KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

『容疑者Xの献身』再々論〜東野圭吾は「出題を理解できない読者」を挑発していた/A.A.ミルン『赤い館の秘密』/江戸川乱歩がクリスティの『予告殺人』を激賞した理由/小説と戯曲・映画で異なる『そして誰もいなくなった』の結末

 江戸川乱歩が選んだミステリ十傑のひとつであるA.A.ミルン(1882-1956,『クマのプーさん』の作者として有名)の『赤い館の秘密』(創元推理文庫, 2017年の山田順子による新訳版)を読んだ報告から始める。今からちょうど100年前の1921年の作品で、アガサ・クリスティやF.W.クロフツがデビューした翌年に書かれた。

 

www.tsogen.co.jp

 

 この作品は、トリックを見破れるかどうかにかかっているが、私には見破れなかった。ネットを見ると、ミステリを読み込んでいる読者には「読み始めてすぐに気づいた」という人が少なからずいたようだから、模倣例もあるポピュラーなトリックなのかもしれない。ただ、「すぐに気づいた」と書いている人たちが同様のトリックの先行作品を挙げた例にはまだお目にかかっていない。旧訳版のアマゾンカスタマーレビュー見ていると、予想通り、

本書のメイン・トリックは今でこそ姿を変えてあちこちで使われているが、私の記憶ではこのアイデアを使ったミステリ作品の嚆矢だと思う。

などと書かれている*1。ならば、それだけでも海外ミステリ十傑に挙げる理由になると私は思う。

 その他にも、作中の探偵役・ギリンガムの推理の過程をオープンにして彼がなかなか真相にたどり着けない様子を描くあたりが乱歩の好みだったのだろうか。それでも本作のギリンガムは最後には真相にたどりつくだけまだ良い。乱歩が他に挙げたベントリーの『トレント最後の事件』は探偵役が敗北する作品だったし、フィルポッツの『赤毛のレドメイン家』は最初に出てきた探偵役が後半ではクリスティ作品に出てくるヘイスティングズみたいな愚鈍な相棒と化した上、後半に出てくる真相を見抜いた真の探偵役も、愚鈍な相棒をうかつに信頼しすぎて依頼人を死なせてしまう失態を演じた。後者の「依頼人を死なせてしまう」作品は、私は少年時代から大嫌いだったのでフィルポッツ作品に対する評価が非常に辛くなるのだが、乱歩自らが創造した明智小五郎とは正反対の設定の探偵が出てくる作品を乱歩が好んでいたらしいことは興味深い。

 なお『赤い館の秘密』も『トレント最後の事件』もレイモンド・チャンドラーが酷評したことで知られるらしい。「パズラー嫌い」であったらしいチャンドラーや、彼が属するハードボイルド系の作品には、少年時代から近づきたいと思ったことが一度もなく、読んだこともないのだが、それ相応の面白さがあるのだろうか。気が変わったら一度読んでみても良いかとも思うが、今はまだそのタイミングではない。

 私の評価では『赤い館の秘密』は『トレント最後の事件』(10点満点で8〜9点)とフィルポッツの『赤毛のレドメイン家』(4点)の中間の6点だ*2。童話作品で有名な作者の作品らしく肩が凝らないし、読後感も良い佳作だと思った。

 

 続いてミステリ評論家としての乱歩の話に移る。先日、弊ブログの下記エントリにコメントをいただいた。

 

kj-books-and-music.hatenablog.com

 

 mayaya_jujitsu

江戸川乱歩がクリスティーと「予告殺人」を高く評価したのは、評論「クリスティーに脱帽」のようです。(他の評論でも触れているかもしれませんが)

当時のクリスティの最新作である「予告殺人」(この論評の初出は雑誌「宝石」昭和26年1月号)に関して乱歩はこう絶賛しています。
「(クリスティーの)代表作としてはやはり「アクロイド殺し」を推すべきであろう。これだけは動かない所だが、では第二位に何を置くかとなると、非常に選択に迷う。〜或いは最近作「予告殺人」を第二位に持ってきてもよいとさえ考える。人によっては、この方を「アクロイド」より上位におくかもしれない」

乱歩が「予告殺人」を高評価する理由として
1:トリックと、物語を引っ張るメロドラマ(人間模様)との組み合わせの巧みさ
2:新規トリックを使わなくても、既存のトリックを巧みに組み合わせて魅せる独創的技巧
をあげています。

乱歩は以前から、探偵小説(推理小説)が構造的に内包する宿命的な問題点として、下記2点をあげていました。

1:探偵小説は「謎の解決」が物語最大の山場となるため、必然的に山場は物語の末尾に来ざるを得ない。なので末尾まで読者の気を引きページをめくらせる物語構成にしないといけない
(探偵小説で殺人や猟奇などショッキングな題材が多く使われるのも、この「末尾まで読者の気を引かなければならない」必然のため)
2:探偵小説はトリックが物語の核心となるが、トリックの数や発想には限界がある。やがて新規のトリックが尽きる時がきたら、探偵小説というジャンルは消滅するのでは

この2点の問題点を「予告殺人」と、近年のクリスティーの作品が鮮やかにクリアしている。そしてこれは探偵小説はまだまだ発展の余地があるということだ。消滅などはしない。
これが乱歩がクリスティーと「予告殺人」(1944年「ゼロ時間へ」あたりから作風がこう変化したと述べています。)を高評価した理由のようです。

乱歩の下記の論評が、作家として以前の「探偵小説ファン」としての想いと情熱が迸るような初々しさを感じます。
「一般の芸能は作者が年をとるに従って円熟し、大成し、のちの作品ほど優れたものになるのだが、本格探偵小説だけは例外で、初期の作品ほど優れ、晩年は気が抜けて来るのが普通である。〜ところが、ここにクリスティーだけは、その逆を行って、晩年ほど力の入った優れた作品を書いていたのである。彼女より十年も後から書き出したクイーンとカーの近年の作が、既にして情熱を失いつつあるのと思い合わせれば、一層このことがはっきりする。これに気づいた時、私は驚嘆を禁じ得なかった。この老婦人は実に驚くべき作家である。」

 

 コメントどうもありがとうございます。

 クリスティの『予告殺人』は確かに乱歩が挙げた2点を満たしていると思います。

 以後文章を常体に戻す。『予告殺人』はクリスティ自身も自作の十傑に数え入れた自信作だが、日本の読書サイトを見ると評価が割れている。以前のエントリに書いた通り、犯人当てが比較的容易であることが低評価の主な理由になっている。狙われたものの死なずに済む登場人物が真犯人だというのはクリスティ以前からよく用いられた手法で、クリスティ自身の先行作品にもその例があり、その作品は文庫本の裏表紙に書かれた短い作品紹介と目次を見ればどのようなストーリー展開になるかが予測でき、読んでみるとその通りだったという他愛のなさだった。しかしその作品を気に入って高く評価する人もいるらしいから人さまざまというか人生いろいろ*3というか。

 乱歩は『ゼロ時間へ』(1944)で作風が変わったと書いたそうだが、私は未読だ。ただクリスティには作風が変わる土台があった。クリスティは少女時代にはオペラ歌手を目指したものの声の質がオペラとは不適合で音楽の道を断念した。オペラには感情表現が必要だが、それには人間心理に対する理解が欠かせない。ことに、クリスティが最初の夫にプロポーズされた直前に聴いていたというワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』はそういう作品だ。

 

blog.livedoor.jp

 

 上記ブログによると、デヴォン州のトーキーにある「ザ・パビリオン」というコンサートホールが、

クリスティの最初の夫アーチボルド・クリスティが、 191314ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の上演後、アガサにプロポーズした場所

とのこと。

 クリスティは、早くからフロイトユング精神分析に関心を持っていた。フロイトの名前は1930年代に書かれたポワロもののミステリにも出てくる。

 ポワロものの長篇第11作が派手なトリックで有名な『ABC殺人事件』だが、第13作『ひらいたトランプ』(1936)以降、トリックよりも心理劇に重点を置く作品が増える。さらに第14作『もの言えぬ証人』(1937)になると、それまでの作品では類型的と見られがちだったクリスティの作中人物が奥行きを持ち始める。再婚した夫とともに中近東の旅をしたことが、クリスティの世界観や人間観を徐々に変えていったのではないかとの仮説を私は持っている。

 クリスティはオペラ歌手を目指していただけのことはあって、芸術観にも特徴があった。それは初期の短篇集『謎のクィン氏』(1930)に反映されているが、1930年代に多産したポワロものにはそうした要素はほとんど持ち込まなかった。むしろ意識的に類型的な性格を持つ人物を登場させたミステリを書いたのではないかと想像されるが、ポワロものより肩の力を抜いて書けるミス・マープルものに執筆の中心を移し始めた1950年に『予告殺人』を書き、それを江戸川乱歩が激賞したあたりが興味深い。

 

 以後は後半かつ今回の記事の本論で、またしても東野圭吾の悪口を繰り広げる。しかし同じパターンの悪口ばかり書いていても仕方ないので、今回はネット検索で見つけた『容疑者Xの献身』に対する興味深い批評が掲載されたブログ『批評界』の記事を紹介したい。下記にリンクを示す。

 

criticalworld.seesaa.net

 

 上記記事に、『容疑者Xの献身』が詳細に分析されている。

 この作品は、真犯人が愛する女性への「献身」と称して、罪のないホームレスの1人を虫けらのように殺すことによって殺人を犯してしまった女性のアリバイを偽造してやったが、犯人の学生時代の親友だった「ガリレオ」こと湯川教授が真相を暴くというストーリーだ。

 そして本作最大の特徴は、最初に女性による殺人事件を描写し、つまり最初から犯人がわかった倒叙形式のミステリと見せかけておいて、実はこの殺人を犯した女性の罪を隠すために、真犯人*4が第二の殺人を犯して女性のアリバイをつくってやるという構造だ。この第二の殺人の犠牲になったのが「技師」と呼ばれる罪なきホームレスだった。

 これまで私が本作にケチをつけ続けていたのは、隅田川に住むホームレスを虫けらのように殺しておきながらそれを「献身」にでっちあげた東野の倫理観だけであって、ミステリとしての本作の構造等については何も書かなかった。それ以前のことで頭にきていたからだが、以前にも書いた通り私は本作にはもののみごとに騙された。ミステリとしての構造については作者の東野圭吾に脱帽するしかないと漠然と思っていた。

 私が本作以前に読んだミステリの大部分がコナン・ドイルのホームズものと松本清張の社会派ミステリであり、両方ともたいしたトリックは用いられていないから、「倒叙推理と見せかけて実は他人のアリバイ作りのための殺人だった」という構造には全く気づかなかった。それどころか、「顔のない死体が出てきたら替え玉を疑え」という鉄則すら知らなかったほどだ。今でも、クリスティ作品なら慣れてきたこともあって犯人の見当がつくことが多くなったものの、模倣作が多数あるらしいミルンの『赤い館の秘密』のトリックにも気づかなかった。私のレベルはその程度だ。

 しかし前記ブログ記事では作品の構造が詳細に分析されていて面白かった。ことに、作中で真犯人が作品の構造(作者の出題)に気づかない読者を作者の東野圭吾が徴発していると指摘しているくだりが興味深い。以下に引用する。

 

 8 p.139-167(本編前半の結) 

草薙刑事は湯川に捜査の進展を話す。湯川は単独で石神を誘い弁当屋に連れて行き、彼に幾つかの質問をして犯行を確かめる。

 

 肝となる章。推理小説はここでやっと読者への出題がされている、っぽい。というのは、犯行推定日時(3月10日)に容疑者の花岡靖子のアリバイが崩れない、と言う草薙からのヒントがあるからで、「さて石神はどうやって彼女のアリバイを作ったのでしょう?」という読者への正々堂々とした出題はされないからだ。そもそも読者には犯行の日時が明かされていないため、この小説がアリバイの工作トリックを解くためのパズルであるということを、ここでは断定できない。出題がはっきりされないのは、そこに注目されると複雑な小説のわりに単純なトリックが簡単に解けてしまい、これ以降が盛り上がらないからであろう。

 この曖昧な出題は悪い方へと転ぶ。読者はイントロで犯行の一部始終を知っているので、草薙刑事が物証よりもアリバイに拘って手を焼いているのは彼に手抜かりがあるからだと、すなわち推理小説の刑事役お決まりの(間抜けな)仕事としてわざと難航しているのだとも読めてしまう。これが「この小説は本格ミステリーか論争」の直接の問題点となる。湯川探偵の方は難航どころか確信まで得ているようなので、読者には何が問題なのかが分かり難い。

 一般的な立場でこの事件を見ると、アリバイ工作よりも、被害者富樫の死体をどうやって処分するかの方が問題である。そちらの方は石神の部屋で解体して川に撒いたらしく、警察が発見した頃には死亡日時を特定できる状況ではないので、そもそもアリバイ工作をする必要はない。小説の中では犯行日時を警察に誤認させて、その時刻に花岡母子のアリバイを作ることで、より安全に隠蔽できるという旨が書かれているが、石神という無関係の第三者死体遺棄にボランティアとして関わるのであれば、そんなに危ない橋を渡らずとも処理方法は幾らでも計画できる。また、読者がアリバイ工作を解くにしても、犯行日時が確定していない現段階では正確な答えが出せない。

 ところが作者は、石神が教鞭を取る高校で出題の意図さえ分らない馬鹿な生徒にうんざりする姿勢を描いて、小説の出題が分からない読者らを挑発する。こういう煽りも論争を起こす原因の一つとなっただろう。「人に解けない問題を作るのと、その問題を解くのとでは、どちらが難しいか。ただし、解答は必ず存在する。」と言う湯川の台詞で重ねて読者に宣戦布告する。「出題はちゃんとしてあるぞ、さあ解いてみろ」というわけだが、出題はあまり上手くいっていないのだ。

 もう一つ小説の後半で「湯川はいつ石神の関与を見抜いたか」という小問題が出されて、その正解はこの章だとされるが、彼は6章で既に狙いを付けた行動を取っているので怪しい。

 

(ブログ『批評界』より)

 

出典:http://criticalworld.seesaa.net/article/438374073.html

 

 なるほど、石神(真犯人の名前)のセリフを借りて私も東野圭吾に挑発され、嘲笑されていたのかと思うと、改めて腹が立ってくる。しかも読んでいる最中にはそれが挑発であることにすら気づかなかった*5。一方、東野の挑発に対する「出題はあまり上手くいっていない」との切り返しは痛快だ。

 私もそうだったが、多くの読者は「えっ、倒叙推理と見せかけた『殺人を隠すための殺人』だったのか」と驚いたに違いない。「殺人を隠すための殺人」といえば、古くは前述のクリスティ『ABC殺人事件』(1936)があった。しかしあの事件では、ポワロは殺人を隠すための殺人を犯した真犯人を許さず、自殺のチャンスさえ奪って真犯人を死刑台に送り込んだ*6。一方の東野作品での真犯人はといえば、自ら手を下した殺人は一件だけだったから、イギリスとは違って今なお死刑制度が残っている日本でも死刑にはならない可能性が高いとはいえ、真犯人が犯した第二の殺人は、正当防衛が主張できた可能性が高い第一の殺人(こちらは女性が犯した)よりもはるかに悪質かつ重罪が相当だ。この点については以前も弊ブログで指摘したし、上記ブログ記事も下記のように指摘している。

 

 靖子を援助する石神の暗躍はラストでさらりと語られるが、小説の主犯罪より重いというのも多くの読者に疑問を残す。倫理的にももちろん問題だが、問題を更に大きな問題で上塗りしている時点で「実は助けになっていないのでは?」という疑問が生まれる。仮に誰にも気づかれなかったとして犯罪の質量は確実に増えているわけで、理論数学に誠実な石神が「隠せば何をやってもよい」と考えるのは筋が通らない。

 

(ブログ『批評界』より)

 

出典:http://criticalworld.seesaa.net/article/438374073.html

 

 ブログ主は、東野は別に本作を「純愛万歳」みたいに(あるいは百田某の『殉愛』みたいに)描こうとしたわけではなく、本作は読者に「こんなのが本当の献身といえるのか」と疑問を抱かせる作品であり、それが東野の意図なのだと主張している。以下三たび引用する。

 

「小説のテーマは・・・」

 とはいえ、小説のテーマはしっかりと描かれている。読者の中には結論に疑問を持つ人もいるだろうが、それは作者の狙い通りのものであり、ミステリー小説が確かなミステリーを後味に残してくれる優良な作品である。苦味に感じても、ぜひ噛み締めてほしい。

 それについては多分にネタバレを含むので、既読者のために最後に記す。

 

(中略)

 

既読者のための解説。(解説もたまには延長戦)

 

 ラストの石神の慟哭は、自分に振り向くはずがないと思っていた靖子が寄り添って来て、嬉しく泣いている。または、靖子が幸せになるために計算した犯行が崩れてしまい、悲しく泣いている。様々な読み方が可能で解釈が難しい。

 実はこの小説、昨今流行のAKB等、アイドル産業と解く。靖子がアイドル、工藤は芸能運営会社、石神は追っかけオタク、と見立てるのだ。そうすると、落ち目アイドルに貢ぎ続けて人生を棒に振るオタクの姿を哀れに思ったアイドルが、アイドル業を辞めてオタクと一緒に暮らす決心をするお話に見えてくる。靖子にはその気がないのに異性からやけにモテるところや、工藤が情愛もなしに指輪を渡して契約を迫ったり、石神が見返りの期待できない献身に身を投じて喜びを感じたり、彼がカメラを持って遠くから監視していたりと、まさに日本アイドル産業の状態である。

 

(中略)

 

 しかし作者も酷い事をする。アイドル業を諦めた靖子と石神に待っているこれから共同生活の新居が別居牢獄とは。石神には自首をして牢獄生活を選ばなくとも自白遺書を残して自殺する方法だってあったのに、惨めに生き恥を曝す結末にして「せめて、泣かせてやれ……」と最後に声を掛けるのだから、ラストの湯川の台詞は作者の悪意だ。湯川は嘲笑を隠しているのかもしれない。つまり、石神を天才だと言ったのは最初から湯川だけであり、それは数学の天才という意味ではなく、この作品一番のミスリードということになる。石神を禿のデブに描いている時点から尊敬など無かったのだ。

 ちなみに映画版の石神の「どうしてぇ」と泣き崩れるラストは、小説では「どうして、こんなところに……」とはっきりしている。オタクたちの「献身(という名の貢ぎ)」の場(客席)にアイドルが下りて来るはずがないという意味で捉えると良いだろう。

 

 ただし、この作品の事件は結局のところ成り立たないのではないかと思う。なぜなら生粋のアイドルオタクという者は見返りどころか、そもそも具体的な恋愛を求めない生物であろう。彼らはアイドルを追いかけているわけではなく、アイドルに見られる夢を追いかけているのだ。オタクだってアイドルの笑顔に愛があるとは思っていないし、そこにはドルしかないのを重々承知で煌びやかなステージに今日も通う。ましてや面倒くさい恋愛の責任など取ろうとするはずがない。そんな泥臭いものを見せる者は彼らのアイドルには成れないのだ。

 

(ブログ『批評界』より)

 

出典:http://criticalworld.seesaa.net/article/438374073.html

 

 しかしこれはいささか深読みし過ぎであって、東野は深く考えずに本作を「献身」の物語に仕立て上げたのではないかと私は疑っている。現に各種読書サイトは本作を読んで本気で「感動」した人たちの感想文で埋め尽くされているのに、その現実に対して作者の東野圭吾が「いや、あれは本当の『献身』じゃないんですよ」と語った例を私は寡聞にして知らない。「東野信者」が大部分を占める「読書メーター」は論外だが、ミステリ好きが集まる「ミステリの祭典」にさえ、下記No.97の「猫サーカス」氏(採点:9点)のような投稿があった。

 

この物語において、その中心にあるのは「愛」であり「献身」。こんなに犯人側に感情移入できる作品は、今まで出会っていません。彼の行動には疑問を挟む余地が何もありません。ただただ愛ゆえの行動であり、誰も否定することのできない犯罪。その犯罪に至る過程と、全てを織り込み済みの計画、この物語の構成するすべてが美しい。そしてなんと言っても一番美しいのは結末。本当に美しいとしか言いようがありません。100%完璧なトリック、絶対に綻ぶことのない完全な計画。それが、たった一つの計算違いによって崩れてしまった。その計算違いは紛れもなく、「愛」が招いてしまったもの。報われなくていいと本気で思っていたからこそ、計算違いが生じてしまった。この物語の読了感は本当に独特であり、また人によって感じ方が違うのだと思います。メリーバッドエンドであり、また誰に感情移入するかも読み手によって全く違ってくる。この本の感想を友人と語り合った時、お互い全く異なる解釈で驚いたのを覚えている。しかし、それほどまでにこの物語は深い。深くてどんな解釈するにせよ、何かを私たちの心に残してくれるのです。

 

出典:http://mystery-reviews.com/content/book_select?id=815&page=1

 

 このサイトで本作に1点をつけたレビューは以前紹介したが、それ以外に、なぜか10点をつけていながら本作に鋭い批判を投げかけたのがNo.64「いいちこ」氏の投稿だ。以下に引用するが、一箇所不適切と思われる部分を伏せ字にした。

 

(以下ネタバレを含みます)

メイントリック自体は古典的でありふれたものだ。

しかも、●●の記載の不在、犯行直後のXの発言、死体の状況、Xの勤怠表と弁当購入の事実、技師の存在、娘の友人の証言等、決定的な伏線がごまんとある。

とりわけ「幾何の問題に見せかけて実は関数の問題」は極めて秀逸な含蓄のある伏線である。

にも関わらず見事に騙されてしまったのはひとえに倒叙形式によるところが大きい。

何と言っても我々読者にとって犯行経緯はすべて明らかになっているはずだから。

その先入観と、崩れそうで崩れない映画館のアリバイ、平々凡々とした下町の描写、そしてタイトル自体が強烈なミスディレクションとなり真実を隠蔽してしまった。

これほど倒叙形式が遺憾なく効果を発揮しているケースは寡聞にして知らない。

ただこれだけでは古典的なトリックに新たな光を当てたテクニックは賞賛できるとしても、スケール感はそれほど感じない。

衝撃を受けたのは本作の主題である。

どう考えてもXは通常の倫理観から逸脱した□□□□□であり、歪み肥大化したエゴの持ち主である。

彼の行為は自己中心的な卑劣極まるおぞましい犯罪行為であり、献身や自己犠牲などでは断じてない。

最大の犠牲者は無論技師である。

それを探偵には「とてつもない犠牲」と呼ばせ、ヒロインには「底知れぬほどの愛情」と呼ばせ、作中のどの人物もXの異常性を弾劾しない。

そしてタイトルには「献身」の2文字。

これは一体どういうことだろうか?

