KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

吉野源三郎『君たちはどう生きるか』とナポレオンとベートーヴェンと

 今年もまた5月頃からこのブログの更新が難しくなってきた。どういうわけか例年5月に忙しくなって余裕がなくなるのだが、今年は新しい元号の呪いでもあるのか、それが6月も7月も続いて現在は体調もあまりよろしくない。病気というわけではないが疲労はずいぶん蓄積している。

 それでこのブログの記事も1件、途中まで書いたものの文章が止まってしまって公開できずにいる記事があるのだが、今回はそれを完成させるのをいったん諦めて、先の参院選の頃に読んだ吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』(岩波文庫)を取り上げる。

 

www.iwanami.co.jp

 

 この本は戦前の「崩壊の時代」が始まった直後の1937年8月に初版が刊行された。それから80年後の2017年に漫画化されてベストセラーになるとともに原作も注目され、宮崎駿が新作アニメ映画のタイトルを本書の書名と同じ「君たちはどう生きるか」とすると発表したことからも注目された。

 私は読んだことがなかったし、タイトルからも想像される通り少年少女向きに書かれた本だしなあなどと思っていたのだが、数か月前にあるきっかけがあって読もうと思い立った。

 本稿で取り上げる論点は2つあって、1つは貧困と格差の問題、もう1つはナポレオンに対する評価の問題だ。

 最初の貧困の問題については、第4章「貧しき友」のテーマになっている。漫画本が話題になっていた頃に書かれた下記「はてなブログ」の記事のタイトルから推し量って、漫画では貧困問題はさほど大きく取り上げられていないようだ。

 

www.kanyou45.com

 

 本書で取り上げられた「階級」の問題について、岩波文庫版の巻末に収められた丸山眞男の著者への追悼文(1981年6月に書かれた)が触れているので、以下に引用する。

 

(前略)おじさんがコペルくんにさとしているように、実際には、グループのなかで一番貧しい浦川君よりはまた一段と貧しくみじめな「階級」が東京市内にも厳然と存在しましたし、農村地方ともなればなおさらです。こういう日常的な見聞に属するような形での貧富の差がいまの日本にはほとんど視界から失せたことは事実です。岩波文庫版328-329頁)

 

 しかし丸山眞男が上記の文章を書いてから40年近くが経ち、日本社会の格差は再び拡大し、橋本健二は『新・日本の階級社会』(講談社現代新書,2018)を書いた。

 もちろん、1981年の日本にも格差や階級はあったと思うが、その頃から世界を席巻した新自由主義によって、格差は拡大し、「新・階級社会化」が進んだ。それらへの対処が現在の政治には求められるはずだ。

 なお、「おじさん」の意見、すなわち著者の意見にも限界があることを指摘する下記記事にもリンクを張っておく。下記は、本書ではなく本書を批判した本の書評。

 

webronza.asahi.com

 

 しかし本書を読んで私が一番ショックを受けたのは、ナポレオンに対する著者の意外な高評価だった。

 第5章「ナポレオンと四人の少年」で、主人公・コペル君の友人・水谷君のお姉さんである「かつ子さん」がナポレオンを絶賛するくだりがあるのだ。さすがに著者は「おじさん」は晩年のナポレオンを批判させているが、皇帝に即位してからしばらくの間のナポレオンに対する高評価は改めていない。

 これには、中学生時代から世界史は苦手だったがベートーヴェン(やモーツァルト)の音楽には親しんできた私は大きなショックを受けた。

 というのは、ベートーヴェンは第3交響曲エロイカ(英雄)」を当初ナポレオンに献呈しようと考えていたが、ナポレオンの皇帝即位を聞いて激怒し、献呈の文字をスコアから消した上にその頁を破り捨てたというエピソードに長年慣れ親しんできたからだ。つまり、私にとっては「皇帝即位後のナポレオン=絶対悪」という固定観念があったので、「かつ子さん」の意見に強い違和感を覚えた次第だ。

 前記丸山眞男の追悼文でも「かつ子さん」のナポレオン賛美に対する違和感が表明されている。丸山は、「何をいうかこのなまいきな小娘が」と思ったと書いているが(岩波文庫版326頁)、私も同感だった。しかしこの「かつ子さん」は本書では最後まで「善玉」として描かれているし、ネット検索で調べても、ナポレオンの伝記を読んでみたくなったという反応が結構あるから、著者のナポレオンに対する意外な高評価には困ったものだと思う。

 著者は「おじさん」がコペル君に宛てたメッセージとして、ゲーテもナポレオンには感嘆していたなどと書いているので(本書182頁)、ベートーヴェンがナポレオンへの献呈の文章を破棄したというのは本当だったのかと不安になって調べてみた。日本で著名なベートーヴェン研究家だった小松雄一郎(1907-1996)が戦前からの日本共産党の人だった(但し1954年に離党)ことなどから、日本で流布しているベートーヴェン像が実像よりも美化されているのではないかと思ったからだ。その結果はベートーヴェン研究家の間でも意見が分かれていて、たとえば武川寛海(1914-1992, ゴダイゴタケカワユキヒデの父)はベートーヴェンは終生ナポレオンを尊敬していたとしていたらしいが、手元にある青木やよひ(1927-2009)の『ベートーヴェンの生涯』(平凡社ライブラリー)では従来の定説である「ナポレオンの皇帝即位に激怒した」説を採っている。

 

www.heibonsha.co.jp

 

 青木は、ベートーヴェンがナポレオンへの献呈を破棄した場面は、リースとリヒノフスキー伯爵が目撃したと書き(前掲書124頁)、続いて下記のように論評している。

 

 このエピソードが語る意味は重い。ナポレオンはベートーヴェンにとって、単なる戦略の天才でも豪胆な司令官でもなかった。身命を投げ打って革命の精神を人類にもたらすプロメテウス、それが彼のナポレオン像だった。けっして皇帝(シーザー)になってはならなかったのだ。だが、裏切られたと一時激怒したものの、この曲を、革命の大義のために勇敢に戦って死んだ多くの人々の追悼のために、そして英雄的な一時代の記念碑とするために、表題を「シンフォニアエロイカ」(英雄的交響曲)としたに違いない。

(青木やよひ『ベートーヴェンの生涯』(平凡社ライブラリー,2018)125頁)

 

 ところで、この記事を書くためにネット検索して知ったのだが、「エロイカ」に表題音楽的な解釈がさまざまになされているようだ。中でも下記は面白かった。

 

http://classic.music.coocan.jp/sym/beethoven/beethoven3.htm

 

 以下引用する。

 

 「バルヴ機構のない金管では自然倍音列しか出せないため、ベートーヴェン金管楽器のメロディを中断せざるを得なかった」という問題がある。「第9」第4楽章冒頭のトランペットなどはその例だろう(→「版以前の問題」のページへ)。
 しかしこの「英雄」第1楽章コーダは、それに似て非なるものである。なぜなら、譜例の赤い矢印の音は、ナチュラルトランペットでもちゃんと出せる -つまり凱旋のファンファーレを1回はちゃんと鳴らすことができる - からである。ベートーヴェンはそれをあえて尻切れにして、別の効果を狙っているのだ。

 有名な逸話によれば、ベートーヴェンは、ナポレオンがセントヘレナ島で死んだというニュースを聞いて、「私は彼の行く末を、すでに音楽で予言していた」と言ったらしい。で、これは普通、第2楽章の葬送行進曲のことだ、と考えられている。しかし、アーノンクールブリュッヘンガーディナーなどの演奏を聴けば、そうでないことは明らかだ。

 第1楽章コーダで「英雄ナポレオン」は突撃の最中に射たれて落馬・戦死する(=Tpの中断)。だが、その屍を乗り越えて「フランス国民軍」は進撃するのである。つまり、「英雄の出現は歴史的事件のきっかけにはなるが、英雄だけで歴史を語ることはできない」という真理をベートーヴェンは見事に描いたのである。(ここで「戦死」を描き、それを承けての第2楽章・葬送行進曲となるわけである。「凱旋」に続く「葬送」では筋がつながらない。)

 これは「絶対音楽」的考え方からすれば邪道な解釈かもしれない。しかしベートーヴェンは、初めナポレオンに捧げるためにこの曲を書きあげ、ナポレオン戴冠の知らせを受けてそれをやめたにしろ、改めて「ある英雄の思い出に捧げるシンフォニアエロイカ」と標題をつけているのだ。よって何かしらのイデーを表現したものと考えるほうが正当であろう。

 

 譜例も引用しなかったので上記の引用文にはわかりにくいところもあるかもしれないが、「エロイカ」の第1楽章の終結部に、全オーケストラが「ドーミ ドーソ ドミ ソーー」と高らかに謳い上げる部分(最初のソは低い音で、赤字ボールドにしたは高い音)がある。この部分で、トランペットは「ドーミ ドーソ ドミ」までは弦楽器や他の管楽器と一緒についていくのだが、高い「ソ」の音は鳴らさず、その部分では低いソの音の8分音符を刻み続ける。これは当時のトランペットの音域の上限を上回る高さだったからという説明がなされていたし、私もそれを信じていたのだが、実は当時のトランペットでもこの音は出せたのに、ベートーヴェンは意識的にトランペットを脱落させたのだという。

 それを「ナポレオンの落馬と戦死を表したものだ」とするのが上記の解釈だが、いくらなんでもこれはこじつけだろう。しかし、「英雄だけで歴史を語ることはできない」という史観をベートーヴェンが持っていた可能性はかなり高いとは私も思う。

 なお、上記とは別に、葬送行進曲の形式をとる第2楽章の終結部で、葬送行進曲のメロディーが切れ切れに奏されるくだりを「息も絶え絶えになった英雄」の描写だとする説があって、これにはかなりの説得力がある。上記引用文では批判の対象となっているが、

ベートーヴェンは、ナポレオンがセントヘレナ島で死んだというニュースを聞いて、「私は彼の行く末を、すでに音楽で予言していた」と言ったらしい。で、これは普通、第2楽章の葬送行進曲のことだ

