KJ's Books and Music

古寺多見(kojitaken)の本と音楽のブログ

堀田善衛『時空の端ッコ』を読む

 堀田善衛(1918-1998)が筑摩書房のPR誌『ちくま』に1986年から没年の1998年までエッセイを計150篇寄稿していた。それらは、1997年12月号掲載の分まで、同書房から4冊の単行本『誰も不思議に思わない』(1989)、『時空の端ッコ』(1992)、『未来からの挨拶』(1995)、『空の空なればこそ』(1998)として刊行され、さらに堀田の死去を受けて150篇全篇が『天空大風 全同時代評 一九八六年-一九九八年』(1998)のタイトルで出版された。

 それらのうち、地元の図書館に『誰も不思議に思わない』と『時空の端ッコ』が置いてあったので借りて読んだ。そのうち後者の『時空の端ッコ』を取り上げる。

 

www.chikumashobo.co.jp

 

 この本に収められた36篇のエッセイは、『ちくま』1989年1月号から1991年12月号にかけて掲載された。元号でいう「平成」の最初の3年間にあたるが、「平成」から現年号*1への切り替わりが安倍晋三の独裁を誇示する以外の何の意味も持たないこととは対照的に、全くの偶然ではあるが、改元と時代の変わり目が重なった。だからこれらのエッセイが書かれた1988年末から1991年末にかけての世界は本当の「激動の時代」だった。

 以下、エッセイからピックアップする。

 「歴史の時間軸」(1989年4月号)では「作家 Sakman Rushdieの小説 The Satanic Versus' すなわち『悪魔の詩篇』の巻き起こしている、一大騒動」*2、特に「イランのホメーニ師が『悪魔の詩篇と題された本の著者を、ここに死刑に処す』と宣告した」*3ことを取り上げる。堀田は、イスラム教徒のさる作家が「『われわれはこれ(この事件)を言論の自由問題とは見ない、侮辱なのだ』と言い切っている」*4ことを、下記のように論評した。

 

 歴史の時間軸の断面では、言論の自由という線は、おそらく聖性冒瀆といわれる線よりも、余程細いものなのであろう。せめてわれわれは、言論の自由という線の太さを、聖性冒瀆と怒る人々の線と、同じほどに太く保ちたいものである。

 

堀田善衛『時空の端ッコ』筑摩書房 1992, 24頁)

 

 続く「殺人産業大繁盛」(1989年5月号)には、当時新潮文庫から『トランプ殺人事件』という本が出ていたらしいこと*5に笑ってしまった。もちろん現在の米大統領とは関係ない。ネットで調べてみたら、竹本健治(1954-)という推理作家が1981年に書いた本らしく、この人は『涙香迷宮』(2016)で2017年の本格ミステリ大賞を受賞したとのことだ。

 「軍隊廃止国民投票」(1989年7月号)はスイスで行われたが賛成36%で否決された。しかしのちの1991年に同国で行われた良心的兵役拒否を認めるかどうかの国民投票は賛成56%で可決された*6のだから、何事にも挑戦が必要だ。

 「ヨーロッパ、ヨーロッパ!」(1990年1月号)はベルリンの壁崩壊を取り上げる。翌月の「ロマーニア、ロマーニア!」(1990年2月号)では、一部では安倍晋三夫妻の先駆者ともいわれるチャウシェスク夫妻の処刑を取り上げる。一般には英語読みの「ルーマニア」で呼ばれる国名の「ロマーニア」についての堀田のコメントが興味深いので以下に引用する。

 

 これは要するに “ローマ人の土地” という意であり、つまりはローマ帝国の殖民地を意味しよう。

 自分たちの国の名として、ローマの殖民地、という意のものを持つということに、奇異の念を持つ向きもあるかもしれないけれども、これはこれでローマ人、つまりはスラヴの地にあってラテン系であることを誇りにしているもの、と解すればよいものであったろう。

 

堀田善衛『時空の端ッコ』筑摩書房 1992, 80-81頁)

 

 「出エジプト記」(1990年3月号)は身につまされる。以下引用する。

 

 ジフコフ体制を倒して、ブルガリアの国民が集会、言論の自由などを恢復した、その矢先、デモンストレーションでの叫び声が、〈ブルガリア人のブルガリアを!〉というものであるのを知ったとき、私は背に冷たいものを感じた。人口の一五パーセントを占めるトルコ系の人々を追い出せ、という要求である。前の共産党政権は、日本帝国政府が朝鮮半島の人々に、日本名を強制したのとまったく同じに、トルコ系の人々にブルガリア名を強制し、革命後の臨時政権が、この強制法令を撤回したばかりのときであった。デモがトルコ系の人々の追放を国民投票に問え、と要求したときに、新しい、共産党をも含む臨時政権が、基本的人権の問題は、国民投票になじまぬ、と拒否をしたとき、私はやっと胸をなで下ろした。