断っておくが私は倫理観をもってXの行為を断罪しているのではない。

そんなことを問題にしていたらミステリは読めない。

問題はXではなく筆者だ。

Xの行為を賛美していると理解されかねない作品を描いた筆者の真意に思いを馳せるのである。

本作のラストは様々な解釈と感慨を許容する柔軟構造になっている。

Xの行為への感動、Xの行為自体への非難、Xの行為が結果としてヒロインをより苦しめたことに対する非難、Xの人間・女性理解の乏しさへの指摘・・・

どれもが正解になり得る。

この問題作を様々な批判を覚悟のうえで敢えて描ききった著者の凄みを感じざるを得ない。

本作の素晴らしいストーリーテリング、巧緻極まるテクニック以上の衝撃がそこにある。

 

出典:http://mystery-reviews.com/content/book_select?id=815&page=2

 

 書評子は問題はXではなく筆者(=著者・東野圭吾)だと書く。そんなことは当たり前だろう。

 ミステリ中に出てくる極悪犯人を描くことなら、前述のクリスティはもちろん、稀代の犯罪者・モリアーティ教授を作中に登場させたコナン・ドイルも弾劾されなければならない。東野圭吾がやったのは、ドイルがモリアーティを英雄視したり、クリスティが『ABC殺人事件』の犯人に賛辞を呈したりするようなことなのであって、このことこそ問題なのだ。

 『容疑者Xの献身』が直木賞を獲ったのは2005年だった。小泉純一郎が郵政総選挙で自民党を圧勝させた年だ。私見だが、当時(現在も変わらないが)格差や貧困の問題が意識され始め、それに対してこの選挙結果で良かったのかどうかという疑問が人々の心に生じ始めた。翌年から翌々年にかけてはNHKスペシャルが「ワーキングプア」の特集を3回に分けて放送するなどして、新自由主義に対する批判が強まっていった。それが同年秋以降に2009年の政権交代までの間に広がったことが民主党*7への政権交代につながった。ホームレス問題は新自由主義の弊害の象徴ともいえた。

 そんな時代に作中に隅田川畔で暮らすホームレスを登場させ、真犯人がそのホームレスを虫けらのように虐殺する小説を「献身」と銘打った。そのことに対する疑問を誰も作者に投げかけなかったのだろうか。

 それが私の抱く最大の疑問だが、その点はクリアしている上記レビューのように、せっかく作品の問題点を鋭く問う文章を書きながら、批判をそこで寸止めにして満点を与え、「この問題作を様々な批判を覚悟のうえで敢えて描ききった著者の凄みを感じざるを得ない」と書いてしまうのは、評者に妙な「同調圧力」が働いているためではないかと疑わずにはいられない。No.78の「アイス・コーヒー」氏のように、本作に1点をつけて酷評した書評子でさえ、書き出しの部分に「あまりに有名な作品だけにこの点数をつけるのにはずっと躊躇していた。それゆえ、本作の書評は今まで避けてきたのだった」と書いている。物言えば唇寒しの不健全な傾向だ。

 これでは、仮に東野圭吾が文字通りの意味での「献身」や「純愛」を意図して書いたのではなかったとしても、「弱者に対しては何をやってもかまわない」という、もう30年くらい前からこの国にはびこっている悪しき風潮を助長するだけだ。

 東野作品を30冊近く読んだ私の意見は、東野は何も考えていないに違いないというものだ。悪ガキがそのまま大人になり、還暦を過ぎても考え方が全然変わらない人。それが私の「東野圭吾観」だ。最初に東野を読み始めた頃は、さすがにそんなことはあるまい、東野には読者に考えさせる意図があるのだろうと思っていた。しかしその後、そうした意図を感じさせるものが東野作品からは一切伝わってこず、その逆に、たとえば『手紙』で加害者家族にも加害責任があるとする家電量販店の平野社長の言葉が東野の意見を代弁したものであることがわかってくるなどして、東野という人は読者に受けさえすればそれで良いと思っているに違いないと確信するに至った。

 現在は、あまりにも東野が大嫌いになってしまったので、『容疑者Xの献身』を再読したいとは全く思わないが、気が変わったら再読してミステリとしての同作の構造を調べ直す気が起きるかもしれない。しかしそういう機会は近い将来にはなさそうだ。そんな暇な読書をするくらいなら、他の本を読みたいと思うからである。

 

 東野圭吾の悪口で記事を締めるのは後味が悪いので、前記『容疑者X』の構造を分析したブログ『批評界』からもう一つ、クリスティの『そして誰もいなくなった』の書評に軽く触れておきたい。

 

criticalworld.seesaa.net

 

 私は全く知らなかったが、本作にはクリスティ自身による戯曲版があり、その結末は小説とは大きく異なるのだそうだ。以下引用する。

 

 正しい社会と人間の存続は両立しない、というこの問題に一つの答えを提示してあげたいと思うのだが、なんと作者アガサ自身が答えを用意してくれていたのでそれを紹介しようと思う。アガサは小説の完成の後にこれを舞台劇の脚本に書き直して結末を変更している。それは最後に残った男女が恋愛に目覚めるというもので、愛により疑心の連鎖から解放されて、二人の力で一人の犯人に打ち勝つというものである。

 例えば男が「僕は君を殺さないし、君に殺されても構わない」と主張した場合に女は安定を得る事ができる。同時に女の方も「あなたを殺す気はないし、もしあなたが悪で私を殺しても私はそれを受け入れる」と愛情に目覚めれば、互いを疑い合う理由を払拭できる。この二人のどちらかが犯人の場合はやはり滅亡するが、どちらも犯人ではなかった場合に二人は信頼を築く事ができるのだ。ひいては家族という最小の社会を構築する事に成功する。この社会は二人の適度な悪を許してくれるし、二人を存続させるための正義で守ってくれる。ここに犯人が現れて、二人がその犯人を暴力で殺してしまっても、残った二人が互いの殺人罪を許し合う事で罪悪感から解放される。絶対正義の前ではいかなる殺人も罪だが、私を守るために仕方なく犯人を殺してくれたと思えば、二人の罪は二人の中で軽減される。

 つまり、自分を犠牲にする覚悟で相手の罪悪を許す事から、社会は生まれる。もちろん相手が「犯人」であれば社会はすぐに滅亡するが、そもそも犯人かも知れないと疑う事を止めなければ社会は形成されないのだ。だから自分を守る社会を作りたければ相手を信じるしか道はない。信じた相手が犯人ではなかった場合に社会は成立し、その社会は自分たちの悪を許して、自分たちを脅迫する悪は許さない、という捻れ倫理を構築してくれるのだ。こう考えると最小限まで衰退した社会は必ずしも滅亡するとは言えず、諦めるまで追い詰められた時に再生の道が開ける可能性を見つける事ができる。

 アガサ論理で社会を語るならば、現行の社会は必ず滅亡するが、その時に愛が芽生えて新しい社会が生まれるという事になる。またその新しい社会も段々と人々を苦しめて滅亡へ向かうが、その時の若い人たちの愛でまた新生する。これにより、そして誰もいなくはならない。

 

(ブログ『批評界』より)

 

出典:http://criticalworld.seesaa.net/article/459911060.html

 

 この記事を読んで少し調べてみたが、童謡には2種類の終わり方があり、そのそれぞれのエンディングに合わせて小説と戯曲が書き分けられたもののようだ*8

 

www.cinematoday.jp

 

 以下引用する。

 

 原作では、童謡の通り全員が死に絶えてしまうが、これはあまりにも陰鬱なラストだとして戯曲では2名が生き残る。この2名は罪を犯しておらず、何ら罰せられる理由はない。だから童謡に「首をくくった」と「結婚した」の2バージョンあるラストでは、後者のニュアンスをくんで最後の2人がハッピーエンドとなっている。厳密に言えば、戯曲と映画はこの2人の設定などが多少違うが、全員が法では裁かれなかった重罪を犯している一方で、人を裁くことに異常な執着を持つ元判事の計画によって制裁される原作に比べると、重苦しさはかなり減少する。ここが原作と戯曲・映画の好き嫌い、評価が分かれるところだろうか。クリスティが作品に込めた正義感、社会的制裁が下されることのない犯罪を許すことができないという思い。同時に人が人を裁くことに対する懐疑、絶対的な正義といったものを肯定することへの危惧といった、原作の根底にあるテーマ性が薄れてしまうからだ。

 

出典:https://www.cinematoday.jp/news/N0088142

 

 小説版で2人が犯していた殺人は、戯曲及び映画では犯していなかった設定に変えられているようだ。でも、この設定は変えなくても良かったのではないか。罪を犯さなかったから死なずに済んだというのは、いささかご都合主義の因果応報物語だろう。現実を見ても、新型コロナ対策に手を抜いて多くの死亡者を出した政治家がいるけれども、彼あるいは彼女は決してそのせいで殺されたり祟りで死んだりはしない。

 クリスティは小説版でも「社会的制裁が下されることのない犯罪を許すことができない」という正義感よりも「人が人を裁くことに対する懐疑、絶対的な正義といったものを肯定することへの危惧」の方に重点を置いていた。それなら、戯曲版でも映画でも、2人が殺人を犯していたという設定は変えない方が良かったように思う。

 しかしながら、そんな些細な不満は『容疑者Xの献身』の巨大な問題点と比較すれば取るに足りない。東野圭吾アガサ・クリスティとでは、比較をするのもおこがましい話だ。

*1:https://www.amazon.co.jp/-/en/gp/customer-reviews/RXHA5H7WA9PFJ

*2:先日公開した記事に書いた通り、私が乱歩選の十傑の中で唯一10点をつけたのは『アクロイド殺し』。

*3:島倉千代子のヒット曲の題名らしいが、私が直ちに思い出すのは小泉純一郎が総理大臣時代に発したふざけた言葉だ。小泉はその発言で、健在だった恩人を勝手に死者に決めつけてしまった。

*4:最初の殺人事件の犯人である女性と区別するために「真犯人」と表記する。

*5:さすがに「幾何の問題に見せかけて実は関数の問題」という喩えの意味は読後にわかったが。

*6:ポワロは『アクロイド殺し』や『エンド・ハウスの怪事件』(『邪悪の家』)、それに『もの言えぬ証人』の犯人たちに対しては、自殺を教唆したり容認したりしている。これは厳格な死刑制度のあった頃のイギリスでは、殺人が暴かれた彼らの絞首刑は避けられなかったため、ポワロは彼らに「尊厳ある死」を選ばせる程度の恩情をかけたものと解される。

*7:当時の民主党もまた新自由主義色が濃厚な政党だったことが2012年の自民党の政権復帰の大きな原因の一つとなったと考えているが、書き始めると長くなるので省略する。

*8:なお小説版では童謡のポジティブ版である「結婚した」を思い浮かべながら最後の1人(と思われた人物)が自殺していた。私は小説版の犯人を当てることはできなかったが、最後に自殺する人物は誰であるかだけはわかった。だから自殺のシーンの直前に「頼むから自殺しないでくれ」と思ったが、そうはならなかった。それだけに、戯曲と映画での2人が生き延びるという結末にはほっとさせられる。なお私が小説版を読みながら疑っていたのは、最後から3番目に死んだ登場人物だった。最後に残った人物が犯人でないことだけは読む前から知っていたが、最後から2人目とも思えなかった。真犯人は一時疑っていた人物だったが、そんなに遅くなく死んだので候補から外してしまったのが失敗だった。

E・C・ベントリー『トレント最後の事件』(1913)は名作。『アクロイド殺し』が好きな人はきっと気に入る

 このところ、戦前から戦後初期にかけての日本における英米、特にイギリスのミステリの受容史への関心が高まっている。その一環として、2017年に創元推理文庫から45年ぶりに改版されたE・C・ベントリーの『トレント最後の事件』(1913)を読んだ。これは新訳版ではなく、1972年に同文庫から出ていた大久保康雄(1875-1956)訳を改版したもので、旧版では中村河太郎(1917-1999)が解説文を書いていたらしいが、杉江松恋(1968-)の解説に差し替えられている。

 結論から書くと、非常に面白かった。1920年代以降に全盛期を迎える近代本格推理小説の嚆矢と目されているとのことだが、その評価は正当だろう。

 本作は現代の日本ではなぜか不人気のようで、アマゾンカスタマーレビューや読書メーターでのレビュー数も少ない。図書館で借りた文庫本奥付を見ると、「2001年4月13日 21版」の下に「 新版 2017年2月24日 初版」とある。おそらく、2001年に旧版の第21刷を発行したあと16年間増刷されず、その間本作は入手困難になっていたのではないかと想像される。レビューが少ないのはここらへんの事情にもよるのだろう。

 ここ数年、東京創元社は内外のミステリの古典的名作を新版で多く出している。国内の作品では大岡昇平の『事件』の「最終稿に基づく決定版」*1を出しており、その価値は高い。

 英米の古典でも、クロフツの『樽』、フィルポッツの『赤毛のレドメイン家』などの新訳版を出している。しかし『トレント最後の事件』は新訳版ではなく旧訳の新版だ。それだけ同文庫の編集部でも「格下」にみられているのかもしれない。残念な話であって、私見では本作は『赤毛のレドメイン家』などよりずっと良く、『樽』と肩を並べるか、あるいは上回るのではないかと思う。さすがに、アガサ・クリスティの『アクロイド殺し』のような超名作と同格とまではいえないが。

 本作は英米での評価も高く、イギリス推理作家協会が選んだベスト100の34位に入っている。このランキングにはクリスティの『アクロイド殺し』が5位、『そして誰もいなくなった』が19位にそれぞれ入っているが、日本のミステリ読者の間に「信者」が多いエラリー・クイーンは一作も入っていない。

 

www.aokiuva.com

 

 また、アメリカ推理クラブが選んだベスト100でも本作は33位に入っている。クリスティ作品は『そして誰もいなくなった』10位、『アクロイド殺し』12位、『検察側の証人』(中篇小説と戯曲の両バージョンがある)19位、『オリエント急行の殺人』41位と4作が入っているのに対し、エラリー・クイーンは本国のアメリカでも一作も選ばれていない。

 

www.aokiuva.com

 

 長らく日本のミステリ愛好家たちの間では「クイーン、カー、クリスティ」が御三家とされ、その中でも大衆的なクリスティが一番下に見られていたが、現在ではイギリスでもアメリカでも「クリスティ、カー、クイーン」の序列になっている。日本のミステリ受容史においてはまずヴァン・ダインが評価され、彼の路線をさらに突き詰めたクイーン(フレデリック・ダネイとマンフレッド・ベニントン・リーの合作)がダインをはるかに凌駕する「女王」ならぬ「王者」として崇め奉られていた。日本では長年の間クイーンの『Yの悲劇』こそミステリの最高峰と目されていたが、そのくせこの作品がテレビドラマ化されたのは1978年を最後にない。どうやら日本でもクイーンの人気は長期低落の傾向にあるようだ。私は中学生から高校生時代に『Xの悲劇』と『Yの悲劇』、それに国名シリーズのうちタイトルは忘れたが1冊読んだものの、どれもさほど良いとは思えなかった。『Yの悲劇』よりはヴァン・ダインの『グリーン家殺人事件』の方がまだマシではないかと思ったが、そのダインも『僧正殺人事件』は面白くなかった。このダインからクイーンへの流れに馴染めなかったことと、『アクロイド殺し』を読んでいて、これはあいつ自身が怪しいんじゃないかと思っていたところに級友のネタバレを食ったために「本格」の愛好家になり損ねたのだが、英米でのクイーンの凋落とクリスティ人気の健在を知って、若い日の感性は決して間違ってなかったんだなと勝手に思っている。

 クリスティの『アクロイド殺し』は中学生時代にネタバレを食ったために最後まで読む気が起きなくなって挫折したが、今年4月に初めて最後まで読み通した。その後クリスティ作品は累計で29冊読んだが、犯人を知っている状態で読んだ『アクロイド殺し』がそれにもかかわらず一番面白く、『そして誰もいなくなった』も『オリエント急行の殺人』も『ABC殺人事件』も全部読んだけれども、そのいずれも『アクロイド』より面白いとは思えなかった。どうやら私には叙述トリックに対する特別な好みがあるようだ。

 その私には、『トレント最後の事件』はとりわけ面白かった。本作は、『アクロイド殺し』が好きな方には必ずや気に入っていただけると確信している。

 その理由を説明するには、どうしても本作のネタバレをしないわけにはいかない。従って、それを知りたくない方は以下の文章を読まないでいただきたい。

 

 『トレント最後の事件』は、探偵小説に恋愛の要素を組み合わせたとの意義が強調されることが多い。またスーパーマン的ではない探偵が失敗するのが新機軸だとの評価もある。作者のベントリーにこうした創作意図があったことは確かだろう。

 しかし、それよりもミステリ史上における本作の意義は、多重どんでん返しや叙述ミステリといった、後年のクリスティが初期作品の『ゴルフ場殺人事件』(1923)や『アクロイド殺し』(1926)でやった手法をクリスティより10年以上先駆けてやったことではないだろうか。

 叙述トリックについては、2017年の創元推理文庫新版につけられた杉江松恋氏の解説文に興味深い指摘がある。氏の解説文はネットで読めるので、下記にリンクを示す。

 

www.webmysteries.jp

 

以下引用する。

 

詳述は避けるが、真相を知ってから第四章までを読み返すと、新鮮な驚きがあるということだけは銘記しておきたい。いわゆるダブル・ミーニングの技法が効果的に用いられていることが判るはずだ。

 

 解説者のおすすめに従って最初の4章を読み返したが、確かにその通りだった!

 以下、核心部に触れる、つまり大きなネタバレになるので知りたくない人は絶対に読まないでいただきたいが、どうしても目に入りそうな部分は白文字にしておく。

 実は私は、第3章の記述から真犯人を最初から疑っていた。杉江氏書くところの「ダブル・ミーニング」の「裏」の意味が、薄々とではあるが読み取れたのだ。結果的にはそれが当たっていたのだが、この人物は途中から終盤のある時期までほとんど出てこないので、いつしか忘れそうになっていた。しかし、第13章で事件の「最重要容疑者」(文庫本の裏表紙による)でもあるヒロインが真相を知っていることをトレントにほのめかすあたりから、再びこの人物に対する疑惑が頭をもたげ始め、トレントが新聞記事の原稿をその人物にも見せたというセリフを読んで「いいのか、そんな奴に見せて」と危ぶんだ。そして最後の第16章「完敗」での二度目かつ最後のどんでん返しの直前には「ああ、やっぱりそうだったのか」と思った。だから真犯人が真相を明かした時には全く驚かなかった。以上から「フーダニット」に関しては、作者は読者に対して十分なヒントを与えるフェアプレイをやっていたと断言できる*2

 だが、後半を読んでいる時には、ある時点までその登場人物を忘れていたので「犯人がわかった」とまで言うつもりはない。当該の人物に対する一定の疑惑を、少なくともストーリーの最初の方と最後の方では持っていたというだけだ。

 ただ、たとえば「読書メーター*3に投稿された感想文に、

最後は唐突な感じがした。もう少し伏線があれば良かったのかもしれない、ちょっとしたオマケになってしまった気が、、、

とか、

結末、あれってアリなの?