とする定説の方に、私は軍配を上げる。

 なお、ナポレオンの皇帝即位自体に対する批判とまではいえない点で(おそらく)ベートーヴェンには及ばないが、『君たちはどう生きるか』の著者・吉野源三郎も「おじさん」のメッセージの形で皇帝即位後のナポレオンの批判をしている。以下引用する。

 

(前略)ナポレオンは、封建時代につづく新しい時代のために役立ち、また、その進歩に乗じて、輝かしい成功をつぎつぎにおさめていったのだが、やがて皇帝になると共に、ようやく権力のための権力をふるうようになって来た。そして自分の権勢を際限なく強めてゆこうとして、次第に世の中の多くの人にとってありがたくない人間になっていった。

吉野源三郎君たちはどう生きるか』(岩波文庫,1982)180頁)

 

 とはいえ、そのあとにも落魄のナポレオンに当時のイギリス人が敬意を表したエピソードなどがあり、この第5章には釈然としないものが残る。

 

 上記のような難点や、この記事の中ほどで触れた限界があるとはいえ、80年以上前に書かれた本書が漫画化などのきっかけによって注目・共感されたことによって、少年時代に本書を読みそびれた私のような人間まで読むことができたのは良かったのではないか。

 こういう本が受け入れられることと、選挙への投票先というと自民党か棄権になってしまう現実は整合しないとも思うが、安倍政権が長年続いていてこの政権しか知らない世代が増えている以上止むを得ない。それは戦争中に少年・少女の多くが「軍国少年・軍国少女」と化したのと同じ現象であって、現在の傾向は安倍政権が代わればがらっと変わるのではないか、だから現在安倍晋三は10代から30代までの支持が多いと誇らしげに口にするけれども、そんな状態はいつまでも続くものかと思う今日この頃だ。

 

林芙美子『戦線』と藤原彰『餓死した英霊たち』を読む

 先々週、某区図書館で興味深い本を見つけたので借りて読んだ。林芙美子の『戦線』だ。林が1938年に朝日新聞日中戦争・漢口攻略戦の従軍記者として派遣された時に書いた「戦線」に、1940年初めの厳冬期に満州を訪れて書き、実業之日本社が出していた月刊誌『新女苑』に連載されたらしい「凍れる大地」が併録されている。後者にも朝日新聞記者が協力したようだ。林は『戦線』を戦後に「黒歴史」にして敗戦6年後まで生きていたが、そのように林の全集にも収録されていない本を中公文庫が2006年に復刊し、2014年8月に改版を出した。後述のように、この経緯(特に改版時)にもきな臭さを感じさせるが、興味津々の本だったので借りた。だがその中身はあまりに不快だったので読み進むのに大きな抵抗があり、読むのにずいぶん時間がかかった。下記は、中公のサイトがなかなか引っかからなかったので『読書メーター』にリンクを張った。

 

bookmeter.com

 

 せっかく『読書メーター』にリンクを張ったから、その中からGen Katoさんの感想文*1を以下に引用する。

 

 
「お国のため」という大義名分で煽られた戦争は人間の心を高揚させ、判断力を失わせる。「兵隊が好き」な一庶民・ひとりの女であった林芙美子だからこそ、の舞い上がりぶりに、怖さと痛々しさを感じる。自らが同じ轍を踏まぬよう心する、そのための書。(ちなみに併録『凍れる大地』は文化人ぽいので、時代の制約があるとはいえあまりに差別的な表現など、作家としてどうなんだろうかと批判的に読める。

 

  「戦線」の文章は本当に酷くて、「私は兵隊が好きだ。」と何度も連呼した上、中国兵の死体を見て下記のように書き綴る文章を読まされると心底うんざりする。
 
まるでぼろのような感じの死骸でした。こんな死体をみて、不思議に何の感傷もないと言うことはどうした事なのでしょう。これは今度戦線に出て、私にとっては大きな宿題の一つです。違った民族というものは、こんなにも冷たい気持ちになれるものでしょうか。
 
林芙美子『戦線』中公文庫改版 2014, 31頁)
 
 中公文庫の編集部は、こんな文章が書かれた本のカバーに「女性らしい温かな視点で、陸軍第六師団の兵士たちの姿を綴った本書」などと書くのだから、開いた口が塞がらない。さすがは読売系の出版社だなあと思ってしまった。
 
 21世紀の読売系出版社の編集部と比較すれば、林芙美子の方がまだ「恥」だけは知っていたようで、戦後この本を「黒歴史」にしてしまった。もちろんその所業自体が恥知らずであって、読売系出版社の文庫本編集部が恥の上塗りをしただけの話ではある。
 
 一方、「凍れる大地」は相当にトーンが違っていて、のちに林の出世作『放浪記』が発禁になったせいもあったのだろうが戦争に協力するのを止めてしまった萌芽が見られる。具体的には、酷寒の満州に移民する人たちへの物資の供給が不十分であることを訴える記述が目立った。
 
 ところで、旧中央公論社が経営難に陥り、読売新聞グループの傘下に入って中央公論新社として再出発したのは1999年だから、早いものでそれからもう20年になるが、以後中公文庫や中公新書が保守化するとともに、読売新聞社の経営戦略を反映されるのが目立つようになった。
 
 林芙美子の『戦線』が中公文庫から復刊された2006年には、読売新聞は戦争を総括するキャンペーンをやっていた。林芙美子朝日新聞に派遣されて書いた『戦線』は、そのキャンペーンの趣旨に沿うとともに、朝日新聞社にダメージを与える狙いもあったのではないかと思われる。
 
 また、『戦線』が改版されたのは2014年8月だが、その直前には朝日新聞が自社のいわゆる「従軍慰安婦」の記事の訂正と謝罪を行い、右翼につけ込まれていた。それに便乗して、おそらく絶版になっていたであろう中公文庫版の『戦線』を、より朝日新聞社林芙美子の戦争責任を問うトーンを強めた佐藤卓己氏の解説を増補して改版を出したのではないかとの疑念が拭えない。もちろん佐藤氏の批判はまっとうなものではあり、林が戦争翼賛のトーンをやや弱めた「凍れる大地」についても、建前上は独立国だったはずの満洲国を林が繰り返し「植民地」と書いていることをとらえて、「戦前の日本人一般が満洲国を「植民地」と見なしていた事実を確認する上で、この紀行文は意義深いと言えよう」(本書269頁)と皮肉を込めて論評している。しかし、せっかくの佐藤氏の批判も、改版の出版時期や前述の文庫本のカバーに書かれた林芙美子を褒めるような文章によって、安倍政権に協力的な読売新聞の影が感じずにはいられない。正直言って、「なんだかなあ」と思ってしまった。
 
 とはいえ佐藤氏の解説文は時代背景や朝日・林双方の意図をよく分析していて読ませる。添付されたグラフは、1931年の満州事変以来、朝日・毎日・読売(笑)の三紙がいかに部数を急伸させたかを雄弁に物語る。戦争を煽ったのは御用新聞だった歴史を持つ毎日(東京日日・大阪毎日)の方が朝日よりも早かったが、毎日に追随した朝日は1941年に毎日を抜いて部数日本一になった。エピゴーネン(追随者)の方が過激になるという法則が当てはまったものか。林は最初には毎日から派遣されていたが、1938年に毎日が林から当時毎日の連載小説で人気を博していたという吉屋信子に乗り換えたため、朝日が林を引き抜いた。結果的には、より筆力のあった朝日の林が毎日の吉屋に勝ち、朝日が念願の部数日本一の座に初めて立ったのだった(その後70年代まで朝日が部数日本一だったが、1977年に読売が朝日を逆転して現在に至っている)。
 
 なお、本書を読み終えた直後に、藤原彰(1922-2003)の『餓死(うえじに)した英霊たち』(ちくま学芸文庫 2018, 単行本初出は青木書店 2001)を読んだ。
 
 
 林芙美子が「好きだ」と連呼した日本軍の兵隊たちの死因は、戦史よりも大本営兵站を軽視したことに起因する餓死の方が圧倒的に多かったことは、これまで読んだ多くの本が共通して指摘していたし、服部卓四郎や辻政信といった陸軍の中堅どころによる「下剋上」を許した陸軍の無責任体制が多くの日本軍兵士を犬死にさせたことも知っていたが、著者の藤原彰はその原因を「陸軍幼年学校」に求めている。現在でも小学校を卒業して名門中学を受験する小学校の児童たちがいるが、戦前の陸軍でそれに相当したのが「陸軍幼年学校」であって、服部卓四郎も辻政信も、そして彼らの大先輩である東条英機も陸軍幼年学校を経て陸軍士官学校陸軍大学校へと進んだ。彼らはほんの子どもの頃から命を天皇に捧げる狂った思想を叩き込まれてそれを実践したのだった。南京大虐殺も、食糧は現地で徴発せよと銘じられた兵士たちが略奪を行った延長線上にあると考えれば悪行が引き起こされたメカニズムが説明できるとは前から思っていたが、その根源は子ども時代の教育に起因すると考えるのが、確かに筋が通っている。
 
 自軍の人命を軽視する命令を受けた日本軍兵士が、戦地での非武装民の人命を軽視したのは必然だった。それに、戦前の日本は工業技術に立ち後れていたので、移動には車ではなく馬を使った。そして、日本から戦地である外国に送られた馬は一頭たりとも日本に戻らなかったと『餓死した英霊たち』には書かれている。
 
 このくだりを読んで思い出したのは、漢口攻略戦に臨んだ日本軍の兵士たちがいかに馬を大事にし、可愛がっているかを力説した林芙美子の『戦線』の文章だった。以下、『戦線』より引用する。
 
 天龍号と言う、人なつっこい馬もいましたが、私はいまだに、私の手から藁を食べてくれた、その愛らしい淋しげな天龍号の眼を忘れることが出来ません。
 
(中略)
 
