KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

林芙美子『戦線』と藤原彰『餓死した英霊たち』を読む

 先々週、某区図書館で興味深い本を見つけたので借りて読んだ。林芙美子の『戦線』だ。林が1938年に朝日新聞日中戦争・漢口攻略戦の従軍記者として派遣された時に書いた「戦線」に、1940年初めの厳冬期に満州を訪れて書き、実業之日本社が出していた月刊誌『新女苑』に連載されたらしい「凍れる大地」が併録されている。後者にも朝日新聞記者が協力したようだ。林は『戦線』を戦後に「黒歴史」にして敗戦6年後まで生きていたが、そのように林の全集にも収録されていない本を中公文庫が2006年に復刊し、2014年8月に改版を出した。後述のように、この経緯(特に改版時)にもきな臭さを感じさせるが、興味津々の本だったので借りた。だがその中身はあまりに不快だったので読み進むのに大きな抵抗があり、読むのにずいぶん時間がかかった。下記は、中公のサイトがなかなか引っかからなかったので『読書メーター』にリンクを張った。

 

bookmeter.com

 

 せっかく『読書メーター』にリンクを張ったから、その中からGen Katoさんの感想文*1を以下に引用する。

 

 
「お国のため」という大義名分で煽られた戦争は人間の心を高揚させ、判断力を失わせる。「兵隊が好き」な一庶民・ひとりの女であった林芙美子だからこそ、の舞い上がりぶりに、怖さと痛々しさを感じる。自らが同じ轍を踏まぬよう心する、そのための書。(ちなみに併録『凍れる大地』は文化人ぽいので、時代の制約があるとはいえあまりに差別的な表現など、作家としてどうなんだろうかと批判的に読める。

 

  「戦線」の文章は本当に酷くて、「私は兵隊が好きだ。」と何度も連呼した上、中国兵の死体を見て下記のように書き綴る文章を読まされると心底うんざりする。
 
まるでぼろのような感じの死骸でした。こんな死体をみて、不思議に何の感傷もないと言うことはどうした事なのでしょう。これは今度戦線に出て、私にとっては大きな宿題の一つです。違った民族というものは、こんなにも冷たい気持ちになれるものでしょうか。
 
林芙美子『戦線』中公文庫改版 2014, 31頁)
 
 中公文庫の編集部は、こんな文章が書かれた本のカバーに「女性らしい温かな視点で、陸軍第六師団の兵士たちの姿を綴った本書」などと書くのだから、開いた口が塞がらない。さすがは読売系の出版社だなあと思ってしまった。
 
 21世紀の読売系出版社の編集部と比較すれば、林芙美子の方がまだ「恥」だけは知っていたようで、戦後この本を「黒歴史」にしてしまった。もちろんその所業自体が恥知らずであって、読売系出版社の文庫本編集部が恥の上塗りをしただけの話ではある。
 
 一方、「凍れる大地」は相当にトーンが違っていて、のちに林の出世作『放浪記』が発禁になったせいもあったのだろうが戦争に協力するのを止めてしまった萌芽が見られる。具体的には、酷寒の満州に移民する人たちへの物資の供給が不十分であることを訴える記述が目立った。
 
 ところで、旧中央公論社が経営難に陥り、読売新聞グループの傘下に入って中央公論新社として再出発したのは1999年だから、早いものでそれからもう20年になるが、以後中公文庫や中公新書が保守化するとともに、読売新聞社の経営戦略を反映されるのが目立つようになった。
 
 林芙美子の『戦線』が中公文庫から復刊された2006年には、読売新聞は戦争を総括するキャンペーンをやっていた。林芙美子朝日新聞に派遣されて書いた『戦線』は、そのキャンペーンの趣旨に沿うとともに、朝日新聞社にダメージを与える狙いもあったのではないかと思われる。
 
 また、『戦線』が改版されたのは2014年8月だが、その直前には朝日新聞が自社のいわゆる「従軍慰安婦」の記事の訂正と謝罪を行い、右翼につけ込まれていた。それに便乗して、おそらく絶版になっていたであろう中公文庫版の『戦線』を、より朝日新聞社林芙美子の戦争責任を問うトーンを強めた佐藤卓己氏の解説を増補して改版を出したのではないかとの疑念が拭えない。もちろん佐藤氏の批判はまっとうなものではあり、林が戦争翼賛のトーンをやや弱めた「凍れる大地」についても、建前上は独立国だったはずの満洲国を林が繰り返し「植民地」と書いていることをとらえて、「戦前の日本人一般が満洲国を「植民地」と見なしていた事実を確認する上で、この紀行文は意義深いと言えよう」(本書269頁)と皮肉を込めて論評している。しかし、せっかくの佐藤氏の批判も、改版の出版時期や前述の文庫本のカバーに書かれた林芙美子を褒めるような文章によって、安倍政権に協力的な読売新聞の影が感じずにはいられない。正直言って、「なんだかなあ」と思ってしまった。
 