とか、

最終章を除けば立派なミステリにもかかわらず、ラストの数頁を以ってアンチ・ミステリと化し、読了後には本を叩きつけて「もう探偵小説などやめてやる」と言ってやりたくなる。

などと書いている読者に対しては、「そりゃあんたに注意力が欠けていることを自白しているだけだよ」と言いたい。

 私がことに感心したのは、第3章に書かれた真犯人の下記の言葉だ。以下引用する。

 

「じゃ、それっきりマンダースンとは会わなかったんですね」

「そう――いや、会ったというべきかな――一度だけね。その日の夜遅く、ゴルフ場で彼を見かけたが、わしは言葉をかけなかった。そして、そのつぎの朝には、彼はもう死体になっていたのだ」

創元推理文庫の2017年新版45頁)

 

 実際には、「わしは言葉をかけなかった」時点と「そして」の間に、彼は被害者を射殺していたのだ。

 これと似た記述のあるミステリの超名作をわれわれは知っている。そう、クリスティの『アクロイド殺しで殺人が行われた前後の記述だ。叙述トリックにおいてベントリーはクリスティに先駆けていると思った。ただ、ベントリー作品では三人称で書かれた「信頼できない発話者」*4だったのが、『アクロイド殺し』では一人称の「信頼できない語り手」になっている。以前にも書いた通り、後者のアイデアチェーホフの『狩場の悲劇』(未読)という先例があるそうだけれども、あのように完成度の高いミステリに初めて仕立て上げたのはクリスティだった。

 これが、『アクロイド』が好きな人は本作もきっと気に入るはずだと私が考える最大の理由だ。実際、「ミステリの祭典*5」というサイト*6に「江戸川乱歩氏が選んだ『ベスト10』のラスト1冊として拝読」と書いた「No.7」の評者である「蟷螂の斧」氏は、乱歩選の10作のサイト内平均点と自らの採点を併記しているが、『アクロイド殺し』を満点の10点、『トレント最後の事件』を9点としている。私も同じ点数をつけるか、本作には恋愛小説部分にダルなところがあるのを差し引いて8点とするかを迷うところだろう。なお『樽』には7点か8点*7、また最近読んだ『赤毛のレドメイン家』には4点をそれぞれつける*8。また、アマゾンカスタマーレビューに「アクロイド殺しよりも意外でした」と書いた評者もいた*9。評者は本作に星2つしかつけていないが、「探偵小説としてはとても面白いですし、よくできている」、「古典の探偵小説としては☆五つ」などとしながら「普通の恋愛小説としては☆一つになってしまいます」との理由で総合点としては星2つにしたものらしい。それは「推理小説と恋愛的要素を結びつけたところが新しい」などという世評に惑わされた採点に過ぎまい。私も評者と同様にミステリとしては星5つ(10点満点なら9点)で恋愛小説としては星1つだと思うけれども、私が読みたいのは恋愛小説でなくミステリだから総合点は星4つにする。なお、『赤毛のレドメイン家』はミステリとしては星2つか3つ、恋愛小説としては星1つで、こちらの方が総合点は星2つになる。

 アクロイドとの絡みに話を戻すと、最後の第16章「完敗」に面白い固有名詞が出てくる。トレントカプルズ氏に「シェパードの店へでも行きましょうか」と誘う。カプルズ氏は「シェパードというのは、どんな人間かね?」とカプルズ氏は言い、それに対してトレントは「シェパードというのは何者かとおっしゃるんですか?」とカプルズ氏の質問を繰り返す(本書新版292-293頁)。本作は1913年に書かれ、『アクロイド殺し』はその13年後の1926年後に書かれているから偶然の一致でしかないのだが、前記の叙述トリックが共通していることもあって、もしかしたらクリスティはあの作中人物の名前を本作のこの部分からとったのではないかと思ってしまった。もちろんその可能性は低いというよりほとんどなく、単なる偶然に過ぎないだろうけれども。

 あともう一つだけ、本作には『アクロイド』に限らないクリスティ作品との大きな共通点があるが、これについては下記リンクの書評を援用して論じたい。下記リンクの本作に対する批評はまことに素晴らしい。

 

 以下引用する。

 

【これよりさき『トレント最後の事件』の結末にまで構わずふれてしまうので、未読のかたはほんとにご注意を(警報レベル:高)】

 

■本書の醍醐味はやはり、見事などんでん返しの施された終盤の2章にある。とりわけ、一度真相をひっくり返したうえで一件落着の雰囲気に読者を油断させておいてから、不意に次なる真相が語られる、最終章のぬけぬけとした展開は本当にすばらしい。
■ここで明かされる事件の真相は、次の3つの要素を同時に達成しているのではないかと思う。

  1. 事件の合理的な説明。
  2. 探偵小説への痛烈な皮肉。
  3. 完璧なハッピーエンド。


■以下この線に沿って述べていくと、まず「合理的な説明」から。最終章の手前で英国人秘書マーロウの語る話はかなり意外だし信用もできそうなのだけれど、読んでいていくつか疑問も湧いてくる。ひとつは、被害者の実業家マンダースンが「自分で自分を撃った」のでないことは一応科学捜査で証明されたのでは、ということ。あと、そもそも〈他人を陥れるために自殺する〉なんて計略はいくらなんでもありそうにない。けれども最終章に入って〈撃ったのはカプルズ老人〉とわかり、しかも〈死ぬつもりまではなかったのじゃないか〉と説明され、さきの疑問はあっさりと氷解する。欠けていたピースがぴたりとはまる、とてもあざやかな展開だ。
■この結末はそれだけでなく、むろん「探偵小説への皮肉」の意図も含んでいる。マンダースンの常軌を逸した奸計に、そこをカプルズ氏と出くわしてしまう偶然、そして秘書マーロウのやたら手の込んだ偽装工作。三人の別々の意図がたまたま交錯した結果「探偵小説らしい謎のある事件」の外観ができあがってしまった。世の中はなべてそういう複雑な意図が絡みあってできているもので、だからひとりの「探偵」がすべてを見通してしまうことなんてありえないのではないか、ということ。「探偵が推理して解決する」物語形式への風刺に満ちた結末で、ゆえに青年トレントは最終的に「完全に参りました」と降参して探偵を辞める宣言をするに至ってしまう。
■ただしそんな皮肉な幕切れにもかかわらず、本書の読後感はなぜだかとてもさわやかだ。これはきっと「完璧なハッピーエンド」を達成しているせいではないだろうか。物語の主要な登場人物は、誰もが事件のおこる前より実は幸せになっている。秘書のマーロウは幸せに結婚したし、メイベル・マンダースンは不幸な結婚から解放されてかわりにいい相手を見つけた。推理に敗れたトレントにしてもしょせん本業ではないし、恋の成就のほうがむしろ大事。こうしたずうずうしいくらい円満な図式はもちろん、死んだ米国人富豪マンダースンを徹底して吊るし上げることで可能になっている死人に口なし、にもほどがあるような扱いだけれど、やはり結末がきれいすぎるせいかほとんど反感をおぼえない。
■そもそも探偵小説は犯罪を扱うのだから、悲劇になりやすい物語形式なのは間違いないだろう。悲劇の起こったわけを説明するためにまた昔の悲劇をこしらえたりと、悲劇の芋蔓式増殖さえもひんぱんに起こる。そんなことを考えあわせると本書のきわめて幸福な結末には、これまた批評めいた視座を感じないでもない。
■というわけで、最終章はいわば「理知」「諧謔」「感情」をいちどに満足させる、きわめてあざやかな展開になっている。皮肉としかいいようのない物語にもかかわらずとても読後感がさわやかなのは、このよく練られた美しい構造によるものだろう。この作品にかぎらず、ひねくれた諧謔を連発しながらも最後は幸福な結末できっちりと締める、というのは英国の娯楽小説に脈々と受け継がれてきた系譜のような気がする。たとえば、めくるめく皮肉の果てになんとなく安堵の結末へと着地するアントニイ・バークリーの傑作『試行錯誤』(創元推理文庫)はその典型だし、近くは「フロスト警部」物語なんかにも、その流れに通じるような精神を感じる。
■超絶の傑作というよりは上出来の佳作といったおもむきの『トレント最後の事件』が、これまでいろんなところで高く評価されてきたのも、結局はそのあたりの健全な英国的精神ゆえなのではないだろうか。

(「『トレント最後の事件』現代的解説」より)

 

出典:http://mezzanine.s60.xrea.com/archives/trent.html

 

 「クリスティ的」というのは、被害者の米国人富豪、というより米国人資本家を除くすべての登場人物がハッピーエンドを迎える結末のことだ。クリスティ作品でも犯人はポワロの教唆によって自殺したり、ポワロ及び作者のクリスティが絶対に許せないと思った極悪犯人を絞首刑にしたり、稀に作者が愛着を感じた悪人を放免したり*10するが、それ以外の男女の登場人物が結ばれるなどする。但し、作者に気に入られていない人物はそのまま放置されるが(笑)。

 しかし、第13章でヒロインが「相手が殺されてもいいようなことをして、しかも殺さなければ自分が殺されるというような場合」(創元推理文庫2017年新版225頁)に犯した殺人は、当然ながら正当防衛であって罰せられない。本作『トレント最後の事件』の真犯人もその一人だった。これを知って読者は胸をなで下ろす。もちろん被害者の米国人資本家は「死者に鞭打たれ」放題だが、アメリカで多くの労働者の命を奪い続けたに違いない悪辣な資本家の末路だから「ざまあみろ」としか思えないのである。現在の日本に当てはめるなら竹中平蔵みたいな奴といったところだろうか。

 

 ところで、引用文中の赤字ボールドは引用者による。

 そもそもベントリーは職業作家ではなくジャーナリストであり、ミステリ長篇としては他に本作の23年後に他人との共作で書かれた『トレント自身の事件』(1936)があるだけで、それは駄作とされている。他に短篇集『トレント乗り出す』(1938)があり、こちらはそこそこ評価されているようだが、ミステリはこの3冊だけであって、詩人でもあったけれども小説は他に書いていないようだ。つまり彼はアマチュア作家だった。

 しかしベントリーはミステリ作家のG・K・チェスタトンと親交があり、本作は彼に献げられている。Wikipediaを参照すると、チェスタトンボーア戦争に反対した自由主義者であり、「資本主義・社会主義双方を排撃し、配分主義を主張した」とある。反面、「当時の知識層の例に漏れず、キリスト教徒としての視点や植民地主義に立脚した,黒人やインディアン、インディオ、東洋人など他民族への偏見・蔑視が色濃いことも特徴である」とのことだ。

 このチェスタトン評は、そのままベントリーにもそっくり当てはまるのではないか。

 作者のこのスタンスは、『トレント最後の自身』の冒頭部分から明らかだった。ああ、この人はコナン・ドイルアガサ・クリスティのような保守派とは対照的な「リベラル」の人だったんだろうなと思った。しかしその反面で、アメリカ先住民(作中での表記は「インディアン」)や彼らと白人との混血、それに東洋人に対する差別意識には強い反感を抱かずにはいられなかった。ここらへんが20世紀初頭のイギリスにおける「リベラル」の限界だろう。

 そこは大いに気に入らないけれども、アメリカの極悪資本家を血祭りに上げたうえ、徹底的に「死者を鞭打つ」あたりの伝統は、マーガレット・サッチャーが死んだ時に「今や地獄が私営化されている*11」と皮肉った反サッチャー派に引き継がれているのではないか。菅義偉が退陣を表明しただけで「お疲れさま」と言ってしまう日本の腰抜け「リベラル」とは大違いだ。

 なお、こういう結末は、上記サイトが指摘する通り「俗物のヤンキーが田舎成金の分際で洗練された英国人の仲間入りをしようとしてうまくいかず勝手に自滅する、とあからさまに反米・愛国主義的な物語」でもあり、こういう気質は保守派のクリスティにも大いにあるのだが、同じく上記サイトが指摘する通り「そんな作品が諸々の事情から最初に米国での出版が決まるという経緯をたどった」ばかりか、今も英米作家たちが選ぶミステリのランキングにおいて、イギリスでの34位に対してアメリカで33位にランクインしているあたりがアメリカ社会の懐の深さかもしれない。

 これに対して日本のネトウヨは、エスタブリッシュメント層に身も心も献げてしまって「肉屋を支持する豚」の惨状を呈している。

 いや、ネトウヨだけならまだしも、日本の人気ミステリ作家である東野圭吾が書いたガリレオシリーズ*12第8作『禁断の魔術』には、極悪政治家が無傷のまま生き延びるという最悪の結末が用意されているが、これを東野の「リアリズム」だといって作者を賛美する読者がいる。この作品では、大学の物理学教授が高校生に実用化もされていない兵器技術を教え込みながら、それを極悪政治家に向けて発射しようとする高校卒・大学中退の若者を当の物理学教授が最後に止めるのだが、止められて逮捕されるであろうこの若者その後の人生に希望など全くといってないことは、少し想像してみれば誰にでもわかるだろう。しかし東野作品の読者はその程度の想像力さえ働かせようとはせず、読書サイトは東野作品に対する翼賛の場と化し、「政治家を撃たずにすんだ。良かった良かった」など言っている。はっきり言って吐き気がする。

 当該東野作品の悪口はこれまでにももう何度も書いたから「またか」と思われる読者もいるかもしれないが、あまりの惨状なので書かずにはいられない。香港の学生反体制活動家・周庭は、東野作品なんかを断じて読むべきではない。

 さすがにこんな陰気な話で記事を締めくくりたくないので、どういう締めにしようかと思案しているうちに、ベントリーとクリスティとの共通点がもう一つあったことを思い出した。それは両人が音楽、ことにオペラが大好きであるらしいことだ。本作にトレントが(ワーグナーの)『トリスタン(とイゾルデ)』を聴きに出掛け、そこでヒロインに遭遇する場面がある。クリスティのポワロものやマープルものにオペラが出てきた例を私はまだ知らないが、短篇集『謎のクィン氏』やノン・シリーズの『シタフォードの秘密』には出てきて、クリスティがワグネリアンであったことがわかる。彼女はもともとオペラ歌手を志望していたが声がオペラ歌手には不向きで、止むなく大学で薬学を専攻した。『トレント最後の事件』では、(ベートーヴェンの)第9交響曲が結末を暗示してもいる。トリスタンとイゾルデのようにではなく、第9のフィナーレのように終わることを予告しているわけだ。そういえばベートーヴェンは市民革命に強く共感するとともに、音楽史上において古典派の総まとめとロマン派の創始者の二役を担った人だった。

 本作にはさまざまな限界はあるものの、100年ちょっと前のイギリスのリベラリストが書いた、忘れがたいミステリだ。

*1:http://www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784488481117

*2:その他の部分で若干アンフェアな部分があるが、そんな議論がなされる前の1913年の作品だから致し方ない。

*3:https://bookmeter.com/books/60813

*4:クリスティはマープルものの短篇集でこの趣向の作品も書いている。

*5:「祭典」とは「採点」に引っかけたネーミングだろう。

*6:http://mystery-reviews.com/content/book_select?id=1173

*7:クロフツでは『クロイドン発12時30分』に8点か9点をつけたい。

*8:他の作品については、『Yの悲劇』は昔読んだきりだから再読したらどうなるかわからないがおそらく5点か6点、『僧正殺人事件』も同様だがおそらく4点か5点をつける。『黄色い部屋の秘密』は少年向きリライト版しか読んだことがなく、『帽子収集狂事件』、『赤い館の秘密』、『ナイン・テイラーズ』の3作はいずれも未読。

*9:https://www.amazon.co.jp/-/en/gp/customer-reviews/R2ERHX8EU1OV7S/

*10:その一例が『アクロイド殺し』に先駆けて某作に登場する「信頼できない語り手」である。

*11:イギリス英語の綴りで "Hell is now being privatised"(米語では "privatized")。"privatise" を「民営化」と訳すのは誤りで、あくまで「私営化」と訳されるべきだ。

*12:ネット検索で知ったが、今月(2021年9月)に東野はガリレオシリーズ第10作を刊行したらしい。今度はどんな破廉恥な作品になっているのだろうか。

フィルポッツ『赤毛のレドメイン家』、クリスティ『予告殺人』『シタフォードの秘密』、横溝正史『蝶々殺人事件』、坂口安吾「推理小説論」を読む(ネタバレ若干あり)

 本記事には、表題作その他のミステリのネタバレが若干含まれているので、これらの作品を未読かつ読みたいと思われる方は、本記事を読まれない方が賢明かと思う。

 最近多く読んでいるアガサ・クリスティ(29冊)から少し離れて、同時代の人であるクロフツ1920年代と30年代に書いた『樽』と『クロイドン発12時30分』を読んだことは前回書いたが、クリスティやクロフツに関連して戦前の日本で評判の高かったミステリのうち、イーデン・フィルポッツの『赤毛のレドメイン家』(1922)の新訳版が2019年に創元推理文庫から出ていて、それが図書館に置いてあったので借りて読んだ。発行は一昨年で、図書館にはあまり借りる人もいないらしく、新品同様だった。

 

www.tsogen.co.jp

 

 このフィルポッツという人は特にミステリ作家というわけではなく普通小説、特に「ダートムアもの」と呼ばれる田園小説を多く書いた作家で、少女時代のアガサ・クリスティの隣家に住んでいて、創作を始めたばかりのアガサの小説にアドバイスを与えたとのことだが(クリスティの自伝にそう書いてあるらしい)、50歳の1912年からミステリ的な要素のある小説も書くようになたらしい。クリスティ(やクロフツ)がミステリ作家としてデビューした1920年の2年後に発表された『赤毛のレドメイン家』を江戸川乱歩が偏愛したために、本国のイギリスやアメリカ以上に日本で人気を博したそうだ。しかし、『赤毛のレドメイン家』を一読してみたが、ミステリとしても普通小説としてもさほど良いとは思えなかった。

 本作の2年前に刊行されたクロフツの『樽』と同様、途中で探偵役が入れ替わり、最初から出ていた「スコットランド・ヤードの出世頭の敏腕刑事」のはずの御仁が、物語の後半役では脇役になってしまう。創元推理文庫の旧版の解説では「ワトソン(ワトスン)役」と評されていたらしいが、私が読む限り、ワトソンどころかクリスティのポワロ(ポアロ)ものに出てくるヘイスティングズ並みの間抜けさだ。しかも、あとから出てくるまともな探偵役の方も、このヘイスティングズ的な相棒に留守の間を任せてしまい、みすみす親友を殺されてしまうという大失策を犯す。もちろん最後には犯人を逮捕するのだが、依頼人を殺してしまう探偵など最悪だろう。クリスティ作品に喩えてみれば、ポワロがヘイスティングズ依頼人の身柄確保を頼んだ結果、ヘイスティングズが美貌の悪女に騙された結果、みすみす依頼人が殺されてしまったようなものだ。しかも、共犯者であるこの美貌の悪女も魅力に乏しい。辛うじて実行犯の男には存在感があるが、彼とて飛び抜けて印象的とまではいえない。本作も作者のフィルポッツも英米ではすっかり忘れ去られているそうだが、それも仕方ないだろう。本作は完全な「外れ」だった。

 これに対し、クリスティ作品で新たに読んだ『予告殺人』(1950)と『シタフォードの穂密』(1931)は面白かった。前者はミス・マープルものの第4作で、前述の『赤毛のレドメイン家』同様江戸川乱歩が高く評価したほか、クリスティ自身も自作の10選に入れている。

 

www.hayakawa-online.co.jp

 

 昨年(2020年)がクリスティ没後100年に当たっていたため、ハヤカワクリスティー文庫から新訳版が出たが、読んだのは羽田詩津子(1957-)が訳したこの新訳版だ。それ以前には長く詩人の田村隆一(1923-1998)の翻訳で知られていたが、この田村隆一の訳は誤訳が多いことで悪名高かったらしい。

 

okwave.jp

 

 以下、「質問者が選んだベストアンサー」を引用する。

 

質問者が選んだベストアンサー

 

2009/06/25 01:54

回答No.2

 

noname#204885

 

クリスティ、大好きです。クイーン派の人からは非論理的と言われることもありますが、トリックと言うよりアイデアの秀逸さが素晴らしいです。「そして誰もいなくなった」もそうですが、推理小説を面白く読ませるアイデアのネタは殆どがクリスティの発案だと思います。

 

#1さんが挙げられているものは古典となっている代表作ですね。

亜流を多く生んだと言う点では、「ABC殺人事件」を追加しておきたいです。「オリエント急行」「アクロイド殺し」「ABC殺人事件」の3冊はあまりに有名過ぎてトリックのネタばらし本では必ず引用されてしまうので、もしwat_1987さんがまだこれらのトリックの情報を持っていないのであれば、一刻も早く読まれることをお奨めします。この3冊を予備知識無しに読めると言うのは幸運きわまりないことです。(うらやましい!!)

 

追加のお奨めとしては・・・

 

「鏡は横にひび割れて」

ミスマープルのシリーズで一番好きです。映画化もされました。いわゆる「Why dunit?:何故その人が殺されなければならなかったのか?」と言うテーマ。最後に動機が解明された瞬間に全ての構図が明らかになり、地平が一気に開けるような陶酔感が得られます。

 

「三幕の悲劇」

こちらはポワロが出てくる有名なWhy dunit?物。読後の納得感では「鏡は横にひび割れて」の方に軍配が上がりますが、亜流が多く生まれたと言う点ではこちらですね。

 

「予告殺人」は、昔のハヤカワミステリ文庫では致命的な誤訳があったことで有名。(私も読み終えて怒りました。)修正されていればマープル物のお奨めに入るんですが・・・。

 

「シタフォードの謎」はポワロもマープルも出ない初期のシリーズですが、冒頭のオカルト的な殺人予告の謎がきっちり論理的に解決される佳作です。

 

出典:https://okwave.jp/qa/q5072405.html

 

 私はクリスティ作品を29作読んだが、上記「ベストアンサー」のうち未読の作品は『鏡は横にひび割れて』だけだ。今回の記事で取り上げる『予告殺人』と『シタフォードの謎(シタフォードの秘密)』は両方とも挙げられている。印象に残っているのは『三幕の悲劇(三幕の殺人)』の "Why dunit?" であって、その犯人像はその少し前に書かれた『エッジウェア卿の死』や、少し後に書かれた『ABC殺人事件』と並んで「極悪人そのもの」としか思えなかった。ことに、『三幕の殺人』の "Why dunit?" を見破った読者などいるのだろうか。ポワロに種明かしされて呆気にとられるとともに、犯人と親しく付き合っていたエッグという女性の登場人物が気の毒でならなかった。『三幕の殺人』は私にとっては、その二番煎じとしか思えない『ABC殺人事件』などよりもよほど強いインパクトがあった。

 で、問題の『予告殺人』を訳した田村隆一の「誤訳」とは、ある登場人物が他の登場人物の名前をミス・マープルの前で呼び間違えた箇所で、呼び間違えなかったかのように名前が訳してしまったことらしい。これだと、マープルが犯人の正体を推理した重大なヒントが消されてしまう。そりゃ読み終えてから知ったら怒るはずだ。但し、田村隆一訳の旧版でも、ある時期からあとにはこの誤訳は訂正されたらしい。

 この「呼び間違い」は実に大胆不敵であって、私が気づいた限り3箇所出てきて、そのうち1箇所が前記マープルの前での発言だ。他の2箇所のうち1箇所では、呼び間違いに気づいてすぐに訂正し、話者が呼び間違えた人物に対してしきりに謝っているので、本当に重大なヒントになっている。さすがにこの場面では田村隆一も誤訳したりはしなかったようだ。

 このほか、本作には別のある人物の遺産相続人候補として「ピップとエマ」という双子のきょうだいが出てくる。"pip and emma" とは、調べてみると「午後(p.m.)」を表す古いイギリス空軍の俗語だそうだ。「きかんしゃトーマス」というイギリスの幼児向けテレビ番組にも、「ピップとエマ」電気機関車の愛称として出てくる。絵本にもなっているらしく、ピップの本名は最終第42巻で明かされるという。

 

onara.hatenablog.com

 

 以下引用する。

 

フィリッパとエマ(Philippa and Emma)

 

フィリッパは普段ピップ(Pip)の愛称で親しまれており、以下はピップと表記していく。フィリッパの名が判明するのは最終42巻。

元々ピップ、エマっていうのは午後(P.M.)を表す兵隊間で使われた暗号のことだそうで。今では了解の意味で普及してるラジャーなんかも暗号から来てるようで。「レシーヴのRはロジャーのR!」みたいな。閑話休題して本題に戻りましょう、始まってもないんだけどさ!