 兵隊は実に馬を可愛がっていました。
 
 林芙美子『戦線』中公文庫改版 2014, 19頁)
 
 一方、藤原彰はこう書いた。
 
 日中戦争いらいの損害、とくに戦争末期の大陸打通作戦や南方諸地域での犠牲と、敗戦のさい外地に置きざりにされた数を加えると、戦争による馬の犠牲は、一〇〇万頭に近い数に達するはずである。少なくとも生きて還った馬は一頭もいない。たんに馬が犠牲になったというだけではなく、馬の根こそぎ徴発が、農業の生産力を低下させ、さらに戦後日本の農村風景を一変させたという影響を及ぼしていることもあげなければならない。
 
藤原彰『餓死した英霊たち』ちくま学芸文庫 2018, 182頁)

 

 林芙美子朝日新聞は、なんと空しく、かつ罪作りな仕事をしたことか。

堀田善衛『時空の端ッコ』を読む

 堀田善衛(1918-1998)が筑摩書房のPR誌『ちくま』に1986年から没年の1998年までエッセイを計150篇寄稿していた。それらは、1997年12月号掲載の分まで、同書房から4冊の単行本『誰も不思議に思わない』(1989)、『時空の端ッコ』(1992)、『未来からの挨拶』(1995)、『空の空なればこそ』(1998)として刊行され、さらに堀田の死去を受けて150篇全篇が『天空大風 全同時代評 一九八六年-一九九八年』(1998)のタイトルで出版された。

 それらのうち、地元の図書館に『誰も不思議に思わない』と『時空の端ッコ』が置いてあったので借りて読んだ。そのうち後者の『時空の端ッコ』を取り上げる。

 

www.chikumashobo.co.jp

 

 この本に収められた36篇のエッセイは、『ちくま』1989年1月号から1991年12月号にかけて掲載された。元号でいう「平成」の最初の3年間にあたるが、「平成」から現年号*1への切り替わりが安倍晋三の独裁を誇示する以外の何の意味も持たないこととは対照的に、全くの偶然ではあるが、改元と時代の変わり目が重なった。だからこれらのエッセイが書かれた1988年末から1991年末にかけての世界は本当の「激動の時代」だった。

 以下、エッセイからピックアップする。

 「歴史の時間軸」(1989年4月号)では「作家 Sakman Rushdieの小説 The Satanic Versus' すなわち『悪魔の詩篇』の巻き起こしている、一大騒動」*2、特に「イランのホメーニ師が『悪魔の詩篇と題された本の著者を、ここに死刑に処す』と宣告した」*3ことを取り上げる。堀田は、イスラム教徒のさる作家が「『われわれはこれ(この事件)を言論の自由問題とは見ない、侮辱なのだ』と言い切っている」*4ことを、下記のように論評した。

 

 歴史の時間軸の断面では、言論の自由という線は、おそらく聖性冒瀆といわれる線よりも、余程細いものなのであろう。せめてわれわれは、言論の自由という線の太さを、聖性冒瀆と怒る人々の線と、同じほどに太く保ちたいものである。

 

堀田善衛『時空の端ッコ』筑摩書房 1992, 24頁)

 

 続く「殺人産業大繁盛」(1989年5月号)には、当時新潮文庫から『トランプ殺人事件』という本が出ていたらしいこと*5に笑ってしまった。もちろん現在の米大統領とは関係ない。ネットで調べてみたら、竹本健治(1954-)という推理作家が1981年に書いた本らしく、この人は『涙香迷宮』(2016)で2017年の本格ミステリ大賞を受賞したとのことだ。

 「軍隊廃止国民投票」(1989年7月号)はスイスで行われたが賛成36%で否決された。しかしのちの1991年に同国で行われた良心的兵役拒否を認めるかどうかの国民投票は賛成56%で可決された*6のだから、何事にも挑戦が必要だ。

 「ヨーロッパ、ヨーロッパ!」(1990年1月号)はベルリンの壁崩壊を取り上げる。翌月の「ロマーニア、ロマーニア!」(1990年2月号)では、一部では安倍晋三夫妻の先駆者ともいわれるチャウシェスク夫妻の処刑を取り上げる。一般には英語読みの「ルーマニア」で呼ばれる国名の「ロマーニア」についての堀田のコメントが興味深いので以下に引用する。

 

 これは要するに “ローマ人の土地” という意であり、つまりはローマ帝国の殖民地を意味しよう。

 自分たちの国の名として、ローマの殖民地、という意のものを持つということに、奇異の念を持つ向きもあるかもしれないけれども、これはこれでローマ人、つまりはスラヴの地にあってラテン系であることを誇りにしているもの、と解すればよいものであったろう。

 

堀田善衛『時空の端ッコ』筑摩書房 1992, 80-81頁)

 

 「出エジプト記」(1990年3月号)は身につまされる。以下引用する。

 

 ジフコフ体制を倒して、ブルガリアの国民が集会、言論の自由などを恢復した、その矢先、デモンストレーションでの叫び声が、〈ブルガリア人のブルガリアを!〉というものであるのを知ったとき、私は背に冷たいものを感じた。人口の一五パーセントを占めるトルコ系の人々を追い出せ、という要求である。前の共産党政権は、日本帝国政府が朝鮮半島の人々に、日本名を強制したのとまったく同じに、トルコ系の人々にブルガリア名を強制し、革命後の臨時政権が、この強制法令を撤回したばかりのときであった。デモがトルコ系の人々の追放を国民投票に問え、と要求したときに、新しい、共産党をも含む臨時政権が、基本的人権の問題は、国民投票になじまぬ、と拒否をしたとき、私はやっと胸をなで下ろした。

 

堀田善衛『時空の端ッコ』筑摩書房 1992, 87-88頁)

 

 これは戦後直後には中国、のちにはスペインなどに長期の居住経験を持つ堀田善衛らしい感想だが、まことに民族主義とは度し難いものだ。余談だが、私が山本太郎にどうしても肩入れする気が起きないのは、山本氏と親しい三宅洋平が極度の民族主義者であることなどから窺われる、氏の民族主義への傾斜が一因になっている。

 「ジブラルタルは誰のものか」(1990年6月号)は、地理的にはどう考えてもイギリス領である根拠を見出し難いジブラルタルを取り上げている。このエッセイが書かれた1990年はもちろん、それから29年が経った今も、スペインはジブラルタルの「返還」をイギリスに求め続けているらしいのだが、この関係があるために、堀田によれば「英国の王室とスペインの王室は、たしか親戚関係にあったと思うが、この両王室の正式な公式相互訪問は、いまだに一度もない」*7とのことだ。私的な関係はあるけれども公式訪問はないという。これは1990年以降はどうなのか、ネット検索でもはっきりしたことはわからなかったが、2012年のエリザベス英女王の即位60周年を記念して行われた英王室主催の午餐会に招待を受けて出席するはずだったスペインのソフィア王妃がドタキャンで欠席したことを取り上げた記事がみつかったのでリンクを張っておく。

 

www.japanjournals.com

 

 堀田はもちろん「いわゆる北方領土には、すでに八千人を越えるソヴェト市民が住」んでいることに言及している*8ジブラルタルでは「何度住民投票をやってみても、スペインへの帰属を望まない人が三分の二を越える」*9というが当然だろうし、択捉や国後で同じ投票をやったら、日本への帰属を望まない人の比率はもっと高く、限りなく100%に近いことはほぼ間違いない。ただジブラルタル北方四島とで違うのは、イギリスはもはやジブラルタルに軍事基地など作らないことだ。このあたりが好戦的なロシアの独裁者・プーチンとは決定的に違う。

 「ドイツ統一」(1990年8月号)では、1930年代半ばに慶応大学の学生だった堀田が、ラジオで「ゲッペルス原文ママ)の脅迫的な演説」を聴いた直後に「リュシエンヌ・ボワイエの、甘くかつ悲愁の感を秘めたシャンソン」を耳にして、「もうドイツ語の勉強などはすまい」と決心して、「翌朝目が覚めるとすぐに、神田へ出掛けて行き、アテネ・フランセでのフランス語の学習を申し込みに行った」*10と回想している。

 「国家消滅」(1990年11月号)は、東ドイツドイツ民主共和国)という国家の消滅を、1945年の敗戦を前にして日本消滅を想定した武田泰淳が詠んだ「かつて東方に国ありき」で始まる長詩の思い出を重ねる。

 「歴史への逃避」(1991年5月号)では湾岸戦争が言及される。

 「モーツァルト頌」(1991年9月号)では、ドイツを嫌ってフランス語の勉強を始めた堀田が、ずっとモーツァルトに馴染めずベートーヴェンびいきだったことを告白しているのが面白い。私は逆で、二度の世界大戦におけるドイツの悪逆非道を知りながらも若い頃にはドイツへの忌避感を持たずにむしろドイツびいきだったくらいだったのに(最近になってドイツに対して「鬱陶しいなあ」という感覚を年々強めている)、モーツァルトには早くから馴染んでベートーヴェン、特にその中期作品を長年苦手にしてきた*11

 「回想(1)」(1991年11月)と「回想(2)」(1991年12月)ではソ連の終焉が言及される。この本に収録された前の3年分のエッセイを収めた『誰も不思議に思わない』にもソ連の話が再三出てくるが、共産党独裁国家だったソ連における作家などの芸術家ほど「面従腹背」を強いられた人々はなかった。そのもっとも特異な存在が、日本共産党志位和夫が愛好していることでも知られるマキシム・ショスタコーヴィチの音楽だと私は思っているが、堀田が書くソ連の作家たちの面従腹背ぶりにもまことに涙ぐましいものがある。一方、前巻にはソ連当局に抵抗する人たちを、こともあろうに敵国であるはずのアメリカがソ連当局に売り飛ばしてしまったことを、堀田がロバート・ケネディから聞かされたというとんでもない一件がでてくる。このように、権力とは何をやらかすかわからない。人は、いかなる権力者であっても絶対に全面的に信頼してはならないと改めて思い知らされた。

