にとって良かったのは、水野久美*2や有馬義男との出会い。樋口めぐみと高井由美子の違いは?内容はどうあれめぐみは自分で考えていたが由美子は騒ぐだけで人任せ。ピースは?やりすぎた。抹殺したければ、書いた本は売れない、インタビューにもこない。ピースって誰?が一番いい。

 

URL: https://bookmeter.com/reviews/106421465

 

 「めぐみは自分で考えていたが由美子は騒ぐだけで人任せ」とはさすがに言い過ぎだろう。このレビューに激怒する人も結構いるかもしれない

 ただ、網川浩一の毒牙にかかったあとの由美子の心理描写はほとんど出てこない。それまであれほど詳細に書いていたのに、自殺の直前になるまで心理描写が全然書かれていないのだが、これは間違いなく作者が意識的にそうやっている。網川に引っかかったあとの由美子の心理はオウム真理教事件麻原彰晃にマインドコントロールされた信者みたいなものだったに違いないと読者は想像するしかない。

 それと同様に、由美子と見合いをする機会を逸しながら一度は由美子の自殺未遂の第一発見者となった篠崎という警官はさぞ無念だったに違いないと想像されるが、彼の心理も描写されていない。あるいは警察の捜査もそれなりに進んでいたことが最後に示唆され、一部の読者があげつらう以前テレビ局に電話をかけた時の犯人とテレビ出演時の網川の声紋分析にしても、網川の関与を指摘する証言者が現れた直後に行われたに違いないし、もう少し早く捜査が完了していれば、網川がテレビに出演して自らの犯行を(前畑滋子*3の罠にかかって)自白する前に網川は逮捕され、由美子は自殺せずに済んでいたかもしれない、等々いろいろな想像が可能だが、それらを含めた事柄は読者の想像に任されている。このあたりがたとえば私が激しく忌み嫌う東野圭吾の糞ミステリ群と違う、宮部みゆきの作品の奥行きがあると思った。なお東野の悪口はこの記事の最後にもう一度書く。

 亀山郁夫の作品評に戻る。下記の指摘にも大いにうなずかされた。

 

もう一つ、ドストエフスキーの関連で述べておきたいのが、この小説全体に底流する母の不在である。物語も大詰めにきて、ピースによる母親殺しの事実を明らかにされるとき、読者は、この物語全体を貫くメインテーマがどこにあったのかを納得する。拒否された母性性とは、果たして何を意味するのか。母たちの終わりが、これほどにも惨たらしく描かれた小説を、寡聞にして私は知らない。絶対的支配という欲望に取りつかれたピースそして浩美の二人にとって、第一に乗り越えるべき相手こそ、母性性だった。宮部みゆきにおける母性性の主題は、四半世紀遅れて彼女を知った私のなかで改めて議論すべき対象となりそうな予感がする。

 

URL: https://www.setabun.or.jp/minerva/1569/?ym=2023.04

 

 確かにそうだ。網川の両親、特に母親がなかなか出てこないなあとは私も読みながら不審に思っていた。第2部の初めの方で栗橋が網川の家に遊びに行った時に、優しそうな網川の母が出てくるが、第3部にその網川の母が全然出てこないことには気づいていた。そして物語の最後で、網川が逮捕されたあと網川の山荘から母親の遺骨が発見され、網川が最初に犯した殺人が母殺しだったことが明かされる。また栗橋は何かというと生後1か月後に亡くなった同じ「ヒロミ」と読む名の姉・弘美を引き合いに出す母に何かと邪険にされていたが、実は栗橋の母は育児ノイローゼになって弘美を殺しており、その後悔の念が亡き弘美に対する強い執着になり、それが栗橋浩美が母親に疎外されることにつながってしまったのだった。前述の第2部の冒頭に網川の母が出てくる場面では網川が母に強く依存している様子が描かれており、栗橋が小学校4年生の時に網川と一緒に亡き姉の弘美の「亡霊」を「殺した」エピソードについて、網川がそれは単なる「おまじない」だ、あんなので人が実際に死ぬはずがないと言っている場面がある。その時点での網川の印象はそれほど悪いものではなく、網川自身にはまだ人を殺したい衝動はなかったと思われる。しかし同時に網川は、亡き姉の亡霊だけではなく自らの両親を殺したいと訴える同級生・栗橋浩美の心を既に支配していた。そして物語の末尾で明かされるように網川自身にも恵まれない出自があったため、栗橋の殺人の衝動がどこかで網川自身にも伝染し、それがあんなに優しそうな感じの良い母親として描かれ、自らの毒親との対比で栗橋も強く憧れたであろう網川の実母を手にかけることにつながったはずだが、その経緯は小説には一切書かれていない。