 

出典:https://onara.hatenablog.com/entry/2017/07/01/190432

 

 そう、ピップとは愛称で、正式名称は上記のフィリッパまたはフィリップなのだ。前者は後者の女性形である。

 そして、本作にはフィリッパ*1という女性の登場人物がおり、この人物こそ遺産相続人候補の1人であう「ピップ」だった。

 しかし、これを読者に気づかせないように、作者は「ピップとエマ」とは双子の兄妹なのだと思わせるミスリードをしており、先にさらなる別の登場人物が、「私がエマだ」と名乗りを上げる。そしてこの人物には双子の兄のはずの人物がいるのだが、その2人は実は双子ではなかったのだった。

 前述の「名前の言い間違い」も愛称にかかわるものだ。しかし、これほど「どうぞ気づいて下さい」といわんばかりの言い間違いになかなか気づけない。

 特に私は、直前に読んだ(前回の記事で取り上げた)『もの言えぬ証人』では愛称の件に気づいたにもかかわらず、本作では気づけなかった。なぜかというと、言い間違えられた人物の名前は "Letitia Blacklock"、愛称「レティ」というので、「ロティ」と呼び間違えられても、ファミリーネームの「ブラックロック」の「ロ」が紛れ込んでしまったものではないかと軽く考えてしまったのだ。

 このあたりは、ネイティブのイギリス人や同じ英語を使うアメリカ人なら、もっと気づくチャンスは多いのではないかと思うのだが、実際はどんなところなのだろうか。

 ピップとエマの件についていえば、ピップとは別に「フィル(Phil)」もフィリップまたはフィリッパの愛称として使われており、現にフィリッパが「フィル」と呼ばれる場面がある。また、女性形のフィリッパの場合は "Pippa" という愛称が用いられることも多いようだ。だから、ピップという名前から主要登場人物たちが皆ピップは男性だったと思い、読者にもそのことを疑わせなかった。ただ、引っ掛かるのは、ピップの実の姉妹であるエマ(パトリックの双子のきょうだいの名前であるジュリアとい偽って名乗っていた)は、ピップが女性であることを知っていたにもかかわらず、フィリッパがピップであることに気づかなかったことだ。これはいささか不自然ではないか。

 それにしても私はかつて筒井康隆の『ロートレック荘事件』(1990)では人の姓名にかかわる叙述トリックを見破った。それなのに、外国語という言葉の障壁があるとはいえ、本作での人命のトリックは「レティ、ロティ」の謎も「ピップ」の正体も見抜けなかった。直前に、やなり愛称のトリックを使った『もの言えぬ証人』を読んでいたというのに。「やられた」と思った。

 本作の真犯人自体は、クリスティ初期のポワロものの『エンド・ハウスの怪事件』(これはもともとガラス張りのように構造がミエミエの作品だった)と同じパターンだし、2件目、3件目の殺人になると「この人しかいない」というほどあからさまヒントを作者が出しているので、"Who dunit?" 自体は簡単に見抜けたが、本作はあくまで「レティ、ロティ」の謎を見破れなければ「犯人がわかった」ことにはならない。これを見破る手がかりを作者は大量に与えていた。たとえば、レティシアがシャーロットに宛てた手紙がなぜかレティシアのトランクからでてきたこともその一つだ。「これでもまだ気づかないの?」と作者が余裕綽々で書いていたことがあとから伝わってきて、地団駄を踏んだが後の祭り。なお、マープルが真相を明かした時に私が連想したのは松本清張の『砂の器』(1961)だったが、この清張作品の成立は本作より11年遅い。

 本作には、日本語には訳しようがないと思われる手がかりがあって、それは「問い合わせ」を意味する2つの綴り "enquiries" と "inquiries" だ。ネット検索で確認する限り、両者の意味は全く同じであって、前者がイギリス英語、後者がアメリカ英語で多く用いられるものの、前者を用いるのはイギリス人に限らず、後者を用いるのはアメリカ人に限らないとのことだ*2。新訳版の訳者・羽田詩津子氏は、おそらくここは訳し分けようがないと考えて、ともに「問い合わせ」の訳語を使ったため、種明かしの場面で初めて綴りの違いが説明される。しかし、旧訳版の「読書メーター」に、このことを論った批判をしている人がいて、たとえば「問い合わせ」と「問合せ」という訳し分けができるはずで、それをやっていない新訳版には不満だ、などと書いている*3。しかしこれは、私にはいちゃもんとしか思えなかった。確かに「問い合わせ」と「問合せ」等の訳し分けは可能で、あるいは田村隆一訳の旧訳ではそのように訳していたのかもしれないが(未確認)、新訳は田村訳(の古い版)のような「致命的な誤訳」はやらかしていないのではないか。私は今春、同じ訳者(羽田詩津子氏)による『アクロイド殺し』を読んで、たいへん読みやすい訳文だと好感を持っていたので、このレビューにはいささか腹を立てた。

 本作はクリスティが60歳を迎えた1950年に書いた作者50番目の長篇だ。しかし作者のクリスティ自身や江戸川乱歩らに高く評価された作品の割には、読書サイト等での評判は高くない。真犯人が簡単にわかったことを低評価の理由に挙げる人が多い。しかし、前述のように、「レティとロティ」その他、作者がふんだんに与えた手がかりから真犯人の『砂の器』的正体を見破ることができなければ犯人がわかったことにはならないというのが私の意見だ。そこには言語の違いで英語の愛称なんか知らないというハードルは確かにあるが、仮に『エンド・ハウスの怪事件』(または『邪悪の家』)や『もの言えぬ証人』を読んだ読者であれば、当然気づくチャンスはあったはずだ。しかし私にはそれができず、「やられた」と思った。『エンド・ハウスの怪事件』では、「そもそもマグダラなんて名前のイギリス人女性なんかほとんどいないだろ」とブーたれることができたが、レティとロティではその言い逃れは通用しない。作者はシャーロットという妹の名前をなかなか出さなかったが、一度名前が出てきたあとは何度も出てくるし、マープルのメモに「ロティ」と書いてあったりもする。このマープルのメモは、誰かが指摘していた通り、エラリー・クイーンの「読者への挑戦」に相当するものだろう。それでもこの「入れ替わり」または「成りすまし」に気づかなければ、いくら「レティ」が犯人だと早々に気づいたとしても、作品に仕掛けられたトリックがわかったことにはならないのである。

 その意味で、本作はまずミステリとして高く評価できるし、犯人を初めとするキャラクターの造形でも、作者が若い頃の作品と比較して格段に深みを増していると思う。まず犯人が、本作が下敷きにしたと思われるポワロものの『エンド・ハウスの怪事件』の他、『エッジウェア卿の死』、『三幕の殺人』『ABC殺人事件』などの1930年代のポワロものの諸作品に共通する極悪人ではなく、もともとは善良であり、殺人を犯したあとでも、たとえばミッチという外国人(おそらくハンガリーあたりの中欧の出身)のメイドに対するまなざしも、他の登場人物と比較して優しい。それは、犯人自身も若い頃に病気に苦しめられた経験を持っているからかもしれない。他の登場人物の多くが、イギリス人的島国根性からミッチに対して偏見を持って「嘘つき」と非難するが、犯人は、戦争中に親族の誰かが殺された経験から、被害を実際より過大に思い込むようになり、それが結果的に嘘になったのであって、悪意があるわけではない、その気になればおいしい料理を作ることもできる、などと取り調べで答えてミッチを庇っている。ネット検索で、ミッチの描き方が外国人に対する作者の差別意識を反映していると批判した感想文をみつけたが、それは誤読だ。差別意識を持っているのは作中の「イギリス的島国根性を持つ」登場人物たちであって、クリスティの目線は彼らとは違い、作中の「本当は心優しい」真犯人と同じだ。ハンガリーの政権は第2次大戦中にはナチスに協力したが、その過程で犠牲になった同国人は多数いたに違いないし、戦後はスターリンソ連に圧迫された。本作が成立した6年後の1956年にはハンガリー動乱が起きている。ミッチはナチスドイツかスターリンソ連のどちらかに親族を殺された人であることくらいは、1950年にイギリスで書かれた小説を読む人なら想像できなければならないのではなかろうか。クリスティは確かに保守の人だったが、少なくとも1950年当時60歳のクリスティは、戦争の傷跡を持つ外国人に対して理不尽な差別意識を垂れ流すような人ではなかった。今の日本のネトウヨとは全然違うのである。

 ミッチに優しい視線を向けたことから明らかなような、本来は心優しい女性を殺人犯に変えてしまったのは「成りすまし」による遺産の詐取だった。そして犯人は、自らの過去を知る人間を殺した。このあたりが『砂の器』を強く連想させる。こういう犯人の人生を思った時、「真犯人が簡単にわかったから大したことないミステリだ」というのではあまりにも読みが浅く、せっかくミステリの名作を読んだのに、そんな読み方ではもったいないのではないか。これは、私が松本清張の愛読者だからそう思うのかもしれない。『砂の器』は、トリックだけを取り出せば三流の作品だろうが、それでもミステリ史に残る名作として今も読み継がれている。それには未だ一度も見たことがない同作の映画の貢献が大きいのだろうけれど。そういえば、中国・四国在住時代に島根県亀嵩に行っておけば良かったと今でも時々思う。今では中国山地の麓は遠いし、コロナ禍が続いているからチャンスはないけれど。

 

 最後に、同じクリスティの『シタフォードの秘密』。本作は、前述の『予告殺人』の旧訳で「致命的な誤訳」をやらかしたらしい田村隆一の翻訳で読んだ。

 

www.hayakawa-online.co.jp

 

 実は氏が翻訳したクリスティ作品を読んだのは、29作目にして本作が初めてだった。あまりにも氏の誤訳の多くが知れ渡って批判されたためかどうか、早川書房は有名作から順番に氏の翻訳を現在の翻訳家が訳した新訳版に差し替え続けているようなのだ。

 前述の『予告殺人』は最近まで田村隆一訳が残っていた、有名作にしては珍しい麗だったが、ついに昨年新訳版に差し替えられたわけだ。しかし、読書サイトなどでは、既にその一例を取り上げたけれども、田村隆一の旧訳版を持ち上げて新訳版を批判するレビュアーが少なからずいる。特に、田村訳ではポワロ(ポアロ)の口調が慇懃(無礼)であるらしく、「タメ口で喋るポアロはイメージに合わない」などと書く人が多い。しかし、田村隆一以外の訳者では、(過度に)慇懃な口調でしゃべるポワロの方が珍しいくらいであり、むしろ田村氏以外の翻訳にばかり接してきた私としては、その手のレビューを読むたびに、そんな誤訳の名人ばかり有難がるなよ、と内心毒づいていたのだった。といっても、別に故田村隆一氏に反感を持っていたわけではない。『シタフォードの秘密』が田村氏訳と知って、ついに氏の翻訳に接する機会がめぐってきたかと思った。

 本作を読もうと思ったきっかけは、坂口安吾の「推理小説論」(1950)で絶賛されていたことを知った時だ。下記に青空文庫へのリンクを示すが、多くのミステリのネタバレ満載なので読む時には注意が必要だ。私は、未読の作品が出てくる度に、直ちにその部分を飛ばしながら読んだ。そして、坂口が論評した作品を読み終える度に彼の論評を読むことを繰り返している。

 

 坂口が取り上げたミステリのタイトルは、下記ブログ記事で知ることができる。このブログ記事ならネタバレに遭う心配はわずかしかない。

 

trivial.hatenadiary.jp

 

 ただ一点だけ、クリスティの『三幕の殺人』について、

この作品のメインはホワイダニットなので、この程度のネタばらしはどうでもいいような気もするが、まあ予断なしに読むに越したことはないでしょう。

と書かれていることには同意できない。坂口安吾の文章が頭に入った状態で『三幕の殺人』を読むと、途中で犯人がわかってしまうからだ。確かに、誰も気づくとは思えない「ホワイダニット」がメインのミステリだし、犯人そのものは比較的見当がつきやすい作品ではあるが、それでもネタバレによって犯人がわかってしまうのは痛い。ラスト近くのさる場面は、真犯人を知りながら読んだのでは大いに興が殺がれてしまう。

 ところで坂口安吾が「推理小説論」で絶賛したのがクリスティの『吹雪の山荘』という作品だが、そんな名前の作品など見たこともない。ネットで調べて、現在では『シタフォードの秘密』というタイトルになっている作品だとわかった。それで、坂口の「推理小説論」を読むのはそこでいったん中断して*4図書館で『シタフォードの秘密』を借りて読んだ。読んだ限り、特に読みにくかったり意味が通じにくかったりする箇所にはぶつからなかった。

 なお、下記ブログ記事に『ABC殺人事件』における田村隆一の誤訳が、中村能三訳及び堀内静子訳と対比されて示されている。この例など相当にひどい誤訳であって、原文と正反対の意味に訳されてしまっている。 

 

 『シタフォードの秘密』の特徴は、なんといってもその単純なトリックにある。坂口安吾が絶賛したのも、まさにこの点だ。以下坂口の「推理小説論」から引用するが、下記の引用部分には、本作のトリックはまだ暴露されていない。トリックの特徴が論じられているだけだ。坂口はエラリー・クイーン及び他のミステリ作家を引き合いに出して、「クリスチー女史」を絶賛している。

 

 だいたい推理小説というものは、トリックの新発明が主要な課題となり、これによって読者と智恵くらべをするものだ。読者は、又、作者と智恵くらべをたのしむに当って、従来のトリックを多く知るはど興味が深まるものであり、こうして従来のトリックをマスターしたアゲクには、自分もひとつ推理小説を書いて未知の友に挑戦したいと考える。これが推理作家の生れる自然の順序で、本来アマチュア、愛好家という素人によっで新分野のひらかれるべき世界だ。

 推理小説というものは、常に新しい工夫、新トリックの発見によって挑戦するところに妙味があるのだから、そうヒョイ/\と卵を生むようなワケには行かず、厳密な意味では職業作家としては成り立たないのが自然なのである。濫作して、マンネリズムにおちいっては、ゲームの妙味が失せてしまう。

 ヴァン・ダインも、愛好家から、挑戦を思いたって自ら作品を書くようになったもので、アマチュアあがりらしく挑戦をたのしんでいる素人のよさや、ついでに衒学をひけらかして読者を煙にまいている稚気のほども面白くはあるが、素人の悲しさに文章がヘタで冗漫すぎること、したがって、衒学ぶりが軽快さを失って、作品を重くし、退屈にしていること、素人の良さ悪さが差引きマイナスになっている。このマイナスのところを主として模倣して、重さ退屈さに輪をかけてしまったのが小栗虫太郎であり、これが後日の日本の推理小説の新人に主たる悪影響を及ぼしているのである。

 しかし、根からの推理作家という天分にめぐまれた人もないことはない。どんなに濫作しても、謎ときのゲームに堪えうるだけの工夫と確実さを失わないという作家である。アガサ・クリスチー女史とエラリイ・クイーンが、そうである。

 クリスチー女史の華麗多彩な天分に至っては、驚嘆のほかはない。あれほどの濫作をして、一作毎に工夫があり、トリックにマンネリズムが殆どなく、常に軽快な転身は驚くばかりである。文章も軽快、簡潔であって、謎ときゲームの妙味に終始し、その解決に当って、不合理によって読者を失望させることが、先ず、すくない。ただクリスチー女史には、優雅な美人は絶対に犯人にならないという女らしい癖があって、この癖が分ると、謎ときがよほど楽になるのである。

 一般に「アクロイド殺し」をもって代表させているが、却々(なかなか)もって一作二作で片づけられるようなボンクラではなく、「スタイルズ荘」「三幕の悲劇」その他傑作は無数であるが、特に「吹雪の山荘」は意表をつくトリックによって、軽妙、抜群の発明品であり、推理小説のトリックに新天地をひらいたものとして、必読をおすすめしたい。

「吹雪の山荘」のトリックほど平凡なものはない。現実に最もありうることで、奇も変もないのであるが、恐らく全ての読者がトリックを見のがしてしまうのである。読者は解決に至って、あまりにも当然さにアッと驚き、あまりにも合理性の確実さに舌をまいて呆れはてるであろう。しかし、読みすすんで行くうちは、この悠々と露出しているトリックに、どうしても気附くことができないのである。このトリックの在り方は、推理作家が最大のお手本とすべきものであろう。

 クイーンも亦、クリスチー女史につぐ天才であり、筆も軽く、謎ときゲームの妙味に終始し、濫作しつつ、駄作のすくない才人であるが、トリックや推理の確実性、合理性という点で、クリスチー女史に一歩をゆずる。読者に決定的な証拠を与えていない場合が多く、組み立てに確実さが不足している。それが犯人であってもフシギではなかった、という程度にしか読者が納得させられない場合が多いのである。

 この二人をのぞくと、あとは天分が落ちるようだ。一二の傑作はあって、全作にわたっては駄作が多く、合理性が不足して、解決を読んで納得させられない場合が多い。概ね解決が意外であるが、合理的に意外であること、納得のゆく意外であることの重要な要素が欠けているのである。推理小説の解決は意外でなければならないが、不合理に意外ではゼロであり、不合理の意外さだったら、どんなボンクラでも不意打をくらわせることが出来るのは当然である。

 クロフツの作品は推理小説の型としては異色あるものだが、「樽」のような名作をのぞくと、駄作が多く、不合理に意外であったり、はからざる大集団の犯罪であったり、そのヒントが与えられておらず、謎ときゲームとしては、最後に至って失望させられることの方が多いようだ。

 カーも意外を狙いすぎて不合理が多すぎる。「魔棺殺人事件」は落第。

 個々の傑作としては、クリスチー女史、クィーン、ヴァン・ダインの諸作は別として、「矢の家」「観光船殺人事件」「ヨット殺人事件」「赤毛のレドメイン」ほかに思いだせないが、まだ私の読んだ限りでも十ぐらいは良いものがあったはず、しかし、百読んで、二ツか三ツ失望しないものがある程度だ。世界的に名の知れた人々の作品で、そうなのである。

坂口安吾推理小説論」より)

 

出典:https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/43189_22524.html

 

 前述のように、坂口安吾が傑作に数え入れた『赤毛のレドメイン(家)』でさえ、私には面白くなかった。クリスティの作品は、作者がかなりきわどいヒントを与えることが多いために犯人当ては比較的し易いが、トリックや動機まではなかなか当てにくく、そこが読者を飽きさせない特徴だと私は思う。

 『シタフォードの秘密』以外に単純なトリックといえば、『メソポタミヤの殺人』が思い出される。ポワロの謎解きの場面で「なんだ、そんなトリックかよ」と思ったが、読んでいる最中には全く思いつかなかった。読書サイトを見ると、ヒントが与えられていないと言ってずいぶん怒っている読者がいたが、頁をめくり返してみると、重大なヒントは確かにさらっと書かれていた。要するに種明かしされて怒った読者が不注意だっただけの話だ。クリスティは作品から受けるイメージとは相当に違って、基本的にフェアなのである。ヒントは確かに出している。だから、あの『アクロイド殺し』だって、注意深く読んでいれば真犯人を言い当てることができるはずだ。私は中学生時代、もしかしたらこいつ自身が犯人なんじゃないかと思い始めていたある日、級友にネタバレを食らってしまったのだった。このことはもう何度も書いた。

 あるいは『エッジウェア卿の死』のトリックも、多くの読者の意表を突くものだったに違いない。幸か不幸か、ハヤカワのクリスティー文庫の裏表紙を見て読む前に犯人の見当がついた私は、この人が犯人だとしたらどんなトリックがあり得るだろうかと考えていたらトリックに思い当たり、その通りの種明かしだった。しかし犯人の予断を持っていなければ気づいたかどうかはわからない。

 『シタフォードの秘密』のトリックは、『エッジウェア卿の死』は言うに及ばず、『メソポタミヤの殺人』と比較してももっとシンプルだ。坂口安吾が絶賛する通りである。私は安吾が絶賛したくだりを読んだあとに『シタフォードの秘密』を読んだが、それでもトリックを見破ることはできなかった。クリスティ作品の常で、ミスリードは張りめぐらせまくっているのだが、それでも犯人の見当はつく。最初から一番怪しかった人物が、複雑なミスリードの人間関係を知らされたあと、最後にまた「やっぱりこの人が犯人だよなあ」と思わされる。結局その人が犯人だったから、「フーダニット」まではクリアできた。しかし、その人が犯人であれば当然思いついてしかるべきトリックには、とうとう最後まで気づけなかったのである。脱帽するしかなかった。

 ハヤカワクリスティー文庫版につけられた作家・飛鳥部勝則氏(1964-)の解説も、トリックを絶賛する点で坂口安吾の「推理小説論」と共通している。以下その冒頭部分を引用する。

 

 『シタフォードの秘密』はよくできたフーダニットのお手本のような作品である。この作品の――あまりにも当然でありながら誰にも気づかれない――トリックはクリスティーの発明の中でも最上のものの一つで、それを補強する叙述のテクニックを含めて、女史がいかに推理小説愛好家の心理を読むのに長けていたかがわかる。周囲のすべてのものをかしずかせるのが《女王》だとするなら、クリスティーこそ二十世紀ミステリーの女王だったのだ。

 冒頭からして素晴らしい。閉ざされた雪の山荘で降霊会が行われ、霊魂が死の宣告をする。そしてその同時刻に、予言された人物が、(別の場所で*5)実際に殺されていた……というのである。

 ところでこれは典型的なハウダニットパターンの展開である。そんなことが起こったら、登場人物たちは《何故、どうして》と迷い、ひいては《どうやって、どんな方法で》という具合にストーリーが展開していくのが普通なのだ。しかしクリスティーの場合には、ついにそうはならない。一般的な推理作家なら、ハウダニットになりそうな設定とトリック――本来《どうやって殺したのか》というネタを、クリスティーは《誰が殺したのか》というパターンに無理なく持っていき、活かしきる。ここに、『シタフォードの秘密』の著しい特色がある。

 

アガサ・クリスティー田村隆一訳)『シタフォードの秘密』(ハヤカワ文庫,2004)427-428頁、飛鳥部勝則氏の解説より)

 

 なるほど、これは目から鱗の指摘だ。確かにクリスティはあの単純きわまりないトリックを「フーダニット」にもっていき、数々のミスリード網を張り巡らせるという手法で読者を欺こうとする。でもクリスティの常で、その一方大胆なヒントを与えてもいるので、注意深く読みさえすれば、種明かしの前には犯人が誰であるかは見当がつくことが多い。私にとっては、この『シタフォードの秘密』も、記事の前半で取り上げた『予告殺人』もそのパターンだった。しかし種明かしの場面で、本作ではそのトリックが、『予告殺人』では○○○○○がそれぞれ明かされて、しまった、なんでこんな簡単なことに気づかなかったのかと臍を噛んだ。こういうのを「騙される快感」というのだろうが、これこそミステリを読む楽しみではないだろうか。