 以上ざっと眺めてみて、一点だけ残念に思ったのは、1989年6月4日に中国で起きた天安門事件に言及したエッセイがなかったことだ。もっともいろんなことが起こりすぎて書く機を逸してしまったということだろうし、「誰それが何を書かなかった」という言い方がいかにアンフェアであるか、これは10年前に「麻生邸ツアーについて何も書かなかったkojitakenは『自公の回し者』だ」という非難を「小沢信者」どもから受けたことがある私自身が身にしみて知っていることだ*12

 ところで、『時空の端ッコ』でもっとも印象に残ったのは、上記にずらりと挙げた時事的なエッセイではなく、「太陽と十字架」(1990年7月号)と題された一篇だった*13。これは、堀田が1980年から87年までスペインのカタルーニア地方に住んでいる頃に、スペインとフランスの国境地帯にあるピレネー山脈で見かけた墓石の話。13世紀の墓石には、円型に囲まれた十字が刻み込まれていて、「この十字模様の皿の如きものは、平べったく地面にはいつくばっているのであった」という。それが、16世紀の墓石になると、「大分十字がはっきりして来ていて、これは立っていて、十字の下部は土に突き刺してある」。さらに17世紀の墓石になると、円型が小さくなって十字がその外に突き出している。

 堀田は、アンリ・ルフェーブルという社会学者にして哲学者の著書『太陽と十字架』(邦訳は松原雅典氏訳・未来社刊=1979)を読んで、下記の解釈を得た。以下引用する。なお下記引用文に「(略)」が多数出てくるが、これは本には堀田善衛自身が描いた墓石の絵が載っていて、それに言及した箇所を省略したものだ。絵を引用しないのでわかりにくいかもしれないがご容赦願いたい。

 

 この不思議な墓標の、円型部分は古代の太陽信仰、宇宙の象徴としての太陽を表象したものであるとのことであった。

 つまり、古代の南仏の人々の太陽信仰のなかへ、キリスト教が十字架をかかげて侵入――ことばはわるいが――して来て、次第に太陽=宇宙を駆逐し、遂に十字架にかける過程を(略)、まことに如実な形で示していたのであった。

(中略)

 十三世紀の半ばに、宇宙開闢論をも内包していた異端キリスト教が、十字軍によって焚殺され、(略)十六世紀になると太陽は(略)十字架によって突き刺され、十七世紀(略)には、もはや後背の如きものに後退し、見方によっては、太陽は十字架にかけられている。やがて太陽も消えてしまう。

 (中略)

 自身も南仏人であるルフェーブルの結語は、激烈なものであった。

「もしいつの日か太陽の十字架が、その真正にして、完き意味をとり戻すなら、この象徴の描かれている旗は、まっさきに、ここ、太陽に捧げられ、十字架に粉砕されたこの岩(モンセギュール山)の上に翻らねばならぬであろう。」と。

 

 もう二千年もたつと、ひょっとすると十字架は消えて、太陽が復活して来、やがてまた太陽だけになるかもしれない……。

 

 堀田善衛『時空の端ッコ』筑摩書房 1992, 112-114頁)

 

 アンリ・ルフェーブルの結語も激烈だったかもしれないが、それに共感する堀田善衛もまた激烈だ。堀田にはこういう激しさもある。

 この論考が当を得ているかどうか私にはわからないが、本書の中でもとびきり印象に残る一篇だった。

*1:この年号は私のブログでNGワードにすると決めたのでここでも表記しない。

*2:『時空の端ッコ』単行本21-22頁。

*3:同22頁。

*4:同24頁。

*5:同26頁。

*6:同41頁。

*7:同107頁。

*8:同108頁。

*9:同108頁。

*10:以上、同115-116頁。

*11:私が苦手とするベートーヴェンの中期作品の代表格が、日本では「運命」と呼ばれる第5交響曲ハ短調だ。そればかりか、この曲に強く影響されたブラームスの第1交響曲ハ短調も、概してブラームスとは相性の良い私としては例外的に、大の苦手とする音楽であって、その相性の悪さはベートーヴェンの第5交響曲を上回り、今もあらゆる大作曲家の名曲とされる交響曲のうちもっとも苦手な音楽であり続けている。

*12:逆に、こんな経緯があったからこそ私は「小沢信者」どもを絶対に許さないのだ。

*13:同109-114頁。

「世界三大悪妻」って? - 小宮正安『コンスタンツェ・モーツァルト』を読む

 大作曲家・モーツァルト(1756-1791)の妻・コンスタンツェがいわゆる「悪妻」で、ハイドンともう一人の誰か*1と合わせて「大作曲家三大悪妻」などと言われていることは昔から知っていた。しかし、そのコンスタンツェがどうやら日本でだけ「世界三大悪妻」に数え入れられているらしいことは、下記の本を読んで初めて知った。

 

bookclub.kodansha.co.jp

 

 本書によると、コンスタンツェ以外の「悪妻」の2人は、ソクラテスの妻・クサンティッペトルストイの妻・ソフィアとされるが、場合によってはソフィアの代わりにナポレオン・ボナパルトの最初の妻・ジョゼフィーヌでも良いとのことだ。ほんまかいなと思って検索語「世界三大悪妻」でネット検索をかけたら、もののみごとにソクラテスモーツァルトトルストイの名前が挙がっていたのでびっくり仰天した。私は70年代に武川寛海(1914-1992, 音楽評論家にしてゴダイゴタケカワユキヒデの父)が書いた音楽史のエピソードを集めた類の本をよく読んだが、コンスタンツェの良い評判は確かに記憶にないけれども、そこまで極端にこき下ろされていた記憶もない。また、映画『アマデウス』でもコンスタンツェはそんな滅茶苦茶な人物造形はされてなかったように思うのだ。

 ところが、モーツァルトの研究家の間では昔から結構コンスタンツェは滅茶苦茶に叩かれていたらしい。それは何故か、というのが本書の主題なのだが、「モーツァルト信者」がモーツァルトを崇拝する勢い余って、というと、私が普段ヲチしている政治家の例がすぐに連想される。

 たとえば小沢一郎という政治家がいる。ここで小沢の名前を挙げると、あんな奴を引き合いに出すなんてモーツァルトに失礼だとのお叱りを受けそうだし、崇拝される対象(モーツァルトと小沢)が月とスッポンだとは私も強く思う*2。しかし、崇拝する側の「信者」の心理は実によく似ているのだ。小沢一郎には熱狂的な「信者」が多数いて、贔屓の引き倒しは日常茶飯事だ。その小沢は数年前に離婚したらしく、それを週刊誌に書かれたことがあるのだが、それを指摘した人間が現れるや「信者」たちはいきり立ち、デマを流す人でなしとして、激しい罵詈雑言が浴びせられたものだ。しかし、小沢の離婚が事実だったことがわかると、今度は小沢の元妻が「信者」に非難された。つまり、小沢一郎はその「信者」にとっては神聖不可侵なのだ。

 モーツァルト研究家たちのコンスタンツェに対する憎悪は、「小沢信者」の狂信性とそっくりだ。少なくとも私は本書を読みながらしばしば「小沢信者」たちの狂態を思い出していた。

 では、コンスタンツェはどのように罵られていたのか。一昨年に本書が刊行された直後に首藤淳哉氏が書いた書評から、以下に引用する。

 

honz.jp

 

(前略)『コンスタンツェ・モーツァルト 「悪妻伝説の虚実」』は、世界三大悪妻とまで称されるモーツァルトの妻の実像に迫った一冊。伝説というものがいかに形成されていくか、そのプロセスが明らかにされていてきわめて面白い。

コンスタンツェがいかにボロクソに言われているか、ちょっと見てみよう。たとえば、モーツァルトを崇拝する音楽学者アルフレート・アインシュタインは、コンスタンツェをなんと「蠅」呼ばわりしている。ハエですよ、ハエ!

このアインシュタインなる音楽学者はこう言いたかったらしい。コンスタンツェのような凡庸な女性の名前がいまでも歴史に残るのは、モーツァルトが彼女を愛したからだ。モーツァルトが人類史に永遠に名を残すような天才だったからこそ、彼女もモーツァルトとともにその名が残ることになったのだ……。それを評して「琥珀の中に蠅が閉じ込められたようすと同じ」と述べたのである。

淑女をつかまえて蠅呼ばわりとは。立派な名誉毀損だろう。だがこのコンスタンツェについては、専門家たちは治外法権かよというくらいに言いたい放題なのだ。気の毒に彼女はそんな連中から悪罵のかぎりを投げつけられてきた。それも200年もの長きにわたって、である。(後略)

 

出典:https://honz.jp/articles/-/43950

 

 そういえば「ツェツェバエ」という蠅がいたな、という駄洒落はともかく、アルフレート・アインシュタインが書いたモーツァルトの評伝の邦訳(ハードカバーの分厚い本だった)は、高校の図書館に置いてあったので、全部読んだわけではないが、かなりの部分を読んだ。だが、この音楽学者がコンスタンツェを「蠅」呼ばわりしたくだりは全然覚えていない。

 本書によると、アインシュタインはコンスタンツェの母・チェチーリアについても、

「嘘をつくしか能がないヒステリー女」であるとか「十字蜘蛛」(その蜘蛛の糸モーツァルトが引っかかったというわけである)と表現している(本書212頁)

と酷評しているという。有名なモーツァルトの評伝を書いた学者、つまり斯界の権威がここまでウェーバー母娘をこき下ろしていることに「お墨付き」を得てというわけなのかどうか、モーツァルト伝の世界では、コンスタンツェ(やその母)をこき下ろすことが「デフォ」(デフォルト)になっているようなのだ。なお、本書によれば、コンスタンツェをこき下ろすのは何もアインシュタインが始めたわけではなく、それ以前から連綿と続いていたのだが、私でさえ高校生の頃から名前を知っていた学者が与えた影響は小さくないだろう。