 

堀田善衛『時空の端ッコ』筑摩書房 1992, 87-88頁)

 

 これは戦後直後には中国、のちにはスペインなどに長期の居住経験を持つ堀田善衛らしい感想だが、まことに民族主義とは度し難いものだ。余談だが、私が山本太郎にどうしても肩入れする気が起きないのは、山本氏と親しい三宅洋平が極度の民族主義者であることなどから窺われる、氏の民族主義への傾斜が一因になっている。

 「ジブラルタルは誰のものか」(1990年6月号)は、地理的にはどう考えてもイギリス領である根拠を見出し難いジブラルタルを取り上げている。このエッセイが書かれた1990年はもちろん、それから29年が経った今も、スペインはジブラルタルの「返還」をイギリスに求め続けているらしいのだが、この関係があるために、堀田によれば「英国の王室とスペインの王室は、たしか親戚関係にあったと思うが、この両王室の正式な公式相互訪問は、いまだに一度もない」*7とのことだ。私的な関係はあるけれども公式訪問はないという。これは1990年以降はどうなのか、ネット検索でもはっきりしたことはわからなかったが、2012年のエリザベス英女王の即位60周年を記念して行われた英王室主催の午餐会に招待を受けて出席するはずだったスペインのソフィア王妃がドタキャンで欠席したことを取り上げた記事がみつかったのでリンクを張っておく。

 

www.japanjournals.com

 

 堀田はもちろん「いわゆる北方領土には、すでに八千人を越えるソヴェト市民が住」んでいることに言及している*8ジブラルタルでは「何度住民投票をやってみても、スペインへの帰属を望まない人が三分の二を越える」*9というが当然だろうし、択捉や国後で同じ投票をやったら、日本への帰属を望まない人の比率はもっと高く、限りなく100%に近いことはほぼ間違いない。ただジブラルタル北方四島とで違うのは、イギリスはもはやジブラルタルに軍事基地など作らないことだ。このあたりが好戦的なロシアの独裁者・プーチンとは決定的に違う。

 「ドイツ統一」(1990年8月号)では、1930年代半ばに慶応大学の学生だった堀田が、ラジオで「ゲッペルス原文ママ)の脅迫的な演説」を聴いた直後に「リュシエンヌ・ボワイエの、甘くかつ悲愁の感を秘めたシャンソン」を耳にして、「もうドイツ語の勉強などはすまい」と決心して、「翌朝目が覚めるとすぐに、神田へ出掛けて行き、アテネ・フランセでのフランス語の学習を申し込みに行った」*10と回想している。

 「国家消滅」(1990年11月号)は、東ドイツドイツ民主共和国)という国家の消滅を、1945年の敗戦を前にして日本消滅を想定した武田泰淳が詠んだ「かつて東方に国ありき」で始まる長詩の思い出を重ねる。

 「歴史への逃避」(1991年5月号)では湾岸戦争が言及される。

 「モーツァルト頌」(1991年9月号)では、ドイツを嫌ってフランス語の勉強を始めた堀田が、ずっとモーツァルトに馴染めずベートーヴェンびいきだったことを告白しているのが面白い。私は逆で、二度の世界大戦におけるドイツの悪逆非道を知りながらも若い頃にはドイツへの忌避感を持たずにむしろドイツびいきだったくらいだったのに(最近になってドイツに対して「鬱陶しいなあ」という感覚を年々強めている)、モーツァルトには早くから馴染んでベートーヴェン、特にその中期作品を長年苦手にしてきた*11

 「回想(1)」(1991年11月)と「回想(2)」(1991年12月)ではソ連の終焉が言及される。この本に収録された前の3年分のエッセイを収めた『誰も不思議に思わない』にもソ連の話が再三出てくるが、共産党独裁国家だったソ連における作家などの芸術家ほど「面従腹背」を強いられた人々はなかった。そのもっとも特異な存在が、日本共産党志位和夫が愛好していることでも知られるマキシム・ショスタコーヴィチの音楽だと私は思っているが、堀田が書くソ連の作家たちの面従腹背ぶりにもまことに涙ぐましいものがある。一方、前巻にはソ連当局に抵抗する人たちを、こともあろうに敵国であるはずのアメリカがソ連当局に売り飛ばしてしまったことを、堀田がロバート・ケネディから聞かされたというとんでもない一件がでてくる。このように、権力とは何をやらかすかわからない。人は、いかなる権力者であっても絶対に全面的に信頼してはならないと改めて思い知らされた。