 しかし、意外にも読書サイトでは本作の評判はあまり良くない。「トリックがありふれている(or 安易だ)」といった類の感想文が多い。それにもかかわらず、「犯人もトリックも簡単にわかったよ」という感想文は、アマゾンカスタマーレビューと読書メーターで参照した100件以上の感想文のうち3例しかなかった*6。つまり、トリックの単純さに腹を立てた読者の大部分は、トリックを見破ることができなかったに違いない。

 これを「やられた」と言って楽しめない読者はいったいミステリに何を望んでいるのだろうか。東野圭吾の初期作品のように、複雑怪奇で思いつけるはずもない密室トリックをよしとするのか、それとも東野の中期作品のように、罪のないホームレスを虐殺する行為を愛する女性への「献身」にしてしまう極悪非道な悪人小説をよしとするのか、あるいは東野の後期作品のように、実用化困難かつ危険極まりない兵器技術を大学の物理学教授が高校の学園祭の出し物として高校生に教え込み、あげくの果てに極悪政治家が報いを受けずに逃げ切ってしまう荒唐無稽かつ「悪が栄える」トンデモ小説をよしとするのだろうか。

 ネットを見ていると、推理作家の若竹七海氏(1963-)が本作を駄作と評しているらしい。若竹氏も前記飛鳥部氏と同世代の人のようだが、私はお二方とも作品を読んだことがないばかりか、申し訳ないがお名前も存じ上げなかった。私とも世代が近い2人の本作に対する評は対照的だ。江戸川乱歩がどういう理由で本作を高く評価したかを私は知らないが、飛鳥部氏の評価は坂口安吾の評価と同系列であり、私もそちらに軍配を上げたい。東野圭吾なんぞを大御所に祭り上げる今の日本のミステリ読みたちには、私はついていけない。

 なお、坂口安吾の「推理小説論」で、横溝正史の『蝶々殺人事件』(角川文庫1973, 2020改版)が絶賛されていたので、「推理小説論」をまともに読む前に読んでおこうと思い、生涯で初めてこの横溝作品を読んだ。表題作は敗戦直後の1946〜47年に書かれた。併録の短篇2篇(「蜘蛛と百合」、「薔薇と鬱金*7」)はいずれも1933年の作品だが、まだ読んでいない。

 

www.kadokawa.co.jp

 

 本作は、横溝作品としては例外的に怪奇趣味があまりなく、本格推理小説を指向した作品とのことだ。読んでみると、クロフツの『樽』とクリスティの某作品*8のハイブリッドで、「読者への挑戦」めいた段落が挿入してあるところはエラリー・クイーン流だ。しかし私はクロフツの『樽』を読んだばかりだし、クリスティのあの作品には思うところがたくさんあるので、「初めはクロフツを思わせておきながら、実はクリスティだった*9」この作品は、坂口安吾の絶賛にもかかわらず、クロフツにもクリスティにも遠く及ばないと思った。小説世界に没入することは私にはできなかった。2013年に最初に『Dの複合』を読んでたちまちはまった松本清張のようなわけには全くいかなかった。

 やはり私は江戸川乱歩とも横溝正史とも相性がきわめて悪いようだ。

*1:本作ではフィリッパは "Phillipa"、つまりLを重ねるがあとのPは重ねないで綴られる。一方、「きかんしゃトーマス」では "Philippa" と、Lは重ねずにあとのPを重ねて綴られている。ややこしい限りだ。

*2:一部に、両単語には微妙な意味の違いがあるとの説もあるが、意味は全く変わらないとの説の方が有力のようだ。

*3:https://bookmeter.com/reviews/97619354

*4:もちろんネタバレを警戒したためだ。『シタフォードの秘密』を読み終えてから坂口の「推理小説論」を読むと、案の定ネタバレが書いてあった。

*5:引用者註。

*6:私見では、現在60歳を中心としてプラスマイナス10歳くらいの年齢層の読者には、他の年齢層と比較して本作のトリックを見破れる人が多いのではないかと思う。私は幸か不幸か、彼らと同じ範疇に属する人間ではなかったためにトリックに気づけなかったが。

*7:うこんこう。チューリップのこと=引用者註。

*8:有名な某作品よりも、その数年前に書かれたさる冒険小説に近い。私はハヤカワ文庫で、冒険小説だから大丈夫だろうと思って解説から読んだらネタバレが書いてあったので、またしてもやられてしまった(怒)。クリスティは冒険小説にもあのネタを仕込んでいたのだった。

*9:大坪直行氏(1935-)が書いた角川文庫版の解説は、横溝正史存命中に書かれたと思われる文面なので、1973年の角川文庫初出時に掲載されたままの文章だと思われるが、本作のほか、他の横溝作品のネタバレまで書いてあった。あの三文字のタイトルの横溝作品がそうだということはクリスティ作品を読んだあとのネット検索で知っていたし、そもそも当該の横溝作品を読みたいとは全く思わないから私にはどうでも良いのだが、多くの読者にとっては迷惑千万な話だろう。大坪氏の解説は本作のネタバレもやっている。昔の文庫本にはこういう解説文が多かった。今回この解説文を先に読まなかったのは正解だった。

クロフツの倒叙推理の名作『クロイドン発12時30分』とアガサ・クリスティの某作を立て続けに読んだら、トリックがそっくりだった(驚)

 19〜20世紀に推理小説の本場だったアメリカとイギリスで、20世紀半ば頃の日本の「本格推理小説」が「静かなブーム」とのことだ。

 

www.newsweekjapan.jp

 

 日本の「本格推理小説」の開祖は江戸川乱歩で、1923年に発表された「二銭銅貨」がその記念すべき第一作らしい。私はこの作品を小学生時代に子ども向けにリライトされたポプラ社版で読み、結末の「ゴジャウダン」に強い印象を受けた。少し前の時代まで使われていた旧仮名遣いに時代の断層を感じた。

 結局私は「本格」のファンにはなり損ねた。乱歩や横溝正史に行き着く前に、英米のミステリを制覇しようとしていたが、しばしば文庫本の解説文でネタバレを食らったり、あげくの果てには読んでいた最中の『アクロイド殺人事件*1を中学校の級友にネタバレされた。このあたりから徐々に脱落し、その後も時々はエラリー・クイーンヴァン・ダインを読んだりしたものの、大学に入って以降は海外作品も日本の「本格」も読まなくなった。

 それが2013年から松本清張を読むようになり、2014年には河出文庫版でホームズ全集を全部読み、今年に入ってアガサ・クリスティをこれまでに27冊読んだ。歳をとったので、人生の忘れ物だか落とし物だかの回収を始めたといったところか。しかし横溝正史に対しては相変わらず「食わず嫌い」を続けているし、江戸川乱歩は短篇集を1冊読んだものの、他の乱歩作品も読みたいとはあまり思わなかった。東野圭吾の『容疑者Xの献身』にはもののみごとに騙されるとともに、作品の反倫理性に腹を立て、東野作品を批判的に20冊ほど読んだが、2010年代に入っての東野作品にみられる創作力の著しい低下と、『容疑者X』の頃からいっこうに改善されない反倫理性を見届けて、これ以上東野の愚作群を相手にすることもないかと思って離れた。

 しかしクリスティの作品は相変わらず読んでいる。そして、図書館の棚にはクリスティの近くにクロフツの『樽』が時々置いてあった(しばしば借り出されていて見かけないことも多かった)。この作品が本格推理小説の代表格であるらしいことは古い記憶にあったが、なにぶん創元推理文庫はハヤカワの「クリスティー文庫」と違って字が小さい分ハードルが高かった。しかし仕事が一段落した時点で図書館の棚にあったので、このタイミングでなら読めるかと思い、借りて読んだ。2013年に霜島義明訳で刊行された新訳版だ。

 

www.tsogen.co.jp

 

 読んでみると結構面白かった。

 この作品はクリスティの処女作『スタイルズ荘の怪事件』と同じ1920年に書かれたが、これがクロフツの最高傑作とされている。シャーロック・ホームズの流れを汲む天才的な名探偵エルキュール・ポワロ(ポアロ)が活躍するクリスティ作品とは対照的に、クロフツ作品は「足で稼ぐ」地道な捜査で事件の解決に至るのが特徴だそうで、第5作以降ではフレンチ警部が謎解きを行うが、『樽』にはまだ出てこない。『樽』では最初にイギリス、のちにはフランスの警視庁の刑事たちが捜査を重ねて容疑者を逮捕するが、序破急の「急」にあたる第3章に私立探偵が登場し、英仏の警察官たちが犯した誤りを改めて真犯人を突き止めるストーリーだ。

 本作には疑わしい人物が2人しか出てこず、話の流れからいって片方の容疑は冤罪であってもう1人が真犯人であることは明白だ。しかもこの人物は、クリスティ作品でさんざんおなじみの「人妻が殺された時には夫を疑え」という鉄則に当てはまる。結局興味の焦点はアリバイ崩しだけであり、これには結構時間がかかるが結局は突き止められる。このあたりの物語の進め方は松本清張の『点と線』を思い出させる。『点と線』は、私を含む今の読者なら、いくら1950年代だといったって犯人は飛行機を使ったに違いないじゃないかと思うのに、刑事たちはそんなことさえなかなか気づかずに時間を浪費するが*2、同様のまだるっこさがクロフツの『樽』にもある。おそらく清張はクロフツから強い影響を受けたのだろう。

 結局クロフツは病気療養中に書いた処女作『樽』を上回る作品は、職業小説家となってからは書けなかったといわれている。しかし日本ではクロフツ作品、ことに『樽』の人気が戦前から異様に高かったようだ。下記は雑誌『新青年』1937年新春号に発表された「海外探偵小説十傑」へのリンク。

http://www.green.dti.ne.jp/ed-fuji/column-sinseinenbest10.html

 

 江戸川乱歩横溝正史、それにコナン・ドイルの作品の翻訳で知られる延原謙らの大家たちを含む26人が選んだ「十傑」の総合5位に『樽』が位置づけられている。モーリス・ルブランの『813』の6位、ドイルの『バスカービルの犬』の7位を抑える人気ぶりだ。なお1位はルルウ(ガストン・ルルー)の『黄色の部屋』、以下ベントリー『トレント最後の事件』、フィルポッツ『赤毛のレドメイン家』、ヴァン・ダイン『グリーン家殺人事件』と続く。ヴァン・ダインは8位にも『僧正殺人事件』がランクインし、9位にクリスティの『アクロイド殺し』が挙がっている。10位にはシムノン『男の頭』、コリンズ『月長石』の2作が並んでいる。どちらを落とすのも惜しいということだろうか。

 面白いのは、エラリー・クイーンの『Yの悲劇』を挙げた人が1人だけ(井上良夫)いたが、作者名が「ロス」となっていることだ。当時この作品を含むドルリー・レーンを探偵役とする四部作は「バーナビー・ロス」という覆面作家が書いたことになっていたが、この特集が組まれた1936年の段階ではまだその正体が明かされていなかったらしい。しかし、総合十傑には入らなかったものの、クイーン作品を挙げた人たちは多かった。それ以上に目立つのがヴァン・ダインであって、このダインとクイーン、それにクロフツらが偏重されたところに日本における推理小説受容の特徴があったように思われる。

 これらの作家に共通するのは、つまり異常なまでにパズル解きにこだわった「本格」指向だ。一方で、探偵小説あるいは推理小説のカテゴリに入るのかどうかと思われるルブランのアルセーヌ・ルパンものの人気も高いが、これは「本格」の論議からは離れてしまうのでこれ以上突っ込まない。

 周知の通り、ヴァン・ダインは『アクロイド殺し』をアンフェアだとして弾劾した。前記「十傑」の選者の中にもクリスティ忌避を明言した人がいる。井上英三がその人だが、彼は1,2位にヴァン・ダイン、5位にエラリー・クイーンを選んで、4位にクロフツの『樽』を挙げている。当時の日本での「本格」偏愛の代表格といえるかもしれない。

 1937年当時にはエラリー・クイーンの人気はまだそれほどでもなく、それはおそらく「この一作」という代表作を選びづらい作家だったからだと思われるが、レーン四部作の作者ロスの正体がクイーンであることが明かされてからは、『Yの悲劇』こそクイーンの最高傑作であるばかりか、古今の推理小説中の最高峰と目されるようになった。但し日本では。本家のはずの英米では決してそんなことはなかった。かなり以前からダイン、クイーン、それにクロフツらの人気は衰えていたと思われる。それが証拠に、イギリスでの推理小説のベスト100には、この3人の名前はない。ダインとクイーンはアメリカの作家だからないのかもしれないが、イギリスの作家(但しアイルランド系)であるクロフツの名前もない。

 そんなクロフツが、少なくともある時期までは日本でかなりの人気を博していた。図書館には『樽』のほかに『クロイドン発12時30分』(1934)も置いてあって、これは2019年に創元推理文庫から出た新訳版だった。訳者は前述の『樽』と同じ霜島義明。

 本作はフランシス・アイルズ*3の『殺意』(1931)、リチャード・ハルの『伯母殺人事件』(1934)と並んで「倒叙三大小説」の一つに数え入れられるらしいが、これはエラリー・クイーンが言い出したものらしく、いずれも1930年代の作品で、「倒叙形式」との呼称から通常想像されるかつてのテレビドラマ『刑事コロンボ』のように、冒頭に犯罪の場面が描かれたあとに、捜査側が犯行を暴くプロセスが興味の中心となるストーリー進行ではなく、犯人の視点で物語が延々と進み、最後に犯行が露顕した理由が明らかになる。少なくとも本作はそうだし、ネット検索で知る限り他の2作も同様と思われる。つまり1930年代にはそういう作品が「倒叙形式」のミステリとされていたようだ。松本清張の短篇「捜査圏外の条件」(1957)も同様の形式だ。つまり『刑事コロンボ』を境に倒叙形式の主流が変化したのではないかとの仮説を私は立てた。

 前記「倒叙三大小説」の人気は現在ではかなり廃れており、『クロイドン発12時30分』も創元推理文庫版の解説(神命明)によると「ここ十年ほど入手困難な状態が続いてい」たとのことだが、本作は非常に面白かった。本作を読む前は、クロフツは『樽』の評判ばかりが高いので、同じ年に処女作を出したアガサ・クリスティと違って処女作ではクリスティを上回りながらその後は大したことのない作家だったのではないかと疑っていたが、その偏見を見事に払拭してくれた。本作はハヤカワのクリスティー文庫とは違って字が小さいのでとっつきが悪そうだが、読み始めると(もちろんクリスティほどではないが)結構快調に読める。しかも、後述のようにクリスティの某作が本作のトリックを借用したのではないかと疑われるのだ。私はたまたま両作を立て続けに読んだので、当該クリスティ作品の謎解きの場面に唖然とした。これってまんま『クロイドン』じゃないかと。あらかじめおことわりしておくが、当該の借用が疑われる作品のほか、多くのクリスティ作品のネタバレを本記事の後半に書くので、それを知りたくない方はここで読むのを止めておかれたい。

 クロフツ作品の話に戻ると、『樽』もそれなりに面白かったが、前述のように犯人候補は2人しかおらず、しかもどちらが犯人かは見誤る人などいるまいと思われるくらい明々白々であり、その場合犯行の動機も同様に明白なので、三部構成の第二部で次々と明らかになる「新たな目撃情報」も犯人がもう一人の犯人候補に罪をなすりつけるための工作であることは物語の中盤にはすっかり想像がついてしまう。解説などには、女性の死体が入れられた樽が見つかるまでの第一部の冗長さが指摘されていたが、私は逆に捜査、ことに英仏の警察が協働してもう一人の犯人候補誤認逮捕してしまう過程が冗長だと思った。

 一方、『クロイドン発12時30分』は最初から犯人が明かされ、犯行過程も丁寧に描かれているので「そんなわかり切ったことがなぜわからないのか」とイライラさせられることもない。心理劇としてすぐれており、1929年に始まった大恐慌における企業や農場経営などの苦境を描いた経済小説としても面白く、何よりリアリズムを重視したミステリとはこういう作品のことをいうのかと感心させられた。犯人が逮捕されてからの法廷の場面が結構長いことは、大岡昇平の『事件』(1977)を思い出させた。大岡は松本清張と論争を展開したこともあるミステリ愛好家だったが、1978年に創元推理文庫からの「私の勧める7冊」と題したエッセイを書いていて、その筆頭にクロフツの『樽』を挙げている。

 

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 リアリズムを重視するクロフツの作風が大岡昇平の『事件』に大きな影響を与えたことは間違いないだろう。ここらへんは今の日本の作家、たとえば東野圭吾に『禁断の魔術』というクソ小説などとは全く違うところだ。この作品には悪の権化のような政権与党の政治家が出てきて、そいつが命を狙われながら生き延びてしまうのだが、某読書サイトを見ていたら、そいつが死なずに済んで「憎まれっ子世にはばかる」結末にしたことは東野がリアリズムを重視する作家だからだ、などと書かれたクソ感想文を見て激怒した。この小説は、強烈な破壊力を持つばかりか高電流を流すために取り扱いも危険極まりない「レールガン」という実用化されていない兵器技術を、シリーズの探偵役である大学の物理学教授が高校生に教え、後年に姉の死をきっかけに入ったばかりの大学を退学したその元高校生が姉を見殺しにした悪徳政治家に「レールガン」で復讐しようとする話だ。弊ブログで以前にこき下ろした通り、設定そのものが荒唐無稽であってリアリズムなど欠片もない。ただ悪徳政治家が死なずに済むところだけがリアリスティックであっても何の意味もないのである。こんなクソ小説をもてはやして東野を「大御所」に担ぎ上げてしまっているのが現代日本のミステリ読者たちだ。寒心に堪えない。

 一方、クロフツの『クロイドン発12時30分』では犯人が毒殺に用いたシアン化カリウム(青酸カリ)の入手に苦労したり(当時のイギリスでも薬局は簡単に売ってくれなかった)、毒物を混入した錠剤を作ったりする経過が丹念に描かれる。購入したシアン化カリウムは粉体なので、バインダー(結着剤)を混ぜて固めなければならない。そうした経緯を丹念に描くことこそリアリズムだと私は思う。一発弾丸を発射してしまったら兵器を構成するレールの金属の一部がプラズマ化してしまうためにメンテを必要とし、そのために大国が兵器としての実用化を未だにできずにいる「レールガン」を大学教授が高校生に学園祭の出し物として教えるなどという、リアルからかけ離れたクソ小説を書くクソ作家のどこにリアリズムがあるというのか。

 東野圭吾とその読者たちへの悪口はこれくらいにして、後半のクリスティ作品の話に移る。

 大岡昇平クロフツが好きだったが、坂口安吾はオーソドックスにエラリー・クイーンアガサ・クリスティを愛好していた。クリスティの作品は、ポワロものを成立順に読んでいると、超有名な『アクロイド殺し』などを例外として似たような話が多いと最初は思っていたが、似たような話を続けざまに発表しながら、長い目で見ると傾向が徐々に変化して行っていることに少し前から気づいている。たとえばポワロものの第6作『エンド・ハウスの怪事件』(『邪悪の家』)と第7作『エッジウェア卿の死』とは双子のようにそっくりな構成の作品で、ともにお節介なハヤカワのクリスティ文庫の裏表紙に書かれた短い作品紹介文を読んだだけで犯人がわかってしまうが、第7作『エッジウェア卿の死』は第9作『三幕の殺人』とも密接な関係がある。『三幕の殺人』は『エンド・ハウスの怪事件』とも面白い共通点があるが、両作の距離は『三幕の殺人』と『エッジウェア卿の死』との距離より少し遠い。そして有名な第11作の『ABC殺人事件』は、読後すぐに、ああ、この作品は『三幕の殺人』のアイデアを発展させたものだと気づかされる*4。『ABC殺人事件』は第13作『ひらいたトランプ』と相互言及の関係にあり、物証に乏しく容疑者たちの心理面から犯人当てをさせる趣向にも共通点がある。そして『ひらいたトランプ』とより密接な関係があるのが第14作『もの言えぬ証人』(1937)だ。『ひらいたトランプ』のアイデアはまた、『アクロイド殺し』と並び称されるクリスティの二大傑作『そして誰もいなくなった』にも発展した。こうして、あのたわいもない『エンド・ハウスの怪事件』が変容を重ねたあげくに『そして誰もいなくなった』に行き着く。両作の内容がかけ離れていることはいうまでもない。クリスティ作品を成立順に続けて読むことには、山脈の縦走にも似た面白さがある。

 だがさすがにミステリはクリスティしか読まないというのではあまりにも芸がない。私がクロフツの『クロイドン発12時30分』の次に読んだのが、前述のクリスティの『もの言えぬ証人』だった。コントラクトブリッジの点数表から犯人を当てるという趣向の『ひらいたトランプ』に続いて、本作も物証がなく登場人物たちの心理から犯人を当てさせる作品だ。被害者の死に方や、登場人物に医者が多いことから、明示はされていないものの犯行手段が毒殺であることを疑う人は誰もいないだろう。

 この作品は長いし、夏の疲れがかなり溜まっていたので、普段はネタバレを恐れて滅多にやらないのだが、解説文(直井明氏執筆)を先に読んでしまった。そこには「この作品で使われた毒がめずらしい」などと書かれている。ああ、またデビュー作の『スタイルズ荘の怪事件』に続いて、誰も知らないような毒物を用いた作品なのか、クリスティの悪い癖だよなあと思ったが、実はこの解説文こそ最大のミスリードだった。迷惑千万な話である。エルキュール・ポワロに種明かしをされてみれば、その毒物と毒性は、私が中学生時代から知っているものだった。ただ、その物質は確か反応性が非常に強いはずだから、そんな犯行が現実的に可能なのだろうかと思った。その点が、青酸カリを錠剤にしたクロフツとは大いに違うところだ。どうせネタバレをやっているのだから書いてしまうと、その毒物はリンだ。リンには黄リン(白リン)や赤リンなどがあって、猛毒なのは黄リンだが反応性がきわめて高く、酸素と反応してすぐに発火してしまう。また赤リンは化学的に安定しているが無毒だ。有機リン化合物の中には毒物があるが、作品に描かれたリン中毒の症状はまさしく無機のリンによる中毒であって、有機リン化合物による中毒ではない。