 このようなコンスタンツェ批判について、本書発刊当時に著者は下記のように論評している。

 

gendai.ismedia.jp

 

叩くほどに満たされる優越感

それにしても、この問いに迫るべく数あるさまざまなモーツァルトに関する、とくに評伝を読み進めてゆくと、出てくるわ出てくるわ。罵詈雑言といってよい評価が、しかもふだんは上品かつ知的なふるまいを旨としているかのような学者や評論家といったインテリも巻きこんで……といおうかインテリを中心として多数発せられているのである。

ちなみにモーツァルトの評伝が次々と出版されてゆくようになるのは19世紀後半から20世紀にかけてのこと。いわゆる進歩・進化の思想がヨーロッパ中に定着してゆくなかでのできごとであって、そうなると前人の描いたモーツァルト像を後に続く人間が乗り越えようとするなか、ことコンスタンツェに関しては先行する著作の上をゆくような悪妻ぶりが喧伝され、現在に至るまでますます収拾のつかない状況が生まれることとなった。

さらに明治時代以降、西洋音楽を熱心に取り入れていった日本においても、「本家本元」のヨーロッパにおけるコンスタンツェ像が無批判に流入し、ついに世界三大悪妻――この表現もどうやら日本独特のものらしいが――のひとりと言われるまでになった。

だが、モーツァルトの評伝を書いた著者のほとんどは、当然のことながらコンスタンツェを直接には知らない。では、なぜ彼女にたいする否定的評価が生まれたのかという理由については本書を読んでからのお楽しみとさせていただきたいが、ひとつだけネタばらしをさせていただくならば、どのような人間のなかにも必ず潜んでいるにちがいない、他者を貶めることによって得られる優越感を挙げられる。

モーツァルトの音楽はすばらしい、だから彼のことをもっとよく知りたい……、これは純粋な愛情や好奇心の為せる業だ。だがそれが一歩まちがうと、モーツァルトの音楽を愛でることのできる、あるいは彼について知識を持っている自分こそが優れている=自分以外はモーツァルトの音楽も人となりもわかっていない劣った人間である、という図式ができあがる。

昨今の偏狭なナショナリズムにも通じるナルシスティックな思いこみであって、本来であればそのような感情を理性によってコントロールする術を心得ているはずのインテリですら、この誘惑から逃れられない。

そんな人間の隠された本性を映し出す鏡こそ、コンスタンツェなのではないか? ひとが彼女を評価するとき、その評価のなかに当の本人の人格のすべてが浮き彫りになってしまうという恐るべき鏡。

本書では、そんな存在としてのコンスタンツェのありかた、あるいは彼女を評してきた人びとの姿を能うかぎり描いたつもりである。コンスタンツェを語るとき、人はふだん見せることのない陰の部分をも含めた己をきっと語っている。

 

出典:https://gendai.ismedia.jp/articles/-/51281

 

 著者は、コンスタンツェ批判に走る人たちの動機を「他者を貶めることによって得られる優越感」だと書いているが、私にはそれには異論がある。

 優越感というより、コンスタンツェに対する嫉妬ではなかったかと思うのだ。「モーツァルトを独り占めしやがって」という嫉妬。優越感より嫉妬の方が人間を動かすパワーとしてはずっと強力だと私は思う。

 著者は「昨今の偏狭なナショナリズムにも通じるナルシスティックな思いこみ」とも書いている。昨今はやりの「日本スゴイ」的な言説を指すのだろうが、あれだって本当に日本の経済力が強かった頃には声高には語られなかった。それが最近になって盛んになったのは、日本が斜陽国になって、代わって中国などが台頭してきたからだろう。つまり中国に対する優越心というよりは嫉妬。もっとも最近では中国には敵いそうもなくなってきたから韓国叩きに専念する傾向が、安倍晋三を筆頭に多くの右翼人士の間に見られるようになったが、あれなら「優越感」の歪んだ表れといえるかもしれない。でもそれだって中国には勝てないからせめて韓国を苛めようというスネ夫的な根性の表れだろう。

 そのほかに、本書で面白いと思ったのはナチス時代の話だ。この時代にはコンスタンツェに代わってフリーメーソンが悪玉として槍玉に挙げられていたという。それを流布したのはマティルデ・ルーデンドルフ(1877-1966)という「ドイツ参謀本部次長を務め、総力戦理論を構築した軍人・政治家のエーリヒ・フリードリヒ・ヴィルヘルムルーデンドルフ(1865-1937)の妻」*3で、

フリーメーソンユダヤ人、イエズス会マルクス主義などの陰謀を排除し、ドイツ民族の自立を謳う「タンネンベルク団」を夫が結成するにあたり、その理念に大きな影響を与えた

という。なんともすさまじいトンデモ夫婦がいたものだが、このくだりを読んだ時にも私はリチャード・コシミズだの今は亡きヘンリー・オーツ(大津久郎)だのを思い出したのだった。ネット検索をかけて、「独立党」が今も存在することを確かめたくらいだったが、いわゆる「小沢信者」集団にはこの流れもあることを忘れてはならない。もっとも、ここらへんの話はごく一部の人にしかわからないかもしれない。それこそこちらの私怨も残っているので、読み飛ばしていただければ幸いである。

 話は逸れたが、マティルデ・ルーデンドルフが展開したのはフリーメーソンモーツァルトを謀殺したという陰謀論であり、この陰謀論を採った場合にはコンスタンツェを悪玉にする必要がなくなるので、コンスタンツェは一転して被害者として描かれているという。しかしこれを著者は下記のように評している。

 ただし、一見するとコンスタンツェ擁護論のように思えるこの著作には、従来多くのモーツァルト伝でおこなわれてきた手法、つまり書き手が裁き手となり、スケープゴートを作ることでモーツァルトの謎めいた人生を説明するという手法があいもかわらず取り入れられている。あくまでその対象が、コンスタンツェからフリーメーソンに変わったというだけの話に過ぎない。(本書198頁)

 

 これは説得力のある説明だが、裏を返せばアインシュタインを筆頭とする音楽学者たちの「コンスタンツェ悪玉論」で描かれるコンスタンツェとは、ナチスの理論を構築する陰謀論者が悪玉に仕立てるフリーメーソンユダヤ人やイエズス会マルクス主義者たちと同じ位置づけの「冤罪」の被害者といえると思う。現在も「小沢信者」たちは「野党共闘」への忠実さで味方の人間的価値を測り、悪玉を仕立て上げようと内輪の活動にばかり熱中して肝心の選挙で惨敗を重ねる愚を犯しているが、同じ誤りをナチスのイデオローグのみならず平和な時代の「真面目」なはずの研究者や音楽評論家、いやそれにとどまらず演奏家たちも犯してきた*4

 結局結論は、本書284頁の見出しになっている「人びとは敵役を欲する」ということに尽きようか。この一言で、モーツァルト・ファンや音楽学者やナチスのイデオローグや「小沢信者」どもの生態などなど、すべてが説明できる。

 最後に、モーツァルトが妻・コンスタンツェにソプラノ独唱のパートを歌わせる意図で書かれた「ミサ曲 ハ短調(K.427)」の「精霊によりて(Et incarnatus est)」の動画を貼っておく。この音楽こそ、コンスタンツェ論の結論ではないかと私は思う。

 


Wolfgang Amadeus Mozart - Mass in C minor (1783) - "Et incarnatus est" (Sylvia McNair)

*1:ネットで調べたらチャイコフスキーであることがわかった。

*2:私は中学生の頃からのモーツァルティアンである一方、小沢一郎は『日本改造計画』の頃から大嫌いだ。

*3:本書196頁

*4:本書ではそのような演奏家の具体的人名として、数年前に亡くなったニコラウス・アーノンクール(1929-2016)が挙げられている(本書239-241頁)。

鹿島槍ヶ岳に死す - 山岳の惨劇(最終回)松本清張「遭難」の創作に協力した登山家は加藤薫だったか

 前回に続く連載4回目。馳星周選の『闇冥』(ヤマケイ文庫)に関する連載は、今回が最終回になる。

 

www.yamakei.co.jp

 

 今回は、第1回で触れた松本清張と加藤薫、つまり同じ「遭難」というタイトルで同じ主人公名の山岳短篇を書いた2人の小説家のかかわりについて、これまでにわかったことをまとめる。

 この件については、一昨年の暮れに書いた下記エントリの内容を一部修正せざるを得ない。本エントリ公開後、同エントリに追記を行う。

 

kj-books-and-music.hatenablog.com

 

 勿体ぶって書いたが、実は加藤薫に関する情報が相変わらずほとんど得られないのだ。1974年に筆を折ってからの加藤、本名江間俊一氏の消息は不明で、第1回にも書いた通り、『闇冥』の巻末に

●加藤薫氏の著作権継承者のご消息をご存知の方は、編集部までご連絡いただきたくお願いいたします。

と書かれていることから、山と渓谷社の「ヤマケイ文庫」編集部でも消息を把握できていないようだ。

 遭難 (松本清張) - Wikipedia には相変わらず、下記の記載がある。 

  • プロットを考えた松本が、登山家(のちに作家)の加藤薫に相談したところ、そのプロットには鹿島槍の頂上がちょうどいいとの説明を受け、加えて加藤は松本(と『週刊朝日』で『黒い画集』シリーズ担当の永井萌二)を鹿島槍ヶ岳に連れて登山し、「現地講義」を行ったが、山の中腹まで現地を踏み、実景を見た点で、書くのに自信がついた、と松本は回想している[3]

 