 以上ざっと眺めてみて、一点だけ残念に思ったのは、1989年6月4日に中国で起きた天安門事件に言及したエッセイがなかったことだ。もっともいろんなことが起こりすぎて書く機を逸してしまったということだろうし、「誰それが何を書かなかった」という言い方がいかにアンフェアであるか、これは10年前に「麻生邸ツアーについて何も書かなかったkojitakenは『自公の回し者』だ」という非難を「小沢信者」どもから受けたことがある私自身が身にしみて知っていることだ*12

 ところで、『時空の端ッコ』でもっとも印象に残ったのは、上記にずらりと挙げた時事的なエッセイではなく、「太陽と十字架」(1990年7月号)と題された一篇だった*13。これは、堀田が1980年から87年までスペインのカタルーニア地方に住んでいる頃に、スペインとフランスの国境地帯にあるピレネー山脈で見かけた墓石の話。13世紀の墓石には、円型に囲まれた十字が刻み込まれていて、「この十字模様の皿の如きものは、平べったく地面にはいつくばっているのであった」という。それが、16世紀の墓石になると、「大分十字がはっきりして来ていて、これは立っていて、十字の下部は土に突き刺してある」。さらに17世紀の墓石になると、円型が小さくなって十字がその外に突き出している。

 堀田は、アンリ・ルフェーブルという社会学者にして哲学者の著書『太陽と十字架』(邦訳は松原雅典氏訳・未来社刊=1979)を読んで、下記の解釈を得た。以下引用する。なお下記引用文に「(略)」が多数出てくるが、これは本には堀田善衛自身が描いた墓石の絵が載っていて、それに言及した箇所を省略したものだ。絵を引用しないのでわかりにくいかもしれないがご容赦願いたい。

 

 この不思議な墓標の、円型部分は古代の太陽信仰、宇宙の象徴としての太陽を表象したものであるとのことであった。

 つまり、古代の南仏の人々の太陽信仰のなかへ、キリスト教が十字架をかかげて侵入――ことばはわるいが――して来て、次第に太陽=宇宙を駆逐し、遂に十字架にかける過程を(略)、まことに如実な形で示していたのであった。

(中略)

 十三世紀の半ばに、宇宙開闢論をも内包していた異端キリスト教が、十字軍によって焚殺され、(略)十六世紀になると太陽は(略)十字架によって突き刺され、十七世紀(略)には、もはや後背の如きものに後退し、見方によっては、太陽は十字架にかけられている。やがて太陽も消えてしまう。

 (中略)

 自身も南仏人であるルフェーブルの結語は、激烈なものであった。

「もしいつの日か太陽の十字架が、その真正にして、完き意味をとり戻すなら、この象徴の描かれている旗は、まっさきに、ここ、太陽に捧げられ、十字架に粉砕されたこの岩(モンセギュール山)の上に翻らねばならぬであろう。」と。

 

 もう二千年もたつと、ひょっとすると十字架は消えて、太陽が復活して来、やがてまた太陽だけになるかもしれない……。

 

 堀田善衛『時空の端ッコ』筑摩書房 1992, 112-114頁)

 

 アンリ・ルフェーブルの結語も激烈だったかもしれないが、それに共感する堀田善衛もまた激烈だ。堀田にはこういう激しさもある。

 この論考が当を得ているかどうか私にはわからないが、本書の中でもとびきり印象に残る一篇だった。

*1:この年号は私のブログでNGワードにすると決めたのでここでも表記しない。

*2:『時空の端ッコ』単行本21-22頁。

*3:同22頁。

*4:同24頁。

*5:同26頁。

*6:同41頁。

*7:同107頁。

*8:同108頁。

*9:同108頁。

*10:以上、同115-116頁。

*11:私が苦手とするベートーヴェンの中期作品の代表格が、日本では「運命」と呼ばれる第5交響曲ハ短調だ。そればかりか、この曲に強く影響されたブラームスの第1交響曲ハ短調も、概してブラームスとは相性の良い私としては例外的に、大の苦手とする音楽であって、その相性の悪さはベートーヴェンの第5交響曲を上回り、今もあらゆる大作曲家の名曲とされる交響曲のうちもっとも苦手な音楽であり続けている。

*12:逆に、こんな経緯があったからこそ私は「小沢信者」どもを絶対に許さないのだ。

*13:同109-114頁。