 謎解きの場面でポワロは、「外国製のマッチでも、殺鼠剤でもよい。燐を手に入れるのはいたって容易なことです」(ハヤカワ文庫版492頁)と言っている。しかしこれは現在には当てはまらない話だ。私はこのくだりを読んで、えっ、マッチに使われているリンは無毒の赤リンなんじゃなかったっけ、と思ったが、Wikipediaを参照すると、かつてはマッチに黄リンが使われて中毒がよく起きており、1888年にはロンドンの工場で「マッチガールズ・ストライキ」が起きたらしい。その後1906年の国際会議で黄燐使用禁止の条約が成立して欧米各国が批准したが、マッチが主な輸出品の一つだった日本は批准しなかった。但しそんな後進国・日本でも1921年にはようやく「黄燐燐寸製造禁止法」が公布・施行された。このような経緯だから、『もの言えぬ証人』が書かれた1937年にはイギリスで「黄燐マッチ」が使われることはなかったようだが、「外国」では黄リンの入手は比較的容易だった。また、下記「コトバンク」によると、日本では第二次世界大戦前は殺鼠剤として8%の黄リン製剤である「猫いらず」が主に用いられたという。つまり戦前の日本でも黄リンの入手は比較的容易だった。

 

kotobank.jp

 

 つまり、『もの言えぬ証人』が書かれた1937年には、当時から先進国だったイギリスはともかく、「外国」では黄リンの入手は比較的容易だった。だから、犯人は何も医者のような高度の専門知識をもつ人間である必要はなく、素人にも十分可能だった。だからポワロは「ある程度の知識を必要としますが、大して深い知識はいりません。燐中毒のことなんか、すぐわかることですし、燐自体も簡単に手に入るものです。特に外国だったら……」(ハヤカワ文庫版494頁)と言ったのだ。ところがそんなありふれた毒物であるリンを、解説の直井明氏(1931-)は「めずらしい毒物」と書いた。だから解説がミスリードになっていると私は言うのである。

 そして犯人は「めずらしい薬物」という言葉から連想される医者ではなく、外国在住の素人のイギリス人女性だった。彼女はリンを被害者の薬のカプセルに入れて、それを薬壜に入れ、いつかはそれを飲んで死ぬだろうと当て込んだのだった。

 この手口は、錠剤とカプセルの違いこそあれ、クロフツの『クロイドン発12時30分』と同じだ。クロフツ作品は1934年、クリスティ作品は1937年の成立だから、クリスティはクロフツのトリックを借用した可能性が高いと思われる。

 『もの言えぬ証人』に、キャロライン・ピーボディという名前の老嬢が登場するが、キャロライン*5という名の老嬢として直ちに思い出されるのは、かの『アクロイド殺し』だ。また、このピーボディという姓の人間は『クロイドン発12時30分』にも出てくるが、こちらは犯人に青酸カリを売った薬局の人間(男性)だった。ただ、キャロライン・ピーボディの命名にクリスティがそうした意味を込めたかどうかは明らかではない。

 しかし、『もの言えぬ証人』にはポワロものの過去作品の犯人の名前をポワロが4人も口にする場面があり、その一人が『アクロイド殺し』の犯人だ。この4人に共通する特徴は、『もの言えぬ証人』の犯人像とは全く異なるもので、クリスティが読者をミスリードしようとして出してきたものだが。そして、ポワロは最後に犯人に自殺を強く勧め、その通り犯人は自殺する。このあたりも『アクロイド殺し』と同じだ。そもそも、登場人物に3人も医者が出てくる。クリスティ作品の犯人には美女と医者が多い。

 一方で、犯人が鏡像を目撃されたブローチから、犯人のイニシャルが「A・T」ではないかと読者に強く疑わせてもいる。このほのめかしは結構強烈だ。鏡に映ったイニシャルが「T・A」であり、登場人物の中にテリーザ・アランデルという女性がいるのだが、犯人はこの人ではなく、鏡に「T・A」と映ったということはブローチのイニシャルは「A・T」のはずで、登場人物一覧を見ると「A・T」はいないけれども姓が「T」で始まる人物は2人おり、そのうち女性は1人しかいない。その人物のイニシャルは「B・T」だが、BはAで始まる本名の愛称ではないかとは多くの人が思ったことだろう。私は疲れていたので、普段なら「ベラ」は何という名前の愛称なのだろうかと「ベラ 愛称」でネット検索をかけ、アラベルやアラベラの愛称であることを突き止めたはずだ。

 

ejje.weblio.jp

 

 今回はそれはやらなかったが、ああ、「ベラ」の正式名称はAで始まり、この「ベラ・タニオス」が犯人なんだろうなとは思った。この手の愛称のトリックをクリスティは『エンド・ハウスの怪事件』でも用いている。それに、この人物はそこまで読んできて私が犯人の第一候補に挙げていた人物だった。なぜなら、それまであまり言及されなかったうえ、仮に被害者が何も遺言状を残していなかった場合には遺産の半分を受け取れるはずだったのに、最初の遺言状によって3分の1にされ、(犯人が犯行時には知らなかった)二度目の遺言状によってゼロにされてしまった立場の人間だ。そして、二度目の遺言状で遺産の大部分をもらえるはずだった家政婦に、主要な登場人物の中でただ一人すり寄ったのがこの「ベラ」だった。とはいえ、私は100%ベラが犯人だろうとまでは思っていなくて、『スタイルズ荘の怪事件』をはじめとして、クリスティがよくやる「いちばん怪しい人物が犯人」というパターンなら、チャールズ・アランデルも怪しいな、などと二股かけていたのだった。しかし、ベラの夫であるギリシャ人医者のジェイコブ・タニオスは全く疑わなかった。その最大の理由は、詳しくは後述するが、作中でクリスティがギリシャ人などの外国人に偏見を持つ「イギリス人の島国根性」を散々こき下ろしていたからだ(同様の記述は前作の『ひらいたトランプ』にもあった)。「中韓ヘイト」が横行する現在の日本で、作者がそういう風潮に苦言を呈しておきながら、真犯人は韓国人医師だったなどという結末にするはずがないだろう*6

 しかし、クリスティが終盤に力業を発揮する。全力で、ジェイコブがベラに危害を加えようとし、ポワロがベラを逃がそうとしているかのような展開を繰り広げるのだ。だがそれはフェイクであって、実はポワロが守ろうとしていたのはギリシャ人医師のジェイコブだった。ポワロは第二の殺人を犯そうとしていたベラからジェイコブを守り、ベラに「私は真相を知っている」と思い知らせて自殺に追い込んだのだった。このあたりはさすがに手練れのクリスティらしく、ベラ(かチャールズ)を疑っていた私は何が何だかわからないままに引き回され、その勢いに負けて、ついにはポワロは本当にベラを守ろうとしているのかと思ってしまった。結局種明かしの場面で「やっぱり最初に思った通りだったか」という結末に終わったとはいえ、ベラが真犯人だろうという自分の推理に十分な自信が持てなかったために、作者のミスリードにつけ入られてしまった。だから、本作の犯人当てについては50点か60点程度の自己評価しかできない。もしかしたら、私がベラ犯人説に自信を持ちきれなかったのは、殺害に「めずらしい毒物」が使われているという直井明氏のミスリードが一因だったかもしれない。

 で、本作の興味の焦点はトリックでは全くないのだが、クロフツの『クロイドン発12時30分』と全く変わらないトリックが用いられていたことを知った時には目が点になってしまったのだった。

 そういえば、作者のクリスティが強調していないために気づいていない読者が多いようだが、ベラは主要な登場人物というか、遺言状の変更が明らかになる前に遺産を受けとれるはずだった4人の中ではただ一人、殺人が起きたと思われる時点で現場にいなかったというアリバイを持っていた。これは『クロイドン発12時30分』の犯人・チャールズと全く同じだ。ポワロは謎解きの場面でさりげなく「(仮に毒殺の疑いが)生じたにしても、彼女自身はマーケット・ベイシング(殺人が起きた小緑荘の所在地=引用者註)をはるか離れたところにいる、というわけです」と説明している。もっとも、クロフツ作品の探偵役であるフレンチ警部は「アリバイがある人間ほど怪しい」と言い、真犯人が毒殺現場(『クロイドン』では航空機の機内)にいなかったどころか、長い船旅に出ていたことを、彼を強く疑った理由に挙げている。だから、この事件を捜査したのがポワロではなくフレンチ警部であっても、必ずや真犯人を突き止めたに違いない。もちろんフレンチ警部の場合は犯人に自殺の強要などしなかっただろうが。

 しかしクリスティの『もの言えぬ証人』もクロフツの『クロイドン発12時30分』も、ともにトリックに重きを置いた作品ではない。ともに犯人らのクロフツ作品はそもそも倒叙ものだし、クリスティ作品は毒殺がリンによることのヒントは、被害者の息から霊媒がエクトプラズマと誤認した燐光を発したことで与えているが、被害者の薬壜に入っているカプセルの中身を入れ替えたことに関するヒントは一切与えていない。あるいは、同じトリックを用いることでクリスティが同年の作家デビューではあるが11歳年上のクロフツに敬意を表したものかもしれない。

 読書サイトでクリスティ作品の感想文を読んでいると、本作に限らず『アクロイド殺し』その他でも、ポワロが犯人を自殺に追い込むことを批判する者がよくいる。しかし、以前にも書いたと思うが、それは死刑制度と切り離せない関係にある。かつてのイギリスでは人を一人殺せば絞首刑だったから、絞首刑になるくらいなら遺族らに迷惑をかけないために自殺しろと探偵が勧めることにもそれなりの言い分が生じる。現在のイギリスのように、死刑制度が廃止された国であればポワロもそのような行動はしなかったのではなかろうか。このことを、死刑制度を8割以上の人が支持しているとされる日本にあってクリスティ作品を読む人はどう考えているのかと私は問いたい。自殺勧告が許されないことだとするなら、国家による殺人である死刑も許されないという立場でなければならない。これが私の主張だ。

 

 『もの言えぬ証人』は結構「穴の多い」作品だ。前記解説文の直井明氏は、シリア・フレムリンという人が書いた「誰でも知っていたクリスティー」という評論文を下記のように引用している。

 

「いったいどこの誰が、夜の夜中、開けっぱなしの戸口から数フィートと離れていないところで、金槌と釘とニスとを使ったりするだろうか? それに、女性は化粧着姿のとき大きなブローチをつけたりするものだろうか?」(金井美恵子氏訳)と言われた理路雑然とした事件であった。(ハヤカワ文庫版515-516頁)

 

 「理路雑然とした事件」とはえらい毒舌であって、自らも平然とありふれた毒物を「めずらしい毒物」と書いてしまうような人がよくそんなことを言えるようなあと思わなくもないが、確かにあまりも無防備ではある。それに加えて私は、鏡に「T・A」というイニシャルが映った時、いくら寝ぼけ眼だったからといって、その人のイニシャルが鏡像関係にある「A・T」ではなく「T・A」だと思うだろうかと、それにも疑問を持った。ところがポワロの無能な相棒であるアーサー・ヘイスティングズはポワロが作った「H・A」のブローチの模型(厚紙を切り取ったもの)をつけた自らの姿を鏡で見て、自分のイニシャルである「A・H」が映っていると言い、あとで実物を見て「あきれた! よっぽどばかだなあ、ぼくは! ブローチのイニシャルはH・Aじゃないか。A・Hだとばかり思ってた!」(ハヤカワ文庫版440頁)と宣うのだ。私は、ヘイスティングズってどうしようもない馬鹿だなと思うと同時に、本当にみんな家政婦のミス・ロウスンやヘイスティングズのような間抜けばかりなのだろうかと大いに疑問を持った。

 しかし、このように本当に「理路雑然」としているし、しきりに『アクロイド殺し』を連想させる場面が多いうえ、トリックをクロフツの作品から借用していると思われるという問題の多い作品であるにもかかわらず、本作は不思議と印象に残る。それは、犬好きだったクリスティが被害者の愛犬・ボブによるところも少なくないけれども、何より若い頃には「無邪気だが鼻持ちならないイギリス帝国主義者」との印象が強かったクリスティのものの考え方が、この作品当たりになるとはっきり変化してきていることがはっきりわかることにもよる。

 以前弊ブログに公開した記事で、ミス・マープルものの長篇第3作である『動く指』(1943)について同様のことを指摘した記憶があるが、同作に見られたクリスティの思想の変化は、1937年の『もの言えぬ証人』やその直前の『ひらいたトランプ』に既に表れていた。これらの作品でクリスティは、少なくないイギリス人に見られる「外国人に対する島国根性的な偏見」を批判している。かつてはどうだったかといえば、『エンド・ハウスの怪事件』(1932)ではクリスティ自身がオーストラリア人に対する偏見をむき出しにしていた。クリスティは中国をはじめとして日本をも含む極東に対する偏見もはなはだしかったが、『動く指』では語り手とのちに結婚する恋人*7の2人が中国の水墨画を気に入る場面がある。再婚した夫と何度か中近東を訪れたことで、クリスティの考え方に変化が生じたものだろうか。これは好ましい変化だといえる。何度も引き合いに出すが、反倫理的な『容疑者Xの献身』で大成功して以来、反倫理性には変化がないのに作品は退化する一方という、現代日本の凋落を象徴するかのような東野圭吾とはまさに対極的だ。

 『もの言えぬ証人』では、かつて『ゴルフ場殺人事件』で「極悪人の娘は極悪人」という偏見をむき出しにして私を失望させた、その悪しき偏見を改めてもいる。『動く指』にも同様の例があるが、本作はそれより早い例だ。容疑者候補にされたチャールズとテリーザの兄姉は、ともに元殺人容疑者にして裁判で無罪になった女性の子だが、「悪人の子は悪人」の悪役を免れた。テリーザは事件後に恋人の医者と結婚するし、兄貴は相変わらずの自堕落ではあるが、妹が真犯人ではないかと疑いながら、妹から嫌疑をそらさせようと嘘をつくなど、(良いことかどうかはともかく)思いやりのあるところを見せる。

 そして、クリスティ自身が読者に「犯人ではないか」と思わせたがってミスリードにミスリードを重ねたギリシャ人医師のドクター・タニオスが、ポワロによる謎解きが終わって、真犯人だったことが明かされた自らの妻であるイギリス人のベラが自殺して果てたことについて、「あれはわたしにはよすぎるほどの女でした――いつでもそうでした」と呟いた(ハヤカワ文庫版508頁)。この長篇を最後に、次には『カーテン』までご無沙汰になる(無能な)ヘイスティングズは、「それは自ら罪を認めたあの殺人者にはちょっと思いがけない墓碑銘であった」(同)と評した。エピローグの直前に置かれたこの2行は、穴が多すぎるよなあと思っていたこの作品の最後にあって、意外なほど強い印象を残すものだった。クリスティはこの2行に、排外主義に凝り固まったイギリス人読者たちに対して、言いたいことは言い尽くした、その最後を締めるとっておきの決めゼリフだったといえようか。読書サイトを見ると、本作にはクリスティ後期の作風への萌芽が見られると評した人がいた。本作以降のクリスティ作品は、本作の直後に書かれた有名な『ナイルに死す』(1937)は既に読んだけれども、それ以外は前述の『そして誰もいなくなった』、『動く指』に加えて『ポケットにライ麦を』(1953)を読んだだけだ。クロフツも、あるいは他の古典の名作とされるミステリももっと読んでみたいけれども、クリスティとは長い付き合いになりそうだ。

*1:アガサ・クリスティ作『アクロイド殺し』の中村能三訳新潮文庫版(1958)のタイトル。

*2:ちなみにクリスティは1935年に『雲をつかむ死』(『大空の死』)で飛行機内での殺人事件を描いている。この作品には、客席から気圧の低い外気に通じる穴がある設定になっているという疑問があるが。

*3:本名アントニー・バークリー・コックス(クリスティの『ABC殺人事件』を思い出した)で、「アントニー・バークリー」の筆名で多くのミステリを出していたとのこと。『殺意』はフランシス・アイルズ名義での第一作。エラリー・クイーンがバーナビー・ロスの筆名を使って4部作を出したのと同じようなことをやったわけだ。

*4:ABC殺人事件』は図書館に古い新潮文庫版(1960年の中村能三訳。1989年改版)があったのでそちらを読んだが、ハヤカワのクリスティー文庫の解説に『ABC殺人事件』と『三幕の殺人』との関係が指摘されていたそうだ。『三幕の殺人』を読む前にクリスティー文庫版の『ABC殺人事件』を読まずに済んで、本当に良かった。なお2013年以前には推理小説を読む週習慣を数十年間失っていた私は、ファンの間では有名であるらしい「ミッシングリンク」だの「ABCパターン」だのは全く知らなかった。高校生の頃に『ABC殺人事件』の講談社文庫版を買ったものの、当時の私は中学生時代に『アクロイド殺人事件』(中村能三訳の新潮文庫版)を読んでいる最中に級友からネタバレを食らったトラウマから脱することができず、『ABC殺人事件』も『アクロイド』ほどの作品じゃないんだろ、と思うとどうしても読み始める気が起きず、読まないまま文庫本を手放してしまったのだった。だから、何も知らない状態で『ABC殺人事件』を読むことができた。読書サイトを見ると、有名な少年漫画『名探偵コナン』にこの小説のネタバレをやらかしている回があるとのことで、その被害に遭った読者が大勢いるとのことだ。深く同情する。しかし、「ABCパターン」は類似の作品を含めて知らなくても想像はついた。なぜなら前述の通り『三幕の殺人』にアイデアの萌芽があるし、3件目の殺人がその前の2件とは性格を異にしていること読みながらすぐに気づいた。しかしそこまで気づいていながら犯人を当て損ねたのは痛恨だった。敗因は、過去のクリスティ作品での犯人との類似性や、物語の最後にあるカップルをどう成立させるかなど、つまらないことを考えて犯人の候補を広げてしまったことだ。種明かし直前のポワロの謎かけで真犯人に気づいたと思い、実際その通りの犯人だったが、それも推論が全然違っていて、結果的に当たっただけだった。素直に、これもクリスティ作品で犯人を当てようとする時の鉄則の一つである「動機」を考察しさえすれば簡単に犯人を推定できたはずだ、しまった、と種明かしをされてから臍を噛んだ。ただ、負け惜しみを言わせてもらえば、『ABC殺人事件』は確かに面白いけれども、『三幕の殺人』や『ひらいたトランプ』と同程度の作品であって、そんなに傑出した大名作とまではいえないと思う。

*5:イギリスの発音では「カロライン」に近いのではないかと思うが。

*6:もっとも私が忌み嫌う東野圭吾ならやりかねないが。東野は、ときに松本清張風の社会派的な味付けをするくせに、愛する女性のために罪のないホームレスを虫けらのように殺した極悪人が犯した殺人事件を「純愛」から発した「献身」の物語であるかのように書くという極悪非道の行いをやらかした(『容疑者Xの献身』)。断じて許せない。

*7:ミーガンという名前だが、『ABC殺人事件』に2人目の被害者の姉として登場する同名の人物を発展させたキャラクターだろうと思う。なお、以前の記事で指摘した通り、『動く指』は物語の構造としてはポワロものの『メソポタミヤの殺人』に酷似している。両作の舞台は全く異なるが。クリスティが意識的にこのような手法をしばしば用いることを『ひらいたトランプ』に登場する作家のオリヴァー夫人(クリスティの分身とされる。初登場はパーカー・パインものの短篇)が認めていたのを読んで、ニヤリとしてしまった。

2021年5〜7月に読んだ本; 吉見俊哉『東京復興ならず』/カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』/成長を続けたアガサ・クリスティと衰退の一途をたどる東野圭吾

 5月の連休明けからずっと忙しく、一昨年以来2年半の間、弊ブログを最低月1回更新してきた記録が途切れるピンチになった。そこで、このところ読んだ本(大半が小説で、うち半分以上がミステリだが)をいくつか取り上げて感想を軽くまとめてみる。

 まず、小説以外では2週間かけて少しずつ読み進めた吉見俊哉『東京復興ならず - 文化首都構想の挫折と戦後日本』中公新書2021)を読み終えたのは、東京五輪の開会式が行われた7月23日だった。著者は「もともとオリンピックシティ東京への批判」(本書295頁)として東京五輪開催が決まった2013年から企画を始めた本書をようやく今年4月に発刊したとのことだ。

 以下、中公のサイトから本書の紹介文を引用する。

 

東京復興ならず

文化首都構想の挫折と戦後日本

吉見俊哉

 

空襲で焼け野原となった東京は、戦災復興、高度経済成長と一九六四年五輪、バブル経済、そして二〇二〇年五輪といった機会のたびに、破壊と大規模開発を繰り返し巨大化してきた。だが、戦後の東京には「文化」を軸とした、現在とは異なる復興の可能性があった……。南原繁や石川栄耀の文化首都構想、丹下健三の「東京計画1960」など、さまざまな「幻の東京計画」をたどりながら、東京の失われた未来を構想しなおす。

 

出典:https://www.chuko.co.jp/shinsho/2021/06/102649.html

 

 「文化首都構想」とは言っても一筋縄ではいかない代物で、光の部分と影の部分がある。とはいえ「文化首都東京」が実現しなかったことは確かだ。ナオミ・クラインの「ショック・ドクトリン」をもじった「お祭りドクトリン」と著者が呼ぶところの1964年の東京五輪を契機に、東京は一極集中を強めて文化よりも経済の中心として巨大化していった。それが見直されたのが1970年代末の大平正芳政権時代で、大平は経済中心から文化中心へと重点を移そうと試みたが、1980年の衆参同日選挙の真っ只中の突然の死去によって、その試みを挫折した。再び経済重視の中央集権思考を強めたのが、1982年秋に田中角栄の力を借りて総理大臣についに成り上がった中曽根康弘であって、「民間活力の活用」、通称「民活」路線によるグローバル新自由主義路線を敷いた。1999年に都知事に就任しやがった石原慎太郎が言い出しっぺとなって執拗な招致活動が行われた「再度の東京五輪」は、1964年の夢よもう一度との意味の他に、1989年末から始まったバブル崩壊によって宙に浮いた臨海都市の開発に再度の弾みをつける「お祭りドクトリン」を狙ったものだったが、グローバル新自由主義が産んだ鬼っ子ともいうべき新型コロナウイルスに阻まれつつある。東京五輪は1940年のように中止にはならなかったが、2020年ではなく2021年に行われているが、大会期間中に感染が急拡大し、これまでで最多の新規陽性者数を記録しようとしている。

 アマゾンカスタマーレビューの数も少ないなど、あまり話題にはなっていない本のようだが、なかなか興味深く読んだ。

 あとは小説になるが、 1999年から2002年にかけて読んだアゴタ・クリストフの三部作である『悪童日記』、『ふたりの証拠』、『第三の嘘』(いずれもハヤカワepi文庫)を再読し、カズオ・イシグロの第6長篇にして、日本ではもっとも評判が高い『わたしを離さないで』(ハヤカワepi文庫)は初めて読んだ。