 上記引用文からリンクされた [3] をたどると、脚注として

「灰色の皺」に加えて、扇谷正造「『黒い画集』の思い出」(『松本清張全集 第4巻』(1971年8月、文藝春秋)付属の月報に掲載)参照。

と書かれている。 しかし、私が『松本清張全集 第4巻』の月報を確認した限り、扇谷正造の「『黒い画集』の思い出」には加藤薫の名前は出てこない。一方、清張のエッセイ「灰色の皺」(初出『オール讀物』1971年5月号)は中公文庫の『実感的人生論』(2004)で読める。

 

www.chuko.co.jp

 

 第1回でも少しだけ書いたが、清張自身が加藤薫に触れた部分は1箇所だけだ。以下引用する。 

  山といえば、十年ばかり前に『遭難』というのを書いたことがある。当時は登山ブームの興隆期で、ジャーナリズムも山の遭難を男性美扱いにしていた。ある山登りの人が雑誌の座談会かで「山に登る人間には悪人が居ない」などと云っていた。あるいはそうかもしれないが、そういう決定的な言い方に少しばかり反撥を感じた。そこで、一応のプロットは考えたが、わたしは登山など一度もしたことがない。ある登山家に相談すると、そのプロットにちょうどいいのは鹿島槍の頂上だという。克明に地図で説明してくれたが、登山靴を初めて買って出かけたような男だから、山の中腹で落伍した。わたしは心臓があまり丈夫でないし、足弱の点は女なみである。けれど、たとえ中腹だけでも現地を踏み、実景を見たという点では書くのに自信がついた。

 加藤薫氏は登山の経験家だから、その点は危なげがないばかりか、エキスパートだけが知る感覚と発見がある。前にスイス側からのアルプスを背景とした氏の短編を読んだことがあるが、惹かれた。氏も「登山家の悪人」を書いているから、わたしも意を強くしている。

 

松本清張「灰色の皺」より - 『実感的人生論』中公文庫 2004, 143-144頁)

 

 さらに清張には「『黒い画集』を終わって」と題した小文を書いていて、前記清張全集の第4巻に収録されているが、こちらは1961年に刊行された『黒い画集』のカッパ・ノベルス版第3巻の巻末が初出で、加藤薫の名前は出てこない。この文章には、清張が冷池小屋(現冷池山荘、「冷池」は「つべたいけ」と読む)まで登ったことが記されている。

 おそらく、Wikipediaに「加藤薫が清張に協力した」と書いた人は、「灰色の皺」の上記引用文から、「ある登山家=加藤薫」と推定したと思われるが、それは確かではない。というのは、加藤薫が小説家としてデビューしたのは1969年の「アルプスに死す」によってであって(上記引用文中で清張が褒めたのはこの小説と思われる)、清張の「遭難」は加藤のデビューよりも11年も前の作品だからだ。しかも、清張のエッセイでは「ある登山家=加藤薫氏」だとは一言も書いていない。そればかりか、加藤薫に対しては「登山の経験家」として「登山家」とは書き分けているから、上記の文章から「ある登山家=加藤薫」と断定するには無理がある。

 加藤薫の「遭難」は、清張作品と同じ鹿島槍を舞台として(加藤作品では「海抜三千メートルの北アルプスK峰」と書かれているが、これが鹿島槍を指すことは雑誌初出時=『オール讀物』1970年1月号=に雑誌の目次でバラされている*1)同じ主人公名で書かれているが、これは加藤薫が実際に冬の鹿島槍で死亡事故を起こしたパーティーのメンバーだったことと、自作を評価してくれた清張へのオマージュへの意味合いがあったのではないかとも推測される*2。同様に清張の「遭難」へのオマージュをこめた作品として私が思い出すのは、折原一の長篇『遭難者』だ。

 

www.kadokawa.co.jp

 

  折原の『遭難者』は、単行本初出時及び角川文庫版では遭難事故の追悼文集と解決編の2冊組という凝った作りになっているが、最初に追悼文が置かれる構成はまんま清張の「遭難」であり、舞台も同じ北アルプスの、しかし鹿島槍ではなく不帰ノ嶮(かえらずのけん)になっている。不帰ノ嶮近くにある不帰キレット鹿島槍の近くにあって小説中でパーティーが目指した八峰キレットは、槍ヶ岳穂高岳を結ぶ縦走路にある大キレットと並んで「三大キレット(切戸)」と呼ばれる難所だから、折原が舞台設定でも清張作品を意識していたことはあまりにも明らかだ。

 作家の阿刀田高も、普段登山をしない清張が「遭難」を書いたことに舌を巻いた一人だ。以下、阿刀田の『松本清張を推理する』(朝日新書 2009)から引用する。

 

publications.asahi.com

 

 阿刀田はまず清張の「『黒い画集』を終わって」を引用し、そのあとに次のように書いている。

(前略)旅行好きの人ではあったが、本格的な登山の経験は乏しい。しかし〈遭難〉は、その知識なしでは創れるしろものではない。

 ――ずいぶんと勉強したんだろうなあ――

 と舌を巻いてしまう。

 まったくの話、ミステリーが求めるにふさわしい状況を現実の中に見つけだすのは、ほとんどの場合すこぶるむつかしい。とりわけ〈遭難〉の場合、それなりのキャリアを持つ登山家が、そこで、どう道をまちがえるか……まちがいやすいものか、さらにまちがえた結果がミステリーのプロットが求めるような状況になるかどうか。熟慮を経なければ書きにくい。熟慮しても見つからないかもしれない。

 逆ならば、ありうる。多くの登山を経験し、そのあとで、

 ――あそこならミステリーの舞台になるかなあ――

 と筆を執るのが通例だ。わかりやすい。

 が、それではなく、未経験者が登山関係の資料をあさり、登山家の話を数多く聞き、鹿島槍の一コースを見つけたのは、まさに松本清張という作家の情報収集の凄さであり、嗅覚の鋭さであり、一つの好運でもあったろう。よい舞台がみつからなければ、この作品は最初(はな)から生まれなかったろう。よい協力者も実在したにちがいない。

 そして執筆を決めたあとで、四十八歳の年齢にもかかわらずそのコースを瞥見しようとしたようだ。これは、まあ、小説家ならたいてい実行する。実行しないと書きにくい。清張さんなら当然試みただろう。

 さらに発表するまでに登山家の入念なチェックも受けたにちがいない。結果として登山家から見て作品内容は、登山の常識からほとんど逸脱することのない記述となった。

 みごとである。名作である。努力賞は文句なしだ。

 が、推理小説としては、どうなのだろうか。まったく瑕瑾がないだろうか。

(中略)

 古典的な……江戸川乱歩のころの探偵小説を思い出してしまう。(後略)

 

阿刀田高松本清張を推理する』朝日新書 2009, 122-125頁)

 

 引用文の最後の方で「(中略)」とした部分で阿刀田高がつけたいちゃもんは、動機を重視する社会派のはずの清張作品にしては動機が月並みで、まるで江戸川乱歩の頃の探偵小説みたいじゃないかということだが、清張は「遭難」を掲載した『週刊朝日』向けの小説では、肩の力を抜いた作品を書くことが多かった。清張が力んで書くのはたいてい文春か新潮の媒体に載せる作品だったと私は認識している。だから阿刀田の批判は当たってはいるけれども仕方がないというのが私の意見だ。清張の晩年には『週刊朝日』に短篇を書くつもりがあっちこっちに寄り道したとりとめのない長篇になったりもしたが、40代後半の1950年代後半がもっとも脂の乗り切った時期で、その頃に書かれた『黒い画集』は清張の代表的な短篇集に仕上がっている。

 それはともかく「遭難」を入念にチェックした登山家の協力者がいたことは事実だろう。清張を鹿島槍に案内したのもその登山家だ。

 しかし、その登山家が加藤薫だったという確証はつかめなかった。というより、清張の「遭難」に協力したのは、加藤薫以外の登山家だった蓋然性が高いというのが、私の到達した結論だ。

 

 以上でこの連載を終わります。まとまりのない長文を4回もお読みいただいた読者の方々には厚くお礼申し上げます。

*1:http://naokiaward.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/63_975b.html

*2:清張のエッセイ「灰色の皺」は加藤の「遭難」よりあとに書かれているが、加藤の「アルプスに死す」の発表後すぐに、この作品が清張から評価されたのではないかと想像される。

鹿島槍ヶ岳に死す - 山岳の惨劇(第3回)新田次郎「錆びたピッケル」、森村誠一「垂直の陥穽」など

 前回からだいぶ間が空いてしまった。馳星周選の『闇冥 - 山岳ミステリ・アンソロジー』に収められた新田次郎の「錆びたピッケル」のヒントになった遭難事故に関する情報がなかなか発見できなかったためだが、ようやくわかった。

 

 

  「錆びたピッケル」(1962)が現在上記ヤマケイ文庫以外の文庫本で読めるかどうかは知らない。またこの小説が『闇冥』の冒頭に置かれた松本清張の「遭難」(1958)に影響されたかどうかもわからない。だが、山で事故を起こさせて登山者を死なせようとした動機や、死亡事故が必ず起きるかどうかわからない「可能性の殺人」である点は清張作品を思わせる。但し、江戸川乱歩が清張作品に先立つ1954年に、

日本では谷崎潤一郎氏が、私の所謂「プロバビリティーの犯罪」に先鞭をつけている。同氏の「途上」という初期の短編がそれだ。

と書いている*1。乱歩は谷崎の「途上」(1920)に触発されて短篇「赤い部屋」(1925)を書いたとのことだから、清張や新田はそれを山岳ミステリーに適用したという位置づけになる。「途上」も「赤い部屋」も「青空文庫」でアクセスできる(下記リンク)。

 

www.aozora.gr.jp

www.aozora.gr.jp

 