 ところで私は『模倣犯』を読む前に同じ作者の『小暮写眞館』を読んでいたので、後者の主人公である花菱英一(「花ちゃん」)が本書の塚田真一から直接派生した登場人物であることが理解できる。真一は自らの失言が犯人である(あろう)樋口秀幸による両親と妹の殺害を引き起こしたとして自分を責めるが、英一も物語の最後で自らの不作為によって妹を死なせてしまったことを思い出す。後者ではそれが全篇のクライマックスである親族との対決につながる。

 それでは、『小暮写眞館』のヒロイン・垣本順子に当たる『模倣犯』の登場人物は誰かと考えると、高井由美子でもなければ樋口めぐみでもないことがすぐにわかる。順子もまた母親に邪険にされたことを語る。彼女はおそらく母親の愛人に性犯罪行為を受けた被害者だろうと英一は推測した。そう考えると、順子のルーツは、性別は異なるとはいえ網川浩一と栗橋浩美の2人に他ならないことがわかる。そして極悪な連続殺人を犯し続けた網川と栗橋とは異なり、作者は垣本順子には救済を与えた。それが『小暮写眞館』のキモではないかと私には思われる。

 最後にお約束の東野圭吾批判をやる。

 実は『模倣犯』でも網川浩一と栗橋浩美は隅田川沿いに寝起きするホームレスを虐殺している。この場面で私が東野圭吾の作品の中でも最低最悪なあの小説を思い出したことはいうまでもない。しかも本作の第3部でテレビに出演しまくった網川は、連続殺人事件には栗橋浩美でも高井和明でもない「真犯人X」がいると発言して時の人となる。実は網川自身こそ「真犯人X」なのだが、犯人が探偵役を演じるわけだ。まるでフレデリック・ラルサンである。もっとも本書は前述のように倒叙ミステリなので犯人当ての楽しみはない。なお『模倣犯』の方が『容疑者Xの献身』より先に書かれていることはいうまでもない。隅田川沿いのホームレスの虐殺と「X」という符牒に関して、東野圭吾宮部みゆきを「模倣」したものかもしれない、などとも思う。

 そして私は『模倣犯』の「真犯人X」(網川浩一)と「献身」とやらをやったらしい東野作品の「容疑者X」(石神哲哉)とではどちらがより悪質だろうかと思う。普通に考えれば、良心も何もなくひたすら大量殺人をやらかした「真犯人X」の方がより悪質に決まっている。しかし「真犯人X」は罪もないホームレスを虐殺した自らの犯行を「献身」に仕立て上げはしなかった。

 『模倣犯』は、作者が書かなかったことをいろいろと想像できる作品だとこの記事に書いた。一方、東野圭吾の『容疑者Xの献身』にも、読者が想像しなければならないことがある。それは、「容疑者X」が死体の身元がバレないようにホームレスの死体の顔を潰した行為だ。読者は石神がホームレスの顔を潰している残虐な場面を絶対に想像しなければならない。

 それを想像してもなお、あなたは「容疑者X」の行為を「献身」だと言えますか。それを東野のファンたちに聞いてみたい今日この頃なのである。

*1:7月から現在まで本を25タイトル読んだ。『模倣犯』は1タイトルとして数えている。月平均にして10タイトルで、これは2014年の年間平均と同じペースだ。しかし今後は仕事の日程が厳しくなるのでペースを落とさざるを得ない。

*2:なお「水野久美」には同姓同名の有名俳優がいる。宮部氏や私よりは年上の人だが宮部氏はよく知っているに違いないだろうによくこんな名前をつけたなとちょっと驚いた。しかし作中の「水野久美」は私にはさほど印象に残らないキャラクターだった。

*3:この登場人物は、私にはアガサ・クリスティ作品に登場する女性作家のアリアドニ・オリヴァを連想させる。おそらく作者の分身ではなかろうか。