 後者は同じイシグロの『日の名残り』ほどには面白くなかった。ネタバレを避けるために内容は紹介しないが*1、イシグロ得意の「信頼できない語り手」の手法が用いられているとはいえず、誤読の余地が少なくエモーショナルな色合いが強い。イシグロ自身は本作では「信頼できない語り手」は使わず、ストレートな話者の一人称にしたと語っているようだ。その通りだと私も思う。またイシグロは本作がイギリスを舞台にしているにもかかわらず、自作の中でももっとも日本的な作品だと語ったとのことだが、なるほど、主人公たちが反乱を起こすでもなく運命を受け入れているあたりは「日本(人)的」かもしれないと思った。いずれにせよこの作品がイシグロの最高傑作であると仮にするならば、村上春樹も十分イシグロと張り合えるか、または村上の作品の方が良いのではないだろうか。ただ、村上には『日の名残り』は書けないだろう。私は『日の名残り』の方が『わたしを離さないで』よりもずっと良いと思う。ただ、弊ブログにも以前書いた通り、『日の名残り』は本邦では多くの読者たちに誤読されている。

 

www.hayakawa-online.co.jp

 

www.hayakawa-online.co.jp

 

 上記早川書房のサイトにも、読者を誤読に誘うような文章が掲げられているようだ。この煽り文では『日の名残り』はまるであの西岸良平の糞漫画『三丁目の夕日』みたいではないか。せめてこの小説を誤読しない程度には日本の読書家たちの読解力が改善されてほしいものだ。一言だけ書いておくと、『日の名残り』の主人公には、『わたしを離さないで』の主人公他の登場人物たちと同じくらいのエモーションの強度がある。それを「信頼できない語り手」が隠していることを読解できるかが読者の課題だ。

 あとはミステリ。多くがアガサ・クリスティで残りの少しが東野圭吾だが、東野圭吾がどんどん退歩する一方の作家であることを知ったのが、ガリレオシリーズ第8作の『禁断の魔術』(文春文庫)だった。この作品はまず短篇(あるいは中篇)として2012年に書かれ、のち文庫化に際して2015年に長篇に改められたという。

 

books.bunshun.jp

 

 本作は「理系ミステリ」とのことで、「科学技術の平和利用」がテーマのようだが、探偵役の湯川学がなぜか高校生に「レールガン」なる古典電磁気学を利用した兵器技術を教えたことが物語の発端になった。レールガンとは電磁気学ローレンツ力を利用した、主に兵器に用いられる技術だが、一発発射するとレールの金属がプラズマ化して損傷するなどメンテが大変なため、大国による軍事技術開発の長年の努力にもかかわらず実用化されていないようだ。

 大電流を流すために危険だし、どう考えても民生用の技術ではない。こんなものを本職の物理学者が高校生に教え込むという設定自体が「あり得ない」のだが、湯川学という名前の探偵役(「ガリレオ」)は、レールガンは人殺しのための技術ではないと主張する。それならなぜ「レールガン」という名前がついているのだろうか。

 以下はネタバレになるが、湯川から「レールガン」を学んだ高校生は卒業して大学に入るが、その途端に新聞記者だった姉が急死して大学を辞めてしまう。姉が死んだのは、彼女の取材の対象だった大物政治家との不倫の現場だったホテルで発作を起こしたところ、不倫の露見を恐れた大物政治家がホテルから逃げ出したために亡くなってしまったものだった。真相を知った弟は、レールガンを使って大物政治家を殺そうとする。小説は、湯川がそれを止められるかどうかの活劇を描いている。そこには推理の要素はほとんどないので、推理小説としての面白さは全くない。

 上記の筋立ては、私が愛好して止まない松本清張の短篇「捜査圏外の条件」の前半と瓜二つだ。清張の作品では犯人の姉ではなく妹が不倫の現場で見捨てられ、身元不明の死体になってしまった。犯人は、その復讐のために7年間自らの気配を消したのち復讐を遂げるが、妹が生前好んでいた流行歌「上海帰りのリル」から足がついてしまう。

 東野圭吾の「ガリレオシリーズ」では第5作(長篇では第2作)の『聖女の救済』が、1年間何もしないでやおら復讐を遂げる点で前記清張の「捜査圏外の条件」を連想させる。「捜査圏外の条件」は、前半部分で東野の『聖女の救済』に、後半部分で同じ東野の『禁断の魔術』に影響を与えている。東野自身、作家になる前に清張作品を愛読した時期があったらしいことを考慮すると、ここで指摘した清張の影響はまず間違いないだろうと私は考えている。

 しかし、清張と東野では結末が全く違う。清張作品では復讐を果たした犯人は殺人が露見して自殺するが、東野作品では自らが伝授した殺人技術によって復讐が成就することを阻止する。それで、姉を見殺しにされた若者は、復讐という名の殺人を犯さずに済んだ、良かった、良かった」というのが東野のコンセプトなのだが、果たして物語としてそれで良いのか。殺人未遂事件を起こした若者は逮捕され、その後の人生に明るい展望など描きようがないだろうし、昔総理大臣だった佐藤栄作を思わせる風貌の人物として描かれた政治家は、なんら罰を受けることなくのうのうと生き延びる。清張だったらこんなエンディングには絶対にしなかったはずだ。

 最悪なのは「ガリレオ」こと湯川学であって、私は湯川こそこの小説で一番の悪玉ではないかと思う。いうまでもなく、高校生に殺人兵器の技術を教え込んだからだ。湯川はこれを人殺しのための技術ではないと主張するが、「ガン」と名のついたこの技術が何に利用されるべきなのか、湯川は何も語っていない。これほど筋の通らない話はない。

 それに何より、本作は短篇あるいは中篇を引き延ばして改作した長篇であるせいか、文章が間延びしていて退屈する。ガリレオシリーズでは第3作(長篇第1作)の『容疑者Xの献身』が最悪の作品だと思うし、ブログ記事でもさんざんにこき下ろしてきたが、それでも読者を引きつける文章力があったし、トリックにはもののみごとに騙された。いわば、エネルギーは大きいがベクトルの向きがおかしな作品だった。

 しかし、『禁断の魔術』の間延びした文章にはいっこうに引き込まれない。エネルギー密度はスカスカで、ベクトルの向きは相変わらず間違っているという、取り柄が全くないミステリもどきになってしまった。東野圭吾は『禁断の魔術』を書いた50代には衰退の一途をたどっていたのではないか。

 その点は、「ミステリの女王」と謳われたアガサ・クリスティとは好対照だ。東野圭吾ノンポリであるのに対してクリスティは憎ったらしい保守派で、ことにデビューした1920年代前半の作品では、ヒロインがローデシア(現ジンバブエ)にある植民地主義セシル・ローズの墓参りをしたり(『茶色の服の男』)、犯罪者の子は悪人である可能性が高いとエルキュール・ポワロに言わせ、その通りの結末だったり(『ゴルフ場殺人事件』)、あげくの果てには「共産主義者アイルランド独立党と(イギリスの)労働党を横並びに一つの悪とみなしている箇所があって、これはいくらなんでもひどい」「政治音痴なところがある」と文庫本の解説者(杉江松恋氏)に酷評される始末だ(『秘密機関』)。ところが、こんな処置なしの人だったクリスティも、30年代、40年代(それぞれクリスティの40代、50代)と時代が進んで年をとるにつれ、若い頃の単細胞的な価値観に変化が生じる。たとえば、『動く指』(1943)は、その20年前に書いた『ゴルフ場殺人事件』と同じく、一人称の語り手のロマンスを盛り込んだミステリだが、『ゴルフ場殺人事件』で「犯罪者の娘は犯罪者」との偏見(あるいは差別思想)を臆面もなくひけらかしたのとは対照的に、語り手が「犯罪者の娘」と結ばれる。つまりクリスティは20年前に持っていた差別思想を事実上撤回している。このヒロインがなかなか個性的で、勉強は苦手でシェリーやワーズワースの詩やシェークスピアの戯曲はつまらない、でも『リア王』のゴネリルとリーガン*2は好きで、科目では数学が得意だという。おっ、と思ったのは、語り手とヒロインがともに中国の水墨画に感心する場面だ。若い頃のクリスティは、中近東だろうが極東だろうが見下す対象でしかなく、日本の「キモノ」はよく出てくるが良い描かれ方はしておらず、たいてい悪役が着ている。だから、クリスティ作品の登場人物が水墨画に感心するなんて、と思ったのだ。もっとも本作が書かれた1943年は第二次大戦中だから、当時のクリスティの日本観は推して知るべしだし、それは当然のことでもあるが。

 ただ、クリスティと東野圭吾を比較して思うのは、かつてのイギリスと今の日本という、ともに衰退国にありながら、クリスティの方は作品で試行を重ねながら自己の価値観や世界観も日々アップデートしている様子が作品から伝わってくるのに対し、30代後半から台頭して40代で大物にのし上がった東野圭吾は「犯罪者の家族は責任を負うべし」との思想を堅持するなど思考のアップデートが全く見られない上、決定的な成功を収めた作品で、愛する女性のために罪のないホームレスを虐殺した極悪非道の男の物語を「献身的な純愛」の物語にでっち上げる(『容疑者Xの献身』)という信じ難いほど差別的な思考を露呈した。その作品の大成功で勘違いしたのか、短篇または中篇を単に長篇に引き延ばしただけのスカスカの作品を発表し、そこでは高校生に危険な殺人兵器の作り方を教えた悪質きわまりない「物理学者」が、それは人殺しのための技術ではないなどと平然とうそぶき、自らが教えた殺人兵器を用いて、姉のかたきの極悪の政治家を殺そうとした青年を止めるという、いったい何を考えているのかと言いたくなるほどの「超駄作」を発表し、それを自ら「最高のガリレオ」などと抜かした。確かに実生活では復讐のための殺人などやってはならないが、それならなぜ「忠臣蔵」が今でも人気があったり、東野圭吾自身が影響を受けた松本清張が少なくない復讐譚を書いたのだろうか。それはフィクションでなら許されるのだ。スポーツで「死」や」「殺」などの言葉が普通に用いられるのと同じく、人間が誰しもなく持つ暴力性を解放する行為なのだ。このことは何もスポーツや大衆芸能ばかりではなく、「芸術」と呼ばれる分野でも例外ではない。それに東野のコンセプトによると、愛する女性のために罪のないホームレスを虐殺することは「献身的な純愛」だが、姉のかたきである罪深い大物政治家に対する復讐は、たとえフィクションであってもやってはならないことになってしまう。同じ名前の小山田圭吾と比較しても、どちらがより悪質な差別思想の持ち主かわからないくらいだ。こんな東野が日本では大物小説家として現在も通用しており、香港の政治活動家として有名な周庭も東野作品を村上春樹作品と並んで愛読していて、獄中に東野の小説を差し入れしてもらったと聞く。しかし東野の小説など反体制の政治活動家にとっては百害あって一利なしとしか、私には思えない。

 長いエントリを悪口で締めるのも気分が悪いので、クリスティの『メソポタミヤの殺人』が、やはり「信頼できない語り手」の手法を用いていて、今度はさすがに殺人犯ではないものの、思い込みで読者をミスリードするのに利用されている。クリスティはある時期からポワロものの長篇の語り手だったヘイスティングズの出番を激減させるが、これは明らかに成功だった。ヘイスティングズを語り手にした作品群では、ストーリーの構造がガラス張りと思われるほどミエミエで、早川書房の煽り文句のせいもあって読む前からどんな筋立てかわかってしまうほどだが、三人称の形式で登場人物の心理の動きをチラ見させる手法や、ヘイスティングズ以外の「信頼できない語り手」を用いた作品などで、読者を欺くことに確かに成功しているように思われる。但し、『メソポタミヤの殺人』は犯人がわかった(トリックはわからなかったが)。この作品は、ロマンスの要素がほとんどないことを除いて、ミス・マープルものの『動く指』とよく似た構造の筋立てだ(作品の成立は1936年の『メソポタミヤの殺人』の方が早い)。一人称の語り手を用いている点でも共通している。このように、クリスティ作品では時期の近い2つの作品の構造が似ていることが多い。似た小説を書きながら、少しずつ幅を広げていくのがクリスティのやり方だったようだ。

 こうして、私は東野圭吾の文庫化された「ガリレオシリーズ」を全部読み終えて、東野を読もうという気がすっかり失せてしまったのに対し、クリスティ作品は今後もストレス解消のために読み続けることになるだろう。もっとも、これからしばらくはクリスティ作品も断たなければならないほど仕事の予定が立て込んでいるのだが。本記事を書くのにも時間をかけ過ぎてしまった。

*1:この小説は予備知識なしに読むに限る。本邦では2016年に綾瀬はるか主演でドラマ化されたらしいが(TBS)、幸い視聴率は低かったらしい。

*2:リア王の娘の三姉妹の長女と次女で、悪役として有名=引用者註。

クリスティ『邪悪の家(エンド・ハウスの怪事件)』と『エッジウェア卿の死』/ハヤカワ「クリスティー文庫」の「裏表紙」は読むな!!!

 はじめにおことわりしますが、今回の記事はタイトルの2作の他、『アクロイド殺し』などのアガサ・クリスティ作品のネタバレが全開なので、これらのミステリ小説を未読でそのうち読みたいと想われる方は読まないで下さい。

 5月の連休明け翌週の月曜日(5/10)から昨日(6/18)までの40日間、馬車馬のように働いた。その間に読み終えた本はわずかに4冊で、うち3冊がアガサ・クリスティのミステリ。クリスティの長篇は翻訳なのに読みやすく(おそらくもともとの英語の文章が読みやすいのだろう)、延べ数時間で読めるので、時間がない時に暇を見つけて読むのに都合が良いことを今年に入って知ったのだ。この40日間に読んだのは、ポアロ(ポワロ)ものの第一短篇集『ポアロ登場』(ハヤカワ文庫)とポアロもの長篇第6作の『邪悪の家(エンド・ハウスの怪事件*1)』(同)、それに『エッジウェア卿殺人事件(エッジウェア卿の死*2)』(新潮文庫)の3冊。なおクリスティの他に読んだ1冊は、クリスティよりもさらにお手軽な東野圭吾ガリレオシリーズ第7作『虚像の道化師』(文春文庫)だった。この40日間は軽読書しかできなかったのだ。だから弊ブログの更新もこれが今月最初になる。なお今月はあと一度、連休明け最初の土日に第1回と第2回を公開したまま連載を中断している黒木登志夫『新型コロナの科学』(中公新書)の第3回の公開を予定している。

 短篇集『ポアロ登場』は面白くなかった。コナン・ドイルで一番良いのが第一短篇集の『シャーロック・ホームズの冒険』であることとは正反対で、今までに読んだクリスティのミステリの中で一番つまらなかった。クリスティの短篇集でもミス・マープルものの第一短篇集『ミス・マープルと13の謎(火曜クラブ)』*3は結構面白く、ことに12番目に置かれた「バンガローの事件」は、私にいわせれば「三人称小説版『アクロイド殺し』」というべき、非常に印象的な作品だった。なのに短篇集でのポアロものはさっぱり。ポアロヘイスティングズのコンビは、ホームズとワトスン(ワトソン)のコンビほど短篇で強い印象を読者に与えることはできず仕舞いといったところだろうか。

 今回のメインは、現在の日本で多くの作品の版権を独占していてスタンダードになっている早川書房の「クリスティー文庫」のタイトルで呼ぶと『邪悪の家』と『エッジウェア卿の死』の2作だが、これらはクリスティの最高傑作『アクロイド殺し』の6年後から7年後にあたる1932年と1933年の作品だ。この2作には多くの共通点があるが、出来は後者の方がすぐれている。

 私は、早川書房の他社から出ている翻訳が図書館の棚にあったら、そちらを優先して借りることにしている、その理由は、ハヤカワ版にはネタバレを回避する努力が不足していて、解説文や序文*4、それに裏表紙の文章などによって犯人が事実上わかってしまう弊害があるからだ。解説文は本文を読み終えたあとでなければ読まないが、そこに未読の作品名が出てきた時には素早く読み飛ばして頭に入れないようにするなどの、無駄な努力を強いられることがある。

 しかしついつい目に入ってしまうのがカバーの裏表紙に書かれた作品紹介だ。今回読んだ長篇2作はいずれもこのパターンで、裏表紙によって犯人の見当がついてしまった。『エッジウェア卿の死』は、図書館にハヤカワ文庫と新潮文庫の2冊があったので新潮文庫の方を借りたのだが、両方を手にとってうっかりハヤカワ文庫の裏表紙が目に入ってしまった。しまった、またやられたと思ったが後の祭り。新潮文庫版の本文を読み始めて、あの人が犯人ならトリックはこれしかないだろうな、とすぐに気づき、結局その通りの結末だった。ミステリを読んでトリックも簡単に見破る機会など、マニアの方なら結構あるのかもしれないが、私にとっては滅多にないことだ。読み終えたあとアマゾンや読書メーターを覗いてみたら、私と同様にトリックがわかったと仰る方は結構多かった。ミステリにおいては古典的なトリックを用いた作品だといえる。

 『邪悪の家』の方は、犯人の見当がついたら、その犯人ならば殺人自体のトリックは必要ないものだったのでもっと興醒めだった。しかも、ハヤカワのクリスティー文庫版には目次に各章のタイトルが書かれていて、それを見ても、やっぱりその展開かよ、と確信を強めた。結局その予想を全く裏切らない、あまりにも予想通りの展開だった。ただ、英語の愛称のトリックには気づかなかったが、そもそもMagdalaなんて名前の女性がイギリスに本当にいるのだろうか、とそっちの方が気になってしまった。マグダラといえば新約聖書に出てくるマグダラのマリアだが、ローマ・カトリックでは聖女でありながら「罪深い女」ともされているという話は、宗教にはまるで疎い私も仄聞していた。また、ヒロインのニックは "Old Nick(悪魔)" として悪名高かった祖父に育てられ、それでニックという小悪魔ならぬ「孫悪魔」の意味を込めた愛称で呼ばれるようになったという。

 そのニックが岬に建てられた「地の果ての家」で何度も命を狙われていずれも危機一髪で助かったというのが、原題の "Peril at End House" という意味だろう。ネットで調べると、『邪悪の家』というのは詩人で翻訳家の田村隆一(1923-1998)の訳本で用いられたタイトルで、それ以前に松本恵子(1891-1976)が1956年に大日本雄弁会講談社(現講談社)の「クリスチー探偵小説集」中の1冊として邦訳を出した時には『みさき荘の秘密』と題されていたようだ。タイトルは「最果ての家で危機一髪」といった意味であって、今までの邦訳本のタイトルからあえて選ぶなら、創元推理文庫版で用いられている『エンド・ハウスの怪事件』が一番良いと思う。少なくともハヤカワ「クリスティー文庫」の『邪悪の家』というタイトルを、私は好まない。

 ここでネタバレを書くと、何度も命を狙われたというのは狂言であって、いざ「惨劇」が起きた時に死ぬのは別人であり、その犯人は今まで命を狙われていたはずの「ニック」ことマグダラ・バックリーだった。ハヤカワ文庫の裏表紙には、何度も命を狙われたあと惨劇が起きたと書かれているだけだが、その「惨劇」で殺されたのは今まで何度も命を狙われたのとは別人に違いないとピンときた。これはミステリでは定番のトリックだから、同様の感想を持った人はネットで見た各種感想文を見ても大勢おられた。

 さらにハヤカワ文庫の目次を見ると、AからIとか "J" とか "K" とかいう、人間を表す符号が書いてあるが、これが登場人物のAからIまでの9人ではなく、10人目の人物が犯人として浮上するも、真犯人はその "J" でもない、これまで全く疑われていなかった "K" という人物だという意味であろうことは容易に想像がつく。そしてこの想像は裏表紙の文章から受ける印象とみごとなまでに整合するので、ああ、そういう話なんだろうなと想像がついたという次第。あとは、その予想が当たっていたことを確かめる読書だった。殺されたのは、主人公ニックの従妹、マギー・バックリーだったのだ。マギーを殺したのはニックに違いないと私は確信した。

 本作で一番気づきにくいのは、フーダニット(誰が殺人を犯したか)ではなく、ニックとマギーの本名がともにマグダラであり、ニックはマギーになり代わって遺産を受けようと企んでマギーを殺したという動機だ。

 各種感想文を読むと、この「名前(愛称)」のトリックまで見破らないとわかったことにはならない、などと言って必死でクリスティを擁護している読者が少なからずいる。確かに本作最大のトリックはそこにあるのだが、なぜそんなにむきになるのか私にはさっぱりわからない。そんなことを言うなら、なぜクリスティが普通に用いられるMagdalenaではなくMagdalaなどという、聖書イギリス人にはほとんどいないであろう名前をつけ、彼女の愛称を「ニック」にしたのかというあたりまで理解できなければ、クリスティの意図が本当にわかったことにはならないのではなかろうか(もちろん私にもクリスティの真意などわからない)。少なくとも本作の犯人を見破ることが極めて容易であることは間違いない。

 なお、ネット検索で知ったが、1990年代に活躍したテニスのマレーバ三姉妹の末妹の名前がマグダレナであり、彼女の愛称は「マギー」だったらしい。普通にはマギーといえば正式な名前はマーガレットであることが多いが、マグダレナがマギーならマグダラもマギーであってもおかしくない。しかし、マギーからマグダラにたどり着くのは普通には困難だ。だからクリスティはニックに、一族にはマグダラという名前が多いと言わせている。だが私はクリスティが読者に与えたそのヒントには気づけなかった。そんなに難しい謎ではないから、気づいた方もおられるに違いないと思うが。

 作品全体としていえば、『エンド・ハウスの怪事件(邪悪の家)』はクリスティ作品の中では出来の良い部類には決して入らないだろう。

 『エッジウェア卿の死』は、その『エンド・ハウスの怪事件』とはっきり言って同工異曲の作品だが、出来は『エンドハウス』よりはずっと良い。それは、この作品の「悪のヒロイン」ジェーン・ウィルキンスン*5のキャラクターが、ニック・バックリーと比較して、より一層「エッジが立っている」ところにある。つまりヒロインの「悪の魅力」においてジェーンの方がニックよりも上なのだ。2人ともどうしようもない極悪人ではあるが。