 『闇冥』収録作品に戻ると、新田次郎の「錆びたピッケル」は犯人の意外性に特徴があり、私はいわゆる本格推理小説をほとんど読まないから(清張小説はこの範疇には属さない)真犯人に気づかなかったが、本格者の愛読者なら気づいたんだろうなと思う。「錆びたピッケル」の「可能性の殺人」で被害者を死に至らしめるのはピッケルの破損だが、モデルとなった事故があることは作者・新田次郎のエッセイ「“世界一”のピッケル」で作者自身が書いている。このエッセイはやはりヤマケイ文庫から出ている『新田次郎 山の歳時記』(2012)で読める。初出は朝日新聞科学面に1963年から翌年まで連載された「白い野帳」で、1965年に朝日新聞社から単行本化されたが現在はもちろん絶版だ。

 

新田次郎 山の歳時記 (ヤマケイ文庫)
 

 

 以下新田のエッセイから引用する。

 

(前略)二、三年前に溶接ピッケルを持っていたがために、命を落した事件があってかなり騒がれたことがあった。溶接ピッケルなら激しい打撃を受けると、折れる可能性は十分ある。

新田次郎「“世界一”のピッケル」より - 『新田次郎 山の歳時記』ヤマケイ文庫 2012, 37頁)

 

 新田の書く「事件」などネット検索で簡単にみつかるだろうと思ったのだが予想に反してなかなかみつからなかった。ようやく下記の文章を発見した。

 

http://www.nirayama.com/~suwabe/Pickel/Sendai/S6.htm

 

 1960(昭和35)年11月末、東北大学山岳部パーティの一人が北穂高岳の稜線から滝谷側に滑落した。この遭難者が持っていたピッケルは、いわゆる溶接ピッケル(ヘッド上半分とフィンガを含む下半分とを別々に作って溶接した物)であった。遭難者は数度滑落停止を試みたようだが滑落を止めることはできず帰らぬ人となってしまった。後日出動した捜索隊によって、ヘッドの上半分がなくなってしまったシャフト部分が発見され、ピッケルの破損が遭難死の2次原因と推定された。

 この遺品のピッケル東北大学金属材料研究所(以下金研)に持ち込まれ、金研教授の今井勇之進、広根徳太郎らによって分析が行われた。その結果このピッケルは溶接個所が少なく、溶接の仕方も不良であったことが判明した。さらに当時市販されていた他のピッケルも調べた結果、一流品と評価されているものでも金属学的には全く不満足な処理しかされていないという悲観的な調査結果が出された。

 東北大学の地元仙台市には山内東一郎という優れたピッケル鍛冶がいたが山内はこの時既に70才を迎え、ピッケル作りは年に10数本程度になってしまっていた。山内を輩出した金研では、登山者に安心して託すことができ、山内と同等以上の性能でなおかつ近代的なピッケルを作り出すことが急務であると考えた。そしてその話を引き取ったのは同じ仙台市にある東洋刃物株式会社であった。(後略)

 

 新田作品のヒントになったのは穂高で起きた滑落事故だった。新田は舞台をマッターホルンに置き換え、「山内(やまのうち)のピッケル」は「門内(もんない)のピッケル」に名を変えた。山内のピッケルは「ヘッド上半分とフィンガを含む下半分とを」一体に作った「鍛造ピッケル」と呼ばれる製品で、これなら折れるはずはなかったのだが、殺人者によって「溶接ピッケル」にすり替えられたために登山者が死に至ったという筋立てだ。但し、作品の面白さはそこにではなく犯人の意外性とそれがもたらした人間関係の皮肉な結末にある。

 

 『闇冥』の最後に置かれた森村誠一の「垂直の陥穽」(1971)の後半部で描かれた壮絶な遺体収容作業の下敷きとなった事件は、

作者自身が短篇の最後に「作者付記」として、この小説は、群馬県警本部編「この山にねがいをこめて - 谷川岳警備隊員の手記」を参照しましたが、物語や登場人物はすべてフィクションです。

と明記しているおかげもあって、特定は容易だ。事故は下記のWikipediaにまとめられている。

 

ja.wikipedia.org

 

 以下上記Wikipediaより引用する。

 

谷川岳宙吊り遺体収容(たにがわだけちゅうづりいたいしゅうよう)は、群馬県利根郡水上町(現:みなかみ町)にある谷川岳の一ノ倉沢で発生した遭難死亡事故における遺体収容である。遺体がクライミングロープ(ザイル、以下ロープと記述する)で宙吊りになって回収困難となったため、ロープを銃撃切断し、遺体を落下させて収容した。

遭難

1960年昭和35年)9月19日群馬県警察谷川岳警備隊に一ノ倉沢の通称「衝立岩(ついたていわ)」と呼ばれる部分で、救助を求める声が聞こえたとの通報があり、警備隊が現場に急行したところ、衝立岩正面岩壁上部からおよそ200m付近でロープで宙吊りになっている2名の登山者を発見した。

2名は、前日に入山した神奈川県横浜にある蝸牛山岳会の会員で、20歳と23歳の男性だった。発見時、遠方からの双眼鏡による観測で2名がすでに死亡していることが確認された。両名死亡のため遭難原因は不明だが、行動中だった方がなんらかの理由でスリップし、確保側も支えきれず転落したものと推測されている。

遺体収容

現場となった衝立岩正面岩壁は、当時登頂に成功したのは前年8月の1例が初という超級の難所で、そこに接近して遺体を収容するのは二次遭難危険が高く、不可能と思われた。

当初は所属山岳会の会員らから、に浸したボロを巻いた長いでロープを焼き切る案が出されたが、岩壁からロープまでの距離も長く、検討の末に不可能と判断された。当初は所属山岳会で収容を予定していたが、9月21日、新聞記者の早のみこみで「自衛隊出動か」との新聞記事が出てしまった。

実際9月21日所属山岳会は収容作業を行ったが、収容作業を行うには二重遭難承知でやらざるを得ないということが判明し、所属山岳会で同日夜の対策会合で紛糾の上、自衛隊の銃撃による収容を決定し、9月22日9時、山岳会代表者と遺族代表の連名による群馬県沼田警察署長への「自衛隊出動要請書」による要請で遺体を宙吊りにしているロープを銃撃により切断し、遺体を収容することになった。

要請書に基づき、9月22日、群馬県警本部は県知事の了承を得た上で、外勤課長より10時30分自衛隊に出動要請を行い、自衛隊側は上局の承認を得た上で、同日19時、条件付きで出動を受ける旨の回答を群馬県警本部へ連絡した。

9月23日陸上自衛隊相馬原駐屯地から第1偵察中隊狙撃部隊が召致され軽機関銃2,ライフル銃5、カービン銃5の計12丁、弾丸2000発を持ち込み、17時頃より土合駅前広場で待機、9月24日3時頃より警察署員により想定危険区域への一般人立入を禁止した上で、銃撃を試みた。銃撃場所(中央稜第二草付付近)からロープまでの距離は約140メートルもあり、射撃特級の資格所持者が揃っていてもロープの切断は難航を極め、朝9時15分からの2時間で射撃要員15名により1,000発以上の小銃軽機関銃弾丸を消費したものの成功しなかった。その後、午後12時51分から狙撃銃でロープと岩石の接地部分を銃撃することで13時30分までに切断に成功し、蝸牛山岳会の会員により遺体を衝立スラブにフィックスの上、25日に土合の慰霊塔前に収容した。最終的に消費した弾丸は1,300発に上る。この場面は自衛隊関係者、山岳会関係者のほか、100名を超える報道関係者が見守った。

収容には47名の自衛隊員、40名の警察官(警備隊員7名、機動隊員16名、沼田署員17名)、約30名の地元山岳会員が動員されている。

遺体が滑落する様子はフィルムに記録されており、当時のニュース映画では「あまりに痛ましい遺体収容作業」だったことが語られている。この映像は日本産モンド映画『日本の夜 女・女・女物語』[1]の劇中に使われ、予告編でも見ることができる。

群馬県警谷川岳警備隊で当時対応にあたった警察官の手記が昭和38年に二見書房から発売された「この山にねがいをこめて ~谷川岳警備隊員の手記」に「赤いザイル」として納められており、警察側の動きを今でも知る事ができる。

 

 これも前記穂高岳で溶接ピッケルが折れたために登山者が滑落死した事故と同じ1960年の出来事だった。森村誠一は、この事故を復讐を動機とした殺人に置き換えて短編小説を書いた。清張の「遭難」では、意外にも復讐者は犯人に返り討ちに遭ってしまったが、森村誠一は返り討ちにされた槇田二郎の無念を晴らそうとしたかのようだ。

 

 ところで、新田作品にも森村作品にも、エントリのタイトルにした鹿島槍ヶ岳は出てこない。これではエントリの収まりが悪いのだが、偶然にも『闇冥』と同じ日に購入した同じヤマケイ文庫に収録された伊藤正一『定本 黒部の山賊 - アルプスの怪』に鹿島槍で起きたかもしれない不気味な殺人事件の話が載っていた。

 

ヤマケイ文庫 定本 黒部の山賊

ヤマケイ文庫 定本 黒部の山賊

 

 

 著者の伊藤正一氏は、2016年に93歳で亡くなった三俣山荘の経営者で、森村誠一との親交も深かった。森村のサイトには伊藤氏へのお悔やみの文章が掲載されている*2

 

 その伊藤氏の『黒部の山賊』を最初に実業之日本社から刊行されたのは1964年。絶版となった後は長らく、三俣山荘グループの山小屋だけで入手できる稀覯書だったとのことだが、半世紀後の2014年に『定本 黒部の山賊』として山と渓谷社から出版され、評判をとった。さらにその5年後の今年、『闇冥』とほぼ同じ時期に文庫化された。その本に、昭和28年(1953年)の話として、著者が松本市観光課で知り合ったF航空駐在員の「F君」に、「鹿島槍のあたりで殺人事件のようなことがなかったか」と聞かれた話が出てくる。以下前掲書から引用する。

 

 影のある山男の仲間 Y君の同僚としてMという男が新任してきて、同居するようになった。Mは最近まであるプロの山岳団体の一員だったというが、とつぜんそこをやめてF航空に就職した。