 とはいえ佐藤氏の解説文は時代背景や朝日・林双方の意図をよく分析していて読ませる。添付されたグラフは、1931年の満州事変以来、朝日・毎日・読売(笑)の三紙がいかに部数を急伸させたかを雄弁に物語る。戦争を煽ったのは御用新聞だった歴史を持つ毎日(東京日日・大阪毎日)の方が朝日よりも早かったが、毎日に追随した朝日は1941年に毎日を抜いて部数日本一になった。エピゴーネン(追随者)の方が過激になるという法則が当てはまったものか。林は最初には毎日から派遣されていたが、1938年に毎日が林から当時毎日の連載小説で人気を博していたという吉屋信子に乗り換えたため、朝日が林を引き抜いた。結果的には、より筆力のあった朝日の林が毎日の吉屋に勝ち、朝日が念願の部数日本一の座に初めて立ったのだった(その後70年代まで朝日が部数日本一だったが、1977年に読売が朝日を逆転して現在に至っている)。
 
 なお、本書を読み終えた直後に、藤原彰(1922-2003)の『餓死(うえじに)した英霊たち』(ちくま学芸文庫 2018, 単行本初出は青木書店 2001)を読んだ。
 
 
 林芙美子が「好きだ」と連呼した日本軍の兵隊たちの死因は、戦史よりも大本営兵站を軽視したことに起因する餓死の方が圧倒的に多かったことは、これまで読んだ多くの本が共通して指摘していたし、服部卓四郎や辻政信といった陸軍の中堅どころによる「下剋上」を許した陸軍の無責任体制が多くの日本軍兵士を犬死にさせたことも知っていたが、著者の藤原彰はその原因を「陸軍幼年学校」に求めている。現在でも小学校を卒業して名門中学を受験する小学校の児童たちがいるが、戦前の陸軍でそれに相当したのが「陸軍幼年学校」であって、服部卓四郎も辻政信も、そして彼らの大先輩である東条英機も陸軍幼年学校を経て陸軍士官学校陸軍大学校へと進んだ。彼らはほんの子どもの頃から命を天皇に捧げる狂った思想を叩き込まれてそれを実践したのだった。南京大虐殺も、食糧は現地で徴発せよと銘じられた兵士たちが略奪を行った延長線上にあると考えれば悪行が引き起こされたメカニズムが説明できるとは前から思っていたが、その根源は子ども時代の教育に起因すると考えるのが、確かに筋が通っている。
 
 自軍の人命を軽視する命令を受けた日本軍兵士が、戦地での非武装民の人命を軽視したのは必然だった。それに、戦前の日本は工業技術に立ち後れていたので、移動には車ではなく馬を使った。そして、日本から戦地である外国に送られた馬は一頭たりとも日本に戻らなかったと『餓死した英霊たち』には書かれている。
 
 このくだりを読んで思い出したのは、漢口攻略戦に臨んだ日本軍の兵士たちがいかに馬を大事にし、可愛がっているかを力説した林芙美子の『戦線』の文章だった。以下、『戦線』より引用する。
 
 天龍号と言う、人なつっこい馬もいましたが、私はいまだに、私の手から藁を食べてくれた、その愛らしい淋しげな天龍号の眼を忘れることが出来ません。
 
(中略)
 
 兵隊は実に馬を可愛がっていました。
 
 林芙美子『戦線』中公文庫改版 2014, 19頁)
 
 一方、藤原彰はこう書いた。
 
 日中戦争いらいの損害、とくに戦争末期の大陸打通作戦や南方諸地域での犠牲と、敗戦のさい外地に置きざりにされた数を加えると、戦争による馬の犠牲は、一〇〇万頭に近い数に達するはずである。少なくとも生きて還った馬は一頭もいない。たんに馬が犠牲になったというだけではなく、馬の根こそぎ徴発が、農業の生産力を低下させ、さらに戦後日本の農村風景を一変させたという影響を及ぼしていることもあげなければならない。
 
藤原彰『餓死した英霊たち』ちくま学芸文庫 2018, 182頁)

 

 林芙美子朝日新聞は、なんと空しく、かつ罪作りな仕事をしたことか。