 それに、『エッジウェア卿の死』は『アクロイド殺し』との関連が強い。まずタイトルが似ている。"The Murder of Roger Ackroyd" と "Lord Edgware Dies" だ。直訳すると「ロジャー・アクロイドの殺害」と「エッジウェア卿死す」。さらに、この長篇はこの記事の最初の方で触れた短篇集『ミス・マープルと13の謎』の12番目に置かれた作中の白眉の短篇「バンガローの事件」を下敷きにしている。ヒロインはともにJaneという名のactress(女優)だ。今ならactor(俳優)と表記すべきかもしれないが。

 そして、最初に書いた通り「バンガローの事件」は、もし実行された場合「お馬鹿な女優」のはずのジェーン・ヘリアが犯人になるところだった。その事件について語るジェーンは、自分が犯行を企んでいたことを隠してしゃべり、最後にミス・マープルに真相を指摘される。私が「三人称小説版『アクロイド殺し』」だと評するゆえんだ。

 ジェーン・ウィルキンスンはそのキャラクターを同じ名前のジェーン・ヘリアから継承している。しかし当然ながら本作の語り手ではない。そんなことをやったら『アクロイド殺し』の二番煎じにしかならない。ジェーンは語り手どころか途中から出てこなくなる。そして最後の最後に「意外な犯人」としてポアロに名指されるが、うっかりハヤカワ文庫の裏表紙を読んでしまった私には意外でも何でもなかったし、前述の通りメインのトリックも見破っていた。

 もっとも、クリスティ作品を何作も読んでいると、ことに本作をよく似た趣向の前作『エンド・ハウスの怪事件(邪悪の家)』を読んだあとだと、仮にハヤカワ文庫の裏表紙を見ていなかったとしてもジェーンを疑ったことは確実だし、その場合トリックも見破れた可能性が高いとは思う。それは『邪悪の家』でも同じで、どのみちあの展開になったのだからハヤカワ文庫の裏表紙を読んでいなくともニック以外を疑うことはできなかったに違いない。しかしそれでも、ハヤカワ文庫の裏表紙たちには「余計なことをしやがって」という恨みしか持ち得ないのである。

 『アクロイド殺し』は、中学生の頃に語り手のシェパード医師を疑いながら読んでいた途中に、本当にそのシェパードが犯人だったことを級友にネタバレされて読むのを止め、今年に入って46年ぶりか47年ぶりに初めて全部を読み通したのだった。その後、駄作との悪名高い『ビッグ4』は読んでいないが、『青列車の秘密』は読んでいる途中に、『邪悪の家』と『エッジウェア卿の死』については前述の通り、読む前から犯人の見当がついた*6。その最後の『エッジウェア卿の死』の最後の第31章「ある人間の記文」で、語り手のヘイスティングズが処刑された犯人であるジェーン・ウィルキンスンからポワロ*7に送られてきた「手記の写し」を紹介している。その中でジェーンは「あなたは時折り、扱われた事件の記録を出版なさっておられます。でも、犯人自身の手記を、出版なさったことはないと存じます」(新潮文庫版『エッジウェア卿殺人事件』291頁)と書いている。つまり、ジェーンは「『アクロイド殺し』なんて知らないよ」と言っているわけだ。このあたりが興味深かった。

 クリスティはこの作品の終わり近くでヘイスティングズを南米に送り返してしまい、次のポアロもの第8作『オリエント急行殺人事件』にはヘイスティングズは出てこない。この『オリエント急行殺人事件』でクリスティはようやく『アクロイド殺し』の呪縛から完全に離れ、次のステップに進んだように思う。

 こう考えると、『エッジウェア卿の死』は、クリスティが『アクロイド』の呪縛を断ち切るプロセスが直接に反映された作品だといえるのではないか。ヘイスティングズの南米への強制送還も、その一つの表れだろう。ヘイスティングズは確かに愛敬のあるキャラクターだが、一方で作品をマンネリ化させる要因にもなっていた。このあと、長篇では『ABC殺人事件』や『カーテン』ほか1作、短篇では多数の作品にまだヘイスティングズが出てくるらしいが(いずれも未読)、ヘイスティングズが出てこなくなればクリスティ作品のパターンが変わり、犯人当ても今までのような連戦連勝はできなくなるかもしれないなと思った。

 正直言ってポアロもその作者のクリスティも鼻につく。クリスティは極端な大英帝国主義者であり、フランスに対する対抗心が強く、アメリカを見下していて同国の台頭を快く思っておらず、日本・中国・インドなどのアジア諸国に対しては差別意識がはなはだしい。クリスティの頭の中にはこのような階層構造があったに違いないことが強く感じられるで、これまで何度神経を逆撫でされたかわからない。クリスティがもう少し長く生きていたらマギーことマーガレット・サッチャーを熱烈に支持したに違いない。

 しかし作品は読みやすく、赤川次郎が『そして誰もいなくなった』のハヤカワ文庫版解説に書いた通り、一晩で読み通せる長さだから多忙期の軽読書には適している。もう少しお世話になるとしよう。

*1:創元推理文庫版のタイトル

*2:ハヤカワ「クリスティー文庫」版のタイトル

*3:ミス・マープルと13の謎』は、私が読んだ創元推理文庫版で、イギリス版のタイトルに基づく。ハヤカワの「クリスティー文庫」では『火曜クラブ』であり、アメリカ版のタイトルに基づく。

*4:ハヤカワ「クリスティー文庫」では、クリスティの孫のマシュー・プリチャードが書いた序文がいくつかの作品の冒頭に掲載されているが、多くの場合ネタバレが含まれているというとんでもない代物だ。

*5:ハヤカワ文庫版ではウィルキンソン

*6:しかし、ポアロものではない『そして誰もいなくなった』は、途中で死んだことになっていた誰かが犯人だということを事前に知っていたにもかかわらず、それが誰かはわからなかった。候補として考えた3人のうちの1人ではあったが、その中で最初に「死んで」しまったせいもある。しかし私は『アクロイド』がアンフェアだとは全く思わないけれども、『そして誰もいなくなった』には、クリスティ自身が「信頼できない語り手」になっているとしか言いようがない若干のアンフェアさが認められることと、あの「死体運搬」の時に死体ではなく生体であることに気づかれないことなどあり得ないという2つの理由によって、『そして誰もいなくなった』を『アクロイド殺し』よりも上位に置くことは絶対にできないと考えている。だから今までのところ、『そして誰もいなくなった』はクリスティ作品のナンバー2であり、ナンバー1は依然として『アクロイド殺し』だ。とはいえ、『そして誰もいなくなった』の後半の緊張感は素晴らしい。

*7:新潮文庫版の表記に基づく。

黒木登志夫『新型コロナの科学』を読む(第2回)/日本の新型コロナ対応の「ベスト10」と「ワースト10」

 前回の続き。引き続き黒木登志夫著『新型コロナの科学』中公新書2020)より。

 

 本書第4章が「すべては武漢から始まった」、第5章は「そして、パンデミックになった」、第6章は「日本の新型コロナ」、同第7章は「日本はいかに対応したか」とそれぞれ題されている。これらの章に描き出された経緯のうち、第4章で武漢ウイルス研究所から新型コロナウイルスが漏れ出した疑いがあるとの著者の指摘は、知らなかったので興味深かった。

 著者の疑念の根拠は、同研究所に勤める中国人学者の石正麗氏が、実験室の生物学的安全レベルを表すBSL (Biosafety level) で「BSL2」に分類される実験室で研究を行っていたことによる。BSL2は「許可された人のみ入室可。室内には安全キャビネット、滅菌器などの設置が必要」とはされているが、「室内を陰圧にする必要はない」というレベルだ。この環境で研究していたことを石氏本人が証言した。これに対して著者は下記のように書いている。

 

 BSL2で実験していたとは! 最後の証言には、正直驚いた。空気圧を低くする必要のないBSL2だとウイルスが外に漏れる危険性がある。素性のわからない危険ウイルスはBSL4、少なくともBSL3で使うべきである。国立感染研の基準では、新型コロナウイルスは気圧が陰圧に調整されているBSL3で実験を行うことになっている。感染者用病室もBSL3と同じように、陰圧に調整されているし、防護服を着ることになっている。空気圧を陰圧にする必要のないBSL2だと外に漏れる危険性がある。武漢ウイルス研究所は、かなり気楽にBSL2で実験していることがわかった。

 

(黒木登志夫『新型コロナの科学 - パンデミック、そして共生の未来へ』(中公新書2020)122頁)

 

 この「武漢ウイルス研究所からの漏洩」説は、ネトウヨによって「ウイルス兵器」などという陰謀論説がばら撒かれたために却って注目されなくなってしまったが、上記のようなお粗末な実験環境に起因する漏洩が全世界的な感染の発端だった可能性は確かにありそうだ。何しろ中国当局は、当初武漢での感染を隠蔽しようとしていた。習近平政権が全く信用できないことは間違いない。

 だが、武漢由来の最初のウイルスは感染力がのちの変異株ほど強くなかった。最初の大きな変異はヨーロッパで起きた。それがいわゆる「欧州型」と呼ばれるD614G変異株である。日本の第1波は、前半に武漢由来のD614による小さなピークがあったあと、D614Gの比較的大きなピークがあった。このD614Gこそ昨年4月8日の緊急事態宣言発出を必要とした原因になった変異株である(にもかかわらず、現在は「従来型」と呼ばれている)。本書では、D614Gは「G614」と表記されている。G614とD614Gの両方の表記があることは、昨年12月21日の忽那賢志医師の下記記事などで確認できる。

 

news.yahoo.co.jp

 

現在はウイルス表面にあるスパイク蛋白というタンパク質の614番目のアミノ酸残基がアスパラギン酸(D)からグリシン(G)に置き換わる変異で感染性が増した「G614(D614G)」と呼ばれる新型コロナウイルスが世界で流行するウイルスの主流の株として入れ替わっています。

 

出典:https://news.yahoo.co.jp/byline/kutsunasatoshi/20201221-00213726/

 

 私がメインブログの『kojitakenの日記』に毎週公開しているグラフに当てはめると下図の通り。

 

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国内のCOVID-19新規陽性者数及び死亡者数 (2020/3-2021/5, 7日間移動平均対数=NHK)

 

 武漢型(D614)のピークは、7日間移動平均では昨年3月14日に1日平均46.6人でピークの極大となり、これがピークアウトするかに見えた同3月20日(のちのちまで問題視された例の「緩み」の3連休の初日)あたりから陽性者数が急拡大した。もちろんこれは3連休の2週間前頃の感染を反映したものであって3連休中の人の移動が引き起こしたものではない。3連休の人の緩みは、翌4月上旬に陽性者数の急増となって表れた。また時の安倍晋三政権が、習近平の来日が中止に決まったあとに中国や韓国からの人の流れの遮断をしながら、欧州やアメリカからの人の流れを遮断するのが遅れたのも感染拡大を悪化させた大きな要因の一つだ。なおこの段落は私の意見を書いたものであって、著書からの引用ではないことをおことわりしておく。

 著者は、一般に第2波とされる時期までに現れた波について、それぞれのピークは、次に述べるゲノム解析からもはっきりした特徴をもっているので、第一波、第二波、第三波と、三つに分けるのが正しいはずである。しかし、国際的にも、棒グラフでもはっきり分かる二つの山(引用略)を、それぞれ、第一波、第二波と呼んでいる。ここでは、第一波の武漢型とヨーロッパ型を区別する必要があるときには、それぞれを、第一波武漢型)と第一波(ヨーロッパ型)と区別することにした。(本書130-131頁)

と書いている。私の『kojitakenの日記』でも、最初はヨーロッパ型を「第2波」と表記してきたが、多くが昨年夏の波を第2波と呼び始めてからはそれに合わせて表記を改めた。

 今回の核心部はここからである。日本では第1波が欧米と比較して軽かった。また他の東アジア諸国も同様だった。そのことから「ファクターX」の議論が起きた。そのあたりは本書第6章第6節「ファクターX」に書かれている。TBSでやった日本語の「これはペンです」と英語の "This is a pen" の発音で、話し手の前に置かれた紙の動き方が全然異なるという懐かしい話も出てくる。この話の言い出しっぺは本書と同じ中公新書から『感染症・増補版』を出している井上栄氏で、この本は昨年読んだので下記記事を公開した。発音の件も同記事で取り上げている。

 

kj-books-and-music.hatenablog.com

 

 しかし、日本の新型コロナ対応自体はほめられたものではなかった。以下、本書第7章の冒頭部分を引用する。

 

 前章で、日本のコロナ感染の広がりについて見てきた。日本はコロナにどのように対応したのか。司令塔もないまま、硬直化した行政にしばられ、PCR検査に反対し、中途半端に行動を規制し、それでも感染者数、死亡者数が最小限に収まったのだから、官邸スタッフがいみじくも言ったように、「泥縄だったけれど結果オーライだった」としかいいようがない。10月までの段階で、日本の対応のどこが問題だったのか、厳しく検証してみよう。(本書159頁)

 

 韓国や台湾は動きが早かったのに日本は遅かった。以下引用を続ける。

 

 韓国と台湾は、驚くほどすばやく対応した。台湾は、武漢当局が原因不明の肺炎発生を発表したその日(2019年12月31日)のうちに対策を開始し、1週間のうちにすべてを整えた(第8章)。韓国は、1月20日、最初の感染者が武漢から入国して1週間後には、PCR検査キットの開発と大量生産を医療メーカーに要請し、2週間後には1日あたり10万キットを生産した。それによりドライブスルーやウォークスルー検査など独創的な検査態勢が可能になった。検査をバックアップする病院体制もすでに整備されていた。日本の初期対応は韓国、台湾と比べて明らかに遅かった。スピード感のない日本の対応は、今日まで続いている。(本書161-162頁)

 

 以後、アメリカをはじめ世界の主要国にはあるCDCCenters for Disease Control and Prevention, 疾病対策予防センター)が日本にはないこと(本書162頁)、専門家会議が分科会に格下げされ、そのメンバーに感染症の数理分析の西浦博の名前がなかったこと(同163頁)、尾身茂を初めとする専門家たちが「驚くほどものわかりがよくなり、政府の方針にお墨付きを与える立場に甘んじてしまった」(同163頁)ことなど、矢継ぎ早に批判の言葉が繰り出される。以下本書からさらに引用する。

 いわゆる第二波の最中、東京都の小池百合子知事までもが、心配は必要ないという説明を繰り返した。その理由は、検査が増えたから感染者が増えたので、想定内の数字だというトランプ大統領も同じことを言っていた)。医療機器は整っているから大丈夫という説明であった。

 7月になり感染が急速に増えているのにもかかわらず、人の移動、集まりを認める方針がつぎつぎに出された。その最たる施策が1兆7000億円の巨額の予算を組んだGo Toキャンペーンである。かくして、専門家たちのお墨付きを得たGo To政策は、国民の政策をよそに、東京を外して7月22日にスタートした。

 政府の中枢部もおかしくなった。国会は閉会し、最重要問題を議論する場はなくなった。安倍首相(当時)に代わって、菅官房長官(当時)が説明するようになったが、国民の理解を求めるわけでもなく、現状の分析を語るのでもなく、上から目線で一方的に政府の方針を伝えるだけである。この組織改編を一番喜んだのは、新型コロナウイルスであった。

 われわれは、専門家としての見識ある説明を求めているのだ。専門家が、正確に理解できるよう現状を語り、その上で、政治家が誠意をもって説得力ある言葉で対策を語る。政治家と科学者の信頼と協力がなければ、パンデミックの難局は乗り切れない。

 

 本書には書かれていないが、第2波の致死率は低かった。日本国内では第1波の致死率が5.3〜5.4%だったのに対し、第2波の致死率は0.9〜1.0%だった。第2波の致死率に関しては著者自身が山中伸弥教授のウェブサイトに掲載した下記リンク先に言及がある。

 

 以下引用する。

致死率が世界で低下していることを考えると、致死率を抑え、感染を広げる⽅向にウイルスが変異したのかも知れない。このような変異はウイルスの⽣存に叶っているので、あり得ることだ。(上記リンク先より引用)

 

 実際、確か東京・埼玉型と呼ばれていたと思うが、この第2波の原因となったウイルスは弱毒性の変異株だったという研究結果が報じられたことを覚えている。しかし第3波のウイルスは決して弱毒性ではなかったし、現在の第4波で脅威とされて恐れられているN501Yに至っては強毒性の変異株だった。長い目で見ればウイルスは弱毒化するのだろうけれど、ウイルスの変異自体はランダムに起きるので、一時的には強毒性の変異株が猛威をふるうこともあり、それが今だということだろう。それを、ウイルスは必ず弱毒化するかのような発言を一時期テレビで大々的にやらかしていたのが、かの京大の万年准教授・宮沢孝幸だった(もちろん宮沢の悪口は本書には書かれていないが)。

 論外の宮沢はともかく、第2波のウイルスが弱毒性で感染状況が予想されたほど悪くならなかったことが、政府や東京都・大阪府など自治体の緩みに繋がったのではないか。私はそう考えている。実際、第3波が急拡大している時に、菅義偉が頑なに何もしなかったのはあまりにもひど過ぎた。第3波の減衰と第4波の立ち上がりが重なったことが、N501Yを検出する際のS/N(信号雑音比)を下げてしまったことは間違いあるまい。

 この第7章には前回取り上げた第7節「選択もされず集中もされず」が含まれている。また第8節「最大の問題はPCR検査」と第9節「官僚たち」については次回取り上げる。

 今回は、第7章最後の第10節「ベスト10、ワースト10」を取り上げて締めくくりたい。

 著者が選んだベスト10の第1位は「国民」だ。「国民は、要請レベルにもかかわらず、行動を自粛し、マスク着用、手洗いなどを励行した。経済的に苦しい人もよく耐えた」(本書184頁)と称えられている。

 第2位以下は、「三密とクラスター対策」、「医療従事者」、「保健所職員」、「介護施設」、「専門家の発言」、「中央、地方自治体の担当者」、「ゲノム解析」、「在外邦人救出便」、「新型コロナ対応・民間臨時調査会」と続く。第6位の「専門家の発言」については「少なくとも、分科会に編成替えまでの専門家は、使命感から積極的に発言し、国民に警鐘を鳴らし続けた。われわれも専門家の発言に注意していた」(本書184頁)、第7位の「中央、地方自治体の担当者」については「医療従事者だけではなく、関係したすべての公務員は、一生懸命仕事をした」(同)、そして第10位の「新型コロナ対応・民間臨時調査会」については「この報告書がなければ、コロナ禍の中、政府内で何が起こっていたか、どこに問題があったかを知ることはできなかった」(本書185頁)とコメントされている(他の順位にも全部コメントがついているが、引用を省略する)。

 一方、ワースト10の1位は「PCR検査」。これについては次回取り上げる。第2位は「厚労省」で、「国民を守ることよりも行政的整合性を守ることに重きをおき、融通性に欠けていた。PCR検査では国民に背をむけ、裏で政治工作をした」(本書185頁)とこき下ろされている。第3位は「一斉休校」で、「文科大臣、専門家の意見を聞かずに、安倍首相の側近内閣府官僚の進言によって断行された一斉休校によって、教育の現場、父系の生活は大きな影響を受けた」(同)とのこと。もっとも私の意見は若干異なり、休校自体は悪くなかったが、官邸の動機が不純だったと考えている。今井尚哉は、東京五輪を無事開催にこぎ着けるためにこの策を思いつき、安倍晋三がそれに飛びついたのが真相だろうと私は推測している。第4位は「アベノマスク」で、「マスクを配布すれば国民の不安は消えますという首相の側近内閣府官僚(佐伯耕三=引用者註)の信玄によって実行されたマスクは、160億円もの税金の無駄遣いであった」(同)とのことで、これはその通りだと私も思う。第5位は第3位と第4位の元凶でもある「首相側近内閣府官僚」であり、「証拠に基づく政策(EBPM)の重要性が言われているなか、彼らは大臣、専門家を無視し、政策を首相に進言した。それを受け入れた首相(安倍晋三=引用者註)は、さらに問題である」(本書185-186頁)とのこと。この厳しい糾弾には快哉を叫んでしまった(笑)。

 第6位「感染予防対策の遅れ」では「3月のヨーロッパ型ウイルスの流入予防対策に後れを取った。第二波の最中にGo Toキャンペーンを実行し、感染を広げた」(本書186頁)との罪状が挙げられている。確かに、武漢(中国)よりもヨーロッパに感染の中心が移っていることがニュースでも報じられている時期に、安倍政権は中国や韓国からの人流を止めることばかりやっていて、欧米から流入し放題になっていることには私も大いにイライラさせられた。これは安倍晋三が感染抑止よりもネトウヨ受けばかり意識していたためであろう。Go Toも、菅義偉固執した悪印象が非常に強く、事実菅はコロナ対策に関しては安倍にも劣る劣悪な宰相ではあるが、Go Toキャンペーンは安倍政権時代に始められたことを忘れてはならないだろう。安倍の最悪の置き土産だった。

 第7位は「分科会専門家」で、専門家はベストとワーストの両方に出てくる。著者曰く、「分科会委員に格下げされてからの専門家は、政府の政策にお墨付きを与えるだけの立場に甘んじてしまった。専門家が正論を言わなくなったら専門家ではない」(本書186頁)とのことで、これもまっとうな批判だろう。第8位は「スピード感の欠如」で、「初動態勢から今日に至るまで、すべての対応が遅すぎた。早かったのは、学校一斉休校とアベノマスクだけである」(同)、第9位「情報不足」は「感染情報は非常に限られていた。感染の実態(院内感染者、死亡者数、発症日別統計など)の発表がなかった。政策決定に至る過程も不透明であった」(同)、第10位「リスクコミュニケーション」は「現状を科学的に分かりやすく説明し、質問に応えるリスクコミュニケーションがなかった。国民はテレビの情報番組に頼らざるを得なかった」(同)と続く。

 それでも、第1波と第2波の頃は日本に運があり、陽性者も死亡者も少なかった。しかしそれで安倍政権や菅政権がコロナを甘く見てしまい、それが第3波以降だけで9千人もの死者を出す*1惨状につながってしまった。しかも第4波では大阪府などで医療崩壊が発生するなど、状況は本書が書かれた時点と比較しても、ずっと深刻化してしまったのだ。(この項続く)

*1:昨年11月1日から今年5月8日までに発表された死亡者数は8,990人に達した。