 ところがMの挙動は変だった。派手に遊んだり、二、三日帰ってこないことがしばしばだった。そしてついに二週間も帰ってこず、行方も知れなかった。仕事の都合上Y君は困惑し、また不思議にも思ったので、悪いとは思ったが彼の机の引き出しをのぞいてみると、Mの細君から来たらしい手紙の一文が目にとまった。それには「悪いことはしないよう、心を改めてくれ」という意味のことが切々と訴えてあり、「昨年の鹿島槍のような、恐ろしいことはもう決してしてくれるな」とあったという。

 

 鹿島槍の殺人事件 そのほかにもY君は、私にも話せないなにかをつかんでいたらしく、「これはぜったいにMがだれかを鹿島槍へ案内して行って、その相手を物盗りかなにかの目的で殺したのにちがいない」と言って、彼自身も気持ち悪がっていた。

 その後、まもなく私は三俣へ入ってしまったが、地元の知人に「鹿島槍の遭難についてなにか知っているか」とたずねると、「あれはポンコツ(殺人)だそうじゃないか」と言ったので、私はますます疑惑を深め、山を下ったらY君にさらにくわしく聞いて調べようと思っていた。

 ところがそのあいだに、F航空は経営難のためにつぶれ(長いあいだ給料をもらわなかったせいもあったのだろう)、Y君は甲府で無銭飲食して留置されたという噂を聞いた。

 Y君は元来、真面目な男だったので、なんとか心配してやりたい気持ちもあったが、その後、彼の行方はわからなくなってしまった。

 そこで私は鹿島槍方面の遭難記録をくわしく調べてみたが、記録上ではあやしげなものは見当たらなかった。結局この問題は、Y君とMの行方とともに私の前から消えていったのだった。

 

(伊藤正一『定本 黒部の山賊 - アルプスの怪』ヤマケイ文庫 2019, 201-202頁)

 

 そんなわけで、果たして半世紀以上前の鹿島槍ヶ岳で殺人事件があったかどうかも不明なのだが、もし本当に殺人事件があったのなら、露見せずにまんまと成功した「完全犯罪」だったのかもしれない。(この項続く

鹿島槍ヶ岳に死す - 山岳の惨劇(第2回)加藤薫「遭難」〜 山で仲間を失った山岳部員の痛恨

 前回(鹿島槍ヶ岳に死す - 山岳の惨劇(第1回)松本清張「遭難」と加藤薫・序説 - KJ's Books and Music)の続き。

 

 

 馳星周選『闇冥 - 山岳ミステリ・アンソロジー』(ヤマケイ文庫,2019)の目玉は、何と言っても忘れられた山岳小説家・加藤薫の「遭難」だろう。以下ヤマケイのサイトより、山岳エンタメ専門サイト「ヴァーチャル・クライマー」を主宰するGAMO氏の紹介文を引用する。

 

www.yamakei.co.jp

 

加藤薫という作家の名前を聞いたことのある人は、あまり多くはいないだろう。加藤は1969年に「アルプスに死す」でオール讀物推理小説新人賞を受賞して文壇デビュー。その後、大学山岳部を舞台にした短編ミステリーを立て続けに発表し、「雪煙」や「ひとつの山」といった単行本を出版したものの、1974年を境に、突然名前を見かけなくなった。なぜ、わずか5、6年で筆を折ったのか、理由は分からない。その加藤が、新人賞受賞後最初に執筆した作品が、本作「遭難」である。

舞台は海抜3000mの北アルプスK峰、とある年の12月下旬のこと。江田たち大学山岳部員6人は、北尾根隊と東尾根隊に分かれて、2ルートからK峰登頂を目指した。しかし、折悪しく急襲した低気圧による吹雪に見舞われ、風邪でアタックを諦めた北尾根隊の江田と、経験不足でテントキーパーとして残った東尾根隊のタゴサクこと小浜道子以外の4人が、帰らぬ人となった。風邪薬を飲んだ江田が寝過ごしたために朝の気象通報を聞きそびれ、低気圧の到来に気付くのが遅れたことが、遭難の一因だった。それ以来、江田は自らの失態を悔み、タゴサクの心ない言葉に苦しみ続けた・・・・・・。

大学時代山岳部に所属していた加藤の作品には、往年の山好きにはたまらないであろう登山や山岳部にまつわる数々のエピソードが登場する。本作も、そうしたおもしろさに加えて、確かな知識に裏打ちされた登山描写、仲間を遭難死させてしまった男の繊細な心理描写など読み応え十分。直木賞の候補に挙がったのもうなずける。当時、まだ登山ブームが続いていたことを考えると、加藤作品の人気も高かったことだろう。

しかしながら本作は、加藤自身の過去を抜きに語ることはできない。「遭難」発表から遡ること約14年。まだ大学生だった加藤は、1955年の暮れから翌年正月にかけて、大学山岳部員8人とともに、鹿島槍ヶ岳に出かけている。東尾根ルートを登った加藤ら3人は無事登頂し下山したものの、天狗尾根伝いに山頂を目指した5人は、テントキーパー以外4人が行方不明となった。この事件の詳細、真相は分からない。しかし、この事実から言えることは、「遭難」の主人公江田は加藤(本名:江間俊一)自身であり、「遭難」という作品は加藤が最も書きたかった作品、いや書かずにはいられなかった作品だということだ。

作品の中で加藤は、生き残った江田の心情をこう書いている。「ひとり生き残って幸運を受けては済まぬという気持ちがさきにたった」と。取りも直さず、この思いは加藤自身がそれまで生きてきて感じ続けてきた悔恨の思いに他ならない。そして、筆者の勝手な憶測だが、江田に心ない言葉を投げつけるタゴサクという登場人物もまた、加藤の分身ではなかろうか。「殺したのはあなただ」「なぜ助けに行かなかった」。その自責の念が、ずっと加藤を苦しめ続けていた。

ところが、江田を責め、苦しめ続けたはずのタゴサクが、15年経ってそのことを忘れている。すっかり肥えて、二児の母になっていた。事件を悔み続けている加藤と、幸運になろうとする加藤。その葛藤もまた加藤を苦しめていた。本作を読む限り、15年という歳月を経て、文学作品として己の苦しみをさらけ出しても、加藤の悔恨の思いは昇華されていない。

加藤は、雑誌『山と溪谷』で半年間連載した代表作「ひとつの山」の出版を最後に、作品を発表していない。幸運になろうとする自分を戒めるために筆を折ったというのは、筆者の考え過ぎであろうか。苦悩の中で生き続ける男の混沌とした思いを、本作から感じ取って欲しい。

(文=GAMO/ヴァーチャル・クライマー)

 

 

 『闇冥』に収録された小説を書いた4人の小説家のうち、実生活でもっとも「生命を賭けた」山登りをしたのは加藤薫だ。

 4人のうちいちばん山とのかかわりが薄かったのはいうまでもなく松本清張で、次いで、山にはのめり込んだものの「登山はほとんどが夏山で、天気予報に忠実に従う」*1と語った森村誠一、中央気象台(のちの気象庁)に勤務して厳冬の富士山頂での越冬も経験した新田次郎が続くとみられる*2。加藤薫(本名・江間俊一)は学習院大学山岳部の学生として4人が死亡した、冬の鹿島槍ヶ岳登山の当事者となった。彼らが挑んだのは一般登山道ではなくバリエーションルートだった。事故の詳細は、以前にも紹介した下記サイトを参照されたい(今回はリンクを張るにとどめる)。

 

naokiaward.cocolog-nifty.com

 

 加藤薫の「遭難」は、小説のタイトルと主人公の姓「江田」が清張作品と共通しているにもかかわらず、アンソロジーに収められた清張の「遭難」を含む他の3作とは大きな違いがある。それは、他の3作には明確な殺意を持った登場人物が描かれているのに対し、加藤作品にはその要素がないことだ。これは、他の3人の小説家と加藤薫とで、山とのかかわり方が異なっていたためではなかろうか。

 松本清張は、エッセイ「灰色の皺」(『オール讀物』1971年5月号掲載)で加藤薫に言及して、

氏も「登山家の悪人」を書いているから、わたしも意を強くしている。

と書いているが*3、にもかかわらず、清張の「遭難」の江田と、加藤薫の「遭難」の江田とは全く違う。アンソロジーに収められた他の2作、すなわち新田次郎作品と森村誠一作品は明らかに清張作品と同じ向きのベクトルを持っているから、それだけに加藤作品の痛切さが際立つ。加藤作品での「登山家の心の闇」は、大家たちが書いた他の3作品に描かれた「明確な殺意」とは全く異なるが、それにもかかわらず同じ「心の闇」という言葉で括ることができる。それが人の心というものなのだろう。

 この作品をアンソロジーで4作中の3番目に持ってきたのは馳星周とヤマケイ文庫編集部の大ヒットだった。

 なお、加藤薫の「遭難」と、1955〜56年の年末年始に起きた学習院大学山岳部の遭難事件とは全く違い、加藤作品が「実際の事件にヒントを得てはいるけれども完全なフィクション」であることははっきりしている。そのことは、加藤作品と前記リンク先のブログ『直木賞のすべて 余聞と余分』の記事を読み比べていただければよくおわかりいただけよう。

 なお、『闇冥』の巻末に、

●加藤薫氏の著作権継承者のご消息をご存じの方は、編集部までご連絡いただきたくお願いいたします。

と書かれている。同書297頁には、作者の生年(1933年)は書かれているが没年は書かれていない。加藤薫氏はどうやら物故されているようだが、没年を含み、氏が筆を折った後の消息は不明ということなのだろうか。

(この項続く

*1:http://mainichi.jp/sp/shikou/26/02.html。2013年に行われたインタビューと思われる。

*2:ちなみに私は松本清張森村誠一の中間だが、どちらかといえば清張寄り(笑)の人間だ。春から秋にかけて年2,3回山に行くに過ぎない。

*3:松本清張『実感的人生論』(中公文庫,2004)143-144頁